無神論
-脳神経科学で生きよう!-
2014-2016 大塚いわお
この本は、エッセイ形式でまとめられています。各記事は、筆者が執筆した順番に並んでいます。
どこから読み始めてもOKです。
現状では、人間の内心は、外からはうかがい知ることが難しい。
殺人や詐欺のようなどんな邪悪な意図を抱いていても、外観で素知らぬ顔をされると、この人は別に悪い人ではないように思えてしまう。
なので、どうしても人間は、見えないところで隠れて悪いことをしがちである。
そうした人間の内心を絶えず監視して、悪いことをしないように導く役割を果たすものとして人間が考え出したものが、いわゆる宗教における神の存在である。
神によって絶えず内心を見守られるように思いこむことで、自制心が働き、悪いことをしないようにしようと、外在的な、仮想の力ある存在に頼って、良心を維持しようとしてきたのが、今までの人間である。
しかし、神は、あくまで人間が仮想で作り出したご都合主義の産物で、実際に存在するわけではない。あくまで信心する限り有効な代物であり、科学の発達によって宗教心が薄まると、その効力は急激になくなると考えられる。そうなると、神という外部の監視者を失った人間は内心に良心を維持することがそのままでは難しくなると考えられる。
では、科学の時代になって、人間の内心を監視する、良心を維持するためのしくみとして何が考えられるだろうか?
一つ考えられるのが、人間の脳の特定箇所~全体の活動を読み取るMRI、脳血流パターン読み取り装置、神経回路の活動読み取り装置みたいな機械、ハードウェアの活用である。要するに、人間の脳の活動を監視するハードを極力小型化、省電力化して、軽いヘルメット、ヘアバンドで、太陽電池~軽量充電池ベースで、個人が、いつでもどこでも、寝ているときでも絶えず着用することを、人類に普遍的な法律で義務づけるのである。
脳活動測定、監視ヘルメット、ヘアバンドを着用することで、人間がある特定の考えを抱くと、その考えを抱いたことをチェックして、ヘルメットに装着されたランプ、ないし遠隔地のモニタに、その旨表示されることが可能となる。他人の心理状態がヘッドセットで無線経由でみれるようになるのである。
つまり、人間が、嘘をついたら、その嘘をついた時に脳の活動上現れる特異なサインを脳活動監視ヘルメットが読み取って、周囲にランプ、電波等で表示して知らせる、警告できるようにするのである。従来皮膚を測定していた嘘発見器を、脳活動を測定することで精度を向上させるのである。
あるいは、人殺しや詐欺のような邪悪で危険な考えの持ち主について、そうした邪悪な考えを持ったときに脳の活動上現れる特徴的なサイン、パターンを、ヘルメットが読み取って、周囲にこの人は悪い人ですよと公然と知らせることができるようにする。もちろん、インターネットや電話の向こうの取引相手にもその通知が正しく行くように、情報システムを構築、維持するのである。
あるいは、怒って興奮している心理状態の人の内心をヘルメットで検知して、この人に近づくと機嫌が悪くてひどい目に遭いますよ、とかが、周囲からランプや特定電波の発信でリモートで分かるようにするのである。
犯罪を人知れず犯して、素知らぬ顔をしている人の、ばれては困るという不安な内心をヘルメットで特別に感知して、この人は隠れて悪いことをしている犯罪者ですよ、とかが、周囲からリモートで分かるようにするのでもよい。ヘルメットの脳内監視情報と、GPSの位置情報と組み合わせて、悪いことをして隠したがっている人が、この町内にいますよとかが、周囲に分かるようにするのでもよい。
一方、人助けとか、平和な気持ちとか、よい考えの持ち主については、そうした良好な考えを持っていることを、脳活動から読み取って、この人は、危険人物ではありません、安心してくださいとか、良い考えの持ち主です、ということで、良心、善意ポイントがたまるようにして、たくさんたまったら人徳の高い聖者です、ということにしてもいいかも知れない。
要するに、脳活動監視ヘルメットが、脳内の心理状態を測定し、チェックすることで、人間の内心の監視者として機能し、人間に良心の発生を促すようになるのである。その点、従来の見張り役である神が要らなくなり、宗教も要らなくなる。脳科学の進展が、宗教を、神を克服できるのである。これは、一種の科学革命である。
