日本社会の女性的性格

第4.1版

大塚いわお


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目次
要旨
本編
0.はじめに
本書の目的
1.日本社会の女性的性格
日本社会の女性的性格40ヶ条-女々しい日本ムラ社会-
日本の教育システムの女性性
日本の学校教育と女性的、母性的行動様式
性別分業と男性社会、女性社会
日本における男性差別の根源
日本社会と女社会
日本のデフォルト・ジェンダー、スタンダード・ジェンダー
日本女性の権力、支配力の源泉と、「女の空気」
ブラックホール=女社会の解明が必要
日本社会の解明と、女社会スパイの必要性
日本社会と女社会の特徴例
女社会、男社会と女流、男流
日本の男社会は実質女社会
女脳の日本人
日本人の欧米指向は女性的
方向感と性差、社会差
高関心社会と低関心社会
比較好き、相対評価好き
信号文化(暗示的主張文化)、受け取り文化、他力本願文化
日本人の依存体質、単独行動不可能性と迷惑意識の強さ、「一億総出家」状況について
日本人の責任回避、転嫁と女性
アジア的停滞の原因、アジア的生産様式の担い手、東洋的専制主義の原因は、女性、母性にあり
日本人の守られ願望
ミクロ文化とマクロ文化
原子型社会と分子型社会、原子行動と分子行動、性差との関連
日本の社会集団に働く表面張力と、女性、卵子との類似
欧米における女性の「過剰保護」とフェミニズムについて (「甘え」概念との関連)
先輩後輩制、親分子分制を打倒せよ!
日本社会と女性のパラレルな関係
雌国、牝国日本
日本人の「武装女子」指向
女(母)が強い国=強国という図式
日本アニメ女性声優の声の高さについて・・・女性性の原型保持と日本
日本人と国内、海外
表と奥
日本史における女性の地位低下の通説について
一枚岩ではない欧米
男女闘争史観
2.日本女性の強さと諸問題
「家庭内管理職」論
日本女性と家計管理権限
日本女性と国際標準
日本社会における母性の充満
女性と社会主義、共産主義
日本主婦論争に欠けている視点
日本のフェミニズムの隠れた策略
専業主婦を求めて
日本のフェミニズムを批判する
日本のフェミニズムの主張には無理がある
日本における女性の「社会進出」について
日本女性の経済的自立について
日本女性の「社会」的地位
「女らしさ」はいけないか? -日本における女らしさの否定についての考察-
「専業主婦」=「役人」論
少子高齢化対策と日本女性、専業主婦
家計管理の月番化について
男女の望ましいパワーバランスは50対50
女性が暴走するとストップが効かない日本社会
「女性的=日本的」の相関主張に対する反応
夫婦別姓と女性
姓替わりと夫婦別姓
女社会、男社会と女流、男流
根本的に先進性が欠如する日本ムラ社会、女社会
日本の主婦利権を追及しよう
女社会の実態が分かりにくい理由
「弱い」女性の立ち位置
女性と甘え
日本女性の専業主婦指向はリーズナブル
お局と姉御?
女性的生き方の押しつけ
世間、空気と女性
日本を支配する4つの女性類型
日本女性が専業主婦になりたがる本当の理由
日本女性と仕事と家庭の両立
日本男性による女性蔑視の根源
孤立無援になりがちな日本女性
日本の主婦利権を追及しよう
主婦、姑の院政
院政と女性による社会支配の類似点
日本における女性上位
日本が女性的な社会のままで、中国・韓国上位の東アジア秩序に呑まれない方法
国策としての日本フェミニズム、ジェンダー論
女性が管理職になりにくい理由
日本における男性と女性の関係は、政治家と役人、天皇の関係に似ている
3.まとめ
本書の要約、まとめ
資料文書編
ドライ・ウェットな性格、態度のまとめ
ドライ・ウェット(湿度)知覚の法則
自然環境のドライ・ウェットさと、社会のドライ・ウェットさとの関連
男性・女性、どちらの性格がよりウェット(ドライ)か?
日本人は、ドライかウェットか?
ドライ・ウェットな対人行動と気体・液体分子運動との関連について
男性的,女性的なパーソナリティの認知と気体,液体分子運動パターンとの関係
父性的, 母性的なパーソナリティの認知と気体,液体分子運動パターンとの関係
アメリカ的,日本的なパーソナリティの認知と気体,液体分子運動パターンとの関係
女社会、男社会
著者の略歴
著者の他著書ガイド
付録図表

要旨

本書では、日本社会において男女の性差がどのような影響をもたらしているか、従来の日本の女性学や日本のフェミニズムに再考を促す形で考察しています。

例えば、従来の日本女性学・日本フェミニズムの通説では、「日本社会は、男性中心、家父長制社会である」「女性は男性に比べ、世界どこでも普遍的に、弱い劣位の解放されるべき存在である」とされてきました。

本書では、こうした通説に疑問を抱いた筆者が、日本社会を調査したり、分析したりした結果をもとに、「ウェットな、液体的な日本社会は女性の方が強い、母性中心で動いている母権社会である」「日本男性こそが、女性、母性による支配から解放されるべき存在だ」などの主張を展開しています。

そうすることで、欧米フェミニズム思想を機械的に直輸入し、何も考えずに強引に日本社会にそのまま当てはめているだけの、現状の日本女性学・男性学、フェミニズムのあり方を批判しています。欧米理論の機械的直輸入ですっかり誤った方向に向かってしまった日本の女性学、フェミニズム、そして男性学が、本来どういう方向に向かうべきなのか、指針としてまとめ、提言しています。

文中、各セクションは、それぞれ独立した読み物、エッセイとなっており、どこからでも読み始めることができます。


本編


0.はじめに


本書の目的

本シリーズの著作の目的は、以下のように説明される。

(1) 欧米で定説になっているBachofen, EngelsらのMatriarchy理論(従来、母権制論と訳されてきた)を打破するのが目的である。母親が権力を握る社会は消滅したとするこの定説をひっくり返し、母権社会は、今でも世界中の稲作農耕民族の間に広く存在し、一大勢力であると主張する。あるいは、Matriarchyの概念が、日本のような母権社会の正しい把握にとって不適切な概念であり、無くすべきと主張する。Matriarchyを母権制と訳すことを止めさせる。


(2)現状の日本フェミニズムを打破する。すなわち、日本のフェミニズムが、本来、西欧のような父性社会向きの社会理論を直輸入して、機械的に、母親が強い日本社会に強引に当てはめる過ちを犯していると主張し、その是正を求める。日本のフェミニズム、女性学、男性学が本来どういう方向に向かうべきなのか、指針としてまとめ、提言する。


(3)日本社会の最終支配者が母であること、女性であることを明示する。日本社会の女性、母性による支配を打破する。妻、母や姑からの男性解放を主張する。日本における母性からの父性の解放を目指し、日本社会における父性を強化して、湿った日本社会のドライ化を目指す。日本社会における男女のパワーバランスを50:50へと平等化、対等化することを主張する。

日本社会の正しい解明と認識を得ることが、本シリーズの著作の目的である。

(初出20121月)





1.日本社会の女性的性格

日本社会の女性的性格40ヶ条-女々しい日本ムラ社会-

日本社会、ムラ社会は、以下に述べるように、女々しさにあふれている。社会が女の色に染まっている。

これは、女性の、日本社会に占める勢力、影響力の大きさの現れである。男性の勢力を上回る女性優位の証拠である。

日本社会、日本的ムラ社会は、女流社会、女社会(女性優位社会)と言うことができる。女性は、皆、ムラ人である、ということも出来る。

日本社会の女性的性格は、以下のようにまとめられる。


○A.「対人関係重視」

(1)「対人関係を重視する。つながりを指向する。」

(2)「コミュニケーション、話し合い、打ち解け合いを重視する。」

(3)「対人関係が累積する。リセット出来ない。転身が難しい。」

(4)「対人関係が長期持続する。対人関係が癒着、粘着しやすい。談合体質である。」

○B.「所属、同調重視」

(5)「一緒、群れを重視する。仲良しグループ形成、護送船団方式を好む。巻き込み、連帯責任が生じやすい。」

(6)「所属を重視する。包含感覚、胎内感覚を重視する。心中を好む。」

(7)「定住、定着、根付きを重視する。継続を重視する。専門家を重視する。固執する。」

(8)「同調性が強い。画一、横並び、流行、トレンドを重視する。嫉妬心が強い。」

(9)「同期意識が強い。年功序列、先輩後輩制を好む。追い抜き、競争を嫌う。天下りを好む。」

○C.「和合、一体化重視」

(10)「物真似、コピー、合わせが好きである。」

(11)「和合、一体感、共感を重視する。」

(12)「小グループ同士がバラバラ、無関係、無連携、無関心、縦割り、不仲である。」

○D.「被保護、高不安」

(13)「守られたい、頼りたい、養ってもらいたい、甘えたい、寄生したい心理が強い。」

(14)「権威主義である。批判、反論を許さない。」

(15)「安全、保身第一である。不安感が強い。臆病である。退嬰的である。リスク、チャレンジを回避する。独創性が欠如する。」

(16) 「前例、しきたり偏重である。前例の小改良、磨き上げが得意である。先輩後輩関係がきつい。」

○E.「停滞」

(17)「後進的、現状維持的」

(17-1)「思考が伝統的、封建的、後進的である。」

(17-2)「無競争、無風、停滞、(既得権益とかの)現状維持が好きである。不変を好む。」

(17-3)「外部からの先進的考えの流入に抵抗するが、いったん突破されると諾々と受容、丸呑みするものの、流入が止むと元に戻る。」

○F.「視線敏感性」

(18)「恥、見栄を重んじる。内部問題を対外的に隠蔽する。真実を隠蔽する。綺麗事、美辞麗句を好む。公式、公開の発言の場で沈黙する。」

(19)「配慮、気配りを重視する。遠慮、引きこもりがち、孤立しがちである。」

(20)「清潔さを好む。みそぎをする、洗い流す、総取り替えするのを好む。」

○G.「責任回避」

(21)「責任を回避する。決定、判断を停止、回避、先送りする。無責任である。匿名行動を好む。」

○H.「情緒」

(22)H.「可愛がり、なつき、情けを重視する。」

○I.「根回し」

(23)「事前合意を重視する。いったん合意した流れ、方針の変更が困難である。慣性で進もうとする。」

○J.「高プライド」

(24)「プライド(良い格好を重んじる度合い)が高い。失敗恐怖症である。」

○K.「閉鎖性」

(25)「閉鎖性、排他性が強い。内外感覚が強い。入試がある。白紙採用を好む。思考が内向きである。閉塞感が強い。対内融通、配慮が効く。自前で済ませようとする。」

○L.「受動性」

(26)「受動性が強い。行動主体が非明確である。主体性が欠如している。他者のリードを求める。静止、不動状態が好きである。相手から急所を突かれると無反応状態になるか、相手を無視する」

○M.「プライバシー欠如」

(27)「相互監視、告口を好む。他人の噂話を広めるのを好む。プライバシーが欠如している。」

○N.「ソフトな対応」

(28)「対応が間接的、ソフト、遠まわしである。」

○O.「場当たり対応」

(29)「対応が近視眼的、場当たり的、個別、局所的である。」

○P.「ヒステリック、感情的」

(30)「対応がヒステリック、情緒的、非科学的である。感情的に反応する。」

○Q.「高精細、高密度」

(31)「スケールが小さい。高精細である。」

(32)「高密度、詰め込み、集中を好む。」

(33)「厳格、正確である。」

○R.「減点主義」

(34)「正解、正論、完璧、無難、無傷指向、減点主義である。」

○S.「自由の欠如」

(35)「一体行動、一斉行動を好む。管理主義、統制主義である。相互牽制を好む。長時間拘束を好む。自由行動を許さない。」

(36)「上意下達を好む。従順である。」

○T.「標準指向」

(37)「総花式、オールインワン、万能、八方美人を好む。」

(38)「突出を回避する。目立たないようにする。標準、普通を指向する。」

○U.「中心指向」

(39)「中心、周辺を区別、差別したがる。中央、中心、都心を皆で指向する。」

○V.「ネガティブ」

(40)「他人の陰口、悪口を好む。他人の欠点探しや粗探し、足を引っ張るのを好む。思考、やり口がネガティブ、マイナス、陰湿、陰険である。」


以下、個別に説明する。

(1)「対人関係を重視する。つながりを指向する。」

対人関係を本質的に重視する。無機的な物質よりも、人間の方に興味が行く。人間関係、縁故、コネ、人脈の構築に注力し、得意とする。人と人とのつながり、絆を重視する。政党とかで、明確な目標論争やビジョンの相違によってグループができるのではなく、「あの時、○○先生に○○でお世話になったから、○○先生の門下に入ろう」といったように、人物、対人関係本位で縁故関係を作り、それが派閥、学閥等となって、社会を動かしている。他人の気持ちに敏感で、人の心の動きを読むこと、心理学やカウンセリングに関心を持つ人が多い。無機的な機械、ロボットをも、ヒューマノイドとして人間化してしまう。小さいときから、男の子のように無機的な機械や物質ではなく、人形や周囲の人間に興味を惹かれて、気に入られるように行動する女の子と、考え方が一緒である。

(vs男性的性格:対人関係は、何か目標を実現するための手段に過ぎず、一時的なものである。つながることよりも、独立して自由に動けることが重要である。)

(2)「コミュニケーション、話し合い、打ち解け合いを重視する。」

対人関係構築、維持のために、会社とかで、コミュニケーション、通信をやたらと重視する。周囲の親しい他者と対話、会話をする、しゃべる、打ち解け合うのを好む。ペラペラおしゃべり可能な電話を好む。親しい相手との手紙、メールの、間を置かない頻繁なやり取りを望む。対人関係維持のために、要件が無くても、長話するのを好む。直接対面でのコミュニケーションを好む。

(vs男性的性格:コミュニケーションは、何か目標を実現するための手段に過ぎず、それ自体が目標になるものではない。)


(3)「対人関係が累積する。リセット出来ない。転身が難しい。」

対人関係が、世代を重ねてどんどん累積していく。対人関係、コネの切断、リセット、初期化が出来ない。一度できた関係やコネをそのままずるずる続け、保持していく。ある分野、領域で一度できたコネを気軽に切って、別の分野、領域に転身することを嫌い、一度入った分野、領域にずっと居続けることを要求する。友人関係とか、学校、職場に入った最初の一瞬で、その後がずっと決まってしまう傾向がある。別の領域、組織集団に転身しようとしても、既にその領域に既存の対人関係が累積して出来上がってしまっているため、後から入り込む、入れてもらうことが容易には出来ない。あるいは入れてもらったとしても、身分、立場の低い新入り扱いになってしまう。

(vs男性的性格:対人関係は簡単にリセット出来て、次の新天地への転身が可能である。)


(4)「対人関係が長期持続する。対人関係が癒着、粘着しやすい。談合体質である。」

いったん出来た対人関係が長期にわたって延々と持続する。対人関係が粘着的であり、しつこい。一度始まった会話や説教が延々と長引き、なかなか終わらない。日本社会は人間関係が納豆みたいにネバネバ、ベタベタしており、「納豆社会」と呼べる。対人関係が癒着しやすく、談合とか起こしやすい。

(vs男性的性格:対人関係は短期的なもので、淡白で、あっさりしたものである。)


(5)「一緒、群れを重視する。仲良しグループ形成、護送船団方式を好む。巻き込み、連帯責任が生じやすい。」

皆で一緒にいようとする。群れるのを好む。集団、団体での行動、共同作業を好む。集団主義である。一人では行動できない、行動するのを好まない。互いにべたべたくっつき合おう、一緒になろうとする。派閥を作り、互いに主流になろうとしていがみ合う。一人では気が弱くて何もできないくせに、徒党や集団を組むと途端に気が大きくなって、「数の力」を頼りに大声で騒ぎ、傍若無人なことを行う。あるいは一人~少数を集団で寄って集っていじめるのを許容する(多勢に無勢)。集団内の一体感、愛情を何よりも重んじる。「全社一丸となって取り組もう」みたいに、集団の一体感の強さ、一心同体であることをやたらと強調する。皆で一斉に集中して何かするのを好む。互いの安全、保身を確保するため、皆で一緒に群れて、つるんで、周囲と互いに守り合う形で行動するのを好む「護送船団方式」社会である。皆が分け隔てなく処遇されることを求める。食事もトイレも皆、仲良しグループでつるんで行動したがる女性と根が一緒である。一人が何か行動を起こすと、当人で自己完結せず、周囲を否応なく巻き込んで大事、騒動になる可能性が高い。起こした行動の責任が、当人一人の責任にとどまらず、グループとかの連帯責任になりやすい。周囲と無関係でい続けることが難しい。

(vs男性的性格:グループよりも一人で独立、自立しているのを重視する。互いに訴訟し合うのを好む。責任は、個人で動く結果、自分一人で取る結果になる。)


(6)「所属を重視する。包含感覚、胎内感覚を重視する。心中を好む。」

所属を重視する。必ずどこかの集団に所属しようとする。どこかに所属していないと不安である。所属する集団から排除されるのを何より恐れる。集団に属さずに、一人で独立、自律するのを根底で嫌う。どこの集団にも所属していない自由な人を、フリーターとか言って軽蔑し、信用しない。どこの集団に入ったか、所属しているかを重視する。入る(った)、所属する(している、した)学校、会社の名前、ブランドを重んじる。

成員が、所属集団のために、我が身を犠牲にして、汗を流すことを賞賛する。成員が、所属集団に身も心も完全に包含、吸収され、所属集団と常に一体化して、自分があたかも所属集団を代表する一人であるかのような心意気で行動することを重視する。成員が所属集団の身体の一部として動くことを重視する。所属集団に、成員一人ひとりが完全に溶解、融解しきって、所属集団それ自体がひとまとまりの人格を持って動くような印象を外部に与えようとする。

所属集団が成員に対して、夫の浮気を疑う奥さんのように嫉妬深い。所属する成員は、会社、学校とかの所属集団のために、休日、残業時間も含めて、全ての時間を浮気せずに100パーセント入れあげて、捧げることを強いられ、要求される。あるいは、所属集団との、可能な限り長時間の生涯にわたる付き合いを要求される。自分のプライベートの全てを削って、所属集団に合わせること、自分の時間の全てを所属集団のために使い切ることを要求される。成員が所属集団に、時間的にも、空間的にも、完全包含されることが望まれる。所属第一主義である。

会社のリストラみたいに、所属集団側で、その成員の所属を維持できなくなったら、所属集団側によって、一方的に関係が破棄され、成員は所属集団から自己都合で脱退することを強いられる。一方、所属集団側では、いったん成員を集団の中に入れると、その成員を外に出すことがなかなか出来ない。

成員は、自分の所属集団の存続を第一に考え、その存続のために死力を尽くして、集団の全員が一丸となって最期まで戦おうとすることを要求される。最後まで戦ってそれでダメだった時は、所属集団丸ごと滅びようとする。集団自決を好む。集団への所属は、その集団限りで完結させよう、終わりにしようとする。成員が他集団に、捕虜とかで生きたまま拾われるのを好まない。所属集団は、成員が一つの所属集団にのみ終生忠誠を誓うことを望み、成員が2つ以上の集団に、同時あるいは逐次に所属することを嫌う。所属集団の存続が行われれば、自分はその犠牲になってどうなってもよいと考えることが求められる。集団の成員が、所属集団のために、特攻隊のように、進んで犠牲になることを尊ぶ。所属集団は運命共同体であり、成員が所属集団と最後まで運命を共にすること、「死なばもろとも」、心中を求める。

学校(大学とか)を卒業すると同時にどこかに入社する内定を予め取って、所定の日にきちんと新卒で入社しないと、所属集団から外れた、放り出された既卒扱いされて、どこの会社にも入れてもらえなくなってしまう(既卒差別)。学卒だけでなく転職の場合でも、今までの所属集団から時間的に切れ目なく次の所属集団に入らないと行けない。所属において、どこにも所属しないフリーの期間があると、あるいは履歴にブランクがあると、会社でなかなか採用してもらえない。

中の一員で有り続けること、外に出されないことを望む。転職を、所属(集団)からの排出と見なし、嫌う。転職を、スキルアップではなく、前にいた集団で、他の成員とうまくやっていけなかったため、外に出されたか、自分から外に出たとネガティブに捉える。所属集団を出て行くことが、元の意図、意思に関わりなく、マイナスポイントとみなされ、非難される。

所属集団に自分が包含された感覚、所属集団が自分の母代わりとなって、あたかも自分が母の胎内にいるかのような感覚を好む。

所属集団との一体感が極めて強い点、相手との一体感を重んじる女性的な性格である。

(vs男性的性格:どこかに所属するよりも一人で独立、自立してベンチャーするのを重視する。所属することによって生じる束縛を避け、フリーを好む。)


(7)「定住、定着、根付きを重視する。継続を重視する。専門家を重視する。固執する。」

村落での居住する土地とか、勤め先の官庁、会社とか、一箇所に定住、定着して長期間根付くのを好む。土着を好む。転出して、出ていく人を裏切り者呼ばわりして嫌う。定住しない浮き草、根無し草のような人たちを軽蔑する。あるいは、転職を繰り返したり、一つの職場に定職を持たない人を信用しない。住居でも職場でも、一箇所に腰を落ち着けて、その場で居心地の良い、長期間居着くことを目的とした巣作りをすぐ始めようとする。重心の低い、腰の重い、一箇所に腰を落ち着けてそこから動こうとしない女性的な性格である。

学者とか、役者とか、早いうちから一つの分野を専攻して、そこに腰を落ち着けて、根付いて、浮気せずに、その専門の一本道をずっと継続して歩むことを重視する。専門家を重視する。継続は力なりという言葉を重んじる。数多くの専門外のことに多様な関心を持って首を突っ込む人、専門を持たない、決めない人のことを信用せず、軽んじる。

自分の代々住んでいる土地のことや、あるいは、自分の専門分野に付いては何でも知っていて、答えられないことが無いのを当然とする。専門知識面での百点満点を指向する。知らない、質問に答えられない、他の人が答えられると恥ずかしいと考える。自分が回答可能な範囲を狭く決めておいて、その範囲内では何でも答えられるようにすることで、専門家としての自分の高いプライドを維持しようとする。知っていること、知識があることを第一と考え、知識を学習すること、暗記することにエネルギーを集中する。学殖のある知識人、学者を重んじる。

国会の議論とか、外交とか、自分が根を下ろした今までの意見に、固執して、柔軟に譲ろう、意見を変えようとしない。自分が譲ったら、変えたら負けと考えがちである。譲歩の契機となる対話や審議を拒否し、会議を欠席しようとする。話し合いがいつまでも平行線で、押し問答となり、強行採決を繰り返す。

(vs男性的性格:どこかにずっと定着するよりも一人でどんどん新天地へと移動していくのを重視する。新分野への新規参入能力、新規アイデア、知見を生む能力を重視する。)


(8)「同調性が強い。画一、横並び、流行、トレンドを重視する。相対評価を好む。嫉妬心が強い。」

同調性が強い。流行、協調性を重んじる。周囲の流行に敏感であり、流行に振り回される。映画やアニメとか、メジャーな流行に皆で追随しようとする。付和雷同を好む。トレンドに合わせて動くのを好む。

互いの間の気配り・足の引っ張り合いが得意である。みんな一緒に、横並びでいること、分け隔てなく同じであることを強要される。授業とか一斉に行うのを好む。周囲について行けない「落ちこぼれ」を嫌う。周囲との協調性や気配りをやたらと重視し、「出る杭は打たれる」みたいに、遅れてお荷物になる人間、周囲に歩調を合わせない独立独歩タイプの人間を、寄って集っていじめる。自由、フリーを本質的に嫌う。嫉妬心が強く、誰かが一人だけ上に行こう、いい思いをしようとするのを許さない。人間や組織の成績評価を、偏差値を利用して、周囲との相対評価で決める。自分に対して気分を害する人が出ないように、誰に対してでも八方美人的に平等に配慮する。嫉妬深く、他の人が自分より上位に行くこと、良い思いをすることを全力で阻止しようとする。常に他者、他社と自分との立ち位置を相対的に比較し、上位を行く他者、他社に必死で追いつこう、追い越そうとして、互いに自らを鍛錬し、向上させようとする。こうした嫉妬心の強さが、日本社会、日本企業業績向上の原動力となっている。他人が自分と結果的に平等であること、同じであること、格差が無いことを指向し、その結果、社会が均質化する。互いの処遇上の一体感を求める女性的な性格である。

(vs男性的性格:周囲と同調するよりも、各自が強い個性、独自性を持ってバラバラに、自分の能力を発揮できることをしようとする。新規のトレンドを生み出し、それに真っ先に乗って、追随者を多く生み出すことに心血を注ぐ。)


(9)「同期意識が強い。年功序列、先輩後輩制を好む。追い抜き、競争を嫌う。天下りを好む。」

入社とかのタイミングを年一回とかに一斉に合わせ、同期させるのを好む。一緒のタイミングで同じ集団に入った人を、同期と見なして、互いに格差の無い同一、均等の待遇を求めたがる。同じ入社年次、同期の人たちが、揃って同期して昇進し、昇進に格差が生じないのを好む。年を取るに従って、役職が上に順調に昇進していく、あるいは、組織内で年を取った先輩格の人が後輩格の人よりも常に上位者扱いされる、年功序列、先輩後輩制を好む。

官庁や大企業で、同期の関係にある人同士が、役職で上下に格差が生じた状態で互いに顔を合わせるのを嫌い、役職の低い方の人が、外局に落下傘降下する形で、顔を合わせないように組織の外に出ていくのを好む(天下り)。あるいは、先に組織に入った先輩格の人が、後から組織に入ってきた後輩格の人に、昇進とかで追い抜かれる(後輩格の人が先輩格の人を追い抜く)のを嫌う。追い越しの伴う競争を根本的に嫌う。後輩格の若い人が、先輩格の年取った人の上司になるのを、互いに扱いにくいとして双方で嫌う。中途採用で高齢者の就職口が限られる一因となっている。

学校での昇級や会社での昇進で、飛び級を嫌い、用意された階段を一段ずつ順次登っていくのを好む。いったん登った役職から降格されるのを嫌う。

互いの処遇上の時間的な揃い、一体性を求める女性的な性格である。あるいは、身の安全性を担保する前例や知識の習得を重視し、先に入社した人が、前例蓄積の度合いが大きく、無条件でいつまでも上位になると考える、女性的な性格である。

(vs男性的性格:同期にこだわらない。若い人が年取った人よりも役職が上なのが当たり前。追い抜き、競争が日常茶飯事。)


(10)「物真似、コピー、合わせが好きである。」

他人の物真似を好む、物まね、コピー、パクり文化である。周囲の動向、流行に必死になって付いて行こう、同調、同期しようとする。周囲とは別の独自の途を一人で歩むのを好まず、周囲に合わせようとする。個人のオリジナリティ(独創性)を、一人だけ周囲と違ったことをするのは好ましくないとして根本的に嫌う。周囲の他者の真似をすることで、周囲との一体感の持続を確保する。周囲と離れて一人ぼっちになるのを恐れる、皆で一緒に群れて行動するのを好む「護送船団」社会である。自分の保身に人一倍気を遣う女性的な性格である。

(vs男性的性格:独自性を好む。個人のアイデアに基づく独創性を好む。)


(11)「和合、一体感、共感を重視する。」

集団内で、相互の一体感、共感、調和、和合を好む。「和」の社会、仲良しクラブ社会である。互いに同質で同じ考えを持つことを良しとして、集団の和を乱す個人個人のバラバラで異質な強い自己主張を許さない。集団の和を乱す突出した考え、行動の持ち主を、皆で寄って集って袋叩きにして潰そうとしていじめる社会である。集団の存続それ自体がいつの間にか自己目的化し、集団内が喧嘩別れをして割れることを嫌う。互いに、集団の和が保たれる方向へと、自分の行動を合わせる「迎合」「媚」社会である。相互の体温、温もりの感じられる、互いの距離感の無い、親近性のある、親しい相手に対してプライバシーの欠如した対人関係を好む。相互の間で距離を取って、対象となる相手を客観的、冷静に見ようとする科学的な行き方を、相手との関係が冷たいとして、根本的に嫌う。相互の一体感、融合感を重んじる女性的な性格である。揉め事とか、何事も丸く収めようとしがちである。訴訟、裁判を嫌い、なるべく和解しようとする。物事の形状で、円形、丸型、柔軟なクッションを好む。円満解決、大団円を好む。争いごとを好まない丸腰体質である。

女性は、生まれついての(生得的な)集団主義者=collectivist、同調主義者=conformistである。いずれも、個人主義的な欧米では価値が低いが、日本社会ではメジャーである。日本の国民性が集団主義となるのは、女性が強い証拠である。

(vs男性的性格:意見の対立や訴訟、戦争を厭わない。人と意見が違っていて当たり前である。)


(12)「小グループ同士がバラバラ、無関係、無連携、無関心、縦割り、不仲である。」

互いに一体感の持てる交遊の範囲を個別に狭く限定し、互いに独立した、外に向かって閉じた小さな集団、サークル、派閥(クラス女子高生の生成する仲良しグループとか)を沢山作りたがる。学校、会社とかで、メンバーの形成する社会集団が、小さく固まり、個別に小さく互いにバラバラになりやすい。複数の小さな仲良し集団同士が、互いに閉鎖的、排他的、不仲なため、各々独立、孤立した個別小集団同士の意思疎通がそのままでは不足になり、全体集団、全体組織がバラけたままで統合されにくく、統制が取れない、互いに無関係で動く状態になってしまいがちである。中央官庁とかで、より小さなグループのまとまりが、より大きなグループのまとまりより優先される(国益より省益、局あって省無し)こと、あるいは、政党で、派閥がそれぞれ独自に勝手に動いて、政党全体のまとまりを欠きがちなこと、がその現れである。集団の下位グループが、互いに連携しようとせずに、勝手にバラバラに重複して動いて、その集団や社会全体の利益を損なう、縦割りの弊害が発生しやすい。そうした閉鎖的個別小集団間の間を取り持って、相互の意思疎通を図り、何とか互いに一体感を持たせ、全体の統率を持たせることが課題になる。

個人ではなく、自分たちのグループが独自と言われるのを好む。個人が周囲からかけ離れて突出するのは好まないが、グループごと突出するのは、存在を強く主張でき、グループのイメージを強くすることにつながり、自己の保身に有利となるので良いとする。他所のグループや国と違う、他に無い独自、独特の文化を持つと言われると喜ぶ。

(vs男性的性格:グループは一時的なもので、個人単位でバラバラ、無関係である。自分の利益のために、互いに関心を持ちドライに連携しようとする。)


(13)「守られたい、頼りたい、養ってもらいたい、甘えたい、寄生したい心理が強い。」

一人では不安を感じる度合いが強く、保護されたい、守ってもらいたいという気持ちが強い。依存心が強い。甘えの心が充満している。官庁や大企業といった、大組織への依頼心、帰属意識、甘えが大きい。一人で自立するのは不安であり、誰かに助けてもらいたがる。あるいは、誰かに寄生して養ってもらいたがる。「寄らば大樹の陰」ということわざが、この辺の事情を明示している。就職のとき、大きな会社を選びたがるのもこの一例である。ひとりで外部に露出するのが不安であり、アメリカのような強い国に頼ろう、守ってもらおうとする。強いもの、お金のあるものからおこぼれを頂戴しようとする、集り根性が強い(例えば、政府から公共事業費を少しでも多く分配してもらおうとする等)。自己保身に気を遣い、何事も優先して守られる、エスコートされるのを好む女性的な性格である。

(vs男性的性格:自分の身は自分で守る。自助を基本とする。)


(14)「権威主義である。批判、反論を許さない。

権威、ブランドに弱い。権威主義である。媚の文化、迎合の文化である。自らの保身のため、少しでも権威ありそうな、主流派を形成している人、大学、病院のような知的権威のある機関に属する教師や医師を、「先生」と呼んで、その後を追従し、ペコペコする。自分も権威ある者の後ろを歩めば、安全であり、威張っていられると考える。あるいは、権威ある人の言う事を聞いていれば、大丈夫、間違いないと考える。自分の身の安全や、自分の判断の正しさを保証してくれる、外部のより大きな存在を求めたがる。自分より強そうな者に対しては、ひたすら媚を売り、ペコペコするが、ちょっと弱そうだと、途端に強気に出て、イヤな仕事の押しつけや、恐喝まがいのことをする。自分を権威付け、高く見せるために、評価の定まったブランド品を進んで身に付けようとする。欧米列強の文物を、権威があるとしてやたらと崇拝する。これを信じておけば間違いない定説とされる学説を、宗教のように信仰し、それに対して異を唱えることを認めない。自分を押し倒し、圧倒した強大な存在に対して、進んでその色に染まる。あるいは、盲目的に追従し、お伺いを立てる。先生や先輩とかに対する口答え、批判、反論を、相互の一体感が損なわれ、言われた方の威信に大きな傷が付くとして許さず、絶対服従を強要する。自らの保身のため、権威に寄りすがろうとする点、女性的な性格である。

(vs男性的性格:権威に盾付き、批判、反論の自由を求め、行使するのを好む。)



(15)「安全、保身第一である。不安感が強い。退嬰的である。リスク、チャレンジを回避する。独創性が欠如する。」

安全第一、自己保身第一で、不安を感じる度合いが強く、臆病で退嬰的である。冒険しない、ベンチャーを嫌う。失敗を怖がる。前例がないと何もできない。独創性が欠如している。例えば、人文社会科学分野では、欧米学説の後追いばかりやっている。既存の学説を乗り越えて、新たな学説を作ろうとする気概に乏しい。既存学説との、同化・一体化の力が強過ぎる。未知の分野はどんな失敗をするか分からないので、怖い、として、手を出したがらない。先頭に立たず、欧米の先駆者の後を追う方が安全である。危ない、リスキーなこと、未知の新しいことはしない。モルモット(実験台)になるのはいやである。より危険で風当たりの強い一番手を嫌い、より安全で楽な二番手で行こうとする。皆を先んじて率いる必要がある、より大変なリーダーであるより、ただ付いて行くだけで良いフォロワーであろうとする。チャレンジを心の底で嫌う。一度失敗すると、敗者復活戦、再チャレンジが難しい。新卒で大会社とかに入れないと、既卒扱いになって、二度と入ることが出来なくなる仕組みになっている。

日本の科学技術が欧米より常に遅れる、後進性のくびきは、不安の強さ、安全指向、退嬰性、前例指向といった、女性性と関係があり、日本社会で女性が強い証拠である。

(vs男性的性格:安全、保身にこだわらず、リスクに積極的にチャレンジする。独創性に富んでいる。)


(16) 「前例、しきたり偏重である。前例の小改良、磨き上げが得意である。先輩後輩関係がきつい。」

前例となる知識、ノウハウの急速な学習、消化、吸収に長けている。明治維新の時とか、欧米の新知識を素早く吸収、学習し、程なく我が物にすることに成功した実績がある。学校や学習塾、予備校とかで、前例となる知識、ノウハウの学習にとかく熱心である。

自身への前例、しきたりの蓄積の度合いに応じて上下関係が決まる。前例、しきたりを自身の中に豊富に持っているほど集団や組織の中で上位者になれる。年功序列、先輩後輩関係がきつい。集団や組織で、局のような古株が威張っている。新人いじめが当たり前に行われ、いずれの組織においても、新入りの地位が低い。家庭における嫁姑関係(家風習得の度合いの面で、姑が先輩、嫁が後輩、新人)に通じる。前例となる知識や技能を持っている者が、理屈抜きで偉いとされ、一方、若い新人の方が豊富にあると考えられる独創性は評価されない。安全性を第一と考え、未知の危ない道を通ることを避けて済ませるには、取るべき行動の前例となる経験知識を豊富に積んでいることが求められるからであり、そうした前例としての経験知識は、年功の上の人たちがより多く持っている。

既に誰かが先行して成し遂げたオリジナルの前例を吸収、学習して、その小改良を着実に重ね、磨き上げを重ねて、競争力を付けることで、オリジナルを凌駕し、競り勝つこと、打倒することに長けている。

未知の危険を避け、前例のある道のみを行こうとする点、女性的な性格である。

(vs男性的性格:前例、しきたりにこだわらず、積極的に破壊、批判して、自分の力で新しい知見を生み出し、それを普遍的に普及させようとする。)


(17)「後進的、現状維持的」

(17-1)「思考が伝統的、封建的、後進的である。」

(17-2)「無競争、無風、停滞、(既得権益とかの)現状維持が好きである。不変を好む。

(17-3)「外部からの先進的考えの流入に抵抗するが、いったん突破されると諾々と受容するものの、流入が止むと元に戻る。」

考え方が伝統的、後進的、遅滞的、封建的である。姑、局のような古株が偉くて、新入りが古株を超えることができない。古い伝統に縛られ、前例やしきたり、現状維持をひたすら重視する。集団内部での内発的な進歩的な新たな試みを危険であるとみなして皆潰してしまう。これは「姑根性」という言葉で表現できる。新参者が古参者を後から追い越す可能性のある競争を嫌い、既存の安寧秩序を守ろうとする。波風が立つのを嫌い、無風、凪、停滞、事なかれを好む。既得権益とかの不変、維持を好む。

外来の新しい文化の流入に抵抗しつつ、圧倒、突破されると無条件で受容、追随する。欧米とかの進歩的な文化、制度が外部からやってくることを黒船来襲と見なして、警戒し、攘夷で抵抗するが、いざ圧倒、突破されると、手のひらを返したように、その進歩的な考え方にほとんど盲目的に追随し、丸呑みしようとする。iPhoneのように、外部から入ってくる優勢で抵抗しがたい、自らの力では生み出せない、新たで進歩的な考え方、アイデア、製品に、無条件、無批判で我先に追随し、取り入れよう、真似しよう、小改良しようとする。率先して取り入れたこと、導入した結果を、周囲に対して箔付けして自慢する。外部からの(先進的な)考えが入り込むことに抵抗しつつ、いったん突破されると諾々と受容、丸呑みするのが、男性的な(欧米的)精子に対する女性的な(日本的)卵子の受精関係に似ている(卵子的行動様式)。

しかし、そのように進歩的で新しい、競争的な態度を取るのは、外部から優勢な新しい考えが存在、流入していて、それに対処する必要が生じている間だけに止まる。外部からの新規文化の流入が止まると、元の無風の凪状態、現状維持的、既得権益維持的な気風に戻る。天皇制のように、ずっと不変なもの、永続するものを好む。変化を嫌う。(日本)社会の、(進歩的な欧米社会に比較した)遅滞、封建制の本質は、危険やチャレンジを避けて安全な前例をひたすら守ろうとする女性、母性にある。

(vs男性的性格:思考が、伝統に囚われず、先進的である。競争、変化を好む。外部から先進的な考えを当初から積極的に歓迎し、発展させようとする。)


(18)「恥、見栄を重んじる。内部問題を対外的に隠蔽する。真実を隠蔽する。綺麗事、美辞麗句を好む。公式、公開の発言の場で沈黙する。」

自分に対して向けられる他者の視線や評価を非常に気にする「恥の文化」である。自分が周囲にどう思われているか盛んに気にして、周囲によく思われようとして、いろいろ気を遣ったり、演技をしたりする。八方美人であり、周囲の国にいい印象を与えることに懸命である。周囲から自分がどう思われているか、自分が気に入られているかどうかが気になって仕方がない。自分が周囲に気に入られるように、盛んに媚びたり、いい子ぶったりする。自分の周囲に対する印象をよくするために、やたらと気配りをしたり、外面的な見かけを整えたりすることに忙しい。面目、体面をとても気にする。常に人の目が気になって仕方がない。他の人に見られているという感じが強い。他人の視線を前提とした見栄張りの行動を行う。「見栄の文化」である。自分が他人にどう見えるかについて自意識過剰である。他人の視線を前提とした化粧や服装チェックは、女性の方がより行う。

自分や自分たちのグループが内部に問題を抱えていることを、外部に対して必死になって隠そうとする。問題が無い振りをしようとする。良い格好をしようとする。対外的に良い子でいようとする。「ぶりっ子」をする。自分についての良くない噂が広まる、騒ぎが起きるのを何よりも恐れる。対外的に自分が良く見られたい、受け入れられたいとして、問題を隠すなど自分の印象操作するのは、女性の方がより行う。

本当のこと、真実、内実を、知られると騒ぎになると考えて、隠蔽して語ろうとせず、真実からかけ離れた、当り障りのない、表面的に都合の良い、綺麗事のみを強調した建前の議論でお茶を濁そうとする。感覚的に美しい快い美辞麗句、スローガンを使うのを好む。リアルな真実を語ることが、社会として出来ない。太平洋戦争時の大本営発表や、福島第一原発事故の際の情報隠蔽、精神障害者の子供を持った親による子供の病気の対外隠蔽が好例である。陰湿な女社会の内実を隠蔽してきた女性たちと根が一緒である。

公式、公開の場で発言せずに沈黙する。あるいは、建前上の、無難な、その場の大勢に迎合した良い子、ぶりっ子の発言のみ行う。積極的に自由に発言するのは、ある程度非公式、非公開の場に限られる。衆目の監視の中で発言すると、発言内容に公の責任が生じるため、保身のため、何も発言しないで、黙って含み笑いしているのみである。あるいは、親しくない人が大勢いる中で自由な発言をするのに抵抗がある。親しい内輪の中でないと自由に発言できない。大勢がいる中で発言することで、皆の注目を集めてしまう、失笑を買うのが恥ずかしくて、他人の目が気になって発言できない。シャイである。プライベートな小グループの中だと発言できる。

(vs男性的性格:人目を気にせず、自分の良かれと思うことを恥も外聞も無く堂々と行う。セキュリティのために内部プライバシーを重んじる反面、情報のオープンな提示に積極的である。公開の場で歯に衣を着せない発言をして物議を醸す。)

R.Benedictが、「菊と刀」の中で唱えた、罪の文化・恥の文化との関連では、

男性は、「罪の性(ジェンダー)」である。誰かに見られていなくても、悪いことをしたとして罪悪感を感じ、償いの行動を起こす。周囲の動向とは独立して、独りだけで罪悪感を感じる点、ドライであり、罪の文化(男らしい文化)の基盤をなす。

女性は、「恥の性(ジェンダー)」である。「赤信号、皆で渡ればこわくない」といったように、罪悪感を感じるかどうかが周囲の視線の有無や動向に左右される点、ウェットであり、恥の文化(女々しい文化)の基盤をなす。他者に「見られている」感が強く、他者の視線を前提にした自己アピールである化粧・服装・ファッションを好む。

日本が「恥の文化」に基づく社会となったのは、「恥のジェンダー=女性」が、社会の根幹を支配しているからである。

(19)「配慮、気配りを重視する。遠慮、引きこもりがち、孤立しがちである。」

周囲の他者に対して、心情的に細やかな配慮、気配りをすることを重視する。周囲に対して温かい思いやりの気持ちを持って接することを重視する。温もりに満ちた社会の実現を目指そうとする。互いに、周囲の他者に迷惑をかけないようにと遠慮して考えるあまり、個人、家族単位で、周囲との交渉を避けて、各々引きこもりがち、孤立しがちになりやすい。社会の統合が弱い。無縁社会を招きやすい。周囲への細やかな気配りは、女性のほうが得意である。

(vs男性的性格:直接的な物言いを好み、配慮、気配りに欠ける。遠慮をせず、どんどん物を言う。積極的に交渉する。)

(20)「清潔さを好む。みそぎをする、洗い流す、総取り替えするのを好む。」

自分の心身を、洗い流して清めるのが好きである。汚れ、穢れを嫌う。清潔、きれい好きである。河川とかで清流を好む。自分の吐く息等が他の人に臭ったりしないかどうかのエチケットにやたらとうるさい。自分の(他人の)汚れ、穢れが他人に(自分に)回らないか、転移、伝染しないか、影響を及ぼさないか、とても気にする。他人に対して、汚れていない、綺麗な、清らかな、良い印象の自分を見せようとして、やたらと自分の髪や身体を洗うのを好む。綺麗な水流に入って心身の汚れ、穢れを洗い落としたつもりになる「みそぎ(禊)」をするのを好む。風呂に入るのを好む。失敗や過去を「水に流して」済まそうとする。汚れのない白装束を、正月の巫女衣装みたいに神事等で着るのを好む。自分の身体の汚れに対して自意識過剰になって毎朝シャワーやシャンプーを繰り返すのに余念が無い女子中学生と考えが一緒である。互いに(女性的に)自己の保身を図るために、護送船団方式で互いに密集して一体感を持って共同生活することを指向するため、互いに近場の他人の(自分の)身体とかの汚れが自分に(他人に)付かないか、伝染しないか敏感になっている。

新しい導入物に感化されやすい。新たに外から圧倒的な力を持って入ってきた、あるいは国内から新機軸を打ち出して成功した新興勢力の文化に社会全体が一瞬のうちに簡単に感化されてしまう。そして、今まで自分たちが大切にしてきたはずの古来の文物を、新しいものと総取り替えで簡単に二束三文で投げ捨ててしまう。明治時代初期の西欧文物崇拝と廃仏毀釈や、Apple社のiPhone導入が好例である。新しい権威やカリスマが生み出した、新たな力ある文物に、各自が自分だけ乗り遅れないように必死で追随しようとする。その結果、社会全体が一斉に新たな文物に乗り換えて、古い殻を脱ぎ捨てる現象が起きる。

各自が周囲の動向に敏感で、少しでも遅れて仲間はずれになるまいと必死で同調する、また力あるものに我先に順応して我が身の保身を図ろうとする、いずれも女性的な性格である。

(vs男性的性格:汚れに寛容であり、シャワーの回数が少ない。新文物が導入されても、古いよりオリジナルな思想に基づくものは捨てない。各自、互いに一人我が道を行くのを許容する。)


(21)「責任を回避する。決定、判断を停止、回避、先送りする。無責任である。匿名行動を好む。」

責任回避、責任転嫁の傾向が強い。自分の取った行動の結果生じる責任を一人で負うのをいやがり、皆で連帯責任にして、一人当たりが負うリスクを軽くしようとする。「赤信号皆で渡れば怖くない」という格言が流行したり、太平洋戦争の敗戦責任を「一億総懺悔」して取ったつもりになっていることがその現れである。そうすることで失敗の責任を取らされて危ない目に会う(社会的生命を失う)ことを避けることができる。あるいは、物事の決定にできるだけあいまいな玉虫色の態度を取ることで、責任の所在を不明確にして、責任逃れができるように逃げ道を作るのが上手である。あるいは、そもそも責任が生じる意思決定、判断すること自体を回避、停止、保留する。自分からは決断せず、誰かに決めてもらおうとする。他の責任を取れる人に判断を一任して、その判断が下るまで自分からは決定せず、待ちの姿勢を取り、判断対象を体良く無視し続ける。判断を他人に決めさせることで、決めた他人に決定責任を押し付ける。自分から進んで動くと、行動責任を問われるので、自分からは進んで動かず、誰か他の人がモルモットになるのを待つ。自分では責任を取りたくないので、誰か自分の行動に責任を取ってくれる指導者の存在を望む。決定、決断を先送りする。無責任である。

自分が取った行動について、後々まで自分がやったという証拠が残って責任追及されるのを避けるため、自分が誰かを、他者に特定されるのを恐れ、匿名でいようとしたがる。証拠が残るのを好まない。SNSとかで、個人情報や実名、顔を出すのを好まない。

失敗時、潔く責任を取ろうとせず、責任逃れの言い訳をするのを好む。

社会的に、責任を取るのを免除されやすい女性的な性格である。

(vs男性的性格:個人行動基本のため、責任は回避できない。決定、判断を急ぐ。責任感がある。実名行動、顔出しを好む。)


(22)「可愛がり、なつき、情けを重視する。」

成員が、その中枢に深く入り込んだ所属集団内で、上位者に可愛がられること、上位者になつくことを重視する。旧日本軍将校に見られるように、失敗しても、責任を問われず、仲間内で内輪でなあなあで、もみ消し、穏便に済ませようとする。失敗した当人を冷たく切り捨てることができず、情けをかけようとしたがる。情状酌量で処分が甘くなる。冷徹さを嫌い、情緒的な対応を好む点、女性的である。可愛い部下や生徒に対して、えこひいきをする。

(vs男性的性格:冷徹な能力主義を貫徹し、失敗に容赦しない。)


(23)「事前合意を重視する。いったん合意した流れ、方針の変更が困難である。慣性で進もうとする。」

予め、利害関係者同士で、内密に議論して、落とし所=事前の合意点を決めておくのを好む。関係者への事前の根回し、談合を好む。前もって、事前合意を取らずに、突然新たな話を進めよう、決めようとすると、反発、拒否される。国会とかで、その場その場の即興の公開討議を嫌い、事前の密室での利害関係者を集めた交渉と合意形成を好む。予め互いの合意、賛成を取り付けておくことで、互いに和合することを好む女性的な性格である。

既に、皆で合意、決定した内容、方針や流れを、後から変更する、覆すことが根本的に難しい。太平洋戦争で、戦局が不利になるという分析結果が政府内で後から出ても、既に戦争をやることで首脳部で合意ができていたので、方針を変えることが出来なかった。いったん決めた方針にとって有利な数字合わせを後付けで行う。いったん進むと決めた流れの方向に、不都合が起きても、そのまま慣性の力でずっと進もうとする。いったん形成した合意による皆の一体感、仲良し状態を後から人為的に壊してしまうのを怖がる女性的な性格である。

(vs男性的性格:リアルタイムの討議による合意形成を好む。方針変更をあっけなく大胆に行う。)


(24)「プライド(良い格好を重んじる度合い)が高い。失敗恐怖症である。」

プライドが高い(皆の前で良い格好をしようとする)。失敗して、皆の前で自分のプライドが傷つくのを何よりも恐れる。英語とかの語学の授業で顕著である。他人が失敗するのを見ると馬鹿にして総攻撃を加えて袋叩きにしたり、陰口を叩いたり、触れ回ったりするが、本当は自分が公衆の面前で失敗するのが怖くて仕方がない。失敗を、誰でもする可能性のある日常的なことと許容することができず、失敗者を日頃の鬱憤晴らしの対象として、ひたすら責め立てる。試行錯誤による失敗の繰り返しを避けて、誰か成功した事例はないかとひたすら探し回り、見つかったと見るや、一斉にその真似をする。その成功事例を究極の正解、侵すべからざる信仰対象として、それにひたすら改良の磨きをかけ、そこから少しでも外れた者を、エラー、間違いを犯したとして直ちに叱り飛ばす。自らを大切で貴い存在と見なし、自らに少しでも傷が付くのを嫌がる女性的な性格である。

(vs男性的性格:失敗を恐れない。自分は有能だというプライドが高い。)


(25)「閉鎖性、排他性が強い。内外感覚が強い。入試がある。白紙採用を好む。思考が内向きである。閉塞感が強い。対内融通、配慮が効く。自前で済ませようとする。」

形成する社会集団が閉鎖的、排他的である。集団内と外とを厳格に区別し、ヨソ者に対して門戸を閉ざす。例えば、中央官庁や大企業では、成員の採用の機会は新規学卒一括採用がほとんどで、白紙状態でまだどの社会集団の色(しきたり、組織風土なと)にも染まっていない若者に対してのみ門戸を開き、本格的な中途採用の道は閉ざされている。純血性を保った自集団(「ウチ」)内で他集団に対抗する形で強固に結束し、内部に縁故(コネ)の糸をはりめぐらす。ヨソ者を入れずに内部だけで強固に結束する鎖国社会である。親しい、付き合い上の安全が保障された身内、内輪だけで固まろうとする。ヨソ者に対してとても冷淡である。オープンさが欠如している。内輪の会話、なれ合いに夢中で、外界について関心が薄い。思考が内向きである。女子中学生、女子高生の仲良し集団が原型である。内輪での仲の良さを外部に向けてアピールすると共に、内輪で浮いているメンバーを外部からは分からないように、陰湿にいじめ、差別する。内輪から外れる、村八分にされると、他に行くところが無い社会の仕組みになっているので、皆、外されないように必死になって、他の集団メンバーに配慮する。

いったん集団に入ると、定年やリストラなどで用済みになるまでその中にずっとい続ける(浮気をしない)ことが要求される。ヨソ者は自分たちと行動様式が異なり、何を考えているか分からないので安全でない、一緒になると自分の属する集団のしきたりや風紀を乱すことを平気でされるのではないかと不安で、安心できないと考える。中途採用者に対して、いじめを行ったり、新人と同じような屈辱的な扱いを強制したり、あるいは、そもそも外部から入ってくる者を、派遣社員のように、一時的、部分的にしか、自分たちの組織にタッチさせず、締め出そうとする。この場合、ヨソ者の許容が自身の保全に悪影響を与えるという女性的な心配が、閉鎖的な風土を生み出す要因となっている。なお、この閉鎖性は、自分たちの所属する身内集団内部の一体感を保つため、ヨソ者が入るのを防いでいるという点、女性の好きな、他者との一体融合感維持指向に通じるものがある。

人々が、あらゆる物事に内と外があると考える、「内外感覚」を持っている。そして、外から内に移行する「入る」という意識(エントランス)を重視する。とにかく何でも入ろう、入れてもらおうとする。「入る」という意識は、相手、対象が閉鎖的な場合にのみ生じるものである。日本人が、何かと「入る」ことにこだわるのは、社会や集団が閉鎖的であることの現れである(欧米のようにオープンな社会のもとでは、人々の「内外感覚」「入る意識」は弱いと考えられる)。あらゆる物事に、入ることが大変な入試を求める。卵子に例えられる、外部に比べてよりリッチな栄養のある内実を持つ閉鎖空間(公務員、大企業、名門学校等)に何でも良いから入ることが、人生の目的になる。入れてもらう(一員になる、溶け込む、一体化する)と、優遇され、リッチな気分を味わえる仕組みになっている。そのように入れたことを周囲に向かって何かと自慢しがちである。


