日本男性解放論
-真の父権確立に向けて-
本書では、日本社会において男女の性差がどのような影響をもたらしているか、従来の日本の女性学や日本のフェミニズムに再考を促す形で考察しています。
例えば、従来の日本女性学・日本フェミニズムの通説では、「日本社会は、男性中心、家父長制社会である」「女性は男性に比べ、世界どこでも普遍的に、弱い劣位の解放されるべき存在である」とされてきました。
本書では、こうした通説に疑問を抱いた筆者が、日本社会を調査したり、分析したりした結果をもとに、「ウェットな、液体的な日本社会は女性の方が強い、母性中心で動いている母権社会である」「日本男性こそが、女性、母性による支配から解放されるべき存在だ」などの主張を展開しています。
そうすることで、欧米フェミニズム思想を機械的に直輸入し、何も考えずに強引に日本社会にそのまま当てはめているだけの、現状の日本女性学・男性学、フェミニズムのあり方を批判しています。欧米理論の機械的直輸入ですっかり誤った方向に向かってしまった日本の女性学、フェミニズム、そして男性学が、本来どういう方向に向かうべきなのか、指針としてまとめ、提言しています。
本書では、日本社会における真の男女平等実現のために、日本男性の母性からの解放と父性の強化を提言しています。日本の男女の力関係を50:50に対等化するための施策について幅広く提案しています。
文中、各セクションは、それぞれ独立した読み物、エッセイとなっており、どこからでも読み始めることができます。
本シリーズの著作の目的は、以下のように説明される。
(1) 欧米で定説になっているBachofen, EngelsらのMatriarchy理論(従来、母権制論と訳されてきた)を打破するのが目的である。母親が権力を握る社会は消滅したとするこの定説をひっくり返し、母権社会は、今でも世界中の稲作農耕民族の間に広く存在し、一大勢力であると主張する。あるいは、Matriarchyの概念が、日本のような母権社会の正しい把握にとって不適切な概念であり、無くすべきと主張する。Matriarchyを母権制と訳すことを止めさせる。
(2)現状の日本フェミニズムを打破する。すなわち、日本のフェミニズムが、本来、西欧のような父性社会向きの社会理論を直輸入して、機械的に、母親が強い日本社会に強引に当てはめる過ちを犯していると主張し、その是正を求める。日本のフェミニズム、女性学、男性学が本来どういう方向に向かうべきなのか、指針としてまとめ、提言する。
(3)日本社会の最終支配者が母であること、女性であることを明示する。日本社会の女性、母性による支配を打破する。妻、母や姑からの男性解放を主張する。日本における母性からの父性の解放を目指し、日本社会における父性を強化して、湿った日本社会のドライ化を目指す。日本社会における男女のパワーバランスを50:50へと平等化、対等化することを主張する。
日本社会の正しい解明と認識を得ることが、本シリーズの著作の目的である。
(初出2012年1月)
[注]●印の付いた文章が、宣言本文である。
宣言の内容は、具体的には、以下の通りとなる。
◇[宣言1]
1-1●その心をもっとドライにせよ。男性の本分たる乾いた空気を、自らの行動様式の中に取り戻せ。個人主義、自由主義、契約思想を体得せよ。親分子分や、先輩後輩関係に代表される、ウェットなベタベタした人間関係から脱却せよ。自分より大きなもの(会社組織など)に頼ろうとするな。
1-2●母親や身の回りの女性によって強いられた、集団主義、同調指向、権威主義、リスク回避指向のくびきから、自分自身を解き放て。
1-3●男性が強い欧米をモデルにするので構わないから、真の男らしさとは何かに一刻も早く気づけ。日本社会における、ドライ=真に男性的な価値の認知、すなわち、個人主義、自由主義、独創性の重視の実現を目指せ。
[解説1]
国民性(社会の雰囲気)という面からは、「日本的=(ウェット)=女性的」である。
日本男性は、「浪花節」に代表される相互一体感、集団主義や、「和合」に代表される相互同調・協調性、「先生」という呼称に代表される権威者を崇め奉る権威主義、冒険や失敗を恐れ、前例やしきたりを豊富に持つ年長者をむやみに重んじる年功序列(先輩後輩)関係を偏重してきたが、それらは本来ことごとく女性的・母性的な価値観に基づくものである。こうした価値観は、男性の生育過程で「母子癒着」関係にある母親の支配・影響下で自然と身に付いたものであり、その点、日本の男性は「母性の漬け物」と化している、と言える。
日本男性が、いかに女性によってウェットさを強いられて来たか、それは、集約的な稲作農耕社会という条件がもたらしたくびきであった。
日本社会では、工業化、都市化、能力主義の浸透により、徐々にウェットさから解放され、ドライ化が進む兆しが見える。この方向が今後も続けば、やがて日本男性は、女性(母性)の支配から解放されるだろう。 日本社会のドライ化に当たっては、社会における欧米化の風潮を追い風にすべきである。ただし、社会を欧米化すると言っても、従来のような欧米への一時的な権威主義的同調で終わらせてはならない。このまま欧米化が進めば、着実に、日本社会のドライ化=男性化が進む。
◇[宣言2]
2-1●自分が社会的弱者であることに気付け。自覚せよ。男尊女卑をはじめとする「日本=男性中心社会」の神話にだまされてはいけない。
[解説2]
「日本=男社会(男性中心社会)」という言説は、全てまやかしのものである。「男尊女卑」にしても、見かけだけの男性尊重であり、男性の強さである。実際の社会の実権は、女性(母性)に握られているのが現状である。こうした「日本=男性社会」神話は、日本女性による、本来のドライな男性らしさを一度骨抜きにした(男性をウェット化した)後で、自らの保身に役立つ「強い盾」、および収入を得るための「労働力」として、道具扱いしてこき使おうとする心の現れであり、これが日本女性の毒である。
◇[宣言3]
3-1●女性に生活を管理されるな。女性に身の回りのことを何でもやってもらおうとするな。蔑称「粗大ゴミ」「濡れ落ち葉」を脱却せよ。妻に生活面で頼ろうとするな。妻に家庭内管理職として君臨されないように、できるだけ生活面で自立せよ。
3-2●女性に家庭の外に出て働くように促せ。女性の、家庭における影響力をなくす(女性に支配されないようにする)には、外に出て働いてもらうのが一番である。専業主婦を望む既存の男性は、こうした点で、認識不足である。そのままでは、生活の根幹を女性に支配されてしまうからである。
3-3●女性、特に母親に甘えるな。依存しようとするな。妻を母親代わりにしようとするな。母親から自立せよ。
[解説3]
今まで、日本の男性は、家庭における生活の根幹を、女性(母、妻)の管理下に置かれて来た。家庭における家計管理、子供の教育といった主要機能は、女性(母)が独占している。その点、「日本の家庭=家父長制」というのは、実は見かけだけの現象に過ぎない。日本の男性の立場を向上させるには、この現状から脱却する必要がある。
◇[宣言4]
4-1●子育てに介入せよ。自分の行動様式・文化をもっと子供に伝えよ。自らの内に秘められたドライな男らしさをもっと出して。子供(特に男の子)を、ウェットに女々しくさせるな。育児権限を母親に独占させるな。女性が、子育ての役割や母性を放棄しようとしている、今こそがチャンスである!
[解説4]
日本の父(夫)は、大人へと育つ間に、母親(女性)によって、父性を殺されている。日本の父は、力不足で、密着する母と子の間に割り込めない。これは、母子一体性および父性殺しの再生産の原因になる。
日本の父親は、子育てを母親に任せっきりである。結果として、育児権限(育児機会)は母親が独占する。
父親は、母子関係に介入しない~できない。子供(特に息子)の人格のウェット化=女性化をもらたす。
このことは、日本男性の育児意欲を、子供のうちに削除し、日本男性の育児機会からの疎外を、世代間で再生産している。これは、子供の社会化において、子供の人格をウェットにするために、ドライな父性の影響を排除する仕組みが、社会的に出来上がっているためと考えられる。
夫婦関係が薄く、母子関係(母娘関係だけでなく、母-息子関係も)が濃いのは、父親を子供から遠ざける効果(父性隔離効果)を持っている。母子癒着は、母親による子供の独占支配の再生産である。こうした現状は、変えられなければならない。
◇[宣言5]
5-1●いばるな。男尊女卑から自由になれ。女に都合のよく作られた、盾として作られた強さを捨てよ。本当の強さは、個人主義、自由主義といったドライな態度を自分の力で獲得することにある。
日本社会の本当の支配者は、自分たち男性ではなく、女性であることに早く気付け。見かけにだまされてはいけない。
5-2●母親=姑に反逆せよ。伝統的な家風という前例に従うな、自分で作れ(創造せよ)。「家」に頼るな、家を出て自立せよ。そのためにも、夫婦別姓を積極的に考えるべきである(結婚相手を、自分のイエに巻き込むな。姑と嫁との権力争いに巻き込まれ、姑と嫁の両方から非難されるはめになるから。)。
5-3●家の財布を妻に取られるな。収入管理と支出用途決定は、夫婦対等の協同管理に持ち込め。
[解説5]
日本社会が、本当は女性優位、女性的な風土なのに、男性優位、男社会と言われる理由はなぜか?
そこには、3つの打ち崩されるべき壁・神話がある。
(1)男が威張る。男尊女卑。
(2)男中心の家族制度。父系相続。男性側は姓替わりをあまりしなくて済む。
(3)男が収入を得る。一家の大黒柱として君臨。
それぞれ現実は、
(1)実際は、女性によっておだてられて、単なる「(女性、母性を護衛する)強い盾」「(女性、母性に対して)給与を貢ぐ労働者」の役割を果たして喜んでいるだけに過ぎない。
(2)日本においては、家庭の実権は母・姑にあり、「粗大ゴミ」扱いされる男性にはない。
それなのに、女性がなぜ「日本の家庭は家父長制だ」と主張するかと言えば、女性は、自分たちが、前例指向的なものだから、家風という前例による支配の序列(姑→嫁)を否定できない。また、同性である姑には反抗できない。女性=嫁は、嫁いじめされる悔しさを夫に向けるので、夫が支配者ということで非難の対象になってしまう。
(3)男性はあくまで収入を家族にもたらすにとどまる。もたらされた収入を実際に管理して、歳出面での配分などの最終権限を握るのは、女性側である。男性側は、一方的に小遣い額を決められるのみである。男性は、「ワンコイン亭主(一日一枚のコイン分の小遣いを支給されるだけの存在)」という言葉に代表されるように単なる労働者であり、一方、女性は、家庭内管理職(大蔵大臣、厚生大臣..)として君臨する。
日本の男性は、女性に強いと持ち上げられて、自分が本当に強いと錯覚し、虚構の強い自分の姿に酔っている。女性も、自分が、男性に比べて弱いかのように錯覚している。ここから、日本フェミニズムの不幸な歴史が始まった。
日本の家庭は、実質的に女性の支配下にある。
男性は、家族制度のもとでの、父系であることの有利さ・気楽さの原因である、姓替わりをしなくて済む(最初から他家の家風を習得しなくてよい)ため、「家」と自分とを一体化しがちである。
家族が父系であることと、男性(父性)支配とを混同してはならない。父系制が多いのは、男が表に出て、女が奥に隠れた方が、女性の生物学的貴重性に対応するために便利だからである。この場合、自分の身の安全を男性によって保障される女性の方が、生物学的地位や価値としては、男性よりも上である。
(付記)日本男性解放論の目新しさ
以下の3つの命題の結びつきに今までの人は気がつかなかった。これに初めて気づいたのが、日本男性解放論である。
(1)日本社会は女性的である
(2)日本社会においては、女性が強い、優勢である
(3)日本社会においては、解放されるべきなのは男性である
上記の結びつきは、理屈から行って自然なはずであるが、「女性が、全世界共通に弱い、解放されるべき存在である」という既成概念に支配され、じゃまされて着想されなかった。
この既成概念は、男性の強い欧米やアラブのような遊牧系社会でのみ通用する概念のはずなのに、いつのまにか国際標準の概念となってしまい、そうした国際標準や権威といったものに弱い日本の学者が、何も考えずに強引に、(本来女性が強いはずの)日本社会に当てはめてしまった。
したがって、そうした既成概念から自由になることで初めて生れた、日本男性解放論は、学説として十分目新しい。
◇(付記)日本で男性解放論が広まらない理由
男性解放論が、今までの日本で注目されたり、歓迎されてこなかったのは、男性自身が、自分のことを強い者と思い込まされ、自己満足感に浸っているのを打ち壊すため、男性に不快感を与えるからである。
日本では、本来解放されるべき男性が現状に満足し、支配者である女性が現状に不満を持ち、「解放」を唱えている。
男性は、男尊女卑や結婚時の姓替わりなしといった表面的な優遇措置に満足している。
真の男性解放を実現するには、日本男性のこうした表面的な満足感を突き崩す必要がある。これが、上記の日本男性解放宣言の存在理由となる。
(初出2000年07月~)
〔1.はじめに〕
男尊女卑は、物事一般を進める上で、男性が(女性よりも)尊重・優先されることを指しており、(欧米における)レディーファースト(女性優先)の対概念と考えられる。
従来、男尊女卑の概念は、日本など東アジアにおける、男性による女性支配(家父長制)の実態を示すもの、あるいは、女性の(男性に比較した)地位の低さを示す象徴として、女性解放の立場を取る人々からの非難にさらされてきた。
一方、欧米などでのレディーファーストの概念は、女性の地位の高さを示すものとして、日本のような男尊女卑の社会慣例を持つ社会が、女性解放を進める上で、積極的に学ぶべき手本となるもの、と、女性学者や女性解放論者(フェミニスト)によって主張されてきた。
レディーファーストは、身近な例をあげれば、例えば、自動車のドアを男性が先回りして女性のために開けてあげるとか、レストランで女性のいすを引いて座らせてあげるとか、の行為を指す。この場合、見た目には、男女関係は、女王と従者の関係のように見える(女性が威張っていて、男性は下位に甘んじている)。
しかるに、女性解放を目指すウーマンリブ運動はレディーファーストの欧米で始まっている。このことは、欧米では、男性が女性に形式的にしか服従しておらず、見かけとは逆に、実効支配力、勢力の面では、女性を上回っていることを示しているのではないか?
それと同様のことを男尊女卑に当てはめると、女性は男性に対して、見掛け上のみ従属することを示しており、勢力的には女性の方が男性よりも強く、必ずしも女性は弱者ではないと言えるのではないか?