ヘルメット装着を義務づけることにより、ヘルメットを装着していない人間自体、内心に悪意を抱いているのでそのままではヘルメットを装着できない危険人物だと、割り出すことも可能である。
むろん、プライバシーとの兼ね合いがある。個人の脳の活動の全てを洗いざらい外部にヘルメット経由で公開してしまうのは、プライバシーの侵害となる。自分の内心の考えが皆外部に漏れてしまうと考えて苦しむ統合失調症患者が抱える問題と同様の問題が、ヘルメット着用者に起きてしまうだろう。なので、少なくとも、当初は、個人が内心に悪意を抱いていることを外部通知する、摘発する機能に絞って、ヘルメットを製作した方がいいかも知れない。
(2008年9月 初出)
-神経系と霊魂-
霊魂(spirit)は、神経系の活動している状態、すなわち神経回路上を通る電気的なインパルスの発火~伝達の集合体である。
霊魂は、個別の神経回路(の活動)に、バラバラに分解して考えることができる。
その点、霊魂は、人間だけでなく、神経系を持つ動物一般に広く存在すると言える。
例えば、カナブンのような昆虫にも、神経系が内蔵されている以上、魂は存在すると言える。
あるいは、テレビやPCのような電化製品も、電源が入っているときは生きている、魂を持っていると言える。電気回路を電流が生きて通って、流れているからである。
死ぬということは、神経系や電気系統の上を、インパルスや電流が流れなくなる、電気が消えることと同様である。
電気製品は、コンセントを抜く度に死ぬのである(内蔵バッテリーのある場合は、内蔵バッテリーも同時に抜くことで完全死させることができる)。
生物~人間の場合、神経系に酸素が送られなくなり、あるいは脳の物理的破壊によって、神経系が不活性化し、電気的なインパルスが伝達しなくなり、冷たく、動かなくなった時点で、死んだことになる。
魂は、電気的な存在であり、死んだ時点でその場で消滅し、独りでに天に昇ったりすることはない。その点、死後の世界は、天国、地獄共に存在しない。
死んだ人の霊魂はどこにあるか?どこにも存在しない。神経系の活動の停止と同時に、その場で消滅したと考えられる。
死後の世界の存在を前提とした世界の諸宗教は、死後の世界を存在しないものとした現世完結の内容に改められるべきである。
(2008年9月 初出)
無宗教、無神論者でも、
・他人の生存の役に立つこと(労働でも何でも良い)
を日々実践して、なおかつ、
・具体的にこういうことをしたら、他の人の役に立ち、喜ばれた、という善行のノウハウ
・自分の、これは人が生存していく上で重要であり残したいと思う自分の信念、教訓
・具体的にこういうことをしたら、他人にも自分にも利益になる、需要がある、なおかつ社会的に害悪を生み出さないというビジネス・ノウハウ
を、日記やレシピとして、文書化し、
・自分の遺伝的子孫に代々伝える
・自分と関係の深い、自分が思い入れのある組織、集団(会社とか官庁とか)の構成員に代々受け継いでもらう
・後世にデータを残してくれる信頼の置ける機関、施設(日本の国立国会図書館みたいなところ)に送付して、後世に残す
ことで、無宗教、無神論者でも、その人は、後世の社会から讃えられ、救われると言える。
自分の考え、創意工夫やノウハウが後世にずっと残り続けることで、半ば永遠の命を得たのと同じことになる。
(2014年4月)
今まで出てきた、宗教の神は、全て人が考え出したものであり、人間の知能の枠内を出ていない。
その点、それら宗教の神は、皆、人造神と呼べる。
それらの神は、押しなべて人間臭いものに転化せざるを得ないのであり、人間の作成物の範疇を出ていない。
(2014年4月)
大自然の猛威は、人間側の事情等を一切考慮せずに、人間をひたすら翻弄する。
大自然は、そもそも人格を持たない、物理化学的存在である。人格を持つ神とは無縁の存在である。
大自然を、天の神みたいに、人格化して、何とか自分たちと対話できる存在へと転化させよう、自分たちと対話してくれると思い込もうと、人間はしてきたが、ほとんど意味が無いと思う。
大自然の産物を人間が、顕微鏡とかでいじって分析すると、それに対応する結果が得られるため、それが、大自然と人間との対話と呼べる。
(2014年4月)
ある人間を救うのは、他の人間であり、神みたいな作り物の存在ではない。