白色無垢の者のみ加入を許す。(どこか別の集団に長いこと加入していた)色付きの者の採用を嫌う。嫁入りで白無垢の装束を着たり、会社や官庁で、特定の組織の色の付いていない新卒学生の白色、白紙採用を好む。色の付かない無垢の状態のまま、あるいは今まで付いた色を全てご破算にして(社会的に一旦死んで)、一から所属先の新たな色に染まります、という態度を見せないと、集団(会社、官庁、嫁入り先の家族・・・)の中に新たに入れてもらえない。新入りが、集団の既存の色を乱さないこと、集団の既存の色との調和、融合を重んじる。付いた色の濃いのが先輩で、薄いのが後輩であるとする。集団に居続けるに従って、自らに染み付く色が徐々に濃くなっていく、それに伴って他集団への転出が難しくなっていくと考える。


学校の入学試験や、企業、官庁の入社試験のように、部外者が集団に入るために、やたらと厳しい入試を設けたがる。集団の中に入れてもらうのが大変である。ところが、厳しい入社試験とかを突破していったん集団の中、ウチに入れてもらうことができると、途端に母の胎内にいるかのような、融通が効く、クッション感のある、柔軟な動きが取れる、温かい、利便性に満ちた、優遇された扱いを受けることが可能になる。役所とかで、親しい身内、内部者に対しては柔軟で融通が利く、配慮に満ちた態度を取り、部外者に対しては、杓子定規で利便性を考慮しない硬直した配慮に欠ける態度を取る。自分の本当の気持ち、意見(本音)は、親しい身内に対してのみ開示する。部外者に対しては、見かけの表面上取り繕った、上辺の気持ち、意見(建前)のみを示す。

国外や、社外といった、外部に対して関心の薄い、所属グループ内のことに専ら関心が行く、内向き思考が蔓延している。

閉塞感が強い。グループの中に閉じこめられている、外に出にくいという感じが強い。

人材の調達とか、外部に頼らず、自前で(自分たちのグループ内で)全て揃えよう、済ませようとする。互いに、他グループに任せず、自分たちのグループでやろうとする。その結果、似たような内容の組織やアウトプットが、国とかで、重複して発生、生成しがちである(文部科学省の幼稚園と厚生労働省の保育所とかの二重行政がその例である)。自分たちのグループ以外の他グループをライバルと見なして、頼ろうとせず(互いに閉じているため、頼ることが出来ず)、自分たちのグループ内で自活、自給自足、自己完結しようとする。家電製品や携帯電話とかで、機能とか全部入りのオールインワンの機種を好む。


演習飛行をする米軍機が自分たちの領空を飛ばないと分かった場合とか、自分たちの領域に侵入してくるもの以外の、外部の動向に対しては、どうなろうと知ったことではないと考え、無関心である。自分の領域、領空を直接侵犯してくる以外の他者、他グループの存在に対して、徹底的に無関心であり冷たい。あるいは、税金を、自分たちの会社や家庭から、国とかに支払うと、自分たちの管轄外に拠出されてしまったと考え、その使い道に無関心になる。

(vs男性的性格:開放的である。開かれた空間内にいるため、内と外との区別があまり無い。転出、転入が日常茶飯事である。アウトソーシング、買収と売却が得意である。)


(26)「受動性が強い。行動主体が非明確である。主体性が欠如している。他者のリードを求める。静止、不動状態が好きである。相手から急所を突かれると無反応状態になるか、相手を無視する」

取る行動が受動的である。受け身である。自分からは積極的に行動を起こさず、意思決定を先送りし、周囲からの働きかけや外国からの外圧があって初めて「仕方なく」行動を起こし、周りに引きずられる形で意思決定をする。自主性に欠ける。退嬰的である。「お不動さん」の信仰に見られるように、静止、不動状態を好む。行動を起こした原因が自分ではないとして、責任逃れをする。男女の恋愛において、結婚のプロポーズやセックスへのアプローチといったリードを、ほとんど男性側が行うのと根が同じである。

主体性が無い。待ちの文化である。自分からは動かず、誰かにやらせよう、やってもらおうとする。

誰が行為責任を負うかが明確になってしまうのを避けるため、行為主体をはっきりさせない。主語を省略して表現する。主体をはっきりさせないことで、周囲との一体同調の強さ、心理的な凪、和合、静止状態の心地よさをアピールする。

相手が急所を突いてきたとき、そこが急所であることを気づかれないために無反応だったり、わざと取り繕ってお茶を濁したり、茶化したり、ことさら無視したり、話題を関係ないものに変えようとする。

(vs男性的性格:能動的である。行動主体が明確で、主体性がある。他者を進んでリードする。動きまわるのが好きである。急所を突かれると直ちに猛反撃を開始する。)


(27)「相互監視、告口を好む。他人の噂話を広めるのを好む。プライバシーが欠如している。」

相互監視が行き届いている。互いに、周囲の他者が何をしているか、チェックするのに忙しい。プライバシーが無い。他人について、噂を広めたり、陰口を叩くのが好きである。あるいは、権威者や当局に対して、密告をするのを好む(学校の教室で「先生、○○さんが隠れて○○しています!」と告げ口するとか)。かつ、自分は、そうした噂や陰口の対象にならないように、絶えず保身に気をつかい、安全地帯にいようとする。

(vs男性的性格:互いに他者が何をやっているかに無関心である。自分のことに忙しい。プライバシーを重んじる。)


(28)「対応が間接的、ソフト、遠まわしである。」

対応が間接的であり、陰湿である。相互の一体感、和合をできるだけ維持するため、他人に対して批判をする際にも、直接的な、明らさまな表現を嫌う。意見を口に出さず、相手に直接直言せず、以心伝心で伝えようとする。表現をソフトにしようとして、間接的な遠回しの表現を好む。そうした遠回しの表現の真意に気づかない他者を、鈍いとして陰口を叩いて批判し、無視したり、陰で他人に分かりにくい形でいろいろ寄ってたかっていじめたり、意地悪する。ソフトだが、真綿で首を閉めるような陰険なやり方をする。相手に直接言わず、間接的に陰湿なやり方で相手の足を引っ張る。

(vs男性的性格:対応や物言いが直接的であり、ハードである。直接進言する。)


(29)「対応が近視眼的、場当たり的、個別、局所的である。」

対応が、近視眼的、場当たり的である。自分にとって身近な目先の場所や、時間的に目の前の事柄に注意が専ら行き届き、ずっと先の未来や、世界全体規模をコントロールしようとする長期的、遠大な計画性や視点に欠けている。自分のいる周囲の動向のみに注意を払う。自分のところの狭い個別の事例、利害に囚われて、物の見方が局所的になりやすい。「~の説は、自分のところとは違うので、正しくない」という言説がまかり通る(「~の説は、全体の○パーセントが当てはまらない、あるいは論理的に~なので、正しくない」というふうになりにくい)。自己中心で周囲が見えない。全体を鳥瞰して判断するのが苦手である。道路の用地買収とか、全体の利益を考えず、個別の利害をゴリ押しする。

(vs男性的性格:対応が長期的、計画的、普遍的である。)


(30)「対応がヒステリック、情緒的、非科学的である。感情的に反応する。」

取る対応が、ヒステリックで感情的、情緒的である。相手からの刺激に対して、冷静に分析する事ができず、思わずキーッとなって集団全体で感情的に激昂し、前後の見境がなくなって、予想外の飛んでもない行動に出る(太平洋戦争時の真珠湾攻撃とか)。相手との一体感の有無、好き嫌いを目安にして行動する。相手に対して、客観的に突き放す形で向き合う事ができず、感情的な好き嫌いをむき出しにして対応する(太平洋戦争時のアメリカ、イギリスへの鬼畜米英呼ばわりとか)。対象との一体感を重んじ、対象と距離を置いて物事を見ることができず、物の見方が非客観的である。冷静、客観的に物事や状況を捉える科学を嫌い、何事も気合を入れて努力して行えば不可能なことは無いとする、精神論、根性論、努力万能論を振り回すのを好む。教師とかの熱血指導を好む。学説のような、本来冷静に突き放して評価すべき対象に対する主観的、情緒的な思い入れ、こだわりを強く持ち続け、批判されると感情的に反応する。

(vs男性的性格:対応が冷静、客観的、科学的である。)


(31)「スケールが小さい。高精細である。」

やることのスケールが小さい。小さな精密部品の設計、組み立てのような、微調整や、神経の細やかさが必要な、高精細、高い正確性を要求される事項に、世界で並ぶ者のない強みを発揮する。重箱の隅をつつくような、細かい視点が、大学の入学試験とかで要求され、それに適応した若者を次々と生み出している。小さくか弱い柔らかい「かわいい」、それでいて色気のある「萌える」存在を、アニメやコミック等で次々生み出すのが得意である。天地を駆け巡る壮大なスペクタクル叙事詩を著述するのが苦手であり、俳句のように、小さく凝縮した箱庭のような小さい世界を著述するのを好む。小さい可愛いものは、女性がより好み、生み出すのを得意とする。

(vs男性的性格:スケールが大局的で、細かいところには神経が行き届かず、大雑把になってしまう。)


(32)「高密度、詰め込み、集中を好む。」

高密度、詰め込み、集中を好む。個人のスペースの空きをできるだけ詰めようとする。ゆとりを嫌う。満員電車を当たり前のものと考える。重箱に寿司や料理を詰め込むのを好む。教育で、子供への知識の詰め込みを重視する。東京を中心とする首都圏への一極集中、密集を好む。女性の方が男性に比べて、過密状態をより好むとされている。

(vs男性的性格:低密度で、空間的に余裕、自由がある、空きがあるのを好む。分散、拡散を好む。)


(33)「厳格、正確である。」

厳密、厳格、厳正さを好む。日本の社会、政府や企業は、医薬品の許認可とか、国際基準に比べてやたらと厳しい(厳密、厳格な)検問や検査数値設定を行いがちである。

これは、より安全、安心になるためには、より厳しい審査をしなければならないと考える、ちょっとでもリスクがありそうだとやたらと不安になって、安全、安心を過剰に求める女性の心理が強く働いているためと考えられるのである。あるいは、検査数値設定が甘かったということで、いざリスクが発生した時の責任を取りたくないと思う余り、誤り、落ち度、突っ込みどころ、隙、減点箇所が無いことを過剰に求める、女性的な責任回避の心理がなせるものであると言える。嫁のすることにうるさく、厳しくチェックを入れて嫁を叱る姑と根が同じであり、姑根性と呼べる。

正確さを好む。時間に対して、やたらと正確である。定時性、定刻性を重視する。鉄道が、ラッシュ時でも定時発車が当たり前のことのように行われている。あるいは、首都圏の路線バスが、1秒も狂わない電波時計の導入で、発車が、発車時刻の00秒ジャストに行われるのが普通になっている。もしくは、テレビ放送のニュース番組とか、秒刻みのスケジュールで番組が構成されている。

(vs男性的性格:コンピュータ設計のような論理的な、理屈面での正確さ、厳密さにこだわる。父性的な正確さ、厳密さの指向である。)


(34)「正解、正論、完璧、無難、無傷指向、減点主義である。」

物事には正解がある、完璧、完全な状態があることを最初から自明視する。正解と見なされることのみ行おうとする。正しい、批判されにくい正論を主張する。間違うことを恐れる。完全であること、テストの点数とかで百点満点であることを目指そうとする。自分に傷、瑕疵が付くことを恐れ、嫌がる。人や物事の評価を、百点満点の完璧、無傷な状態から、どの位下方に離れているか、差分があるかで判断しようとする。人や物事の評価を、百点満点からの引き算で行う減点主義である。無難であること、欠点が無いことを重んじる。評価対象に目立った長所があっても、同時に見逃せない欠点、粗があると、直ぐに否定的な評価を下す。完璧な状態に少しでも近づくことを目指し、ひたすら修行する。物事に失敗したり、正解が直ぐに見いだせない状況になると、道に迷ったとして、途端に怖くなって混乱し、それより先には進もうとせず、元来た道をすぐ後戻りしようとする。正解とされる定説を習得すべき前例と見なして、その奥義習得にひたすら励む。ひたすら正しい、安全が保証された道のみを、奥義を求めて極めようとする、自己保身第一の女性的な心理が元になっている。

自分の心や、自分の持ち物に少しでも傷が付くのを恐れる。自分の買ったスマートフォンの液晶とか、傷が付かないように、保護ケース、保護シートとかで、万全、完璧に対策しようとする。マイカーとか、無傷でピカピカに洗い上げ、磨き上げるのを好む。自分に心の傷が付かないように、自分の心に傷を付ける可能性のある他者との交流、対人関係を避け、引きこもりがちになる。自分自身や自分の大切なものを傷つけるという、自らの保身に取ってマイナスとなる行為を嫌う女性的な心理である。

(vs男性的性格:他人の長所を短所よりも積極的に見出し評価し、活用を図ろうとする加点主義である。難点が見つかっても、長所がそれを上回れば採用する。)


(35)「一体行動、一斉行動を好む。管理主義、統制主義である。牽制、長時間拘束を好む。自由行動を許さない。」

集団とかの所属者が、一体となって動くことを要求される。集団内での個人の自由で勝手な行動が許されない。教育とかで、成員の管理、統制、締め付け、縛りを行うのが好きである。個人が自由に行動しようとするのを、自分勝手であると決めつけ、束縛、制限しようとする。あるいは、集団から外れた行動をしたことを個人責任として、行動した本人が助けを求めても、勝手な行動をしたとして冷たく突き放し、助けない。学校とか、団体行動での統率、一斉に揃った行動をするのを好み、みんなでお揃いの制服、バッジを着用するのを好む。役所とかで、相手の行動を自由に許可、禁止できる許認可権限を得たり、行使するのを好む。周囲の他者が思い通り自由に振る舞うのを妬み、他者の振る舞いを規制、牽制、長時間拘束して不自由にしようとしたがる。自由が与えられることを、どう行動すればよいか分からず途方に暮れるとして怖がり、不自由であること、他人に指示されること、他人に行動を合わせることを心の奥底で望んでいる。奴隷根性である。統制されることで集団メンバー間に生まれる一体感を大切にする点、周囲との一体感を重んじる女性的な性格である。

(vs男性的性格:バラバラの個人行動を好む。他人による管理統制を制限する。自由行動を許す。)


(36)「上意下達を好む。従順である。」

上意下達を好む。上位者、下位者間の一体感を重んじる。上位者、下位者間の一体感を損なう、下位者による上位者への言挙げを嫌う。上位者、上官の言うことを、異を唱えずに素直に聞く人間、上官の命令をそのまま誠心誠意、忠実、誠実に守る人間、上官の指示を守って動く人間、上官の意を自主的に汲んで動く人間を好む。上位者に素直に従おう、従順であろうとする。国とかの上位者の決めた規則を忠実に守ろうとする。上位者、下位者間に生まれる一体感を大切にする点、相互の一体感を重んじる女性的な性格である。

(vs男性的性格:反逆、反抗、異を唱えること、自分流を好む。)


(37)「総花式、オールインワン、万能、八方美人を好む。」

総花式を好む。偏りや、特定面でのみ優れているのを好まない。何でも出来る万能さを好む。製品とか、あらゆる面で平均以上に優れているのを好む。製品の機能がオールインワンで、機能が万遍なく入っているのを好む。八方美人で、誰からも好かれるのを好む。医薬品とかの製造、販売で、どんな症状にも効くことを指向して、例えば、相反する働きを持つ制酸剤と消化剤を一緒に混ぜた胃腸薬を製造、販売する。女性が、絵を描く時の色遣いで、特定の色に偏らず、万遍なく使おうとするのと根が一緒である。全てを満たそうとする。何でもこなせるジェネラリストを、役所とかで重んじる。つぶしの効かないスペシャリストを嫌う。

(vs男性的性格:製品とかが特定機能に優れていて、ライバルがいないのを好む。鋭い判断が出来るスペシャリストを好む。)


(38)「突出を回避する。目立たないようにする。標準、普通を指向する。」

ネットとかで、目立ったことをした他者について、すぐその身元を特定し、プライバシーを暴露することに情熱を注ぐ。逆に、自身が外部に目立って危険な目に合いやすくなったり、自身のプライバシーが暴露されたりすることにつながる、あるいは周囲との協調、和合を乱す、突出した目立った行動を取るのを極力控えようとする。普通、標準でいようとする。オタクのように、特殊扱いされるのを嫌い、一般人(一般ピープル)でいようとする。一人だけ目立つのを嫌う。目立ちたい時は、宴会の隠し芸とかで周囲の他人と一緒、同時に目立とうとする。何か一人で行動を起こすと何かと突出して目立ち、叩かれるので、自分からは何も行動を起こさず、無為でいようとする。誰か他の人が勇気を出して行動すると、それに便乗する。突出することで集団から浮くことを恐れる女性的な性格である。

(vs男性的性格:突出しようとする。強烈な個性で目立とうとする。特異性を求める。)


(39)「中心、周辺を区別、差別したがる。皆で中央、中心、都心を指向する。」

(ウェットな液体分子群のように、)中心、中央の概念、中心形成の度合いが強い。中心、中央と周辺、地方との差が大きい。(ドライな気体分子群のような欧米では、バラバラ、散り散りで中心、中央の形成が弱い。中心があまり無い。中心と周辺の差があまり無い。)皆が一カ所に集まろうとする。中心部に集中して存在しようとする。都心が過密状態になりやすい。通勤とかで、皆が都心に集中するオフィスを一斉に目指そうとする。皆で集まった方が、護送船団と同じで保身に有利である、中心に近いほど外部環境露出が少なくて保身に有利であるとする女性的な考え方である。自分が皆の中心に位置して、皆の注目を集めたいと考える。中心、周辺視が強い。中心、中央と周辺とを区別、差別する考えが強い。首都東京と、地方との格差が大きい。都心に住んでいる人とか、自分たちが世界の中心である、自分たちが世界の中心にいて偉い、中心部が偉くて周辺部は劣っているとする中華思想を持ちやすい。日本軍による沖縄戦対応のように、中心、本土を守るために、周辺の人々を捨石扱いする。


女性、母性、ウェットな人、個体、集団は、自分や自国が、より大きなグループ、世界の中心、中枢、中央になろうとする。中枢で周囲から温かく守られると共に、周辺に向けて命令できるのを好む。中心に集中する。中央、中心を目指そうとする。

(vs男性的性格:あまねくグローバルに普遍的に拡散して分布しようとする。男性、父性、ドライな人、個体は、自分や自国の文化や指令の、中心の不定な、普遍、グルーバルな感染、拡張、拡大、広がりを目指す。気体の空気やガスのように、あまねく世界中に広がる、普及する、拡散することを指向する。空気に乗って伝播、伝染するインフルエンザのウィルスと同じ行動を取る。)


(40)「他人の陰口、悪口を好む。他人の欠点探しや粗探し、足を引っ張るのを好む。思考、やり口がネガティブ、マイナス、陰湿、陰険である。」

他人のマイナス面に関心が行き、他人の欠点や失敗、粗探しをひたすら行おうとする。他人に対して駄目出しをすることを好む「駄目出し社会」である。他人が自分の上を行くことに我慢が出来ず、足を引っ張るためのネガティブ要素を探すのに夢中になる。学校や会社で、自分が気に入らない、その場にいない他人の陰口を叩く、悪い噂話を広めるのを好む。そうすることで、当人のマイナス評価を周囲に広め、足を引っ張り、当人に大きなダメージを与えようとする。思考、やり口がネガティブ、マイナス、減点主義である。宴席とかで、その場にいない人の悪口を言い合って盛り上がり、その場に居合わせた一同が、悪口を叩かれた不在者をダシにして一致団結しようとする。一方、当人がその場に居合わせる時は、面と向かっては当たり障りの無いことを言ってごまかしたり、見かけ上褒め合ったり、迎合したりして、裏表が激しい。気に入らない相手を直接攻撃せず、周囲から、からめ手で間接的に足を引っ張る。やり口が陰湿、陰険である。相手の欠点、粗ばかりを探そうとする、減点、マイナス思考の姑根性のような性格である。

(vs男性的性格:他人の長所を見出し積極的に褒めて、勇気づける。ライバルと正々堂々と勝負する。)



(リストアップはここまで)

日本社会と女社会の相関、類似性は、日本的パーソナリティと女性的パーソナリティが、資料文書編における説明のように、双方共通して液体分子運動パターンに当てはまっていることに示されている。

この液体分子運動パターン(リキッドタイプ)で、従来日本的とされてきた社会の特徴の大半を説明可能である。

女性(リキッド、液体的な行動原理で行動するジェンダー)が支配する日本社会の中で生活するのは、液体の中、言うなれば水中に潜って生活しているのと同じである。息が出来ない窒息感が著しい。

日本の人々がこうした行動を取る背景として、日本の人々が自分の保身に敏感であることがあげられる。

生物学的に貴重な性である女性の取りがちな行動は、根源的には、安全第一、危険回避、失敗が怖い、不安が強いという点に尽きる。

女性は、言わば、生ける宝石のような、貴重品として、護衛(の男性)に守られる形で、自分の保身を最優先にして行動するのである。

女性の持つ「貴重な、守られる性」としての性格についての説明は、著者の他著作を参照されたい。

こうした、生物学的に貴重な性=女性的行動が、社会全体に及んでいるのが、日本社会の特徴である。つまり日本人は、自分の保身に不安で敏感であり、安全第一、危険・失敗の回避を最優先にして行動する点、女性的である。自らは危ない橋を渡らず、ベンチャーとか冒険を嫌がる。日本の銀行のベンチャー企業への貸し渋りがこの典型である。

上記リストの各内容が、貴重な性としての女性に支持されるのは、みんな一緒に、集団でいれば、孤立して、他者の助けが得られなくなる、という事態から逃れることができて安全だからである。集団、護送船団を作って相互牽制し合う方が、ひとりぼっちの孤立無援状態になりにくい。生物学的に貴重な性として、安全な群れの中心部にとどまる女性に向いている。

上記リストの各内容は、何らかの形で、女性の持つ、自分の身を守ろう、安全第一で、危険を回避しよう、誰かに保護してもらおう、不安を回避しようとする自己保身傾向に合致している。

以上で見てきたように、日本社会は、女性に都合よくできている、女性的価値観で動く社会であると言える。日本は、母親の力の強い母性、母権社会であり、欧米は、父親の力の強い父性、父権社会である、と見ることもできる。

日本と欧米とで権力者の行動様式が違うのも、日本で主流を占める女性の権力行使パターン(ボスとしてのあり方)が、欧米で主流を占める男性のそれと違うからではないだろうか?

日本では、

権力の行使のあり方が、

(1)集団主義的である。同調・同質性の確保を優先する

(2)人格そのものを重視する(上位者に可愛がられることが重要。上位者への甘え・なつきを重視する。)

(3)(流行への)同調競争に勝ち得た者が、上位へと昇進する

(4)前例を多く蓄えた年長者が威張る

(5)上位者への権威主義的な服従を好む

(6)一人の犯した失敗も周囲との連帯責任とする

というように、ウェットであり、女性的である。

なぜ、日本社会が女性的性格を持つに至ったか?それは、日本が典型的な稲作農耕社会であることと関係する。

稲作農耕社会を構築する過程で、集団による田植え・刈り取りなどの一斉行動、一カ所への定住・定着、農業水利面での周囲他者との緊密な相互依存関係の樹立、集約的農業による高密度人口分布、といったウェット、液体分子な行動様式が求められた。

ドライ・ウェット、気体的・液体的な行動様式についての説明は、著者の他著作を参照されたい。

ウェット、液体的な行動様式を生まれながらにして身につけているのは女性であり(男性が生得的に身につけているのは、個人主義、自由主義といったドライ、気体的な行動様式)、社会のウェット化、液体化には、女性の力が強く求められた。

女性の強い影響下で社会のウェット化、液体化を推し進めた結果、その副作用として、自己保身や安全第一といった女性的な行動様式が、男性にも強く感染して男性の「女性化」を引き起こした。このようにして、女性的行動様式が日本社会全体を包み込むような形で、支配的になり、「日本=女性的性格を持つ社会」という構図が成立した。

日本社会全体、ないし国全体を1人の人格として擬人化して捉えるならば、それは1人の女性、女の子として捉えることができると考えられる。国全体としての意思決定や外交交渉のあり方などにおいて、

(1)自ら明確な意思決定をせず、あいまいな態度を取り続け、決定をずるずる先送りする

(2)自分からは行動を起こさず、受動的、退嬰的である

(3)その時々の雰囲気に流されて、周囲のメジャーな流れに追従する

(4)ヒステリーを起こす(太平洋戦争などで、思わずカーッとなって、残虐行為を繰り返すなど)

(5)意思決定のあり方が情緒的で、非合理・非科学的、精神主義的である(根性論を振り回すなど)

(6)身内だけで固まり、外国人や難民などのヨソ者に対して門戸を閉ざす(閉鎖的、排他的)

(7)周囲の国々に自分がどう思われているか、やたらと気にする、八方美人的態度を取る

(8)先進国に追いつき追い越せというように、自らは先頭に立たず、二番手として絶えず先進諸国を後追いする

(9)アメリカなどの外圧がかかって、初めて重い腰をあげる(外圧がないと、動かない)

(10)長期的視点を持たず、目先の短期的な動向に関心が行って、場当たり的な対応に終始する

など、日本の国ないし社会全体が、ウェットな女性的人格をもって行動していると言える。 日本の国家・社会は、「女社会」「女流社会」「女性優位社会」、「大和撫子国家、社会」と呼べる。

(これに対して、欧米各国は、男性として捉えることができると考えられる。)

日本では男性も、女性の色に染まっている。日本の男性は、自分の保身に敏感であり、親分子分関係や浪花節といった、ベタベタ・ジメジメしたウェットな人間関係を好む、女性的な中身を持っている。さらに、それに加えて、女性を守る役割を取らせるため、女性によって植えつけられた、表面上の専制君主的な「強さ」「強がり」とが、一緒に同居していると考えられる。

以上をまとめると、日本社会は女性的な性格が強く、女性のペースで動く社会であり、「(日本的)ムラ社会=女社会」と捉えることが可能である。

(初出2000年07月~)


日本の教育システムの女性性

日本の教育システムのあり方は、総じてウェットであり、その点、女性的であると言える。

以下に、どのような点がウェット、女性的と言えるか例示してみたい。

1.日本における受験勉強とウェットさ、女性性

日本における受験勉強は、

(1)前例となる知識をひたすら要領よく詰め込む暗記型である。その点、前例指向的であり、ウェットである。独自の創造性を伸ばすチャンスがない。未知の分野へと、思考を拡大する機会を制限する。未知の領域は、何があるか(起きるか)分からず、怖いから、避けたいとする女性的な心理の現れである。

(2)問題を解くために、重箱の隅をつつくような細かい知識暗記を求められる。木目の粗い暗記しかできない男性よりも、細かい暗記のできる女性に適している。

(3)現役合格偏重である。試験における失敗(不合格)を許さない点、失敗を怖がる女性的な感じがする。

(4)学校に入るのが大変である。学校組織の持つ、外部から入ろうとする者に対する表面張力、すなわち、閉鎖性が大きい。

これは、学校組織が、内部での一体・同質性を重んじ、外部に対して門戸を閉ざす母性的な性質を持つことを意味する。

(5)学校名による選抜が主流である。

どの学校集団に所属するかが大事である。 受験合格学校名で、その人となりを判断する。

個人の属性ではなく、所属集団がどこであるかで、人となりを見る。その点、集団主義的であり、ウェットである。何かに付けて団体行動を好む、女性的な匂いがする。

(6)相対評価、偏差値を重視する。

集団の中の自分の位置を絶えず確かめようとする。他者との成績比較が根本にある。そこには、他人の目・恥の感覚がつきまとう。成績面で他者との牽制し合いをすることが標準であり、その点ウェットである。

2.日本の学校とウェットさ、女性性

教科書、制服など、みんなと一緒に揃えることが好まれる。画一・同質・悪平等指向が強い。これらはいずれも、ウェットであり、互いの一体感・同質性を好む女性向けである。

校則など、生徒を細かく束縛することが好きである。自由主義に反し、ウェットである。

以上の1.2.において、ウェットとされた、集団主義、閉鎖性、前例指向などは、男性/女性のどちらの性格に近いかとアンケート調査で問うたところ、いずれも、女性らしい、女々しいとされる結果が出ている。

3.日本の学問風土

日本の学界は、学説面での欧米模倣と、独創性の欠如、権威主義の横行、流行へ同調する事への敏感さ、師弟間の家族的な上下関係といったキーワードにより特徴づけられる。

こうした特徴を生む根本原因は、自ら冒険をしようとしない、前例のない危ないことをしない、未踏分野に進んで足を踏み入れようとしない安全・保身への指向にあると考えられ、ことごとく女性的な(女性由来の)価値に基づくものである。

彼ら学者は、欧米学者が既に足を踏み入れた開拓地を、自分たちも欧米学者の後を追う形であわてて巡って、それで知的冒険をした気になっている。こういうのは、正確には知的探検などとは呼べない。

4.日本における学業の最終目的

日本では、学校での勉強が、知的好奇心を充足させるとか、社会の生活水準を向上させるのに役立つ知識を得るといった、本来の目的から逸脱して、中央官庁や大企業に将来就職する人員をふるいにかけて選別するための手段となってしまっている。

こうした日本の受験競争のもたらす教育上の歪みの根本的な原因は、最終的には新規学卒一括採用の際しか外部に対して採用の門戸を開こうとしない、中途で所属する社会集団を変更することを許さない、日本の中央官庁や大企業といった社会集団の持つ閉鎖性、純血指向性、純粋培養性にあると考えられる。学生は事実上一生に一回しか、こうした社会的に大きな影響力を持つ組織に入れるチャンスがないので、そこでうまく希望の組織に入ることができるように、学歴や、学閥のようなコネの獲得に躍起となるのである。

日本の大規模な社会集団における、こうしたヨソ者を中へ入れようとしない閉鎖性がなぜ出てくるかと言えば、ヨソ者を自分たちとは異なる未知のしきたりに染まっている者だとして毛嫌いし、気心の知れた安全な身内だけで身辺を固めようとする安全・保身への指向が強いからと考えられ、これは、自己の保全を最優先する女性的な(女性由来の)価値に基づくと言える。

(初出200007月~)


日本の学校教育と女性的、母性的行動様式


日本の学校教育、例えば小学校の運動会とかは、日本の子供に、稲作農耕のムラ社会に適した、ウェットな女性的、母性的行動様式を刷り込む場となっている。

それは、クラス、班や部活といった、どこかに所属して活動するという(集団)所属行動の重視であり、所属集団への強い一体感の生成、所属集団成員への思いやり、気配り、所属集団への自発的な献身、所属集団を進んで引っ張るリーダーシップの養成である。

その根底として、所属集団から外れたら、あるいは外に追い出されたら大変、自分は生きていけないという感覚を生徒に植え付けるのである。

小学校とかで、そうした女性的行動様式を子供に指導し、子供の基本的人格部分を女性的なものへと決定づける上で、女性教員の果たす役割が大きいと言える。

(初出2012年06月)


性別分業と男性社会、女性社会

世界的に著名な組織国際比較の著書(G.Hofstedeとかの)では、社会の性別分業の度合いの高さが、その社会が男性社会か、女性社会かの指標となると考えられており、性別分業の度合いが高いと男性社会、低いと女性社会という見解になっているようである。そして、性別分業の度合いが高い日本社会は、男らしい社会の筆頭に上げられているようである。

しかし、これは正しいのだろうか?

性別分業の度合いが高いとは、男性が働いて稼ぎ、女性は外で働かずに家事や育児に専念する度合いが強いことであり、そうした社会は、女性側からは「あなた稼ぐ人、私使う人」の社会であると思われる。

恐らく、そうした性別分業が、女性が強くなるとなくなるという見解は、欧米のように家庭において女性の権限が弱く、例えば家の財布を管理する権限が、男性(夫)側が占めていて、女性(妻)が月々決まった小額を男性(夫)からもらって家事をこなす社会にのみ当てはまるのではないだろうか。そうした家計管理とかの家庭内権限が、女性が弱い場合、家庭は女性にとって居心地がよい場所だとはとても言えず、少しでも自分の経済的自由を得るために、家庭の外に出て働こうとし、それが、性別分業がなくなる方向につながっているのだと言える。

一方、日本のように家庭における女性の権限が強く、例えば家の財布を管理する権限が女性(妻)側が占めていて、女性(妻)が月々決まった小額を男性(夫)に渡す社会では、家庭は女性にとって居心地がよい場所であり、「あなた稼ぐ人、私使う人」を地で行く、女性が好きなように家のお金を使い放題、使い道を決め放題の経済的自由を謳歌できる場所である。そのため、自分の経済的自由を得るために、自分からわざわざ外に働きに行く必要がなく、いつまでも実質的な家庭の奥まった主である専業主婦の「奥さん」でいたいと思う訳である。

そこで、日本では、夫の稼ぎがよほど悪くて妻も働きに出る必要がない限り、妻は外に出て働こうとせず、それが性別分業が温存される方向につながっているのだと言える。

この日本の場合、性別分業が強いことは、男性の強さとはほとんど関係なく、むしろ、女性の強さと関係があるように思われ、性別分業が強いことは、むしろ女性社会の現われであるように思われる。

したがって、性別分業が強い社会は男性社会だとする説は、日本社会を見る限りは誤りだと言えるのではないだろうか。

(初出200807)


日本における男性差別の根源

日本の男性は、女性によって女性的な生き方、考え方を取ることを強制されており、そのことが日本社会における男性差別の根源となっている。

すなわち、伝統的な日本のムラ社会では、男性は、以下のような女性中心の生き方を強制されるのである。

・和合、調和の偏重(男性的な、集団の和を乱す強い自己主張は受け入れられない)、

・護送船団のように集団で固まって安全、保身第一で行動する生き方の偏重(男性が本来好む、チャレンジ、冒険は、危険とみなされ、受け入れられない)

・閉鎖的な仲良し集団を形成し、よそ者を排除する生き方の偏重(集団内部の人間にコネが無いと、外部からの直接談判が叶わない)

・どこかの集団に正規に所属していないと、人間扱いされない生き方の偏重(フリーを嫌う)

・親密で、プライバシーをさらけ出す人間関係の偏重(そのままでは他人のプライバシーを覗き放題で、自他をきちんと隔てるプライバシーが存在しない)

・相互の一体化、情緒的、感情的結合の偏重(男性のように、相互に距離を取って、冷静、客観的、科学的に物を考えるのを本質的に嫌う)

伝統的な日本のムラ社会は、実質的に女社会であり、その中で生きる男性たちは、自分が本来持っているはずの男性性を殺して、女の道に一方的に合わせて行かなければならない。その点、伝統的な日本社会は、本質的に男性差別、男性抹殺の社会であると言える。男性の人権が抑圧されているのである。

この延長で、家庭において、女性が家計の財布の紐を握り、本来給料を稼いでいるはずの男性が経済的に女性に従属する(頭を下げて小遣いをもらう)、あるいは、男性が自分の子どもから女性によって引き離される事態が起きていると言える。

これらは、日本のみならず、中国や韓国、東南アジアといった他の稲作農耕民族の男性が共通に抱えている課題であるとも言える。

こうした現状を打破するには、日本の男性に、欧米、アラブ、モンゴル系の遊牧、牧畜民の持つ自由で、客観的、科学的的な思考を導入する必要がある。もっとも、これも行き過ぎると、今度は、女性の人権が抑圧されてしまうのであるが。

これとは別に、女性の方が生物学的に貴重であるために、女性の生存が男性の生存より優先されるというのが、日本における、もう一つの男性差別の根源である。

すなわち、女性の生存を優先するため、男性自身がより危険な目に会ったり、余計なコストを払ったりするという側面である。

具体的には、例えば、以下のことが当然と見なされている。

・道路で、男性が、より自動車にぶつかりやすい車道側を歩き、女性が内側を歩くこと(生命的負担)。

・男性が、女性の荷物を持つこと(身体的、運動的負担)。

・食事や生活費を、男性が、女性の分も負担すること(経済的負担)。

・より心理的に負担のかかる異性の勧誘やプロポーズを、男性の側から行うこと(心理的負担)。

・より責任の重大な社会的地位、役割(代表、リーダー役)を男性が負担すること(社会的負担)。

その他、レストランの食事メニューで女性のみが優遇されるレディースデーがあったり、ラッシュ時に女性だけが楽ができる女性専用車両があったりというのがこれに当たる。要するに苦しく辛いことを男性が引き受け、女性は楽をするのが当然だという考え方が広く行き渡っているのである。

上記のような様々な要因を合わせて、本質的に日本の女性は上から目線で、男性に接しやすくなっており、容易に男性差別が生じる状態となっている。これをいくらかでも緩和するために、日本においては、かつては男尊女卑の考え方があったのであるが、フェミニズムの台頭により口にすることもはばかられるようになってしまった。また、男尊女卑は、表面的に男性は立てられ優先されるようになるものの、男性が女流の生き方を強制される男性差別それ自体の根本的な解決にならないと考えられる。

(初出201012月)


日本社会と女社会

日本社会を知るには、女性や女社会を知らないといけない。日本社会を支配するのが女性(母)だからだ。

しかるに、従来、女社会の内実は、ほとんど社会学の研究対象となって来なかった。

その理由として、女性たちが、女社会のドロドロ、ベタベタ、ネチネチ、ジメジメした、陰湿な雰囲気の悪い内情がばれると困るので、わざと隠してきたというのがあるのではないだろうか。

これは、きれい事の大好きな女性にありがちな行き方がもたらした結果であると言える。日本社会を男社会だと必死に主張して、女社会であることへの言及を避けてきた女性学者たちの深層心理、本音も案外そんなところにあると考えられる。

(初出20107月)


日本のデフォルト・ジェンダー、スタンダード・ジェンダー

日本社会では、暗黙の了解として、男女のどちらが、日本を代表するジェンダーとして選択されるか?あるいは、日本社会の標準、基準となるジェンダーは、男女のどちらか?

これについては、日本社会の基盤をなす、稲作農耕により適合した女性が選択されると考えられる。日本が、お母さんの力が強い母性、母権社会であり、日本人の国民性が女性的であることが、その根拠となる。日本は、女性として表されるのが、より適切である。

(初出20122月)

日本女性の権力、支配力の源泉と、「女の空気」

日本社会で、女性が強いのは、日本で必要とされる社会的性格に、心理的、社会的性差における女性的性格が合致しているためである。

すなわち、稲作農耕が要求するところの伝統的な日本ムラ社会の社会的性格が、女性の性格と合致しており、社会的雰囲気において「女の空気」を要求するものとなっているため、男性はその中では呼吸がしにくくて力を発揮できず、一方、女性は、水を得た魚のように、自分に合った空気を思う存分呼吸して、社会の中で活躍できるからである。

(初出20122月)


ブラックホール=女社会の解明が必要

女社会は、ブラックホールとして捉えられる。

自分たちからは、何も外に出さない。

受け身、退嬰、閉鎖的で、受信一方である。

周囲の眼を気にして、恥ずかしがって、なかなか内情を漏らさない。

内情を漏らすと、仲間から非難されて、仲間はずれにされてしまうので漏らせない。

それ故、女社会は、中々内情が分からず、解明が遅れている。

その間に、より開放的で、発信的で、内情が分かりやすい男社会が、社会一般を解析する上での標準的な基準になってしまっており、女社会は、そこから外されてしまっている。

それ故、日本社会が、女社会とあり方が似ており(液体分子的でウェット)、同じように、受信一方で発信の無いブラックホールとして捉えられること自体、ほとんど気づかれていない。

日本社会と女社会とが同質であることは、日本社会が広く女性の強大な影響下にあり、女性が支配していることを示すものであるが、そのこと自体、気づかれていない。

社会学者は、もっと女社会の解明に力を入れるべきだ。

(初出20107月)


日本社会の解明と、女社会スパイの必要性

日本社会を理解するには、ジメジメ、ドロドロ、ベタベタした女社会の内実を明らかにすることが早道である。日本社会と女社会とは、根本的なところで相似だからである。

ただし、女性たちは、きれいごと、表面的な一致結束のデモンストレーションが大好きで、そのままでは、女社会の陰湿な内実を決して見せようとはしないため、なかなか女社会の真実が分かりにくくなっている。

そこで必要なのが、女性内通者というか、女社会の内偵者、スパイである。

ある程度、男社会と女社会との違いが分かる、男社会、女社会共に客観視できる公平な視点を持った男性社会学者が、女社会内偵者に対して、こっそり女社会の実情をインタビュー等で聞き出してまとめるのが、女社会の内情を解明する一番の早道である。

(初出20113月)


日本社会と女社会の特徴例

女社会は、男社会に比べて、解明されていない。

なぜ、解明されないのかと言えば、女社会を構成する当事者の女性たちにとって、解明されると都合が悪いからであろう。臭いものには蓋をするというか、女社会そのものに化粧を施して、すっぴんのドロドロ、ジメジメ、ベタベタした中身が、(特に男性に対して)見えないように必死になっているのが現状であろう。

以下に、そのままでは見えにくい女社会の分かりやすい特徴を、いくつか上げてみようと思う。これら女社会の特徴は、そのまま日本社会の特徴になっており、日本が女社会であることの証拠であるとも言える。

(1)日本社会においては、会社において、正社員の入社が原則として新規一括採用に限られ、最初に入った会社に永続的に所属することを暗黙のうちに求められる。これは、従来、終身雇用という呼び方で捉えられてきたが、雇用だと、会社の業績が悪くなると、本来の建前を崩して首にせざるを得ないので、永続性の観点からは、むしろ先ほど述べたような終身所属という言い方のほうが、本来の会社の建前に適っていると言える。

前の今までいた集団に永続的に所属したままで、次の新しい集団に別途加入するためのお墨付きを得る行為が、「卒業」である。

これと同様に、女子高生とかの女社会においては、学年とかの初年度に最初に生成したグループ、仲間集団がそのまま外部に対して閉鎖した排他的な形で永続化する傾向が強い。最初に生成したグループから外れたり、どこにも入れて貰えないと、そのままずっと孤立無援の状態が続く。

これは、(一度加入した同一集団への)終身所属として捉えられる。

(2)日本の国、県、市町村レベルで頻繁に見られる現象として、原発事故で出た放射能の影響を判定したり、住民避難を優先させたりするための基準を作るのに、県や市町村レベルで独自に判断、決定しようとせずに、国に判断を預けてしまう姿勢が頻繁に見られた。国は、更にアメリカに判断を参考として求めるのも見られるようである。

それと同様に、学校や職場での女社会においては、個人レベルで判断しないで、先輩とか上位者の判断が無いと動けない、上位者から指示されないと動こうとしない傾向がある。上位者に対して助言とかはするが、判断はあくまで上位者で、自分たちはその指示をひたすら待つという、指示待ちが広範に見られる。

(3)戦前の日本で頻繁に見られた現象として、官尊民卑の風潮が根強く、中央官庁、お上の言うことは絶対で、少しでも反抗の姿勢を見せると容赦なく投獄された。今も、表面的には、欧米流の民主主義が信奉されているが、実際は、地方とかに行くと、公共事業の選定とかで、この「お上絶対主義」が幅を効かせている感じである。

これと同様に、学校や職場とかでの女社会においては、先輩とか、先生とか、上位者の決めた決まりとかを、無条件で守るのが当たり前で、疑問を差し挟むことさえはばかられれる風潮がある。一見、従順で良い子のように見えるが、その実態は、自分のレベルで責任を負いたくない、上位者に責任を被せたい、無責任、自己保身の態度である。また、後輩のような下位者の反抗は、心理的に体面を潰されるので一切受け入れられないという高いプライドのなせる技でもある。

(4)日本社会においては、年功序列という呼び名ですっかり定着している。前例を保持する年長者が常に偉くて、威張っており、若年者がペコペコ従うという保守的な構図が頻繁に見られる。

これと同様に、家庭の嫁姑、学校や職場の女社会においては、すでにある過去の前例や伝統を何かにつけて、「おばあちゃんの知恵」みたいな感じで持ちだして、先輩が後輩に押し付け、その通りにしないと怒り出したり、否定しようとする、あるいは、後輩による目新しい試みを否定することが当たり前のように行われている。

(5)日本の教育制度では、テストとかで100点満点が強く指向され、欠点、傷の無い完璧を目指す完璧主義、無傷主義、無難主義が横行している。これは、官庁とかに見られる事なかれ主義と強く結びついている。プラスの長所を積極的に見つけ出そうとせず、退嬰的な態度に終始するのである。

これと同様に、嫁姑とかの女社会においては、何かと相手のマイナス点をあら捜しして、減点主義で、見つけた欠点について陰口を叩いて、足を引っ張ることが頻繁に起こる。

(6)日本のインターネット掲示板とかで頻繁に見られる現象として、他人に自分のことが晒されるのを避けるために、極力、匿名であろうとして、匿名掲示板を利用したり、実名を名乗らずにハンドルネームをSNSで使用したりする。一方、そうした匿名掲示板では、他人のプライバシーを興味本位で晒す行為が頻繁に見られるのである。

これと同様に、女社会においては、例えば女性週刊誌に見られるように、他人に自分のことを晒されるのを嫌がると共に、他人のプライバシーを好奇心丸出しで、噂話の形で暴く、晒すのを好む傾向が見られる。

(7)日本の会社とかで頻繁に見られることとして、誰かが世間を騒がせると、当人だけでなく、当人の所属する会社や官庁の上司とかにまで、監督不行届として責任が及ぶことが頻発である。

日本は、1人の行動が周囲の関係者に影響しやすく、連帯責任になりやすい「連鎖型社会」であるといえる。一方、1人の行動が周囲と切れていて、連帯責任になりにくいのが「独立型社会」であり、欧米とかがそうであると言える。

同様に、学校、職場の女社会においては、何か騒動を起こすと、当人だけでなく、当人と関わり合いのある周囲の縁者にまで責任が及ぶ連鎖制、連座制、連帯責任の傾向が見られる。

このように、日本社会の特徴は、女社会の特徴そのままであることが多く、日本社会が女社会であることの証拠になっているといえる。こうした現状は、男性解放のために打破しないといけない。

例えば、江戸時代の大奥とか女性メインの職場の社会的雰囲気、慣行や、現代日本における女子校や生命保険外交員みたいな女性主体の学校、職場の社会的雰囲気、慣行のあり方を、従来日本人の国民性と比較、検討することにより、それらが共通、同一の、自己保身、安全第一指向から来る退嬰的で、事なかれ的、護送船団で対内和合重視な女性的な行動様式をルーツとしていることが判明するのではないかと思われ、今後の研究課題として捉えることができる。

(初出201110月)


女社会、男社会と女流、男流

同じ男社会と言っても、日本と欧米とでは、性質が違うと考えられる。

日本の男性は、母性の影響が強いため、女流の男社会になっていると言える。

一方、欧米の男性は、父性の影響が強いため、男流の男社会になっていると言える。

同じ女社会と言っても、日本と欧米とでは、性質が違うと考えられる。

日本の女性は、母性の影響が強いため、女流の女社会になっていると言える。

一方、欧米の女性は、父性の影響が強いため、男流の女社会になっていると言える。

男社会、女社会、いずれにおいても、男流、女流の区別が必要である。

女流の女社会、男流の男社会が一番優れているのであり、女流の女社会を形成している日本女性は、一番優れている。日本女性は、(良い意味でも悪い意味でも)「真に女らしい女性」「女性的女性」(ないし、母性的女性)なのである。日本のフェミニストや女性学者が女権拡張の手本にしているはずの欧米女性は、男性化した女性、「男性的女性」(ないし、父性的女性)であり、劣った存在である。

一方、女流の男社会しか形成できない、女性化した男性、「女性的男性」(母性的男性)である日本の男性は劣っている。優れている、真に男らしい男性、「男性的男性」は、父性が確立されている、男流の男社会を形成している欧米やアラブ、モンゴル等遊牧、牧畜民の男性(父性的男性)である。

(初出20107月)


日本の男社会は実質女社会

日本の男社会は、実質女社会である。

日本の男性は、母親の強い影響で、女並みに、ウェットできめ細かく、陰湿になっている。

例えば、同僚の昇進とかで、嫉妬心が強く、同僚の足を陰湿な手段ですぐ引っ張ろうとする。要するに、自分は自分、他人は他人と切り分けることができないのである。

父性の強い欧米社会において、自分は自分、他人は他人と冷淡に切り分けて、殺伐、ドライな雰囲気に満ちるのとは対照的である。

(初出201110月)


女脳の日本人

日本人の行動様式が、集団主義、退嬰的等、女性的なものになっていることは、その根底の日本人の脳の仕組み、構成が女性的になっていることの表れであると言える。

遺伝的側面としては、長いこと稲作農耕民族として女性、母性優位で生きてきた結果、日本人の脳が、女性的な脳構成へと遺伝的に淘汰されてきたことが考えられる。

後天的、文化的側面としては、脳のニューロン回路や、脳内伝達物質のあり方の構成が、学習により女性的に構成されているということが考えられる。子供の教育の権限を母親が独占したり、人格形成期の幼稚園、小学校における教育を女性教師が独占する結果、子供の脳が女性的に形成されているということが考えられる。

(初出20107月)



日本人の欧米指向は女性的


日本人の欧米指向は、最先端のものを身につけて、良い格好をしたい、格好を付けたいというものであり、見栄の一種であり、周囲の他人の視線を前提とした女性的な考え方であると言える。

(初出2014年4月)



方向感と性差、社会差

進行方向に方向感のある人が、気体分子的な男性、欧米人である。

一方、方向感のない人が、液体分子的な女性、日本人である。

それは、例えば地図が読めないといった点に現れてくる。

なぜ、女性、日本人に方向感が欠けるかと言えば、周囲の近場の他者と行動を合わせること自体に注意が集中して、自分たちがどこに進んでいるか気づかないというか、どうしても注意が疎かになるからである。

(初出20107月)


高関心社会と低関心社会

世界の社会は、他人が何をしているか、他人のプライバシーが気になって仕方がない社会である高関心社会と、他人に無関心な低関心社会、無関心社会に分かれる。

日本社会や女社会は、高関心社会であり、欧米社会や男社会は、それと比べると相対的に低関心社会であると言える。

日本人や女性は、他人に関心が強く、覗きや他人のうわさ話、当局、上位者への知人の内情通報が好きである。

あるいは、他人の個人情報を流出させることが好きであり、他人の内情に絶えず探りを入れている。他人の内情を暴露することが好きである。

他人(のプライバシー)に関心がありすぎる人たちの集まりが、日本社会、女社会である。

(初出20107月)


比較好き、相対評価好き

女性や日本人は、何でも周囲の他の人と比べようとする、比較好き、相対評価好きである。

学校での成績評価が偏差値でなされるところとか、会社での成果主義ベースの評価が相対評価であるところとか、その典型である。

(初出20107月)


信号文化(暗示的主張文化)、受け取り文化、他力本願文化

女性は、信号を出して、誰かが気づいてくれるのを待つ、信号文化ないし待ち文化の持ち主である。

自分からは明示的に言わず、主張せず、誰かに気づいて欲しいと考えるのである。

これは奥ゆかしい態度だが、気づかれないと、そのままでは放置になってしまう危険性がある。

自分では手を付けず、誰かに察してもらい、何かやってもらおう(させよう)とし、その成果をひたすら受け取ろうとする、受け取り文化の持ち主である。

これは、日本社会にも当てはまる。

例えば、中国人民元に対して円高なため、貧乏になって、巨額の財政赤字を抱える、といった困った問題が発生したとき、自力で最後まで解決しようとせず、誰か他の人(アメリカとか)にやってもらおう、助けてもらおうとする、他力本願が、女性~日本人の特徴である。

また、困った問題が発生したことをアピールしたいときに、自分からは明示的に主張せず、信号、サインを出して、気づいてもらおうとする。気づいて貰えないと、相手を鈍感だと感じて不機嫌になって、怒り出してしまう。こうした暗示的主張が、女性~日本人の特徴である。

(初出20107月)


日本人の依存体質、単独行動不可能性と迷惑意識の強さ、「一億総出家」状況について

女性や日本人は、とかく誰かに頼ろうとする依存、寄生体質を持っている。

男性や欧米人は、自分のことは自分で助けるしかないと考える、独立、自立、自助体質を持っている。

女性や日本人は、このように周囲の他者に依存することで、周囲に迷惑をかけながら生きていると感じ、そのことを気にして、周囲にできるだけ迷惑をかけないように、関係を切って閉じこもろう、引きこもろう、出家しようとする性質を持つ。

これが、現代日本で、人と人との結びつきが切れた「無縁社会」と呼ばれる現象につながっていると言える。言い換えれば、皆が出家して、社会との縁を切った「一億総出家」みたいな状況が出現しているのである。

こうした女性や日本人にみられる迷惑意識は、液体中の各分子同様に、自分一人の行動が周囲にどうしても影響を与えてしまう、いわば単独行動が不可能なために起きるとも言える。

一方、男性や欧米人は、周囲に迷惑をかけずに自分だけで生きているという意識を持っていると考えられる。それは、気体分子同様に、自分一人の行動が、強く自己主張しない限りは、そのままでは周囲に影響を与えず、単独行動可能なためである。

要するに、「単独行動可能性」の大小が、迷惑意識の強弱と逆相関すると言える。

(初出20107月)


日本人の責任回避、転嫁と女性

女性は、自分が責任を取らなくて済むように行動する。あるいは、自分で判断しなくて済むように行動する。

そのため、女性は、より責任を取ってくれる人、判断してくれる人(あるいは集団、組織)を、自分の周囲に求めたがる。

そして、責任を取ってくれる人を上位者とおだてて、その言う事をひたすら聞く、隷従する。そこに、上意下達社会が出現するのである。

なぜ隷従するかと言えば、自分自身が、責任を取ってくれるはずの人が言う事から外れたことをすると、責任を取ってくれるはずの人へと責任転嫁できず、自己責任になってしまうからである。

結局、上位者への隷従のように一見見える現象も、実は隷従する本人が、自己保身、安全確保、リスク回避をしたいがために、上位者をダシに使っているのである。

日本社会では、こうした女性の力が強いため、権力者、あるいは会社や官庁のような上位集団、組織への隷従が起きやすい、と言える。

この場合、同時に、上位者も保身の権化になりやすく、責任の下位者へのなすりつけ、とかげの尻尾切りを好むのである。

その結果、誰も責任を取りたくない無責任社会が生じるのである。

(初出20115月)


アジア的停滞の原因、アジア的生産様式の担い手、東洋的専制主義の原因は、女性、母性にあり

日本や中国、韓国、ベトナム、フィリピンといった東アジア諸国では、女性や母親が、家計管理の財布の紐を握り、子供の教育を独占して、子供に女性的な思考、物の考え方を注入し、国民性が女性化している。


こうした女性的な東アジア諸国では、考えが女性的であり、リスクを取らずに、闇には入らずに、光の当たっているところで安全なことばかりしようとして、西欧や北米、ユダヤ諸国のように、未知の闇の中から新しい考えを生み出すことが無く、その新しい考えの導入、後からコピーに終始しており、それが、新しい知見への接触の遅れにつながり、「アジア的停滞」を招いていると言える。言わば、女性が「アジア的停滞」の原因となっている。


アジア的生産様式は、「稲の生産様式」といえる。東アジアで女性が強くなれたのは、K.A.Wittfogelの言うところの大規模灌漑で農耕を行う「水力社会」であることが大きい。大規模灌漑は稲作農耕にとって不可欠であり、灌漑は、集落間の緊密な一体協調による共同作業を必要とし、また先祖代々定住するため、住民間で意見が割れるとまずい。そのため、相互一体感の重視、仲良し、和合の重視といった、女性的な心理が、そうした作業に携わる人々を支配するのである。その結果、東アジアの国民の心理、国民性は女性化したのである。稲の生産が、社会を女性化するのである。


東アジアは東洋的専制主義であるということが言われてきたが、それが全体主義的に見えるのは、下の者による上の者への甘えや懐き、わがまま、素直な従い、あるいは逆に上の者による下の者への可愛がりみたいな女性的心理が、彼らの中に同時に存在し、それが、上下関係を和合、一体化に満ちたものにして、社会全体に強力なウェットな一体感、全体感を与えるからである。


異論を許さない独裁的な専制主義に見えるのは、トップが強力だからという訳では特に無く、成員が互いに周囲と仲良く、和合しないと行けないと考えて、周囲への気配り優先で、なかなか異論を唱える訴訟をしなかったり、自分から何かを起こしてその結果責任を取ることのリスクを考えて、とりあえず上の言っていることに従っていれば良いや(責任は上の人に取ってもらおう)という事なかれ主義による従順が充満しているからである。皆、自分の保身、安全確保が最優先で、危ない橋を渡ろうとしないのであり、リスクを追わない女性的態度が、独裁的な専制主義と関係がある。その点、東アジア諸国の専制主義は、女性的専制と言える。


M.Weberは、中国のような東アジア諸国を家父長制と捉えたが、確かに表面的には男性が威張っているものの、男性は生育過程で、子供の教育を独占する母親から女性的な相互一体感の重視、リスク回避・・・の考えを心の中に強力に注入され、父性を失い母性化して、母性の色(赤色)に真っ赤に染まった「赤色の兵士」と化して活躍している。なので、東アジア諸国を家父長制と捉えるのは表面的で思慮が足りない結論付けと言え、実際には東アジア諸国は、男性に父性が欠如する母権社会と言えるのである。

(初出2013年12月)



日本人の守られ願望

日本人は、外部に守って欲しい、もらいたい、「守られ願望」を強く持っていると言える。

やたらと日米同盟を重んじるのも、根底にアメリカに守って欲しいという気持ちがあることの表れである。

いわしの群れみたいな護送船団を好むこと自体、個々の日本人が、自分ひとりだけで自立するのが不安で、誰かと一緒に守られた状態でいたいことを願っていることの表れである。

その点、日本人と女性には共通点が多い。

(初出20107月)


ミクロ文化とマクロ文化

女性や日本人は、細かい点に注意が行き届く反面、大局的な判断が苦手であり、ミクロ文化の持ち主である。

男性や欧米人は、とかく大雑把で細々としたことが苦手な反面、大局的な判断が得意であり、マクロ文化の持ち主である。

日本は、細かいミクロレベルの一つ一つでは成功しているが、マクロ、大局を見ると失敗していることが多い。あるいは、大きな新しい今までにないトレンドを作るのが苦手である。

欧米は、細かいところでは、いろいろ粗や難点が見られるが、マクロ、大局的、大まかには成功していることが多い。IT分野のパソコン、クラウド、スマートフォン等の大きなトレンドの生成は、ほとんど欧米産である。

(初出20107月)


原子型社会と分子型社会、原子行動と分子行動、性差との関連

原子型社会とは、粒子一つ一つがバラバラに自由に独立した原子となっている社会である。

分子型社会とは、各粒子が、何かしらの集団に所属し、構成要素となっている社会である。

欧米社会、男性社会は、どちらかというと原子型社会であり、日本~東アジア社会、女性社会は、分子型社会である。

原子行動は、粒子が互いに独立して、1個のままで動き続ける行動であり、分子行動は、粒子が、他の粒子と手を組んで、同盟して、構成要素となって動き続ける行動である。

欧米人、男性は、原子行動を取りやすく、日本~東アジア人、女性は、分子行動を取りやすい。

(初出20113月)


日本の社会集団に働く表面張力と、女性、卵子との類似

日本の官庁、会社、学校組織は、女性ないし卵子として捉えられる。

日本の官庁、会社、学校に入ろうとするのは、女性を強姦しようとする男性と同じである。あるいは、卵子に挑む精子と同じである。

日本の官庁、会社、学校は、女性が精神的に支配する、女性の原理で動いていると考えられる。

女性が支配する集団は、ウェット、液体的な性質を持つ。女社会がウェット、液体的だからである。

ウェットな、液体的な集団には、実際の液体、水滴同様に、表面積を最小限に押さえようとする表面張力が働いており、あたかも表面に膜が張っているかのような状態になっている。

それゆえ、液体的な集団である日本の官庁、会社、学校組織、集団には、外に対して表面張力が働いており、表面膜みたいなのが存在すると見て良い。

日本の官庁、会社、学校にそのまま入ろうとすると、男性にセックスを申し込まれた処女の女性同様、イヤイヤをされたり、激しく抵抗されたりする。あるいは精子にアタックされた卵子同様、精子をシャットアウトし続けようとする。しかし、いったん処女膜、表面膜が破られ、中に入ると、うって変わって歓迎され、もっとして、ということになる。

これは、日本社会全体についても言えることで、日本社会自体が女性原理、液体原理で動いており、それゆえ、強大な表面張力を持っているのである。これは、鎖国体質として現れる。

先の太平洋戦争では、日本が女性、アメリカが男性として立ち現れており、アメリカが日本の中に入ろう=占領しよう=強姦しようとすると、激しく抵抗されて、表面膜を破って中に入るのが大変であった。結局、アメリカが日本社会の膜を破って、中に本格的に入り込むには、原爆投下が必要であった。

このように、表面膜を強引に破ることをせずに、そのまま自然に、スムーズに日本社会の各種集団の中に入れてもらえる条件は何であろうか?