以下は、こうした疑問をきっかけにして、男尊女卑という概念を、社会を取り巻く自然環境への適応度という観点から、もう一度吟味し直した結果について述べたものである。
〔2.自然環境への不適応と性差〕
農耕社会(ウェットな行動様式を要求する)における女性(ウェットな行動様式を生得的に持つ)、および遊牧社会(ドライな行動様式を要求する)における男性(ドライな行動様式を生得的に持つ)は、その環境下で生き抜く上で有益な行動様式(プラスの機能)を持ち、より適応的である。すなわち、存在を肯定され、強い勢力を持つ(強者の立場に立つ、影が濃い)。
一方、農耕社会(ウェット)における男性(ドライ)、遊牧社会(ドライ)における女性(ウェット)は、環境下で生き抜く上で有害な行動様式(マイナスの機能)を持ち、適応障害を起こす(不適応である)。すなわち、その環境下で構築された社会の中でマイナスの価値を持ち(存在を否定され)、勢力が弱い(弱者の立場に立つ、影が薄い)。
上記の内容の詳細については、日本における母権制の再発見についてのページを参照されたい。
男女は、生物として生殖を行う必要上、同一環境下に、必ずペアで存在する必要がある。したがって、当該環境下の社会では、適応的な側の性だけでなく、適応障害を起こす側の性もその場に同時に存在する必要がある。例えば、農耕社会(ウェット)では、適応的な女性(ウェット)と、適応障害を起こす男性(ドライ)とが、同一の場に共生しなければならない。適応障害を起こす側の性の個体の遺伝レベルでの行動の発現を、そのまま放置しておくと、(1)社会に当該環境下の生存にとって不適切な行動様式をもたらすことで、社会全体の環境適応力を著しく損ない、社会そのものの消滅につながる、(2)適応障害を起こす側の性の個体が、環境不適応の末に死滅してしまうので、当該社会下での生殖活動が不可能となり、ひいては社会そのものの消滅につながる、といった甚大な被害を、社会全体に引き起こす。
こうした被害を未然に防ぐためには、
(1)適応障害を起こす側の性が持つ不適応な部分を、社会化(育児・教育)の過程で、適応している側のそれに対応する部分によって、打ち消す(パッチを当てて中和、無力化する)必要がある。
(2)適応障害を起こす側の性を、適応している性の側で絶えず、生活全般にわたって、社会的弱者として、大事に保護する(サポートする、面倒を見る)必要がある。
こうした必要性は、農耕社会では、(1)は、育児・教育上の母子癒着(母親主導)として、(2)は、男性尊重(男尊女卑)となって現れる。遊牧社会では、(1)は、育児・教育上の母子分離(父親主導)として、(2)は、女性尊重(レディーファースト)としなって、現れる。
人間の周囲の自然環境への適応は、その自然環境下で必要とされる生活様式(湿潤(ウェット)環境では農耕、乾燥(ドライ)環境では、遊牧)に合わせて、行動様式の「湿度」(ウェット~ドライの度合い)を調節する過程として捉えられる。
行動様式の湿度調節は、環境に適応する側の性が、環境に適応障害を起こす(湿度が逆の)性の行動様式(特性)に対して、一方的に中和するかたちで行われる。各性の持つ中和の役割は、女性(遺伝レベル=ウェット)は、液化(ウェット化)、男性(遺伝レベル=ドライ)は、気化(ドライ化)である。
農耕社会(文化レベル=ウェット)では、女性が男性に対して、一方的に液化を行い、逆に遊牧社会(文化レベル=ドライ)では、男性が女性に対して、中和(気化)を行う。パッチ当てを受けた側は、結果として、本来持っていた行動様式が使えなくなり、無力化されて、社会的弱者の立場に転落する。
文化レベルのウェット~ドライな行動様式の実現には、遺伝レベルでの性差において、ウェット~ドライな行動様式にすでに従っていることを積極的に利用すべく、自分の性に固有な行動様式を、人間の社会化の過程、特に行動様式の可塑性の大きい、育児最初期の段階で、子供に対してそのまま直接流用するのが、効果的であり、現実に、流用が起きている。
流用のあり方は、例えば[増田1964]では、以下のように描写されている。アメリカ社会(遊牧系:注筆者)では、子供の面倒を見るのはたいてい男性である夫の仕事であり、赤ちゃんは夫(男性)に抱かれているか、ゆりかごに入れて夫(男性)が抱えている。それに対して、日本(農耕系:注筆者)では、母親(女性)が赤ちゃんをおんぶして、上の子の手を引いて、おまけに...といった調子で、育児は母親(女性)の役目となっている。幼少期に自分の性に固有の行動様式を、育児という形で、子供に注入する権限を持つのは、遊牧系の社会では、男性、農耕系の社会では、女性、という図式が成り立つ。
以上の内容をまとめると、次のようになる。
1)女性が主導権を持つ農耕社会では、男性は、女性側がデファクト・スタンダートとする、ウェットな社会的行動様式に、無理やり合わせないと生きて行けない。農耕社会という環境下では、性格がよりウェットな女性のペースで物事が進むため、それに合わせて生活しなければならない、女性の流儀にいやいやながら従わなければならないのであり、それを、幼少から強要され、拒めなくなっているところに、男性の弱さが認められる。男性本来の個人主義的、自律的...といった特性を打ち消され、殺され、抑圧されている。そして、男性本来の特性とは逆の、集団主義的、他律的..といった、ウェットな女性的特性に従って行動させられるため、社会的不適合者、弱者としての地位に甘んじることになる。
2)男性が主導権を持つ遊牧社会では、女性は、男性側がデファクト・スタンダードとする、ドライな社会的行動様式(個人主義、同調を嫌う..)に、無理に合わせないと、とりまく自然環境の中で生き延びられない。遊牧社会では、性格がよりドライな男性のペースで物事が進行するため、それに合わせて生活する必要があり、女性本来の集団主義的、同調的...といった特性は抑圧・消去の対象となる。その結果、女性は、社会的不適合者、弱者の立場に転落する。
〔3.弱性保護の思想〕
ウェットな農耕社会(日本)は、男性の表面的な尊重(優先)・女性の実質的支配が生じている社会、ドライな遊牧・牧畜社会(欧米)は、女性の表面的な尊重(優先)・男性の実質的支配が生じている社会、とまとめられる。
ウェットな社会の男性およびドライな社会の女性は、自分とは異質な(反対のジェンダーに適した)原理で動いている社会に、無理やり適応させられているのである。そうした点で彼ら(彼女ら)には、自分たちとは異質な性の行動原理に合わせる生活上、足りなかったり至らぬ点が生じてくるが、そうした適応不足を補償するのが、男性優先(男尊女卑)、女性優先(レディーファースト)である、と考えられる。これらは、社会の中でより弱い立場の性の行動を優先する、「弱性優先」という言葉でまとめることができる。
優先(priority)には、1)強者優先(力ある者が優先される。権力者がよりよい待遇を受ける)と、2)弱者優先(年寄りや子供など、弱い者が、優先的に、食事にありついたり、座席を譲ってもらったりなど、よりよい待遇を受ける)との、相反する2種類が存在する。優先されるのが、必ずしも強者だからとは限らない。上記で述べている、男尊女卑・レディーファースト(弱性優先)は、弱者優先の一種と考えられる(従来のフェミニズムは、男尊女卑を、強者優先とのみ見なしており、弱者優先の選択肢に気づいていない)。
あるいは、ウェットな社会では男性が、ドライな社会では女性が、社会に対して不適応であり、社会における存在意義・理由が、そのままでは、欠乏する(社会の中で、じゃま者扱いされ、軽蔑される)。それでは、彼らの人間としての尊厳(人権)が保たれず、モラル(やる気)の維持などに重大な支障が出ることが予想される。そこで、たとえ表面的であっても、不適応者である彼らのことを、尊重・優先して、自尊心を保ってあげる必要が出てくる。そうした自尊心を補完する社会的な仕組みが、男性優先(男尊女卑)、女性優先(レディーファースト)である、と考えられる。
これをまとめると、
男尊女卑=強い女性が、弱い男性の、農耕(ウェット)社会への適応不足を、補償する
レディーファースト=強い男性が、弱い女性の、遊牧(ドライ)社会への適応不足を、補償する
である。
ここで、「男尊女卑」の原因をまとめると、以下のようになる。 基本的には「弱性優先」の考え方に基づくものである(1~3)が、「男性優位」の作為的演出(4)、という面もある。
1)「福祉」モデル (農耕社会に向かない)無能者=弱者である男性の世話・サポートを優先的に行う。弱者福祉が目的である。乗り物などで年寄りに優先的に座席を譲るのと同じ考え方である。農耕社会の男性は、家庭ではゴロゴロして何もしない。それは、自分とは異質なウェットな人間関係に取り囲まれ、それに無理に適応しなければならず、無意識のうちに心が疲れて、何もする気が起きない(無気力となる)からである。それゆえ、女性が、家事・洗濯・炊事などで、かいがいしく世話をする必要が生じる。あるいは、男性に無理を言われても、「はいはい」と聞いてあげる寛容さを持つ(弱い子供をあやすように振る舞う)必要が生まれる。
2)「自尊心・モラール」モデル 自尊心を向上させて、(農耕社会にとって有害なため無力化された)男性に、自らを「有用視」させて、勤労・防衛意欲を出させる。(個人主義、自由主義などのドライな=有害な要素を殺したあと)残った能力(筋力・武力)を有効利用する。物事を優先的に行ってよいとされれば、自尊心が起きやすい。
3)「人権」モデル 社会的弱者たる男性の人権保全に配慮する。女性が、男性のことを優先して取り扱ってくれれば、男性の人権がより保たれやすい。(農耕)社会的に有害・無力であることを悟らせず、人間としての尊厳を保たせる。女性に全生活を管理・制御されていることを気づかれないようにする。
4)「貴重」モデル 生物学的に貴重な女性は、自分を「盾」として守ってくれる者を作り、どうせならなるべく強く見せようとする。その方が、外敵を恐れさせることができるからである。農耕社会のように、女性が優位に立っている場合には、女性には、自分を守る「盾」としての男性が、相対的に弱く見える。それだと、女性が、外敵から自己防衛・保身を行う上で不安であり、不都合である、と農耕社会の女性自身が感じた。そのため、男性に、わざと積極的に恐い態度を取らせたり、威張らせたりする(強圧的な態度を取らせる)。女性に意図的に仕向けられて強がっている男性は、「張り子の虎」のような存在であり、女性の(男性を強く振る舞わせようとする)心理的支えがないと、見かけの強さを維持できず、潰れてしまい、元の、(農耕社会特有の)無能な、頼り無い姿に戻る。
レディーファーストの原因は、上記の「男尊女卑」の原因説明における、男性についての記述を、女性に置き換えたものとなる。
1)「福祉」モデル (遊牧社会に向かない)無能者=弱者である女性の世話・サポートを行う。
2)「自尊心・モラール」モデル 女性を表面的に敬うことで、女性に自尊心を与え、物事を行う意欲をかきたたせて、(集団主義、同調指向などのウェットな=有害な面を打ち消したあと)残った家事や職業労働能力を、有効利用する。
3)「人権」モデル 遊牧社会での社会的弱者たる女性の、人間としての尊厳を保つ。
4)「貴重」モデル 遊牧社会での男性が、生物学的に貴重な女性を、高貴な存在=「貴婦人」として崇拝し、より守護しがいがあるものとして捉えることにより、自分自身が内蔵する、女性を守ろうとする欲求を満足させる。
男尊女卑・レディーファーストは、共に、社会の中でより弱い性を保護しようとする「弱性保護」の思想(弱者保護の一種)と言える。依存する(寄りかかる、もたれかかる)方の性(農耕社会の男性、遊牧社会の女性)は、その依存を受け止める方の性(農耕社会の女性、遊牧社会の男性)よりも、力がなく、弱い(自分ひとりでは立てない)。
受け止める方の性は、力があり、強いからこそ、余裕を持って、依存する相手をしっかり支えることができる。
男尊女卑(男性優先)は、男性保護の思想である(通説のように、男性の強さを示しているのではなく、むしろ逆である=弱いから女性によって大切にされる、わがままを聞いてもらえる)。レディーファースト(女性優先)の裏返しである(ウーマンリブ運動は、レディーファーストの欧米で生まれている。欧米で女性の社会的立場が弱い証拠である。)。
全世界どこでも、(フェミニズムが訴えるように)女性が弱い、というわけではない。勢力面で、女性の方が男性を上回る社会(母権制社会)は、現在でも確実に沢山存在する(それが、例えば日本や、東アジアの稲作農耕社会などである)。従来、母権制社会は存在しないなどというのが定説となっているが、それは母権制についての議論が不十分(母系制との混同、男尊女卑を父権制と混同)なためである。このことの詳細については、日本における母権制の再発見についての項目を参照されたい。
男尊女卑(男性優先)の社会では、見かけは男性が強い。男性は、自分が(女性よりも)強い立場にいると錯覚するため、男性の自尊心が満たされやすく、男性は自己の立場の弱さに気づきにくい。男性中心社会の神話は、こうして生まれた。この場合、男性には、自分の置かれている立場の弱さ・悪さの自覚がない(男性優先の本当の意味を取り違えて、自分は強いとうぬぼれている)。
男尊女卑が、男性の強さを象徴する行動様式であると見なす、従来の日本フェミニズムの見解は、否定されなくてはならない。男性優先だから、男性が強い、支配的であるとは言えない。男尊女卑(男性優先)は、実質的には、農耕環境に不適合な、弱い立場にいる男性を(強い女性が)サポート・保護する思想である。言い換えれば、男性が弱く、環境適応に手間がかかる分を、強い(農耕環境により適合的な)女性に肩代わりさせる思想である。
日本では、封建的とされる第二次大戦前からも、女性の方が強かった形跡が認められる。
[Benedict1948]によれば、一家の財布・事務処理を一手に切り回すのは姑(女性)であった。
姑(女性)は、息子の嫁を一方的に離縁させる権限を握っていた(舅は何もしていない)。
家庭の父(男性)は、子供たちがあらゆる義務を尽くしてその恩に報いはするが、ややもすれば「あまり大して尊敬されない人物」であった、とされている。(優先されるのは表向きだけで、実質的には、父親の「心理的な」地位は低かった)。
男女平等が唱えられ、男性の女性に対して当然のように世話や奉仕を要求できる特権=「男尊女卑」が剥奪されるようになったことにより、社会の実権を握っている女性の強さが、前面に徐々に出て行き始めた。
〔4.日本のフェミニズムとの関連〕
日本のフェミニズムは、女性の弱さ、性差別(女性が不利)を訴える。これは、女性の弱い欧米社会で生れた理論を、女性が強い日本社会へと、何も考えずに直輸入して、強制的に当てはめようとするものである。かえって、男性の、実質的根拠のない自尊心(自分の方が立場が上、女性は哀れむべき存在)を満足させ、男尊女卑の表面的理解につながっている。日本社会の本当のあり方(女性主導、女性支配)を見えなくさせる原因となり、有害である。
男尊女卑は、欧米流フェミニズムによる批判の対象とは、もともとならない。男性の弱さを原点とする、強い女性が弱い男性を保護する(サポートする・面倒を見る...)、という考え方が根底にあるからである。男性の強さを前提とするフェミニズムは、女性の弱い遊牧社会(欧米)向きであり、農耕社会(日本)には馴染まない。
男尊女卑は、男女両者の立場を、少なくとも表面的には対等にする(見かけ・表は男性が強い、実質・裏的には女性が強い、ということで、表裏合わせると、ちょうどバランスが取れる)ためにやはり必要ではないか。女性が支配する社会で、男性の自尊心(人間としての尊厳)を保つために必要と考えられる。人間らしく生きたいという動機づけは誰もが持つものであるが、農耕社会の男性は、男尊女卑による支援がないと、そのままでは、女性主流の社会から邪魔者・やっかい者としてつまはじきされ、人間らしく生きられないのである(中年~高齢の男性に、「粗大ゴミ」などの蔑称が付けられていることがその好例である)。
ただし、女性にとっては、男性が一方的に依存しようとして寄り掛かってくる重みを、自ら受け止める必要があり、負担が大きいのは確かである。男性は、女性に負担がかかるのを当然と思っている。この負担面での男女不平等(性差別)は、日本のフェミニズムでも、家事負担が一方的に女性に押しつけられるなどの形で、問題にされてきたが、(欧米直輸入の部分を無視して)この部分だけを取り出せば、それなりに理に適っている、と考えられる。
[参考文献]
Benedict,R. The Chrysanthemum and the Sword : Patterns of Japanese Culture, Boston Houghton Mifflin, 1948 長谷川松治訳 「菊と刀 - 日本文化の型」社会思想社1948
増田光吉:アメリカの家族・日本の家族,日本放送出版協会,1964
(初出1999年08月)
戦前から、日本の男性は、本当は無力な弱い存在なのに、女性によって強大な者と見せかけられている。「差別される弱い女性」を演出するフェミニズムもこの一環である。
女性は、生物学的貴重品として、男性に守ってもらおうとする。男性に、強い盾となってもらうことを必要とする。そのためには、男性に自分は強い、役に立つ人間だという自尊心を持ってもらうことが必要である。
日本の女性は、男性の自尊心を保つのに、躍起となっている。
男性が強い、強くなければいけないという神話の起源は、以下の通りである。
生物学的貴重性が強い女性を、外敵から守らねばならない。守るには、襲ってくる相手より、強くなければならない。男尊女卑(男性が偉くなければいけない)とは別である。あくまで、盾、防衛的な役割について、強いことが求められる。それ以外の側面では、強いことは必ずしも求められない。
「強い盾」としての男性の生成過程は、以下のようなものである。
男性は、本来持っているドライさを、稲作農耕社会のようなウェットさを要求される自然風土下では有害であるとして、生育過程において、育児権限を独占する女性によって剥奪され、無力なかたわ者となる。
男性は、そのままでは社会のお荷物となるので、生得的な筋力の強さ、武力指向および、生物学的に生き残らなくても、人間の子孫の継承にあまり影響が出ない点を生かし、(生き残らないと、種の保存に支障をきたす)女性を守る「強い盾」として、もっぱら活用され、訓練される。
日本において、男性が優位に立っているというのは、男性に、強い盾になってもらおうとする女性による、作為的な見せ掛けである。
日本女性は、自分の掌のうえで、男性を泳がせている。日本女性は、その気になればいつでも社会の本当の支配者が誰かを見せつけることができる。ただし、それをすると、男性が、自尊心を失って萎縮してしまい、防衛・強い盾の機能を果たさなくなるので、しないだけである。
強い自尊心、プライドを女性によって与えられた男性は、わがまま・専制君主的になりやすい。
日本の父親(特に戦前)が「家父長的」に見える理由は、
1)強引であること
2)威圧的・威張ること
3)厳しい、威厳がある、厳格である
4)怒る 怖い
5)専制的、わがまま
6)断定的、責任を取る(取ってくれる)、決断力がある
といった点にある。
いずれも、人間的には、決して成熟しているとは言えない。
そこには、女性が望む「強い盾」としての側面ばかりが強化されている。
また、ドライさとは無関係のものばかりである。本来の男らしさ、父らしさは、ドライさにあるのではないか?