救いの無い社会だからと、人造神に祈るのではなく、自分でどうしたら救いの得られる社会になるのかを、自ら試行錯誤して生み出し、実践する人が、どの宗教に属さなくても、本当の聖人である。
(2014年4月)
人間の霊魂は、その実体は、脳のニューロン群の電気発火活動の集まりである。
心臓が停止することで、脳に酸素が行かなくなると、脳のニューロン群、神経細胞群は、エネルギーを断たれ、発火するのを停止していき、しまいには、どの細胞も発火しなくなり、死んでしまう。
その時点で、人間の霊魂は、どこにも行かず、その人の脳の中で消滅するのである。
死んだ人の霊魂は、天国にも地獄にも行かない(天国、地獄は脳の中のニューロン群の働きが知られていなかった時代に、人間が創り出した概念に過ぎない)。霊魂は、ただ消え去るのみである。
(2014年4月)
神を信じなくても、バチは当たらない。そもそも神は人間が作り出した実体の無い存在であり、存在しないので、何らかの働きを人間にもたらすということはあり得ない。
むしろ問題なのは、宗教を信ずることで既得権益を得ている人からの、神を信じない人に対する攻撃や、援助の打ち切りであり、これが「神を信じないとバチが当たる」ことの正体である。
(2014年4月)
墓は、生前のその人やその家族の行いを、後世に残すための一環の、物質的なモニュメントである。
人間の霊魂は死ぬとその瞬間消失するので、例えば墓にご先祖様の霊が宿っているとか、普通に考えてあり得ない、頭の悪い考え方である。
ご先祖様の人骨を保存しておくことで、後でDNA解析して、思わぬ有効な遺伝子が発見されるとかはあるだろう。ただし、人骨は物理的な存在であり、只の化学物質なので、それ自体拝んでも、何も出て来ない。成仏とか考えても意味が無い。
墓は、生前のその人をもう一度思い出させ、頭のなかに蘇らせて、偲ぶことで、墓参りした人に、故人の残した、生きていく上で有効な教訓を思い出させたり、故人の残した生活上、仕事上のノウハウを、頭の中で活性化させ、そうすることで墓参りした人に生きる勇気、知恵を与えるものである。
なので、墓に、そうした故人の教訓を一緒に記録して閲覧できるようにしておくと、皆、墓参りするようになるだろう。
(2014年4月)
人間の霊魂=脳神経系の電気活動は、人間が死ぬと停止し、そのまま消滅する。
よって、人間に死後の世界は存在しない。
なので、天国も地獄も存在しない。
ある人間の死後、存在し続けるのは、その人がセックスして生み育てた遺伝的な複製=子孫たちと、その人が生前他人に伝えた各種ノウハウ、あるいは、その人の生前の動向を記録したドキュメントだけである。
死後、人間は天国にも地獄にも行かないが、あえて言えば、生前の言動が記録されて、後世に伝わることにより、後世で良い行為をした人だと讃えられれば天国に行ったことになり、後世で憎悪、抹消の対象になれば地獄に行ったことになるのと同等だと言える。
(2014年4月)
昔、神や宗教の概念を人間が発明した際、脳神経科学はほとんど発達しておらず、脳の中はブラックボックスであった。
そのため、人間は、自らの中に霊魂が宿ると、勝手に解釈した。
また、死後も霊魂が身体から抜け出して、天国や地獄といった仮想世界に出向くと、勝手に想像した。
現在、急速に研究が進んでいる脳神経科学の知見からは、霊魂、精神の実体は、脳の中の神経細胞同士の形成した神経回路網で発生するインパルス、発火と、その細胞間の伝達現象であり、電気現象の一種であると考えることが出来る。
人間の脳は、電源コンセントを抜くと画面が消えてしまうテレビと同じと考えられる。
脳に酸素が送られなくなったり、脳が破損すると、神経回路網が死んだり、破壊されたりして、脳死になったり、人格、記憶等の精神現象の変化につながる。
霊魂は、脳神経系の活動そのものであり、人間が死んで、脳の神経細胞が死滅して、発火しなくなることで、ちょうど電源を切ったテレビのように、その場で消滅すると言える。死後は存在し得ないのだ。
霊魂は、身体からは抜け出せない。MRIみたいな機械経由で活動状態を外部コピーするしか無い。
言わば身体霊であり、遠く離れたどこかの空間かが想定される、天国、地獄には、例え有ったとしても行きようが無い。
天国、地獄は、地球上、宇宙上のどこからでも便利にアクセスできるクラウドサービスだ。もし、存在すればだが、霊魂が飛んで行けない以上、存在しないと言えるだろう。