それは、あたかも母の胎内から、別の母の胎内へ、いわば「内から内へ」の原則で動くことである。互いに内部同士がつながった集団の間を渡り歩くことが必須である。いったん集団の外に出ると、よそ者扱いとなり、再び入ろうとしても表面張力が働いてしまい駄目である。よそ者でなく、ウチの者扱いで集団間を移動することが求められる。

こうした「内から内へ」の原則に適うのは、

・新卒採用

2つの集団に同時にコネを持つ仲介人を通して、一方から他方へと綱渡りをする形の、集団外に出ない形での転職(ウェットな転職)

2つの集団同士の吸収、合併(個人単位でなく、あくまで集団単位での成員を内部に丸抱えした状態での、一方から他方への合体、もらわれ)

だけである。

日本の会社は、経営危機になると、外部から経営トップ等の幹部を起用したりする。あるいは、極端な人手不足になると、コネ仲介以外の一般外部者に門戸を開放することもある。しかし、これらは、あくまで集団の存亡に関わる非常事態であって、そうでない平時は、外に対して門戸を閉ざしているのである。

それでは、なぜ新卒採用だと、スムーズに中に入れてもらえるのであろうか?それは、新卒内定者は、学校という「ウチ」に所属したままの「内部者」状態でいるからである。一方、既卒者が駄目なのは、学校の外にいったん出てしまい、よそ者、「外部者」扱いとなってしまっているからである。

新卒者がスムーズに会社とかの中に入れてもらえるのは、「内部者」状態を維持していること以外にも理由がある。

それは、これから入ろう、所属しようとする会社集団に比べて下位者であり、会社の言うことを反抗せずに何でも聞く、会社にとって「使える」ことが保証された存在だからである。

また、他のどこも手を付けていない「白紙状態」(処女状態)であり、会社の好きな色に染め上げ、調教することのできる存在だからである。

さらに、集団そのものの新陳代謝という側面もある。そのままだと成員がどんどん年を取って老いていくので、新しい若い成員が必要であり中に入れたいという強い動機付けが集団側にあるのである。

こうした集団は、一見利益追求のように見える会社であっても、実際のところ多かれ少なかれ生活共同体としてのムラの性格を持っており、内部に入った人間にとっては、仕事が忙しくなければ、そこそこ居心地の良いコミュニティ、サロンのように機能することが多い。本音で言えば、企業として利益を出すことは二の次になっていると言える。その点、「会社」と、利益を出すことが何よりも最優先で、バリバリ仕事できないと人間失格となる「企業」とは本質面で異なっていると言える。

日本の集団は、また、学校の体育会系部活によくあるように、いったん中に入る(入社する)と、用済みになるまで外に出られないという体質も持っている。いったんプールとかの水中に入った虫が、身体に水がまとわりついて離れないため、水の外に出て来られないのと同じである。これは、(液体原理で動く集団組織への)「終身所属」と呼べる現象であり、日本的雇用の特徴とされた終身雇用もこの一環である。出身学校の同窓会とか抜けたくても抜けられないのが実情である。

一方、一見、集団内にいながら集団に入れてもらえない、内輪に入れないよそ者、「集団内部の外部者」とも呼べる人たちが存在する。それが、契約社員、派遣社員、といった外部からの一時的助っ人である。明治時代の外国人教師や、プロ野球の外国人選手と同じ扱いである。新卒で入社できずに学校の外に出てしまった既卒者が、こうした非正規扱いを受けるはめになる。

こうした、集団内のよそ者=非正規社員は、液体中のバブル、気泡として表現されるのであり、集団とは一体になれず隙間があり、集団側の用が済めば、あぶくの形で一方的に排出されてしまうのである。

(初出201012月)


欧米における女性の「過剰保護」とフェミニズムについて (「甘え」概念との関連)

アメリカとかは、本来の支配者である父神相当の男性が、弱者~永遠の子供である女性を、度を超えてオーバーに助ける社会である。

日本は、本来の支配者である母神相当の女性が、弱者~永遠の子供である男性を甘やかす社会である。

欧米社会でも、日本における甘えの概念(の裏返し)に相当するもの=「過剰保護」が存在する。

特に女性(そして男性も内心では)が、父なる神、パトロンに対して心理的に依存し、わがままであり、何かあるとすぐに安直に「パパ」に対して「助けの依頼」をする。「パパ」も直ぐに大げさに過剰に保護をしようとする。

女性が、少しでもキャーキャー叫ぶ、騒ぐと、社会全体が立ち上がる仕組みになっている。

女性解放を叫ぶ欧米のフェミニズムの女性たちの背後には、そうした娘たちを助けようと一生懸命な「父」的存在がいる。そうした「父」の精神的なバックアップがあって初めて、欧米フェミニズムは成り立っているのであり、その点、欧米フェミニズムは、父と不可分な存在である。

そもそも欧米社会で、女性解放を言い出したのが、女性ではなく、男性(J.S.ミル辺り)だったことが、この辺りの事情を説明する。欧米フェミニズムは、皮肉にも男性によるバックアップ前提のイデオロギーになっている。

なぜ、欧米社会で「甘え」の概念が無いのか?

行動を起こす主体が男性であること、女性は自分からは行動を起こさないことと関係がある。

日本では、男性が女性に依存する。その際、男性(被保護者)が、女性(保護者)に対して自分から頼ろうとする行動を起こす。それゆえ、男性による女性への甘えが発生する。

欧米では、女性が男性に依存する。女性(被保護者)は、自分からは行動を起こさず、その場で「助けて」と叫ぶだけである。それゆえ、男性(保護者)が自ら先んじて行動を起こして、女性(被保護者)を保護してあげる必要が出てくる。

被保護者が自発的に保護者の懐に飛び込んで庇護を求めるのが「甘え」である。

欧米では、被保護者が保護者のところに来ようとする前に、保護者が先回りして被保護者を保護する行動に出てしまうため、「甘え」が発生しない。

欧米とかのドライな父性的社会では、大いなる存在が能動的であり、大いなる存在が先んじて弱者を助けてくれる(能動的保護、庇護)。

日本とかのウェットな母性的社会では、大いなる存在が受動的であり、弱者は、大いなる存在に対して、こちらから働きかけて寄りかかっていく必要がある(受動的保護、庇護)。寄りかかる行為が「甘え」である。

(初出20113月)

先輩後輩制、親分子分制を打倒せよ!

日本社会において、先輩は、単に少し前から既に集団、団体に加入しているというだけで、あるいは、学年とかで1年上だというだけで、後輩に対して、全てにおいて上から目線で、偉そうにして、支配者ぶり、優遇されることを当然のように求めて来る。あるいは、集団、団体に入って年季の入っている古株格だったり、局だったりすると、新参者に対して、自分への絶対服従を強制して来る。

後輩格の人は、先輩に対して無条件で、犬みたいに屈辱的に服従し、媚びて、なつき、仕えないと行けない。マゾヒスティックな態度である。特に体育会系の組織で著しい。かつ、自分にとって後輩に当たる人に対して、上記のような先輩風を吹かせるサディスティックな態度を取る。このマゾ、サドの両者が矛盾せずに同居している。

この先輩後輩の関係は、親分子分、師匠と弟子、姑と嫁の関係と似ている。かつての中国、韓国と日本との関係も似たようなものだったのではないだろうか。

後輩は、先輩の心理的植民地である。先輩の後輩に対する制度化された人権侵害が見られるのである。

年取った人は、先輩になりやすく、その点、年齢が既得権益として作用する。

大抵の人は、後輩であると同時に、先輩でもあり、2つの立場が切り離し難く1人の人格の中に共生している。そこにサド、マゾの支配関係の連鎖が見られる。

学校時代のカリキュラムが、先輩による社会支配の一つの原型になっている。すなわち、1年早い人が遅い人より、学んでいる量が段違いに多く、覆しにくい、覆せないことから、先輩は覆せないものだという強い信念が生まれ、そのままいつまでも大人になっても続くことになるのである。

これは、植物と同じである。先に生えたものほど大きく育って優位に立っており、先に生えた地点のものが優先される先住権がある点が、先輩の後輩に対する優位とそのまま一緒である。日本の田舎で先住民が新住民に対して威張るのも一緒である。

先輩後輩制は、見るところ、女社会において、より厳格に守られている感じであり、後輩は先輩に対して絶対服従が原則化されているようである。先輩は、後輩に対して威張る代わりに、後輩に対して母親がわりになって、後輩を包含して守るべきとされているようである。日本社会の先輩後輩制は、もともと行動する上での安全が確保された前例をたくさん保持する人間を優遇する女社会の特徴であると見るのが妥当ではなかろうか。

こうした先輩の永続的優位は、各人の学んだ前例、ストックが未来永劫有効であることが前提となる。学んだ前例、ストックは、先輩がより多く持っているからである。しかし、現代のように変化が大きく、新しい発明発見が絶えずなされて前例が無効化することが多発する現状では、先輩の永続的優位は、実は成り立たないのだと言える。

それゆえ、先輩による後輩の人権の侵害を絶えず生み出している先輩後輩制は、打倒すべき根拠が十分ある。

同様に、親が子供より偉い、親が上位で子が下位だと考える、日本社会にはびこる親分子分の考え方も打倒すべきである。

親が子供より偉いとされるのは、親が生存に必要な前例となる知恵や設備を、子供に対してより多く持っているからである。これも、身に付けている前例が多い人間を上位者と考える、女性にありがちというか、女性ルーツの考え方だと言える。

しかし、基本的に、親子関係は、代々のバトンを受け渡しする先行世代と後続世代の関係に過ぎず、両者は対等なのではないだろうか。遺伝的にも、子供は、父親と母親から半分ずつそっくりそのままコピーして受け継いでいる訳で、親と全く対等であり、親に対して上下の関係は成り立たない。親が子を養うにしても、子が自分の形質、ものの考え方を自ずと受け継いでくれることを望んで育てているのであり、親にとって子供は育ってくれないと困るのである。その点、親は子供の意思を絶えず尊重する必要が出てくる。また、親は年老いてくると、身体の自由が効かなくなり、子供の世話にならざるを得なくなり、子供の支配下に入ることになる。

日本の親は子供を育ててやったと、子供に対して恩着せがましい態度に出るが、子供にしてみれば、そもそも産んでくれと頼んだことは一度もない、親が自己都合で勝手に産んで、辛い、苦難の多い人生を子供である自分に勝手にプレゼントしてくれただけ、かえって迷惑だ、親は自己都合で自分のことを産んだのだから自分を育てて当然、というのが真情であろう。

親の子に対する優位の根拠となる、親が持っている前例は、いつまでも有効なものとは限らず、時代の変化に伴って新たな考えが出てくると共に無効化する。そして、親の持つ前例を無効化する新たな考えを生み出すのは、往々にして子供の世代なのである。その点でも、親の子に対する優位は保証されないと考えるべきである。

先輩後輩制も親分子分制も、ルーツは女性にあると考えられるので、無くすには、まずは、日本社会における女性の力を弱めなくてはならない。

(初出201110月)

日本社会と女性のパラレルな関係

日本社会と女性とはパラレルな関係にある。

(ドライで先進的な)欧米に並ぶ、追いつくことを目指してきた、(ウェットで後進的な)日本と、(ドライで先進的な)男性並になることを目指した(ウェットで後進的な)女性とは、同時並行的な関係にある。

ちなみに、女性や農耕民は、遊牧民文化を取り入れて、改良を加え、コストダウンをして販売し、富を蓄えることで、男性や遊牧民を逆転できる。

(初出2011年3月)

雌国、牝国日本

女性の力の強い日本、韓国、中国、ロシア等は、生物の見地からは、「メスの国、雌国、牝国」と呼べる。

一方、男性の力の強いアメリカ、西欧、北欧、アラブ等は、生物の見地からは、「オスの国、雄国、牡国」と呼べる。

メスの国は、オスの国に比べて、必ずしも弱いとは言えない。生物においても、クロアリやアシダカグモのように、メスがオスに比べて強大である例は、いくらでも存在する。

(初出201111月)



日本人の「武装女子」指向

日本人は、太平洋戦争敗戦後、ずっと、アメリカの支配下、影響下で暮らしてきた。

首都東京から数十キロのところに、大きな米軍基地があり、いつでもアメリカに攻められるので、言うことを聞くしか無かった訳である。

一方、アメリカの庇護下にあるということで、緊張ある軍事、地政学的懸案事項は、全てアメリカ任せでOKということになり、平和憲法下で経済的発展にのみ専念すれば良くなり、事実、一度は世界第二位まで上り詰めた。

ところが、頼りにしていたアメリカ(ついでに模範としてきたヨーロッパも)が、だんだん弱くなってきてしまい(借金まみれ)、代わりに、かつては弱かった中国が経済的に強くなってきた。

力が弱くなったアメリカに今までのように頼れそうもなくなってきた日本は、その事態に気づいてだんだんあわて始め、すっかり強くなった中国やその下僕の朝鮮の連合に飲み込まれないように、急いで自己の軍事的、地政学的自立を図ろうとしているのが現状であり、その一環で、日本では国家主義、国粋主義が強くなってきているのである(いわゆるネトウヨの横行)。

日本が軍事的、地政学的自立を図るには、日本は、中国に飲み込まれない程度に国力が強くなる必要がある。軍事的、経済的な攻撃力、防御力が必要であり、そうした武力は、通常丸腰の女性でなく、男性が担うものである。

それゆえ、今後の日本では、そうした男性性を表面に押し立てて、「男性的国家像」というか、かつての武士道精神の復活が求められるようになると言える。

もっとも、日本社会の、個人間、組織内の一体感、和合、協調性を重んじて、小集団で排他的にまとまろうとするウェットな女性的な性格の本質は、そのまま温存されると思われ、そういう意味では、日本社会は、「武装女子」「武装の麗人」という感じで進むのではなかろうか。

例えば、武装戦艦が女性キャラクタに転化した「艦隊これくしょん」あるいは「武装神姫」みたいな位置づけが現に日本人の若者の間で好まれており、日本社会では、これからこういった感じの表面的には男性性、武装性を押し立てつつも根幹では女性的な文化がますます進展していくものと思われる。

もしくは、「プリキュア」「結城友奈は勇者である」「ガールズアンドパンツァー」みたいに、女性が肉弾戦、砲撃戦をやる感じの、やり手の手強い武人的な女性像が今後次々と創造される方向に行くかも知れない。

現状では、日本は、対米従属、精神的依存から、まだまだ抜けきっていない感じというか、むしろ沈み行くアメリカと一緒に心中しようとしている感じがあるのが、個人的に気がかりである。

後は、日本の国の財政状態があまりに悪そうなので、いったん経済破綻は免れないかなという気もする。昭和恐慌の再来である。昭和恐慌の際は、日本は軍事政権化して、勝てない太平洋戦争に突き進んでいったが、今回も、上記の武装指向があることから、同じ轍を踏みそうな気がする。

(初出2014年11月)



女(母)が強い国=強国という図式


日本の右翼は、強い日本社会を希望する。そして、日本社会のことを強い男の国でありたい、強い男の国と見られたいと考えている。日本社会のことを女々しく思われたくないと考えている。その考えの底には、女は弱いという考えがある。つまり、女性は、なよなよしていて、柔弱で、筋力が弱く、やろうと思えば強引にレイプできてしまう頼りない存在だ、という考えがある。

この考えは、間違いである。日本では、同じ女性でも、母は別格で強い、手強い存在であるという考えが以前から存在する。すなわち、「肝っ玉母さん」「おふくろさん」「オバタリアン」といった、既婚の子持ち女性への呼び方がそれである。

日本の男性は、女性は叩くが、母は決して叩かない。同じ女性でも母は別格扱いをするのである。

日本の母は、強力な
・一体化の力、包容力、
・対人面でのコネを作り活用する力、
・ズケズケ物を言う強い心臓、
・連想力の駆使による相手への詰問、問い詰め、小言の絨毯爆撃を行う力、
・重箱の隅をつついて、あら探しをする力
によって、家族ひいては社会を支配する。特に、家庭の家計財務管理、子供の教育の権限をほぼ独占している。

母が強い社会は、同性の女性が強い。

日本社会の推進力の源はお母さんであり、日本の強さの源はお母さん=女性である。

「強い」日本男性は、実際は、母から力を貰っている。見かけは父からでも、実質、その父の母(祖母)から力を貰っている。

日本男性は、母の力で母色に染まる。日本社会は、母である女性の力によって、母色に染まっている。
一方、欧米社会は、父である男性の力によって、父色に染まっている。
欧米女性は、一見自己主張、押しが強く、強力な存在の様のように見える。日本男性は、それにたじたじとなっている。
しかし実際は、欧米女性は、強力な家父長制、父権制の下、父の色に染まった、いわば
「出来損ないの男性」「不完全、不十分な父」みたいな存在であり、母性喪失者であり、社会的に劣った弱い存在なのである。その証拠に、彼女たちは、家庭の家計管理や、子供の教育において、副次的な役割しか果たせていない。

一方、日本の男性は、父性喪失者であると言える。

日本社会のように、母の十分強い社会、国は、国際的に十分強力である。あるいは、母が十分聡明な社会、国、子供の教育を独占する母がいる社会、子供に良いしつけ、教育を与える母がいる社会は十分に強力である。

かつての中国、韓国は、母が中華思想に染まって、聡明でなかったため、弱かった。


日本の右翼は、日本を更新的な中国の一員ではなく、先進的な欧米の一員と思いたがる。
日本を女性的とすると、日本は中国の一員になってしまい、男性的な欧米とは異質になってしまう。そこで、日本は男性的であると思おうとする。

子育てを独占する日本の母は、子供、特に息子を欧米の色に染まらせることを考え、欧米追随を強力に指向、推進した。息子が強い男に見えるのを指向した。それは、見かけ、理想は、欧米流の家父長であったが、実際は、日本流の侍であった。

日本の母は、「侍の母」として、子供に対して厳しく接することで、子供を強くしようとした。それは、一見姑根性と近いが、実子への愛情あるしつけである点が違うといえる。

それは、誠実さや勇気を強調したものであり、戦前であれば、「お国のために立派に死ぬ男」を育成しようとした。それは、一般化すれば、自分の所属集団(ムラ、会社、所属官庁・・・)のために立派に死ぬ男、自分を犠牲にして、所属集団本位で、所属集団と死ぬまで一体で行く男の育成であり、その点、女性的な男性の育成であった。

侍の国=母の国(母が強い国)であり、両者は矛盾しない。

強い、厳しい母(厳母の精神)が、強い侍、日本男児の生みの親となっている。日本の侍、日本男児は、武術、戦術は強いが、根本が女性的である。すなわち、思考が、他人の視線、眼差しを前提としたものとなっており、見栄っ張りで、ヒステリックで、強がりであり、恥を重視する。所属組織への一体融合感が強く、所属組織に包含される、甘えるのを好む。見栄を張った結果に対して責任を感じ、見栄が実体を伴うように必死で努力するため、そこが、真の強さ、成果、競争力につながる。これらは、女性的と聞いて即座に連想しがちな、なよなよした柔弱性とは異なる、別の女性的側面であるといえる。

その点、女性的=力が強い、という図式が十分成り立つのであり、日本社会、日本の国が女性的であることは、日本社会、日本国が力が強いことの裏付けとなっていると言える。
女(母)が強い国=強国という図式が成立するのである。

(初出2014年4月)


日本アニメ女性声優の声の高さについて・・・女性性の原型保持と日本


欧米のフェミニストは、日本のアニメの女性声優の声が甲高いので、子供みたいだと言って馬鹿にする。

しかし、実際の所、出す声の高さは、通常女性の方が男性よりも高いのが普通である。

欧米で声が低いことがデファクトスタンダードであることは、男性の力が強くて、女性が男性化していることの現れである。すなわち、欧米女性では、女性性の原型が男性の影響で失われ、男性的な方向に変質しているのである。

日本のアニメの女性声優の声が甲高いのは、日本社会では、女性性がそのまま原型のまま保たれており、女性が強いことの現れであると言える。

なので、日本のアニメの女性声優の声が甲高いことは、女権拡張を支持する人たちにとっては、本来望ましいことなのである。欧米のフェミニストにとっても、本来女性の声が高い日本の方がデファクトスタンダードになるべきなのである。
(初出2014年11月)

日本人と国内、海外


日本人は、相当違う、異質な者同士(中国、アメリカ)を一緒くたにして、外人としてひとまとめでくくってしまう。


また、海外からの自分たちへの反応、評価には敏感だが、海外の人々への関心が薄い。


いわゆる思考の内向きであり、自分たちの所属グループにしか関心のない女性たちと、考え方が一緒である。


(初出2013年10月)


表と奥

従来の日本史や日本社会論においては、男性と女性の見方が、表と裏という形で表現されることが多かった。中国古来の陰陽の物の見方にとらわれて、男性を日の当たる明るいメインの表側、女性を日の当たらない暗いサブの陰の裏側に例えて来た。これは、男性の優位、女性の劣位というように捉えられてしまう問題を含んでいる。

筆者は、これと異なり、日本の男性と女性の見方を、表と奥という形で表現すれば良いのではないかと考えている。表札に名前の出る表側にいるのが男性で、家の中枢の奥の院に入っているのが女性であると捉える訳である。これにより、家の周辺部に留まり中枢に入れないのが男性で、家の中枢部の奥の院を占有しているのが女性というように捉えられ、男性の劣位、女性の優位として捉えられる。外からは様子がうかがい知れず、その存在を隠すことで、身の安全を図ることができるのが、女性が奥の院に留まるメリットである。

歴史書のような公式記録、表に出た記録は、「表の人」である男性中心になりがちであり、表に出ることを避ける「奥の人」である女性の行動記録は奥にしまわれ、表沙汰にならず、表の公式記録に残らない。そのため、女性があたかも活躍していないかのように見えてしまう。それが、女性の思う壺なのである。すなわち自分自身の活躍した結果の後世への責任を取らなくて済むからである。「歴史的責任の回避」が、女性が歴史の表舞台に出てこない真の理由である。女性は、何事も被害者面して押し通し、責任を取らなくて済むようにしているのである。女性は、自分たちを支配者と見せないことで支配責任を回避する。実行犯にならないのである。

女性は、きれいごと、きれいな建前しか歴史に残そうとしない傾向がある。自分たちのドロドロ、ベタベタ、ジメジメした陰湿で醜悪な内部抗争劇を、外部に対して封印し、きれい事で済まそうと懸命になる。そのため、外部に対して、女性が活躍しなかったことにして、男性のみ歴史的に活躍したかのように見せかけるのである。


(初出201203月)


日本史における女性の地位低下の通説について

日本史においては、室町時代から江戸時代にかけて、女性の地位が低下し、現代に至るまで余り回復していないとされる。

女性がそれまでの時代で持っていた所領を持たなくなったり、公文書に登場しなくなるのがその理由とされている。要するに財産権を失い、公の活動から締め出されたと捉えられている。

これは、果たして正しいのであろうか?

筆者は、女性の地位が低くなったのではなく、単に女性が今までに比べて「奥の院」の住人になる度合いが強まったのがその原因であると考えている。「奥の院」にいることで、所在が直接露出しない、外部から振る舞いが分からないようにして、身の安全をより強固に図ろうとする度合いが強まったと考えている。

姑とかの女性は、この時代、自らは直接社会に手を出さず、自らの内に一体化、包含し、精神的に乗っ取った息子を自らの操りロボット、代理として、日本社会の間接支配の体制を創り上げたと考えられる。要するに「母権」「姑支配」体制の完成である。女性が、自分の息子経由で、家の奥から社会を支配する、「奥様」化が進行したのである。

姑による息子と嫁の支配が確立すると共に、表、公に出てくるのが専ら息子であり、社会の表舞台で活躍するのが専ら息子である男性であるという現象が起きて、それゆえ女性の存在が目立たなくなり、いつの間にか劣位の存在であるというように誤解されるようになったのではないだろうか。

江戸時代とか、夫、男性を独立した存在として見ては駄目であり、彼らは、「母の息子」として見るべきである。要するに、母、姑と一体化し、その支配下に置かれた従属的な存在であると捉えるべきである。

では、なぜ室町時代から江戸時代にかけて、女性が「奥の院」に入る度合いが強まったか?

それは、この時代、社会が戦乱期、戦国時代に入って、女性にとって、表に出ると身の安全がより危険になったことが大きいと考えられる。

戦乱期や武家政権時代は、女性は、身の安全が脅かされたり、丸腰のままであるため、そのままでは立場が悪くなり、弱くなる。一方、社会が平和になり、安定化すると女性は、身の安全を図りやすくなり、立場が良くなると考えられる。

戦国の世になって、身が危険にさらされる度合いが強まったため、姑とかの女性は、より安全な「奥の院」に移動し、入って、そこから家族をコントロールし、ひいては外部社会を支配するように、戦略を改めたと言える。要するに、女性は、奥座敷で守られることを指向するようになったのである。

例えば、所領の名義とか、今までのように、女性のままにしておくと、外部にそのまま自分の存在が露出してしまう、分かってしまうことになり、それでは危ない、身の安全を保てないと考えて、名義だけ夫や息子の名義に変えたと考えられる。名義を男性にすることで、対外的には、表面上男性が存在することになるため、女性は内側で守られることになる。

名目上は、息子が所有者だが、その息子は、母親との結びつきが強く、心理的に母親に乗っ取られた状態であり、母親の言うことに逆らえないようになっているため、実質的には、母親である女性の所有であると言える。

家計管理とかの、所領の実質的な家庭内での管理権限は、今まで通り女性が握ったまま、男性を表名義に据えることで、男性のガードがあることを対外的に明示するようにしたと考えられる。これが、女性が表に出てこなくなり、所有権を失ったように表面的には見えたため、女性の地位が低くなったと誤解されたのではないだろうか。

これが、そのまま江戸時代以降、現代まで持ち越されてきたと考えられる。

(初出201203月)


一枚岩ではない欧米

欧米は、フェミニズムにおいて一枚岩ではない。

今まで、筆者の文章では、欧米をひと括りにしてまとめるかたちで言ってきた。

しかし、欧米も、西欧、北欧と、南欧、東欧とでは、父性、母性の強さ、弱さが違う模様である。

イギリス、フランス、ドイツの西欧は、父性が強いことが確実である一方、イタリア、スペインの南欧になってくると、社会における母親の影響力が強くなって来て、日本と似てくる印象がある。

イタリア南部とか、マンミズモ、コネ万能で、オペラに見られるようなドロドロした愛憎に満ちた人間関係が主流であり、女性的、母性的になってくるのである。

欧米でも、純粋に家父長制なのは、西欧、北欧辺りのみであり、そのうち西欧を代表させて、北米と合わせて、WENA (West Europe and North America) という造語を作り、WENAにおいては、家父長制を前提とする既存のフェミニズムが有効であるが、南欧では母性が強いことを前提とする新たなフェミニズムで捉えた方が良い、とする見方が成立しうると言える。

(初出201110月)

男女闘争史観

世界の歴史は、男性(的国家、社会)と女性(的国家、社会)との勢力争い、覇権をかけた抗争、闘争の歴史と捉えることが可能である。

先の東西冷戦は、男性的社会、国家である、欧米西側と、女性的社会、国家である中国、ロシア、東側との対立、闘争であった。

社会主義と自由主義とのイデオロギーの対立の根底には、女性と男性の力の対立が内包されていた。

鉄のカーテンで閉鎖、排他戦略を取った女性的国家には、男性側からの新規アイデア、物資が入ってこなくなり、社会の発展が止まり、劣勢に立たされた。女性的国家は、自分だけでは、既存の枠組みを壊す新規アイデアを生み出すことができず、どうしても社会の仕組みが古く、後進的になりがちで、競争力の点で劣りがちになるのである。

その結果、東西、男女闘争の第一幕は、西側、男側が勝利した。

東側の女性的国家は、そこで思い切って、ある程度国を開いて、西側の男性的国家の文物、アイデアを受け入れ、そのコピーと小改良で、圧倒的に安いコストで製品を作り、大量輸出した結果、西側の男性的国家の雇用や富を大幅に奪い、西側男性的国家の財政危機や高失業率をもたらし、崩壊寸前にまで追い込んでいる。その結果、東西、男女闘争の第二幕は、東側、女側が勝利を確定的にしたと言える。

日本は、アメリカのような西側、男側国家陣営の中に取り込まれた、実質東側、女性的国家という位置づけであった。そのため、欧米西側の中で、一人異質な位置づけであった。

日本は、中国、ロシアが鎖国中に、西側、男側陣営の生み出した成果を独占して輸入、コピー、小改良し、その成果としての製品を大量にばらまいて世界第2の経済大国にのし上がった。

その点、日本は、中国、ロシアの先鞭を付けた訳であるが、実際のところ、日本は、中国、ロシアと同じ同じ女性的国家で、中国、ロシアと比べて社会の内情において大きな違い、差が見られない。

そのため、現状の日本は、中国、ロシアと上手く差別化を図ることができず、通貨が円高のままであることも相まって、製造業を中心に大苦戦中であり、巨大な財政赤字と相まって、沈没は免れない情勢となっている。

将来的に、日本は、中国、ロシアといった女性的国家群の側に統合される可能性が高いと言える。

このように、世界の歴史的な動きは、男性的国家と女性的国家との対立、闘争として捉えることができると言える。

これは、長年続いてきた、女性優位の農耕民と、男性優位の遊牧、牧畜民との世界的な対立、闘争の一環として捉えることも可能である。

それらの根底には、男性と女性との果てしない力比べ、勢力争い、闘争、対立が内在していると言え、男女闘争史観と呼べる。

従来、男女は、互いに性的に惹かれ合って、協力して家庭を作り、子育てをして、次世代へと遺伝、文化を受け継いでいく歴史を紡ぎ続けてきたし、これからもそうあるべきだという、男女協力、協調史観が主流であった。

しかし、実際のところ、男女の持つ性質、行動様式は互いに、気体的、液体的というように、対照的、正反対で対立的なものであることも確かである。それゆえ、そうした互いに対立する性質を持つ男女同士、外部環境の変化に応じて、どちらが主導権を握るか、支配力を得るかで、絶え間なく小競り合い、抗争、闘争を繰り広げることは、家庭の中でも、社会の中でも不可避であり、そこに男女闘争史観の考え方が出てくると言える。

その一環として、将来的に、日本社会において、男性側の男性解放、父性確立への流れと、女性側の母性的フェミニズム推進の流れとが、共に隆起して、真正面から衝突することになると筆者は予想する。

(初出2012年8月)



2.日本女性の強さと諸問題


「家庭内管理職」論

日本社会は、政治家や官僚によって支配されている、とされる。

しかし、実際には、その官僚を支配するさらなる支配者がいる。

政治家・官僚の「生活管理者」「さらなる上司としての家庭内管理職」=主婦である。

日本の専業主婦=無給家事労働者論は、打破されるべきである。日本の女性は、家庭において、実際は、単なる労働者ではなく、家族成員の生活をコントロールする、家庭内管理職とでも言うべき地位についている。

日本の女性が男性の給料(労働の対価)を全て召し取って、自分の管理下に置く。その点、労働者たる男性を支配している。男性が、自分が被支配者の立場にあることに気づいてしまうと、男性が女性に対して反乱を起こしかねないので、一家の大黒柱とか、家父長とか言って、わざと崇め奉って、必死に、気づかれないように取り繕おうとする。

フェミニズムは、女性の弱い面、被害者の面にのみスポットを当てて騒ぎ立て、女性の強い面=既得権益(家計管理、子供の教育)については、知らんぷりするか、ことさらに無視し否定する。この女性の占める既得権益こそが、「家庭内管理職」としての側面なのである。

家庭内管理職の概念について整理すると、「家族員の生活を、管理・制御する者」と定義される。具体的には、

1)夫を管理する妻

2)子供を管理する母

として立ち現れる。

一方、欧米では、男性が、この家庭内管理職の地位についていると考えられる。すなわち、

日本→妻の監督・管理下で、給与稼ぎに従事する夫

欧米→夫の監督・管理下で、家事労働に従事する妻

という図式が成り立つ。

女性が家庭内管理職の地位についていることは、日本の家庭における実質的な女性優位を示す。

日本における家父長制は見かけだけと考えられる。

女性が、家父長制をやたらと持ち出すのは、妻と姑という同性同士の対立(権力闘争)が根本の問題である。

女性は、同性間の相互の一体感を重視する。

同性同士の結束が弱い(仲が悪い、バラバラである)と見られるのをいやがって、異性の夫(息子)のせいにする。

日本女性の勢力が、「内」=家庭内限定であった理由は、戦闘や戦争状態を前提とした社会である、武家社会の名残と考えられる。戦前の日本社会も、陸海軍の発言権の強い、「武家」社会の一種であったと考えられる。戦闘や戦争が多く起きる状態では、外回りに危険が多い。したがって、生殖資源として貴重品たる女性を外に出すわけには行かないからである。

日本男性(例えば、九州男児)は、威張って、身の回りの細かいことを妻にやらせることが多い。彼らは、自分からは何もやらず、動こうとしない。その根拠は、「怠け者=上位者」理論として整理できる。すなわち、仕事をしないでのんびり怠けて過ごせる者が、そうでない者よりも上位にある、という考え方である。

しかし、これでは、妻がいないと、自分一人では何もできない。言わば、妻に生活上の生殺与奪を握られている。妻に対して頭が上がらず、結局、弱い立場に追い込まれることになる。

日本女性は、家庭に入ることを求められる。職場で昇進しにくい。肩たたきで会社を辞めざるを得ない。

それは、職場で無能だから、という訳ではない。

日本女性が、社会から家庭に入ることを要請されている本当の理由は、家庭内管理職、すなわち、職場で働く者の生活を管理する者の方が、社会的に重要で、地位も高いから、そちらになってもらいたい、ということなのではないか。

日本の男性は、本当は、女性に家庭に入ってもらわない方が幸せである。

日常の生活を管理されないで済む。気の進まない(賃金)労働や、組織での昇進競争へと追い立てられなくて済む。

しかし、女性への心理的依存があるから、入ってもらわずに済ますのは無理である。

性別分業は、女性差別とされている。

しかし、必ずしも、女性に不利な差別がされている訳ではない。

「女は内、男は外」という場合、「内」の方が、家庭内管理職の役割を持つことが出来、地位が高い(欧米とは逆)

「内」の方が、苛酷な自然環境に直接さらされないで済み、生存条件としては良好である。

日本では、妻が母艦の役割を果たし、夫は、母艦から飛び立って、職場で労働し、給与と共に帰って来る飛行機である。

母艦は、飛行機に出発や給与渡しなどの指示を出し、管理する。

母艦は永続的な場なのに対して、飛行機に乗るのは、一時的である。

職場は、一時的な滞留の場であり、最終的には母艦に帰らなければならない。

最終的な居場所である母艦たる家庭を支配する女性こそが、社会の強者である。

日本の父は、子育てに関わろうとしないと非難される。しかし、日本の父は、例え子育てに参加しても、補助労働者としてこき使われるだけであり、子育ての主導権は握れない。主導権は、女性=母の手にある。日本の父親には、子育ての権限がもともとなく、子育てから疎外された存在である。家事についても同様で、決定権が妻の側にある以上、夫は補助労働力に過ぎない。夫が家事にやる気を出さないのもうなずける。一方、欧米の父親が、家事や子育てに積極的に関わるのは、彼が、家庭内管理職として、家事や子育ての内容について、最終的な決定権を持っているからだと考えられる。次に何をすべきか決定する権限を持っていれば、当然、やる気が起きるであろう。

専業主婦は、社会的地位が低いと見られがちである。しかし、その様相は、欧米と日本とで大きく異なると考えられる。

欧米の主婦は、夫の管理下で下請け的に働く、家事労働者に過ぎず、その地位は、本当に低い。

日本の主婦は、もちろん、家事労働者の側面もあるが、実際には、家庭内管理職として君臨し、管理される夫よりも常に1ランク上に位置する。日本の主婦は、家族の生活を、隅々まで、制御・規制して、収入管理・分配権限、子供の教育支配権限を一手に握る。家族の健康な生活を守る、生活管理者、監督としての役割を担っている。

日本家庭では、買い物の順番として、子供のもの→妻のもの→(余ったら)夫のものという優先順位が付いていると言われる。妻のものが夫のものより優先される点に、女性支配の現実が見える。

(初出200007)


日本女性と家計管理権限

1.小遣いと大蔵大臣

日本では、自分で他人を養うだけの給与を稼ぐ役割を男性がもっぱら担っていることが、男性優位(家父長制)の証拠と見なされる。

女性の立場が弱いのは、自分で給料を稼がないからだとされる。

上記の意見は、おかしいのではないか?

給与を稼ぐ立場にあることが、強い立場(家父長)にあることの証拠とは必ずしも言えない。

日本では、男性が稼いだ給与は、一昔前の給料袋から、現代の銀行振込に至るまで、男性によってほとんど何も手をつけられずに、女性の下に直行する。

日本では、女性が、家計を管理し、家計における、最終的な、予算配分決定の権限を握っている。彼女は、大蔵大臣と称される。

総務庁青少年対策本部「子供と家族に関する国際比較調査」1994では、日本において、家計管理を行っているのが、夫と妻とを比較したとき、60%以上妻が行っているとされており、日本女性が家計管理権限を独占的に掌握していることを裏付けている。

男性は、女性から改めて、小遣いを支給される。

男性は、小遣いの額を、女性と交渉しなければならない。額を最終的に決める権限は女性が握っている。

給与の使い道(予算配分)を決定するのが、本当は、家父長たらしめる役割のはずだが、日本では、この役割は、女性に占領されている。

給与を単に稼ぐだけで、稼いで来た給与の使い道配分を決定する権限がないのでは、日本の男性は、家計管理者=大蔵大臣としての女性の下で働く(こき使われる)下級労働者に過ぎない。

家計管理の権限を最初から剥奪され、小遣いをもらう立場に甘んじるのは、家父長とは言えない。

日本の女性は、女性は男性に養ってもらう被扶養者であるから、男性よりも立場が弱い、とまくし立てるが、それは、男性の自尊心(自分は偉い)をキープして、よりよく働かせる(給与を稼がせる)ための口実に過ぎない。

日本の男性は、お金を生み出す打ち出の小槌(大工道具)であり、女性は、打ち出の小槌を使う大工である。女性は、小槌によって生み出されたお金を取り上げ、自分の手元で管理する。男性は、主体的に自らを管理する能力を持たないため、管理者たる女性に頭を下げて、小遣いを恵んでもらわないといけない。

日本の男性は、女性によって、一家の大黒柱と持ち上げられるが、本当は、女性の管理下で働く下級労働者に過ぎない。女性によって、収入を吐き出させられ、ちゃんと仕事をするように監視される。日本社会は、「鵜飼型社会」であり、男性は、鵜飼である女性の管理下で、魚取りに従事し、捕まえた魚を吐き出させられる鵜鳥の役割をさせられている。

日本では、夫は、財産の所有権、名義は持っているが、その財産を自分の自由に動かしたり管理する権限は持っていない。一方、妻は、財産の所有権、名義は持っていないが、その(他人名義の)財産を自分の思い通りに、自由に使ったり管理する権限を持っている。

両者のうち、どちらが強いか?

性別を伏せて、Aさん、Bさんとして聞いてみたらどんな結果が出るだろうか?

2.日本専業主婦の地位と財産

専業主婦は、自分の食べる分の給料を稼がないから、地位が低いとされてきた。このことは、今までの日本における男性優位の根拠となってきた。それは果たして正しいか?

日本の専業主婦は、家庭における資金の出入りを、最終的に管理し、決定する権限を持っている。家計管理者として、給料の使い道を管理し、何に使うかを決定する。こうした財産管理・使用権限は、夫に対しても、小遣い支給という形で行使される。

従来、家庭において認められて来た財産形成(生成)・所有権限(主に夫が保持)とは別に、財産管理・使用(配分)権限というものの存在を、新たに認めるべきである。いくら、形式的に財産を所有していても、実際に使う権限を持っていなければ、意味がない。その点では、財産管理・使用権限の方に比重を高く置いてみるべきである。欧米では夫がこちらの権限も保持しているが、日本では、この財産管理・使用権限は、妻が保持している。

権限の強さ

欧米

日本

財産形成(生成)・所有権限

形式的・弱い

財産管理・使用(配分)権限

実質的・強い

従来の日本におけるフェミニズムが唱える家父長制についての議論では、財産形成・所有権限の方ばかりに目が行って、財産管理・使用権限について注意が行き届いていない。後者の存在に注意すれば、日本の家族=家父長制という結論は、絶対出ないはずである。

ただ収入を入れるだけで、自由に使うことができない(再配分の権限を持たない)、小遣いを、妻に対して、頭を下げて、もらわないといけない夫(彼は、妻の管理下で、下請けの給与稼ぎ作業に従事する)よりも、最終的な使用(収入の再配分)権限を握っている妻の方が、地位は高いのではないか?

日本における、「稼ぎ手(一家の大黒柱)がえらい、強い」コール、大合唱は、財産管理権限を握っている=本当に力を持っているのが、妻(女性)であることを隠蔽するため、女性によって、意図的に行われている。隠蔽することで、男性の自尊心を高い状態に保持し、自分たちに有用な働き(強い盾としての防衛者の役割、給与を稼ぐ労働者としての役割)をさせるのが目的である。「男性上位」を信じ込む男性は、女性によって、担がれているのである。

妻に対していろいろ威張って命令するが、妻がそばにいないと何もできない夫、家の中の物がどこにあるか、全て妻に管理されているため、全く分からない夫は、妻によって生殺与奪の権限を握られており、実際には、弱者である。

家計管理権限を、なぜ日本の女性が取れたか?日本のように稲作農耕栽培行動が主流の社会では、態度のウェットさを要求される農耕活動により適するのは女性であり、環境適応力・環境合致度が、男性よりも強いのが原因と考えられる。

日本フェミニズムは、都合の悪い事実を隠す。女性が財布の紐を握ることなど、無視する。臭い物にふたをする、こうした姿勢は改められなければならない。

(初出200007)


日本女性と国際標準

フェミニズムは、男性優位社会での女性解放をうたったものである。

これを、日本社会へと強引に当てはめた結果、

「日本は、男社会である(見かけはそうかもしれないが、きちんと調べれば、実態は違うことがすぐ分かるはずである)。したがって、男性に匹敵する(伍する)には、男性的にならなければならない。」

と考え、女性らしさを捨てようとした。

この際、女性は、誤りを犯そうとしている。

日本は、本当は、女性優位社会=「女社会」である。日本社会は女々しい。もともと日本の男性は、男性的でないのに、自分は男性的だと勝手に思い込んでいる。

女性は、男性的になろうとすることで、自ら、女性優位という強さの基盤(もと)を捨てて、「女社会」を壊そうとしている。

日本女性が男性に伍するには、ドライ化=男性化しようとしても限界がある。欧米女性の二の舞になってしまう。

女性の本質を生かした方が、強いのではないか。

ウェットさ=女性らしさを保ったままで、職場・職域進出すればよいのではないか。

日本の職場はもともとウェットなのだから、進出は十分可能(女々しいままで適合的)なはずである。

現代日本社会は、女性も含めて、ドライで男性の強い欧米社会の規範を真似ている。しかし、日本女性は本当にドライなのだろうか?

筆者が行った、ドライ・ウェットな心理テスト調査結果では、日本女性は、「自分の性格に当てはまるのはどちらですか?」という問いに対して、ドライな項目の方を選択することで、自らの女々しさを否定している。

これは、男性的な欧米先進国に習おうとしたためである。真似すべき成功の前例である、先進国という権威に弱い。

日本社会において、ウェットさが否定されることにより、本当は、本来ウェットであるはずの、女性の立場を弱くしている。

見かけは、Lady First~男女平等・同権なので、女性の立場を強くしているように見えるが。

女性は、伝統的な日本社会のように、ウェットな社会では、水を得た魚のように、主流派コースを歩めるはずである。自分たちのペースで社会を引っ張れるはずである。

女らしさは、欧米主導の国際標準から外れた行動様式である。

日本女性は、自らの女らしさ(女々しさ)=ウェットな行動様式を否定し、国際標準のドライな行動様式に合わせて、男らしくなろうとしている。しかし、地金がウェットなので、ドライになりきるのは無理であり、「擬似ドライ化」するにとどまる。

日本女性は、国際標準の行動様式を、ドライ=男性的=欧米的と考え、それに権威主義的に同調する。日本も先進国の仲間入りをした以上、当然ドライであるべきと考える。これは、伝統的な、脱亜入欧の考えに通ずる。ドライな社会向けの欧米理論であるフェミニズムを日本に当てはめて、何ら問題を感じない。国際標準の理論だから、ぜひ日本にも当てはめるべきと考える。それが正しい研究だと、思い込んでいる。

国際標準の行動様式を、ドライ=男性的と捉えることは、世界的に、男性優位=家父長制が標準だ、と考えることに通ずる。家父長制およびそれを告発するフェミニズムを世界標準とみなし、日本社会へと、機械的に、「上から」権威主義的に導入しよう、合わせようとする。日本が世界標準に追いついた、とか、標準に合わせている、という考えから、日本は家父長制社会だとする。日本社会は、前近代=封建制状態では、その性質はウェット=女性的で、国際標準からは外れているにもかかわらず、日本のフェミニズムでは、家父長制だとされている。国際標準に合っていても、外れていても、日本社会=家父長制という結論を導き出している。伝統(前近代、封建)日本的=ウェット=女性的という結びつきに気づいていないためと考えられる。

日本社会についての国際標準から外れた結論(日本的=女性的=ウェット)は、いずれ標準に追いつくと考えるなどして無視するか、国際標準に合わせて曲解する。欧米の研究結果を直輸入し、それにそぐわぬ現象を、無視・曲解するか、日本社会の現象を、欧米理論へと強引に当てはめる。

例えば、女性が握る家計管理の権限(財布を握ること)には、全く言及しようとせず、給与・収入を自らは稼がない点に固執し、無給の家事労働者の側面のみを強調して、女が弱い証拠とする。

あるいは、女性による育児権限の独占については、父親が育児を手伝わないことを、女性への育児労働押し付けとして、自ら進んで育児権限を放棄しようとしている。子供を自分のコントロール・支配下に置くことができる、とか、自分の言うことを聞く子供を作り出し、自分が生き続ける限り支配することができる、というのは、育児権限を持つことの大きな役得であるが、それを自ら放棄しようとしている。これは、権力論からみれば、自ら手に入れた権力を、進んで放棄する、という馬鹿げた行為を平気で行うことである。それとも、権限を全部放棄するのではなく、育児主体はあくまで自分=女性が保持し、父親を育児時の補助労働力としてこき使おうとする発想なのか?