個人主義、自由主義、合理性など、ドライさを削除されている点、男性としては、精神的に奇形である。
一方、強さは、確かにある。それは、筋力、攻撃力(怒り)といった、女性を守る道具としての強い盾として用いられる。
日本男性の良く取る行動である、女性に代わって責任を取る、決断をするというのも、女性に欠けており、女性が欲しがる資質である。失敗したときに、責任を男性になすり付けることができる。
女性にとって、自らの保身を行う上で、都合のよい性質である。
女性が、男性にウェットさを強いて、男性を支配下に置いたまま、自分の保身を図るため、うまく使いこなす際に、上記の性質を男性が持っていると重宝する。
ウェットな男性は、いかに強引、専制的...であって(強く見えて)も、本来のドライさを失っている以上、心理的には奇形、障害者であり、社会的弱者である。
日本男性は、強い盾、ないし、給与を差し出す下級労働者としての、女性に都合よく限定した役割しか果たせない、それ以外の点では無能である。本質的には弱者であり、女性によって搾取される存在である。
日本女性は、自分が社会の支配者であることを、必死に隠そうとしている。
男性の自尊心を傷つけて、強い盾として機能しなくなることを恐れる。
日本における女性への差別待遇も、男性の自尊心を確保するために必要である。
日本社会は、もともと、女性優位なので、そのままでは、劣位にある男性の自尊心が確保しにくく、人権問題となる。
日本女性の男性に対する見方は、男性固有の、個人主義、自由主義など、ドライな側面を、(稲作農耕社会にとっては)有害なので消したいが、かといって、自分たちを守る盾としての存在ではいてほしい、というものである。そこで、根底では、ドライな、本来の男らしさを否定し、男尊女卑といった、見かけ上の男性尊重と、女性によって人為的に作られた強さでしのごうと考えている。
日本的な「男らしさ」は、ドライさに基づく男性本来の男らしさとは異なるのである。そのことにほとんどの日本男性は困ったことに気付いていない。
(初出2000年07月)
日本男性が、その本質は女性的にも関わらず、強く(男らしく)見える理由を以下にまとめた。
・姑気質で、自分よりも立場が下と思う相手を馬鹿にして、強く、高飛車に出る。
・周囲にどう見られているかがとても気になり、見栄張り、強がりである。
・仲間との運命共同体意識が強く、敵に対して、自分たちが丸ごと滅ぶまで、徹底抗戦し、自害しようとする。
日本男性は、基本的に、腕力、筋力、武力の強い女性相当だと考えられる。
(初出2014年04月)
日本男性は、以下の点で、女性よりも弱い立場にあり、女性による支配の対象となっていると考えられる。こうした現状を打破する必要がある。これが、男性解放論の骨子である。
(1)自分の生得的傾向に反する「ウェットさ」を、育児過程で、母によって強制的に身につけさせられている。男性が本来持つべき、個人主義、自由主義といったドライさを失っている。
(2)女性にあたかも首輪を付けられて職場で給与稼ぎをさせられるかのような「鵜飼型社会」の中で、生活を女性によって全面的に管理されている。自分の稼いだ賃金の使い道を決定する権限がない。自己賃金からの疎外が起きている。
(3)母性への依存心、甘えがある。すぐに母親やその代わりの存在に頼ろうとする。
(4)育児から疎外されている。子供が自分になつかない、子供から馬鹿にされる。自分の持つ文化を子供に伝えられない。
(初出2000年07月)
日本男性は、総じて、世界的に見て魅力に乏しい存在であるとされている。日本男性が、なぜ魅力に欠けるダメな存在なのか、どうした点を改善すべきなのか、以下に考えられる点を列挙してみた。
(1)所属する組織との一体感を追求し、集団主義、安定指向、年功序列(先輩の言うことを何でも聞き、後輩に対して威張る)意識が強い、といったように女性的な性格を持つ。個人主義、自由主義、未知領域への積極的探検といった男性が本来持つべき性格に欠けている。
(2)本当は社会の中では、女性に従属する下位者なのに、上位者と思って、命令口調で威張る。
女性に比べて優遇されるの(男尊女卑)を当然と思い込んでいて、スポイルされている。
自分のことを上位者と思っているだけに、プライドが高く、傷つきやすい。相手が自分に対して失礼かどうかやたらとうるさい。気難しく短気で、すぐ暴れたり怒ったりする。ガサツな乱暴者であり、暴君である。
なぜ、日本の男性がスポイルされるかについては、母親の影響が大きい。
日本の男性=息子は、母親によって甘やかされ、かしずかれ、何でもしてもらえる状態に置かれる。身の回りの世話を全部されている、焼かれている。
息子は、そういう状態が続いているうちに、いつの間にか自分を中心に世界が回っていると思いこむようになり、尊大で、わがままで、それでいて傷つきやすい性格を持つようになると見られる。
しかもその根底には、母親に心理的に頼り切り、甘えきった、依頼心が根強く息づいており、表面的にいくら威張っていても、母親に心理的に支配されきっていると考えられる。
(3)女性に対して、母親代わりに甘えようとする。女性を、観音様、マリア様みたいなと見なす。女性に対して依存的であり、その際、女性に対して当然のごとく寄りかかり、のしかかってきて、それに対してごめんなさいとか、ありがとうとか、一言も言おうとしない。女性に対する思いやりに欠ける。
(4)自活・生活能力に欠ける。身辺の世話を自分で行うことができず、皆、女性にやってもらおうとする。
以上を総括するに、日本の男性は、本来の男性性を失い、女性に頼りきりになっていて、人間的な成熟に乏しい存在であると言える。しかも、そのことを認めようとしない偏狭さを持ち合わせている。
女性からの解放を唱える以前に、こうした欠点をまず改めない限り、日本男性の明日はない。
◇
(2007.4 追記)
しかし、インターネット掲示板の書き込みとかを見る限り、日本の男性は、今まで通り、母親や、母親代わりの女性(妻とか飲食店の女性とか)、女性代わりの組織(会社、学校等)に対して甘えつつ、威張ったり、わがままを通したりして、好き放題したいと考えているようである。
つまり、母の支配の枠内にとどまりつつ、その中で好き放題するのが望みのようである。
同じ女性でも、「お袋」「母」~「姉」「姉御」には甘え、頼り、支配されるのを気にとめることもないが、一方、母以外の女や妻は叩いたり、見下す、低く見る、自分の性欲を満たす道具と見るのが通例である。女叩きをする男性は多いが、母を叩く男性は少ないかほとんどいない。
また、自分の甘ったれた現状に対する批判、耳の痛い言葉を、それが建設的なものであっても、全て自分に対する悪意の攻撃とみなして怒り出し、牙をむく、ひねくれた心を持っている。
少しは、父権の強い、欧米やユダヤ、アラブ、モンゴルといった遊牧・牧畜系社会の家父長を見習って、母に対する依存心を捨てて、母から解放されて、男性として成熟してはどうなのだろうか?
筆者にとって気がかりなのは、実際のところ、日本における「男性解放」は、母からの解放ではなく、女性が社会的に優遇されている(楽ができる、おいしい思いができる)のを撤廃するための「解放」になっている点である。
女性ばかり優遇されるのは確かに問題であり、そうした状況から男性一般が解放される必要があるのは明らかであるが、その一方で、自分たちを根底で支配する母なる女性の存在や、そこからの解放に鈍感なのは、どうしたものであろうか?
(初出2003年06月)
従来の日本のメンズリブは、今まで男尊女卑の考え方や家父長制的な家族制度、男性による企業・官庁などでの給与をもたらす社会的役職の独占などで、忍従的な役割を強いられて来た、とする女性側の抗議に押されて、男性の従来取って来た性役割をしぶしぶ見直す、言わば、女性に突き上げられた受け身の形で、進展して来たと言ってよい。
もう一つ、日本のメンズリブを特徴づけるのは、女性に対して優位に立っていることを前提として、弱い女性を助けようとする同情心である。劣位の立場に置かれた、解放されるべき女性に対して、自らの優位にある立場を、少し譲ってあげようとする、「強者の余裕」に裏打ちされた親切心がそこには見られる。職業面での役職を女性に明け渡すこと、育児や家事に負われる女性を手伝ってあげること、などが、従来のメンズリブが取って来た方策であった。
日本のメンズリブには、劣位にあるとされる日本女性の解放に自ら歩調を合わせることで、自分は女性に対して優しいのだ、人格者なのだ、と周囲に(特に女性に対して)印象づけるねらいもあると見られる。
しかし、日本のメンズリブを押し進める人々が、こうした男性の優位を前提とした、悠然とした態度を取っていられるのは、彼らが、日本社会の持つ本当の性格に対して無知だからである。
伝統的な日本社会は、実は、ウェット=女性的な性格を持っている。それは、集団主義、周囲との同調指向などといった、対人的な相互牽制、規制から成り立っている。こうした女性的性格は、日本社会における女性の勢力が、男性のそれを上回る、すなわち、女性が優位に立っていることで成立する。
また、日本女性は、社会の中で、家計管理権限の掌握など管理職的な役割を果たし(男性は単に労働力としてこき使われているに過ぎない)、育児・教育面でも子供を支配し(この間、男性は自動的に、蚊帳の外に置かれている)、子供が成長しても、自分に対して甘えや依存心を持ち続けるように絶えず制御することで、強固な「母性社会」を築き上げている。
日本のメンズリブに関わる人々は、こうした、自分の「男性優位」の価値観を根底から突き崩す社会的事実から、無意識のうちに目を背けてきた。日本のメンズリブの弱さは、まさに実質的な女性優位という、日本社会の現実に対応できていない、その点にある。
これからの日本のメンズリブには、その考え方を、従来の「男性優位」から、「女性優位」を前提としたものへと、180度転換させることが必要である。「強者の余裕」など、もはや存在しないのである。
日本のメンズリブは、少なくとも、女性と対等な立場に立つために、従来、ウェット=女性的であった日本社会の性格を、少しでもドライ=真に男性的なものに変えることを目指すべきである。そのためには、ドライな行動様式、すなわち真の個人主義、自由主義などを、少しでも早く、よりよく、身に付けるための「精神のドライ化」運動を起こすべきだろう。
また、従来、「一家の大黒柱」などとおだてられて来たのが、実は、単なる労働力として、母や妻の管理下でこき使われて来ただけ、という真実にも、早く気づき、その現状から一刻も早く脱却すべきである。女性の管理下から脱却するには、例えば、家計管理権限を、女性と共同で持ち合う比率を高める運動を進めることなどが考えられる。あるいは、女性が独占して来た、子育てにも積極的に関わり、自分の価値観を、少しでも子供に伝える努力をすべきだろう。また、女性の持つ家庭内での影響力を少しでも少なくするために、彼女らを積極的に、職場という「外の世界」へと進出させるべきである。家庭の外に出ようとする女性と入れ替わりに、家庭の中に入ればよいのだ。
最大の障害は、日本男性が無意識に持つ、女性への「甘え」、依存心である。日本のメンズリブは、女性を「母性」の権化として、母親や妻などに、精神的に頼ろうとする現状の日本男性の持つ傾向から、男性を何とかして脱却させる方策を練らなければならない。
(初出1998年08月)
[要旨] 日本男性は、母性に支配された母性的男性=「母男」として捉えることができます。これは、欧米女性が父性に支配された父性的女性=「父女」として捉えられることと対をなしています。なぜ「母男」「父女」が問題なのか?それは、彼らが、両者とも共通に、自分とは異質の異性によって支配される社会的弱者、本来持つべき生物学的特性を異性によってそぎ落とされ、殺された社会的無能者と化した存在だからです。
◇
日本の男性は、個人の独立や自由といったドライで父性的な価値ではなく、相互の一体感、甘え、懐きの重視、集団への所属の重視といった、ジメジメ、ベタベタしたウェットで母性的な価値観に支配されている。要は、父性を失った母性的な男性なのであり、「母男」(母性的男性maternal male)と呼べる。「母男」は、母によって母性の麻酔を打たれた、母性の漬け物と化した男性である。
一方、欧米の女性は、個人の独立や自由、自己主張といった父性的価値観に支配された、相互の一体感、相互依存を重視する母性を失った父性的な女性であり、「父女」(父性的女性paternal female)と呼べる。「父女」は、父によって父性の麻酔を打たれた、父性の漬け物と化した女性である。
それに対して、日本女性は、本来の母性を保った母性的な女性であり、「母女」(母性的女性maternal female)と呼べる。
また欧米男性は、本来の父性を保った父性的な男性であり、「父男」(父性的男性paternal male)と呼べる。
「母女」「父男」は正常であるが、「母男」「父女」は問題である。
では、なぜ「母男」「父女」が問題なのか?それは、彼らが、両者とも共通に、自分とは異質の異性によって支配される社会的弱者、本来持つべき生物学的特性を異性によってそぎ落とされ、殺された社会的無能者と化した存在だからである。
それに対して、「母女」「父男」は、本来の生物学的性の持つ特性をそのまま社会の中で発揮できる理想的な存在であり、社会的強者でいられるのである。要は、「母女」は相互の一体感、協調性を基調とする母性的態度が必要な農耕社会=母性的社会、「父男」は個人の独立を基調とする父性的態度が必要な遊牧・牧畜社会=父性的社会の中で、メジャーな支配者として君臨できるのである。
一方、「母男」「父女」は、それぞれ、母性的農耕社会、父性的遊牧・牧畜社会の中で、マイナーな被支配者としての立場に甘んじることになる。
日本は、稲作農耕社会の例にもれず、母性の支配する社会であり、そこでは、男性は「母男」、女性は「母女」となり、女性の勢力が男性を上回っている。
「母男」である日本男性は、母親と強い一体感で癒着したまま成長し、その過程で、本来持つべき父性の発達を母親によって阻害され、精神的に母親に依存したままの状態で大人になる。その点、「母男」は、いつまでも母親の息子の立場から脱し得ない男性の問題を明らかにするマザー・コンプレックスの概念と深い関係があると言える。(同様に、欧米女性=「父女」は、父親に精神的に依存し、父親の娘の立場から脱し得ない点、ファザー・コンプレックスと関係する。)
「母男」=日本男性は、会社とかの所属集団に母性的に包容されることを要求する。日本の会社や官庁は、その主要な構成要員が男性なのにも関わらず、相互の一体感、所属感を重視する母性的な雰囲気に包まれているというのが実態である。
彼は、家庭に帰れば、「母女」である妻に対して、母親代わりに心理的に依存する「大きな子供」である。また、家計管理や子供の教育といった家庭の主要な機能は「母女」である妻に独占されていて、家庭の中では居場所がなく、疎外された存在である。
彼は家庭内で子供に対して、精神的な影響力を持つことができず、その子供は再び「母」と癒着し、父性の発達を阻害されることを繰り返す。
「母男」である日本男性は、社会的弱者の立場を脱するためには本来、欧米男性のように、父性を正常に発達させた「父男」となるべきなのであろうが、仮にそれを実現すると、旧来の稲作農耕社会の伝統と対立することになり、社会の混乱を招くことになるという側面もあり、問題はさほど簡単ではないと言える。
(初出2006年08月)
日本の男社会は、実質女社会である。
日本の男性は、母親の強い影響で、女並みに、ウェットできめ細かく、陰湿になっている。
例えば、同僚の昇進とかで、嫉妬心が強く、同僚の足を陰湿な手段ですぐ引っ張ろうとする。要するに、自分は自分、他人は他人と切り分けることができないのである。
父性の強い欧米社会において、自分は自分、他人は他人と冷淡に切り分けて、殺伐、ドライな雰囲気に満ちるのとは対照的である。
(初出2011年10月)
日本においても、近年、男女共働きの家庭が増えている。その際、女性の側から問題とされるのが、日本男性が家庭において、炊事、洗濯等の家事をほとんど手伝わず、職場に直行して仕事ばかりしているということである。
それでは、なぜ、日本男性は家事をほとんどしようとしないのであろうか?
筆者は、その答えは、実は、日本の女性側に原因があると考える。この場合、女性というのは、男性の母親や、専業主婦の妻を指す。
従来、日本においては、男性の母親は、自分自身では社会的出世を直接行わず、自分の息子を「自己実現の駒」として、学校、職場で、いい成績を取らせて出世、昇進させ、自分自身は彼らの管理者となることで、社会的に偉くなった息子の内側から、日本社会を間接的に支配してきたのである。
そのように、息子を、学校、職場でいい成績を取らせて、ひたすら出世、昇進の道を歩ませるには、息子の母親は、学校での勉強や、職場での仕事以外の、それらに差し支えるような家庭の様々な家事は、なるべく息子にさせず、自分が代わりに全てやってあげようとする。息子の方も、母親のそのような態度にいつの間にか慣らされて、自分は勉強、仕事だけやっていればいいのだ、その他のことは皆母や妻がやってくれるのだと思い込むようになる。
これが、日本において男性=母親の息子が、勉強、仕事以外の家事をしなくなる一番の原因であると言える。原因は、男性を社会的になるべく効率的に出世、昇進させようとする男性の母親の態度にあるのである。
この男性の母親の態度は、男性の(専業主婦の)妻にも引き継がれる。妻は、男性が社会的に出世、昇進して、偉くなり、それに伴って、自分の社会における扱いが例えば「社長夫人」とか言われるようになって向上したり、男性が出世したりするのに伴って収入が増えて、自分もよい暮らしができるようになることを望んでいる。
そこで、妻は、男性を、職場での仕事に専念させて、それ以外のことに神経を使わなくて済むように、仕事以外の家事は全て自分が賄うという姿勢を見せる。それが、男性に、「ああ、自分は家事をやらないでいいのだな、仕事だけしていればいいのだな」と思わせるのである。
最近は、日本の若い女性も、あまり家事をしなくなってきているという話がある。これも、娘の母親が、娘のことを「自己実現の駒」として、勉強、仕事に専念させ、家事は全部自分が代行する態度を見せているからに他ならない。この背景には、男女雇用機会均等法とかの導入で、女性も、職場で一生懸命仕事をすれば、男性と同じように出世できるとする、「女性による社会の直接支配」の道の整備が開始されたことと関係している。
今までは、娘は、自分自身は直接社会的出世を行わず、男性のもとに嫁いで、家事を全部やる代わりに、男性(夫や息子)を職場での仕事に専念させ、ひたすら男性(夫や息子)の尻を叩いて、出世させようとしてきた。言わば、夫や息子を経由した間接的な社会的出世(間接出世)を行っていたのである。それが、今度は、自分自身が直接出世する道が開けたため、今までのように、家事を女性ばかりする(男性がしない)のが急に不公平に見えるようになって、不満の声を上げているのが実態であろう。
この問題を解決するには、どうしたらいいか?それには、男性を「自己実現の駒」としてその尻を叩いて出世させようとする、言わば「社会の(男性を通じた) 間接支配」をしようとする女性の数を減らすことが第一である。男性が勉強、仕事ばかりして、家事をしないのは、彼女らの態度が根本原因であるからだ。
そういう点で、「男性が家事をしないのは不公平だ」と非難の声を上げる女性たちの本当の敵は、実は男性ではなく、(男性を「自己実現の駒」として極限までこき使うために、家事を男性に代わって全て代行しようとする)男性たちの母親や、専業主婦指向の妻であると言える。そういう女性たちが減らない限り、職場での仕事指向の女性の(男性に対して)感じる不公平感はなくならないであろう。
要は、彼女たちに、男性を通さず、自分自身で、直接社会の中で偉くなるように方向転換させる必要がある。特に、男性の母親たち+専業主婦指向の妻たちをそういう「自己実現を男性に頼らず、自分自身で行う」方向に持っていく必要がある。
そのためには、そうした女性たちに、家事以外の、職場での仕事をこなしていくための能力を付与していくことが必要となる。要は、彼女たちに「職業訓練」をさせるのである。
ここで問題なのが、彼女たちが、家事以外には、余りこれといった職業的能力が身についていないことがあげられる。そこで考えられるのが、家事それ自身の職業化である。要は、各家庭において、家事の全面的なアウトソーシングを行い、家事の外部委託を大幅に増やすのである。その委託業務に、「家事のプロ」である彼女たちを投入するのである。要は、炊事、洗濯を外部社員が代行するようにし、その外部社員としての仕事を彼女たちが行うと言う訳である。
それも、家政婦として働く訳ではなく、炊事なら、食事を外部の大規模な給食会社センターで作って配達する。洗濯なら、洗濯物を各家庭に集配に来て、従来のドライクリーニング業と同様に工場で集中的に洗濯を行い、再び、各家庭に済んだ洗濯物を届けるというのを、大きな会社組織として分業して行うのである。そして、その会社の主要業務を、それらに慣れている女性たちに担わせるのである。そして、それらの会社で、彼女たち自身が、自ら(従来の男性同様)職場での仕事に専念して、昇進、出世競争を行うのである。
こうすることで、そもそも会社の仕事と、家庭の家事という分け方自体が消滅する(全て会社の仕事に一本化される)ので、従来の、「男性は家事をしないので、一方的に家事の負担が来る女性には不公平」という論調は成り立たなくなる。要は、従来の家庭における家事を、炊事、洗濯会社の職場での仕事として外部委託することで、「男性も女性も、(仕事以外で)家事をしなくて済む」ようにすればいいのである。
これは、子育ても同様であり、手間のかかる作業は、保育園、幼稚園によるアウトソーシングを積極的に活用することで、従来女性に負担が偏りがちだった作業を低減することができ、女性が職場での仕事に専念できるようになると考えられる。
男性にとっても、家事や育児をせずに、今までどおり職場での仕事に専念しても、何ら非難をされる筋合いがなくなることになり、「男は仕事」という価値観をそのまま維持することができるというメリットがある。もっとも「女は家庭」という価値観は放棄しないといけない。
あるいは、男性たちは、女性たち(母、専業主婦指向の妻)による「自己実現の駒」としての役割、プレッシャーから解放されることで、今までみたいに母、妻の(男性自身の社会的昇進に対する)期待という精神的重圧から解放され、より自由に精神的余裕を持って生きることができるようになるメリットもあると言える。
(初出2005年10月)
日本男性は、なぜ仕事人間、会社人間になりやすいのか?