もしも、今後、人間の脳の神経回路網を外部コピーして、クラウドサービス上にそのコピーデータを置き、その中身の良し悪しを判定する装置が出来たら、それが人造の天国、地獄なのかも知れない。
現状では、身体から独立した霊魂も、天国、地獄とかも存在し得ない。
また、人間の脳は、他の生物の脳と、発達部位が異なってはいるが、基本的な作りは共通性が多い。
これは、同じ起源の、元は単純な作りだった生体が、突然変異を繰り返して、別々の複雑で多様な種類になってきたということで解釈出来る。その点では、人間の脳の生成も、創造主の神によって作られたとか主張しなくても、普通に遺伝学で説明できるのである。
神のような創造主を持ちださなくても、特に問題なく、説明、解釈できるということは、神の概念はもはや不要になっているということである。ヤハウェとか、人間の頭のなかで勝手に生み出した父親代わりの便利な人造神であり、脳の中身が分からなかった時代は、沢山活用されてきたが、脳の解明が更に進む将来、使命を終えるだろう。
よって、神や宗教の存在は、脳神経科学や遺伝学の発達によって、消される、否定されることになると言える。
(2014年4月)
自分の生きた証が、後世に残ることが、生物やその一種の人間にとって最も大切なことであると言える。
それは、生きた生体の子供や孫(遺伝子のコピー)であったり、図書館とかで保存される自筆の原稿(文化的コピー)だったりする。
あるいは、報道機関のニュース記録やカメラで撮影した映像記録だったりする(イベントのコピー)。
隠遁者やひきこもりの人も、自分の思索を記録に残し、文書保存機関に送付しておけば、生きた証が残せると思う。
死後の世界があると考える宗教は、人が生きている間に、そうした生きた証を作ることを、「現世よりも来世を重視せよ」という言説で邪魔しているので、問題である。
(2014年4月)
解剖図とかを見ると、生物の脳と人間の脳とに、本質的な違いは見られず、同型である。
イルカとか、そうである。
人間の脳は、生物の脳の一種であり、他の生物との間で、その出来栄えで一線を引くことは困難である。
人間だけを特別扱い、選民扱いする既存の宗教や人造神(キリスト教とか)は、それだけで間違っていると言える。
(2014年4月)
善行を行う人は、何らかの手段によって救われないと行けない。
悪行を行う人は、何らかの手段によって罰せられないと行けない。
そうしないと、人間社会のモラルが崩壊するからだ。
ただし、人間の脳の中の状態は、現状では簡単なものしか分からないので、誰が本当の善人、悪人なのかが判断できない。
人間は、この問題を解決するために、人造で、神の概念を考え出し、善行を行う人を常に見守る、悪行を行う人を常に監視する、と持って行き、一人ひとりの人の行動をコントロールしようとしたのだ。
しかし、脳スキャンの技術が進歩して、人の善意、悪意の存在部位とか、その活動状態が分かれば、そうした神による見張りという考えは不要になるだろう。
なお、善行を行うチンパンジー、イルカは救われないと行けない。
働き者の蟻も救われないと行けない。
生物の脳も、種によって、単純~複雑な善意、悪意の機能を持っていると考えられるからである。
これも、神の概念を持ちださなくても、脳スキャンで可能になる日が来るだろう。脳が単純で仕組みが分かりやすい分、人間より早く実現できそうな気がする。
(2014年4月)
親切で良い人を、神無しで生み出すことが必要である。
従来、宗教者、宗教の信者の中には、その振る舞いが親切で良い人で、一般人がそれに感銘を受けて、詳しい教義は知らないけれどとにかく入信するということが多かったようだ。
しかし、宗教者や信者が善行をするのは、往々にして、良いことをしているかどうか神が常に見張っているとか、良いことをしないと死後天国に行けないとかいう意識が後ろに存在することが多い。
そこで、考え方が、神に常に見張られているので良いことをしようと他律的だったり、天国で死後良い思いをしたいというように隠れ快楽主義的だったりで、心の底から善行をしたくてしている訳では無さそうなのである。
善行を生み出す人が社会的に必須であるのは、人間社会の日々の営みが彼らの努力にかかっている以上、避けられないことである。
しかし、本当は、神の概念を持ちださなくても、人々が自発的に善行を出来るように後押しするもっとマシな仕組みを人間は、そろそろ作るべきではないだろうか?