ないし、男尊女卑についても、見かけ上の、行動面における男性優先を、その本質である、弱者である男性の保護、男性の人権保障、弱者優先(年寄りにバスの座席を譲るのと同じ発想)という点に気づくことなく、男性による女性支配の現れと決めつける。

女らしさを世界標準とすることが、フェミニズムの最終目標となるべきである。そのためには、欧米のドライな行動様式は、手本とすべきでない。

(初出200007)


日本社会における母性の充満

日本社会には、母性が充満しているとされる。これに対して、日本の女性学者やフェミニストたちは、母性的であることを、いけないこととして、攻撃する。

しかし、少し考えると、

・母性は、女性の、自分の子供に対する態度であり、女性性の一部である。

・日本では、女性が、男性を、自分の子供のように慈しむ態度が広く見られる。

・日本の女性は、母親としての地位は、子供の役回りを演じる男性よりも強大である。

これらの事象は、日本社会における、女性優位・優勢の証拠であるはずなのに、日本の女性学者やフェミニストたちは、なぜかそのことに気づこうとしない。彼らは、女権拡張を目指しているはずであり、母性の社会への充満は、本来望ましい事象のはずなのである。

論者が、独身者だったり、若い未婚の女性が多いことが原因なのではないかと思われるが、明らかにミスリードとなっているように思われる。

(初出200007)



女性と社会主義、共産主義






女性には、規制、協調、和合、集団本位の社会主義、共産主義が適合する。

男性には、個人本位の自由主義が適合する。



女性が強い日本ムラ社会は、見かけこそ欧米流の個人主義、自由主義に追随しているものの、実際は、社会主義的、共産主義的である。



(初出2011年8月)



日本主婦論争に欠けている視点

既存の日本の主婦論争の視点は、

(1)主婦=無給の家事労働者、という視点ばかりである。

家庭の管理者である、男性の生活を管理している、という視点や自覚に欠けている。

社会で、女性の生活管理下で働く、労働者の役割を担っているのは、男性の方である。

主婦は、むしろ家庭内管理職として、男性の上に立って、その生活ぶりを指示・コントロールする役割を担っている。

女性が、家庭における、生活管理者 Life Managerの立場にあるという視点に欠けている。

無給という言葉にふさわしいのは、稼いだ給料をそのまま主婦の手元に直行させて、自分では配分の権限がない、男性の方ではないか?

(2)収入を得る場=職場中心の視点ばかりである。

「社会進出」の言葉が示すように、家庭を、社会に含めて考えようとしない。

職場を含めた社会の総合的な母艦としての役割を果たす、家庭中心の視点が、なぜか取れない。

(3)家庭の財産の名目的所有者(名義)が誰か、という視点ばかりである。

夫への小遣い額決定など、自分が、強大な家計管理権限を持っている=家庭の財産の実質的な所有者であることに、目が向いていない。

(4)誰が収入の稼ぎ手か、という視点ばかりである。

彼女たちは、稼ぐのが誰かという方にばかり注意が行って、使う権限を自分たちが独占していることに、ちっとも気づいていない。

彼女たちは、自分たちに欠けている視点に、

(1)気づこうとしなかった、気づくことを巧妙に避けた。気づいてしまうと、日本社会が、自分たちが導入しようとする、フェミニズム理論通りにうまく説明できなくなる。

(2)気づかなかった。頭が、欧米理論を消化・吸収することで手一杯になっていて、日本社会の現実に対して、無知であった。

(初出200007)



日本のフェミニズムの隠れた策略

日本のフェミニズムにおいては、男性を、女性を支配する家父長と見なし、日本は典型的な家父長制社会、男社会だと必死になって主張がなされている。

しかし、この日本におけるフェミニズムの主張は、実際には、女性的な性格を持つ日本社会を支配する側に回っている日本女性による、自らの保身、退嬰的体質を温存しつつ日本社会を実効支配するための、巧妙な「支配責任」逃れの口上である、という隠れた側面がある。

女性の本質は、自ら危険な目に遭うことが怖くてたまらず、なるべく男性に危険な役回りを押しつけて、自分は安全、保身が図られる奥座敷で、のうのうと楽をして暮らそう、とか、あえて既存秩序に身の危険を呈して刃向かい、自力で新秩序を打ち立てるリスクを取るよりも、既存秩序にそのまま柔軟に適応し、既存秩序の教えを、前例、しきたりとして何よりも重んじ、既存秩序を維持した中で自らの安全、快適な居場所を上手に確保しよう、という、保身、安全第一、リスク回避、退嬰性のかたまりである。

女性が、こうした保身、リスク回避、退嬰性の本質を保持しながら、強者として社会を実効支配するには、何らかの形で「支配すれども責任取らず、リスクを取らず」の「無責任支配」「無リスク支配」を実現する必要がある。そのためには、自分たちの支配責任、支配に伴うリスクを何らかの形で逃れたり、誰か他の人たちに押しつけたりする必要がある。人々は、支配者と目される人に対して生活の不満をぶつけたり、政策失敗時の責任を追及したりするため、支配者は批判の矢面に何かと立ちやすく、リスキーなのである。

そのための有効な手段が、ひたすら男性を支配者扱いして、自分たち女性は、男性に支配されている弱者ですと、黄色い叫び声をキャアキャアとヒステリックにひっきりなしに上げて、男性をひたすら支配者として責任を押しつけて責め立てる、支配責任を無理矢理でっち上げて、男性に負わせることである。あるいは、自分たち女性を強者とみなす母権制の存在をそもそも認めない、抹殺、無視することである。日本のフェミニズムの主張が、まさにこれらにあてはまるのである。

日本女性は、自分たちは支配者でない、男性が支配者だと大声で主張し続けることで、日本社会を実効支配しながら、それに伴う責任は男性に負わせることにいともたやすく成功しているのである。そうすることで自分たちは批判の矢面に立たない、奥まった安全なところに止まりながら、社会を実効支配できるのである。日本のフェミニズムは、日本の女性たちによる日本社会支配の手っ取り早く高い効果が見込めるおいしい道具なのである。

そういう日本女性にとって、日本は母権制社会であるという筆者の主張は、寝た子を起こす厄介な存在であり、彼女たちは、今後も無視を決め込むと予想される。

また、一方的に責任を負わされた、本来無力なはずの日本男性も、彼女らの主張により、あたかも自分が強くなった、支配者になったように錯覚して快い気持ちになり、やたらと威張るようになっているのである。そうした状態で、あなたたちは本当の支配者でないと指摘されるのは、面子を潰された気分になり、受け入れがたいことであろう。

そういう日本男性にとって、日本は母権制社会であるという筆者の主張は、支配者扱いされていい気分に浸っているのを打ち壊す不快な存在であり、彼らも、今後も無視を決め込むと予想される。

(初出20095)


専業主婦を求めて

1.専業主婦を求める男性

仕事で家を離れる女性は、家庭内での発言力・支配力が低下する。男性にとっては本来喜ばしいことのはずなのに、妻には家にいて欲しいとする男性が多いのはなぜか?女性への依頼心がそうさせる。女性を、母親がわりにして頼ろうとする。本来ドライであるべき男性の中に、ウェットさや女々しさが蔓延している。

女性は、伝統的な性役割からの解放を唱えている。伝統的な性役割では、自分たちの支配力が強いにも関わらずである。その理由は、ライフコースに従って変化する。

(1)結婚してからしばらくの間は、特に育児の面で、負わされる負担が大きい。とても忙しい。子供の都合に合わせて、自分のしたいことを我慢しなければならない。家事の面でも、家電製品の導入など省力化が進んでいない頃は、大変だった。

この場合、女性が

(a)家政面での主導権を引き続き維持しつつ、握りつつ、補助労働力として、男性に期待するのか?

(b)家政面での主導権も、夫婦で分担する。真の男女平等を目指すのか?

によって、男性の取るべき態度が変わってくる。補助労働力としてこき使われるのは、拒否すべきである。できるだけ、男女平等の主導権分配を行うべきである。

(2)結婚して大分経って、子育てが一段落し、家電製品の導入で家事の省力化が進むと、ひまになり、生きがいがなくなる。子育て後は、やりがいがなく、時間の空白ができやすい。専業主婦が価値ある職業と映らなくなる。専業主婦以外の職業をメインにしてみたくなる。男性の占める職域に進出する機会が欲しくなる。

日本の会社・官庁は、もともと、女性向きと言えるウェットな雰囲気の職場なので、女性は、本来、結構有利なはずである。

日本の組織のウェットさならではの問題点は、

同質性や閉鎖性が高く、最初に白紙状態で入った者=新卒者にのみ心を許し、組織風土を覚え込ませる(白装束を着る嫁入りと同じ)。組織の外部に一度去った者や他の組織に属していた者が、もう一度入り込むのが難しい。女性の場合、子育てに忙しく、就業にブランクができてしまうので、いったん組織を去る必要があるが、組織の閉鎖性は、これと矛盾する。育児休業制度は、組織に連続雇用してもらうことを前提としたものであり、組織内でのキャリアアップを目指すならば、不十分でも、耐えなければいけないのが現状である。

男性は、自分自身を解放したければ、女性の職場での中途採用への道を開くべきである。

ちなみに、妻が働きに出るのをいやがる夫は、

(1)自分の稼ぎが少ない、と周囲に映るのが、自分の能力を否定されるようで面白くない。

(2)妻に、自分の家を守っていてもらわないと、不安である。

(3)自分が帰宅したときに、温かく出迎えてほしい。

といった欲求を持っている。

しかし、それでは、妻に、家計管理や子供の教育の権限を、いつまでも握られ続けて、被支配者の立場に甘んじることになる。

自分が家を空ける時間が長いため、家族に対する影響力が少なくなる。

子供たちから、じゃまに扱われ、疎外される。

2.女性の、職場での性差別

女性に対する職場での性差別の背景には、女性に家庭にとどまってもらいたいという、「専業主婦願望」とも言うべき、男性側の欲求があると考えられる。

現状を変動させようとする側(女性)は、それなりの、変動しない方向への反発力を受ける。

女性が職場進出してしまうと、男性は、家庭のみならず、職場でも、女性に支配されかねない。男性は、自分たちの居場所がなくなるのを恐れて、女性の進出に反発する。

日本の男性は、現状では、自分の存在理由が、給与を稼ぐ、収入をもたらすことにのみある(収入の管理、使用用途別の予算配分などは、女性の手に握られてしまっている)。女性が進出すると、男性は、自分の存在理由を失ってしまう。

職場での性差別は、男尊女卑で、女を見下して、組織内の重要な地位につかせようとしない姿勢ももちろんある(それ自身、日本社会において女性の方が力が強いという実勢を反映しない、空虚な態度である)

しかし、性差別は、実際のところ、「家庭内管理職待望論」とも呼べる、女性に家庭に入ってもらって自分の事を、自分の母親のように管理してもらわないと不安である、それには、女性に家庭に手っとり早く入ってもらうための方策として、職場に残ってもいいことはないよと女性に示せばよい、という考えによって引き起こされている面が大きい。

そういう点では、職場での性差別は、日本男性の、女性を母親代わりにして依存しようとする心と表裏一体のものであり、性差別をなくすには、男性の女性への依頼心をなくし、自立した存在にさせることが必要である。女性側でも、男性(自分の息子など)から自分への依存心をなくし生活面で自立させることが、女性自身の職場への進出を早めることにもっと気づくべきである。そういう点では、女性の職場進出の進展の条件は、日本の家庭における女性(母性)による男性支配を終わらせること=従来の母性的主婦観の解体でもある、と言える。

(初出200007)


日本のフェミニズムを批判する

〔1.現在の日本のフェミニズムが抱える問題点〕

現代の日本のフェミニストの主張は、以下のような問題点を抱えていると考えられる。

1)女性が、男性より、必ず恒常的に弱い、とする偏見がある。19世紀に欧米で出た説である「女性の世界史的敗北(母権→父権への全世界的移行)を、新しい資料と照合せず、無検証のまま、定説として信じ込んでいる。もともとこの母権→父権全面移行説は、遊牧、牧畜主体の父権社会であるヨーロッパ人が、自分たちの社会が父権中心であることを正当化するために提唱したものである。この説の提唱に当たって、東アジアの稲作農耕社会の社会心理的な実態(集団主義などウェット=女性的である)を、提唱者のBachofenEngelsらが熟知していたとは考えにくい。母権→父権全面移行説の提唱者たちは、ほとんどヨーロッパとその周辺のみを見て母権→父権の全世界における全面移行説を強引に唱えているふしがあるのに、日本のフェミニストたちは、その欠陥に気付かずに、理論の日本社会への直輸入をしているのである。

2)男女の心理的性差についての研究成果を、考慮に入れていない。社会のあり方(ドライ/ウェットなど)と、心理的性差のあり方との照合を行わないまま、女性が優位の社会は存在しないと断定している。日本社会については、「日本的=ウェット=女性的」という相関が成立する。日本では、女性が男性よりも勢力が強いからこそ、「日本的=女性的」となるのである。日本社会は、事実上、女性優位の社会という見方が成り立つのであって、このことは、日本のフェミニズムの主張とは相いれない。

3a)再生産過程についている専業主婦を、生産過程についている職業人より劣ったものとみなす偏見がある。

3b)「男は仕事、女は家庭」といった性別分業を、一方的な男性優位=家父長制と見なして、性差別と批判する、過ちを犯している。性別分業は、男女間で、生物学的貴重性が異なる以上、女性が強い社会でも、起こりうる(男性は危険な外回りの仕事に従事し、女性は安全な内回りの家庭を主な暮らしの場とする、など)。男女どちらが優勢かは、性別分業が存在するということだけでは決まらない。男女どちらが、社会において、管理者的な重要な役割を果たしているかにより決まる。日本では、女性が男性の生活管理者として、家計管理権限などを全面的に掌握しているので、女性の方が優勢と考えられる(たとえ男性が首相だったとしても、その妻は、「首相の生活管理者」として、首相よりもさらに1ランク上の存在として君臨している)

3c)日本では、男性が稼いだ給与の実質的な管理権限を持つのは女性なのに、その事実を無視して、名目的な所有名義のみにこだわっている。

4a)母性の優越(母子癒着)を、女性による社会支配と捉える視点に欠けている。

4b)女性主導による育児を、本来なら社会の女性化=女性優位を実現するものとして喜ぶべきなのに、「社会(職場)進出のじゃま」としてnegativeに捉えている(男性の育児への介入機会が増加する可能性が増えるので、男性をむしろ利することになる)

5)日本のフェミニズム・女性学自体が、「女性が弱い、差別されている」と大合唱することで、日本の男性を故意に強く見せようとする日本女性の作為(作戦、策略)の現れである。

男性を強く見せるのは、男性を自分たちを守る強い盾として使おうとする意識の現れであり、日本男性の強さは、そうした女性の意識に支えられて初めて成り立つ、「虚像(虚勢に基づくもの)」である。日本社会の見かけ上の主人()である男性は、本当()の主人には、現状のウェット=女性的な日本社会の体制の下では、永久になれない。ウェットな日本社会の本当(実際)の主人()は女性である。

6)女性の社会進出を阻む男性を攻撃する際に、男性側の心理を考慮していない。今まで男性が主に占めてきた職場に、自分とは生理的・心理的に異質な者(女性)が、新たに自分の周囲に進出してくるのを、男性側が、不愉快に思い、阻もうとするのは、人間の心理として妥当である。

〔2.今後の日本のフェミニズムが取るべき途〕

従来、「日本の」フェミニズムで主張されてきたことは、間違っているのではないか?

欧米で主張されているフェミニズムには正当な根拠が認められる(正しい)が、それをそのまま社会のあり方が異なる日本に直輸入して、機械的に当てはめようとするのは、正しくない。

伝統的な日本社会は、むしろ、女性向きにできており、その中で不利益をこうむっているのは、男性の方である可能性が高い(日本人の国民性はウェット=女性的な方向に偏っている、日本の家庭の財務を管理するのは女性である、...といったように、女性が実質的に社会を支配している)。

同じ男女差別でも、欧米と日本とでは、その性質が異なる。欧米では女性の立場が本当に弱いのに対して、日本のそれは、(女性向き社会に不適合を起こす)男性に生活面で依存されることによる負担を、女性が一方的に担わされる、というものである。日本の男女差別は、むしろ女性の立場が強い(男性を上回る)ために起きている。

「日本」のフェミニストは、こうした現実の(女性が強い)日本社会のあり方を、新たな枠組みで捉え直す試みを行うことで、自らが犯した、欧米理論の日本社会への強制的当てはめによる誤り(日本における、男女の力関係について、男性が強いという、誤った説を流したこと)を認めるべきである。

現在の、欧米(遊牧系社会)生まれの理論を、機械的に日本社会(農耕社会)に当てはめるだけの、日本のフェミニズムは、以下のような視点を取り入れて、新たな段階に脱皮を図るべきである。

(1)女性が弱いと見なす、欧米直輸入の部分を全て取り外し(削除し)、女性が強いことを前提とした理論構成に組み換えるべきである。例えば、女性が強い社会において、「強者の負担」が不合理なほど重いので、男性の、自分たちのところへ寄り掛かってくる度合いを、もう少し減らしてもらうには、男性にどのような形で協力を求めていけばよいかを、議論するなどである。

(2)強いのは見かけだけで、本当は、女性よりも立場が弱い、男性への配慮をもっと示すべきである。単純に、(欧米フェミニストのように)男性を強者と見なして攻撃するだけでは、日本の男性は、違和感を感じて心を閉ざしたままであろう。

(3)男女平等を説くのなら、女性に対して、家計管理権限の男性との共有(今までみたいに男性が稼いだ収入の全額を男性から取り上げて、小遣いだけを渡すやり方の廃止)の他、男性も育児に積極的に参加させて、女性向けに大きく偏った国民性をより男性向きの形に変化させること、などを、女性の側も受け入れるよう説得するべきであろう。

(初出199908)


日本のフェミニズムの主張には無理がある

従来の日本のフェミニズムの主張が、無理があることを以下に示す。


女性の経済的自立をうたうことは、職場で女性が男性社員化を目指すことになる。しかし、出産とかで男性社員並みになるのは無理だと判明し、辞めてしまう。


女性管理職、幹部の増大は、女性幹部が責任を取らない、無責任体制を生じさせてしまい、組織崩壊につながる。


セクハラの根絶は、男女のつながりが出来にくくなる副作用があり、恋愛の減少や、少子化につながる。


(初出2013年10月)




日本における女性の「社会進出」について

1.はじめに(家庭は「社会」ではないのか?)

現在言われている、女性の「社会進出」とは、従来、家庭に囚われている女性を、そこから解放して、男性が占有してきた「社会」(官庁、企業...といった家庭以外の場所)に進出させる、ことを指すものと思われる。

まず、女性の「社会進出」を唱える人たちは、家庭を社会の一部と見なしていない節がある。

家庭は、誰もがそこから出かけ、仕事などをしたあとで、必ず帰着するところの、社会の「(航空)母艦」のような意味合いを持ち、社会の根幹部分を形成するといえる。その意味で、家庭を社会とを別々に捉える、「社会進出」という考え方は、誤っていると思われる。家庭を支配するものこそが、社会全体の根本を支配すると言ってもよいのである。

2.なぜ日本女性の「社会進出」が進まないか?

なぜ、日本の女性が家庭に囚われてきたか?女性が、家庭に縛られる現象がなぜ起きているか?これについては、(1)生物学的な見地に由来する問題と、(2)日本など、農耕社会固有の問題とに分けて考えるべきである。

(1)まず、生物学的側面について考える。女性の方が、男性よりも、担うところの生殖細胞(卵子)の数が少なく、作りがリッチであり、生物学的貴重性が高い。その点、人間の種としての存続をはかるためにも、女性は、(貴重性が低い男性よりも)より安全が確保されたところに常時とどまり続ける必要があった。それが、「巣」「内」としての家庭であった。一方、家庭から切り離されたところの職場は、より危険性の高い「現場」「外」の世界であり、男性により向いた場所であった。

しかるに最近は、ほとんどの職場では、安全性が高くなった。コンピュータ化が進んで、危険な作業は、みな機械が行い、人間は安全なところにいたままで、職務を遂行できるようになった。その結果、職場は、(生物学的貴重性の低い)男性が占有する必要がなくなってきた。女性の「職場進出」は、十分可能な状態にあると考えられる。

ただし、現状では、職場は、あくまで、日中、家庭から、出かけていって、作業をするだけの場所に限定されており、職場で働いた人間は、家庭に再び帰って、食事をする、寝る..などのことをする必要がある。

今後は、職場にも、家庭同様の「巣」としての機能(一日中占有することのできる、睡眠や食事を取ったりできる、ないし育児の設備が整っている、自分専用の安全な居場所)を持たせること、すなわち家庭と職場との同一化が、恒常的に安全な場所を求める女性が、職場に完全に進出する根本的な条件となる、と考えられる。

(2)次に、農耕社会固有の問題について考える。家庭は、社会の基盤部分を支配する「(航空)母艦」としての役割を担っている。日本のような農耕社会においては、そこは、女性が支配している。従来、外働きしていた日本の男性は、女性に対して、心理的に依存して(甘えて)おり、母親代わりの女性に家庭にいてもらわないと不安である。そのため、女性が家庭から外に出ることに反対する。

したがって、日本社会において、女性がスムーズに「社会進出」するには、家庭が男性による心理的依存の場である状態を止めればよい。具体的には、女性が、男性の母親役から降りればよいのである。より根本的には、男性が女性に心理的に依存する元となる、女性による男性支配をやめて、男性を自立させることが必要である。これには、例えば、育児時に、母親や祖母が子供(特に息子)に、心理的な一体感をあまた持たせないように、自分にあまりなつきすぎないように、甘えないようにすることが必要と考えられる。

日本の男性は、フルタイムの過酷な条件で働けるが、女性は、家事・育児があるからパートタイムでないと働けない、それゆえ、社会進出が遅れているとする見方があるが、これも、家庭において、男性が女性に対して、心理上、全面的に依存しており、それを女性も許容しているため起きる現象である。すなわち、男性が家庭を省みないで働けるのは、女性に、家庭の全てを、心理的に任せているからである。より正確には、家庭は、女性に全面的に支配されているので、任せざるを得ないからである。男性がフルタイムで勤務しようとする強迫感から逃れさせるには、女性が家庭を全面的に支配する状態を改め、男性にも、家庭に心理的な居場所(自分の存在を明確化・肯定する場)を設けてあげる必要がある。

3.男性が女性の「社会進出」を受け入れる条件とは?

日本のフェミニズムでは、女性が家庭に縛りつけられるのは、(欧米の基準から見て)遅れている、として否定するする考え方が強い。しかし、女性が、家庭に留まることを否定すること自体、(家庭が男性主導のものであり、女性はそこから出たがっている)欧米的な家庭観を、強引に(家庭が女性主導のものであり、女性はそこから出る必然性は特にない、むしろ女性にとっては、皆を心理的に支配できて居心地がよい)日本社会の家庭に当てはめようとするものである。これは、日本のフェミニストの、浅慮による日本社会の現状把握失敗の現れである。なぜならば、家庭こそが、日本において、女性によって、社会全体を支配するための効果的道具として使われてきたことに気づいていないからである。

社会のあり方を職場中心に見る、日本のフェミニズムは、日本社会が男性中心に動いているとする、誤った見方に囚われている。これは、この説を見て、「自分も『社会進出』しなければ」と考える女性による、家庭の放棄をもたらし、かえって家庭を、男性を含めた社会全体の管理・コントロールの基地(社会を支配する力の源)として利用して来た、女性の力を、皮肉にも弱めている(日本男性にとっては、都合のよい事態であるが)。

欧米の女性にとっては、家庭は自分たちの居場所ではない(男性に支配されている場であり、女性たちはそこから疎外されている)から、家庭からの脱出を求めた。日本では、家庭は女性の支配する場であり、男性はそこから疎外されているからこそ、家庭の外である職場に、逃げ出して、そこに安住の地を求めているのである。日本における女性の職場進出は、男性にとって安住の地を脅かされる行為に他ならない(欧米の男性にとっては、そうではない。彼らは、ちゃんと家庭を押さえている(自らの支配下に置いている)からである)。

女性の「社会進出」は、日本の男性にとっては、社会のあり方全般を女性的なものに支配される中で、自尊心(一家の経済を支えるのは私だ..)を保つためのの最後の拠り所・牙城を切り崩される由々しき事態に他ならない。女性の「社会進出」をスムーズに行われるようにするには、職場が、男性にとって、自尊心を保つ最後の切り札として働く性格をなくすことが必要である。

女性が従来占有して来た特権(家計管理による収入・支出決定の権限、育児権限..)を、男性にも明示的に開放することが、男性が、官庁・企業などの組織における地位に強迫的に固執する(女性を排除しようとする)心理から解放させる、一番の手である。日本において、女性の「社会進出」を進めるには、こうした男性の「全面的に女性に支配される」という恐怖心を取り除くことが必要である。

4.女性はなぜ高い地位に就かないか?

女性の「社会進出」の遅れと関連して、女性が組織(官庁、企業..)で高い地位に就くことが少ないことが、「男性が女性を支配している」ことの恰好の証拠として、日本のフェミニズムでは、取り上げられている。

なぜ、女性が高い地位に就かないかについては、(1)生物学的側面と、(2)農耕社会特有の「女性が男性を持ち上げる」側面の2つから考えることができる。

(1)高い地位への就任を、組織において、役職に就くことと捉えるならば、高い地位に就くことは、失敗したときの責任を取らされる度合いがそれだけ重くなることを意味する。これは、成功している時はよいが、失敗時には、真先に批判の矢面に立たされることになる。責任を取るには、社会的な制裁(懲戒処分、刑罰、悪い風評..)を受け入れなければならないが、その際、自らの生活が脅かされる危険が大きくなる。これは、生物学的に貴重な、それゆえ、自らの保身に敏感な女性には、耐えがたい事態である、と考えられる。女性が大事にする、生活上の「安全性」が保たれないのである。男性は、その点、自らの保身に、女性ほど敏感ではないため、役職について、失敗した結果、責任を取ることにも平気である、と考えられる。

あるいは、女性は、男性に比べて、人間関係の維持を重要課題とするが、地位相応の業務に失敗して、周囲の、自分が依存している皆から、後ろ指を指される(疎外される)状態が、耐えられない。それゆえ、高い地位を、そういう事態も受け入れる男性により任せるようになる、とも考えられる。

自ら直接は高い地位には就かず、男性に就かせて、その男性を、(自分を母親代わりにさせるなどして)自分に心理的に依存させることで、社会全体を間接的に支配するのが、伝統的な、女性による男性支配、社会支配のやり方である、と考えられる。これならば、社会を支配しつつ、なおかつ責任を取る事態からは免れることができる。

(2)女性の地位の低さは、「男尊女卑」がもたらしている現象でもある。日本のような農耕社会では、社会が女性のペースで動いており(社会が女性向けにできており)、男性の地位は女性に比べて低い。これをそのまま放置すると、男性は、「自尊心」をなくし、やる気をなくす(仕事をしない)。

そこで、農耕社会では、男性を、組織において、肩書のある「高い」地位に優先的に就かせて、「自尊心」を満足させ、仕事に打ち込むようにしむけることが必要になる。女性が就く地位は、男性の補助となり、低めになる(男性を立てる)。これは、男性の地位が実は低いことを自覚させないことで、男性の力を引き出すために必要である。働けば、自分の地位が高くなると男性に思わせることが、社会の発展の原動力となる。この場合、高い地位は、あくまで、見かけだけのものである(本当に社会をコントロールしているのは、女性である)が、そのことを隠して、男性を「エライ」とほめそやすことにより、男性は、女性が支配する社会の中で、「自尊心」を何とか保持できる。

5.女性を高い地位につかせるには?

女性が自ら社会的に高い地位につくことを積極的に追求するようにするには、失敗時に取らなくてはいけない責任を小さくすることが求められる。失敗時に、その責任を上下左右の地位へと分散させること、責任を周囲との連帯責任とすることで、本人の取らなくてはいけない責任を軽くすることが必要である。

例えば、女性が責任者のプロジェクトチームで作業を進めている場合、作業が失敗したら、従来のように上司(の女性)一人が責任を取る(上司に責任が集中する)のではなく、チーム員全体で責任を取るようにする、責任をチーム員各員に分散させる、といった仕組みを作る必要がある。そうすることで、上司の女性の取らなくてはいけない責任が軽くなり、責任を取ることへの心理的圧力が少なくなるため、女性は、より上司の立場に気軽に立つことができるようになり、高い地位につきたがるようになると考えられる。

また、日本のような農耕社会では、女性が、「男尊女卑」でわざわざ男性を心理的に持ち上げて仕事をさせることをやめ、自分で職場進出を果たすことで、今よりも男性が頼りなくなり、自分に対してより依存的になってしまうことを受容しつつ、自力で、職場での仕事と育児などを両立させていく方向に進むことが考えられる。その際は、女性が、部下の男性に対して、母親のように接することで、日本男性の持つ母親的な存在への依頼心を満足させ、男性はスムーズに上司の座を女性に譲ると考えられる。

なお、従来、日本男性が女性に対して生活面で依存的で、食事、洗濯などいろいろ世話を求めることが、職場で働き、高い地位を追求しようとする女性の負担を一方的に増している点は見逃せない。対策としては、例えば、男性に対して、従来のような「妻」「嫁」ではなく、「母親」の態度を取ることで、男性をスムーズに自分に従わせることが考えられる。つまり男性を自分の配下にある「子供」のように扱って、男性自身がそうした自分の世話を自分でやらせる方向へと、男性の母親のような態度を取って絶えず「しつける」「命令する」のである。あるいは、男性が必要とする世話を、家庭外にアウトソーシングすることが考えられる。食事は、コンビニエンスストアの弁当をあてがうといった対処をするのである。その際は、男性の健康をきちんと気をつけていることを男性に対して示すために、例えば、事前に、コンビニ弁当に栄養士の監修が付いていることが当たり前となるような運動をコンビニエンスストアや外食産業などに対して起こすべきであろう。

(初出199808)


日本女性の経済的自立について

日本において、女性の経済的自立が達成されていないと言われてきた。収入を得るのが専ら男性で、女性は収入を自ら得る機会が閉ざされており、その点女性は差別されている、とされてきた。。

しかし、実際には、必ずしも収入を得ることが、経済的自立につながらないと言えるのではないか?いくら、収入を得る力があっても、その最終的な使い道を自分で決められず、管理者を他において、使い道の決定をその管理者にゆだねているのであれば、彼は、管理者に経済的に従属しており、自立していない、と考えられないであろうか?

日本の女性は、自分は収入を得なくても、収入供給源となる男性の動作をコントロールする主体として現れることにより、家庭における経済活動の主体であることで、自立を果たしているのではないか?

日本の女性は、収入供給者たる男性に対するコントロールを、隅々まで行き届かせている、と考えられる。日本の女性は、収入供給者のメンテナンス(世話)~収入供給者への指示(よく働いてきなさいと命令)を行う管理者(収入管理者、家庭内管理職)としての役割を果たしている。男性は自分が稼いできた収入を管理する権限を持ち合わせていない。給料袋の中身は手を付けずに女性のもとに直行する。そういう意味では、家庭における経済行為の主体は、決定権を持つ女性であり、その主体たる女性こそが、経済的に自立しているといえる。

女性(妻)から小遣いを配給される(家計上の最終決定権を持たない)男性(夫)は、経済的には女性の従属者(女性の配分決定に従うだけ)であり、自立しているとは言えない。

以上の女性と男性との関係は、大工道具(男性に当たる)と棟梁(女性に当たる)との関係と同じである。経済的主体は、管理者たる棟梁であり、大工道具はその従属物(自らは経済的に主体性を持てない)に過ぎない。これを男女の関係に当てはめて考えると、経済的主体は、管理者である女性であり、男性はその従属物(主体性がない)ということになる。ただし、大工道具がないと棟梁は生活の手段を奪われるため、生活できなくなる恐れがあり、その意味で、道具に頼りきることはリスキーである。それと同様に、収入を生み出す打出の小槌である男性がいなくなると、女性は、収入をもたらしてくれる生活の手段がなくなるため、管理者としての手腕がいくらあったとしても、そのままでは自活できなくなる。

収入供給者たる男性が都合で(死別、離婚など)いなくなったときに自活できるようにすることを求めるのが、日本における女性のいわゆる「経済的自立」への動機である。

こうした、女性の「経済的自立」は、あくまで、収入保険としての意味合いが強い。たいていの場合は、男性は定年までは生きつづけるので、収入は確保されることがほとんどであり、女性の収入管理者としての地位は安泰である。家庭に収入を入れる者がいる限り、女性は、収入の使い道を最終的に決定する家計管理者としての地位を確保できるので、自ら収入を得ることの必要ないしプレッシャーは弱い。収入供給者側の世界への進出は進みにくい。これが、日本で女性のいわゆる社会進出が遅れる一つの理由であると考えられる。

収入供給者(男性)のたまり場たる官庁・企業における生存環境が厳しいのは、家庭における管理者(女性)による収奪(給与を男性から取り上げて自分の配下に置くとともに、よりよい収入高を求めてのプレッシャーを男性に対してかけつづける)が激しいから、と考えられる。男性は、稼いでこないと、もっと稼いでこいという批判やプレッシャーを女性から受ける。男性は、生活面で女性に全面的に依存している(一人で生活して行けない、自分自身の生活の面倒を見ることができない、生殺与奪を握られている)ので、働くのがいやと断れない。男性は、その結果、全力投球で働かざるを得ない。そのことが、男性の家庭内での不在をもたらし、家庭内の居場所がなくなり、存在感がますます薄くなるという悪循環に陥る。

女性が、男性に比べて、パートタイマーのような補助的な仕事にしかつかない(つけない)というのも、家庭における、収入・支出額のコントロールを含めた、総合的な「管理職」の仕事が女性の本分であり、最も重要な主たる任務であり、それをおろそかにしてもらっては困る、という社会の要請があったからである、と考えられる。家庭が、社会全体の「(航空)母艦」としての役割を果たしている(いた)ことと関係がある。

現代日本の女性が、自ら収入を得る立場につこうとするのは、

(1)男性と一緒でなく、一人で生活する自由を確保したい(ないし、一人で生活することになっても困らないようにしたい)、という傾向による。従来の、収入管理者としての職務を遂行するには、生活面で、男性との二人三脚が必須(男性と一緒に生活することが必須)であったのを、忌避する。すなわち、男性がいなくても、収入面で困ることがないようにしたい、と考えるためである。なぜ、そのような考えが生まれるのであろうか?

日本の男性は、(農耕社会においては、弱者の立場にあるため)女性に対して生活面で依存的であり、食事、入浴など生活上のさまざまな面で、いろいろ女性に世話をしてもらうことを要求するのを当然とする気風があるため、それが(生活面で自立を果たしている)女性には、うっとうしく、煩わしく感じられる。そこで、男性と一緒でなくて、一人でいる場合でも、十分な収入を得られるようになる状況を予め確保することで、心理的に男性から自由になること、を望む。これは、社会における待遇面での男女平等、すなわち社会的負担の大きさにおける男女格差(女性の方が、社会的に強い分、負担も大きい)をなくそう、という考えにもつながっている。

(2)「家庭内管理職」の職務が、電化製品やコンピュータの普及、ないし子育ての保育園~学校への委託、すなわち、家事・育児の「アウトソーシング」化、により簡易化され、時間的な余裕が生まれたので、その分を、自らの生きがいとなることをしたり、探したりすることに充当したい、という考えによる。収入を得る仕事自体が、自分自身にとって、生きがいを生み出す、積極的な意味合いを持つものとして感じられるから、仕事をしたい(その結果として、収入を得たい)と考える。

今後、女性の、自ら収入を得たいという傾向は、一層強まると考えられるので、その点、今まで主婦が担ってきた、社会の「母艦」的役割(食事、洗濯、育児..など家族の面倒を見る機能の負担)を、公共的な役割を担う機関に「アウトソーシング」(外部委託)することが普通になるようにする体制を整えることが、より必要となる。

(初出199808)

日本女性の「社会」的地位

日本の女性は、より安全な「内」=「家庭」にとどまるのを好み、「外」=「社会」に進出しようとしなかったため、「外」なる「社会」における地位が低かった。地位が低いと弱く見える。「内」での地位は、外部観察者からは見えにくいため、たとえ本当は高くても、過小評価されやすい。

注)「社会」という言葉の使い方に、注意を払っておく必要がある。「社会」の語義は、

1)農耕「社会」という場合のように、広く全体社会を指す場合(広義)

2)「社会」進出という場合のように、企業・官庁などの職場、いわゆる(家庭の)「外」の世界を指す場合(狭義)

とに分かれている、と考えられる。2)の場合、「家庭」は「社会」とは言えない(含まれない)ことになる。

1)では、家族「社会学」といった言い方が存在することから、「家庭」といった「内」なる世界も、「社会」に含まれる)

「社会的地位」という場合の、「社会」は、2)の「外」の世界を指していると考えられる。

女性の「社会」(あくまで狭義)的地位は低い。あるいは、女性は、自ら高い地位につこうとしない。

その原因は、

1)男性に、自分を弱く見せて、守ってもらおうとする。地位の低い者が、弱く見えることを、逆に利用している。

2)(狭義の)社会」的地位は、従来、職場=「外」の世界のものである。家庭という「内」なる世界から出かけて(離れて)、外敵や危険に対して直接我が身を露出させながら、働く場=職場が、「(狭義の)社会」=「外」であった。職場は、危険な外回りをしなければならなかったり、寝床がなかったりして、究極的には、安全な「内」なる家庭に帰ることが前提となる。たとえ働く場が(しっかりした建物の中などで)安全だったとしても、そこにたどり着くまでに、危険な目に会う可能性が、少なくとも過去には、大いにあった。要するに、「外」は危険であり、「内」は安全である。

なぜ女性が「内」の世界を指向するかと言えば、生物学的に貴重であるため、外敵からより効果的に身を守る必要があり、安全な「内」なる世界は、(「外」の世界に比べて)その要求を満足させやすいからである。女性の「社会」進出(社会的に高い地位につくこと)が遅れたのは、「社会」が「外」なる世界だったからである。女性の「社会」進出が起きるようになったのは、1)「外」なる世界が、交通・通信の便や治安がよくなって、「内」並に安全になってきたので、外出しやすくなったから、2)「内」なる世界(家庭)での作業(家事)が省力化され、時間的余裕が生まれたため、である。

3)高い「(狭義の)社会」的地位につくことに伴って生じる責任や、失敗時の制裁・刑罰の増加などを回避しようとする。高い社会的地位につくことで増すところの、危険な目に会いたくない。自己の保身のため、男性に責任を押しつける。

4)人間に対する指向が強く、周囲の意向を気にする(性格がウェットである)ため、失敗して、恥をかいたり、嘲笑されるのを恐れる。高い地位につくほど、失敗時にそうした機会が増えるため。

5)(ウェットな社会のみ)男性を優先して高い地位につけようとする(男尊女卑)(農耕社会への適応の過程で、女性によってドライな性格部分を殺された結果、無能になって、社会的重要性の低い)男性に、見かけ上高い地位を与えることで、男性に自尊心を起こさせ、より効果的に働かせる(自分から進んで働くようにさせる)。モラールを高め、勇気や意欲を奮い立たせて、筋力・武力などの能力を発揮させる。

女性が、高い「(狭義の)社会」的地位(企業・官庁の管理職ポスト)につくことを、そのまま女性解放の度合いを示す指標とは見るべきではない。女性が、失敗時に全責任を背負わなければならない条件のままで高い社会的地位を目指すことは、上述のように、女性の本来的な保身性向に反する面が強いからである。

女性が自ら(狭義の)社会的に高い地位につくことを積極的に追求するようにするには、失敗時に取らなくてはいけない責任を小さくすることが求められる。失敗時に、その責任を上下左右の隣接する地位の成員へと分散させること、責任を周囲との連帯責任とすることで、本人の取らなくてはいけない責任を軽くすることが必要である。このように、責任分散がはかられた状態で女性が高い地位を目指すのは、女性の本来的な性向に照らし合わせて自然なことである。その際は、女性が高い地位につくことが、女性解放の度合いを示す指標とし得る。

ある(広義の)社会における、本当の女性解放の度合いを示す指標は、女性本来の性向を示す、行動面でのウェットさ(集団主義、同調指向、前例指向...)が、その社会で、どれだけ高い価値を与えられているか、認められているか、である。ウェットさの価値が高いほど、認められているほど、その社会における女性の地位は高い。日本は、これらの価値を高く設定しており、見かけとは裏腹に、女性の(広義の社会での)「地位」が高い。

日本の職場(生産する場、賃金を稼ぐ場)が男性中心であって、そこへの女性の進出が進まないのは、女性の高い地位につくことを避ける性向以外にも理由がある。それは、そこが、男性の自尊心を保持できる(家族を経済的に支えているのは私をおいて他にいない、との誇りを保てる)最後のとりでであって、そこに女性が進出してくるのを脅威に感じているからだと考えられる。男性側は、女性には、簡単に明け渡したくない。明け渡すと、せっかく保って来た見かけ上の高い地位からも一挙に転落し、最後の自尊心が消えてしまう。後は(見かけ・実質両面で男性を圧倒する)女性のペースに合わせてひたすら従うだけの社会的落伍者に成り果てるからである。

(初出199912)


「女らしさ」はいけないか? -日本における女らしさの否定についての考察-

現在の日本では、男性が女性に「女らしくあれ」を口にすると、性差別だとかセクシャルハラスメントにつながるとして女性から責められる。しかし、そんなに女性が「女らしい」ことが悪いことなのかどうかと言えば、筆者は大きな疑問を抱かざるを得ない。

「女らしさ」を悪く言うのは、

1)人々が取るべき態度についての現在の世界標準が、欧米社会のドライな男性的態度にあり、ドライな男性的態度がより望ましい、好ましいと、人々に映るからである。

2)日本女性による、今まで男性の拠点だった職場への進出=社会進出指向にあると考えられる。

従来、「女らしさ」=家庭の中にとどまって、外に出ないこと(外に出て働く男性に対して、母艦の役割を果たすこと)、と短絡的に捉えられてきた。この観点からは、それが女性が新たに進めようとしている職場進出へのじゃまになるとして敬遠されているのであろう。

女性が家庭の中にとどまる必要があったのは、家の中の方が外で働くより安全であったからというのと、もう一つは、乳児の養育や世話で両親のどちらか片方が家に残る必要が出た場合、母乳が出たり、子供が産まれる以前に子宮で子育てをしていたのが女性だということから、女性の方が子供の養育に対して親和的であるということで、女性=家庭という結びつきが自然とできたと考えられる。

現代日本では、以下の理由から、女性が職場進出(社会進出)を図ろうとしている。

1)治安がよくなって、家の外でも安全になったこと、保育園などの子供養育施設が整備されつつあることから、女性=家庭の結びつきは弱くなりつつある。女性は、家の中に必ずしもいなくてもよくなった。

2)従来、日本の女性は主婦として、家事と子供の教育を通して、自己実現を図ってきた。しかし学校制度の充実により、子供の教育に手がかからなくなった。また家電製品の普及により、家事に割く時間が大幅に減った。これらの理由のため、何もすることがないアイドリング時間が増える結果となり、自己実現のターゲットを家庭以外に求める必要に迫られた。

※なお、従来、女性の社会進出の理由として、女性自身の、男性の収入に頼らない経済的自立への指向というのが散々言われてきた。しかし、もともと日本の家庭において、経済(家計)面での管理権限は女性が握っていることから、経済的に依存・従属関係にあるのは、女性に給与をいったん全て取り上げられ、取り上げられた金額の中から改めて小遣いをもらう男性なのではないかと考えられる。すなわち、女性=経済的支配、男性=従属の関係が成立していると考えられる。支配している側と従属している側とがどちらが自立しているかと言えば、明らかに支配する側の女性であろう。

従って、「女らしさ」=家庭的という見方に囚われている限り、女性は、「女らしさ」を排撃したくなると考えられる。

筆者は、真の「女らしさ」は、もともと家庭的なことそのものではないと考える。 「女らしさ」とは、自分のことを貴重な大切なものとして他者よりも優先して守ろうとする「自己保身」にある。

家庭以外の場所が安全になり、そこでも活躍できることが分かれば、そこに進出しようとするのは女性にとって当然のことである。今までは家庭においてなすべき仕事=家事はたくさんあったが、今は家電製品などの導入で省力化が進み、女性たちの活躍の場は狭まっている。家庭は自己実現の場としては物足りなくなったといえる。

ただし、女性が職場進出しても、男性のように高い地位につくことを指向するとは必ずしも言えない。

なぜなら、女性は、自己保身のためには、失敗の責任を取って危ない目に会うことをできるだけ避けようとする「安全第一」「責任回避」主義者だからである。女性は、自分からは受動的に行動することで、能動的に行動した結果生じる行動に対する責任を取らないようにする。また、社会的に高い地位につくことに伴って生じる意思決定上の責任を取ることを嫌って、自分からは責任ある高い地位につくのを避けて、男性にその役をやらせようとする。

日本女性が社会的に高い地位についていない現状を見て、女性差別だと唱えるフェミニストは多いが、実際のところ女性は高い地位から男性などの外的圧力によって遠ざけられているために高い地位につけないのではなく、むしろ「高い地位につくことによって生じる社会的責任やリスクを回避するために」「社会的に高い地位につくことを自ら進んで回避している」のである。欧米社会のフェミニストのように、失敗時に大きな責任を取らされ、社会的生命を失うことを前提として、女性を高い地位につかせることを奨励すること自体、保身、安全第一で退嬰的な、女性の本性に反する異常な考え方である。

女性が社会的に高い地位につくことを自然なものとし、女性が社会的に高い地位を積極的に追求させるようにするには、失敗時にその責任を上下左右の隣接する地位のメンバーへと分散させること、責任を周囲との連帯責任とすることで、本人の取らなくてはいけない責任を軽くすることが求められる。

社会的地位が高くない、責任を取る立場にいないからと言って、女性の社会における支配力が小さいとは見なせない。特に日本などの農耕社会では、女性は、自らは男性の母親役を取る(息子の母親となる、妻として夫の母親代わりとなる)ことで、男性を自分に対して心理的に依存させた上で、自分の思うままに操縦して社会的に高い地位を目指させ(競争させ)、高い地位についた男性に対して自分の思い通りのことをやらせようとする。日本においては、男性は、どんなに高い地位についていたとしても、女性の(特に母親の)かいらい・ロボットと化しており、女性の支配下にある。

こうした女性の性格と日本人の国民性とがよく似ていることを 筆者は文献調査で確かめた。日本はもともと女性的な、というか、女性優位の、男が虐げられている社会=母権制の社会と言える。

女性が優位の「女らしい」「女々しい」日本社会では、女性は、社会的な責任やリスクは取らず、かつ実質的な支配権は握るという「無責任支配」「無リスク支配」の体制を確立していると考えられる。すなわち、「支配すれども責任取らず」「支配すれどもリスクを取らず」という言葉が、女性による社会支配の特徴を言い表すと考えられる。

そういう点では、女性自身による「女らしさ」の否定は、せっかく自分が社会の中で支配力のある有利な状態にあるのを進んで止めようとすることであり、馬鹿げた自己否定以外の何者でもないという感じがする。

特に問題なのは、女性が、男性を「強い」「頼りになる」とおだてると同時にその裏ではしっかり、男性の生活全般を母親の如く隅々まで支配・コントロールする(家計管理の権限掌握などはその代表例と考えられる)「アメとムチ」の使い分けを行っている点である。

男性が家庭に帰らないで、職場に長くい続けるのも、家庭が女性の支配する場であり、自分とは異質の雰囲気になっているのが不愉快だからと言える。

家庭における女性(母親)支配が男性を家庭から遠ざけて職場に固定化し、それが家庭の外に出て職場進出しようとする女性の行く手を阻むという、女性にとっては複雑な仕組みになっている。

その点、女性がスムーズに職場進出するには、家庭における自分の主導権を放棄して男性と対等化すること、家庭において男性の居場所を確保することを容認することが求められる、と言える。

なお、日本における職場の雰囲気自体は、集団主義、プライバシーの欠如、対人関係面での調和や前例・しきたり偏重といった女性向きのものとなっており、本来は男性よりも女性の方が、能力を発揮しやすい環境にある。

確かに職場に数の面でたくさんいるのは男性だが、彼らは母親や妻によって、男性本来の個人主義、自由主義、独創性の発揮といった行動様式を骨抜きにされ、すっかり女性化した「母親臭い」存在と化している。そういう点で、男性のたくさんいる日本の職場は、もともと女性とは相性がいいのである。

(初出200111)


「専業主婦」=「役人」論

日本の主婦、特に専業主婦は、役人と性質が似ていると考えられる。

この場合、役人とは、中央省庁、地方自治体の職員、すなわち国家、地方公務員を指す。

日本の役人と専業主婦との共通点は何か?2つあると考えられる。

(1)自分ではプラスの入金をしなくても、自動的に自分の使えるお金が自分の手の中に入ってくる点である。

(2)その入ってきたお金をどう使うかというのを決める権限をがっちり握っている点である。

(1)に関して言うと、専業主婦の場合、自分では何も生活に必要なプラスの入金をもたらさなくても、夫の給与の振込先銀行口座に、毎月自動的に、自分が自由に使えるお金が、夫の労働によって、入ってくる。

役人の場合、自分ではプラスの入金を何ももたらさなくても、予算を組むのに必要なお金が、毎年、民間企業や労働者から、自分たちの自由に使える税金の形で、何もしなくても、自動的に上がってくる。

日本の専業主婦や役人は、「僕稼ぐ人、私使う人」と言う表現をするとすれば、「使う人」を地で行っていると言える。

本来、自分の属する組織(これは、家庭でも、会社でも何でもそうだが)にプラスの入金をするためには、何かしら、余所から利益を上げないと、儲けないといけない。それに必要な、才覚、知恵、忍耐力が求められる。

会社だったら、顧客、取引先、上司、同僚から、絶えず文句を言われ、辛い、しんどい大変な思いをして仕事をすることで、やっとそれと交換にお金が入ってくる。楽して利益が上がることはほとんどなく、仕事の中身についても選択の余地がないことがしばしばである。

ところが、専業主婦や役人は、自分ではこの辺の苦労を何もしないで(夫や民間企業の労働者にやらせて)、プラスの入金を自分の手元にいとも易々と手に入れているのである。

官民格差の本質は、給与水準の差がどうのこうの言う以前に、この辺にあるのではないだろうか。要は、自分の手でプラスの入金を確保しなければならず、しかもそのうちのいくらかを自動的に巻き上げられてしまう立場の民間労働者と、自分の手ではプラスの入金を確保するために働く必要がなく、民間労働者から入金を巻き上げれば済む気楽な立場の役人との差が官民格差の本質である。

こうした格差は、給与稼ぎをする夫とその専業主婦との間にも当てはまる関係であると言える。一生懸命働いてプラスの入金をしなければならない役回りの夫と、何もしなくても自分の使うお金が自動的に銀行口座に入ってくる専業主婦との間には、官民同様の大きな格差があり、これは立派な男女差別である(女である専業主婦が上で、労働者の夫が下)

要は、自ら苦労せずに、必要なお金を他から巻き上げる搾取者、寄生者としての体質が、専業主婦にも、役人にもあるのである。

次に(2)についてであるが、日本では、家庭の家計管理の権限を主婦が独占しているという状況がある。夫の銀行口座から入金されたお金を何に使うか、最終的に決定して、お金を配分するのが、主婦である。家庭のお金を配分する権限を主婦である女性が握っている。夫は、少額の小遣いを、主婦から頭を下げて出してもらわないといけない。

この実態を示すのが、百貨店売り場での女性向け売り場がやたらと大きく広く、男性向け売り場が貧弱なことである。例えば、JR京都駅の駅ビルの百貨店の売り場案内パンフレットとか見れば、この辺の事情は一目瞭然である。家庭のお金の割り振りの権限を女性、主婦が握っているからこそ、女性向けの売り場が立派なのである。

税金についても同じことが言える。税金の使い道を決めるのは、建前上は国民主権となっているが、実際には、役人が自分たちのために決めている。彼らは、縦割りの行政組織の中で、自分たちの部署の取り分、ひいては自分自身の取り分が最高になるように、予算折衝を繰り返しているのである。

この点でも、専業主婦と役人は似ていると言える。

専業主婦は、家事が大変だとか表面上言われながらも、その実態は、「三食昼寝付き」の気楽な稼業であることは確かである。個人的意見としては、今後、専業主婦には、家庭への入金のための労働を夫ばかりに押しつけるのではなく、子供の育児が終わって暇になったら、入金の主要な役回りを、夫としっかりワークシェアリングしてもらいたいと思う。また、家計管理の権限を夫と分け合うこともしてほしいと思う。それが、日本の家庭で真の男女平等が実現するきっかけになればと思っている。

上記のお金関係以外に、役人と専業主婦とは、もう一つ似ている側面がある。支配者、権力者としての性格である。

役人は、戦前から「お上」「官」として、民間の人々を支配する、言わば「天皇家の直参、直属機関」としての権力者の性格を持ち続けている。「官尊民卑」という言葉がこの辺の実態を表す言葉である。官庁や地方自治体は、許認可や法律規制の権限を盾に、民間企業や国民を意のままに支配している。戦後は、天皇家の上にアメリカが来たので、それに迎合して、「民主的になりました」という顔を一見しているだけである。

専業主婦も、子供としての息子や娘を「自分の自己実現の駒」として支配、コントロールする「母」(夫を子供扱いする妻もこの同類である)、嫁や婿を支配する「姑」として、子供を通じて社会を間接的に支配する、社会の最終支配者、権力者としての顔を持っている。

多分、日本社会で現在一番強い立場にあるのは、役人(公務員)の専業主婦(例えば高級官僚を夫に持つ専業主婦)ではないだろうか?