日本の男性は、仕事ばかりに打ち込んで、家庭のことを犠牲にしやすい体質を持っている。
それは、なぜであろうか?
(1)自分の母親から、仕事に打ち込むようにコントロールされているからである。母親の自己実現のための道具、操りロボットと化しているためである。
(2)結婚すると、妻に、家計管理、子育てといった家庭機能の中枢を占領されるためである。中枢の大事な機能を妻に全部取られる結果、夫の機能は、給料を家庭に入れるだけしか残っていない。それにひたすら専念しないと自らの存在意義が失われると考えるのである。
(3)家庭内で、妻と子に仲間はずれにされるためである。母と子が緊密に癒着して母子連合体、カプセルを形成し、そこから父親を排除するため、夫は家の中にいても、邪魔者扱いされるか、便利な家事労働力提供者としてこき使われるだけである。それなら、家の外で過ごしたい、家から逃げたい、役所や会社で仕事に打ち込みたい、妻の支配から自由になりたいと考えるようになるのである。
こうした現状を打破するには、
(1)男性自身が、母親による干渉、支配から自由になることが必要である。
(2)結婚時に、家計管理、子育てといった家庭機能の中枢部分を、妻と五分五分で公平に分担できるように影響力を強めることが必要である。
(3)父子の心理的絆を、母子の絆に負けないように強めることが必要である。
(初出2012年1月)
日本のような農耕社会は、優位に立つ女性による、劣位の男性に対する生産管理が行われている、「鵜飼型社会」である、といえる。男性は、魚(給料)を取ってくる鵜鳥である。一方、女性は、鵜鳥(男性)を、魚(給料)を取らせるために、船(家庭)から漁場(職場)へと追いやる形で、働かせつつ、鵜鳥(男性)が働いた成果である魚(給料)を、鵜鳥(男性)から、(給与袋まるごと召しあげる、ないし給与振込銀行通帳を我が物にする形で)強引に吐き出させて、取り上げて自分の管理下に置く、鵜匠の役を実行している。鵜鳥(男性)は、実質的には、鵜匠(女性)の下で一方的にこき使われる下級労働者である。
農耕社会におけるメンズリブ=本当の男性解放は、本来男性が生得的に持ち合わせていたが、ウェットな社会に適応する過程で失った、個人主義、自律・自立指向、非人間(メカ)指向など、ドライな生き方の回復にある、と考えられる。
上記のことが果たせぬまま、家事・育児などに参加しても、下級労働者として、女性にこき使われるだけの存在に成り果ててしまう。
育児に参加する場合も、次世代の子供に、自分の生得的に持つドライな行動様式を注入できる場を確保することが条件となる。
女性への職場開放は、従来日本女性が家庭で占めてきた権限を縮小する(女性が、外の仕事に忙しくなって、家庭内の管理に回す時間が少なくなる)。これは、従来、家庭内で影が薄かった日本の男性が、家庭運営の主導権を女性と対等に持てるようになるチャンスである。したがって、「鵜飼型社会」からの脱却のためにも、男性は、女性の「社会進出」に対して寛容になるメリットは、十分あると考えられる。
(初出1999年08月)
現在の日本の社会学、女性学においては、女性のみならず、男性のジェンダー学者が少なからず存在し、日本社会における女性差別の撤廃と、女性の勢力拡大を、女性の学者、運動家と一緒になって声高に叫んでいる。
はっきり言って、彼らは、母が支配する社会としての日本社会の現状を完全に取り違えており、日本社会を女性の立場が悪い社会と誤解しているのである。
これらの男性学者たちは、日本社会において、自分たち男性が置かれている立場の悪さに気付かず、自分たちを社会的強者、優位にある者として、より劣位にあるとする女性たちに慈悲的に接しようとしているのである。
彼らの心の奥底では、男性が女性よりも弱いことを認めることのできないプライドの高さがあり、その点、彼らが表立っては否定している男尊女卑に、彼らは強く染まっていると言える。女性差別撤廃を声高に叫ぶことで、彼らは、日本社会における女性の弱さを再確認したつもりになり、そのプライドを満足させているのである。
こうした、姑や母といった女性たちが強権を握っている日本社会の実情を正しく捉えることに失敗しつつ、そのことに気付かず、女性が弱い社会と見なし続ける彼ら男性学者たちの姿は、滑稽であり、冷笑の対象としてふさわしいものである。
興味深いのは、彼らのような、日本社会の現実の把握に失敗する学者がなぜ次々と輩出するのかということである。
彼ら男性学者は、基本的に、明治時代以来変わらない日本の学者(特に天皇家の御用学者)の伝統的な役割である、先進欧米理論の消化吸収と小改良、日本社会への導入、当てはめの役割にひたすら則っているのである。
彼らは、自らは、独自の正しい理論を生み出す力を持たない。彼らは、欧米を、「正しい」「正解の」理論の供給基地と見なし、「欧米=先生」という図式に基づいて、フェミニズム、ジェンダー理論のような欧米理論を何も考えずにひたすら導入する。欧米理論から離れて、自ら独自の理論を打ち出して主張することは、先生役である欧米を乗り越えようとする一種の越権行為と見なされ、学者仲間から足を引っ張られることになる。
彼らは、欧米理論を「正解」ないし「権威ある正しい学説」と見なし、その理解と暗記、小改良と日本社会への導入、当てはめに夢中になる。
それは、伝統的な大学入試や学者になるための門になる大学院入試に向けて、手っとり早く既存の「正解」を求める教育を受けてきた彼らにとっては、ごく自然な、疑問の余地のない行き方なのである。
ジェンダー理論のように、その当てはめの対象となる社会領域のあり方が、欧米と日本とで女性の持つ社会的勢力が大きく異なるといったように社会の実情が大きく異なる場合、欧米理論を日本社会に直輸入しようとする行為は、「そもそも元々一定条件下でのみ有効であり、その条件の元で使用されていた化学薬品等を、それらとは性質の異なる条件の現場に対して、その性質や条件の違いを認識しないまま、投入する」ことと同じであり、危険な自殺行為となる。その危険を、彼らは、ほとんど認識しないまま、欧米産の「正解」理論を日本に広める第一人者となって尊敬を受けようと必死になって、欧米理論を日本に導入するのである。
彼らは、自分が真っ先に目を付けてシンパになった先進欧米理論を日本社会に、その理論の第一人者となって広めることができ、それによって自分の名声が上がればそれでよいのであり、ジェンダー理論も、自分たちの名声を上げるための手っとり早い道具なのである。
彼らにとって、日本社会の現状ははっきり言ってどうでもよいのである。彼らは、自分たちが導入しようとする欧米の理論に合わせた形で、日本社会の現状を曲げて把握する。
これは、ジェンダー理論についても同様であって、彼らは、自分たちが導入しようとする欧米のジェンダー理論、フェミニズム理論に合わせた形で、姑や母が社会的に大きな勢力を持つ日本社会を「正しく」曲解するのである。
欧米のジェンダー理論は、女性の立場が弱いことを前提とした理論であり、彼らはそれを日本社会に導入するに当たって、日本社会において女性が弱いと考えればうまく直輸入でき、理論の日本への第一の最先端の紹介者となれておいしい思いができて好都合だと考える。そこで、日本の女性のことを、自分たちが導入する「正しい」「正解の」欧米理論に合わせて、社会的に弱い存在だということにしようと半ば無意識のうちに考えるのである。
そして、日本女性が弱いことを示す証拠のみを専ら集めようとする。その際、日本社会において、表面的に男性が女性よりも威張っている男尊女卑とかに着目する。男尊女卑は、自分たちが導入しようとする欧米理論に合致した現象なので、それを見て「やはり自分の導入しようとする欧米理論は正しいのだ。自分たちはその先進理論を導入し、日本社会に対して啓蒙者となり、社会改革の最先端を行って皆の注目を集めるのだ。」と自己陶酔に陥る。
そうして、日本社会において、女性が男性よりも強いことを示す証拠は、意図的というか半ば無意識のうちに無視するのである。
その証拠に、彼らの書く論文や書籍には、日本社会が母子間の紐帯、癒着が強く、子どもが母の意を自発的に汲んで動く動く形で母が社会を支配している母性社会であるとか、日本の国民性がとかく受け身で、相互の和合や一体感を重んじる女性的な雰囲気を強く持っており、女性優位であるとか、家庭の財布の紐を握るのが夫ではなく妻や姑(夫の母)であるとか、家庭において、男性と子どもとの間の結びつきが薄く、子どもを教育する権限は女性が独占しているといった、女性が日本社会を支配する側面は、ほとんど出てこない。
日本の女性(嫁や嫁になる予定の娘さんたち)は、本当は姑を批判したいのだけれど、それができないので、心理的な捌け口を求めて、男性を批判しているという点にも彼らは気付かない。
こうした欧米理論の日本社会への強引な、機械的な直輸入と、輸入に伴う矛盾点の無視を行うこと自体、欧米理論を権威ある正解と見なして、それと心理的に一体化して、信仰の対象とし、この理論に付いていけば大丈夫だと考え、その理論のシンパとなって、理論を頼りにし、心理的に依存しよう、甘えようとする女性的な態度に基づくものであり、母性に支配されていることの証と言える。なおかつ、当の理論を直輸入しようとする本人は、そのことに気付かないまま、自分自身に対しても矛盾している欧米理論をひたすら信仰している点、心理的に矛盾、ねじれを内包していると言える。
彼らはまた、自分の性向が受け身であり、自分からは変われない、新たな機軸を生み出せないのを、欧米理論を身にまとって、自ら改革者になった、変わったつもりでいるのである。そして、自分を改革者としてアピールしようとするのである。
(初出2007年11月)
日本の男性は、全般に保守的、退嬰的で冒険が嫌いである。
そのことは例えば、学校卒業後の就職先選択で、これから先どうなるか分からないベンチャーではなく、既に安定している、権威がある官庁や大企業をより優先して選択することとかに現れている。
本来、男性は、既存の秩序を破壊、変革し、オリジナルな新境地を打ち立てるのを得意とするはずなのであるが、日本の男性はそれとは逆のコースを進んで、そのことに疑問とか特に持っていないようである。
日本の男性は、日本の大企業とかで、研究開発で、他社にない新製品を作っているではないか、という話もあるが、実際のところ、彼らは、ライバル他社がいるので、ライバル他社との競争に勝って顧客を獲得するために仕方なく新しいことにチャレンジしている、せざるを得ないのだという方が正しいだろう。ライバルがいない寡占状態になれば、彼らも、役人のように、新しいことにチャレンジせずに既存の前例に沿って生きる行き方を選択することになる。
日本男性は、なぜ、こうした保守的で、前例、しきたりを重視する生き方を選択するのであろうか?
実際のところ、彼ら日本男性の背後に、そうした生き方を取るように仕向けている背後霊のような存在がいるのである。それは、男性の母親であったり、専業主婦の妻であったりといった、日本女性である。
女性は全般に、自らの保身、安全に敏感で退嬰的であり、経済的に安定していて、新しいことに手を出して失敗するより、既存の秩序を守ってその枠内で生きることを指向する。
彼女たちは、男性に、そうした自らの保身、安全、経済的安定が確保されることを最優先にして要求する。一方、日本の男性は、強い母子一体感の中で育ってきている結果、母親や妻に対して、心理的に依存し、甘えているので、そうした彼女たちの要求に対して、反対することが心理的にできない。というか、知らず知らずのうちに、そうした生き方が望ましいのだと自分でも思うようになっているのである。
日本男性は、本来女性的な価値観である、既に確立された力を持つ中央官庁や大企業に就職して、その中で出世して、経済的に安定し豊かになるのがよいのだ、という価値観に知らず知らずのうちに深く感染し、既存の秩序、権威を破壊して新秩序を打ち立てるというチャレンジングな男性的生き方を回避するようになっているのである。
こうした、日本男性の保守性は、結局、日本男性が、女性的価値に支配されているためにそうなっているのだと言える。つまり、日本女性の社会的影響力の強さの現れであるということができる。
日本男性が本来の男性性を取り戻すには、こうした女性由来の保守性を克服することが求められる。
母親や妻の望む通りに、既存の秩序、権威に適応し、その枠内で生きるのか、既存秩序を破壊して、新境地を打ち立てる男性本来の方向に進むのか、日本男性は問われているのである。
(初出2008年03月)
日本男性のイメージは、お母さん=日本女性の手のひらの上で遊んでいる、腕白でわがままな未成熟な男の子というイメージである。
要するに、母の範囲内、影響内にとどまっており、そこから中々出られないのが日本の男性なのである。
そこには、母に守ってもらいたいとか、抱かれていたいとか、甘えていたいといったように、母の懐の中にいたいという「胎内回帰指向」が見えるのである。所属会社組織が母親代わりになっていたりする。
母にとって息子のような子供は一番大切な存在であり、大事に扱われやすい。それゆえ、日本の男性は、そのように母親に大事に扱われているうちに、自分が一番大切で可愛いと考えるようになり、女性同様、自己保身第一のナルシストになりがちであると言える。
(初出2010年7月)
この文書では、日本の男性に対して、自分の母親との生暖かい一体感を断ち切って、自分の母親の支配から脱却し、独立することを提案している。
しかし、実際のところ、こうした提案に耳を貸す日本男性は残念ながら少ないだろうというのが、筆者の読みである。何故か?
一つは、日本の男性が、母親とのぬるま湯のような心地よい一体感、共感に浸りきっていて、そこから自力で抜け出すことが難しいということがある。せっかく母親と一緒に気持ちよい思いでいるのに、何でそこから出てわざわざ寒風に身をさらさなければいけないのか?という拒否反応である。
もう一つは、上記の「母親の支配から脱却しましょう」という提案は、今まで自分を慈しみ育ててくれた恩人である母親に対して、反抗する、弓を引く行為に出る羽目になるからである。「慈母」「恩人」に弓を引くことなんて、心理的に出来るわけがないということである。
こうした母への反抗を拒否する日本男性の心情は、それだけ、日本において、母親と子供との間の一体感、共感が根強いこと、母と子を一つのカプセルと見なす母子連合体の存在が強力であることの現われである。
日本男性の母性からの解放には、母子一体感、母子癒着の破壊が必要であるが、当の男性が、母の作り出す強烈な母子一体感に心地よく浸りきることによってそれを阻まれているのが現状と言える。
(初出2009年5月)
なぜ日本男性は、女性による支配に対して、声を上げないか?
(1)男が女によって立てられる、優先される、伝統的な弱者優先の男尊女卑に満足しているためである。
(2)自分、男は強いというプライドを壊されるので、女性によって支配されていることを認めたくないためである。
(3)母親に支配されるのを、気持よく思っているためである。母との心地よい一体感に満足している、出たくないためである。
(4)女性による、支配責任回避や被害者意識の充足を目的とした「日本は男社会である」という大合唱に思わず感化され、説得され、呑まれているためである。
(5)性的に惹かれている女性(奥さん、恋人)に怒られたくない、嫌われたくないためである。
(初出2012年1月)
日本社会において、収入や地位の面で上位を確保した、いわゆる勝ち組の男性たちは、実際のところ本当に勝ち組なのであろうか?