(2014年4月)
神や宗教無しで、人々に善行を起こさせる気にするには、単純な事実を人々に提示するだけで良い。
それは、親切な良い人、他人の生存に貢献する人の方が、冷酷残忍な人よりも、後世に生き残りやすい、ということである。
親切な良い人の方が、恋愛で相手が離れて行きにくく、結婚に結びつきやすい。それゆえ子供も持ちやすく、自身の遺伝的コピーを後世に残しやすいということになる。
また、親切で良い人の方が、もしも同じ能力、職場条件であれば、冷酷残忍な人よりも、職が長続きし、生活に必要な資金を蓄積しやすいため、生き残りやすいということになる。
また、他人の生存に貢献することをした人の方が、賞とか取りやすく、その功績が後世に伝わりやすいというのもある。
あるいは、他人の生存に貢献することをした人のほうが、大きな報酬を受け取りやすく、経済的に余裕が出来て、子孫を残しやすいというのもある。
このように、親切な良い人で、他人に貢献する人ほど、後世に、遺伝的、文化的子孫を残しやすい傾向があると考えられる。
他人の役に立つほど、善人であるほど、その人の生きた証が後世に残りやすくなる、ということが生物学的に証明されれば良いのだと思う。この証明が実証されれば、神や宗教を持ちださなくても、人々は自然に善行に励むようになるだろう。
冷酷残忍な人も、その酷い行いで歴史に名を残すことが多いが、マイナス価値のスティグマの付いた反面教師として残ってしまうので、人間社会が存続する間、ずっと悪人扱いされることになり、これも、そうした事態を避けたい人々に善行をさせることにつながると言える。
こうして、神や宗教は不要になると考えられる。
(2014年4月)
他人の役に立つことをするのを怠っていると、会社とか徐々に衰退して、滅びてしまう。
衰退しないためには、他人の役に立ち続けることが必要である。
他者の生存に役立つことをするほど、その人や、その遺伝的、文化的子孫が生き残りやすい仕組みを社会的に作り上げることが、神頼みで自分に有利な生き残りを模索する人生のあり方や、神や宗教そのものを不要にするには、一番効果があると言える。
(2014年4月)
ある人が、人の生存を危機に陥れること、人が生き残れなくなるようなことをすると、マイナス価値の付く反面教師として後世に残ってしまう(ナチス・ドイツのヒトラーとか)。
人間は、プラス価値として後世に残る方が、マイナス価値として残るよりも良いのであり、それを望むのである。
それが、神や宗教を持ちださなくても、人間に良心を働かせ、善行を行う原動力となると言える。
(2014年4月)
人間が救われるには、難しい宗教的修行とかしなくても、とにかく他人の生存の役に立つこと、他者の生活を楽にすることを何かしら実践して成果を上げれば良い。
そのように他者の生活を楽にすることに貢献した人は、困ったときに他者からの援助を受けやすくなり、救われやすくなるのである。あるいは、後世まで、プラスの価値として、名を残すことが出来、その点でも救われる。
情けは人のためならず、である。
(2014年4月)
人間は、有機物質の一種である。
人間は、地球上の生命誕生からずっと続く遺伝的変化の過程にある。
遺伝的変化は、より良くなる進化とは必ずしも言えない。
また、人間が、生物として、一時的に盛大な勢力を誇っても、結果的に生き残れなければ何もならない。それは、絶滅した恐竜の例を取っても明らかである。
現代の人類が生物の頂点に立つ完成形であったかどうかは、後世の地球や宇宙が決めることである。
人間の脳は、たまたま大幅に大規模で高機能になったおかげで一時的に成功したように見えるが、最善な解なのかは、ずっと時を経ないと分からないことだと思う。
(2014年4月)
従来の神、宗教の本当の存在意義は、貧乏で無力で無名で気が小さいが、善意があって徳がある、心の清い人を救済する仕組み、功績を讃える仕組み、評価する仕組み、その存在を後世に残す仕組みが必要なためである。
そのままでは、彼は、その存在を後世に残すことが出来ないのである。
既存の人造神や宗教は、まさにこの働き、仕組みを、死後の天国に彼らを招き入れるというアイデアによって、見かけ上実現している。見かけ上なのは、実際は天国は仮想の実態のない産物だからだ。