(初出200510)


少子高齢化対策と日本女性、専業主婦


現在の日本では、お金を、夫婦共働きで稼がないと生活して行けない。

どちらか一人では、給料が高い要件、雇用が無い。


今まで、日本社会の真の支配者は、女性、それも家の財布と子供をがっちり握り、経済的に恵まれ優遇された環境にあった専業主婦であった。ウェットで母性優位な社会の雰囲気、国民性がその表れである。


今までの日本社会、日本女性の価値観が「専業主婦は勝ち組で、働く女は負け組、惨め、恥ずかしい」だったのを、「働かない女、稼がない女は負け組、専業主婦だと恥ずかしい。働く女、稼ぐ女は勝ち組」に変える必要がある。


しかし、母の仕事と、母子一体感の維持の両立が難しい。母子一体感を重視すると、女性は働きに出られない。母子一体感の保持により、我が子を精神的に支配し、自分の子供を通じて、社会に強い影響力を及ぼし、社会を支配するのが、日本女性による社会支配のやり方の常套手段であり、それを奪われるのは、女性は嫌がる。上記と対立する。


また、母親が育児のため、会社を一旦辞めると、非正規雇用化してしまい、正規に採用してもらいにくくなる。パート採用になってしまう。


白紙採用へのこだわりを捨てることと、白紙から自分の職場の色に新人を徐々に染めることによってもたらされる職場一体感の維持とが対立する。


日本の職場は、生え抜き重視、偏重からの脱却が必要である。一旦辞める、抜けると駄目という感じだと、母親が育児休業出来なくなってしまう。


相互の一体感を重んじる文化、ウェットな母性的文化を維持したまま、「働く女、稼ぐ女=勝ち組」にするのが、実は難しい。



また、なぜ男性ばかり働くのか。それは、日本社会で、家庭が母子、妻子の占有物であり、家庭内に父、夫の居場所が無く、職場にしか父、夫の居場所が無いからである。


夫、父は、職場に逃げて会社人間になるが、お金を稼ぐだけしか出来ない。ATMになることしか出来ない。お金を使う主体は財布を握る妻と子供になってしまう。夫は、自分の稼ぎから疎外されている。



日本の夫は、自分の妻、女性が働きに出ると、自分の稼ぐ能力が足りない、能力不足と感じ、自分がみっともない、恥ずかしい、自分のATMとしての存在意義が失われると感じる。その結果、父、夫が、妻が働きに出るのを妨害する。




もう一つ、日本の通貨高、円高が、非婚、晩婚、少子化の原因になっている。


通貨高、円高のそのままでは賃金が高くなる。

国際競争力が減って、企業が国内で従業員を雇いにくくなる。

企業が海外移転をして、国内雇用が減る。

国内で、低賃金の非正規雇用社員が増える。

安定した、高い収入が得られなくなる。

経済的安定を必要とする結婚がしにくくなる。

結婚しないので、子供が生まれない。



既存の日本の国の改革は、

・家族、ファミリーを重視しよう、見直そうと言うが、実際には、男性が女性を養えないので、そもそも結婚できない、子供が出来ない。

・子育てを支援しようと言って、経済的に育児手当を出したり、機会的に託児所待機児童の数を減らそうとしたり、子育てをする夫をイクメンと言って推奨したりするが、大元の子供がそもそも生まれない。

・女性の社会参加を促そう、働く女性を支援しよう、女性管理職を増大させる政策を取ろうとしているが、そもそも現行の日本の価値観では、働く女は、働かなくて良い女よりも、地位、ステータスが下位である。

・結婚を促進しようとして、自治体が婚活支援とかしているが、夫が妻を養えないため、結婚できない。


国の政策は、全て空回りして、上手く機能していない。

・専業主婦、働かない女が、働く女よりも地位、ステータスが上だと考えられ、女が働かなくて済むのが良いことだとする社会モデルが続いてしまっているため。

・男が女を養う、夫が妻を養うのが有能な男、夫の印、証だと考えられ、男性、夫が家庭に居場所を作れない状態が放置され、妻子のATMと化すことが男性、夫の唯一の存在意義だと考えられてしまっているため。

である。これを何とか変えないと、今のままジリ貧になってしまう。


黒船来航とかアメリカ占領とか、外から強制力が働かないと自分からは変われないのが、日本社会であり、女性(と女性化している日本男性)である。


日本の伝統的農村、村社会ではどうだったか。

働きに出なくて良い、働かなくて良い、会社勤めとかの出稼ぎをしなくて良い、自給自足なのがベストであり、これが専業主婦至上主義の原型になっている。


大地主が理想像であり、働きは下男、下女、小作人、奉公人にやらせて、自分からは働かないのが良いという考え方が、伝統的に蔓延している。



ムラの中に、女性的雰囲気が蔓延しており、社会的に男の居場所が無い。

みんな一緒に行動しないと行けない。単独行動を許さない。周囲への気配り、一体感が重視される、女性的雰囲気に合わせないと行けない。

男性は、無理して母性化しないと、ムラの中にいられない。ドライな男性的な生き方が許されない。稼ぎ手、ATMとしてしか生きられない。


母子が強力に癒着して、男性、夫が割って入れない。母による子供の独占支配が行われ、それが、女性による、子供を通した日本社会全体の支配につながっている。

父の子育てからの疎外が生じ、父は精神的にすさんで暴君になるしかない。暴れてDVをする状況が、男性による社会支配と勘違いされている。



社会関係がウチウチ、内々で自己完結している。外部からの成員加入が、嫁入りとかの白紙採用しか手段が用意されていない。中途加入が難しい。いったん別の会社を辞めてパートで働く女性が途中から別の会社の正社員になれない。

先祖代々同じところに住み、ずっと動かずに住んでいること、生え抜きを重視する。いったん抜けると根無し草扱いされ、まともに人間扱いされない。会社を辞めると、根無し草のフリーター扱いされ、非正規的な非人間的な扱いに甘んじなければならない。無論、そのままでは生活が無理な低賃金生活になってしまう。


子供が増えない、少子高齢化から抜け出せない社会の原型は、みな伝統的な日本のムラに元からある。ムラが原型なので変われない。ムラ茹でガエル状態になっている。


変わるには、少子高齢化を解決するには、

・専業主婦の解体と、稼ぐ女のステータス向上が必要である。働かない、稼がない、稼げない女は恥ずかしい存在だ、社会の恥だとするキャンペーンを日本全体で行うことが必要である。アメリカやヨーロッパに言ってもらうことも必要である。

・夫、男の家庭内、社会内での居場所を確保することが必要である。夫、男のATM専用状態からの脱却が必要である。夫、男がATM以外の存在意義を見つける旅に出ることが必要である。社会において、個人の自由独立が可能なドライな領域を、社会や家庭の中に確保することが必要である。それは、ドライで遊牧的な父性を自らの内部に新発見することであり、伝統的なムラ的な農耕民的価値観からの脱却である。これを社会全体でキャンペーンを打つことが必要である。

・相互一体感、新規成員の白紙採用、加入、生え抜き重視を断念することである。


こうしたことを実現するには、家庭内の居場所を男性に譲る、自ら働きに出る、といった感じで、女性の大幅な社会的譲歩が必要である。

女、母による既得権益の返上が必要であり、(母性的)大政奉還に例えられる。




現状維持のまま、少子高齢化を防ぐ方法もある。

根本的な通貨安、円安が到来するのを待つことである。それは、日本国の財政破綻を早期に実現することである。日本国債の日銀引受や円札の刷りまくりを行うことである。

そうすることで、いったん経済的に貧しくなるが、国際競争力が回復し、昭和時代の高度経済成長をもう一度実現でき、伝統的日本社会のままでいられる。


日本で豊富な水資源を海外に売る、ことも考えられる。


(初出2014年6月)


家計管理の月番化について

家計管理を月番制にしたらどうか?

現状では、日本の家庭においては、家計管理の権限は、妻や母が独占している。夫は、自分で稼いできた給与を、彼女らに取り上げられ、別途頭を下げて、小遣いを貰わないといけない。

一方、欧米においては、これと逆の状況となっており、家計管理の権限は、夫が独占している。妻は、家事に必要な小遣いをその都度夫から貰っている。

日本の事例も、欧米の事例も、両方とも、家庭内における男女差別であり、解消の必要があると考えられる。

要は、家計管理の権限を、男女平等に受け持つようにすべきではないかということである。

その一つの方法として、家計管理の仕事を、月番で、毎月、夫と妻の間で代わりばんこに交替してやるようにすればよいのではないかというのがある。

要は、奇数月は妻が管理し、偶数月は夫が管理するというようにすればいいのではないか。

これによって、男女の片方が家計管理を独占することがなくなり、男女平等が促進されると言えよう。

また、一人が家計管理を独占することがなくなり、もう一方の他人のチェックが絶えず入るようになることから、いい加減な家計管理をすることが難しくなり、家計管理の透明性が高まると言える。

問題があると言えば、夫妻どちらかが浪費家で、お金をみんな無駄遣いしてしまう場合である。その場合は、しっかりと管理できる片方にずっと任せざるを得ない。要は、一方が能力的に欠けている場合は、男女どちらかにこだわらず、家計管理能力のある方に任せればよいということになる。

(初出200601)


男女の望ましいパワーバランスは5050


男女のパワーバランスは、5050で、男女対等なのが望ましい。現代の日本のように、女性、母性にパワーが偏っている社会は、男女平等の観点から言って望ましくない。逆に言えば、男性、父性にパワーが偏っている欧米社会も、男女平等という点では望ましくない。

男女のパワーバランスを50:50にすることを実現するためにも、例えば、男女で役割を固定するのでなく、交代制で行くのが望ましい。
すなわち、責任を取るにしても、家計管理にしても、育児にしても、稼ぎにしても、男女交代制を取って、できるだけ偏りが無いのが良い。例えば、家計管理において、妻に任せっぱなしにするのでなく、夫婦で月番制を実現するとかが考えられる。あるいは、共働き子育ての夫婦で、主に仕事に出る側と、主に育児を担当する側を、週交代で担当するとかが考えられる。

あるいは、社会のメジャーな雰囲気が、母性的、父性的のどちらか一方に偏り過ぎないために、母性的雰囲気を醸し出す産業群と、父性的雰囲気を醸し出す産業群を、社会においてバランス良く配置することが求められる。ウェットで母性的雰囲気を社会に与える産業としては、農業分野では、稲作農耕が代表的であり、ドライで父性的雰囲気を社会に与える産業としては、遊牧牧畜であると考えられる。今後は、農業以外の、工業、商業等の分野においても、どういう仕事が、社会にウェットで母性的な雰囲気を与え、どういう仕事が、社会にドライで父性的な雰囲気を与えるかを分析する必要がある。あたかも管理栄養士が、栄養バランスの取れた食事献立を考えるように、母性、父性のバランスの取れた産業構成を考えるコーディネーターが社会において求められると言える。

(初出20118月)


女性が暴走するとストップが効かない日本社会

日本社会は、女性が「こうだ」と主張すると、その通りにいくらでも通ってしまい、歯止めが効かなくなる社会である。

いい例が、日本のフェミニズムであり、本来女性、母性が強いはずの日本社会において、女性が「自分たちは弱いんだ、差別されているんだ」と叫ぶと、「日本は女性が弱い、差別された、女性解放の必要な社会だ」ということに社会全体が洗脳されたかのように、その意見を諾々として受け入れるようになってしまう。ファッションに限らず、社会のトレンドを決定しているのが女性なのである。

会社とかでも、大和撫子よろしく控えめな感じの女性社員だと害はあまりないのだけれど、押しの強い、キャアキャア自分の主張をどこまでもわめき散らすタイプ、女帝タイプの女性社員が出てきたり、古株で一番威張っていて誰もが彼女の言うことに従わざるを得ないお局タイプの女性社員が出てくると、彼女たちの暴走を止められる存在がいなくなってしまうのである。今はまだ男性社員を表に立てて自分は背後にまわるタイプの控えめな女性社員が多いので問題は顕在化しにくいのであるが。

日本では、社会や集団に、女帝、グレートマザー、お局タイプの女性支配者が出現すると、女性に対して甘えや依存心を強く持っている日本の男性は彼女たちに太刀打ちできない。今のところは、女性が自分から支配しようとせずに、男性を表面的な支配者として立てているために、男性は自分が一番強いと思わされているだけだ。「男社会」は、見かけ倒しであることに気づく必要がある。日本の男性は、本来自分たち女性が一番強い社会の最終意思決定者であるにも関わらず、そのことをおくびにも出さず、黙って男性を立てて、「日本は男社会です」と言ってくれる日本の女性たちに感謝すべきだろう、というか、その隠れた強大さに恐怖すべきだ。

(初出200804)


「女性的=日本的」の相関主張に対する反応

筆者は、「女性的=ウェット=日本的」という行動様式や性格面での相関を、インターネット上でのアンケート調査等に基づき主張している。

これについての反応は、以下の2通りが考えられる。

(1)何ら驚くべきことではない、当たり前である

既に、豊富な前例がある。石田英一郎の「農耕-遊牧」社会論や、河合隼雄の「母性」社会論など。

(2)とても驚くべきことである、信じられない、間違っているのでは?

フェミニストによる日本「男社会」論が大手を振ってまかり通っている現状からは。女性が、日本社会を支配しているという結論を導き出すものだから。

従来は、上記の2つの見方が、互いに何ら交流を持たず、別々にバラバラに唱えられて来た。そうなった根底には、日本社会における、「女性と母性」との対立が、要因として存在する。

「女としては弱いが、母としては強い。」これは、女性の弱さを強調したがるフェミニストの逃げ口上として、使われる文句である。しかし、これはおかしい。母性は、女性性の一部であるはずであり、分けたり、対立させて捉えるのは変である。

母は、女性ではないのか?常識から考えて、そんなはずはない。

このことは、家庭内での立場に、結婚して子供ができるまでと、子供ができてからとで、大きな格差が存在することを示している。女性の立場は、前者は弱く、後者は強いということだろうか。

大学研究者、特に若い大学院生や、結婚していない、子供のいない大学教授などは、前者の結婚していないか、結婚していても子供のいない女の立場を取るであろう。自分たちの境遇にとって、前者(女性は弱い)のウケがいいから、女性が強い日本社会には適用不可能なはずのフェミニズムが、学説でまかり通る。ないし、フェミニズムが女性学研究者の間でメジャーなのは、担い手である研究者が、嫁の立場にいることが圧倒的に多いからではないか?

このように、日本女性の地位を考える上で、弱い方の嫁ばかりに焦点を当て、強い方(姑の立場)に焦点を当てないのは、不公平であり、間違っていないか?

日本のフェミニズムでは、女性≠母性、ないし女性と母性を対立するものとみなす。姑と嫁との家庭内での対立が、この捉え方の源となっている。

そうした、女性と母性の対立は、世代間での対立(2030代の嫁世代と、5060代の姑世代との)とも言える。

(1)の日本的=女性的の結びつきを当たり前とする見方は、母性の立場に立ったものであり、一方、(2)の、両者の結びつきに意図的に気づこうとしない見方は、(若い)女性の立場に立ったものと見ることができる。

姑は、家族の後継者としての子供を産むと共に、家風を一通りマスターし、家風を伝える正統者として、家庭内で揺るぎない地位を築き、強い立場に立つ。

一方、嫁は、子供がまだ生まれないし(生まれるかどうかも分からない)、家風にも習熟していないので、家庭内での地位は不安定である。赤の他人である、姑の言うことに、一方的に従わねばならず、ストレス・反発心がたまる。

この立場の差が、女性同士での世代間支配・抑圧をもたらす。ひいては、相互間の反発・対立を招く。これが、日本のフェミニストに、女性性(嫁の立場)と母性(姑の立場)とを、統合して捉えることを止めさせる原因となっている。

包含関係としては、母性は、女性性の中に含まれる。女性性は、本来姑も持っている性質である(女なのだから当たり前)。しかるに、日本フェミニストは、女性性を持つ者を、嫁の立場の者に限定して捉えようとしていないだろうか?これは、日本における女性の地位を正しく測定する上で、見逃せない、偏向である。嫁の立場は弱いので、フェミニズム理論に当てはまる。しかし、姑は、強いので当てはまらない。だからといって、姑をあたかも「女性でない」ようにみなして、検討の対象から外すのは、普遍的な女性解放をうたう、本来のフェミニズムの精神からして問題あるのではないか?この辺りに、女性を弱者としてしか捉えられず、理論の対象にできない、現在の日本フェミニズムの限界があるように思われる。

無論、中には、家族制度が廃止されて、嫁の発言権がより強まった、姑がより弱くなった、から、現代の日本フェミニズムは、姑も理論の対象に加えているのだと反論する向きもあろう。

しかし、フェミニズムは、本来、男性支配からの女性解放を提唱するのであって、同じ女性同士の支配からの解放=姑からの嫁の解放を、フェミニズムで取り扱うのは、おかしいのである。

フェミニズムが成り立つのは、女性が、男性に支配されている場合だけである。日本では、男性は、夫婦関係のみを取り出してみれば、家風の習得度において、妻=嫁を上回っており、優位な立場に立っている、と言えるかも知れない。しかし、日本の男性は、姑とは、「母→息子」の関係で、心理面では、姑によって、自分の子供として、一方的に支配・制御される立場にある。解放されるべきなのは、強い姑=母ではなく、支配下にある息子の男性の方なのではないか?こうなると、日本では、女性のみの解放を進めようとするフェミニズムは、成り立ちがたくなる。また、嫁が、家風をすっかりマスターし、姑から家計を切り盛りする権限を譲ってもらった時点で、家庭内の勢力としては、夫=男性を抜きさって、より上位に立つということも十分考えられることである。こうしてみると、夫婦関係を取り出した場合でも、フェミニズムが適用可能なのは、夫婦関係のごく初期だけで、時間の経過と共に、適用しにくくなる、というのが、現実ではないか?

姑と嫁は、さらに、男性(夫であると同時に、息子である)を自分の味方につけて、対立において、自分が有利に事を進めようとして、男性の取り合いを引き起こす。

姑は、嫁に自分の言うことを聞かせたいと考えて、息子に対して、嫁にこう言えと指図する(親子関係の利用)。嫁は、姑の支配からの防波堤として、夫を利用しようとする(夫婦関係の利用)

親子関係(母→息子) と、夫婦関係(夫=妻)の力比べは、最初は、血縁に裏打ちされた親子関係(母→息子)が強いと考えられるが、姑側の老齢化により、段々拮抗してくると考えられる。

親子関係は、垂直な支配-従属関係なのに対して、夫婦関係は、本来対等であるはずである。しかし、日本では、家風学習のレベルの違いと、姑の介入により、夫が有利となる。従って、夫は妻を支配する、家父長だという説が生じる。しかし、ここで注意すべきことは、夫は、自力で有利さを勝ち取ったのではないことである。家風学習レベルの(妻との)差も、姑の存在も、予め外から与えられた条件である。また、妻には、家風先達者として、偉そうなことを言えても、母たる姑には、口答えできないのであれば、女性(母親)に支配された男性(息子)ということになり、家父長制とは言えない。

日本のフェミニズムは、この水平面の夫婦関係のみに焦点を当て、親子関係による垂直支配(女性による男性支配、母=姑による息子=夫支配)に目が向いていない。

舅は何をしているのか?影が薄い。舅は家父長と言えるか?姑と嫁との間の対立を抑えられない以上、家父長失格なのではあるまいか。

日本の女性学、フェミニズム、ジェンダー社会論は、「嫁」の立場にたった学問である。

「姑」の立場に立った学問は、作れないものか?それは、権力者としての日本の主婦を、特に姑の視点から解明するものである。

日本の女性は、妻・母の両方の立場を兼ねると、矛盾が生じる。

母の立場としては、息子が自分の言うことを聞いて欲しい。

妻の立場としては、夫が自分の言うことを聞いて欲しい。妻として、夫に自分に同調して欲しいと思う(嫁の立場)

子供が産まれると、母として、息子に、自分に同調して欲しいと思う(姑の立場 次の世代にとって)

すなわち、嫁の立場と姑の立場を、同一人物が兼ねている(同一人物の中で共存)

嫁姑の対立では、嫁も姑も、夫=息子を自分の味方に付けようとする。

立場の矛盾を男性に押しつける。

男性は、どっちつかずの立場に立たされて困る。

母性による支配からの解放を!という主張への賛同者は、

1)男性

2)女性 結婚していない、子供がいない

となる、と考えられる。

この点、日本では、女性と母性(結婚した、子供を産んだ)とが切り離されて捉えられている。

日本女性にとって、家父長制からの脱却は、名目のみである。姑支配からの脱却が、本当の目的である。

核家族化(親と同居しない、独居老人の増加)も、姑支配からの脱却と関連がある。

それぞれの核家族が、ウェットなまま、自閉、孤立するのも、嫁姑関係の暗さを払拭しようとする努力の現れと見てよい。

日本の子供は、母親のしつけにより、コントロールされ、父親の影が薄い。

父親-息子のラインはあまり強くない。

日本男性は、「若くしては母に従え。老いては妻に従え。」というように、一生を、女性の支配下で暮らしている。

女性は、「老いては子に従え」のはずが、実態は、逆に子供(特に息子)を支配している。

家庭内の実権は、祖母にあって、祖父にはないのでないか?

父ないし夫が優位に立てるのは、姓替わりをしなくて済む、家系の跡継ぎ=本流でいることを保証されている、財産所有権限を持つ点にある。

母ないし妻が優位に立てるのは、財産管理権の把握、子供に自分の言うことを聞かせる育児権限の把握にある。

家庭における支配には、世代間支配と、世代内支配とがある。世代間支配とは、母親が息子に、自分の言うことを強制的に聞かせることであり、世代内支配とは、夫が妻に自分の行動様式を強制することである。

日本では、夫が妻に、自分が正統の家風継承者・先達者として、妻に教える立場から、妻を支配して来た。これが、日本における男性による女性支配の典型とされてきた。これは、世代内支配に当たる。ところが、家の中で、夫は母親の息子という立場にあり、母親=姑によって、夫=息子は、絶えずコントロールされ、言うことを聞かねばならない。これが、世代間支配である。これは、女性=母親による、男性=息子の支配であると言える。一方、母親=姑は、夫の妻=嫁にも同時に、自分の行動様式を押しつけ、支配している。姑=母親こそが、息子と嫁の両方を支配する、世代間支配の主役であり、影の薄い舅に代わって、家族の中の支配の頂点に立っているのである。図式化すると、母()→息子()・嫁()の支配が、世代を超えて繰り返し量産されている。父()は、子育てに介入しないので、父→息子ラインは、母→息子ラインに比べて、あまり強くない、目立たないのが現実である。

しかるに、従来のフェミニズムでは、母-息子の世代間支配の存在を無視し、姑による支配を、夫による支配と混同している。あるいは、姑(家庭内強者)の立場に立った理論構築を放棄し、いつも嫁=家庭内弱者の立場に立とうとする。

姑→嫁、姑→息子()という、2つの支配のラインについてその存在を無視している。

(初出200007)


夫婦別姓と女性

夫婦別姓に賛成する人、夫婦別姓で得をする人は、自分の姓を捨てて、相手の姓に入る人、すなわち嫁か婿である。

夫婦別姓に反対する人、夫婦別姓で損をする人は、自分の姓を変えずに済んでいた人、すなわち、姑とその息子である。

姓を変えて自分のところに入って来る新入りに比べて、古株として優位に立てるからである。

同じ女性でも、姑、小姑の立場と嫁の立場とで、賛成、反対が異なる。姑、小姑の立場では、夫婦別姓に反対であり、嫁の立場では賛成である。

女性が全て夫婦別姓に賛成という訳では無いことに留意する必要がある。

(初出2011年3月)

姓替わりと夫婦別姓

現代の日本女性がいやがることは、

(1)姑との同居 対応策として、次男との結婚を好む

(2)姓替わり 対応策として、夫婦別姓を好む

である。原因は、夫の家風を強制されるのが嫌なことである。強制するのは、同性である姑である。

日本の家庭では、男性が保護されている。

(1)男尊女卑 男性が優先して、いろいろな身の回りの世話をしてもらえる。

(2)姓替わりしなくて済む 家風習得の苦労をしなくてよい。新しく入った家族先で、ストレスがたまったり、既に構成員となっている人たちからいばられたりする体験をしなくて済む。

こうした点は、日本の女性が弱く見える理由ともなる。

姓替わりする方(嫁、入り婿)は、「イエ」の、ないし家風の新参者として、弱い立場に立つ。

強い立場に立つのは、元からその姓を名乗っている、姑+息子()ないし娘(小姑)である。

嫁の弱さは、そのまま女性の弱さと見なされがちだが、嫁にとって敵役の姑は、女性である。

夫婦別姓は姓替わりによる、古参者と新参者との間に勢力面での差別が生じるのを是正しようとするものである。

それは、以下の問題を解決する。

(1)男女(夫婦)間の問題 男=夫が、家風の先達者として、妻に対して、威張ったりなど振る舞えなくする。

(2)女同士の問題 姑-嫁間の主導権争いを回避する。姑が嫁を、同姓だからということで支配できなくする。

夫婦別姓でメリットがあるのは、夫婦同姓で弱い立場に置かれている嫁だけで、姑や夫にはメリットがあまり感じられないのが、夫婦別姓が日本社会においていまいち賛同者が広がらない原因となっているのではないか。同じ女性でも、嫁にはメリットがあるが、姑にはないのである。

(初出200007)


女社会、男社会と女流、男流

同じ男社会と言っても、日本と欧米とでは、性質が違うと考えられる。

日本の男性は、母性の影響が強いため、女流の男社会になっていると言える。

一方、欧米の男性は、父性の影響が強いため、男流の男社会になっていると言える。

同じ女社会と言っても、日本と欧米とでは、性質が違うと考えられる。

日本の女性は、母性の影響が強いため、女流の女社会になっていると言える。

一方、欧米の女性は、父性の影響が強いため、男流の女社会になっていると言える。

男社会、女社会、いずれにおいても、男流、女流の区別が必要である。

女流の女社会、男流の男社会が一番優れているのであり、女流の女社会を形成している日本女性は、一番優れている。

一方、女流の男社会しか形成できない日本の男性は劣っている。

(初出20107月)

根本的に先進性が欠如する日本ムラ社会、女社会

日本ムラ社会や、その基盤をなす女社会では、リスクを冒すことを根本的に嫌うため、新しい知見に到達することが、リスクを冒すことを好む欧米社会に比べて、どうしても遅くなってしまう。その点、根本的に先進性が欠如していると言える。


そこで、日本社会は、その欠陥に対処するため、欧米社会が先んじて手に入れた新しい知見を猛スピードで取り入れる、コピーすることで先進性を獲得し、それに小改良を加える事で「日本の技術は、世界最先端!」と売り込むのである。

(初出2015年2月)

日本社会で一番楽をしている存在は?

日本社会で、一番社会の中で楽をして、優雅に暮らしているのは誰か?

それは、専業主婦である。

彼らは、嫌な思いをして、自ら稼がなくてよい。稼ぎは夫から入ってきて、そのお金の財布を、彼女自身でがっちり握って、財産管理の権限を握って、好き放題に買い物をするのである。それゆえ、デパートとか、婦人物の売り場ばかりになっている。

また、教育ママゴンとして、子供を完全に自分の所有物と化して、受験競争にまい進させる、子供の教育権限の私物化に成功している。

毎日、通勤地獄を味わわなくても良い点も、優雅である。というか、彼女たちが優雅な生活を送るためのマンション立地とかが、夫にとって満員混雑電車生成の主要な原因となっているのである。

次に楽をしているのは、役人である。自ら稼がなくても税金で食べていけて、かつ、自分たちが雇われている天皇家の威信をフル活用して、国民の生活の生殺与奪を握り、親方日の丸で威張って生活できるからである。通勤も、通勤先の近くに官舎があって、通うのは楽である。

(初出20107月)

日本の主婦利権を追及しよう

日本の主婦は、家の財布を管理する権限や、子供を自分の操り人形として自由に調教できる権限を、結婚して家に入るのと同時に手に入れ、独占している。


これは、家庭においてのみならず社会全体から見ても大きな利権であり、そんな大きな利権を女性が占有していることに、社会的関心がもう少し高まるべきだと思う。


まるで、男性を、会社で働くのに専念させ、家庭にはノータッチでいるのが望ましいみたいな感じの利権である。


日本男性の家庭への関与を高めるためには、これらの主婦利権をもう一度見直すべきである。夫との権限共有をもっと進めるべきだ。

(2015年2月)

女社会の実態が分かりにくい理由

自分たちで、自分たちのことが、冷静、客観的に分析、批判できないのが、ウェットな女社会の特徴である。
女性学を標榜しているくせに、女社会の実態分析に無知な日本フェミニズムを生み出している。
女社会の特徴は、今まで誰も分析して来なかった、来られなかった。それだけ分析しにくいということの表れでもある。
女社会の住人である女性たちは、自分たちからは、自分たちの社会の特性を解明できない。
女社会の特徴は、日本社会の特徴でもある。

なぜ、女社会が、今まで正しく分析されてこなかったかと言えば、女性たちは、いつも周囲と一体、一心同体であり、互いに近い、親しい距離にあるためである。絶えず互いに感情移入、共感し合うため、互いに相手を冷静に分析、批判しにくいのである。
女社会においては、所属集団の他者と一つになること、一丸となること、協調、同期、和合、溶け込み、排他を強制される。
女社会においては、成員は、周囲と距離を置くことができない。自分の所属集団、仲間から距離を置くと、付き合いが悪いと見なされ、すぐにいじめられたり、迫害されたりするため、自分の所属集団、仲間を客観視するのが難しいのである。
その点、女社会は、冷静、冷淡な客観視を必要とする科学の敵である。

女 同士、表面的に良い外面を見せるために内部で一致結束しようとする結果、女社会は、どうしても排他的、閉鎖的になり、密室政治になりやすい。ある女性が、 女社会内部のことを外部に漏らすと、誰々のことをこういうふうに批判していると当事者に特定されてしまい、親密な内情をばらしたとして陰湿な報復が待って いるため、漏らせない。日本で会社員が会社の内情を暴露、内部告発すると、退職強要されるのと根は一緒である。

(初出20118月)


「弱い」女性の立ち位置

女性は、筋力のなさとかを、自分たちの弱さの根拠として主張するが、実際のところ、筋力、武力では、社会を支配できない。日本女性の、社会を支配する力は、稲作農耕の自然環境に適応するために必要な、心理社会的なウェットさであり、心理、社会力である。
日本女性のように、自らを弱者だと主張する、あるいは自ら弱者の立場に立つことは、社会を支配できて、かつ自己保身できる絶好の立ち位置である。

(初出20118月)

女性と甘え

甘えの根源は、女性にある。

楽したい、守られたい、養われたい、といった生物学的貴重品に当たる個体としてのもてなしを女性は、周囲に要求しがちであり、それが甘えと直結していると言える。

日本社会が甘えが目立つ社会になっているのは、女性の力が強いからである。


(初出2012年6月)

日本女性の専業主婦指向はリーズナブル


日本で、専業主婦になりたい若い女性が多いのは、リーズナブルである。
それは、家の中にいて、養ってもらえる、守ってもらえる、楽ができるからである。

また、家計管理や子育てといった、経済的権力や教育面での権力を持つことができて、実質的な家の主になることができるからである。家そのものが自分の生きがいになるのである。

日本の主婦は、(経済、防衛面で)寄生者でありながら、権力者になれるのである。家庭内役人、家庭内公務員と呼べる。

これに対して、欧米の女性は、家で権力を持つことができず、家から疎外されている。それゆえ、家の外に、生きがい、キャリアや仕事を探そうとする。日本男性と同じである。

日本の家族においては、女性の保身が確保されやすい。奥さんとして、完全に奥の人でいることができ、奥で守られるからである。それゆえ、女性に有利である。

欧米の家族においては、女性の保身が確保されにくい。それは、女性に対しても個人の自立を要求する結果、女性が十分に守られず、表に露出してしまうからである。それゆえ、女性に不利である。

(初出2012年6月)



お局と姉御?

職場での女性の権力を考えた場合、従来のいわゆるお局というのは、独身高齢で、仕事ができなくて昇進無しで、それにもかかわらず権力者として威張るというネガティブな存在として捉えられている。それとは別に、恋愛・結婚していて、仕事ができて、昇進していて、しかも自分で威張らず、周囲が自然と自発的に後を付いてくるタイプの女性社員も相当いると思われる。こういう女性は姉御とか呼べばいいのだろうか?

日本の職場のお局は、女性の高齢独身で、ヒラ社員で、仕事ができないのに、彼女が威張るのを誰も止められないのであり、圧倒的なパワーを持っている存在だと言える。彼女が管理職だったり、仕事が出来る社員、すなわち局型上司、上役局であれば、もっと声が大きくなると考えられる。そうした存在がなかなか見られないのは、本来そうなるべき存在の女性たちが、結婚して専業主婦とかになって、家庭でパワーを振るっているためと考えられる。


(初出20107月)



女性的生き方の押しつけ

日本の女性は、女性的な生き方を男性に押しつけている面がある。

女性的な生き方とは、ウェットで、安全第一、退嬰的な生き方である。

具体的には、集団主義とかになって現れる。

(初出200911月)


世間、空気と女性

日本の「世間」「空気」を作っているのは女性である。

「世間」は、女性の作り出した女流の相互監視、相互牽制社会である。

「空気」は、液体分子のように、互いに身を寄せ合って一体となっている集団=「世間」内の人々の間に共通に漂う、その場の雰囲気、暗黙の了解である。

いずれも、互いに一体化するのを好む女性由来である。

(初出200911月)


日本を支配する4つの女性類型

日本社会を支配する女性は、4つのタイプに分かれると考えられる。

(1)ヒステリータイプ いつもピリピリしていて、キャーキャー金切り声を上げて、自己の正当性を主張する。ハイミスの、フェミニストがこれに当たる。

(2)パワフルタイプ 腹が据わった行動力のある、肝っ玉母さんがこれに当たる。

(3)クッションタイプ あらゆることを呑み込む、包容力に満ちた、優しい、慈しみに溢れた、慈母がこれに当たる。

(4)キャリアタイプ 会社とかで仕事をそつなくこなす、できる有能なキャリアウーマン

、やり手がこれに当たる。

(初出200911月)


日本女性が専業主婦になりたがる本当の理由

日本女性が専業主婦になることにこだわる本当の理由は、従来言われてきたような、単に賃金労働をせず、働かずに楽をしたいとか、優雅な生活を送ることにあこがれるためだけではない。

自分が子育て専従者になりたいからである。

日本の女性は、子供を独占、占有しようとする欲求がとても強い存在である。「この子は私のもの」という感じで、子供の私物化が行われている。そうした日本の母親による「この子は、私が育て上げる」という教育者としての自負が、子育て専従者になることを求めさせるのである。要は、子供を自分の思うままに操りたいのである。

子育て専従になる場合、家庭外の会社とかでの仕事を掛け持ちだと、子育てに十分な時間が割けない。そうかといって、子育てだけをして、会社とかでの仕事をしないと、自身の収入が途絶えてしまう。この問題を解決するために、自身では会社とかで仕事をせずに、子育て専従でも、暮らしていけるように、夫には高収入でいて欲しいと考えるのである。

また、子供を保育園に預けると、子供が自分と一緒にいる時間が短くなり、自分との一体感を喪失するので、良くないと考える。

夫婦が共働きをすると、妻が夫に対して、子育て上のアドバンテージを持てなくなるので、良くないと考える。

自分の子供を自分が独占したい、子供を夫に渡したくない、自分の子供に自分の息吹をできるだけ吹き込みたいという思いが、日本女性を子育て専従の専業主婦になることへと駆り立てているのである。それは、日本社会の成員が母親である女性に支配され、その思うままに動く母権社会の成立に不可欠である。

逆に言えば、夫婦共働きが、妻による子供独占を阻止できることにつながり、父親の育児への介入の機会を増やし、ひいては母からの子供の解放を可能にすると言える。日本男性は、夫婦共働きを目指すべきである。

(初出201111月)

日本女性と仕事と家庭の両立

現代の日本の女性は、仕事と家庭との両立に苦しむ例が多いとされる。

ただし、日本女性は、経済的に困窮しているので無い限り、社会的にわざわざ外働きする必要が無い。好きで働く分には構わないけれど。

家庭内に居場所の無い、それゆえ外に仕事に出る必要のある、欧米女性や日本男性と異なり、日本女性の居場所は、母、姑として、家庭内に十分確保されていると言える。彼女たちは、実質的に家庭の中心であり、家計管理や子育ての権限を握り、家庭内の既得権益を独占している。

日本女性が、家庭の外の社会で仕事をするには、自分の分身、付属物である自分の息子を使って、自分の代わりに思う存分外働きさせれば良い。事実、今まではそうやってきたのである。

ただし、日本で女性自身が外の仕事に強い興味がある場合、仕事か家庭かの二者択一ではなく、仕事も家庭も、貪欲に、どちらも実現し、主導権を握りたいと考えるのが自然の成り行きである。

それゆえ、本来、日本の女性は、仕事も家庭も、両方十分楽に、50:50で、やって行ける形に、日本の社会を自ら改造すべきであると言える。

ところが、日本女性は、その改造を、自己の保身のため、自らは手を出さず、汚さず、男性にやらせようとする。自分からは、なかなか社会を変えようとしないのである。

しかるに、日本の男性は、仕事オンリー、仕事100パーセントで生きる存在である。それは、家庭から疎外されていて居場所が無いから、外仕事に専ら情熱を傾けるというのもあるし、自分の母である姑の自己実現の手段となっているから、というのもある。

なので、日本の男性は、家庭に対する配慮が足りず、社会改造は上手く行かない。

現状、日本社会において、仕事と家庭の両立を図る社会改造を、本格的に実行する人がいないのが現状である。この現状を変えるにはどうすれば良いか?

一つは、現在、外仕事ばかりしている日本の男性に、家庭内の居場所を作り、家庭内の権益を分け与えることである。これは、家庭内において、男性の発言権が強くなり、家計管理、子育て、家自体の管理といいった女性の既得権益が脅かされることにつながる。男性の家庭内地位の向上である。

もう一つは、姑役の女性が、息子以外に、自ら社会を変革する、社会に働きかける自己実現の手段を持つことである。ないし、息子を自己実現のダシに使うのを止めることである。

そもそも、日本女性による母、姑としての社会支配、社会に向けての自己実現が、男性としての息子がいないと始まらない側面があるのは事実である。これは、根本的なところで男性頼みであると言える。

ただし、母、姑は、子どもとしての息子、男性を命令、支配するより格上の存在であり、それゆえ日本社会支配の主体は、あくまで母、姑であると言える。

母、姑としての日本女性と、息子としての日本男性との関係は、大工と大工道具との関係に似ている。

大工は、大工道具が無いと、生計を立てることができず、自己実現ができず、生きていけない。大工道具は、そういう点で、大工の生殺を握る存在である。

しかし、大工道具は、所詮は、只の道具である。上位にいるのは、大工である。

大工が日本女性、大工道具が、その息子として捉えられるのである。

(初出2012年8月)



日本男性による女性蔑視の根源


日本社会において、母、姑は、嫁や、同世代の若い女性を、自分の可愛い母子連合体、母子ユニオンの仲間である、自分の息子の世話をする道具、下僕、メイド、奴隷として、目下の存在として捉える見方が根強いと言える。自分の息子が、母、姑自身の自己実現のために、仕事に100パーセント打ち込めるようになるための道具、支え、下世話役となることを、嫁に対して望むのである。

この考え方を、息子である男性も、母、姑からそのまま継承するのである。すなわち、同世代の女性を、自分の世話をする道具、下僕として、目下の存在と見なすのである。これが、日本男性による女性蔑視の根源であると言える。結局、根源は、息子の親玉、親分の母、姑による、嫁への蔑視にあると言え、子分の息子である男性がそれに従った結果が、日本社会における男尊女卑であると捉えることができる。

これは、上の世代の上位母子連合体、母子ユニオンによる、下の世代の下位母子連合体、母子ユニオンの絶対的支配と蔑視の結果として捉えられる。

嫁が、母、姑の立場に転化して、同じことが世代を越えて繰り返されるのである。すなわち上世代、下世代母子連合体の上下関係の世代間連鎖として捉えられる。

これは、日本社会において、先輩に当たる人間が後輩のことを、自分の世話をする道具、下僕と見なしがちなのと、根が一緒であると言える。後輩が先輩の立場に転化して、同じことが繰り返される。

また、目下の嫁となる、娘である女性も、小姑としては、嫁に対して目上の存在であり、嫁を蔑視する存在であると言える。

(初出2012年8月)


孤立無援になりがちな日本女性

日本人女性は、液体分子的であり、あまり積極的に動かない、待ちの姿勢が顕著である。

そのまま一人放っておかれると、いつまでも一人ぼっちのままで、助けが得られなかったり、知り合いができない。

互いに出会う、意気投合するきっかけとなる、誰か他の人がセッティングした会合への出席、同席が、どうしても彼女たちには必要になる。そういう点では、仲人頼みである。

子育て転勤族の母親がそのままでは孤立しがちで、放っておかれると孤立無援になってしまい、個人~家庭レベルで閉鎖的な密室育児を行いがちになりやすいのが、事例としてあげられる。

一方、ドライな気体分子的な欧米人は、布教者、伝道師のように、自分から積極的に動いて、どんどん知り合いを作っていく。

(初出2012年6月)


日本の主婦利権を追及しよう


日本の主婦は、家の財布を管理する権限や、子供を自分の操り人形として自由に調教できる権限を、結婚して家に入るのと同時に手に入れ、独占している。


これは、家庭においてのみならず社会全体から見ても大きな利権であり、そんな大きな利権を女性が占有していることに、社会的関心がもう少し高まるべきだと思う。


まるで、男性を、会社で働くのに専念させ、家庭にはノータッチでいるのが望ましいみたいな感じの利権である。


日本男性の家庭への関与を高めるためには、これらの主婦利権をもう一度見直すべきである。夫との権限共有をもっと進めるべきだ。

(初出2014年2月)



主婦、姑の院政

日本社会は、主婦、姑の院政下に置かれている。

表立った支配者である男性には、実は実権が無く、主婦や姑が持っているのである。

(初出200911月)


院政と女性による社会支配の類似点

共に、実質的な権力を握りながらも、保身のため自分からは直接手を下さず、自分の操り人形に手を下させることで、自分は責任逃れをするところが似ている。


共に、自ら表舞台に出ることを避け、奥からその実態が見えにくいようにして、介入するところが似ている。

(初出2014年2月)



日本における女性上位

日本の女性は、男性によるクリスマスプレゼントやデートコースのプラン立てを厳しく評価している。クリスマスイブのディナーでファミリーレストランでの食事はダメだとか、ダメ出しをする側に回っている。

その点、女性は、成果主義会社の上司、管理職のような評価者、あるいは学校の先生のような採点者の立場に立っており、評価される側(部下)、採点される側(生徒)の男性よりも立場が上であると言える。

あるいは、女性は、顧客、上客として、接待を受ける側の享受者、消費者であり、基本的に楽である。一方、男性は、接待する側の供給者、生産者、労働者であり、基本的に苦しい。この点でも、女性は、男性よりも立場が上であると言える。

こうした点が、女性による男性差別につながっているのではないだろうか。

(初出20121月)


日本が女性的な社会のままで、中国・韓国上位の東アジア秩序に呑まれない方法

日本が女性的な社会のままで、中国、韓国上位の東アジア秩序に呑まれないようにするには、どうすれば良いか?

一つは、欧米の中で、相対的に女性的、母性重視な国に接近することである。ほんの少しだけだが、ありそうである。

南イタリア、ローマとかのコネ社会、マンミズモの社会に接近することである。

もう一つは、中国と隣接し、中国と反発し合う、中国と仲の良くない、日本同様に女性的な国に接近することである。

親日の台湾とかが考えられる。

あるいは、大国のロシアとかインドとか考えられる。農耕民主体と考えられる。

あるいは、東南アジア諸国(ベトナム、マレーシア・・・・)が考えられる。日本と同じ稲作農耕民であり、親近性が高い。華僑の経済的支配に悩まされているので、抱える悩みは似ている。


(おまけ)北方領土の上手な返してもらい方

とりあえず二島を返してもらい、同時に、見返りとして、LNG等の経済利権を確保する。

その後、政権が変わったので、残りニ島を返せとしきりにゴネる。(中国のやり方と同じ。)実行支配する。

(初出2013年10月)



国策としての日本フェミニズム、ジェンダー論

・・・なぜ日本=母権社会論は議論の俎上に取り上げらないか?