日本社会において勝ち上がるには、それなりに日本ムラ社会に適応、適合することが必要であるが、その際問題となるのが、ウェットな日本ムラ社会は、女性的(集団重視、相互一体感、和合の重視・・・)であり、実質母性の支配下にあるということである。
つまり日本社会で成功するには、ものの考え方を女、母に合わせないといけないということである。女流にならないと成功できない。
日本社会における勝ち組男性の人生は、往々にして男性当人の人生ではなく、その母の人生になっていることが多いのではあるまいか。一見自分の意志で動いているように見えながら、実は母の意志で動いているのではないだろうか。日本社会のシステムは、母のためのシステムなのである。
要するに日本社会で勝ち上がるには、自らの男性性(個人の自立、自由の確保・・・)を捨てて、女流になり、母の言うことを聞いてその通りに動くことが必要であり、その点、男らしさの喪失という点で負け組になってしまうのである。
これと対比して、女性は、女流の日本社会では、存在するだけで勝ち組であると言える。
(初出2009年6月)
伝統的な稲作農耕が、日本における、母、姑による社会支配をもたらし、男性の立場の弱体化の大きな要因となっている。
稲作農耕は、一箇所に定住し、農業水利とかで相互に強く依存し合い、集団一斉作業を必須にする。その点、成員の自由な地点移動や別の土地への移転、個人主義に基づく独立したペースでの作業、と いった、ドライで気体分子的な男性に有利な行動様式がことごとく制限され、周囲の他定住成員との絶えざる和合、同調、協調、集団主義に基づく周囲との一体感の醸成、といったウェットで液体分子的な女性に有利な行動様式を、稲作農耕に従事する人々は取り入れざるを得ないのである。
その点、男性の立場を強化するには、伝統的な稲作農耕からの脱却が必要である。一つは、牧畜、遊牧をそのまま導入することであり、北海道とかで有望である。 もう一つは、カリフォルニアの稲作農耕のように、遊牧、牧畜的視点から構築された、新たな大規模、自動化稲作農耕を、本州においても実践することである。
(初出2011年8月)
真の男女共同参画社会の実現においては、男女が、家庭でも、職場でも参加が対等となる50:50を目指すべきである。男だけの社会、女だけの社会を無くし、男女混同を目指すべきである。
日本の職場は、男の数が多い、男メインのいわゆる男社会になっており、男女比がアンバランスになっている。これは、勤め人である男性の母親たちが、息子=男性のことをコントロールして、自己実現の道具として互いに競う場として職場を一斉に利用していることが原因である。あるいは、男性の妻たちが、自分では稼ぎの労働をしなくて良い、楽な専業主婦の立場から出ようとしないことが原因である。要するに、妻たちは、夫に働かせて、その給料をぶん取る剥奪者、寄生者、働かない有閑階級であろうとしてきたのであり、その姿勢が、妻の職場からの退去と、職場における男性の氾濫を招いてきたのである。
しかるに、日本の男性の給料は、中国とかがのしてきたのに伴って、確実に下がってきており、その結果、妻も働きに出ざるを得なくなってきている。これは、稼ぎの労働の男女共同化にとって望ましい傾向であると言える。
一方、日本の家庭は、母や妻の主導する女社会になっている。家計管理や、子供の教育といった重要な家庭の権限が女性へと集中しており、日本男性はそこから疎外されている。今後は、家庭における男女共同参画の実現が必要であり、男性にも、そうした権限を分けるべきである。幸い、日本経済における不況の進行に伴い、男性の勤務が暇になり、家庭に力を向ける余裕が生まれつつある。男性は、この機会を利用して、家庭に積極的に入り、女性が独占している家計管理、子育ての権限を半分奪取すべきである。
(初出2012年2月)
女親が女の子を責任を持って育て、男親が男の子を責任を持って育てるのが、育児の、従来の女親片親に偏らない、男女平等を実現する効果的な方法であるといえる。これは、同時に、育児担当の性による子供支配、すなわち、子供の自分の性への一方的な染め上げを回避させることにつながる。女親がべったり育てると、女の子だけでなく、男の子も、女の色に染まってしまうのである。
(初出2012年1月)
日本や中国、韓国においては、男の子供が優遇、優先され、女の子供が冷遇される。
子供の支配者は母親であり(父親は除け者にされている)、女性による社会支配が貫徹されているのであるが、一見女性に不利な状況が生じている。
婿母の姑の方が嫁母よりも偉そうな態度に出る。
同じ子供でも、男女差別される。
母親自身が女の子を差別している。これは、自分で自分のことを差別しているのに等しい。
な ぜ、男の子供が優遇されるかと言えば、男性の持つ家族代表機能のせいである。男子は、いざというときに家族の前面の矢面に立つ必要があり、表に立つもの、 代表者として日頃の心構えが必要である。代表であることを自覚させるために、周囲がわざと尊重する振りをするのである。
女子は、自分は安全な奥座敷に隠れて、自ら矢面に立つのを避けるのである。男性を矢面に立たせるため、わざと優遇し持ち上げているのである。
本来奥で保護されるべき女性を、男性並みに矢面に引っ張り出すのが、欧米文化であり、女性にとっては不利である。
(初出2011年8月)
男性は、女性に性的に惹かれる。魅力を感じる。あるいは、男性である自分には無い優れた才能を持っていると感じる。
一方で、男性は、女性を、男性である自分はドライに振る舞いたいのに、女性によってウェットさを強制されるとして、自らを抑圧する、自らと敵対する存在として位置づけ、その勢力を押さえ込もうとする。押さえ込みに成功したのが、欧米男性であり、失敗したのが日本男性である。
(初出2012年6月)
マスキュリズムは、男性に対する性差別、男性差別の撤廃を目指す思想や運動であり、主に欧米で広まっている。社会において、兵役等、男性のみが不当に不利益を課されていると主張するものである。
これは、男性主導社会、家父長制社会での男性問題を指摘する立場であると言える。男性が、生物資源、生殖資源として女性よりも劣る存在であることがもっぱらクローズアップされることになる。
メスは、カニの漁でみられるように、オスに比べて漁期を短く制限される。メスはたくさん獲ると生物の個体数の現象に直結するため、資源保護のためにメスは獲らないのである。
それと同様に、人間でも女性は貴重な生殖資源とされるのである。
女性を自らの命を張って守らないといけないとか、戦争や水難で、女性の生存を優先させて、自らは死に行かないといけないという不利益が問題とされるのである。
こうした欧米のマスキュリズムに対して、日本のように、男性が社会において主導権を持ち得ない、女性、母性の強い国、社会の存在をアピールすることが、今後必要である。
欧米では、男性が社会において主導権を持てない日本のような社会があることが、きちんと知られていないからである。
今後のマスキュリズムの本場は、従来のような欧米ではなく、日本のように父性がか弱い、頼りない母権社会に移るのではないだろうか。
(初出2011年11月)
真に支配力のある男性と、周囲の女性から立てられている男性とを区別するにはどうすれば良いか?
それは、男性自身が取っている行動が、ドライかウェットかで判断できる。ドライであれば、男性は自立支配を行うことが出来ている。ウェットであれば、男性が威張っているのは女性が立ててくれているお陰であり、本当は女性が支配している。
(初出2013年10月)
夫婦、男女の権力の強さを測定する尺度は、
(1)家計管理の権限をどちらがどれ位独占しているかを測定する。家計簿を主に付けているのが夫婦のどちらかを尋ねる。
(2)子供の教育の権限をどちらがどれ位独占しているかを測定する。学校父母会に主にどちらが出席しているかを尋ねる。
(初出2013年10月)
「家父長」制とは、父親が、家庭内の権力を掌握している(家庭で実権を握る)状態が当該社会に普及して、社会全体において半ば制度化された事実を指す。
従来の家父長制に関する理論は、普遍主義的理論であり、世界中どこでも女性が男性の統率下にあり弱いとするものであった。この考え方は日本でもそのまま機械的に受容され、日本は典型的な家父長制である、とされてきた。これは、果たして正しいのであろうか?
以下においては、家庭において行使される権力の種類をいくつかに分類し、それぞれについて、日本の家庭において、男女どちらが持っているかを明らかにした上で、日本の男性が果たして「家父長」と言えるかどうかについて考察したい。
2.家庭内権力の分類
家庭内権力は、経済的側面と、心理・文化的側面に分けられると考えられる。ここでは、まず、経済的側面について見ていく。
2-1.経済的側面 家庭内権力の経済面での起源にどのようなものであるかについては、
2通りの説明が可能である。すなわち、A.収入起源説と、B.管理起源説との2通りの説明ができる。
A.収入起源説
これは、収入をもたらす方がより発言権が強い、とする考え方である。
すなわち、「オレが稼いできたんだ、(一家の大黒柱だぞ)ありがたいと思え」ということで、収入をもたらしている(一家を収入面で支えている)ということを根拠に権力を振るう、というものである。日本においては、こちらに当てはまるのは、夫(父親)の側が多いと考えられる。
B.管理起源説
これは、家計における資金の出入りを管理する方がより発言権が強い、とする考え方である。
すなわち、「つべこべいうと(私に逆らうと)、お小遣いあげないわよ」などと、家計全体のやりくりの決定権を握っていることを根拠に、権力を振るうことを指す。日本では、こちらに当てはまるのは、妻(母親)の側が多いと考えられる。
A.収入起源説と、B.管理起源説とに関しては、欧米では、両方とも夫が掌握していることが多いので、欧米社会の夫(父親)は、すんなり家父長と言える。しかし、日本では、B.の管理起源に関しては妻(母親)が掌握しているので、簡単に家父長制が成立しているというのは誤りなのではあるまいか?
すなわち、日本の場合、夫が得てきた収入が全額妻のもとに直行するので、(支出だけでなく)収入の管理は夫がしているのではなく、妻がしているというのが適当であると考えられる。また、単なる生活費だけでなく、預金など家族全体の資産運用も妻が行っている場合がほとんどであると考えられるから、そういう意味で、妻の振るう権力は大きいと考えられる。現に、妻に対しては、「我が家の大蔵大臣」などと呼ばれる事が多いようである。日本の官庁組織で最も権力が集中しているのが大蔵省と考えられることから、そういう点では、妻に「管理者」としての一家の権力が集中しているとも考えられる。
A.の収入起源説においては、夫(父親)がいくら稼いできても、その資金の家庭における出し入れを自分でコントロールできないのであれば、あまり実際の経済面での権力には、結びつかず、結局は、妻(母親)の管理下で働かされて、働いて得た給料をそのまま何も取らずに妻(母親)に差し出す労働者(下僕みたいな存在)にすぎない、とも言えそうである。言い換えれば、妻は働いてきた夫から収入を取り上げて、自分の管理下に置くのであって、夫は、「鵜飼」において、飼い主(妻、母親)に言われて魚(給料)を取ってきて、船に戻ってきたら、その魚を飼い主によって強制的に吐き出さされる(魚(給料)は飼い主(妻、母)のものとなる)、「鵜飼の鵜」のような存在にすぎないとも言えそうである。一家の大黒柱ということで、家族の構成員からある程度尊敬はされるかも知れないが、一種の「名誉」職としての色彩が強いのではあるまいか。
これと関連して、日本の家庭において資産の名義は夫(父親)になっていることが多いので、それが日本の家庭内で男性(夫、父親)の権力が強く、女性の地位が低い証拠であるとする見方がある。しかし、上でも述べたように、日本の家庭では、男性は、資産の管理権限(家計管理の権限、いわゆる財布)を女性に奪われている場合が多い。資産の管理権限を持たない名目上の所持者(男性)と、資産の出し入れをコントロールする実質上の所持者(女性)と、どちらが権力的に強いかと言えば、財布を握る実質上の所持者である女性であると考えるのが妥当なのではあるまいか。この場合も、男性は表面的に尊敬されるだけであり、実質的な権限を喪失した「名誉」職にとどまっているのが実状ではなかろうか。
土地などの財産名義は夫(男性)でも、実際に証書・帳面などを管理する(実際に資産を運用している)のは女性である。したがって、名義上では、男性の方が地位が上だが、実運用の権限を握っているという面では、女性の方が地位が上なのではないか?
日本においては、母の代用言葉として、「おふくろ」という言葉があるが、その語源は、一家の財産を入れた袋を持つ人の意味という説がある。
この語源が正しければ、一家の財産を管理していたのは、男性ではなく、女性であるということになり、かつ、財産の使用する/しないの権限などを持つ者が、そうでない者よりも、より上の地位にあるとすれば、女性の方が、男性よりも、地位がもともと高いことになる。
日本では、女性が、夫名義で銀行口座を作るなどして、家庭の資産の全面的な運用をする場合がほとんどなのではないか。夫の名前を表面的にせよ名義に利用することで、夫の顔を(一家の代表であるとして)立てる(面子を潰さない)が、実質的な資産運用権限は、女性(妻)がしっかり掌握して、男性(夫)の手には渡そうとしない。
日本の女性フェミニストは、被害者意識ばかりが先行して、いかに自分たちが家庭生活上、強大な権限を振るっているかについての自覚が足りないのではないか?
いずれにせよ、欧米では、家庭の資産の出し入れ(財布)を一手に握る夫(父親)のもとで、家事に必要な金額をその都度もらって家事を行うだけの妻(母親)は、「家事労働者(家政婦)」に過ぎず、その家庭の中での地位は低いので、「家父長」制を告発したくなる理由は明白で理解しやすい。これに対し、日本においては、妻(母親、姑も含む)のほうが財布を握っているのだから、その地位は単なる家事労働者ではなく、他の家族構成員の上にたって彼らの生活をコントロールする「家庭内管理職」「生活管理者」と見なすのが妥当なのではないか。
日本の女性がみずからが所持する実質的な経済的権力のことに目をつぶり、男性が持つ名目的な権力を「家父長」制だと言って攻撃するのは、アンフェアであると言えないだろうか(それとも実質的な権力と名目的な権力との両方を手に入れたいとの意欲の現われなのか)?
日本においては、女性が一家の財布の紐を握る(財産の管理をする)のは全国世帯の少なくとも60~70%を占めるとされる。家計簿の付録が、男性雑誌でなく女性雑誌(主婦の友とか)に付いてくるのもこのことの現れと見てよい。
妻は、家庭の財政上の支出権限をにぎる。夫自身には自分の稼いできた給料を管理する権限がない。家に給料を入れるだけの存在である(単なる給料振込マシンに過ぎない)。彼は昔は給料袋をそのまま妻に渡していた。彼の給料は現代では銀行振込で通帳を握る妻のもとへと直行する。彼がせっかく稼いできた給料は、彼自身の手元には残らず、みな妻のもとに直行してしまうのであり、彼自身の自由にはならない。彼は自分の稼いだ給料から疎外されているのである。
なぜ、日本の男性は、自分にとって最低限必要な資金(本来家庭とは関係ないところで自分が使う)まで、みんな妻に渡してしまい、改めて小遣いのかたちでもらうことが多いのか。しかも、夫自身の小遣いの額を最終的に決める権限は妻にあって、夫自身はそこから疎外されている。夫は自分自身のことを自分で決められない(決定の主導権を妻に渡してしまう)。日本の男性(夫)は、自分の立場をわざわざ弱くするようなことをするのか?自分がせっかく稼いだ賃金からの疎外現象(「自己賃金からの疎外」)をみずから引き起こすのか?
何故、欧米と日本とで「大蔵省」になるジェンダーに差が出たか、の原因解明は今後の課題である(日本において、夫が妻に対して自分の稼いだ給料をまるごとそのまま渡してしまう慣例がいつどのようにして出来上がったのであろうか?)が、一つの考え方として、遊牧社会と農耕社会との違いが考えられる。地理学や文化人類学の知見によれば、遊牧社会は男性向きなのに対して、農耕は女性が始めたものであり、女性により向いているという。稲作という、女性向きの環境適応(食料の確保など)行動がメインとなる日本において、生活の要衝を占める家計管理の役割が女性によって担われるようになったのは、ごく自然の成り行きではなかったか?
家庭における支出(小遣いなど)決定(予算編成)の権限を女性が握っているといっても、男性に、予算編成の能力がないのではない(現に日本国の大蔵省では、主に男性が予算編成をやっている)が、家庭においては、過去(いつかは分からない)に権力闘争に敗れた結果、ずっと女性のものとなってしまった、と考えられる。
2-2.心理・文化的側面
(1)夫の妻・母(姑)への心理的依存
日本では、夫に、妻を母親がわりにして心理的に依存する傾向があると言われる。自分の母親が姑として生きているときには母親に甘え、母親亡き後は妻に甘える、というものである。こういった現象を一つの文化と見なして、「母ちゃん文化」と呼ぶ人もいるようである。また、「結婚して、大きな子供が一人増えた」などと言う主婦の声も多い。
また、日本の家庭で多く発生する「嫁姑問題」は、夫(息子)と姑(母親)との絆が強く、夫と妻との絆と拮抗するために起きると考えられている。日本社会が、母性優位で動いている一つの証拠とも見られる。夫が本当の家父長ならば、夫は妻と姑の上に立って、即座に両者間の葛藤を解決できるはずなのであるが、日本の夫は、実際には、妻と姑の両者に振り回されて、どっちつかずの中途半端な態度しか取れない場合が大半なのではないか?また、潜在的にマザーコンプレクスである(自分の母親に対して頭が上がらない)夫の割合も、欧米に比べてかなり高いのではあるまいか?
女性(妻、母)に心理的に依存し頭の上がらない男性(夫)が、本当の意味での家父長と言えるかといえばはなはだ疑わしいのが現実ではあるまいか?