要するに、現状、彼らを救済、評価する手段が無いため、宗教の天国の概念でお茶を濁しているのである。
悪人も同様で、なかなかその脳内の実態が外から分かりにくいため、とかく罰しにくく、宗教の、悪人は地獄に落ちるというアイデアでお茶を濁しているのである。
無神論は、上記の神、宗教を代替する仕組みを用意しなくてはならない。
人間社会は、何らかの形で、善意を心の中で持っている、心の綺麗な人に、現世、ないし後世で報いる必要がある。
脳のどの部位に心の清さ、綺麗さ、善意、良心が宿っているかを同定して、脳をMRIみたいな装置で定期的にスキャンして、心の清さ、綺麗さの診断を行い、善意、良心の存在確認を証明する証明書を発行したり、感謝状を発行したりして、かつそれらを後世に本人のDNAや脳自体と一緒に残すことが必要になってくる。
善行は、周囲の人々をより生きやすくする、人々の生存力を高める何らかの行為であると言える。
善行が、脳の神経回路網の配線のつながり状態を、浄化する、清めるという風に解釈をして、そのような善行、良心によって浄化されている、清められている状態の脳自体を診断評価できるようにする仕組みが必要である。
脳の中の善意、悪意、ないし善行、悪行の存在を、MRIみたいな装置でスキャン、測定、記録して、讃える(罰する)仕組みが必要である。すなわち市中に存在知る名も無き聖人の脳を、他の人が讃え、後世にその神経回路網のコピーを残す仕組みが必要である。
この世は人間の欲望まみれで不快なことだらけなので、せめて善行を人知れず積み重ね、死後は天国で楽しく暮らしたい、というのが今までの名も無き善人のパターンだったが、今後は、自分の脳の善行度を、機会があるごとにスキャン、測定、診断(善人度診断)して、自分は善人であるとその都度確認し、その記録が後世に残るようになることが、これからの名も無き善人のパターンとなる。
診断記録は、プライバシーを付けて守秘するか、公開するかを本人によって選べるようにすれば良いと思う。
こうした脳スキャンは、犯罪の被疑者が、本当に犯罪を犯したか、同定するのにも使え、冤罪を無くしたり、真の犯罪者を捕まえるのに役立つと言える。政治家とかの真意を正すのにも使えるだろう。
従来の神、宗教のもう一つの存在意義は、人間が、自分と似た、より大いなる存在によって守られるのを望むため、その大いなる存在を人造神の形で作り上げたのである。
一人の人間を超えた大きな存在として、神は、人間の国家、全体社会に似ている。違うところは、神が手抜き、怠け、殺し合いとかといった、人間の生きやすさを脅かす悪行を許さないことである。そのように、人間の生きやすさを脅かす悪行を許さない仕組みを、神の概念を持ちださなくても、人間自身が考えていかないと行けない。無神論は、これをサポートする必要がある。
(2014年4月)
既存のキリスト教とかだと、神は、一人ひとりの個別の人間の心にアドバイスしたり、対話したりする存在となっている。
これは、神が思考をしていることを示している。
ある存在が思考をするには、何らかの形で、物理的な神経回路なり、論理回路なりが必要となる。
つまり、神は、物理的な巨大な神経回路、論理回路を、地球上~宇宙空間のどこかに持っていないと行けない。
かつ、それらの回路は、一人ひとりの人間を認識する視覚回路とかを含んでいないと行けない。
このような回路の生成、維持が、物理法則で可能なのであろうか?はなはだ怪しいと言わざるを得ない。
よって、神は存在しないと言える。
(2014年4月)
無神論、無宗教は、地動説と似ている。それは、正しい説でありながら、社会一般にすぐには受け入れられず、大きな抵抗をもって社会に迎えられた点である。
かつては、地球と他天体との関係は、天動説で専ら説明されていた。キリスト教とかが支持しており、一般人もそれを広く受け入れ、疑いのないものと信じていたからだ。
そこに、コペルニクスが地動説を打ち出したが、コペルニクスは、自身の学説が社会に与える影響を恐れて、生前著書の発表をしなかった。その後、キリスト教の教会は、地動説を唱えたものを弾圧した。