日本は、東アジアの中心である中国、その懐刀である韓国に対して、自分が劣位だというコンプレックスがある。中国、韓国は、日本に対して、上から目線で接しており、日本が自分たちより劣位の者として振る舞うべきだというのが東アジアの歴史的認識である。日本は、中国、韓国にあまり会わないように、なかば鎖国状態であった。

日本がこうしたコンプレックスを打破すべく暴れたのが、日韓併合と中国侵略であり、中国と韓国に対して上位になろうとしたが、太平洋戦争で負けて、結局なれなかった。

日本は、コンプレックスを打破すべく、脱亜入欧で欧米の仲間入りを指向し、強い欧米に認めてもらいたい、中国、韓国を見返したいと思っている。日本人は、映画とかノーベル賞とか、欧米に認められると、有頂天になって喜ぶ体質がある。

日本人は、ドライ・ウェット性格診断テストで、欧米的なドライ、気体分子運動パターンの方を、自分に合っているとして選択する。それは、自由主義の欧米先進国にあやかりたいという気持ちと、不自由な日本社会の中に暮らしていて、自由が欲しい、本当は自分は自由なんだと自分自身に言い聞かせたいという気持ちがある。

自由の確保と、日本人や女性の好きな安全、保身の確保とは相反する。

日本は、今や欧米を凌ぐ勢いの中国、韓国から将来ネチネチと陰湿に報復される可能性が大きい。それを恐れて、より欧米にしがみつくようになっている。

ちなみに、中国、韓国の歴史認識は、「自分たちの方がもともと伝統的に上位なのに、日本がその面子を潰してけしからん。当面、戦争で被った損害への謝罪を要求するが、それだけではなく、日本の、中国、韓国上位の伝統的構図への復旧を要求する。中国、韓国上位の伝統的東アジア的秩序への日本の平伏を要求する。」というものである。

ここから、脱亜入欧、欧米第一主義と日本におけるジェンダー論との関連について述べる。

日本は、欧米色に競って染まろうとして、欧米理論を直輸入してきた。

欧米ジェンダー理論は、差別された弱い女性の権利獲得のための闘争、フェミニズムメインだった。

日本が欧米色に染まろうとすると、導入するジェンダー理論は、フェミニズムの色眼鏡付きへと、自動的になってしまう。すなわち、日本を欧米同様、あるいはそれ以上に家父長制的だと主張することになる。

これは、母権が強い日本の現状と矛盾する。

日本の母権の強さを強調すると、日本は、欧米家父長制社会の一員では無くなってしまう。日本は、欧米社会の中で異質だということになる。あるいは、中国、韓国の仲間だということになってしまう。それは、日本が東アジア秩序の下で生きることになり、日本にとってはまずいことである。

日本は、欧米の家父長制を前提としたジェンダー理論を日本社会に適用させないと、欧米との一体化、欧米化が成し遂げられないので困る。欧米の一員から外されるので困る。

東アジア秩序を避けるには、イデオロギーで、対欧米一体化、欧米第一主義をどうしても国策で取る必要があり、日本の欧米との一体化で必要なのは、日本社会を、欧米と同質の家父長制社会だと宣言することであった。それが、日本のジェンダー学者の役割だった。

日本のフェミニズム、ジェンダー学者は、日本が欧米の一員として認められる、一員でいるための一種の切り札であった。

日本のフェミニズム、ジェンダー論が、欧米フェミニズム理論をそのまま受容したことは、あるいは受容して日本社会に当てはめ、日本=欧米並みあるいはそれ以上の家父長制社会とみなしたのは、日本の伝統的な脱亜入欧の国策に合わせたものであり、その点、日本のジェンダー学者は、御用学者である。

日本は、欧米を先進国と崇めて、高速で追従する、すがりつくために、その文物を見境なく、大量に恒常的に直輸入した。その一環として、欧米産のジェンダー理論、フェミニズムがあった。

欧米にとって日本が自分たちと同質な仲間だということを認証するために、日本異質論の否定の一環として、あるいは日本が欧米に近づいていこうとしていることの証明の作業の一環として、欧米ジェンダー理論の日本直輸入と定着が行われた。

本来日本にあるべきジェンダー論である母性社会論、母権社会論は、日本の東アジア秩序引き戻しにつながる、あるいは、日本の欧米化指向に逆行する、日本の国策にとって都合の悪い理論である。

日本は、本来、自分たちとは異質な欧米社会の理論を、有り難いお経みたいに崇拝、信仰して、そのまま自分たちにも、矛盾、非整合部分を多く抱えたまま、強引に日本社会に適合、普及させ、日本人に自分たちは欧米並みかそれ以上の家父長制社会、男社会だと感化させることに成功した。

家父長制としては、欧米と同類、お仲間だという訳である。日本にとって、欧米の理論は絶対に正しいというか、正しいとして従わないと欧米の一員から外されてしまい、日本劣勢の東アジア秩序に帰って行かないといけない。

日本人は、本来、東アジアの一員なのに、何でも欧米社会の枠組みで考えたがる。思想、科学、テクノロジー、社会把握、全てにおいて、その傾向がある。

欧米フェミニズムを、日本に強制的に導入して、日本が欧米を先生とおだてることによって、欧米をヨイショする、持ち上げることで、自分たちも欧米の一員になって、中国、韓国と差を付けるという魂胆だった。

脱亜入欧イデオロギーと、日本における欧米フェミニズム、ジェンダー論の受容は、日本の欧米と仲良くして、欧米の仲間内から外れないための大きな戦略である。それは欧米追従で、東アジア秩序から逃げるのに効果的であり、今後も続く。

日本が欧米化を引き続き推進していくためには、日本=母権社会の枠組みを出すのは、せっかく出来た日本と欧米との一体化を否定し、東アジア秩序に戻すもので、到底、日本支配層には受け入れられない。理論としては合っていても、有害として無視して、議論の俎上に乗せることは殆ど無い。

日本は、ノーベル賞にしても、映画賞にしても、音楽コンクールにしても、欧米の賞を貰うことに汲々として、貰ったら、欧米に認められた、欧米の一員とみなされたように感じられて大喜びする。そうしたことが、日本国民を上機嫌にさせる。

日本では、国を挙げての対欧米一体化の活動があり、その一つとして、欧米ジェンダー理論、フェミニズムの強引な日本社会への当てはめが行われた。それは国策であった。

日本社会が欧米ジェンダー論のようには動かないことを否定するために、日本は欧米ジェンダー理論通りに動くのだと主張するために、「日本は男社会で、女性は低い社会的地位に甘んじている」と、日本国民を教化して、絶えず啓蒙活動を行っている。

欧米が強ければ、脱亜入欧と、対欧米一体化をそのまま続けることになるが、だんだん中国が強くなり、欧米が弱くなっている。

日本のフェミニズムが日本社会を欧米以上の男社会、家父長制とみなすのは、日本が欧米を世界のスタンダードとして見なし、欧米社会の一員として見られ続けるための故意の手段、出汁にすぎない。

日本=家父長制論は、欧米追従の国策の一環なので、日本の学者はそれを、検証、否定せず、最初から「それありき」の前提としてジェンダー研究に入った。検証してしまうと、日本=母性的、女性的となってしまい、対欧米一体化のイデオロギーにとって都合が悪いので、意図的にしない。

日本=家父長制論は、一種のお経みたいなもので、間違っている訳が無いと信仰せざるを得ない。信心しないと、伝統的な東アジア秩序、中国、韓国の下位国扱いされること、中国の属国扱いされることを甘んじて受けると見なされ、非難される。

日本の家父長制家族、ジェンダー理論を受け入れるかどうかは、対欧米一体化主義者(欧化主義者)か、東アジア重視、東アジア所属主義者かの踏み絵になると考えられる。

日本母権社会論も、一部では、社会の父性化を目指して欧米指向となっているので、欧化という点では同じだが、欧米産の理論ではない(無名の日本人の個人的な言説である)ので、検討すらされず、放置状態である。

日本=家父長制社会論は、欧米有名学者のお墨付きで、格式がより高く信用できると見なされる。理論が合っているかどうかはどうでもよい。自分たちが理論を直輸入して、日本が欧米と同質だと主張できれば、それで良い。

日本のジェンダー論、フェミニズムが正しいかどうか、日本社会に適合的かどうかは、そもそも問題ではなかった。どうでも良かった。欧米の学説をそのまま受け入れることで、欧米との同質化、一体化が図れる、進むことが一番重要だった。

国の政策として、国家戦略として、「欧米日本同盟」が理想であり、欧米理論直輸入の、日本=家父長制社会を主張する日本のジェンダー理論は、その「欧米日本同盟」を実現するための戦略的ツールだった。そのジェンダー論の内容が、日本の現状に即しているかどうかは問題では無かった。

脱亜入欧の存続という、体制維持側の国策として、欧米理論そのままの形でとにかく日本に導入することが求められた。それが脱亜入欧に一番効果的と考えられた。

脱亜入欧できるなら、日本社会の真実を把握することは問題外だった。

とにかく、欧米理論の早期丸ごと無修正での吸収と、一般国民、民衆、大衆への速やかな啓蒙(直接的で機械的で無理矢理な)が必要だった。そうした欧米理論の一つとしてジェンダー論があった。

日本は、欧米と国情が違うのでそれだけ導入し甲斐があり、日本に応用する大義名分になる。

欧米直輸入のジェンダー論を学んだ学者を、社会的影響力の大きい有名大学(東京大学等)の教員に優先的に登用して教えさせた。あるいは、男女共同参画社会論を、政府主導で流行らせた。

日本のジェンダー論、フェミニズムは、欧米直輸入ということに、そしてそうすることで日本社会を欧米並みに大きく変えることができるということに意義があった(国側として)。そこには、日本社会を欧米並みに出来るという読みがあった。

日本社会の現状把握(ムラ社会で、稲作農耕民的で、母性的で女性が強い・・)は、国にとって、あるいは国民にとってどうでも良かった。日本社会の真実把握はそもそも不要、問題外であった。真実を把握してしまうと、東アジア秩序のことを思い出してしまい、政策的に都合が悪かった。

日本社会の実情で、進んでいると見なす欧米理論に合わない点を、片っ端から遅れているとして否定的に断定し、そこを欧米並みに変えていくことで、欧米並みの先進国の立場を持とうというのが、大元の思想である。

日本社会の欧米化と、東アジア秩序からの脱却こそが、真の目標である。

日本社会にとっては、欧米理論が絶対的な先生で、それに強迫的に合わせよう、従おうとしている。それを疑うと、頭の中で抑えていた東アジア秩序が途端に顔を出すので、疑う訳には行かない。

欧米理論の早期、効果的な導入のためには、日本社会の真実の探究は考慮しない、無視する、放棄するのである。

現状の日本社会は、欧米理論に頼らないで、自分の文脈で掘り返した場合にはどうなるのか、どう捉えられるのかということは、何も考えられていない。というか、欧米理論導入の邪魔なので、考えてはいけない。

欧米の社会理論という正解と照らし合わせて、日本社会はどうなっているか、どこが間違っているか、足りないかと考えがちなのである。有賀喜左衛門らの日本家族理論とかは例外であるが。

欧米理論を除くと、欧米の後ろ盾を失うと、戦時中の軍部や右翼とかのナイーブな天皇制に基づく神国日本論が再登場するだけである。中国、韓国にそれで直に対応しようとする。

客観的で冷静な分析視点が持てないのが日本の社会学者の欠点である。

自分の頭で考えず、欧米学者の頭で考えるのが、日本の社会学者である。

日本=母権社会論は、東アジア秩序を脱却し、欧米化したいと考える日本の国側、体制側にとって都合が悪いので、「欧米日本同盟」指向、欧化主義が続く限り今後も無視されるだろう。ただし、日本が欧米の後ろ盾を失ったり、日本が中国の属国になった暁には、見直される、注目されるだろう。

現在の日本のジェンダー論(というか大元の社会学理論も)は、脱亜入欧したい、東アジア秩序を脱して欧米に近づき、その一員になりたいという欲求、人為的意図の実現が目的であり、そのための欧米社会理論の学習啓蒙活動となっている。ムラ社会である日本社会の科学的真実を知りたい、探求したいというのが目的ではない。最初から、科学的でない、特定の目的実現のためのイデオロギーとなっている。

日本の社会学は、日本社会がどれだけ東アジア秩序から遠ざかり、欧米社会に近づいたかを測定、評価する学問、ツールと化している。あるいは、日本が欧米社会に近づけるよう、欧米社会の社会的ノウハウを直輸入して日本社会に提供する学問、ツールと化している。そして、日本社会が欧米社会に近づいたと分かったら喜ぶのである。純粋な科学ではなく、内容に偏りがあるのである。

一応、社会分析をやって、社会を照らしてはいるが、肝心の急所、局部(日本で女性が強い)を外している。

日本が欧米の一員と見なすには、欧米学説を何が何でも日本社会に適用可能にする必要があり、欧米社会が家父長制だったので、日本も欧米社会理論が当てはめ可能となるように、家父長制を擬制することにしたのである。

日本国は、自由や民主主義を欧米社会同様に信奉し、女性の活用を提言する。伝統的な日本の母性流ではなく、欧米流の父性的フェミニズム(父性社会、家父長制社会の中での女性勢力拡大)による女性活用である。伝統的な日本の母性流では、欧米流の自由や民主主義は当てはまらなくなる。


日本社会のあり方を欧米社会に合わせた。欧米は父性社会、家父長制社会なので、日本も同じ仲間で父性社会、家父長制社会だと言いたい。日本が母性社会であることを強調すると、欧米から仲間はずれになってしまう。日本社会で家父長制に似ている所(男尊女卑、父系、職場が男性中心)をピックアップし、日本も家父長制だと主張する。あるいは、日本は欧米並みの男社会と主張する。


日本社会の特徴は、欧米化にやたらと一生懸命、必死なところ(もう後が無いみたいな感じで)、それも香港みたいに植民地だからでなく、自発的にやっているところが、他の東アジアには無い特色だと言える。


(初出2013年10月)


女性が管理職になりにくい理由


女性が上に立つ局面が少ない、増えない理由、女性が管理職になりにくい理由は、以下のように考えられる。


女性は、支配すると、失敗しても、責任を取らせにくいし、自らもすぐ周囲に責任転嫁する。卵子数の相対的な少なさや子宮の子育て上の必須性から、女性は生物学的に貴重な存在であり、自ら傷つくのはまずい大切な存在なので、失敗の責任は周囲がかぶる、負担することになる。


その結果、女性は、何をしてもとがめられないことになりやすく、とかく専横しやすい。支配すれども責任取らず、を地で行くことになるのである。


女性に対しては、処罰しにくい、信賞必罰の原理を貫通しにくい、厳しい態度を取りにくく、問責等の対応がとかく甘くなりやすい、という欠点があり、それが社会的に害毒となるので、それゆえ女性の上位者への登用が回避されてきたと考えられる。


それゆえ、女性による直接支配は嫌われるのである。女性による直接支配は、避けられる傾向があり、代わりに、女性は自分自身の息子や夫を自分の操りロボットにして、彼らに責任を取らせる間接支配がなされるように落ち着いてきていると言える。



もう一つは、学校や職場などで、女性は、能力発揮を人為的にわざと抑える、控えめにしているということが挙げられる。


女性が上を行くと、男性が能力的に萎えてしまう(稼がなくなる、出世しようとしなくなる。推進力が無くなる。これらは、家庭に経済的安定をもたらすために必要)のを防ぐためである。


女性としては、家計管理と子供の教育(子供の私兵化)といった家庭支配の実権が掌握できれば、それで十分である。男性、夫、父は、単に稼いでくれればそれだけで十分である。


家庭支配の実権掌握のプロセスに学歴は余り必要無い。強いて言えば、能力ある男性と出会って結婚できるようにするために必要である、といった程度である。なので、女性は、高学歴取得に男性ほど熱心でない。


日本女性は、表面上は男を立てて、一方、実権は自分が握る。


日本の子供が、息子も含めて母性的になるのは、母が強いからである。


(初出2013年10月)




日本における男性と女性の関係は、政治家と役人、天皇の関係に似ている


日本における男性と女性の関係は、政治家と役人、天皇の関係に似ている。


男性や政治家は、表舞台に立ち、表面的な権力を行使するが、責任を取らされ、容易に首をすげ替えられる。


女性や役人は、(政治家の国会答弁内容を書くなど)裏方であるが、実権を掌握し、かつ責任は政治家に取らせて、自分は安泰である。


天皇も女性に似ている。最高権力者ではあるが、表舞台には出ずに、御簾の向こうに隠れている。最高権力を隠れて持ちつつ、かつ普段の政治は政治家に行わせて、自分は責任を取る必要が無く、安泰である。


天皇と、役人は、根本的な所で保身が効くのであり、女性的であるといえる。政治家が肝心な所で地位が必ずしも高いと言えないのは、この辺りに理由がある。


日本において、役人が、政治家でなく、天皇の直属の親衛隊(直参)なのも、この辺と関係有るのではないか。政治家は、所詮は外様なのである。

(初出2013年10月)


3.まとめ

本書の要約、まとめ

※この項目は、書籍「母権社会日本」と共通です。

家庭、家族関係は、大きく分けて、

(1)夫婦関係 家庭の基盤となる男女関係

(2)親子関係 父子、母子、義理の父子、母子関係

から成ると言える。

日本の家庭、家族の中の男女の勢力関係は、

(1)夫婦関係に着目すると、日本では、夫=男性が強く見えることが多い。その理由は、

・嫁が夫の家に嫁入りし、夫の家の言うことを聞く必要がある。

・男尊女卑で、夫が威張っている。

・稼ぐのが主に夫であることが多く、妻、嫁はあまり稼げておらず、経済的に夫に依存せざるを得ない。

こうした点を強調して、日本の家族は家父長制だという主張が、日本の社会学者の間では主流になっている。

一方、妻=女性が強く見える側面もある。

妻が家計管理の権限を独占していることが多く、小遣いを夫に渡す場面が多く見られる。小遣いは渡す財務大臣役の方が、もらう方より地位が上である。

(2)親子関係に着目すると、日本では、母=女性が強い。子育ての権限を独占し、教育ママゴンとか呼ばれ、怪物扱いされている。子供を自らの母性の支配下で動く操りロボットにすることにすっかり成功している。一方、父は、子供と関わりをあまり持とうとせず、影が薄い。

こうした母親の影響力の大きさを考慮して、日本社会は母性社会だという主張が、日本の臨床心理学者の間で主流になっている。

このように、夫婦関係を見た場合と、親子関係を見た場合とで、日本の男女の勢力に関する見方が分裂しているのが現状であり、両者の見方をうまくつなぎ合わせる統合理論が必要である。

筆者は、両者の見方をうまく統合させる契機として、「夫=お母さん(姑)の息子」と見なして捉えることを提唱する。

家父長として強い存在と思われてきた夫が、実は、母、姑の支配下に置かれる操りロボットとして、実は父性が未発達の、母性的な弱い存在であることを主張する。

日本において、子育てを母が独占し、子供の幼少の時から、強力な排他的母子連合体(母子ユニオン)を子供と形成し(母が支配者で、子が従属者、母の操りロボット)、この母子一心同体状態が子供が大人になってからもずっと持続し、この既存の母子連合体が一体となって、新入りの嫁を支配するという構図になっている。このうち、「母の息子=夫」と嫁の間のみを取りだして見ると、夫が嫁である妻を支配するという従来、日本=家父長制社会論で主張されてきた構図が見える。しかし実際には、夫は、母である姑に支配されており、その姑と一体となって、嫁を抑圧しているに過ぎない。

日本の夫婦における勢力関係を正しく把握するには、夫婦(夫妻)だけを見るのではなく、夫婦(夫妻)のうちの夫側に、母のくさびを打ち込むことが必要である。あるいは、母や姑が一家の実質的な中心であり、真の支配者であるとする「母」「姑」中心の視点を持つことが必要である。

夫婦だけを見るのでなく、

・母~息子(夫)←(何人も割って入ることを許さない母子連合体、ユニオン)

・姑~嫁(妻)

・夫(母の息子)~妻(嫁)

の3つを同時に見る必要がある。夫の父(舅)は、一世代前の母の息子のままの状態であり、影が薄い。夫の姉妹は、小姑として、夫同様、姑中心の母子連合体の一員として、嫁を支配する、姑に準ずる存在である。

夫は、妻にとっては一見強い家父長に見えながら、実際のところは、いつまで経っても母の大きい息子のまま、母に支配され、精神的に自立できない状態にある弱い存在であるという認識が必要である。

母の息子である夫、父は、一家の精神的支柱である母と違い、家父長扱いされながらも、母に精神的に依存し続けて一家の精神的支柱になれない、ともすれば軽蔑され見下される存在と成り下がっているのである。

夫は、仕事にかまけて子供と離ればなれになっているが、実は、この仕事が、夫の母の代わりに行っているというか、母の自己実現の代理になっている。会社での出世昇進とか、一見、夫が自分自身のために頑張ってしているように見えて、実は、夫自身が母の中に取り込まれ、母と一心同体となって母のために頑張って行っているというのが実情である。母が息子の出世昇進に一喜一憂し、夫にとって、自分の人生の成功が、そのまま母の人生の成功になっている。また、夫が会社で取る行動は、会社人間のように、会社との一体感、包含感を重視する、とかく母性的なものになりがちで、彼を含めた会社組織の男性たちが大人になっても母の影響下から脱することが出来ていないことを示している。

筆者は、こうした、

・母(姑)による息子=(妻にとっての夫)の全人格的支配

・妻による家計管理の権限独占に基づく夫の経済的支配

の両者を合わせることで、日本の家庭~社会全体において、母性、女性による男性の支配が確立しており、日本は、実は、母権社会、女権社会である、と主張する。一家の中心は、母、姑である。

欧米の権威筋の学説(Bachofen等)は、母権社会の存在をこれまで否定してきており、筆者の主張はこれに正面から反対するものである。

日本人の国民性と男女の性格との相関を取ると、日本人は女らしい(相互の一体感、所属の重視。護送船団式に守られること、保身安全の重視。リスク回避、責任回避重視。液体分子運動的でウェット・・・)で動いているという結論が出る。これは、日本社会が、女権、母権社会であることの動かぬ証拠と考えられる。日本人は、姑根性(周囲の、後輩とかの嫁相当の目下の者に対して、口答えを一切許さず、妬み心満載で、その全人格を一方的、専制的に支配する)で動いており、このこと自体が、日本社会における母、姑の影響力、支配力の強さを表している。それゆえ、日本の社会、家族分析に、姑中心、母中心の視点を取ることが必要であると言える。

従来の日本男性は、母や妻による支配を破ろうとして、がさつな乱暴者、あるいは雷親父となって、ドメスティックバイオレンスとかで対抗してきた節が見られるが、暴力を振るうだけ、より家族から軽蔑され、見放される存在になってしまう結果を生み出している。あるいは、家庭の外の仕事に逃げようとするが、仕事に頑張ることがそのまま母の自己実現になるという、母の心理的影響、支配を振り切ることはそのままでは不可能である。

こうした女性、母性による日本社会支配は、日本社会の根底が、女向きの、水利や共同作業に縛られた稲作農耕文化で出来ているために生じると考えられる。そこで、筆者は、日本男性は、従来の伝統的稲作農耕文化から脱却して、新たに、家父長制の本場である欧米やアラブ、モンゴルといった遊牧、牧畜民の父親のようなドライな父性を身につけることで、母と妻に対抗できるようにすべきだ、母と妻の支配から解放されるべきだと主張する。これが、日本男性解放論である。要するに、子育てと家計管理において父権を確立することで、父親として真に社会で支配力を持った、尊敬される存在になろうと呼びかけるものである。筆者は、その際、稲作農耕を、伝統的な日本方式から、よりドライなやり方のアメリカのカリフォルニア方式に改めることで、稲作農耕を維持しながら、ドライな父権を社会に実現できると予期している。

筆者は、最終的には、男女の力関係は、対等の50:50が望ましいと考えている。これが、究極の男女平等であると主張する。欧米みたいに、男性、父性が強くなり過ぎても、日本みたいに、女性、母性が強くなり過ぎても良くない、適度なバランスが必要と考える。家計管理を、夫と妻が1月交代で行う月番制導入とかである。

(初出2012年6月)

資料文書編


ドライ・ウェットな性格、態度のまとめ

ドライないしウェットな性格、態度は、以下の表に書かれているようにまとめることができる。

 

ウェット

ドライ

〔A〕

〔心理的近接指向〕

〔A1〕

〔他者との心理的位置の同一・共通化〕

[A1.1]

集団主義
互いに集まり、まとまって動こうとする

個人主義
互いに一人ずつ単独・個別にバラバラに動こうとする

[A1.2]

密集指向
互いに狭い領域に密集する

広域分散指向
互いに広い領域に散らばる

[A1.3]

画一(同質)指向
互いを画一的な枠にはめようとする

多様性の尊重(異質指向)
互いの多様性を重んじる

[A1.4]

同調指向
取る行動を互いに合わせようとする

反同調指向
取る行動を互いに合わせようとしない

[A1.5]

主流指向(権威主義)
自分の取る意見について(すでに認められた)主流派の後を付いて行こうとする

非主流指向(反権威主義)
自分の取る意見について少数派で構わないとする

〔A2〕

〔他者との関係・縁故の構築〕

[A2.1]

関係指向
他者との間に積極的に人間関係を持とうとする

非関係指向
他者との間であまり人間関係を持とうとしない

[A2.2]

縁故指向
既に結び付き(縁故)のある他者との関係を優先する

非縁故指向
他者との関係を持つ上で既存の縁故の有無を問わない

〔A3〕

〔行動決定の自由〕

[A3.1]

規制主義
互いに行動を規制し合う

自由主義
互いに自由に行動しよう(動き回ろう)とする

〔A4〕

〔行動の自己決定〕

[A4.1]

相互依存指向
互いに依存し合う(もたれ合う)

独立(自立)指向
互いに独立・自立して行動する

[A4.2]

他律指向
自分の意思を自分だけでは決めず、周囲に決定を任せる

自律指向
自分で自分の意思を決められる

〔A5〕

〔プライバシーの確保〕

[A5.1]

反プライバシー
互いのプライバシーを重んじない

プライバシー尊重
互いのプライバシーを重んじる

〔A6〕

〔行動の明快さや合理性の確保〕

[A6.1]

あいまい指向
自分の取る意見がが率直・明快でない

明快(反あいまい)指向
自分の取る意見が率直・明快である

[A6.2]

非合理指向
物事に対して心情的に割り切ることができず、合理的でない

合理指向
物事に対して心情的に割り切って、合理的に行動する

〔A7〕

〔集団の開放性の確保〕

[A7.1]

閉鎖指向
閉鎖的な集団にいるのを好む

開放指向
開放的な集団にいるのを好む

〔B〕

〔心理的運動・活動・移動指向〕

〔B1〕

〔動的エネルギー・移動性の確保〕

[B1.1]

静的指向
自発的に動き回ろうとしない

動的指向
自発的に動き回ろうとする

[B1.2]

定着指向
今いる土地や組織に定着しようとする

非定着(移動・拡散)指向
今いる土地や組織に定着せず絶えず移動しようとする

[B1.3]

前例指向
自分が今までいた領域にとどまろうとする

独創指向
未知の領域に進もうとする


説明: T4.ウェット・ドライな人・物体



以下では、上記整理結果をもとに、具体的にどのような人間の行動様式が、ドライ・ウェットさと関連があるかについて、詳細に説明する。ドライ・ウェットな行動様式の詳細な内容を、それらがどのように活動・移動性の有無、心理的に近接する指向の強弱によって説明できるかも含め、一通り述べる。



A.心理的近接指向(ウェット)-非近接指向(ドライ)
他者と心理的に近づき(距離を縮め)、くっついて、離れようとしない指向の強さに関する。


A1.他者との心理的位置の同一・共通化(ウェット) -相違・差異化(ドライ)
心理的に他者のいるところへ行こう・集まろうとするかどうかについての次元が存在する。すなわち、他者と心理的に近接するためには、他者と同じところ(心理的位置)を占める必要があり、そのために人々は集団を作ったり、密集したり、同調行動を取ったりする。


A1.1 集団主義(ウェット)-個人主義(ドライ)

A1.1

ドライ=個人主義

ウェット=集団主義

定義

互いに一人ずつ単独・個別にバラバラに動こうとする

互いに集まり、まとまって動こうとする

No.

[↓]

[↓]

1

単独・ひとりで行動するのを好む

集団・団体で行動するのを好む

2

他者からの分離・独立を好む

他者との一体化・融合を好む

3

自分個人の利益を優先する

自分の属する集団の利益を(個人の利益よりも)優先する

4

ひとりで他者とは別の道を歩むのを好む

ひとりで他者とは別の道を歩むのを好まない


[
説明]

各個人に、心理的な引力、他者へと心理的に近接しようとする考えが働いている状態では、個人同士は、互いにくっつき合うことで、互いにまとまりを作り、一つに集まる(のを好む)。心理的に互いに接近し合うことで、各人が一つの集団・団体の中で、互いに心理的にくっついて一体化し、融合することになる。いったんくっつき合って集団を作ると、その中で互いに引き合い、まとまり合う力が働いて、みんな一緒にいようとする。集団を作って互いでひとまとまりでいる状態を維持しようとし、集団を割ろうとする力を否定しようとする。こうした集団内では、人々を集団に引き止める力(集団凝集性)が働いており、集団・団体でい続けようとし、集団全体の動きを、自分個人の動きよりも重要視するようになる。これは、集団全体の利益を、自分個人のそれよりも、優先しようとすることにつながる。中にいる個人が外に独りで出ようとする(脱退しようとする)と、それと反対方向に力が働いて、集団の中に引き戻そうとする。このように、互いに集まり、まとまって動こうとすることを、集団主義と呼ぶならば、集団主義は、互いに心理的に近接しひとまとまりになることを指向する点、ウェットな行動様式と言える。

一方、各個人に、他者へと近接しようとする考えがあまり働かないと、個人同士は、互いに近づき合って集まることなく、互いにバラバラに離れたままでいようとする。互いに一人ずつ個別にバラバラに動こうとする。したがって、集団・団体は、目的がない限り自然には発生しない。いったんできた集団を割ることも平気である。個々人は、周囲からの引力を気にせずに、単独(ひとり)で自由に動き回る(自分自身の動きや進行方向を決定する)ことができ、周囲の他者とは別の道を突き進むことができる。その点で、自分個人の動きや利益を優先することが可能である。集団外に抜け出そうとするときに、周囲の他者から、それを引き止めようとする引力が働かないので、簡単に脱退できる。このように、互いに一人ずつ単独・個別にバラバラに存在しようとしたり動こうとすることを、個人主義と呼ぶならば、個人主義は、互いに離れて、心理的に近接することを指向しない点、ドライな行動様式と言える。



A1.2 密集指向(ウェット)-広域分散指向(ドライ)

A1.2

ドライ=広域分散指向

ウェット=密集指向

定義

互いに広い領域に散らばる

互いに狭い領域に密集する

No.

[↓]

[↓]

1

広い空間に分散していようとする

狭い空間に密集していようとする

2

一人ずつ個室にいるのを好む

多人数で大部屋にいるのを好む

3

ものの見方が客観的である

客観的でない

4

ものごとを見る視野が広い

ものごとを見る視野が狭い



[
説明]

各個人に、他者へと心理的に近接しようとする考えが働いている状態では、各人は互いに近づき、くっつき合うことで、相手との距離がなくなる方向に進む。相 互に隔てのない方向へと近接することで、互いに(大部屋のように)隔てのない、狭い空間に、互いにひとまとまりになって密集するようになる。この場合、互 いに狭い範囲内でものごとを見ることになり、視野が狭くなる。あるいは、互いの間に十分な距離をとって眺めることができないため、客観性に欠けることにな る。互いにより高い密度でまとまることを指向するため、権限などがどんどん皆が集まる中央に集中し(中央集権)、周辺に広がって行こうとしない。このよう に互いの距離を小さくする指向は、密集指向という言葉でまとめることができ、ウェットな行動様式と言える。

一方、各個人が他者へと心理的に近づこうとする度合いが小さい場合、互いに近づき合ってまとまり合うことが少ない分、より低い密度で広い空間内に、互いに分散して(距離を大きく取って、離れて)存在する。仮に分布可能な領域が狭い場合、人々は、個室にいること、すなわち、壁やドアによって、他者のいる空間から隔離される(他者のいる場所からの距離を大きく取る)ことを指向する。広い領域に分散しているため、一度に広い範囲のものごとを見ることができ、視野が広い。互いの間に十分な距離をとって眺めることができるため、ものの見方に客観性がある。互いにより低い密度で周辺に広がっていくことを指向するため、権限などがどんどん地方に分散していく(地方分権)。このように、互いに距離を大きくとって、分散して分布することへの指向は、広域分散指向という言葉でまとめることができ、ドライな行動様式と言える。


A1.3 画一(同質)指向(ウェット)-多様性の尊重(異質指向)(ドライ)

A1.3

ドライ=多様性の尊重(異質指向)

ウェット=画一(同質)指向

定義

互いの多様性を重んじる

互いを画一的な枠にはめようとする

No.

[↓]

[↓]

1

横並びであろうとしない

周囲の他人と横並びであろうとする

2

自分とは異なる意見を持つ人に対して寛容である

自分とは異なる意見を持つ人に対して寛容でない

3

人々の多様性を認める

人々を画一的な枠にはめようとする



[
説明]

各個人に、他者へと心理的に近づこうとする考えが働いている場合、心理的に近接しようとすることで、互いに心理的に同じところ(位置・場所)に集中しているようにしようとする。互いに存在する位置を同じ(共通)にしようとする。物理的・心理的に互いに同一の位置を集中して占めようとすることで、互いに画一的な状態で横並びすることになる。存在位置が画一化した状態でひとまとまりになるため、そこから一人別の位置に行こうとする(存在位置の点で個性的あろうとする)ことをしない(没個性的である)。また、画一的な自分たちの中で個性的になろう(自分たちとは別の位置を占めようとする)個人の存在を、認めようとせず、自分たちのいる位置へ引っ張り込もうとする(異なる意見の持ち主に対して寛容でない)。このように、互いに心理的に同一の存在位置にいることを指向することは、画一(同質)指向という言葉でまとめることができ、ウェットな行動様式と言える。皆が同じ心理的存在位置を取ることは、その位置に皆が密集することであり、その点、密集指向とも関係がある。

一方、各個人が他者へと心理的に近接しようとする度合いが小さい場合、人々は相互に引き付け、まとまり合う度合いが少なく、存在する位置が、互いにバラバラに離れている(多様である)のを許容する。空間内での分布のはずれ値が多い(分布の幅が大きい)。互いに相手とは異なる独自の位置に存在する、という思いから、自分とは異なる意見の持ち主の存在に対して寛容である。このように心理的にバラバラ・多様な位置を占めることを指向することは、多様性の尊重ないし異質指向という言葉でまとめることができ、ドライな行動様式と言える。各自が互いに離れた別々の心理的存在位置にいようとすることは、各自の居場所が心理的に広く分散していると言え、広域分散指向とも関係がある。


A1.4 同調指向(ウェット)-反同調指向(ドライ)

A1.4

ドライ=反同調指向

ウェット=同調指向

定義

取る行動を互いに合わせようとしない

取る行動を互いに合わせようとする

No.

[↓]

[↓]

1

周囲の皆と違ったことをしようとする

周囲の皆と同じことをしようとする

2

他人の真似をするのを好まない

他人の真似をするのを好む

3

個性的であろうとする

没個性的であろうとする



[
説明]

自分の行動や進行方向を周囲の他者に合わせよう(互いに同じにしよう)とすること(同調への指向)は、周囲の他者と心理的な位置を同じくしようとして、近づき合うことを意味する。同じ心理的位置を共有する仲間の数がより多く集まることで、その心理的位置における人口密度が高まる。それは、個人間に心理的引力が働いて、その結果、同一の心理的位置に各人が密集したことを指す。周囲の他者と同じことをしようとする(周囲の他者の真似をする)ことは、心理的に互いに同質化して近づこうとする(同一の位置を占めようとする)ことを意味する。意見の同じ者だけでまとまろうとするのも、相互の心理的同質性を確保して、心理的に同じ位置を持つことで、互いに一体・融合化しようとする姿勢の現れである。一人だけ孤立するのを避けて没個性的であろうとするのも同じ行動様式である。こうした指向の持ち主は、だれかと一緒にいないと不安で仕方がない。孤独に耐えられない。これらの行動様式は、いずれも、心理面引力を働かせて、互いにひとまとまりになって心理的に同じところにいようとする動機を含んでいる。このように、周囲の他者と行動を同調させることへの指向、すなわち同調指向は、周囲の他者と互いに心理的に同一の位置を保持することにつながり、ウェットな行動様式と言える。

各自が他者へと心理的に近接しようとする度合いが小さい環境下では、個人は、心理面で、互いにひとまとまりになろうとする引力から自由になって、互いに別々の(違った)、独自の(個性的な)位置を確保することが可能である。周囲の他者と心理的位置を共有する方向への引力が働かないので、行動を周囲の他者に合わせようとすることがない(周囲の皆と違ったことをする、他人の真似をしない。周囲からの孤立を恐れない。)このように、周囲の他者に行動を同調させないことへの指向(反同調指向)は、周囲の他者と心理的な近接を行おうとしない点、ドライな行動様式と言える。


A1.5 主流指向(権威主義)(ウェット)-非主流指向(反権威主義)(ドライ)
説明: A15.主流指向(権威主義) vs 非主流指向(反権威主義)
[
]

A1.5

ドライ=非主流指向(反権威主義)

ウェット=主流指向(権威主義)

定義

自分の取る意見について主流でなくて構わないとする

自分の取る意見について(すでに認められた)主流派の後を付いて行こうとする

No.

[↓]

[↓]

1

少数派に属するので構わないとする

主流派の一員でいようとする

2

権威あるとされる者の言うことを信じにくい

権威あるとされる者の言うことを信じやすい

3

ブランドにこだわらない

物を購入するときブランドにこだわる



[
説明]

主流とは、相対的により多数の人々が既に集まっている方の集団のことである。そうした主流を指向するのは、皆が既に大勢集まっているところ(メジャーなところ)に自分も行ってその仲間に加わろうとすることを意味する。そうした、既に人数がたくさんいる多数派・主流派と一緒になろうとする主流、メジャー指向は、心理的には、既に人々が沢山密集している位置と、自分のいる位置を合わせよう、同じにしようとすることになり、より大勢と互いに近接し、くっつこうとする点、ウェットな行動と言える。

権威ある者(例えば、有名大学医学部の教授や、高級ブランド品のデザイナー)は、その周囲に既に心理的追従者が沢山集まっており、その存在を既に揺るぎないものとした多数派(主流派)の中での中心人物として位置づけられる。そういう意味で、権威ある者のいる辺りは、最も心理的な人口密度が高い。権威を信じることは、心理的な高人口密度の中に参加できることを約束するものであり、権威あるとされる者のいうことを信じたり、後追いをしやすいこと(権威ある商品ブランドに対する信仰など)は、心理的距離空間内において沢山人が集まっている人口密度の高いところに自分も行きたい、密集したいと考えやすいことを指し、互いに集まり合うという、心理的引力を行使することにつながる点、主流指向の一形態であり、ウェットな行動様式と言える。


主流を指向しない(非主流であろう、マイナー指向であろうとする)のは、少数派で構わないという行動様式である。人があまり集まっていない、閑散とした方に行こうとすることである。閑散としたところは、人口密度の低い、人々があまりおらず、互いに離れているところを指し、そうしたところに行くことを指向する、非主流、マイナー指向の行動様式は、ドライな行動様式であると言える。

権威を信じないことは、権威に引き寄せられた多数派(主流派)の人々の中に進んで入ろうとしないことであり、あえて主流に入らない、集まろうとしないで、独自の道を歩もうとする行動様式である。心理的距離空間内において、他者が密集しているところ(権威ある者や彼らが作った商品のあるところ)に集まろうとしない、距離を取ろうとする行動であり、その点、非主流指向の一形態であると言える。これは、ドライな行動様式である。


(
追記)
なお、身分との関係については、上流階級が、その社会の中でより主流の重要な位置を占めており、一方下層階級は、マイナーな、目立たない非主流の地位に追いやられている。

上流階級を指向する(例えば、上流階級の文化を自分も真似ようとする高級指向の)行動は、社会的主流派に属しようとする、すなわち、皆が憧れ行きたがる、集まりたがる社会的位置に自分も行こうとする行動であり、その点ウェットであると言える。

また、身分の上下にうるさくこだわり区別する態度は、自分が社会的に偉い=権威がある、主流であるかどうかにこだわることであり、主流派の価値観に染まっていることを示す。その点、主流指向であり、ウェットであると言える。

こうした身分の上下を区別することへの指向の強さと、当人が実際に属している身分の高さとは、必ずしも一致しないと見られる。例えば、日本において、「お上」=官公庁の権威に対して恭順する態度を取る下層階級の庶民は、「お上」=「官」という組織が持つ、主流の価値を無批判に受け入れ、それに合わせようとしている点、例え、その所属が非主流であっても、主流指向であり、ウェットである。



A2.他者との関係・縁故の構築(ウェット) -非構築(ドライ)
他者との間に関係・縁故を積極的に築こうとするかどうかについての次元が存在する。互いに心理的引力によって他者を指向する者同士が、互いに指向し合った他者と新たに心理的に結合・接続した状態をそのまま維持することで、縁故を作り出す。


A2.1 関係・接続指向(ウェット)-非関係・切断指向(ドライ)

説明: A21.関係指向 vs 非関係指向

A2.1

ドライ=非関係・切断指向

ウェット=関係・接続指向

定義

他者との間であまり人間関係を持とうとしない(関係を切ろうとする)

他者との間に積極的に人間関係を持とう、つながろうとする

No.

[↓]

[↓]

1

他人との触れ合いを好まない

他人との触れ合いを好む

2

周囲の他者に良い印象を与えようとは特に気にしない

周囲の他者に良い印象を与えようといつも気にする

3

人付き合いのあり方がよそよそしい

人付き合いのあり方が親密である

4

自分の内面を他者に開示したがらない

自分の内面を他者に開示したがる



[
説明]

各個人に、他者へと心理的に近接しようとする考えが働いている状態では、個人は互いに自分が他者を引力によって自分のもとへと引き寄せる、あるいは他者に近づくことで、互いに他者を指向することになる。すなわち、他者と互いに引き付け合い、近づき合う関係に入ることを重視するようになる(人間関係そのものを重視する)。相互に引き付け合うことで、互いに他者と十分な近さまで近づきあうことで、触れ合うようになることを好み、その結果、相互の関係は親密なものとなる。互いに近い距離にいる、同じ位置を共有するようになり、心理的な面からは互いに共感し合う状態になる。自分と他者とが、互いに引き付け合って心理的・物理的に一体化することを望みやすくなる(愛という言葉を使うのを好む)。互いに心理的に近い存在になろうとするために、周囲の他者に気に入られようとしたり、よい印象を与えようと気にしたりする。あるいは、自分の内面を他者に対して積極的に開示して、互いに相手と関心を共有しようとする(ことで心理的に同じ位置を占めよう、心理的に近づこうとする)。このように相手との関係を積極的に築こう(結合、接続しよう、つながろう)とすることは、関係指向ないし接続指向という言葉でまとめることができ、ウェットな行動様式と言える。関係指向は、他の人間を直接の指向対象とすることから、人間指向ということもできる。

各個人が、周囲の他者と心理的に近づこうとしない状態では、互いを引力によって引き寄せ、近づき合う、互いに他者(人間)を指向するという契機に欠ける。その点で、人間関係を何かの手段としてしかみない。相互に引き付け合って近づくことがないため、他人との触れ合いを好まず、人付き合いのあり方がよそよそしい。互いに心理的にバラバラな位置にいるので、互いに共感し合うことが少ないし、相互間の配慮も少ない(足りない)。互いに相手と関心を共有しようということがないため、自分の内面を相手に開示したがらないし、相手にあえて気に入られようとすることもない。自分たち人間とはかけ離れた、無機物を指向する。このように、互いに心理的に離れたままでいようとして、他者との関係を築くことを指向しない(ないし、相手との関係を切る、断つことを指向する)のは、非関係指向ないし切断指向という言葉でまとめることができ、ドライな行動様式と言える。



A2.2 縁故指向(ウェット)-非縁故指向(ドライ)

説明: A22.縁故指向 vs 非縁故指向

A2.2

ドライ=非縁故指向

ウェット=縁故指向

定義

他者との関係を持つ上で既存の縁故の有無を問わない

既に結び付き(縁故)のある他者との関係を優先する

No.

[↓]

[↓]

1

縁故(コネ)を重んじない

人付き合いで縁故(コネ)を重んじる

2

親分子分関係を好まない

人付き合いで親分子分関係を好む



[
説明]

個人同士が互いに心理的な引力によって、くっつき合う(心理的に一体化し合う)状態になるのを繰り返すことによって、人と人との間の結合 connection自体に慣れが生じる(結びついた状態が日常化し、癒着が生じる)。人間同士が互いに慣れた結びつきを持って、互いに引力を及ぼしている状態が「縁故がある」ことになる、と考えられる。相互に心理的に近づくおかげで人間同士が強い紐帯、癒着を持つに至ることが可能となる。相互間の引力によって互いに結びついていることが当然となった人間同士の関係は、血縁関係で結ばれた家族同様のレベルまで深まることもしばしばであり、そのときには、家族的な雰囲気を現すようになる、と考えられる(実の親子と擬制する親分子分関係など)。このように相互間の強い結合が日常化・長期化することを指向するのは、縁故指向という言葉でまとめることができ、ウェットな行動様式と言える。

各自の持つ、他者にくっつこうとする引力が小さいと、他者との結合connectionが生まれにくく、縁故ができにくい。人間同士の紐帯、癒着が弱い。あるいは、人付き合いのレベルが浅く、家族的でない。相互間の結合が生じにくい状態を指向するのは、非縁故指向という言葉でまとめることができ、ドライな行動様式と言える。



A3.行動決定の自由(ドライ)-不自由(ウェット)
自分の思った方向に自由に行くことができるかどうかについての次元が存在する。互いの間に心理的に近接しようとする引力が働いていると、その引力がしがらみとなって、人々は心理的に自由に動けなくなる。

A3.1 規制主義(ウェット)-自由主義(ドライ)

説明: A31.規制主義 vs 自由主義

A3.1

ドライ=自由主義

ウェット=規制主義

定義

互いに自由に行動しよう(動き回ろう)とする

互いに行動を規制し合う

No.

[↓]

[↓]

1

行動の自由を規制されることを好まない

行動の自由を規制されることを好む

2

互いに自由に行動することを許す

互いに相手の行動を牽制し合う(足を引っ張り合う)

3

互いに束縛しあうのを好まない

互いに束縛しあうのを好む

4

抜け駆けを許す

集団内で一人だけの抜け駆けを許さない

5

失敗を犯した本人のみの責任とする

一人の犯した失敗でも周囲の仲間との連帯責任とする



[
説明]

各個人が他者に対して心理的に近づこうとして働かせる引力が大きいと、その引力がしがらみとなって、各人は、自分の当初進みたいと思う方向へ向かって、自由に動き回ることができなくなる。心理的引力は、個人同士の互いの動きを、互いに近づき合って、牽制・束縛・拘束し合う(足を引っ張り合う)方向に向かわせる。こうした相互の動きを縛り合う人間同士の引力が働いた状態が、「規制」がある状態である。人間関係において、互いの間に引力が働いていると、それが人間同士の自由な行動を抑え込む力となって(しがらみとなって)、身動きが取れなくなる。
個人同士の間に引力が働いている状態では、一人が周囲から外れた行動を起こそうとすると、周囲の他者からの、相手が一人離れて行くことを許さない、一緒にくっついたままでいようとする引力によって、その行動を規制される。これが、足の引っ張り合いや、しがらみがある、行動の自由がない、と行動を起こした本人に感じられるもととなる。
心理的引力の存在する状態で、一人が行動を起こすと、引力が働いているため、周囲の他者がついでに引っ張られてしまうなど影響が広く及ぶため、行動を起こした結果(例えば失敗)についての責任は、行動を起こした本人一人のみに限定されず、周囲の皆の連帯責任と見なすことになる。こうした状況では、個人が単独で自由行動を完遂するのは不可能である。そのため、周囲の他者が同意しない限り行動を起こさない、といった方策が取られることになる。
心理的引力がある集団内では、一人だけの抜け駆けができなくなる。一人が抜け駆けしようとすると、引力が、抜け駆けしようとする本人と周囲の他者との間に働いて、周囲の幾人かもそれにつられて動いてしまったり、周囲の他者が抜け駆けしようとする本人に対して、自分たちの中に引き戻そうとする力を働かせようとするためである。一人だけで動こうとしても、周囲の他者との間に働く、複数の互いの近さを維持しようとする心理的引力がしがらみとなって、自由に動けない。
このように互いの動きを規制し合う状態を指向することは、規制主義という言葉でまとめることができ、ウェットな行動様式と言える。

一方、個人が他者に対して働かせる心理的引力が小さいと、個人同士は、互いに近づき合って、束縛・牽制し合うことがあまりない(人間関係のしがらみがなく、自由に身動きできる)。自分がある方向に動こうとしたときに、互いに引力で相手の足を引っ張り合うことなく、だれにも規制されずに自由に動き回ることができる。一人一人が、互いに周囲の状況から独立して(抜け駆けしてなど)、自由に自分の行きたい方向へと、常に進むことができる(互いに自由に行動することを許す)。行動を起こした結果に対する責任は、行動した本人にのみ限定することが可能である。このように互いに自由に動き回れる状態を指向することは、自由主義という言葉でまとめることができ、ドライな行動様式と言える。



A4.行動の自己決定(ドライ) -非決定(ウェット)
自分の行動の決定が自分だけでできるかどうか(他者の意向に沿う必要があるかどうか)についての次元が存在する。心理的な引力が働いていると、互いに自分の行動が自分一人では決められず、周囲の他者の動向次第になってくる。


A4.1 相互依存指向(ウェット)-独立・自立指向(ドライ)

説明: A41.相互依存指向 vs 自立指向

A4.1

ドライ=独立・自立指向

ウェット=相互依存指向

定義

互いに独立・自立して行動する

互いに依存し合う(もたれ合う)

No.

[↓]

[↓]

1

互いに自立しているのを好む

人付き合いで互いにもたれあうのを好む

2

独立心が強い

依頼心が強い

3

甘えを嫌う

互いに甘えあおうとする

4

派閥を作るのを嫌う

派閥を作りたがる



[
説明]

各個人が周囲の他者に対して心理的に近づこうとしている状態では、互いに引き付け、くっつき合うことで、互いに相手に寄りかかりあう、すなわち、相互にもたれ合う関係になる。心理的引力が強いと、自分の行動が相互に相手の行動次第で決まるようになる。自分の行動が相手の動きに依存する。自分のあり方を決めるのに、相手へ心理的に寄りかかる度合いが増える。相互に寄りかかりあうことで、互いに相手の状態に依存し合うことになる。互いに、相手に寄りすがろうと することになり、その点依頼心(甘え)が強くなる。言い換えれば、心理的引力が強いと、自分の行動が相互に相手の行動次第で決まるようになる。その点、自 分の行動が相手の動きに依存する。すなわち、行動が相互依存的になる。また、自分のあり方を決める相手へと心理的に寄り掛かる度合いが増えて、依頼心が強 くなることになる。これは、各自が互いに依存し合う状態で、ひとまとまりになり(=派閥を作り)、外部に対して、一つにまとまった自分たちの勢力をアピー ルしようとすることにもつながる。このような相互にもたれ合う関係への指向は、相互依存指向という言葉でまとめることができ、心理的引力に基づく指向であ ることから、ウェットな行動様式と言える。

一方、各個人が周囲の他者に対して心理的に近づこう、心理的引力を行使しようとしない場合、個人が自分の動きを決定するのに、周囲の他者の動きの影響を受けることが少なくなり、自分のことは自分で決定して行動できる(周囲の他者に行動を依存しないで済む。周囲の他者に自分の行動を決定される度合いが少ない)。その点、周囲の他者からは独立・自立している。互いに寄りかかり合うことがなく、依頼心(甘え)は少ない。こうした独立・自立ヘの指向は、心理的引力が弱く、互いに無関係に動き回る場合に顕著となることから、ドライな行動様式と言える。



A4.2 他律指向(ウェット)-自律指向(ドライ)

説明: A42.他律指向 vs 自律指向

A4.2

ドライ=自律指向

ウェット=他律指向

定義

自分で自分の意思を決められる

自分の意思を自分だけでは決められず、周囲に決定を任せる

No.

[↓]

[↓]

1

自分の意見を持っている

周囲の意見に左右されやすい

2

周囲の流行に振り回されない(左右されない)

周囲の流行に振り回される

3

自分の今後の進路を自分一人で決められる

決められない(周囲の影響を受ける)



[
説明]

他者と互いに心理的に近接しようとする引力の只中にいる個人は、自分の行動や進行方向を、周囲の他者によって決定されることを指向する(ないし、せざるを得ない)。引力の働いている状態では、各人が周囲の他者からの相手を自分から離れようとさせない引力の影響(牽制など)を受けて、自分の動く方向を好む好まざるとにかかわらず変える必要に迫られる(自主性が保てない)。自分の進路は、自分の周囲に存在する他者由来の引力との兼ね合いで決まり、自分一人だけで決めることはできない。その意味で、周囲の他者による影響が大きい。すなわち、自分の動きが単独独立で決まらず、周囲との文脈によって決定される「文脈依存的」な行動を取ることになる。

周囲の流行に振り回されるということは、周囲から発せられる心理的な引力(友人による「私は既に○○したわ。あなたも○○しない?(そうすることで私と一緒にならない?)」といった勧誘)に引かれるままに動くことである。引力は、その中にいる個人に対して、起こす行動における主体性の欠如した、周囲の意見に左右されやすい(自分の意見を持っていない)状態を引き起こす。このように、周囲の他者からの引力に自分の行動や進行方向を任せた(預けた)状態になるのを指向することは、他律指向と言う言葉でまとめることができ、ウェットな行動様式と言える。

一方、他者との間における心理的近接の度合いが小さい場合、各人は、自分の行動や進行方向を、周囲の他者からの引力に影響されず、自分一人で決定することができる(自主性を保てる)。自分の動く方向を、周囲の他者の動きに合わせて変える必要がない。周囲の動向(流行など)に振り回されず、自分の意見を持ち続けることが可能である。自分の行動・進行方向を周囲の他者からの引力に影響されずに一人で決めることができる状態を指向することは、自律指向という言葉でまとめることができ、ドライな行動様式と言える。



A5.プライバシーの確保(ドライ) -不確保(ウェット)
自分の私事を秘密にすることができるかどうかについての次元が存在する。他者に対して心理的近接を試みることは、その分他者および自己のプライベートな領域を侵害する可能性を絶えずはらんでいる(他者に近づく分、自分の状態が他者に丸見えになる)。また、相手との距離を近く保とうとする心理的引力の働いている状態では、互いに他者に対して何らかの行動を起こすことで、反作用として、他者から、他者自身が何を考えていたかフィードバックを得ることができ、互いのプライバシーは侵害される。


A5.1 反プライバシー(ウェット)-プライバシー尊重(ドライ)

説明: A51.反プライバシー vs プライバシー尊重

A5.1

ドライ=プライバシー尊重

ウェット=反プライバシー

定義

互いのプライバシーを重んじる

互いのプライバシーを重んじない

No.

[↓]

[↓]

1

他人のプライバシーには干渉しない

他人のプライバシーに介入したがる

2

互いに監視しあうのを好まない

互いに監視しあうのを好む

3

他人のうわさ話をするのを好まない

他人のうわさ話をするのを好む

4

当局への密告を好まない

当局への密告を好む

5

自分が他人にどう見られるかを気にしない

自分が他人にどう見られるかを気にする

6

化粧をするのを好まない

化粧をするのを好む



[
説明]

他者と心理的に近づくことによって、頻繁にくっつき合い、接触し合うことは、互いのプライベートな空間への絶え間ない侵入を引き起こすことにつながり、他者(ないし自己)のプライバシーへの干渉(私事への介入)に結びつく。他人のうわさ話をするのを好む、ないし当局に他人の動向を密告しようとすることは、自分が(話や密告の種となる)他者のことを監視し、他者のプライバシーに介入するのを好むことを示す。
自分が他人にどう見られるかを気にするのは、周囲の他者からのまなざしによる牽制・監視を通じて、互いに何をしているか、互いに自分から離れて何か変なことを起こしはしないかを気にする、互いのプライベートな領域に侵入し合う(プライバシーに介入し合う)引力の存在を感じるからである。化粧をしたり、容姿、服飾に気をつかうのは、そうした他者による、自分のことをを牽制する視線の存在を予め意識して、自分の外観(顔や服装)を他者に効果的に映るように (他者を逆に牽制する形で)コントロールすることである。こうした化粧、服飾行動は、他者の視線を一身に集めることで、他者を心理的に自分の身の回りに近づけ、積極的にプライバシーを放棄することにつながる。見栄を張るのも、他者に自分がよく見えるように、自分の見た目をつくろうことであり、他者の視線による牽制を前提とした行動である。
こうした相互監視・相互牽制によるプライバシーへの干渉が起きやすいことは、互いの間に心理的引力が働いていることと相関関係にあり、ウェットな行動様式であると言える。

一方、他者に心理的に近づく度合いが小さいと、互いにくっつき合う(接触し合う)ことがないため、互いのプライベートな空間へと侵入を引き起こすことがなくなり、プライバシーが尊重された状態が保たれる。この状態では、互いに視線の送り合いやうわさ話、密告などで、相手を監視・牽制し合う、といったことがなくなる。こうした状態を好むのは、心理的引力を働かせようとしない点、ドライな行動様式であると言える。



A6.行動の明快さや合理性の確保(ドライ) -不確保(ウェット)
自分の行動に明快さや合理性を保つことができるかどうかについての次元が存在する。個人が、当初単独で明快・合理的に行動しようと思っても、周囲から引力という名の横やりが入ったり、周囲の人々の動向が気になると、行動はいつのまにかあいまいで非合理的なものになってしまう。

A6.1 あいまい指向(ウェット)-反あいまい(明快)指向(ドライ)

説明: A61.あいまい指向 vs 反あいまい指向

A6.1

ドライ=反あいまい(明快)指向

ウェット=あいまい指向

定義

自分の取る意見が率直・明快である

自分の取る意見がが率直・明快でない

No.

[↓]

[↓]

1

物の言い方が率直である

遠回し・婉曲である

2

物事の白黒をはっきりさせようとする

あいまいなままにとどめようとする

3

自分の今後の進路をはっきりさせようとする

あいまいなままにとどめようとする


A6.2 非合理指向(ウェット)-合理指向(ドライ)

説明: A62.非合理指向 vs 合理指向

A.6.2

ドライ=合理指向

ウェット=非合理指向

定義

物事に対して心情的に割り切って、合理的に行動する

物事に対して心情的に割り切ることができず、合理的でない

No.

[↓]

[↓]

1

考え方が合理的である

非合理的である

2

考え方が科学的である

非科学的である

3

宗教を信じない

宗教を信じる


[
説明]

ある個人が特定の方向に進もうとしたとき、自分の周囲の多方面から引力を受けると、その影響で、進行方向があいまいとなる。すなわち、心理的引力が働く対人関係においては、当初明確な意図を持って動こうとしたとしても、周囲の他者からの引力による介入・調整の繰り返しにより、いつしか進行方向があいまい、不明瞭(玉虫色)となる。物の言い方も、率直さに欠けた遠回し・婉曲なものになる。
また、他者との相互間に引力が働く環境下では、周囲の他者からの、相互の近さを保とうとする引力による介入を断ち切れず、割り切った行動を取れないため、自分のいったん決めた方向に向かってまっすぐ進むことができず、合理的な論理や計画が、曲げられてしまう。進む方向が、その場の周囲からの引力の働く方向 (雰囲気)に絶えず影響されて、一時の感情にまかせて、気まぐれにアトランダムに変わってしまうため、自分で論理的な方針を組み立てることができず、合理的な方向へと進んでいくことができない。
このように、人が周囲に対してあいまい・非合理的な行動様式を取ることは、心理的引力がもたらすところのウェットさに基づく。


他者との間に働く心理的引力が少ない状態では、個人の動き(今後の進路を含めて)が、周囲の他者からの引力による干渉を受けて曲がることがないので、まっすぐ(率直)・はっきり(明快)な状態を続けることが容易である。当初明確な意図を持って動こうとしたとき、周囲の他者からの心理的引力による介入・調整がないので、進行方向がはっきりした、明確な状態を続けることができる(あいまいさが生じない)。物を言うに当たって、的に向かってずばり直球を投げ込むように、率直さを保てる。
また、他者との間に心理的引力が働かない状態では、周囲の他者からの引力による介入から自由になることができ、割り切った行動を取れるため、自分のいったん決めた方向に向かってまっすぐ進むことができ、合理的な論理や計画が、曲げられることなく貫徹可能である。進む方向が、引力に影響されることがないため、自分で論理的な方針を組み立てることが可能であり、合理的な方向へと進んでいくことができる。
このように、人が周囲に対して明確な、あいまいでない、合理的・論理的な行動様式を取ることは、心理的引力から自由なドライさに基づく。



A7.集団の開放性の確保(ドライ) -不確保(ウェット)
集団の表面を閉じようとする力(表面張力)が働いているかどうかについての次元が存在する。集団内部に互いに引き付け合ってまとまろうとする力(集団凝集性)が強ければ、集団は外部に対して門戸を閉ざすこととなる。

A7.1 閉鎖指向(ウェット)-開放指向(ドライ)

説明: A71.閉鎖指向 vs 開放指向

A7.1

ドライ=開放指向

ウェット=閉鎖指向

定義

開放的な集団にいるのを好む

閉鎖的な集団にいるのを好む

No.