(2)家庭における夫の不在
日本の家庭においては、特にサラリーマン家庭においては、夫が仕事人間で、家庭のことを省みないことが多いとされる。その結果、夫の家庭における影が薄くなり、ひいては他の家族成員から疎外される現象が起きている。これは、自分の父親が家庭にいなかったため、自分の父親の家庭人としての観察学習ができなかったことが原因と思われる。夫は、予め家庭・子供の育児などに興味を持たないように→家庭から自発的に疎外されるように、家庭において妻が経済・教育上の権限を自動的に掌握することが、家族において代々続いて起きるように、社会的に仕組まれている、と考えられる。
家庭に不在な者が、家庭の心理的な面で権力を握るとは考えにくい。結局、妻によって「お父さんはえらいんだよ」とか人為的に立ててもらわない限り、男性(夫)の権力は成立しないと見るのが、妥当なのではないか?
(3)子供の教育権限の女性への集中
日本の家庭においては、子育ては母親(女性)が独占する割合が、欧米に比べて高いと見られる。そういう点で、日本の男性は、自分自身の子供の教育を行う権限から、自ら進んで疎外されてきた、といってよい。子育てを行う結果、子供が自分になつき、自分の言うことを聞くようにさせたり、自分が持っている価値観を子供に伝えたりできるのは、子育てをする者にとって、大きな役得である。その役得を得る者が、日本では女性に集中し、男性は、「男は家庭に振り回されるべきではない、給料稼ぎに専念すべきだ」とする周囲の、男性を家庭から切り離す価値観によって、自ら子育て・子供の教育を行う権利を失っているのである。結果として、家族内で子供を実質的に統率する役目を、父親ではなく、母親(女性)が占めることが多くなる、と考えられる。
子供の管理者としての妻は、子供の教育面での実権を握る。妻は(女性)は、夫に賃金供給者としてよりよく働くように、プレッシャーを与えて(となりの〇〇さんの御主人は課長になったそうよ、あなたにも一生懸命働いてなってもらいたい、などと言う)、夫(男性)から、子供を無意識のうちに近づけない(自分が独占する)。その結果、夫(男性)には、子供からの疎外(教育の権限を奪われる、子供から無用者、粗大ゴミ扱いされる)
とも言うべき現象が生じる。
家庭や自分自身の子供から切り離された存在である日本の男性が、家庭において、自分の子供を思うままに統率できる「家父長」にそのまますんなりなれるとは、考えにくい。実際の権力を握る女性側のお膳立て(「お父さんはえらいんだよ」と子供の前で持ち上げるなど)が欠かせないというのが現状ではないだろうか?
子供と母親の間の一体感や絆が(欧米に比べて)強い、裏返せば子供と父親との間の絆が弱い、ということも、父親が子供にとって一家の中心的存在からかけ離れている(むしろ母親の方が一家の中心にいる)ことの例証にならないであろうか?
結局、心理・文化的側面においても、日本において、男性(夫)は、女性(妻)に対して依存的でかつ家庭内で影が薄い、ということになれば、日本に家父長制が成立しているという、従来の日本のフェミニズムの論説は、はなはだ怪しいと見るべきではあるまいか?
3.家父長制と混同しやすい慣行
家父長制と紛らわしい慣行として、男尊女卑と嫁入りがあげられる。
3-1.男尊女卑
男尊女卑とは、男性が女性よりも尊重される、女性の男性への服従であり、欧米におけるレディーファーストの反対の現象であると考えられる。
従来の日本では、男尊女卑は、女性の(男性に比較した)地位の低さを示す象徴として、フェミニストのやり玉に挙げられてきた概念であった。
日本で男尊女卑に反対して女性解放運動を起こすという日本のフェミニズムの解釈が正しいのならば、レディーファースト(女性が男性よりも尊重される、男性が女性に服従する)の欧米では、男性解放運動が起きるはずである。
レディーファーストは、身近な例をあげれば、例えば、自動車のドアを男性が先回りして女性のために開けてあげるとか、レストランで女性のいすを引いて座らせてあげるとか、の行為を指す。この場合、見た目には、男女関係は、女王と従者の関係のように見える(女性が威張っていて、男性は下位に甘んじている)。
しかるに、女性解放を目指すウーマンリブ運動はレディーファーストの欧米で始まっている。このことは、欧米では、男性が女性に形式的にしか服従しておらず、見かけとは逆に、実効支配力、勢力の面では、女性を上回っていることを示しているのではないか?
それと同様のことを男尊女卑に当てはめると、女性は男性に対して、見掛け上のみ従属することを示しており、勢力的には女性の方が男性よりも強く、必ずしも女性は弱者ではないと言えるのではないか。
男尊女卑は、女性が男性に対して、見かけ上も、実質上も支配下に置かれる状態をさすので、欧米のレディーファーストよりも、女性にとって問題は深刻であるというのが従来の日本のフェミニストの見方であろうが、日本において、実質的な支配力という点で、女性が男性に服従していると見なすことには、いくつもの反論が可能である。
日本の女性が、経済的に、家庭における家計管理全般の権限(夫への小遣いの額を決める権限など)を握っている点、あるいは文化的な面として、子供の教育の権限を一手に握っており、その影響下で子供(特に男性)が育てられる結果、日本人の国民性(社会的性格)が女性化している(父性よりも母性原理に従って動く、人間関係で和合を重んじる、集団主義的であるなど)点、などが、日本ではむしろ女性が男性を支配しているのではないか、と思わせる証拠には事欠かないと考えられる。
日本人の国民性が女性的であると思われる根拠としては、例えば、以下のような点があげられる。
・人間関係を重要視する(女性の方が、男性よりも、赤ん坊の頃から、人間に対する興味が強いとされる)→対人関係の本質視
・外圧がないと自分からは動こうとしない(外交など)→受動性
・就職などの大組織(官庁・大企業)指向 寄らば大樹の陰→安全指向
・前例のないことはしない(科学分野で、独創的な理論が少なく、欧米理論の追試ばかりしている)→冒険心の欠如
・理性的というよりは、情緒的である(社会学の家族理論で、情緒面でのリーダーは、女性に割り当てられている)→ウェット
・集団主義(女性のほうが、男性よりも、互いに集まること自体を好むとされている)
日本において、女性(妻)が、家庭内で男性(夫)に従うように見えるのは、(夫の収入供給者としてのやる気を出させるなどのため)見掛け上夫を立てているからであり、妻が夫を立てるのを止めると、もともと確固たる足場を持たない夫の権威はたちまち地に落ちてしまうと考えられる。
実際、日本の男性は家庭内では、「粗大ゴミ」とか「濡れ落ち葉」などと称されて、存在感のないことはなはだしい。これらは、男性の実際の家庭内の地位の低さを示す言葉だと言える。
前にも触れたが、日本の一般的な家庭生活においては、女性が、経済面での家計予算編成権限(夫の小遣い額の決定など)だけでなく子供の教育権限(母子一体感の醸成に基づく)を一手に握っているため、日本の家庭は、実質的には男性ではなく女性の支配する空間となっている(家父長制は表面だけ)のではないか?
マードックのいう核家族の4機能のうち、日本では、2機能(経済、教育)を女性が独占している。あとの2つは、性と生殖という、どちらが優勢とは言えない項目である。
むしろ、日本の女性は、特に専業主婦の場合は、その権限の強さから、「家庭内管理職」「(家族生活の)管理者」として、夫や子供など他の家族よりも上位にある存在として捉えるのが適当なのではないか?つまり、家庭を官僚制組織のように見なした場合、日本では、女性が男性の生活全般を管理する管理職の立場につき、男性はその下で生活する単なる労働者として、自分が働いて得た給与を、女性に全額差し出す行動をとっているのが、日本の現状であると考えられないか?
日本においては、女性が官庁や企業などで管理職につく事が(男性よりも)大幅に少ないとされ、それが日本の女性の地位の低さを示している、と日本のフェミニズムの批判の対象となってきたが、これも、上記の見方を適用すれば、夫が、家庭の外でどんなえらい地位(例えば首相)についても、妻がその「生活管理者」(「首相」を管理する「(家庭内)管理者(職)」)ということで、夫よりも常に1ランク上の地位にいると考えた方が妥当なのではないか?
3-2.嫁入り
家庭における妻の夫への服従というのは、夫個人への服従というよりは、夫の家の家族(姑とか)への服従と考えるべきである。
従来の直系家族における(新たに嫁入りした)妻の地位の低さは、「新参者効果」とでもいう効果によって説明できるのではないか?
つまり、妻は、「新入り」家族の一員として、外から夫の家へと、影響力ゼロの状態から入ることになる。従って、入り立ては地位が低く、夫他の家族に比べて弱いことになる。しかし、この「新参者効果」というものは、妻が家庭内の慣習などに慣れて実力をつけていくにつれて、やがて消えることになり、妻の力は次第に強くなっていくと考えられる。夫の家に入って間もない時点で地位を測定すると、夫に対して弱いように見えるが、姑から家計管理の権限などを譲り渡された時点では、地位の面で夫を上回っていることが考えられる。また、夫婦別姓になると夫の家への服従がなくなる分、強く見えるようになると考えられる。
夫の家族との同居が妻を萎縮させる原因となる。漫画のサザエさんのように同居しないと強くなる。妻の服従は、夫の家への服従、夫の親への服従であり、特に同性の女性である姑への服従である。その意味では、妻の服従とは女性(姑)と女性(義理の娘)の間の問題になる。夫への服従は、夫の家の家風などへの一連の恭順の一部であり、夫個人に対してのものとは必ずしも言えない。夫が「家父長」だから従っているわけではない、と考えられる。夫個人をその属する家から分離させる形で取り出して、妻と一対一で向かい合わせたとき、夫が優位を保てるかは、甚だ疑わしい。
4.悲しき「家父長」-日本女性による「家父長」呼ばわりの本当の理由
以上の点を勘案すると、必ずしも女性が弱いとは言えない。 また、日本において正しい意味での家父長制があったと言うことはできない。男性(夫、息子)のほうが女性よりも弱く、女性(妻、母)の支配下に入っていたというのが、歴史的に見ても妥当なのではないか?
現状の日本のフェミニズム理論は、将来的には、理論の欧米からの直輸入と、日本社会への機械的当てはめが失敗に終わった事例として、後世に汚名を残すのではあるまいか。
日本の男性たちは、仕事のためと称して家庭に遅く帰り朝早く出て行く生活を送っており、家庭における父親不在をもたらしている。なぜならば彼らは家庭の中で自分の部屋が持てないなど居場所がなく、家族成員から疎外されており、家庭にいるのが不愉快だからである。彼らは家計管理や子供の教育についても主導権を持てないでいる。家庭内の実権はすべて女性に握られており、日本の家庭は実質的に母権制なのである。
このように日本の家庭において男性の影が非常に薄いにもかかわらず、女性が男性のことを「家父長」呼ばわりし続けるのには、それなりの理由と戦略があると考えられる。
一般に、組織において「長」の付く役職にある人の果たす役割は、大きく分けて1)代表、2)責任、3)管理の3つがあると考えられる。代表機能は、組織の顔として、外部環境に対して自分自身を直接露出する役割、責任機能は、組織成員が失敗を犯したときにその責任を取って社会的制裁を受ける役割、管理機能は、組織成員の行動を強制力を伴って管理・制御する役割である。
日本の家庭では、このうち管理の役割は女性がほぼ独占している。女性(妻、母)は家計管理や子供の教育の権限を持ち、男性(夫、息子)を自分に対して心理的に依存させることで、男性(夫)や子供が自分の思い通りに動くように、自分の言うことを聞くように仕向けている。管理者=「長」と見なす考え方からは、日本男性は「家父長」の資格を明らかに欠いている。
しかし、代表と、責任の役割については、女性はその役割を遂行することを回避し、男性に押しつけようとしている。女性が家庭管理の権限がない男性のことを意図的に「家父長」呼ばわりするのは、家庭という組織を対外的に代表し、運営がうまく行かなかった時の責任を取る役回りを男性に全部やらせようと策略を巡らしているからに他ならない。ではなぜ女性は、代表・責任役割を自ら取ろうとしないのか?それは、女性が根源的に持つ、我が身を危ない立場に置こうとせず、常に安全な位置にいようとする自己保身の指向に基づく。
女性は、代表者として対外的に表面に出るのを嫌う。それは、危険にさらされる外側よりも内側の世界に留まった方が安全が確保しやすいからである。家庭を対外的に代表するということは、外部に対して我が身を露出することであり、直接攻撃や危害を加えられる立場に立つことである。そのため、女性は、男性を対外的な「盾」となる代表役に仕立てて、自分はその内側で安全を保証された生活を送ろうとする。男性を家庭を代表する「家父長」に仕立てるのは、男性を家の外の風にさらして、自分はその内側で気楽に過ごそうとする魂胆があるからに他ならない。
女性は、また、失敗時に責任を取らされて社会的制裁を受けるのを嫌う。制裁を受けることにより、社会的生命を失い誰からも助けてもらえなくなり、自分の身の安全を脅かされることを恐れるからである。そのため、自分からは行動上の最終的な決断をせず、決断をする役回りは全て男性に押しつけようとする。
責任逃れの口実として、男性を家庭内の物事を最終的に決断する「家父長」に仕立て上げて「あなたが決めてよ」と言って決めさせ、失敗時には「決めたのはあなたよ。あなたがこうしなさいと言ったから、私はそれに従ったまでよ。あなたがいけないからこうなったのよ。私の責任ではないわ。」と逃げられるようにする。男性が物事を自分からは決めようとしないと、「優柔不断な男は嫌い」ということで、その男性を非難する。
「家父長」の呼称は、彼が、女性による責任押し付けの標的・対象となっていることの現れであり、その意味で、ありがたい呼称とはお世辞にも言えない。日本の女性は、普段は男性をやっかい者扱いしながら、行動結果の責任なすり付けに都合の良いときだけ男性を頼りにしよう、利用しようとするのであり、それが女性が家庭内での実権を持たない男性のことをいつまでも「家父長」呼ばわりする真の理由なのである。このことを知らずに、女性から「あなたは家父長」とおだてられていい気になっている日本の男性たちは、救いようのない愚かな存在なのかも知れない。
(初出1998年08月)
日本社会が家父長制に見えるのは、見かけだけである。
日本の女性は、失敗したとき、自らの責任逃れをするために、男性に責任ある「長」の地位を押しつけている。その点、女性による、男性優位の演出が行われている。日本男性は、女性の厚意で威張らせてもらっている、と考えておいた方が身のためである。
日本が本当に家父長制の社会なら、国民性が、男性的=ドライとなるはずである。しかるに、伝統的な日本社会の国民性は、ウェットで女性的である(女々しい)。国民性が女々しくて、かつ家父長制というのは成立しえないのではないか?日本社会=母権制ではないかと、疑うべきである。
欧米のような真の家父長制においては、
・父親-子供の紐帯が、母親-子供の紐帯よりも強い。
・父が子育ての最終的な権限を握っている。子供がドライ=男性的に育つのは、父親の影響力が大きいからである。
・近親相姦は、父親と娘の間に起こりやすい。
一方、日本のような母権制においては、
・母親-子供の紐帯が、父親-子供の紐帯よりも強い。
・母が子育ての最終的な権限を握っている。子供がウェット=女性的に育つのは、母親の影響力が大きいからである。
・近親相姦は、母親と息子の間に起こりやすい。
日本では、夫が妻に、心理的に依存する程度が、妻が夫に、心理的に依存する程度よりも、ずっと強い。
夫婦の間に子供が生れたとたんに、夫は、妻の事を、「ママ」とか「お母さん」と呼ぶようになり、実の母親に対する甘えを、妻に移行させる、とされる。
妻に対して心理的に依存している夫が、妻を支配する家父長であるというのは、依存される方が、依存する方を支配する、という常識と矛盾している。
(初出2000年07月)
真の家父長となる条件は何か?
日本における家父長像は、本来のものとはずれており、誤解されている。
(1)日本の父親のように、自分からは何もしないで、「○○しろ」「○○持って来い」というように、自分は座ったままで何もしないで、妻に、身の回りのことを、威張って命令口調でやらせる(やってもらう)のは、家父長とは言えない。皆妻にやってもらわないと、自分の力では、何一つできない。本来、家父長は、動的に、自ら進んで体を動かす、家族の手本となる行動様式を示す指導者でなくてはならない。能動性が必要である。単なる怠け者や快楽主義者では、家族は、自分の事を家父長とは見なさず、厄介な「お荷物」としてしか、見ないであろう。
(2)日本の父親が持つ、浪花節的な、ベタベタした親分子分のような関係は、男性的ではない。メンタルな面で母性の支配下にあり、家父長とは言えない。家父長たるには、ドライな合理性、個人主義、自由主義などを、身につける必要がある。
(3)日本の父親は、どっしりとして(どっしり座って)、てこでも動かない、重い存在であることが、理想的であるとされてきた。
一カ所から動かないのは、定着指向であり、静的(ウェット)であり、母性的である。本来、家父長というものは、積極的に、あちこち動き回る、ドライな存在なのではないか?
(初出2000年07月)
日本男性は、深夜まで残業するなど、職場に引きつけられて家庭に帰らない。これは、「不在家長」現象と呼べる。
この現象が起きるのは、以下の原因によると考えられる。
1.家庭で、父親の姿を見ずに育った(父親不在の家庭)。家庭にいる父親像を学習していない。
2.職場で、昇進競争をするように、母や妻から圧力がかかる。夫(息子)の肩書(表看板)が、そのまま管理者たる妻(母)のえらさになる。いかにうまく管理したかの証拠となる。
こうした原因が、男性を、職場に長くい続けさせ、家庭において不在となり、影が薄くなることにつながる。
(初出2000年07月)
従来、母性の支配下にある日本の家庭は、男性の立場からは、少しでも父親の力を取り戻し、父権化、家父長制化することが必要である。
そのためには、まず、最近の、社会進出を優先して、子育てに母性が不可欠とする母性愛神話を打破しよう、子育てを放棄しようとする女性側の動きを利用することが望ましい。
つまり、女性学、フェミニズムによる育児回避・放棄運動に乗じて、「母親たちが育てないならば、父親が育児を一手に引き受けよう」「父性主導の子育てを実現させよう」と運動するのである。
3歳児までの、子供の人格の基盤が固まる時期を、母性を排除し、父性側で押さえる。父性の介入を最大限にして、母性による子供の独占を阻止する。
従来の日本の子供は、母親と癒着した、「母性の漬け物」と化している。これを改め、子供から母性分を「脱水」し、代わりに、「父性の漬け物」とするのである。
そのためには、欧米の父権制(家父長制)社会を手本にして、母性偏重の日本家庭に父性の風を持ち込むことが重要である。
父親主導のドライな雰囲気の子育てを行う。例えば、川の字添い寝を廃止し、母親と子供の密着を阻止するため、子供を、早期に個室に入れる。子供が、一人で自分自身を律することが早い段階で可能になるようにする。そうすることで、子供もドライな父性的な風を身につけることができ、父親主導の子育てが可能となる。
そうすることで、子供は、父親になつく、父親を頼りにするようになり、今度は、逆に、母親の方が子供たちから疎外される感じになるであろう。そうすればしめたものである。家庭の中心に、父親が位置するようになる日は近い。
父権制における真の父親は、戦前日本の父親のように、家庭の中で、ワンマンの暴君、専制君主のように、わがままな大きな子供のように振る舞うことはない。父権制の父親は、ドライで合理性を持った、自由で個人主義で自律的で明確な自己主張を持った、必要な時には危険に直面し、きちんと責任を取り、探検好きで、進取の気性に富んだ、ドライな存在である。
真の父親は、レディーファーストで、表面的には母親を立てるが、裏では、彼女を愛人兼家政婦として、その上に立つ形で支配する。もちろん家計も父親が管理し、母親に、家事労働に必要な小遣いを渡すのである。
日本家庭において、こうした父権制化を実現するためには、何よりも、日本の父親たちが、従来の母親べったりのウェットな存在から脱却して、欧米並みのドライな考え方を取るようになる必要がある。そのために、父親がドライな態度を取れるように訓練する、教育プログラムを、欧米における父親の意見を参考にしながら、日本で開設する必要がある。
特に、キリスト教系の学校では、欧米人の宣教師が、父権的なドライな接し方で、子供や児童に接するので、日本の男子生徒~父親たちは、それを参考にして、早くから父性的な振る舞いを身につけるようにすることが考えられる。
父権モデルは、欧米が白人のため、日本と人種的に離れていて問題だというのであれば、欧米同様遊牧・牧畜民であり、かつ日本と同じ人種であるモンゴルとかでもよい。
日本の家庭を、女性、母性の支配の場でなくすには、家庭を「妻の王国」「母の王国」として、そこに君臨する妻や母たちを、家庭の外に出して、家庭の中での女性、母性の支配力、影響力をできるだけ減らし、その代わりに父性をどんどん注入することで、日本の家庭を女性、母性支配の場から、男性、父性支配の場へと転換させる必要がある。
その意味で、日本において、女性を、家庭の外の、会社などに社会進出させることは、社会の根幹をなす家庭において、男性の影響力をより増やす上で、有効かつ重要な戦略である。
日本女性の家庭における支配力を弱めるため、日本女性が家庭を離れて職場社会進出するのを促進することこそが、現状の日本男性の社会的地位向上のために重要なのである。
現状では、日本の男性は、女性に社会進出されて、給料を稼がれると、自分の経済的な甲斐性、女性を経済的に養う力を否定されるように感じて、女性の社会進出に反対することが多い。
しかし、重要なのは、誰が稼ぐかではなく、誰が財政の紐を握るかなのである。いくら、稼いできても、その稼ぎを妻に取り上げられて、妻から小遣いを渡される「ワンコイン亭主」でいるようでは何もならない。男性が「財布の紐を握る」「財布の紐を女性から奪い取る」ことこそが、日本における家庭ひいては社会全体の父権化、家父長制化(男性による支配の実現)にとって本質的である。その点、日本の男性は、誰が稼いだかには、これまでのようにはこだわらず、むしろ、誰が(家族が)稼いだ金を管理するか、誰が家計を支配するかという点にこだわるべきなのである。
子供の教育についても同様である。子供の教育を母親、妻任せにしていると、子供は母親の言うことを聞いて、父親の影が薄くなる。これが、日本において、父性の欠如した次世代の子供を繰り返し再生産することにつながっており、家庭や社会における父権の強化のために、父親が子供の教育を主導する形へと改める必要がある。その際、父親は、子供を母親から切り離して独立した自律的存在とすることに心を砕くべきである。そうすることで、子供に対する(子供を包含し一体化し、強い紐帯を子供との間で維持しようとする)母親の影響力を弱めることができる。
女性を社会進出させて、家庭内における影響力を低下させ、その間隙を突いて、家庭の中枢をなす機能(家計管理、子供の教育)を奪取することこそが、日本の男性にとって必要である。
(初出2004年08月)
一見威張っている日本の男性は、母性によるコントロールを受けている。父性が母性の中に呑み込まれ、取り込まれ、弱体化、消滅している。その結果、父性が無いとか、家庭における父親不在の現象を生み出している。
日本では、本来、父性の担い手たるべき男性が母性の担い手となっている。彼は、母親に精神的に呑まれて、父性を失っている。
そこで、ヤクザ、野球の監督、学会ボスといった親分のように、まるで母親のような包容力が重視され、日本の男性に求められるようになっている。これが、浪花節の世界である。
あるいは、日本の男性は、母親代わりの家事労働力としてのみ働こうとする。父親ではなく、第二の母親として、子供に接しようとする。
あるいは、そもそも子育てを避けて、父親の役割から逃げて、母の息子としての役回りのみに留まろうとする。
こうした現状は、改められるべきである。
例えば、
母性的な包容力では無く、父性的な判断、決断、理屈付け、行動力で動くようにするとか、
母親と同じ事をするのではなく、冒険、探検のように父親しかできないことをするとか、
母の息子の役回りから卒業することとか、
が必要なのではないだろうか。
(初出2012年1月)
日本は、社会の基盤は母性が支配している、実質女社会である(典型的な農耕民の社会)。
日本男性は、経済的な稼ぎ手として重宝するため、女性によって、立てられてきた。おだてられてきた(プライドを持たせないと、しぼんでしまい、仕事をしなくなるため)。
男性は、父性が欠如し、実権が無いにも関わらず、威張ってきた。見かけの地位が高かった。(実質的地位は低かったが、そのことは隠蔽されてきた。)男社会とおだてられ、それに何の疑問も持たなかった。
ところが、欧米から入ってきたフェミニズムの影響で、男性が威張っている現状を改めるべきという風潮になった。
女性が男性を立てなくなり、代わりに格下の道具扱いするようになった(アッシーとか貢ぐ君とか)。
男性が見かけの地位を失い、(本来の実質的地位通り)社会的弱者になった(の地位に戻った)。
この困った現状をどうすれば改善できるか考え始めることが、日本男性が持つべき、共有すべき問題意識である(が、あまり持っている、共有している男性がいないのが現状)。
この問題は、社会的地位の認識において、見かけの地位と、実質的地位とを区別することが必要であることの好例であるといえる。
男女の見かけの地位(apparent status)と、実質的地位(substantial status)が乖離していたのが、一致するようになったというのが、日本社会の変化であると言える。
なお、林道義によって、日本社会における「父性の復権」が唱えられたことがあったが、それは、女性に立てられ威張っていた戦前の男性の姿を父性的であると誤認し、その状態に立ち戻ろうと主張した内容であった。実際には、日本社会には、「復権」するに足る父性はもともとほとんど無かったというのが正しい見方と言えるのではないか。日本社会では、父性の「復権」は成立し得ず、父性の「新規創造」とか「(欧米とかの家父長制社会からの)新規学習、模倣」という言葉がよりふさわしいと言える。
(初出2013年6月~12月)
ロシアの雷帝、ないし日本で雷親父と呼ばれる存在は、ヒステリックで、怖くて、凶暴で、残虐で、非理性的な存在である。
それは、父性的というよりは、万事に厳しい、すぐヒステリックに怒る姑と体質が同じであり、姑の男性版、母性的存在と言える。
すなわち、母親によって、余計な全能感を植え付けられたガサツな乱暴者の息子であると言える。
自分は、何でもできるという、オールマイティーな感覚は、母親による、息子の無限の受容、クッションによって植え付けられていると言える。要するに、母親が何でも受容してくれるので、息子は、自分に不可能なものはないと考えるようになるのである。
そういう点では、一見家父長のように見える雷帝や雷親父のバックには、強力な母が付いていると言える。
(初出2012年05月)
松本滋の著書「父性的宗教、母性的宗教」によれば、キリスト教、イスラム教は、父性の力が強い父性的宗教であるとされる。
この点、母性に支配されてきた日本男性を解放するために、父性的なキリスト教、イスラム教の活用が望ましいといえる。こうした宗教の導入により、社会の父性化が実現できるからである。
既存のキリスト教のように、ミッションスクールを通して宗教心を教育することを日本社会に広げるとかいうのが考えられる。
その際、問題なのは、教具や聖典に登場する人物の外見、デザインが、あまりにも欧米文化に直に依拠し過ぎていて、神道とかに慣れた既存の日本人には違和感が強く、そのままでは受け入れられにくいということである。
教具や教典の表現、デザインを、本格的に、父性を保ったままで、侘び寂びの効いた日本化する努力が必要となると思われる。
あと、注意点としては、聖母マリア信仰に陥るのを防ぐ必要がある。母を敬い慕うことにつながるからである。母子一体性を強調する聖母子像イコンの信仰とかも避けるべきである。
(初出2011年11月)
日本の自然風土は、強い母性をもたらす稲作農耕に適している。ただし、北海道は別であり、強い父性をもたらす牧畜にも適しているが。
稲作農耕に適した自然風土の地に、強い父性を導入すると、稲作農耕を前提とした社会の仕組みを根本から変えないと行けなくなる。これは、既存の日本社会を根本から崩壊させる危険をはらむものであり、やっていいのかためらわれるとも言える。
そこで、2つの途が示される。一つ目は、父性導入を見合わせる行き方である。すなわち、今まで通り、伝統的稲作農耕の母性優位で行き、伝統的母性的フェミニズムを更に伸ばす行き方である。
もう一つは、伝統的稲作農耕とは異質な、強い父性のもとでも日本農業や日本社会がきちんと上手く回る仕組みを考える、という行き方である。筆者としては、こちらを取りたい。強い父性主導で行われていると考えられる北米のカリフォルニア稲作農耕でも、稲作がきちんと行われ、大きな収量と良好な品質を誇っているようだからである。すなわち、カリフォルニア稲作農耕では、飛行機を用いた空中散布による大量直播き、あるいは、粗放的な畦畔の管理が行われており、ドライで気体的な稲作農耕を実現できているのであり、この方式を日本に導入することで、稲作農耕を保ちつつ、社会のあり方をドライで気体的な父性優位のものに変えることができると考えられるのである。
(初出2011年10月)
今までの日本は、擬似家父長制であった。男が前面に出て威張っているが、母に操られているのが実態であった。日本男性解放論は、この擬似家父長制を廃して、真の家父長制実現を主張する。
これは、欧米をモデルとしてそれに追いつくという伝統的で陳腐なパターンと見られがちであるが、実際のところ、モデルは欧米でなくても良く、ユダヤやアラブやモンゴルといった遊牧、牧畜社会が広くモデルとなる。
社会を農耕モデルから牧畜モデルへと移行させることが必要である。
(初出2011年8月)
日本において、子育ての責任は、本来、自分の子供を意のままにコントロールする教育ママの母親、妻が取るはずであるが、実際は、子育て、育児から疎外された父親、夫に押しつけられる。妻によって、家父長の文言が便利に用いられる。
日本の父は家父長でないと、家父長と呼べないと、母は困るのである。それは、子育てがうまく行かなかった時の責任をそのままでは取らされてしまうので、女故の保身のためには、他人、父親に責任を取らせたいというもくろみがある。
子育てはうまく行かなかったからといって、親が無責任で済ますわけにも行かない。無責任な親と批判される対象となるのは確実で、そこから逃げる訳には行かず、父親か母親かのどちらか、あるいは両方が責任を必ず取らないといけないのである。
日本社会が本当は母が強い母権社会なのに、あたかも父親が万能であるかのように、家父長制とやたらと呼ばれる理由は、そこにある。
日本では、名目的にせよ、家父長制の文言が、主に母親によって、社会的に必要とされている。それは、母によって作られる「名ばかり家父長制」ないし名目的家父長制である。名目的なのは、実質は母権社会だからである。日本の父親は、子供と積極的に関わろうとしない傾向が強く、子育ての主体たり得ていないにも関わらず、家父長扱いされるのである。
一方、欧米は、実質的家父長制であると言える。子育てに父親がメインで介入してコントロールして、母親は父親に従属する添え物に留まっているからである。
日本では、子育ての実質遂行者、子供の実質支配者は母親であるが、子育ての結果責任者は (特に子育てがうまく行かなかった時の責任を取るのは)父親となるのである。
日本における子育てのもう一つの結果責任者は、学校である。子供が通う学校の教師、校長が責任を取らされる。
日本では、教師がやたらと聖職者扱いされて、ちょっとした行為の落ち度を親によって厳しく責められる傾向がある。教師の責任が過重になっているのであるが、これは本来、母親が取るべき責任の分も負わされているのである。
本来、子供を支配し、子育ての主体となっている、子育ての責任を取るべき母親が、責任を取るのを心の底で避けているので、そこに女性に責任を負わせるのは酷だという社会的な考えも手伝って、母親の周囲(の父親や、学校関係者)に責任が押しつけられているのである。
責任者とは、失敗時に責められる役回りの人のことであり、そこに、女性が責められるのはかわいそうだという社会通念が加わることで、本来、母親が子育てで取るべき責任を、父親や学校が肩代わりしていると言える。
責任の所在が不明瞭になりがちで、誰もが責任を取りたがらない無責任社会日本の立役者は、母であると言える。
(初出2012年6月)
雪国で、除雪をする時に、乾いた雪だと、作業が楽なのに対して、湿った雪だと、雪が重くて作業が大変になるということをよく聞く。
行動様式がウェットな(湿った)父親や男性は、ドライな(乾いた)父親や男性に比較して、重みが増える分、動かすのにそれだけパワーをより必要とするため、見かけ上、より強大に見えるのではないだろうか?
男性や父親がウェットな行動を取りやすい日本や中国、韓国で、男性や父親が強いと勘違いされる原因になっていると考えられる。湿った父は、重い父なのである。
一方、西欧や北米のドライな乾いた父は、軽い(軽快な)父なのである。
(初出2014年11月)
日本の夫婦においては、夫が、妻に家計を握られ、妻から一方的に少額の小遣いを渡されるだけで、欲しいものが買えないということが起きている。
あるいは、自分の家の中で、居場所が無い、例えば、めぼしい広い部屋とか、母子連合体(母子ユニオン)を形成して仲の良い妻と子供に占領されて、自分たちの家具を置かれて追い出されてしまい、夫である自分は、台所の椅子とかに座って過ごすしか無くなるということが起きている。
日本の男性、夫は、息子としては、姑である母にいろいろ厚遇され良い目を見ることができる。夫は、母である姑がいる間は、嫁である妻に対して威張って好条件でいることができる。しかし、所詮は、母=姑頼みなのが問題であり、自分の母がいなくなると、立場が悪くなりっぱなしになってしまうのである。
(初出2012年6月)
日本では、昔から「亭主元気で留守がいい」みたいなことわざが存在し、家の中に夫や父がいないのが望ましいかのような言われ方をしてきた。
なぜ、夫(父)が会社人間であること、会社にばかり居て、家にあまり帰ってこないことが妻(母)によって推奨されるのか?