[↓]

[↓]

1

開放的な人間関係を好む

閉鎖的な人間関係を好む

2

身内・外の区別にこだわらない

人付き合いで身内・外の区別にこだわる

3

集団外のことにも関心を持つ

自分の属する集団内のことにしか関心がない

4

仲間内以外の人も受け入れる

付き合いで仲間内以外の人を排除する



[
説明]

各個人が他者に近づこうとする心理的引力がある状態では、各人の間に、互いに距離を縮める方向へとスクラムを組み、自分の属する集団の表面積を互いに手を取り合ってできるだけ小さくしようする力が対人関係において働いており、他者は形成済の集団の表面から中に入ることができない。こうした力は、1)外部の者を中に入れようとしない、2)集団内の仲間が表面から外に出ようとすると中に引きずり込もうとするものであり、物理的液体における「表面張力」に相当する。こうした状態では、人々は閉鎖的な対人関係を好み、自分が属する集団・仲間内の相手としか付き合おうとしない(自分の属する集団内のことにしか関心がない)。こうした表面張力のような力が働いている閉鎖指向は、心理的引力に基づくウェットな行動様式であると言える。

他者に近づこうとする心理的引力がない状態では、集団の表面部分~内部の各人が互いに手を取り合って結託し、よそ者を入れようとしない表面張力のようなものは、対人関係において存在せず、形成済の集団の表面から中に入ることが容易に可能である(外部の者に対して中が開放されている。集団内の仲間が表面から外に出るのも自由である)。開放的な対人関係を好み、自分が属する集団・仲間外の相手とも付き合おうとする(自分の属する集団外のことにも関心を持つ)。こうした表面張力が存在しない開放指向は、心理的引力とは無縁のドライな行動様式であると言える。



B.心理的運動・活動・移動・流動指向(ドライ)-静止・非活動・定着・定住指向(ウェット)
あちこち活発に動き回ろう、移動しようとする指向の強さに関する。

説明: B.運動・活動・移動指向


B1.動的エネルギー・移動性の確保(ドライ) -不確保(ウェット)
心理的な運動エネルギーが大きいかどうかについての次元が存在する。自分から進んで積極的に動き回ろう、拡散しようとする心理的な運動エネルギーが大きいと、他者からの心理的な引っ張りや牽制から自由になれる。

B1.1 静的指向(ウェット)-動的指向(ドライ)

説明: B11.静的指向 vs 動的指向

B1.1

ドライ=動的指向

ウェット=静的指向

定義

よく動き回ろうとする

動き回ろうとしない

No.

[↓]

[↓]

1

動作がすばやい

動作がゆっくりである

2

物事の決定のテンポが速い

テンポがゆっくりである

3

行動が積極的である

行動が消極的である



[
説明]

もしも、各人の自分から進んで自発的に積極的に動き回ろうとする活動性(運動エネルギー)が、相対的に小さい(速度がゆっくりである)と、当人はその場に静止してとどまることになり、人と人との間の心理的引力を振り切って動き回ることができにくい。運動エネルギーが小さくて、対人間に働く心理的引力に囚われがちな静的状態への指向(静的指向)は、ウェットな行動様式と言える。

一方、各人の、自分から進んで自発的に積極的に動き回ろうとする、活動性(運動エネルギー)が、(気体分子同様)相対的に大きい(速い)と、当人はその場に静止することなく動き回ることになり、個人間の心理的引力を振り切るだけの運動エネルギーにあふれている。このように、運動エネルギーが大きくて、対人間に働く心理的引力に囚われない動的状態への指向は、動的指向という言葉でまとめられ、ドライな行動様式と言える。


B1.2 定着指向(ウェット)-非定着(移動・拡散)指向(ドライ)

説明: B12.定着指向 vs 非定着(移動・拡散)指向

B1.2

ドライ=非定着(移動・拡散)指向

ウェット=定着指向

定義

今いる土地や組織に定着せず絶えず移動しようとする

今いる土地や組織に定着しようとする

No.

[↓]

[↓]

1

絶えず移動する(遊牧)生活を好む

一カ所に定住する(農耕)生活を好む

2

人事が流動的なのを好む

人事が停滞しているのを好む

3

短期的契約関係を好む

長期にわたる取引関係を作るのを好む

4

常に新分野へと拡散しようとする

いつまでも今までいた分野にとどまろうとする



[
説明]

自分から進んで動こうとする運動エネルギーに欠けていて、かつ、心理的引力の只中で、自分がある方向に移動しようとすると必ずそれに対する引き戻しの力がかかる状態では、個人は、いつまでも既存の、今まで、自分がその場所に存在したり、その中に所属していた、集団などの対人関係(組織)の中に、外に拡散することができずに、現状維持のままとどまり続ける(定着、定住し続ける)。人間関係が固定的(人事が停滞的)だったり、相手との取引関係が長期にわたるようになる。これは、定着指向という言葉でまとめられる。

自分から進んで動こうとする運動エネルギーに満ちていて、心理的引力が小さい状態では、個人は、自由に、今までいた場所や、所属していた集団を離れて、一カ所に定着することなく、新しい境地へと絶えず動き回ることが可能である。この状態では、人間関係は、流動的な(短期契約的で、すぐ切れやすい)ものとなり、短期間で次々所属する組織を変わることになる。これは非定着指向という言葉でまとめられる。


B1.3 前例指向(ウェット)-独創指向(ドライ)

説明: B13.前例指向 vs 独創指向

B1.3

ドライ=独創指向

ウェット=前例指向

定義

誰も行ったことのない未知の領域に進もうとする

自分が今までいた領域にとどまろうとする

No.

[↓]

[↓]

1

行動の基準を新規の独創的なアイデアに求める

行動の基準を既存のしきたり・前例に求める

2

前人未踏のことにもあえて挑戦する

前例があることだけをしようとする

3

現状を変革するのを好む

現状をそのまま追認するのを好む



[
説明]

今までいたところに、いつまでも、居続けようとする(一カ所に定住・定着する)状況下では、個人は、新境地(新分野)への移動・拡散性が欠如しており(冒険しようとしない)、行動の基準を、従来から存在するしきたりや前例に求める。しきたりや前例は、定住先で生活するために従来必要であった知識の蓄積であ り、その有効性に関してチェックを行わないまま(今までと同じ環境下に居続けるのであれば不要である)、無批判にそのまま受け入れることになる(現状の追認を好む)。新天地へ積極的に出ようとする姿勢が欠如しているため、自分のアイデンティティ確立を、既に定評のある、前例に当たる知識や方法との、暗記に よる一体化を行うことで果たす。しきたり・前例に関する知識の暗記量で人間の価値を推し量ろうとする(心の中での前例蓄積量や質によって人間の価値が決ま る)。人間関係を、前例を沢山蓄積している先輩と、蓄積量が少ない後輩との差別によって把握する、年功序列が常識化する。年功序列で上位の人間が、下位の人間を、ただそれだけの理由で支配する、先輩後輩関係を重視しようとする。これは、前例指向という言葉でまとめられる。

今までいたところから絶えず動き回ろうとする状況下では、個人は、新境地(新分野)への移動・拡散性にあふれており(冒険したがる、前人未踏のことに挑戦したがる)、行動の基準を、従来にない新規の独創的なアイデアに求める。しきたりや前例の暗記よりも、新たな知識の創造や、現状の変革を重んじる。こうした行動様式は、独創指向という言葉でまとめられる。


上記のうち、静的・定着・前例指向の行動様式は、ウェットな感覚を与える液体分子群(水など)において、コップなど、ふたのない容器に入れておいても、いつまでもその中にいて、外に拡散していくことがない(蒸発は、気体分子になることで初めて可能になる)現象と、同様であると考えられ、ウェットな行動様式と言える。

一方、動的・非定着・独創指向の行動様式は、ドライな感覚を与える気体分子群(空気など)において、いったん容器に閉じ込めておいた状態でふたを取ると、すぐに外に拡散してそこからいなくなってしまう現象と同様であると考えられ、ドライな行動様式と言える。



上記の今回整理した内容から、性格、行動様式などにおけるドライ・ウェットさの概念が、集団主義・個人主義、自由主義・規制主義、プライバシー尊重の有無など、これまで個別にバラバラに議論されてきた、社会学、心理学や政治学上の様々な概念をまとめ、関連づける上位概念として、今後より有望視、重要視されるようになることが予想される。

例えば、行動様式や文化の分類について、上位概念としてのドライ・ウェットさを導入することで、従来は別々に捉えられてきた集団主義-個人主義、規制主義-自由主義の概念が互いに「集団主義と規制主義とは、どちらもウェットである」、「個人主義と自由主義とは、どちらもドライである」のようにリンク付けて捉えられるようになる。そして、このことから、例えば、「個人主義と自由主義とは(両方ともドライであり)互いに関連し合って同時に起こる、見られる」、「アメリカのような個人主義の国()は、同時に自由主義の国()である」ということが言えるようになる。

つまり、今回抽出した、集団主義-個人主義、規制主義-自由主義といった、様々なドライ・ウェットな性格・行動様式は、互いに独立・バラバラに発生するのではなく、ドライに属するもの同士(個人主義、自由主義、プライバシー尊重・・・)、ウェットに属するもの同士(集団主義、規制主義、反プライバシー・・・)、互いに関連し合って同時並行的に発生する、観察されるものであると言える。


抽出した行動様式のドライ・ウェットさについての確認

上記の抽出した行動様式が本当にドライ・ウェットと感じられるかどうかについて、個別の行動様式項目毎に「この行動様式は、ウェット・ドライのどちらに感じられますか?」と尋ねるweb質問紙調査を199957月にかけて、1質問項目当たり約200名の回答者という規模で行い、当方の上記の考え方がほぼ正しいことを確認した。

web質問紙調査(確認用)手順、web質問紙調査(確認用)結果数値は、著者による湿度感覚と気体、液体に関する他著作を参照されたい。


まとめ


 上記結果から、
(1)
ドライな行動様式の人は、対人関係において、運動・活動性が高く、相手へと近接しようとする指向が弱い人である
(2)
ウェットな行動様式の人は、対人関係において、運動・活動性が低く、相手へと近接しようとする指向が強い人である
とまとめられる。

 分かりやすく言い換えれば、対人関係で、互いに他者とベタベタくっつき合って動かないのが好きな人がウェットで、他者とバラバラに離れて活発に動き回るのが好きな人がドライということになる。要約すれば、「相互離散・移動=ドライ、相互近接・定着=ウェット」ということになる。

 人間が、対人関係の中で他者に与えるドライ・ウェットな感覚は、運動エネルギーの大小や、引力・粘着力(分子間力相当)の強弱という点で、それぞれ気体・液体分子や、乾いた・湿った物体一般が人間にもたらす感覚(ドライ・ウェット)と、本質的に同じ起源を持つ、と考えられる。


ドライ・ウェット(湿度)知覚の法則

分析対象()の動きのパターンを、以下のパターンDと、パターンWとに区別する。
D
は、ドライDry(乾いた)Wは、ウェットWet(湿った)の頭文字である。

パターンDパターンWの動きを、動画で示したものを巻末図表中に設けている。
(
動画は、元は、パターンW液体分子運動パターンD気体分子運動のコンピュータシミュレーションから作成したものである。)

[法則]

人間は、

(1)パターンDに出会う、当たる、触れると、ドライ(Dry、乾いた)と感じる。
(2)
パターンWに出会う、当たる、触れると、ウェット(Wet、湿った)と感じる。

パターンDパターンWは、分子群、物体群の動き~人間関係に共通に当てはまる、普遍的なパターンである。

パターンDパターンWの特徴を、言葉で表現すると、以下のようになる。

分析視点

パターンW

パターンD

1.動作方向

近接

離散

(1)近づき

くっつく。近づく。

サラリと離れる。離反する。

(2)つながり

連続する。つながる。癒着する。

(関係を)切断する。

(3)着床

付く。粘着する。

はがれる。

(4)まとわりつき

まとわりつく。なつく。

別れる。

(5)集合

集まる。密度が高い。

散る。密度が低い。

(6)一つ

一体・融合化する。一つになる。

バラバラである。互いに独立している。

(7)同じ

同じである。

違う。別の途を歩む。

2.動作速度

低速

高速

(1)速度

ゆっくりである。

速い。

液体分子運動。
つきたての餅。

気体分子運動。
シリカゲルの粒、ビー玉。

分析対象の(知覚される)湿度は、パターンDに近づくに従って低く(ドライ)なり、パターンWに近づくに従って高く(ウェット)なる。

対象の動く速度は、パターンDに近づくほど高く、パターンWに近づくほど低い。
対象の動く方向は、パターンDに近づくほど互いに引力が働かず離れ離れになり、パターンWに近づくほど互いに引力が働くため、近づき、くっつく。

よって、分析対象の(知覚される)湿度は、
・対象の動く速度が、高速で動くほど低く低速で動くほど高くなる。
・対象の動く方向が、離れるほど低く近づく~くっつくほど高くなる。

人間の皮膚触覚、視聴覚での物体知覚において、
パターンD(互いにバラバラに離れて、くっつかず、個別に散らばり、高速で動く)の分子群~物体群が肌に当たる(接触する)、見える、耳で存在を確かめられると、ドライに感じられる。
パターンW(互いにくっついて離れず、高密度、集団で分布し、低速で動く)の分子群~物体群が肌に当たる(接触する)、見える、耳で存在を確かめられると、ウェットに感じられる。


人間が、人付き合いの中で、
パターンDの人間関係(互いにバラバラに離散、自立して、別々に自由に高速で動き回る)に当たる(接触する)と、心の内部でドライに感じられる。
パターンWの人間関係(互いにくっつき一体化して離れない、一緒に低速で動く)に当たる(接触する)と、心の内部でウェットに感じられる。

パターンDパターンWは、それが、皮膚触覚、視覚、対人関係・心理的距離知覚といった異なるモードの知覚で生起した場合においても、神経系内の共通のパターン認識野(パターンDパターンWを判別する分野)を活性化させ、湿度判定出力をもたらすと言える。


自然環境のドライ・ウェットさと、社会のドライ・ウェットさとの関連


-農業(遊牧・農耕)の視点から-


1999.1-2005.8 大塚いわお


ここでは、環境のドライ・ウェットさと、社会や対人関係におけるドライ・ウェットさとの関連を、主に、農業のあり方を軸に考察した結果についてまとめる。

なぜ、農業のあり方を考察の軸に選んだかの理由であるが、農業は、
(1)
その遂行において、直接自然環境と接する、その意味で、自然環境の影響が大きい産業である。これは、例えば、穀物や野菜、牧草の栽培において、気温の寒暖、降水量、風速などの影響をもろに受ける点に現れている。

(2)
食糧の確保という、人間の生活を支える上で最も基本的と考えられる産業である。人間社会の基盤・土台部分を形成し、社会風土の方向性を決定する上で影響力が大きい。これは、例えば、日本社会では、農業と直接関係のない分野(例えば厚生・労働)の官庁・会社組織などにおいても、農業村落の特質である「ムラ社会的」という形容が広く使われる点に現れている。

自然環境のドライ・ウェットさがその社会にもたらす影響を考える上では、自然環境との関わりが大きく、かつ社会全体に対する影響力が大きい産業である農業分野における社会関係のドライ・ウェットさについて、その社会を代表して考察すればよいのではないかと考えられる。



農業は、全世界的観点から見ると、遊牧(牧畜)と農耕に2分される。

遊牧(牧畜)は、馬や牛、羊などの動物(家畜)と共に、動物の食物(牧草)や水などを求めてあちらこちらを移動し、その生産物(乳、肉、皮など)を得て生活する。移動可能な動物と一緒に生活する分、その生活は動的、身軽である。自らが移動できなくなるような物資の蓄積を好まず、物資の流動(フロー)を指向する。

農耕は、穀物(稲、麦など)、野菜、果物など、植物を栽培して、その生産物(実、種など)を得て生活する。一つの場所に生えたまま移動することのできない植物と一緒に生活する分、その生活は静的、身重であり、一カ所に定着して動かず(不動)、物資、財産を蓄積(ストック)すること(物持ち)を指向する。

遊牧(牧畜)は、砂漠、ステップ地帯のような、雨の比較的少ない、ドライな自然環境で行われる。 
農耕は、モンスーン地帯のように、(植物が育つのに必要な)雨が沢山降る、水の豊かなウェットな自然環境で行われる。

農業の分類

自然環境

生活をともにする
生物の種類

生活パターンと
地理の関係

物資の扱い

機動性

遊牧(牧畜)

乾燥(ドライ、気体)

動物

移動(動的)

流動(フロー重視)

(身軽)

農耕

湿潤(ウェット、液体)

植物

不動・定着(静的)

蓄積(ストック重視)

(身重)



1999.5
7にかけて行ったWWWを用いて行ったアンケート調査結果においては、態度のドライ・ウェットさについては、遊牧=ドライ、農耕=ウェットという回答結果が出た(回答者数約200)

番号

項目内容
(仮説=ドライ)

-ドライ-

どちらで
もない

-ドライ-

項目内容
(仮説=ウェット)

-Z得点-

有意

B10

遊牧生活を好む

62.727

20.909

16.364

農耕生活を好む

7.733

0.01

上記の表から、農耕社会における対人関係がウェットで、遊牧社会における対人関係がドライである、と言えることが分かった。

なぜ、農耕社会の対人関係がウェットとなり、遊牧社会における対人関係がドライと感じられるか?についての考えられる説明は以下の通りである。


〔集団主義・同調指向(農耕)-個人主義・非同調指向(遊牧)
農耕は、稲作における田植えや稲刈り作業のように、周囲の皆と同じ作業を団体・集団一斉に行う必要があり、周囲との集団としての一体性、同調性、協調性が求められる。したがってウェットである。
遊牧は、各自が個々にバラバラな違う方向に馬や牛を連れて行って放牧を行う農業であり、単独・独自行動が多く、周囲との同調性は求められない。したがってドライである。

〔定着・縁故指向(農耕)-非定着・非縁故指向(遊牧)
農耕は、一カ所に定住する定着指向の農業であり、固定した地縁関係が築かれやすく、したがってウェットである。
遊牧は、一カ所に定住せずあちこち動き回る非定着指向の農業であり、相互の関係は切れやすく、したがってドライである。

〔関係指向(農耕)-非関係指向(遊牧)
農耕は、定住した近所同士が毎日顔を突き合わせる関係にあり、対立しても顔を合わせるはめに陥る。そこで、同じ場所に住んでいる者同士、なるべく互いに仲良くしよう、対立しないようにしようとして、良好な人間関係(和合状態)の構築・維持に心を砕く。その点、ウェットである。
遊牧は、今日互いに近い場所にいても、明日はバラバラに離れて別々の場所に行く。意見が対立し仲が悪くなっても、互いに別々の場所に移動して離れてしまえばそれで互いに顔を合わせることなく済んでしまう。したがって、良好な人間関係(和合状態)の維持にはさほど関心がなく、その点ドライである。

〔規制主義(農耕)-自由主義(遊牧)
農耕は、稲作における農業水利のように、携わる人間同士の相互監視・牽制が不可欠である(例えば、稲作社会において、各人が用水を勝手に自分の田んぼにたくさん引かないように互いに見張ることなど)。その意味で規制主義的であり、したがってウェットである。
遊牧は、広大な草原を、他者に束縛されずに、自由に動き回る。その意味で自由主義的であり、したがってドライである。

〔相互依存指向(農耕)-自立指向(遊牧)
農耕は、稲作における農業水利のように、携わる人間同士が互いに依存し合う。一方が沢山水を取ると、他方の取る水が少なくなる。あるいは、農耕においては、水路、道路の維持や収穫作業のように、独力では作業が不可能で、互いに助け合う形の集団作業が必要となる。その意味で、相互依存指向といえ、対人関係としてはウェットである。
遊牧は、携わる人間同士が、互いに一人で自立して動かなければならない。彼らは、広い草原をただ独りで馬に乗って走り回り、放牧作業を自力でこなすことが求められる。その意味で自立指向といえ、対人関係としてはドライである。

〔密集指向(農耕)-広域分散指向(遊牧)
農耕は、集約的農業であり、少ない面積の土地に集中的に人的・物的資源を投入する。それに携わる人間が住む地域は、人口密度が高い。したがって、密集(過密)指向といえ、対人関係としてはウェットである。
遊牧は、粗放的農業であり、広い面積の土地に、分布する人はわずかである。それに携わる人間が住む地域は、人口密度が低い。したがって、広域分散指向といえ、対人関係としてはドライである。

以上の説明は、以下の表のようにまとめられる。 

農業方式

自然環境

対人関係

農耕

ウェット、液体(モンスーン)

ウェット、液体的(定着・縁故、関係、集団・同調、規制、相互依存、密集)

遊牧

ドライ、気体(砂漠、草原)

ドライ、気体的(非定着・非縁故、非関係、個人・非同調、自由、自立、広域分散) 

したがって、自然環境のドライ・ウェットさと、対人関係のドライ・ウェットさは、正の相関関係にある、と言えそうである。


要するに、乾いた砂漠、草原の民(ユダヤ、アラブといった遊牧の民)はドライであり、植物の豊かに生える肥沃なオアシスの農耕の民、緑の民(東アジア、東南アジアの稲作農耕民など)はウェットである、ということになる。砂漠ほどは乾いていないが、農耕に全面的に頼れるほど植物が生育しない土地に住んでいて、家畜に頼りながら半分定住、半分移動の生活をしている牧畜・酪農の民(西欧など)は、両者の中間ということになるのかも知れない。

以上の図式からは、日本は、典型的な稲作農耕民族であり、ウェットな類型に入る。一方、欧米は、遊牧系に近い牧畜の民であり、比較的ドライな類型に入る。

この点、世界の各民族の民族性がドライか、ウェットかを判断する上で、その民族が農耕民か、遊牧・牧畜民かをまず知ることが有効であると言える。

本当に以上のように言えるかどうか、を確認するには、世界各地(乾燥・湿潤両方)の社会を回って、対人関係が乾燥地帯でドライ、湿潤地帯でウェットであることを、フィールドワークで確認する必要があることは、言うまでもない。


男性・女性、どちらの性格がよりウェットドライ)か?


(c)1999-2005 大塚いわお


以下では、男女の間の対人行動面における性差を、ウェットドライの次元から説明する。

1.従来の男女の行動面での性差に関する学説との照合

対人感覚の「ウェットさ」に関しては、従来から、「女性的」なものと、関連があるとされてきた。例えば、〔芳賀綏1979〕においては、日本人の特徴として、「おだやかで、きめ細かく、『ウェット』で、『女性的』で、内気な」(強調筆者)といったものをあげており、上記の表現では、ウェットさ女性性との間に関係があるように示されている。しかし、芳賀は、ウェットさ女性性との間の相関について、実証データをもとに割り出したという訳ではなく、あくまでも漠然とした印象の形でしか、捉えていない。

そこで、「女性的」=「ウェット(男性的」=「ドライ)という図式が実際に成り立つかどうかを確かめるために、当調査において抽出した対人関係パターンを、男女の行動面での性差に関する、主要な学説と照合し、表にまとめた(学説抽出に当たっては、〔間宮1979〕〔Mitchell 1981〕〔皆本1986〕などを主に参考にした)。

〔男女の行動面での性差と、対人感覚のドライ・ウェットさとの関連:まとめの表〕

 表中、文字列の赤色は、ウェットさ、青色は、ドライさを表しています。
全て、女性ウェット男性ドライ、という結びつきとなっています(逆のパターンは、見つかりませんでした)

なお、表中の「→B20 互いに集まる.....」といった表記は、表中の記述内容に対応する、ドライ・ウェットな性格・態度とは何かに関するアンケート回答項目を示しています。

〔1〕個人主義集団主義

出典

男性特定の理由で集まるが、女性単に集まるために集まる→B20 互いに集まること自体を好む/何か目的がないと集まらない

Mitchell 1981

女子社員の多い職場では、必ずといってよいほど、いくつかのグループができる。女性は、とくに、集団を好み、楽しむようだ。

影山1968

女性は、心身ごと人や事と融合して一体化する傾向があり、愛情や感情移入を示しやすい→A14 他者との一体化・融合を好む

間宮1979

女性は、全体の中に自分を調和させる(埋没させる)行為に快感を味わう→A14 他者との一体化・融合を好む

皆本1986

男性的な権力の使い方は、個人を重視し、個人の功績を賞賛し、個人を集団から分離するのに対して、女性的な権力の使い方は、集団の幸福他人との関係を促進する

Bakan 1966

〔2〕自立指向相互依存指向

なし

〔3〕広域分散指向密集指向

女子は、細部に着目するような認知の速さや、手先の器用さに優れるのに対して、男子は、細部よりも、全体に着目して物事を考える。女性は、(男性のように)広い視野に立って思慮し判断をせず、感情的に断定を下す→F22 ものごとを見る視野の広さ

間宮1979

男性は、他人との距離を、女性の場合より大きく取りたがるのに対して、女性は、人の物理的接近に対して、男性より寛容(肯定的)である

Mitchell1981

男性密集した状態女性よりも不快に感じる→A3 広い空間に分散

Deaux 1976

女性は、(男性のような)個人と個人との二元的対置困難である。→C3 物の見方が客観的でない

間宮1979

女性は、ものごとを客観的に見ないで、問題を人間対人間の感情の問題に置き換える

影山1968

女性は、中心へ密集する傾向を持ち、男性周辺へ分散する傾向を持つ→A3 狭い空間に密集/広い空間に分散F24 中央集権/地方分権

Mitchell 1981

男性孤独に耐え、転任による独居も、女性ほどには痛痒を感じない→E32 互いに離れているのを好む

間宮1979

〔4〕多様性の尊重画一指向

男児の方が、自由が多く(行動が)型にはまることが少ない、予測しがたい。

Mitchell 1981

女子は、男子に比べて、カテゴリーの規準から逸脱する幅が少ないし、カテゴリーが狭い→B17 画一的な枠にはめようとする

Wallach1959

〔5〕非人間指向人間指向

男性は、原料、物体、機械的問題、あるいは抽象的概念のようなことを取り扱う職業の追求に心を奪われる...(のに対して)女性の世界は、..はるかにもっぱら人々の世界であり、他者の願望や期待に非常に敏感である。女性は、他者を判断する際、男性よりも、感知力がある。→E27 人間関係そのものを重視

Newcomb1965

男子は、物事を直接的に研究し、操作するのに対して、女子では事物よりも人間の声や顔など対人関係に引かれ..対人的交流に適合した言語機能がよく発達する→E27 人間関係そのものを重視

間宮1979

男子の描くモチーフは車・飛行機など..無機物であるのに対して、女子の描く主役は有機物である。...女性画には擬人化が多い。→F42 無機物/有機物を扱うのを好む

皆本1986

〔6〕非縁故指向縁故指向

なし

〔7〕自由主義規制主義

上司が、女性に注意する時は、一方的にあなたが間違っていますというよりは、自分にも責任があるような言い方をすれば非常に効果が上がる。→B15 一人の犯した失敗でも周囲の仲間との連帯責任とする

影山1968

〔8〕自律指向他律指向

女性は、自我が自律的でなく、他人との関係によって維持される

Mitchell 1981

女性は、自主的な判断自信をもって決断することを躊躇する→C38 取る行動に自主性ある/ない

間宮1979

女性は、他者の期待や願望非常に敏感である→A23 周囲の意見に左右されやすい

Newcomb1965

男子は、学習活動に対する自我関与の程度高いのに対して、女子は、課題の成否よりも、成績に対する(親や教師など周囲の他者の)要求水準や、(周囲との)対人比較に裏付けられた意欲が高い→A23 周囲の意見に左右されやすい

間宮1979

〔9〕反同調指向同調指向

女性は、まわりへの気兼ねから、本心とは違った意思表示をしたり、しばしば本心とは逆の行動様式を取る→B9 行動を周囲の人々に合わせようとする

影山1968

女子は、仲間との適合性が高く、(周囲との)判断の不調和にもそれに同調して自己の判断を変えるか、不調和に耐えて友人関係を維持するの対して、男子は、自己の判断に固執し、仲のよい友人でも同調できにくいし、不調和のままに耐えることも不得手である。→B9 行動を周囲の人々に合わせようとする/しない

間宮1979

男性は、自己表現を尊ぶが、他者との協調的表現に関心が乏しいのに対して、女性は、自己主張より、他者との調和、他者への奉仕に大きな価値を感じる→B9 行動を周囲の人々に合わせようとする/しない

皆本1986

女性は男性に比べて同調性が高く、同情的であるし、影響力の強い人間に同一化しやすい→C34 周囲に同調したがる

Schwarz1949

使う言語の文法的な特徴が標準からはずれていることについて..は男よりはるかに気にしやすい

Trudgill 1974

〔10〕反権威主義権威主義

女子の方が、自己防衛のためにおとなの権威を援用しようとする

間宮1979

の方が男よりも標準変種威信を持つと見なされている訛りに近い形の言葉を使う...権威ある特徴の発音を使う率が、社会階級を考慮に入れても、は男よりはるかに高い....は男より「良い」(正しい)形の発音を使う率が高い。

Trudgill 1974

〔11〕プライバシー尊重反プライバシー

なし

〔12〕反あいまい指向あいまい指向

女性は、男性に比べ、退嬰的で、明確な態度を表明しない →A9 物の言い方が率直/遠回し

間宮1979

女子は、万遍なく全教科を習得しようとする(筆者注:教科に対する指向が不明確である)のに対して、男子は、得意な教科にエネルギーを集中し、不得意・退屈な教科には力を抜く(筆者注:教科に対する指向が明確である)→B18 自分の今後の進路をはっきりさせようとする/しない

間宮1979

男性原色を使い、中間色避けるが、女性多く使う→A22 物事の白黒をはっきりさせる/あいまいにとどめようとする

皆本1986

男性画は、特定の色やモチーフに関心を集中し、他を切り捨てる(筆者注:色に対する指向が明確である)のに対して、女性の色使いは、特定色に偏るのを避けて、どの色も均等に使うこの色を使ったから、あの色も使わねば、と考える(筆者注:色に対する指向が不明確である)→B18 自分の今後の進路をはっきりさせようとする/しない

皆本1986

〔13〕合理指向非合理指向

なし

〔14〕動的指向静的指向

女性は、男性のような強い自己主張好まない→C14 自己主張

皆本1986

〔15〕非定着指向定着指向

女児画の中心は、男児画より低めに位置することが多く、どっしりとした安定感がある。女の子は、高いものへの興味希薄である。→C33 考え方が大地を指向する

皆本1986

乗り物類を描く女子は、男子に比べ非常に少ない→A11 一カ所に定着して動かない

皆本1986

〔16〕独創指向前例指向

新しい道具に出会った時、男子好奇心で目が輝きうれしい様子を示すのに対して、女子恐怖心を示して尻込みする。→C22 新分野への拡散

皆本1986

女子の方が多くの種類の事象に恐怖反応を示す→D37 冒険しようとしない

Goldstein 1959

女子失敗に当面すると、解決の仕方がでたらめになり、課題場面から逃避する傾向が、男子より目立つ。→D37 冒険しようとしない

Hermatz 1962

女子以前成功した課題に戻る頻度が男子より多く、男子以前失敗した課題に戻る頻度が女子より多い→D37 冒険しようとしない

Crandall 1960

男子は、攻撃性を、反社会的・破壊的な行動の形で表現するのに対して、女子は、合社会的(規則を楯にする)・非破壊的(口先・態度のみ)な行動の形で表現する。女性は、反社会的行動が、男性に比べて少ない→F30 現状を変革/追認

間宮1979

男性現状を変えることを望んでいるのに対し、女性は男性が変えた現状に依存するが、自ら現状を変えることには消極的である。→F30 現状を変革/追認

皆本1986

女子の方が環境に適応し、規則を遵守する→F30 現状を変革/追認

間宮1979

〔17〕開放指向閉鎖指向

女子の方が、排他的閉鎖的派閥作りやすい

間宮1979



〔参考にした文献〕

(注) ????マークの付いた文献は、文献抽出で用いた〔間宮1979〕で、データが省略されているため、詳細データが分からなかったものである。

Bakan, D. The duality of human existence. Chicago: Rand-McNally. 1966.
Crandall, V. J., & Robson, S. (1960). Children's repetition choices in an intellectual achievement situation following success and failure. Journal of Genetic Psychology, 1960, 97, 161-168.(
間宮1979 p178参照)
Deaux,K.: The Behavior of Women and Men , Monterey, California: Brooks/Cole, 1976
Goldstein, MJ (1959). The relationship between coping and avoiding behavior and response to fear-arousing propaganda. Journal of Abnormal and Social Psychology, 1959, 58, 247-252.(
対処的・回避的行動と恐怖を誘発する宣伝に対する反応との関係)
Hermatz,M.C. :
????(間宮1979 p178参照) , 1962
影山裕子 : 女性の能力開発, 日本経営出版会 , 1968
間宮武 : 性差心理学 , 金子書房 , 1979
皆本二三江 : 絵が語る男女の性差 , 東京書籍 , 1986
Mitchell,G. : Human Sex Differences - A Primatologist's Perspective , Van Nostrand Reinhold Company, 1981 (
鎮目恭夫訳 : 男と女の性差 サルと人間の比較 , 紀伊国屋書店 , 1983)
Newcomb,T.M.,Turner,R.H.,Converse,P.E. : Social Psycholgy:The Study of Human Interaction, New York: Holt,Rinehart and Winston, 1965 (
古畑和孝訳 : 社会心理学 人間の相互作用の研究 ,岩波書店 ,1973)
Schwarz, O, 1949 The psychology of sex / by Oswald Schwarz Penguin, Harmondsworth, Middlesex.
Trudgill,P.:Sociolinguistics: An Introduction, Penguin Books, 1974(
土田滋訳 : 言語と社会, 岩波書店, 1975)
Wallach M. A., & Caron A. J. ( 1959). "Attribute criteriality and sex-linked conservatism as determinants of psychological similarity. Journal of Abnormal and Social Psychology, 59, 43-50(
心理的類似性の決定因としての帰属的規準性と性別関連の保守性)
Wright,F.: The effects of style and sex of consultants and sex of members in self-study groups , Small Group Behavior, 1976, 7 , p433-456

その結果、以上の表が示すように、従来の学説で取り上げられてきた対人関係と性差との関連は、ほとんど、

(1)女性的=「ウェット(互いに引き付け合い、牽制・束縛しあう力である、相互間引力大きい)
(2)
男性的=「ドライ(分子間力相当の相互間引力小さい)

を示していることが、判明した。言い換えれば、

(1)女性の行動様式は、(分子間力大きい液体分子運動パターンに似ている
(2)
男性の行動様式は、(分子間力小さい気体分子運動パターンに似ている

ということになる。

確認のため、どちらがドライないしウェットか、1999.57の、性格・態度のドライウェットさを尋ねるアンケート調査の中で回答してもらったところ、以下のように、「男性的ドライ」を選んだ人の割合が、「女性的ドライ」を選んだ人の割合より、有意に多かった。

番号

項目内容
(仮説=ドライ)

-ドライ-

どちらで
もない

-ドライ-

項目内容
(仮説=ウェット)

-Z得点-

有意

C12

男性的である

46.154

24.434

29.412

考え方が女性的である

2.863

0.01

こうした両者のウェット/ドライの違いが出る原因としては、女性と男性との、生物学的貴重性の違いが関係していると推定される。

生物学的により貴重な女性は、自分自身の保身のために、よりウェットな行動を取ると考えられる。
ウェットな行動を取ることが、なぜ生物学的に貴重な存在の、自己保身のために有効か、についての詳細な理由については、以下の表を参照されたい。

[行動のウェットさと生物学的貴重性(まとめの表)

ウェット

生物学的貴重性との関連

集団主義

一人でいるより、みんなと一緒に集まっていた方が、危険が迫ったときに、一人ではできないことを力を合わせて行うことができて、安心である。

相互依存指向

互いに頼りあったほうが、危険に合ったとき、互いの力を借りることができて、対処しやすい。

密集指向

分散しているよりも、一つのところに皆で集まっていた方が、皆一緒という感じが持てて、安心感がある。

画一指向

皆と同じ行動をすることで、周囲の中で一人だけ浮いてしまうことがなくなるようにして、周囲と同類となることで、周囲からの援助が受けやすくなるようになる。
周囲の皆が取る行動を、皆がやっているから、多分正しいのだろう、きっと安全なのだろうと、模倣学習の対象に加え、追随することができる。行動の手本を、労せずして手に入れられる。

人間指向

縁故指向

人間関係を、予め安心だと分かっているもののみに絞ることで、自分の保身のために、より効果的に活用することができる

規制主義

他律指向

自分の行動を周囲まかせにすることで、自分からは、行動が失敗したときの責任を、積極的に負わなくて済むようにする。

同調指向

周囲の皆(大勢)がすることに合わせる方が、数の論理を頼みにすることができ、より安全なのだと感じて、安心できる。互いに周囲の皆と行動を合わせる方が、大勢の中の一員として振る舞うことができて、自我が拡大して、気分が大きくなり、危険に立ち向かうだけの勇気が得られるように感じる。

10

権威主義

周囲の皆が従うところの、安全性を権威ある者によって保証された行動様式に、自らも従うことで、自らの保身を確かなものにしようとする。

11

反プライバシー

12

あいまい指向

自分の言っていたことを不明瞭にして、いろいろな向きに取ることができるようにしておくことで、失敗して責任追求があったときに、「自分は本当はそうは言っていなかったのだ」として、逃げ易くする。

13

非合理指向

14

静的指向

(安全が分かっているところで)あまり動かずじっとしていた方が、動き回って危険な領域に入る心配がなく、保身に有利である。

15

定着指向

既に安全だと分かっている場所にずっといつづけることで、新たな場所への移動に伴う新たな危険の発生を防ぐ。

16

前例指向

既に安全が保証されたことだけを選んで行うようにして、未知のことを行うことによって起きる予測不能な危険を、避ける。

17

閉鎖指向

安全がすでに保証された仲間とだけ一緒にいることで、危険・有害かも知れない外部からのよそものの侵入を防ぐ。




2.「女々しさ」とウェットさの関連アンケート調査について

上記の、男性・女性の性差と、ドライウェットさとの関連、すなわち、「女性的」=「ウェット」、「男性的」=「ドライ」が、果たして、実際に人々にその通りと感じられているかどうかを検証するためのアンケート調査を行った。

[調査方法]2つ対にして並べた文章で示された態度のうち、どちらが、より「女々しい」ですか?」と質問する、アンケートページを、インターネットのWebページ検索エンジンに登録し、回答者を募った。

アンケートの項目は、1999.57に調査して、有意にドライ(ウェット)と感じられたアンケート項目全体から、(原則としてZ得点5.00以上を得た)40程度の項目を、分類毎にまんべんなく抜き出したものを採用した。

回答期間は、2000.4.中旬であった。

[結果]

回答者総数は約200名であった。男女比はほぼ40:60で若干女性の方が多かった。年令は、1020代だけで、全体のほぼ90%を占め、圧倒的に若いといえる。

結果としては、

ドライウェットさを示す各態度項目について、各々「より女々しい」「より女々しくない」という判定を下した被験者の割合が、
・「ウェット」な方を、有意な差(水準1)で「女々しい」とした項目→65.8(27/41)
・「ドライ」な方を、有意な差(水準1)で「女々しい」とした項目→2(1/41)

・有意な差(水準1)がない項目→31.7(13/41)

となり、「ウェット」な方を、有意な差(水準1)で「女々しい」とした項目が、全体の65%を占め、より多かった。逆の項目は、ほとんどなかった。

結論としては、「女々しさ(女らしさ)」と「ウェットドライさ」との関連については、回答結果を見る限りでは、現代の若い日本人男女の間では、「女々しさ(女らしさ)」=「ウェット」と捉えられている、と言える。

こうした結果は、1.における、「女性的」=「ウェット」とする文献調査の結果と合致している。


日本人は、ドライウェットか?

(C)1999.7 -2006.4 大塚 いわお


以下では、日本人の対人関係における特徴(国民性)を、ウェットドライの次元から説明する。


1.既存日本人論との照合

対人感覚のドライウェットさのうち、特にウェットさに関しては、従来から、日本人の性格・態度の特徴を表す、とされてきた。例えば、〔芳賀綏1979〕においては、日本人像のアウトラインとして、「おだやかで、きめ細かく、『ウェットで』(強調筆者)、女性的で、内気な」といったように、その中にウェットさを含めて考えている。あるいは、〔吉井博明1997〕においては、日本人のコミュニケーションのあり方の特質について、直接対面によるコミュニケーションの重視の現れを示すものとして、「ウェット」という言葉を用いている。

そこで、こうした見方が果たして正しいかどうか、当調査において抽出した対人関係パターンを、従来提唱されてきた、日本人の伝統的な国民性を現すとされる、主要な学説と照合した(学説抽出に当たっては、〔南1994〕〔青木1990〕などを参考にした)。

その結果、以下の表が示すように、従来の学説で取り上げられてきた日本人の対人関係における特徴は、ほとんど「ウェットさ」を示している。したがって、日本人の 伝統的な対人関係は、基本的にはウェットである、と捉えることができそうことが分かった。言い換えれば、「日本人の伝統的な行動様式は、(分子間力の大きい)液体分子運動パターンに似ている」ということになる。

また、以下の、日本人の国民性として列挙した文献データベース表は、内容的に十分網羅的である(日本人の対人関係上の特徴の大半をカヴァーしている)ことが考えられ、したがって、従来の日本人の国民性とされているものの大半を、「ウェット」というひとことで要約することができることになる。

〔伝統的な日本人論とウェットさとの関連:まとめの表〕

各論が発表された年代順にまとめてあります。
 項目の赤色は、ウェットさを表しています。

番号

項目

研究者名

要旨

抽出した次元
(
ウェット)

対応する欧米文化

抽出した次元・欧米
(ドライ)

(1)

恥の文化

R.Benedict (1946)

自己の行動に対する世評に気を配る。他人の判断を基準にして自己の行動の指針を定める。

反プライバシー、他律指向(他者の目を気にする)

自分の行動の指針を定めるのに、自分自身の判断を基準にする。(罪の文化)

プライバシー、自律指向

(2)

家族的構成

川島武宣(1948)

権威による支配。個人的行動の欠如。自主的な批判・反省を許さない社会規範。親分子分的結合の家族的雰囲気と、対外的な敵対意識。

権威主義、集団主義、規制主義、同調指向、縁故指向、閉鎖指向

権威への反逆。個人的行動の重視。自主的批判、反省の許可。家族的一体感の欠如と、対外的な開放意識。

反権威主義、個人主義、自由主義、反同調指向、非縁故指向、開放指向

(3)

終身雇用、年功序列
(
日本的経営)

J.C.Abegglen (1958)

会社と従業員との間に終身的な関係がある。

定着指向(組織内定住)、前例指向

会社と従業員の関係が、契約的、一時的である。

移動指向、独創指向

(4)

タテ社会

中根千枝(1967)

「場」と「集団の一体感」によって生れた日本の社会集団は、その組織の性格を、親子関係に擬せられる「タテ」性に求める。

閉鎖指向、縁故指向、集団主義、非合理指向

組織が水平方向、フラットである。

開放指向、非縁故指向、個人主義、合理指向

(5)

静的育児

Caudill,W., Weinstein, H.(1969)

日本の母親は、子供と身体的接触を多くし、子供があまり身体を動かさず、環境に対して受動的であるように、子供を静かにさせる。

静的指向、相互依存指向、密集指向

母親は、子供と身体的接触を少なくし、子供が身体を動かし、環境に対して能動的であるように、子供を動的にさせる(動的育児)。

動的指向、自立指向、広域分散指向

(6)

中央集権

辻清明(1969)

中央集権的官僚制の強い拘束の前に、近代的な地方自治が完全に窒息せしめられていた歴史を持つ。

密集指向(中央への権限の一極集中)

地方分権的である。権限が地方に移譲されている(地方分権)。

広域分散指向(権限の地方分散)

(7)

同調競争

石田雄(1970)

所属集団に支配的な価値指向と行動様式に従う。他人と同じ行動を取る。

同調主義(大勢順応)、画一主義(横並び)

他人とは別行動を取る(非同調)。

非同調指向、多様性の尊重

(8)

甘え

土居健郎(1971)

日本人は、成人した後も、「母子」間での気持ちの上での緊密な結びつきと同じような情緒的安定を求め続けて行く。

相互依存指向、集団主義(一体感)

母子間の結びつきが薄い。母親に対して情緒的安定を求めない(甘えの欠如)。

自立指向、個人主義

(9)

間人主義

木村敏(1972)・濱口恵俊(1977)

対人面での相互依存、相互信頼、対人関係の本質視、という特徴を持つ。

人間指向(人間関係そのものを重視)

対人面で、相互自立を重んじ、対人関係を単なる手段として見る(個人主義)。

非人間指向(物質指向)

(10)

他律的

荒木博之(1973)

ムラ的構造の中にあって、個人がその個性を喪失し、集団の意志によってその行動が決定されて行く。

他律指向

個人が個性を維持し、集団の中においても、個人の意志によって行動を決定する(自律的)。

自律指向

(11)

集団主義

間宏(1973)

個人と集団の関係で、集団の利害を個人のそれに優先させる。個人と集団が対立する関係ではなくて、一体の関係になるのが望ましい。

集団主義

個人の利害を、集団のそれに優先させる(個人主義)。

個人主義

(12)

母性原理

河合隼雄(1976)

「包含する」機能で示され、すべてのものを絶対的な平等性をもって包み込む、母子一体という原理を基礎に持つ。

人間指向(ふれあい)、集団主義(一体感)

母子の一体感が薄い。開放的な父性原理で動く(父性原理)。

非人間指向、個人主義

(13)

大部屋オフィス

林周二(1984)

日本のオフィス空間では、大部屋に多数の社員が机を向かい合わせに並べてがやがやと働いているのに比べて、欧米では社員は個室で働いている。

密集指向、反プライバシー(相互監視)

社員が大部屋ではなく、個室で働く(個室オフィス)。

広域分散指向、プライバシー尊重

(14)

権威主義、独創性の欠如

西澤潤一(1986)

欧米の権威者の説をあたかも自分の体験のように思い込み、批判したりすると過剰に反応する。欧米の独創技術を自らは危ない橋を渡らずに拾い上げて集中的に実用化する。

権威主義(欧米学説に追随したがる)、前例指向(自分からは未知の領域には進もうとしない)

既存の権威秩序に反抗し、破壊し、新たな独創的知見を生み出そうとする。危ない橋を進んで渡る。

反権威主義、独創指向

(15)

相互協調的自己

Markus,H,R,&北山忍(1991)

自己を相互に協調し、依存した存在とする。

相互依存指向、人間指向

自己を相互に独立し、自立した存在とする。(相互独立的自己)

自立指向、非人間指向

(16)

直接対面

吉井博明(1997)

対面コミュニケーションに過重に依存する文化を持ち、集中が集中を呼ぶ体質を内在させている。

密集指向(物理的に至近距離)、人間指向(親密さ)、反プライバシー(視線)

対面コミュニケーションを偏重しない。

広域分散指向、非人間指向

(その他)

根回し

 

交渉などをうまく成立させるために、関係方面に予め話し合いをしておく。

縁故指向、規制主義

交渉時、予め関係方面に話をせず、直接交渉を行う。

非縁故指向、自由主義

談合

 

互いに相手の動きを、相手が自由な行動(安い入札価格の提示競争)を取らないように、牽制し合って、相互の取る動き(入札価格)を事前の話し合いで決めてしまう。

規制主義(自由競争を抑制)、同調指向(相談仲間を作る)

互いに事前の話し合いをせずに、自分の取る行動を自由に決める。

自由主義、非同調指向

政府による規制

 

政府が、行政指導などで、業界の動きを牽制・拘束する。

規制主義

政府が、業界の動きをあまり牽制、拘束しない。

自由主義

NOと言えない

互いに相手に配慮して、相手の言うことを拒絶することができない。

人間指向(気に入られようとする)、集団主義(相互批判を許容しない)

相手の言うことを、きっぱり拒絶する。

非人間指向、個人主義

〔日本人の伝統的国民性:文献調査結果の詳細〕

以下は、日本人の伝統的な国民性が、ウェットであることを示している、既存の日本人の国民性に関する文献の、大まかな一覧です。 文献の順序は、発表が古い順に並べてあります。 記述は、(1)文献の著者名、題名などの書誌データ、(2)ウェットさに関連する部分の要約、(3)筆者によるアンケート調査項目との関連の仕方についての情報、から成っています。


1.〔恥の文化〕

(書誌)Benedict,R. The Chrysanthemum and the Sword : Patterns of Japanese Culture, Boston Houghton Mifflin, 1948 長谷川松治訳 「菊と刀 - 日本文化の型」社会思想社1948

(要旨)日本文化は、恥の文化に属する。
悪い行いが「世人の前に露顕」しない限り、思い煩う必要がない
恥を感じるためには、実際にその場に他人がいあわせるか、そう思い込む事が必要である 他律指向
生活において恥が最高の地位を占めているという事は、..各人が自己の行動に対する世評に気を配ることを意味する 人間指向
他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める 反プライバシー

(アンケート項目との関連)↓

反プライバシー
B24
自分が他人にどう見られるかを気にする

他律指向
E26
周囲の他者の影響を受けやすい

人間指向
E18
周囲の他者に気に入られようとする
E22
周囲の他者によい印象を与えようといつも気にする


2.〔家族的〕

(書誌)川島武宣 日本社会の家族的構成 1948 日本評論社

(要旨)日本の社会は、家族および家族的結合から成り立っており、そこで支配する家族原理は民主主義の原理とは対立的のものである。家族的原理とは、
1
「権威」による支配と、権威への無条件的服従 権威主義
2
個人的行動の欠如とそれに由来するところの個人的責任感の欠如 集団主義、規制主義
3
一切の自主的な批判・反省を許さぬという社会規範。「ことあげ」することを禁ずる社会規範 集団主義
4
親分子分的結合の家族的雰囲気と、その外に対する敵対的意識との対立。「セクショナリズム」。 縁故指向、同調指向、閉鎖指向
である。

(アンケート項目との関連)↓

権威主義
D24
権威あるとされる者の言う事を信じやすい
E15
人付き合いで相手の身分・格式を重んじる

集団主義
A1
集団・団体で行動するのを好む
D29
ひとりで他者とは別の道を歩むのを好まない

B22 集団内での相互批判を好まない

規制主義
B15
一人の犯した失敗でも周囲の仲間との連帯責任とする

縁故指向
C24
人付き合いの雰囲気が家族的である
B14
人付き合いで親分子分関係を好む

同調指向
E36
意見の同じ者だけでまとまろうとする

閉鎖指向
B21
人付き合いで身内・外の区別にこだわる
D33
自分が属する集団内の人々としか付き合おうとしない


3.〔終身雇用、年功序列〕

(書誌)Abegglen, J.C.,The Japanese Factory:Aspects of Its Social Organization, Free Press 1958 占部都美 監訳 「日本の経営」 ダイヤモンド社 1960

(要旨)日本とアメリカの工場組織を比較したときに直ちに気づく決定的な相違点は、日本における会社と従業員との間の終身的関係である(終身雇用)定着指向

従業員の給与は主として入社時の教育程度と勤続年数・家族数によって決まり、仕事の種類と仕事をした結果に基づく部分はほんの少しである(年功序列(賃金))前例指向

(アンケート項目との関連)↓
定着指向
D15
一つの組織(職場など)に長期間所属しつづけるのを好む(組織内定住)
前例指向
E12
年功序列を重んじる


4.〔タテ社会〕

(書誌) 中根千枝 タテ社会の人間関係 講談社 1967

(要旨)日本では、個人が社会に向かって自分を位置づけるとき、自分のもつ資格よりも「場」を重視する。自分の属する職場、会社、官庁、学 校などを「ウチの」と呼び、一定の契約(雇用上の)関係を結んでいる企業体であるという、自分にとっての客体としての認識ではなく、「私の、またわれわれ の会社」が主体として認識されている。

「イエ」は、「居住」(共同生活)あるいは「経営体」という枠の設定によって構成される社会集団の一つであり、そこでは「場」が重要性を 持つ。「場」という枠による機能集団の構成原理こそ、「イエ」において、全く血のつながりのない他人を後継者・相続者として位置づけて疑問が生じない根拠 である。

資格が異なるものが成員として含まれる日本の社会集団においては、集団のまとまりを強める働きをするのが、一つの枠内の成員に一体感をも たせる働きかけと、集団内の個々人を結ぶ内部組織を生成させて、それを強化させることである。それが、「われわれ」という集団意識の強調であり、「ウチ」 と「ソト」を区別する意識とそれに伴う情緒的な結束感が生れる。集団主義、閉鎖指向

「場」と「集団の一体感」によって生れた日本の社会集団は、その組織の性格を、親子関係に擬せられる「タテ」性に求める。 縁故指向

集団原理を支配する強い情緒的一体感が見いだされる 集団主義

「タテ社会」性が、日本人の「批判精神の欠如」、「論理性の欠如」を生じさせている 集団主義、非合理指向

(アンケート項目との関連)↓

集団主義
A14
他者との一体化・融合を好む

B22 集団内での相互批判を好まない

閉鎖指向
B21
人付き合いで身内・外の区別にこだわる

縁故指向
B14
人付き合いで親分子分関係を好む

非合理指向
C6
考え方が非合理的である


5.〔静的育児〕

(書誌)Caudill,W., Weinstein, H., Maternal Care and Infant Behavior in Japan and America Psychiatry,32 1969

(要旨)アメリカの母親は、子供の自己主張を明らかにし、母親とは違う存在であることを気づかせ、子供をより独立的にさせてゆく必要があると考えている..日本の母親は、子供との間の相互依存的な関係を発展させ、他人に依存的で従順な子供になることを期待している。

アメリカの母親は、子供に対して声をかけ、活発に働きかけることで関係を持ち、子供がより身体を動かし、環境に働きかけていく事を期待して いる..日本の母親は、子供と身体接触を多くし、子供があまり身体を動かさず、環境に対して受動的であるように、子供を静かにさせる傾向にある

相互依存指向、静的指向、密集指向

(アンケート項目との関連)↓

相互依存指向

D32 互いに依存しあおうとする

密集指向

E35 他者と肌と肌が触れ合うのを好む

静的指向

F36 静止しているものを好む


6.〔中央集権〕

(書誌)辻清明 新版 日本官僚制の研究 東京大学出版会 1969

(要旨)わが国は、地方自治法を制定するまでの数十年間、前近代的な中央集権的官僚制の強い拘束の前に、近代的な地方自治が完全に窒息せしめられていた

地方自治法の問題の所在について...「権力的統制」の強い残映をうかがうことができる。

第一..中央官庁による多元的拘束である。地方自治体に対する主たる監督権を掌握していた内務省の支配は廃棄せられたのであるが、同時にそ の他の官庁はいずれも多岐的な地方機関を保有増設し、地方団体の自主的機能を阻害しているとともに、さらにこれらに対して煩瑣な中央的拘束を加えている。

第二..人事権を通してなされる官僚制的拘束である。従来の地方官吏は警察官を除いて地方吏員に切り換えられたのであり、したがって人事 権は地方団体長に所属している。しかしながら、そのことは極めて形式的であり、今後依然として地方吏員の任免・転任などの実権を中央官庁が掌握していく危 険ははなはだ大きい。現在、副知事や助役をはじめとして地方団体の幹部級が、ほとんど従来の内務官吏によって充当されていることは、これを裏書きする。地 方団体長が実質的な強力な人事権を保有できないならば、地方自治に対する中央官庁の権力的統制は、今後といえども隠然として存続する..

密集指向

(アンケート項目との関連)↓

密集指向

F24 中央集権を好む


7.〔同調競争〕

(書誌)石田 雄 日本の政治文化 -同調と競争- 東京大学出版会 1970

(要旨)同調と競争の複合..日本の歴史的発展の連続と変化を統一的に説明する上で最も便宜だと考えられる...この視角によって日本の急速な発展とそれに伴う困難とを同時に説明できる
同調 所属集団に支配的な価値指向と行動様式にしたがうこと、すなわち他人と同じ行動を取ること
集団内の強い同調が集団外のものに対する対抗意識を強め、あるいは逆に外からの脅威が集団内の同調を強めるという関係は日本近代のナショナリズムに最もよく示されている

集団内の競争と同調との結びつき....競争と同調との相互補完と相互加速の関係....忠誠競争(同調の中の競争)の結果が忠誠の度合いをいよいよ強め、それによってより強い同調性をもたらし、逆に今度はそのような同調性の中で、より激しい忠誠競争が行われる...

同調指向

(アンケート項目との関連)↓

同調指向
B9
行動を周囲の人々に合わせようとする
C8
周囲の皆と同じことをしようとする
C34
周囲に同調したがる

E38 主流派の一員でいようとする



8.〔甘え〕

(書誌1)土居健郎 「甘え」の構造 弘文堂 1971
(
要旨)日本人は、「母子」間の気持ちの上での緊密な結びつきを、生れてから「社会化」の過程において経験する。
日本人は、成人した後も、家庭の内外で、母親依存と同じような情緒的な安定を求め続けてゆく。
甘えの心理は、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることである。

甘えの精神は、非論理的で閉鎖的....甘えの「他人依存性」
非合理指向、閉鎖指向、相互依存指向

(アンケート項目との関連)↓

相互依存指向
B2
互いに甘え合おうとする
A2
人付き合いで互いにもたれ合うのを好む
A15
依頼心が強い

集団主義
A14
他者との一体化・融合を好む

非合理指向
C6
考え方が非合理的である

閉鎖指向
閉鎖的な人間関係を好む


9.〔間人主義〕

(書誌1)木村敏 人と人との間 弘文堂 1972

(要旨)日本人が「自己」を意識して言う、「自分」とは、西洋人の場合と違い、確たる個人主体の「自我」ではなく、恒常的に確立された主体ではない

selfとは、...結局のところは自己の独自性、自己の実質であって、...selfと言われるゆえんは、それが恒常的に同一性と連続性を保ち続けている点にある。

日本語で言う「自分」は、自分自身の外部に、具体的には自分と相手との間にそのつど見いだされ、そこからの分け前としてその都度獲得されてくる現実性である

日本的なものの見方、考え方においては、自分が誰であるのか、相手が誰であるのかは、自分と相手との間の人間的関係の例から決定されてくる。個人が個人としてアイデンティファイされる前にまず人間関係がある

人間指向

(アンケート項目との関連)↓

人間指向
E27
人間関係そのものを重視する

(書誌2)浜口恵俊 「日本らしさ」の再発見 日本経済新聞社 1977

(要旨)日本人の特性である「間人主義」は、個人主義の、自己中心主義、自己依拠主義、対人関係の手段視、という特徴に対して、相互依存主義、相互信頼主義、対人関係の本質視、という特徴を持つ。 相互依存指向、人間指向

(アンケート項目との関連)↓

相互依存主義
D32
互いに依存しあおうとする

人間指向
E27
人間関係そのものを重視する



10.〔他律的〕

(書誌)荒木博之 日本人の行動様式 -他律と集団の論理- 講談社 1973

(要旨)ムラ的構造のなかにあって、個人がその個性を喪失し、集団の意志によってその行動が決定されてゆく他律的人間になりおおせていく
他律的精神構造が、日本人の行動様式決定の動かすべからざる要因として働いてきた
他律指向、同調指向

(アンケート項目との関連)↓

他律指向

E26 周囲の他者の影響を受けやすい
E20
自分の今後の進路を自分一人で決められない

同調指向

E30 没個性的であろうとする
B9
行動を周囲の人々に合わせようとする


11.〔集団主義〕


(
書誌1)間宏,日本的経営-集団主義の功罪,日本経済新聞社,1973

(
要旨)集団主義とは、個人と集団との関係で、集団の利害を個人のそれに優先させる集団中心(集団優先)の考え方である。あるいはそれに道徳的意味が加わって、そうするのが「望ましい」とか「善いことだ」とろる考え方である。

集団主義の下で、個人と集団との「望ましい」あり方は、個人と集団とが対立する関係ではなくて、一体の関係になることである。ここから、西欧の観 念から見て、個人の未確立の状態がでてくる。だが、集団主義の理想から言えば、個人と集団、もっと抽象的にいえば個と全体とは、対立・協調の関係にあるの ではなく、融合・一体の関係にあるのが望ましい。個人(利害)即集団(利害)であり、集団(利害)即個人(利害)である。

(書誌2)Triandis H.C., Individualism & Collectivism, Westview Press, 1995

(要旨)集団主義とは、互いに近接的にリンクされ、自分自身を、1つかそれ以上の集団(家族、会社、...)の一部であるとみなす個人からなる社会類型のことである。

1)自己の定義が、集団主義では、相互依存的であるのに対して、個人主義では、独立的である。
2)
個人と集団の目標が、集団主義では、近接しているのに対して、個人主義では、そうではない。
3)
集団主義社会における社会的行動の多くは、規範、義務によって導き出されるのに対し、個人主義では、個人の態度や欲求、権利や契約によって導き出される。
4)
人間関係を強調することを、たとえそれが不利益な場合でも、重視するのが、集団主義社会である。個人主義社会では、人間関係の維持が生み出すのが、利益か不利益かを、理性的に分析することを重視する。

日本では、...全体の25%が、水平的集団主義(内集団の凝集性や一体感を重んじる)50%が、垂直的集団主義(内集団のために尽く し、内集団の利益のために自己を犠牲にする、とともに、不平等性や上下方向の階層を受け入れる)である。水平的集団主義が高いのは、日本では、他者と違う 態度を取ることが、悪いことである、と考えられているからである。垂直的集団主義が高いのは、日本では、権威や上下関係についての感覚が強いからと考えら れる。


12.〔母性原理〕

(書誌)河合隼雄 母性社会日本の病理 中央公論社 1976

(要旨)母性原理は、「包含する」機能で示され、すべてのものを絶対的な平等性をもって包み込む。それは、母子一体というのが根本原理である。人間指向(ふれあい)、集団主義(一体感)

一方、父性原理は、「切断する」機能に特性があり、主体と客体、善と悪、上と下などに分類する。

日本社会は、母性原理を基礎に持った「永遠の少年」型社会といえる。

(アンケート項目との関連)↓
集団主義
A14
他者との一体化・融合を好む
B1
互いにくっつき合おうとする

人間指向
B3
他人との触れ合いを好む
C10
人付き合いのあり方が親密である


13.〔大部屋オフィス〕

(書誌)林 周二 経営と文化 中央公論社 1984

(要旨)開場前の図書館口の人の列や、バスを待つ行列などを観察すると、日本人の場合には、人と人との間合いが狭く、いささか押せ押せ的に並んでいるのに、西欧人の場合には、列を作る人の間合いがかなり広い

西洋人の場合、 一人の個人の周辺の空間距離が日本人の場合より一般に広く、個人住居でも一人一部屋で住む傾向がある

企業オフィスでも、欧米について調査してみると、社員一人当たりのオフィス面積は、日本の二倍近くある。日本の役所や会社のオフィス空間 は、管理職は別として、いわゆる大部屋に多勢のヒラ社員が机を向かい合わせに並べて、がやがやと働いている。これに対し、西欧の会社を訪ねるとヒラの人た ちでも概して一人か二人が一部屋にこもって働いているし、米国でも、社員は一人ずつブースみたいな空間を構えている。

欧米の会社では、社員の一人一人が、ヒラに至るまでそのような隔離空間で、自分に与えられた仕事義務だけにひたすら従事し、それを果たし 終えれば、隣りの仲間がどんなに忙しかろうが、どんどん帰る習慣である...逆に、日本のように、ホワイトカラーの職場集団の、仕事を通じての一体感づく りが大事にされるところでは、大部屋空間法式が向いている... →密集指向

(アンケート項目との関連)↓

密集指向

A16 多人数で大部屋にいるのを好む
E32
互いに一緒にいるのを好む


14.〔独創性の欠如〕

(書誌)西澤潤一 独創は闘いにあり プレジデント社 1986

(要旨)(日本の科学者は、)自分の目で確認し、実験をやって納得しようという、あるいはそういう研究発表をあるがままに受け止めようとい う、最低限の自然科学技術者としての基本的姿勢に欠けて...その代わりに本(定説)に頼る姿勢が極めて濃厚である。なまじっか、権威者が書いている形に なっているから、ありがたくも本当のことのように、読み手のほうは思い込んでしまう。多くの人は、欧米の権威者の説だということで、あたかも自分の体験の ように思い込み、批判したりすると過剰に反応する。時には、本人以上に強烈なしっぺ返しをしたりする。欧米の知性に、それだけ寄り掛かっているが故かも知 れないが、まことに不健全な話である。権威主義

欧米は、種子の段階から金を投入し、独創技術を根気よく育てようとしている。それだけ真の独創性の難しさを熟知し、敬意を払っているから である。ひるがえって日本は、官民共に危ない橋を渡ろうとせずに、欧米でうまくいっているかどうかを探り、工業化途上の大事なものを拾い上げて来て集中的 に実用化し、改良の努力を傾ける。 前例指向

(アンケート項目との関連)↓

権威主義

D24 権威あるとされる者の言うことを信じやすい

前例指向

D37 冒険しようとしない
C30
前例のあることだけをしようとする


15.〔相互協調的自己〕

(書誌)Markus H.R.,Kitayama,S., Culture and the self: Implications for cognition, emotion, and motivation. Psychological Review, 98, pp224-253 1991

(要旨)日本をはじめとする東洋文化で優勢な、相互協調的自己観によれば、自己とは他の人や周りのことごとと結びついて高次の社会的ユニッ トの構成要素となる本質的に関係志向的実体である。..自己を相互に協調し、依存した存在とする....相互に依存・協調し他者と密接に結びついた自己を 確認する..→ 集団主義、人間指向、相互依存指向

(アンケート項目との関連)↓

集団主義

B1 互いにくっつき合おうとする

人間指向

B3 他人との触れ合いを好む

相互依存指向

A2 人付き合いで互いにもたれあうのを好む
D32
互いに依存しあおうとする


16.〔直接対面〕

(書誌)吉井博明 情報化と現代社会[改訂版] 1997 北樹出版

(要旨)組織にとって重要度の高い情報は、不確実性が高く、多義性も高い、しかも外部環境情報であるため、最もリッチで、シンボリックな意 味伝達能力の高いメディア=対面コミュニケーションに依存せざるを得ず、これが立地を最も規定していることがわかる。情報通信メディアの発展は、皮肉なこ とに、情報通信メディアにのりにくい情報の希少性と価値を一層高め、情報中心地へのオフィス立地を促進しているのである。

複雑、かつ高度な相互依存の網の目で結ばれている日本の組織は、ウェットな対面コミュニケーションに過重に依存する文化を持っているのであり、日本社会は、全体として、集中が集中を呼ぶ体質(集中体質)を内在させているといえよう。

密集指向

人間指向(親密さ)、反プライバシー(視線)

もちろん、圧倒的な技術力を持ち、政府の規制や系列の制約を受けない組織が多ければ、このようなウェットな対面コミュニケーションへの依存度は低下し、集中の必要性が少なくなるのは言うまでもない。

(アンケート項目との関連)↓

密集指向
F24
中央集権を好む
A3
狭い空間に密集していようとする

人間指向
C10
人付き合いのあり方が親密である

反プライバシー
D27
互いに視線を送り合うのを好む
B7
互いに監視し合うのを好む


〔その他の、日本文化と関係の深い概念について〕

以上の文献以外で指摘されて来た、日本文化と関係の深い、ウェットさを表していると考えられる概念を、以下にいくつか列挙しました。説明は、なぜウェットと言えるかについて書かれています。

〔根回し〕

(説明)交渉などをうまく成立させるために、関係方面に予め話し合いをしておくことを指す「根回し」は、予め存在する縁故関係をたどって、 そのネットワークの中にいる各人の了解を取り付けようとする行為である。各人が、関係を生成する相互間引力の只中にいることを、話し合いの機会を持つこと で、再確認させる意味合いを持ち、根源的には、縁故関係とそのもとになる相互間引力の存在が前提となる行為である。
縁故指向

相互間引力のある状態では、何か自分のやりたいことがある場合に、根回しが必須になる。相互間引力が働いている只中にいる状態で、何か新た に行動を起こそうとする個人は、事前に周囲に、自分はこれからこういうことをします、ということについて了解を取る、ないし根回しを行っておかないと、後 で、本人の行動が周囲の他者をあらぬ方向へ(相互間引力の働きで)振り回した(あるいは、逆に、周囲が本人を、自由に動けないように、相互間引力によって 拘束しようとした)ということで、互いに不本意な思いをする(互いの行動を非難し合うなど)ことにつながる。
規制主義

〔接待〕

(説明)接待は、元々あまり近くなかった存在の者同士のうちの一方が他方に対して、より心理的に近づこうとして(相手に近づいてもらおうとして)、食事などの供与をすることを指し、その点で、相互間引力がより強く働く状態に持ち込もうとする態度の現れと言える。
縁故指向

〔談合〕

(説明)官公庁の入札などの際に見られる談合は、互いに相手の動きを、相手が自由な行動(各自が自由に安い入札価格を提示し合って競争する など)を取らないように牽制し合って、取る動き(特定の誰かが、高めの入札価格を提示すること)を事前の話し合い(相互拘束)で決めてしまう点で、相互間 引力の産物である。
規制主義

〔公私混同〕

(説明)公共物と自分のものとを混同することが、公私の区別が「あいまい」となることに結びつく。
あいまい指向


こうした、従来、日本的とされる対人関係の上での特徴は、決して、日本だけに特殊なものではなく、より一般的には、農耕、とくに高温多湿な 東アジアに広く分布する稲作社会(集約的農業型社会)での対人関係上の特徴へと拡張して捉えることができそうに思われる。この点の根拠については、筆者による環境のドライ・ウェットさとの照合についての記述を参考にしていただきたい。

現状では、研究者の関心が、日本対欧米という視点にしばられて、日本以外の東アジアの社会のあり方に対して向いていないため、日本の対人関係上の特徴を、(本当は東アジア稲作社会に共通であるのに)日本に特殊的と思い込みやすいのではあるまいか?



〔参考文献〕

青木保 「日本文化論」の変容 -戦後日本の文化とアイデンティティー- 中央公論社 1990
芳賀綏 日本人の表現心理 中央公論社 1979
南博 日本人論-明治から今日まで 岩波書店 1994
吉井博明 情報化と現代社会 北樹出版 1996


1-2.「日本的=ウェット」のアンケート調査(2000.10)による確認

上記文献調査結果である、「日本的=ウェット」を確認するため、いくつかアンケート調査を行った。

(1)日本とアメリカと、どちらがよりドライウェットかと、1999.57に行った、「ドライ・ウェットな性格・態度は何か」を調べるアンケート内で尋ねたところ、「アメリカがよりドライ(日本がよりウェット)である」との回答があった割合が、その逆よりも、やや多かった(ただし、有意水準0.01には届いていない)

番号

項目内容
(仮説=ドライ)

-回答=
ドライ-

どちらで
もない

-回答=
ドライ-

項目内容
(仮説=ウェット)

-Z得点-

有意

C32

アメリカ的である

44.796

21.719

33.484

考え方が日本的である

1.901

0.05

(2)日本的、東アジア的(=韓国・台湾、フィリピン...)、および欧米的な性格・態度が、それぞれどの程度ドライウェットと考えられるかについて検証するアンケート調査を2000.10に行った。

アンケートは、より日本的、東アジア的、欧米的な態度が、とてもドライ~とてもウェットの5段階評価でどのレベルに当てはまるかを、回答してもらう形で行った。

その結果、「欧米的=ドライ」、「東アジア的(=韓国、台湾、フィリピン....)=ウェット」、「日本的=ウェット」という傾向が確認された。 ()



ドライ・ウェットな対人行動と気体・液体分子運動との関連について

20081月 初出

200612月頃、気体、液体の分子運動のドライ、ウェットさの測定を、気体分子運動でドライと感じる度合いがウェットと感じる度合いを上回るか、液体分子運動でウェットと感じる度合いがドライと感じる度合いを上回るかを確認する作業を行った。

すなわち、インターネット利用者(研究参加者)に気体,液体の分子運動シミュレーションムービーを見せて,各分子の動きを人の動きと見立てた場合それぞれどの程度ドライ,ウェットと感じるか調べることにした。

・方法

[
データ収集方法] インターネットのwebサイトで回答を収集した。回答のカウントに当たっては,同じ研究参加者が複数回回答する可能性に対応するた め,回答時に同一のIPアドレスの持ち主は同一の回答者であると見なし,同一のIPアドレスの複数回答は最新の1個の回答のみを有効と見なすととも に,cookieを利用して複数回の回答を受付けないように設定した。

[
研究参加者] 回答を得た研究参加者の総数は206名(男性102名,女性104名)であった。性別情報は,回答時に性別選択欄をwebページにラジオボタンで設け,選択入力してもらうことで得た。

[
調査時期] 調査時期は,2006124日から9日の6日間であった。

[
刺激映像] 刺激は,Ar(アルゴン)の分子運動パターンをシミュレートするJavaプログラムを,池内(2002)のwebサイトより入手し,液体と気体それぞれの分子運動を最も明確に示すように,絶対温度20(液体)300(気体)のそれぞれの分子運動を表すように調整した。プログラムが表示した気体,液体各分子運動のムービーを,パソコン上でキャプチャし,各々30秒間のwindows media video形式のムービーに加工して,webサイト上で研究参加者のパソコンから再生可能とした。

[
質問項目] 上記各ムービーについて「これは,人々の動きを早送りで再生したものです。一つ一つの粒々が一人一人の人間を表しています。このムービーに おける人々の性格がどの程度ドライ,ウェットに感じられるか5段階評価して下さい。」として,ドライ,ウェットそれぞれ別々に回答させた。段階は,「感じ ない(0) -少し感じる(1) -やや感じる(2) -かなり感じる(3) -とても感じる(4)」とした。

[
手続き] 各ムービーは,一度に1個ずつ,順番をランダムにして呈示し,ムービー毎に回答させるようにした。また,研究参加者のコンピュータ環境に対応 しつつ,刺激提示の条件を揃えるために,「再生回数は可能な限り2回まででお願いします」の旨,断り書きを付けて,読んでもらった。なお,実験操作のデブ リーフィングとして,回答が完了した時点で,「実はこれは,気体,液体分子運動のシミュレーションムービーでした。」という断り書きを画面上に呈示した。

・結果

気体,液体分子運動パターンが,人の性格としてそれぞれドライおよびウェットと感じられた度合いの評定値の平均値と標準偏差はTable 1に示した通りである。
見せたムービーの種類別にドライ,ウェットに感じた度合いの違いを見るため,対応のあるt検定を行った。結果はTable 2の通りである。
液体の分子運動を見たとき,ドライ,ウェットと感じる度合いについては,ウェットと感じる度合いの数値が,ドライと感じる度合いよりも,有意に高かった(t(205)=8.74,p<.01)
気体の分子運動を見たとき,ドライ,ウェットと感じる度合いについては,ドライと感じる度合いの数値が,ウェットと感じる度合いよりも,有意に高かった(t(205)=3.21,p<.01)
気体と液体とではどちらをよりドライと感じるかについては,気体分子運動パターンをドライに感じる度合いが,液体分子運動パターンをドライに感じる度合いよりも有意に高かった(t(205)=6.32,p<.01)
気体と液体とではどちらをよりウェットと感じるかについては,液体分子運動パターンをウェットに感じる度合いが,気体分子運動パターンをウェットに感じる度合いよりも有意に高かった(t(205)=8.25,p<.01)


・図表

Figure.1 気体,液体分子運動パターン
分子運動シミュレーションムービー(研究参加者に見せたもの)

気体分子運動


液体分子運動



Table.1

刺激種類

ドライ

ウェット

液体分子運動

0.85
(1.17)

2.09
(1.50)

気体分子運動

1.60
(1.46)

1.15
(1.24)

(かっこ内は標準偏差)


Table.2

比較対象

t検定結果

有意水準

液体ウェット液体ドライ

t(205)=8.74

p <.01

気体ドライ-気体ウェット

t(205)=3.21

p <.01

気体ドライ-液体ドライ

t(205)=6.32

p <.01

液体ウェット気体ウェット

t(205)=8.25

p <.01



以上の結果により,気体分子運動のシミュレーションを人に見立てて観察させるとドライな性格と認知され,一方,液体分子運動はウェットな性格と認知される ことが分かった。気体分子運動パターンと同様に振る舞う人のパーソナリティはドライに,液体分子運動パターンと同様に振る舞う人ではウェットに感じられる と考えられる。


男性的,女性的なパーソナリティの認知と気体,液体分子運動パターンとの関係


2008.04 初出

要約
人間のパーソナリティ認知の男性的,女性的と,物質の気体,液体の人間に与える感覚のドライ,ウェットさの間の関連を明らかにするため,webでの調査を 行った。気体・液体分子運動パターンをコンピュータシミュレートした2つのムービーを研究参加者201名に対して見せて,各ムービーで,粒子の動きが個人 の対人行動としてどの程度男性的,女性的に感じられるかを評価してもらった。その結果,気体分子運動パターンは人々の動きとして男性的,液体分子運動パ ターンは女性的と感じられることが分かった。




課題


実際に研究参加者に気体,液体の分子運動シミュレーションムービーを見せて,各分子の動きを人の動きと見立てた場合それぞれどの程度男性的,女性的と感じるか調べることにした。


方法

[
データ収集方法] インターネットのwebサイトで回答を収集した。回答のカウントに当たっては,同じ研究参加者が複数回回答する可能性に対応するた め,回答時に同一のIPアドレスの持ち主は同一の回答者であると見なし,同一のIPアドレスの複数回答は最新の1個の回答のみを有効と見なすととも に,cookieを利用して複数回の回答を受付けないように設定した。

[
研究対象者] 回答を得た研究参加者の総数は201名(男性105名,女性96名)であった。性別情報は,回答時に性別選択欄をwebページにラジオボタンで設け,選択入力してもらうことで得た。
[
調査時期] 調査時期は,2007821日から831日の11日間であった。

[
刺激映像] 刺激は,Ar(アルゴン)の分子運動パターンをシミュレートするJavaプログラムを,池内(2002)webサイトより入手し,液体と 気体それぞれの分子運動を最も明確に示すように,絶対温度20(液体)300(気体)のそれぞれの分子運動を表すように調整した。プログラムが表示 した気体,液体各分子運動のムービーを,パソコン上でキャプチャし,各々30秒間のwindows media video形式のムービーに加工して,webサイト上で研究参加者のパソコンから再生可能とした。各ムービーの静止画は,Figure 1の通りである。

[
質問項目] 上記各ムービーについて「これは,人々の動きを早送りで再生したものです。一つ一つの粒々が一人一人の人間を表しています。このムービーに おける人々の性格がどの程度男性的,女性的に感じられるか5段階評価して下さい。」として,男性的,女性的それぞれ別々に回答させた。段階は,「感じない (0)」から「とても感じる(4)」の5段階とした。

[
手続き] 各ムービーは,一度に1個ずつ,順番をランダムにして呈示し,ムービー毎に回答させるようにした。回答はムービーが実際に動いているのを見な がらでないとしにくいため,各ムービーは回答中エンドレスで流れるようにした。なお,実験操作のデブリーフィングとして,回答が完了した時点で,「実はこ れは,気体,液体分子運動のシミュレーションムービーでした。」という断り書きを画面上に呈示した。

結果

気体,液体分子運動パターンが,人の性格としてそれぞれ男性的および女性的と感じられた度合いの評定値の平均値と標準偏差はTable 1に示した通りである。

見せたムービーの種類別に男性的,女性的に感じた度合いの違いを見るため,対応ありの平均値の差のt検定(両側)を行った(n=201)。結果はTable 2の通りである。

液体の分子運動を見たとき,男性的,女性的と感じる度合いについては,女性的と感じる度合いの数値が,男性的と感じる度合いよりも,有意に高かった(t(200)=5.42,p<.01)

気体の分子運動を見たとき,男性的,女性的と感じる度合いについては,男性的と感じる度合いの数値が,女性的と感じる度合いよりも,有意に高かった(t(200)=6.84,p<.01)

気体と液体とではどちらをより男性的と感じるかについては,気体分子運動パターンを男性的に感じる度合いが,液体分子運動パターンを男性的に感じる度合いよりも有意に高かった(t(200)=7.47,p<.01)

気体と液体とではどちらをより女性的と感じるかについては,液体分子運動パターンを女性的に感じる度合いが,気体分子運動パターンを女性的に感じる度合いよりも有意に高かった(t(200)=6.29,p<.01)


考察

以上の結果により,気体分子運動のシミュレーションを人に見立てて観察させると男性的な性格と認知され,一方,液体分子運動は女性的な性格と認知されるこ とがわかった。気体分子運動パターンと同様に振る舞う人のパーソナリティは男性的に,液体分子運動パターンと同様に振る舞う人では女性的に感じられると考 えられる。




図表

Figure.1
気体,液体分子運動パターン
分子運動シミュレーションムービー(研究参加者に見せたもの)

気体分子運動


液体分子運動





Table.1
気体,液体分子運動ムービーへのアメリカ的・日本的評価値の平均値と標準偏差(かっこ内)

刺激種類

男性的

女性的

液体分子運動

0.67
(1.10)

1.35
(1.37)

気体分子運動

1.49
(1.41)

0.65
(1.13)

n=201



Table.2
条件間の平均値の差の比較結果(対応あり)

比較対象

t検定

液体女性的-液体男性的

t(200)=5.42**

気体男性的-気体女性的

t(200)=6.84**

気体男性的-液体男性的

t(200)=7.47**

液体女性的-気体女性的

t(200)=6.29**

** p < .01

父性的, 母性的なパーソナリティの認知と気体,液体分子運動パターンとの関係

2012.07初出

父性的、母性的パーソナリティと、気体、液体分子運動パターンとの関係について、詳しく説明しています。父性的 パーソナリティと気体分子運動、母性的パーソナリティと液体分子運動が相関します。

要約
人間のパーソナリティ認知の父性的,母性的と,物質の気体,液体の人間に与える感覚のドライ,ウエットさの間の関連を明らかにするため,webで の調査を行った。気体・液体分子運動パターンをコンピュータシミュレートした2つのムービーを研究参加者201名に対して見せて,各ムービーで,粒子の動きが個人の対人行動としてどの程度 父性的,母性的に感じられるかを評価してもらった。その結果,気体分子運動パターンは人々の動きとして父性的,液体分子運動パターンは母性的と感 じられることが分かった。

課題


実際に研究参加者に気体,液体の分子運動シミュレーションムービーを見せて,各分子の動きを人の動きと見立てた場合それぞれどの程 度父性的,母性的と感じるか調べることにした。


方法

[
データ収集方法]インターネットのwebサイトで回答を収集した。回 答のカウントに当たっては,同じ研究参加者が複数回回答する可能性に対応するため,回答時に同一のIPアドレスの持ち 主は同一の回答者であると見なし,同一のIPアドレスの複数回答は最新の1個の回答のみを 有効と見なすとともに,cookieを利用して複数回の回答を受付けないように設定した。

[
研究対象者]回答を得た研究参加者の総数は201名(男性105名, 女性96名)であった。性別情報は,回答時に性別選択欄をwebページにラジオボタンで設 け,選択入力してもらうことで得た。
[
調査時期]調査時期は,2007821日から831日の11日間であった。

[
刺激映像]刺激は,Ar(アルゴン)の分子運動パターンをシミュレートするJavaプログラムを,池内満(2002)のwebサイトより入手し,液体と気体それぞれの分子運動を最も明確に示すように,絶対温度20(液 体)300(気体)のそれぞれ の分子運動を表すように調整した。プログラムが表示した気体,液体各分子運動のムービーを,パソコン上でキャプチャし,各々30秒間のwindowsmediavideo形式のムービーに加工して,webサイト上で研究 参加者のパソコンから再生可能とした。各ムービーの静止画は,Figure1の通りである。

[
質問項目]上記各ムービーについて「これは,人々の動きを早送りで再生したものです。一つ一つの 粒々が一人一人の人間を表しています。このムービーにおける人々の性格がどの程度父性的,母性的に感じられるか5段階 評価して下さい。」として,父性的,母性的それぞれ別々に回答させた。段階は,「感じない(0)」から「とても感じる(4)」 の5段階とした。

[
手続き]各ムービーは,一度に1個ずつ,順番をランダムにして呈示 し,ムービー毎に回答させるようにした。回答はムービーが実際に動いているのを見ながらでないとしにくいため,各ムービーは回答中エンドレスで流 れるようにした。なお,実験操作のデブリーフィングとして,回答が完了した時点で,「実はこれは,気体,液体分子運動のシミュレーションムービー でした。」という断り書きを画面上に呈示した。

結果

気体,液体分子運動パターンが,人の性格としてそれぞれ父性的および母性的と感じられた度合いの評定値の平均値と標準偏差はTable1に 示した通りである。

見せたムービーの種類別に父性的,母性的に感じた度合いの違いを見るため,対応ありの平均値の差のt検 定(両側)を行った(n=201)。結果はTable2の通りである。

液体の分子運動を見たとき,父性的,母性的と感じる度合いについては,母性的と感じる度合いの数値が,父性的と感じる度合いより も,有意に高かった(t(200)=5.67,p<.01)

気体の分子運動を見たとき,父性的,母性的と感じる度合いについては,父性的と感じる度合いの数値が,母性的と感じる度合いより も,有意に高かった(t(200)=4.96,p<.01)

気体と液体とではどちらをより父性的と感じるかについては,気体分子運動パターンを父性的に感じる度合いが,液体分子運動パターン を父性的に感じる度合いよりも有意に高かった(t(200)=4.28,p<.01)

気体と液体とではどちらをより母性的と感じるかについては,液体分子運動パターンを母性的に感じる度合いが,気体分子運動パターン を母性的に感じる度合いよりも有意に高かった(t(200)=6.82,p<.01)


考察

以上の結果により,気体分子運動のシミュレーションを人に見立てて観察させると父性的な性格と認知され,一方,液体分子運動は母性 的な性格と認知されることがわかった。気体分子運動パターンと同様に振る舞う人のパーソナリティは父性的に,液体分子運動パターンと同様に振る舞 う人では母性的に感じられると考えられる。




図表

Figure.1
気体,液体分子運動パターン
分子運動シミュレーションムービー(研究参加者に見せたもの)

気体分子運動


液体分子運動




Table.1気体,液体分子運動ムービーへの父性的・母性的評価値の平均値と標準偏差(かっこ内)

刺激種類

父性的

母性的

液体分子運動

0.37
(0.81)

0.90
(1.20)

気体分子運動

0.76
(1.18)

0.31
(0.73)

n=201



Table.2
条件間の平均値の差の比較結果(対応あり)

比較対象

t検定

液体母性的-液体父性的

t(200)=5.67**

気体父性的-気体母性的

t(200)=4.96**

気体父性的-液体父性的

t(200)=4.28**

液体母性的-気体母性的

t(200)=6.82**

**p<.01



アメリカ的,日本的なパーソナリティの認知と気体,液体分子運動パターンとの関係


2008.04
初出

要約
人間のパーソナリティ認知のアメリカ的,日本的と,物質の気体,液体の人間に与える感覚のドライ,ウェットさの間の関連を明らかにするため,webでの調査を行った。気体・液体分子群の運動をコンピュータシミュレートした2つのムービーを研究参加者201名に対して見せて,各ムービーで,粒子の動きが個人の対人行動としてどの程度アメリカ的,日本的に感じられるかを評価してもらった。その結果,気体分子運動パターンは人々の動きとしてアメリカ的,液体分子運動パターンは日本的と感じられることが分かった。


目的

実際に日本人の研究参加者に気体,液体の分子運動シミュレーションムービーを見せて,各分子の動きを人の動きと見立てた場合それぞれどの程度欧米的,日本的と感じるか調べることにした。

その際,「欧米的」という言葉は,「欧米」がカバーする地球上の地域が広範囲,多種多様にわたるため,人々が捉えるパーソナリティ上のイメージが分散し,統合して捉えにくい可能性がある。そこで,今回研究参加者を日本人としたこともあり,日本人にとって,欧米地域の中で,太平洋戦争後の日本占領以来,最も身近で親しみのある,パーソナリティの具体的イメージが沸きやすいと考えられる北米のアメリカ合衆国を代表例として採用し,「アメリカ的」「日本的」のそれぞれを調べることにした。

方法

[
データ収集方法] インターネットのwebサイトで回答を収集した。回答のカウントに当たっては,同じ研究参加者が複数回回答する可能性に対応するため,回答時に同一のIPアドレスの持ち主は同一の回答者であると見なし,同一のIPアドレスの複数回答は最新の1個の回答のみを有効と見なすとともに,cookieを利用して複数回の回答を受付けないように設定した。

[
研究対象者] 回答を得た研究参加者の総数は201名(男性105名,女性96名)であった。性別情報は,回答時に性別選択欄をwebページにラジオボタンで設け,選択入力してもらうことで得た。

[
調査時期] 調査時期は,2007821日から831日の11日間であった。

[
刺激映像] 刺激は,Ar(アルゴン)の分子運動パターンをシミュレートするJavaプログラムを,池内(2002)webサイトより入手し,液体と気体それぞれの分子運動を最も明確に示すように,絶対温度20(液体)300(気体)のそれぞれの分子運動を表すように調整した。プログラムが表示した気体,液体各分子運動のムービーを,パソコン上でキャプチャし,各々30秒間のwindows media video形式のムービーに加工して,webサイト上で研究参加者のパソコンから再生可能とした。各ムービーの静止画は,Figure 1の通りである。

[
質問項目] 上記各ムービーについて「これは,人々の動きを早送りで再生したものです。一つ一つの粒々が一人一人の人間を表しています。このムービーにおける人々の性格がどの程度アメリカ的,日本的に感じられるか5段階評価して下さい。」として,アメリカ的,日本的それぞれ別々に回答させた。段階は,「感じない(0) 」から「とても感じる(4)」の5段階とした。

[
手続き] 各ムービーは,一度に1個ずつ,順番をランダムにして呈示し,ムービー毎に回答させるようにした。回答はムービーが実際に動いているのを見ながらでないと行いにくいため,各ムービーは回答中エンドレスで流れるようにした。なお,実験操作のデブリーフィングとして,回答が完了した時点で,「実はこれは,気体,液体分子運動のシミュレーションムービーでした。」という断り書きを画面上に呈示した。

結果

気体,液体分子運動パターンが,人の性格としてそれぞれアメリカ的および日本的と感じられた度合いの評定値の平均値と標準偏差はTable 1に示した通りである。

見せたムービーの種類別にアメリカ的,日本的に感じた度合いの違いを見るため,対応のあるt検定を行った。結果はTable 2の通りである。

液体の分子運動を見たとき,アメリカ的,日本的と感じる度合いについては,日本的と感じる度合いの数値が,アメリカ的と感じる度合いよりも,有意に高かった(t(200)=10.20,p<.01)

気体の分子運動を見たとき,アメリカ的,日本的と感じる度合いについては,アメリカ的と感じる度合いの数値が,日本的と感じる度合いよりも,有意に高かった(t(200)=3.54,p<.01)

気体と液体とではどちらをよりアメリカ的と感じるかについては,気体分子運動パターンをアメリカ的に感じる度合いが,液体分子運動パターンをアメリカ的に感じる度合いよりも有意に高かった(t(200)=7.81,p<.01)

気体と液体とではどちらをより日本的と感じるかについては,液体分子運動パターンを日本的に感じる度合いが,気体分子運動パターンを日本的に感じる度合いよりも有意に高かった(t(200)=7.15,p<.01)


考察

以上の結果により,気体分子運動のシミュレーションを人に見立てて観察させるとアメリカ的な性格と認知され,一方,液体分子運動は日本的な性格と認知されることがわかった。気体分子運動パターンと同様に振る舞う人のパーソナリティはアメリカ的に,液体分子運動パターンと同様に振る舞う人では日本的に感じられると考えられる。

このことから,気体と液体それぞれの分子運動のパターンと,パーソナリティの認知におけるアメリカ的,日本的という印象との間に,なんらかのつながりが存在することが推測される。しかし,なぜこうしたつながりが生じるかの理由は,現状ではよく分からず,さらなる研究が必要である。

また,今回の研究結果では,アメリカ的,日本的なパーソナリティについて日本人の研究参加者が持つ印象を単に尋ねたに過ぎず,その印象が,アメリカ人,日本人のパーソナリティの実際のあり方にそのまま即していると考えるのは早計と考えられる。実際の対人関係においてアメリカ人のパーソナリティが気体的で日本人のそれが液体的であることを示す研究が別途必要である。

また,今回の結果は,あくまで日本人サイドの見方であり,視点に偏りが見られる。より偏りのない客観的な視点を得るには,日本人の研究参加者だけでなく,アメリカ人の研究参加者を別途募って,アメリカ人から見た印象がどうなっているかを別途確認する必要がある。

また,欧米的,日本的パーソナリティの比較という当初の研究目的からは,今後は,今回の研究では対象から除外された,アメリカ以外の西欧,北欧等のヨーロッパ各地域と日本との比較等も必要となってくると考えられる。


図表

Figure.1
気体,液体分子運動パターン
分子運動シミュレーションムービー(研究参加者に見せたもの)

気体分子運動


液体分子運動


Table.1 気体,液体分子運動ムービーへのアメリカ的・日本的評価値の平均値と標準偏差(かっこ内)

刺激種類

アメリカ的

日本的

液体分子運動

0.47
(0.94)

1.71
(1.45)

気体分子運動

1.35
(1.43)

0.90
(1.26)

n=201


Table.2
条件間の平均値の差の比較結果(対応あり)

比較対象

t検定

液体日本的-液体アメリカ的

t(200)=10.20**

気体アメリカ的-気体日本的

t(200)=3.54**

気体アメリカ的-液体アメリカ的

t(200)=7.81**

液体日本的-気体日本的

t(200)=7.15**

** p < .01


女社会、男社会

2008.04 大塚いわお


女社会

男社会

タイプ

リキッドタイプ(液体的)

ガスタイプ(気体的)

感覚

ウェット、温かい

ドライ、冷たい

支配者

姑、母、お局

優勢な地域

日本的、東アジア的(中国、韓国・・・)

アメリカ的、西欧的

1

保身preservation

101

保身、安全の重視

危険への対峙

互いに自分のことが一番大切である。軍事的に守られるのを好む。
危険を冒さない、冒険しない。取る態度が退嬰的である。

自分自身より大切な存在が他にいる。それを守るのを自己の使命とする。
危険に直面し、対決する。

102

前例、しきたり、暗記の重視、保守性

探検、独創性の重視、革新性

その通りにやれば大丈夫、無難と分かっている前例、しきたりが確立されたことしかしようとしない。物の見方が保守的である。
前例、しきたり通りに行動する。既存知識を細かいところまで暗記するのを重視する。

うまく行くかどうか分からない、前例のない事柄に挑戦して、失敗を重ねながら、新たな前例に当たる知見を作り上げる。物の見方が革新的である。

103

減点主義

加点主義vs直接的な欠点修正要求

相手のマイナス点、あら探しを粘着的に延々とするのを好む。相手を褒めない。いつまでも陰口、悪口を言う。建設的でない。

相手の長所を積極的に褒める。建設的である。相手の欠点を、単刀直入に直接的に批判、攻撃して、修正されたら、あっさり余所へ行く。

104

決定、責任の回避

決定、責任の不可避

決定を先送りする。
意思決定を集団で行うことで、個人での責任を回避する。

決定を先送りせず、リアルタイムで決定する。
単独で意思決定を行うため、責任が回避できない。

2

一体性oneness

201

相互一体性の重視

相互独立性の重視

互いに一つになる、融合するのを好む。
互いの一体感を重視する。仲良し集団を作るのを好む。相手が自分と肌に合うかどうかを気にする。
意見の割れを避けようとする。満場一致を好む。

互いにバラバラに独立するのを好む。
意見の割れを当たり前と考え、多数決を好む。

202

依存

自立

自分一人だけで自立するのが不安で、誰か周囲に支えてもらいたいと考える。周囲に助け、庇護を求める。

自分一人で自立するのを理想とし、周囲に助けを求めない。

203

包含の重視、「袋」指向、枠内、制限指向

解放の重視、開放性、枠からの飛び出し、打破指向

相手を包み込む、相手に包み込まれる感覚を好む。「袋」の中にいるのを好む。決められた枠内に止まる、枠を守る、制限するのを好む。

包まれていた、閉じ込められていたところから解放されるのを好む。オープンなのを好む。決められた枠からはみ出す、飛び出る、枠を破るのを好む。

204

全人的支配、従属

支配の部分性、自由の残存

親分子分関係のように、相手を全人格的に包み込んで支配したり、全人格的に従属するのを好む。

相手を支配するが、全人格を支配するのではなく、相手のコアの部分には、自由を残す。

205

相手の人格制御

相手の道具、手段的制御

教育などで、相手教師の人格、人柄そのものを慕って付いて行こう、相手子供の人格そのものをコントロールしよう、しつけようとする。
他人を中傷する時に、相手の人格(性格とか)を攻撃する。

教育などで、相手の人格そのものには手を付けず、相手を専ら効果的な学習のための道具、手段として効果的に利用し、あるいは具体的な指示、教示を与える対象として冷静に目視しようとする。
他人を中傷する時に、相手の能力の欠如、意見の誤りを客観的に攻撃する。

206

所属の重視(所属主義)

本人個人、フリー、自由の重視

人を見る時に、その人がどの集団、団体に属しているかを重視する。

人を見るときに、本人の所属ではなく、本人個人そのものを直視の対象とする。どこにも従属せず、自主独立の自由であることを重視する。

207

つながり、コミュニケーション、縁故、コネの重視

初対面、別れ、切断前提の付き合い、契約の重視

人とのつながり、コミュニケーションを重視する。人を判断する時に、その人が自分とどういうつながりがあるか、どういうコネを持っているかを重視する。採用とかで自分とつながりのない他者をシャットアウトする。一見さんお断り。

人を判断する時に、その人自身の能力、利益を生み出す力を重視する。能力のあると思った人は、初対面でコネがなくても採用する。用件が済んだら、さっさと別れて、関係を切る。関係が切れることを前提とした契約を重視する。

208

妬み、足の引っ張り合い

自他の区別・割り切り、ライバルへの攻撃

自分と関わりのある、かつて自分と同等以下で、その後自分より上等になった、なろうとする他者のことを妬んで、互いに足を引っ張る。自分は自分、他人は他人と割り切ることができない。

自分は自分、他人は他人と区別し、割り切る。
自分の利益、築いた立場を浸食しようとするライバルを敵視して、攻撃、ダメージを加えようとする。

209

近接、粘着、くっつき

離反、距離感、はがれ

人間関係が、相手に近づきくっつくのを好む結果、粘着的になり、愛憎にまみれた、ベタベタ、ドロドロしたものになる。

人間関係が、相手とあまりベタベタくっつかずにはがれる、距離を保った、あっさりしたそっけないものとなる。

3

集団group

301

集団、団体行動の重視(集団主義)

個人行動の重視(個人主義)

集団で行動する、群れるのを好む。相手に連れ立って一緒に付いていく、つるむのを好む。

個人単位で行動するのを好む。周囲と別行動を取っても咎められない。

302

同調、協調、調和、和合の重視、個性の一定枠内での許容

独自判断、違和感、反対の許容、個性の重視

意見を周囲や相手に合わせるのを好む。物事を相手と一緒に共同でするのを好む。個性の重視とは、一定枠内に止まりながら、その枠内で最大限目立とうとすることである。

意見を周囲に合わせずに独自の判断をしたり、周囲と反対の意見を述べて平気である。個性として許容する。

303

流行、トレンドへの追従

自己流、独自性の貫徹

皆が追随する最新、最先端の流行を身につけようとする。その時々のトレンドに乗っていこうとする。

周囲の動向にお構いなく、自分流を貫くのを好む。
各自が、自分は独自の最先端の位置に付けているのだと、自分自身に言い聞かせる。

304

仲間外れ、浮きの存在といじめ

バラバラ、単独行動

集団の調和を乱す浮いた存在の人を、よってたかって仲間外れにして、いじめる。

各自が、勝手にバラバラな方向に単独行動を取り、反対する者同士攻撃を加え合う。仲間は一時的な存在であり、別れることが前提である。全員が浮いている。

305

非競争、護送船団主義、談合

自由競争、能力主義、成果主義

自由競争を好まず、互いに一体となって、一緒に進もうとする。競争のない年功序列、先輩後輩制、談合を好む。

互いに自由競争で、自分の持つ能力を最大限に発揮して、自分が成果を上げて生き残り、他者を蹴落とそうとする。

4

人間human、有機organic

401

人間指向、有機指向

機械、無機指向

人間、対人関係そのものに対して関心、注意が行きやすい。
無機質な機械や岩石(宇宙)とかにあまり興味がない。

冷たい機械や岩石(宇宙)とかに興味を持つ。
人間も、客観的な冷たい距離を置いた観察対象となる。

402

相互監視、密告、牽制

プライバシーの重視

互いに周囲の他者が何をやっているかに関心が行き、盛んに首を突っ込んで、監視、牽制しようとする。

互いに、他者に踏み込まれない独自領域を確保することに熱心である。

403

噂、陰口指向

自己主張

他人の陰口やうわさ話を流すのを好む。

他人ではなく自分自身の主義主張を、周囲に向かって宣伝するのを好む。

404

恥の重視

恥知らず

周囲の他人の目を盛んに気にして、恥ずかしがる。自分が他人にどう思われているかを気にする。
他人にどう見られるかを気にする。

他人の目に無関心である。人目を気にせずに、自分のやりたいことに邁進する。

405

媚び、化粧、服飾指向

自己評価の重視

周囲の他人によく思われようとする。周囲に盛んに媚を売る。演技をする。自分が周囲によく見えるように、自分を飾る化粧や服飾に注意が行く。

周囲の他者ではなく、自分自身で自己を客観的に見つめなおし、自己評価を良くして行こうとする。

406

関係保持的配慮、気づき

制御的配慮、気づき

互いに、相手が、何か自分に注目してほしいというサイン(メール、ブログ書き込み等)を自分に対して送っているかどうかに常に神経を配り、リアルタイムで相手に注目していますよとすぐ返事を返すことで、相手の被注目欲求を満足させ、良好な対人関係を保持しようとする。

対象となる人(部下とか)や物(乗り物とか)が、自分にとって道具、手段として自分に最高の利益をもたらすように適切に動作、行動しているかどうかに常に神経を配り、リアルタイムでコントロール、軌道修正する。

5

条件condition

501

好条件、温室指向

悪条件(寒暑)の受容

条件のよい温室の中に止まるのを好む。ぬるま湯を好む。

条件の悪い所に放り出されるのを受容して、それに何とか適応していく。

502

内部指向、「奥」指向、内外の区別(「膜内」指向)

代表指向、外部露出

より環境の安定した内側に止まる、奥にいるのを好む(奥様)。「袋」の中にいるのを好む。
集団の内と外を区別する。内外を隔てる膜がある。

代表として、対外的に露出するのを許容する。
寒暑変動の激しい、厳しい環境の外部に出る。
集団の内と外をあまり区別しない。

503

内輪指向、閉鎖、排他性

開放性、オープンさ

気心の知れた親しい仲間内、身内だけで結束し、外部の人間に対して冷たい態度を取る。
ひそひそ話、内輪話を好む。

誰にでも平等に開かれた空間の存在を大切にする。
外部の人間と親しくする。
初めて来た人も、古くからの人と同様に受け入れる。

504

集団ベースのセキュリティ重視

個人ベースのセキュリティ重視

集団の中に変な人が入ってこないように、集団への加入条件を厳しくする(入試を難しくして、なかなか入れなくする)。集団内部ではセキュリティがなあなあになって緩くなりがち。

新たに近づいてくる人物が危険かも知れないので、その場合排除、自身を護衛できるように、銃の所持とか、個人単位でのセキュリティを重視する。

6

感情emotion

601

感情、情緒的、主観的対応

論理的、客観的対応

相手に対して、冷静に割り切ることができず、情緒、感情を露にして対応する。思わず涙をこぼす。
ドロドロした愛憎の世界を好む。
相手を好き嫌いで判断する。相手を客観的に突き放すことができない。

相手に対して、冷静、客観的に割り切って対処する。
情緒、感情を露にせず、論理、理性で攻めきろうとする。
相手を金銭勘定のような損得、コストと利益で判断する。相手を冷たく突き放す。

602

生肌・粘膜的対応

「よろい」着用による対応

感覚的な肌合い、肌触りや粘膜(口、鼻等)への働きかけを重視する。自分自身の肌や粘膜の状態に敏感である。相手が自分と肌に合うかどうかを気にする。

直接肌の感覚に訴えるのを回避して、肌を覆う固いよろいに身を包もうとする。相手を判断するのに、肌への感覚を遮断する。

603

第六感による総合的判定

要素還元による判定

物事を判定するのに、個別の要素に分けるのではなく、第六感を駆使して、一挙に総合的に判定する。

物事を判定するのに、個別の要素へと還元して、部分的判定を積み上ることで、全体の判定につなげるのを好む。

7

植物plant

701

低重心、定住、定着指向、植物的

高重心、浮上、移動、動物的

大地、一カ所にどっしりと根や腰を下ろした状態を好む。重心が低い。腰が重い。定住、定着を好む。農耕植物栽培に従事する。農耕民的である。

重心が高く、ふわふわ浮いてあちこち移動する、根無し草のようなフリーな状態を好む。動物、家畜の飼育に従事する。遊牧民、牧畜民的である。


著者の略歴

1964年 神奈川県生まれ

1989年 東京大学文学部社会学科卒

卒業後、電機メーカーで、パソコン等の使いやすさの向上に関する業務に従事する一方、学生時代から興味のあった、男女の心理的、社会的性差と湿度感覚、日本社会との関連の分析等をプライベートで継続して行う。


著者の他著書ガイド

「女らしさ、男らしさ -性差心理学の世界-」

「父性と母性-性格の比較-」

「ドライ、ウェットな性格、態度、社会について」

「気体タイプ、液体タイプ」

「日本社会の分析」


付録図表


※ご注意

以下のシミュレーション動画の原作者および著作権保有者は、池内満さんです。

池内さんのwebサイト http://mike1336.web.fc2.com/

気体分子運動パターン 動画

YouTube http://www.youtube.com/watchv=Lf1kTsT0ebc

液体分子運動パターン 動画

YouTube http://www.youtube.com/watchv=31uADzoGsLA




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