それは、そうであることで、夫(父)が、妻(母)にとって、妻(母)の権力に挑戦してこない無害な存在で居続けてくれるからである。
夫(父)は家庭内に居場所が無いので、会社にいるしかない。なぜ、夫(父)の居場所が無いかと言えば、家庭内の居場所を妻(母)とその子供が占有、占領しているからである。
日本では、家庭の中で、母と子が強力に一体化しており、そこにはウェットな表面張力が働いており、外から中に割って入れない仕組みになっている。父は、そうした母子ユニオン(母子連合体)に入れてもらえずに、家庭の外に弾き飛ばされる存在である(図)。
家庭に入れない、中に入れてもらえない者同士の吹き溜まりが会社であり、中に入れてもらえない存在が父である男性であることから、会社はそうした男性たちの集まりである「男社会」となっているのである。
日本では、夫(父)も母性的でウェットなので、表面張力のある閉鎖的、排他的なウェットな「会社」空間を形成する。そこには、別の閉鎖的、排他的なユニットである妻(母)とその子供のユニオンは入れないようになっている(図)。
日本の夫(父)は、会社に24時間所属する。あたかも会社というウェットな液体の中に存在しているかのようであり、会社からリストラされるまで、会社の外には出られない(出ても良いが、他に行く所が無く、生存は保証されない)。
夫は、ウェットな会社に全人格的に取り込まれていて、心理的に会社から脱出できず、朝になるとまた仮の居場所の家庭から、本当の居場所の会社に戻って行く。家庭では、母子の一体性の中に割り込むことができず、家庭に居場所が無いので、仕方なく会社に戻って行く、という見方も出来る(図)。
一方、ドライな欧米社会の家庭では、父と子が父から子への命令、指令による強い結びつきを持っており、子との結びつきを父によって断ち切られ、父子関係から閉め出された母の居場所が無い、という状態になっている。これは父の居場所が無い日本の家庭と逆である。父子中心の社会では、父にとっては、会社とかも、仮の一時的な所属の場であり、元来会社から離れたフリーの存在でいることが望ましい、すなわち、父が所属すべきなのは家庭だということになっていると考えられる。
日本の家庭において、もともと夫(父)は、先代の母親(姑)と共に、家庭内の居場所を占有、占領してきた(先代の父を疎外してきた)存在であった。しかし、そこに嫁(妻)が来て、嫁(妻)との間に子供が出来ると、夫(父)は、その嫁(妻)と子供同士が作る母子ユニオンから弾き出されてしまい、夫(父)は、とりあえず姑の加勢を得て、家庭内に居場所を確保し続けるのであるが、次第に姑が高齢化して衰えていくのに比例して、姑の加勢を頼みづらくなり、次第に居場所が消えていくのである。姑がいなくなる(あるいは、次男、三男とかのように姑が最初からいない)と、夫(父)は、家庭内に居場所を持てず、孤立してしまう。そこで、自分と同類の仲間を求めて、会社に足が向き、家庭に居場所の無い者同士つるんで、会社三昧の生活を送るようになるのである。これが日本の「男社会」の生成過程である。
こう見てみると、日本の「男社会」である会社が、実は、お遍路さんの集団と似た存在であることが言える。会社は、家庭から疎外された、はみ出た漂流者同士の寄り合い所帯なのである。お遍路さんが社会からはみ出た漂流者同士の寄り合い所帯なのと根は一緒である。
家庭に居場所が無く漂流する、母(姑)の息子たちは、なのにその割には、嫁や嫁候補になる女性たちに対して上から目線で接するのである。つまり、家には自分が先に入ったのであり、自分は嫁を迎え入れる先輩格の人間であり、姑の子は、息子(夫)も娘(小姑)も、嫁より立場が上であるため、嫁や嫁候補になる女性たちに対して高圧的に接するのである。これが、男(姑の息子、夫)が偉く、女(嫁)が下位だという男尊女卑のように見えて、批判の対象になったのである。
自分自身は、嫁(妻)と子供が作る母子ユニオンに家庭を占有され、居場所が無くなって不利な立場に置かれているにも関わらず、夫(姑の息子)が高いプライドを嫁(妻)と子供に対して示すのは、自分が先代の母子ユニオンで母=姑から可愛がられ優遇される存在だったからであり、日本の農村で先住民が新住民に対して威張るのと根は一緒である。
一方、夫(父)たちの吹き溜まりとしての会社は、その母親の姑にとって大きな意味のある存在である。会社は、母親の姑にとって、息子の保育園、幼稚園、学校の延長のような存在である。母親たちが息子同士を互いに競わせ、自分の息子が、よりよい会社に入社したり、さらにはその中でより上位になることで、あたかも自分が勝者になったかのように感じ、自己実現を図ることが出来るのである。息子の会社でのプレゼンと、幼稚園での発表会とが同じ位置づけをもって、母親=姑には捉えられるのである。その点、会社は、姑たちの所有物である。
一方、嫁(妻)とその子供の次世代母子ユニオンにとっては、会社やその所属者である夫(父)は、現金自動支払機(ATM)みたいなそっけない、単なる打ち出の小槌みたいな道具のような存在になってしまう。次世代の母子ユニオンの維持にとって居心地の良い環境をひたすらマシーン、労働者のように提供し続けるのが、夫(父)の役目となってしまっているのである。
(初出2013年12月)
日本社会において、これまで実現して来なかった父性、父権確立の方法は、いくつか考えることができる。
(1)子育てにおける母子分離を実現し、強力な母子連合体(母子ユニオン)の形成と、それによる母権確立を阻止する。具体的には、欧米のように、子供を乳児段階で、母親から引き離して、一日中別室で独立して過ごさせる。子どもと母親との接触を最小限に抑える。そうすることで、母子の紐帯を切るとともに、子供自身に自主独立で、個人主義といったドライで気体的な父性的な気風を身に付けさせることができ、父性による子育てへの介入の機会を根源的に増やすことが出来る。
(2)家計管理権限、財布の紐を、母や妻から切り離し、男性(父)に行くようにすることで、家庭内の経済的意思決定を、男性(父)が出来るようにする。少なくとも、月々家計管理を妻(母)と夫(父)とで回り持ちで行う家計管理の輪番制辺りを実施することで、妻(母)による家庭の財布の紐独占状態を徐々に切り崩していくことが出来る。
(3)日本社会の雰囲気、国民性をドライ化、気体化することで、男性が父性、父権を確立しやすくする土台を整備する。社会のウェット化、液体化をもたらす伝統的稲作農耕のスタイルを変えて、稲作農耕スタイルのドライ化、気体化を推進する。具体的には、アメリカとかで行われているカリフォルニア式稲作農耕とかの方式を研究し、稲作農耕従事者の水利面等での成員間相互依存や団体行動の必要性の度合いを大きく減らす方式を導入することで、従来の母性的稲作農耕から父性的稲作農耕への転換を図る。
(初出2012年8月)
今の我が家の家計がどうなっているか、見せてほしいと言う。
見せないと言われたら、隠し事、重大問題を抱えているだろう、ますます心配になったと言う。
家計簿を見せられたら、(予め入手したファイナンシャルプランナーとかの模範例と比べて)粗探しをする。ここが駄目だと、ダメ出しをする。こう直せるはずだと言う。
自分ならもっと上手くやれると言う。
しばらく1~2ヶ月任せてもらうよと言って、通帳、家計簿を妻からゲットする。
その間に、家計上の問題を解決する。
これからも自分に任せた方がずっと上手く行くよと言う。
日本社会における父権社会の確立においては、既に父権を確立している社会(欧米とか)の父性的文物を消化吸収することが効果的である。
その際、父性の母性的吸収に陥らないことが必要である。
すなわち、(欧米的な)ドライ、気体的な父性的文物を、(伝統日本的な)ウェット、液体的な母性的精神によって、とりあえず父性的文物が世界的に優勢だから、上位だから導入しようという姿勢で、権威主義的に、愛情みたいなものをもって一体化、受容して、母性化する形で吸収する過程で、本来あったはずの父性が消えてしまう、無効化されてしまう。
日本における欧米文物の母性的吸収においては、一見欧米の価値観に完全に寄りかかっているが、それは欧米が強い間だけの暫定的な姿勢であり、父性的な欧米が弱くなって、母性的な中国が再度台頭すると、吸収対象のあっさり宗旨替えをすることになる。要は、母性的吸収は、その時々の強い者になびいているだけである。
父性を直接吸収するには、吸収する側にも、そこにある程度の父性の素地が無いと難しいと言える。その素地をどうやって母性一辺倒の日本社会に作るかが課題である。
(初出2012年8月)
効果的な日本社会の父性化の方法は何か?
大きく分けて、対子供対策と、対母親対策がある。以下は、順不同で述べる。
一つ目は、母子分離を行うことである。就寝等で、子供を母親とは別室で、母親から大きく離して寝かせるのである。そうすることで、子供は、人と人とが互いに分離したドライな状態が自然であることを体得することが出来る。それを子供に教えこむのである。そうすることで、ドライな父性を、子供に行き渡らせることができる。奥さんを丸め込むには、子供はいずれ自立しなければいけない、その時期は、早いほどよりスムーズになる、と主張すれば良い。赤ちゃんの頃から、特に男の子は、自立の味を心と身体に覚えさせる、感覚を染み込ませることが重要であると奥さんに説くのである。
二つ目は、従来母親が握る家計の財布の紐を、ある程度奪うことである。例えば、家の財布は、夫婦相互に代わりばんこで持つことで、内容を互いにチェックし合った方が家庭の財政が健全になると、奥さんを丸め込むのである。そうすることで、夫が家計の財布を持つ機会をより増やすことが出来、家計管理権限を掌握しやすくなり、父性のイニシアティブを発揮しやすくなる。
三つ目は、結婚するときには、男女平等、夫婦平等を宣言し、男女のパワーの比率を、50:50の対等化するように方針を変更することを、夫婦の間で約束し、奥さんにパワーが偏重しないようにすることを、(奥さんに)促すのである。
※その後、ネット匿名掲示板2ch上の書き込み(「日本人は女性的民族か」スレ)で別途参考になる内容があったので、要約するとともに、筆者の側で内容拡張して以下に記述します。
四つ目は、父親の家庭での子供の教育に参加する頻度や時間の長さを増やすことである。父親が実際に働いて問題解決を行っている姿を子供に見せたりして、父親としての家庭における存在感を高めるとともに、父親が、学校の父母会、PTAとかに積極的に出席したり、毎日仕事から早く帰宅して子供の根本的な勉強方針(単なる学習問題の解き方を教える家庭教師では駄目)、子供が将来就きたい職業の相談への経験者からの助言や子供を理性化する人格教育に直接積極的に関わるとか、子供との接触頻度や接触の質を高めることが必要である。
五つ目は、母親の強い影響下で、そのままではとかく感情的、情緒的な好き嫌い中心の女性的思考に偏りがちな自分の子供に対して、論理や理屈に基づく正誤判断、断定による男性的な思考様式を導入し、物事が何故そうなるのかの理屈、原因を自力で考えさせたり、子供が何か物事を実行する際に、なぜ行うかその理由を、周囲が納得するレベルまでしっかり説明させるとかを行うことで、子供の思考様式を論理化、理性化によって父性化していくことが必要である。
六つ目は、子供に自分自身で考えぬいた上で、決断をさせ、その決断とそれに伴う努力を温かく見守り、決断への責任を自身で取ることを教えることである。父性の特徴は、家族を一定の方向に導くための方向、方針の決定、決断をすると共に、その決断が成功に終わるか、失敗に終わるかについて、成功するように最善の努力をし、いざ失敗したとしたら、潔く責任を認めて、自ら責任をかぶり、減給等を受け入れるところにあると言える。このエッセンスを子供に教えこみ、子供を父性化するのである。
こういうのは特に、父性の本来的な担い手である男の子に対して行うべきであると考えるが、女の子に対しても、そのままでは母親譲りで身についてしまう過剰な母性を切り落として弱体化させるためにも必要であると考える。その結果、欧米の女性のように、男性化してしまい、本来の女性としての魅力が失われることは覚悟しないと行けない。
とりあえず、少なくとも、今の日本の夫のように、父親が子育てから疎外され、参加すらさせてもらえない(すなわち、子育て、子供の教育権限が母親独占になっている)日本社会の仕組みになっているのを変えなければいけない。
女性、妻が家計管理の権限を男、夫に渡せば、日本の男も自然と子育てするようになる。
日本の男が子育てをしないのは、家計管理権限を妻に独占され、お金を管理できない子供扱いされて、家庭運営の蚊帳の外に置かれているからである。
家庭、家族関係は、大きく分けて、
(1)夫婦関係 家庭の基盤となる男女関係
(2)親子関係 父子、母子、義理の父子、母子関係
から成ると言える。
日本の家庭、家族の中の男女の勢力関係は、
(1)夫婦関係に着目すると、日本では、夫=男性が強く見えることが多い。その理由は、
・嫁が夫の家に嫁入りし、夫の家の言うことを聞く必要がある。
・男尊女卑で、夫が威張っている。
・稼ぐのが主に夫であることが多く、妻、嫁はあまり稼げておらず、経済的に夫に依存せざるを得ない。
こうした点を強調して、日本の家族は家父長制だという主張が、日本の社会学者の間では主流になっている。
一方、妻=女性が強く見える側面もある。
妻が家計管理の権限を独占していることが多く、小遣いを夫に渡す場面が多く見られる。小遣いは渡す財務大臣役の方が、もらう方より地位が上である。
(2)親子関係に着目すると、日本では、母=女性が強い。子育ての権限を独占し、教育ママゴンとか呼ばれ、怪物扱いされている。子供を自らの母性の支配下で動く操りロボットにすることにすっかり成功している。一方、父は、子供と関わりをあまり持とうとせず、影が薄い。
こうした母親の影響力の大きさを考慮して、日本社会は母性社会だという主張が、日本の臨床心理学者の間で主流になっている。
このように、夫婦関係を見た場合と、親子関係を見た場合とで、日本の男女の勢力に関する見方が分裂しているのが現状であり、両者の見方をうまくつなぎ合わせる統合理論が必要である。
筆者は、両者の見方をうまく統合させる契機として、「夫=お母さん(姑)の息子」と見なして捉えることを提唱する。
家父長として強い存在と思われてきた夫が、実は、母、姑の支配下に置かれる操りロボットとして、実は父性が未発達の、母性的な弱い存在であることを主張する。
日本において、子育てを母が独占し、子供の幼少の時から、強力な排他的母子連合体(母子ユニオン)を子供と形成し(母が支配者で、子が従属者、母の操りロボット)、この母子一心同体状態が子供が大人になってからもずっと持続し、この既存の母子連合体が一体となって、新入りの嫁を支配するという構図になっている。このうち、「母の息子=夫」と嫁の間のみを取りだして見ると、夫が嫁である妻を支配するという従来、日本=家父長制社会論で主張されてきた構図が見える。しかし実際には、夫は、母である姑に支配されており、その姑と一体となって、嫁を抑圧しているに過ぎない。
日本の夫婦における勢力関係を正しく把握するには、夫婦(夫妻)だけを見るのではなく、夫婦(夫妻)のうちの夫側に、母のくさびを打ち込むことが必要である。あるいは、母や姑が一家の実質的な中心であり、真の支配者であるとする「母」「姑」中心の視点を持つことが必要である。
夫婦だけを見るのでなく、
・母~息子(夫)←(何人も割って入ることを許さない母子連合体、ユニオン)
・姑~嫁(妻)
・夫(母の息子)~妻(嫁)
の3つを同時に見る必要がある。夫の父(舅)は、一世代前の母の息子のままの状態であり、影が薄い。夫の姉妹は、小姑として、夫同様、姑中心の母子連合体の一員として、嫁を支配する、姑に準ずる存在である。
夫は、妻にとっては一見強い家父長に見えながら、実際のところは、いつまで経っても母の大きい息子のまま、母に支配され、精神的に自立できない状態にある弱い存在であるという認識が必要である。
母の息子である夫、父は、一家の精神的支柱である母と違い、家父長扱いされながらも、母に精神的に依存し続けて一家の精神的支柱になれない、ともすれば軽蔑され見下される存在と成り下がっているのである。
夫は、仕事にかまけて子供と離ればなれになっているが、実は、この仕事が、夫の母の代わりに行っているというか、母の自己実現の代理になっている。会社での出世昇進とか、一見、夫が自分自身のために頑張ってしているように見えて、実は、夫自身が母の中に取り込まれ、母と一心同体となって母のために頑張って行っているというのが実情である。母が息子の出世昇進に一喜一憂し、夫にとって、自分の人生の成功が、そのまま母の人生の成功になっている。また、夫が会社で取る行動は、会社人間のように、会社との一体感、包含感を重視する、とかく母性的なものになりがちで、彼を含めた会社組織の男性たちが大人になっても母の影響下から脱することが出来ていないことを示している。
筆者は、こうした、
・母(姑)による息子=(妻にとっての夫)の全人格的支配
・妻による家計管理の権限独占に基づく夫の経済的支配
の両者を合わせることで、日本の家庭~社会全体において、母性、女性による男性の支配が確立しており、日本は、実は、母権社会、女権社会である、と主張する。一家の中心は、母、姑である。
欧米の権威筋の学説(Bachofen等)は、母権社会の存在をこれまで否定してきており、筆者の主張はこれに正面から反対するものである。
日本人の国民性と男女の性格との相関を取ると、日本人は女らしい(相互の一体感、所属の重視。護送船団式に守られること、保身安全の重視。リスク回避、責任回避重視。液体分子運動的でウェット・・・)で動いているという結論が出る。これは、日本社会が、女権、母権社会であることの動かぬ証拠と考えられる。日本人は、姑根性(周囲の、後輩とかの嫁相当の目下の者に対して、口答えを一切許さず、妬み心満載で、その全人格を一方的、専制的に支配する)で動いており、このこと自体が、日本社会における母、姑の影響力、支配力の強さを表している。それゆえ、日本の社会、家族分析に、姑中心、母中心の視点を取ることが必要であると言える。
従来の日本男性は、母や妻による支配を破ろうとして、がさつな乱暴者、あるいは雷親父となって、ドメスティックバイオレンスとかで対抗してきた節が見られるが、暴力を振るうだけ、より家族から軽蔑され、見放される存在になってしまう結果を生み出している。あるいは、家庭の外の仕事に逃げようとするが、仕事に頑張ることがそのまま母の自己実現になるという、母の心理的影響、支配を振り切ることはそのままでは不可能である。
こうした女性、母性による日本社会支配は、日本社会の根底が、女向きの、水利や共同作業に縛られた稲作農耕文化で出来ているために生じると考えられる。そこで、筆者は、日本男性は、従来の伝統的稲作農耕文化から脱却して、新たに、家父長制の本場である欧米やユダヤ、アラブ、モンゴルといった遊牧、牧畜民の父親のようなドライな父性を身につけることで、母と妻に対抗できるようにすべきだ、母と妻の支配から解放されるべきだと主張する。これが、日本男性解放論である。要するに、子育てと家計管理において父権を確立することで、父親として真に社会で支配力を持った、尊敬される存在になろうと呼びかけるものである。筆者は、その際、稲作農耕を、伝統的な日本方式から、よりドライなやり方のアメリカのカリフォルニア方式に改めることで、稲作農耕を維持しながら、ドライな父権を社会に実現できると予期している。
筆者は、最終的には、男女の力関係は、対等の50:50が望ましいと考えている。これが、究極の男女平等であると主張する。欧米みたいに、男性、父性が強くなり過ぎても、日本みたいに、女性、母性が強くなり過ぎても良くない、適度なバランスが必要と考える。家計管理を、夫と妻が1月交代で行う月番制導入とかである。
(初出2012年6月)