なので、社会での人々の考えが、天動説から地動説に変わるまでに、大きな抵抗が存在したのである。
天動説から地動説への切り替えが180度で、コペルニクス的転回と言われたように、有神論から無神論への切り替えも180度の転回だと言える。
今は、まだ有神論が圧倒的に優勢で、無神論は虐げられた状態にある。
これを変えるのは、分子遺伝学で生命の解明が進むのと同時に、脳神経科学で、人間の心や魂の解明が進むことである。これらが有神論から無神論への180度転回が成し遂げられる原動力となるだろう。
(2014年4月)
現状、無神論を主張する人が少ないのは、無神論を主張すると、社会的に疎外され、孤立の道を歩まなければならないからである。
皆が、半分胡散臭いなと思いつつ、宗教を少なくとも見かけ上信じている様子を見せるのは、宗教が、人間社会のコミュニティの根幹を、今なお掌握しているからであろう。
宗教を信じないと、今の人間は、社会的に生きていけない。宗教を信じない自由が今の社会には、あまり無いのである。これは、キリスト教、イスラム教の国や社会で顕著である。
日本は、一見無宗教に見えるが、実は、信じられる宗教は何でも信じる、神社にも、仏教の寺院にも、キリスト教会にもお参りする、多宗教同時信仰の社会である。何でも良いので、何かしら宗教を信じていないと、他者から爪はじきされ、社会的に居場所が無くなるのは、同じである。
無宗教の人間同士が、協力して、宗教の布教みたいな感じで、無神論を社会に広く流布させ、認めさせる社会的機関、団体の存在が必要だと思う。世界の無神論者同士が手を取り合って、協力機関を作り、その存在を社会に認めさせることが必要だ。
(2014年4月)
神は、人間の願望、依頼心を叶えてくれる仮想の存在として、人間が作り上げたものである。
その点、宗教は、「願望、依頼心の体系」と言える。
人間は、常日頃、
・自分のことを助けて欲しい、守ってほしい
・自分のことを見つめて欲しい、見守って欲しい
とか、
・永遠の命を与えて欲しい
などといった願望、依頼心を持っており、その願望、依頼心を叶えてくれる存在を欲している。
そうした願望、依頼心を叶えてくれるのは、自分たちを超越した「大いなる存在」「オールマイティな存在」で、かつ自分たち人間と相似の「超人」であることを望むのである。
それは、マイナス面を持たない、完璧で、パワーのある、超越した能力を持つ、強力な存在である。
逆に言えば、人間の存在が、マイナス面が多く、不完全で、弱いものであることの現れであり、その補強のために神のような存在を、人間は欲するのである。
無神論は、結局、こうした神の存在を否定することで、何かに頼らずに、人間だけで何とかやっていこう、生存のための解決策を見つけていこうとする行き方であると言える。その点、自立、自助の思想であるといえる。
(2014年4月)
神、宗教を求める人というのは、実際には、どこかの相互扶助コミュニティに入りたい人のことである。
それは、コミュニティ、グループに入って、安寧、安心を得たいというものである。
他のグループ員がいざという時助けてくれることが望める。
あるいは、いざという時、救われて、皆の待っているところに行けることが望める。
そうした相互扶助コミュニティは、統合のシンボルとして救い主の神を設定していることが多いのである。それが宗教である。
ただし、統合のシンボルは、神の代わりに偉人のことも多い。無神論の場合は、例えば、偉人が相互扶助コミュニティ統合のシンボルとなる。
戦前の日本のように、人間がそのまま神扱いされていた、現人神であった社会もある。
無神論の場合はそうではなくて、偉人は、あくまで等身大の人間であり、超能力とかは持たず、それなりに限界のある存在として捉えられるのである。
偉人にも欠陥、限界が存在することから、統合のシンボルとしては適切で無いという考えが当然存在すると考えられる。その場合は、人間にとっての理想となる概念、例えば、永遠とか高潔とかいった抽象概念、キーワードが、統合のシンボルとなる。これが、無神論のコミュニティの統合シンボルとしては、一番適切と考えられる。
人間にとっての理想を掲げ、その実現を追求することが、無神論の時代の相互扶助コミュニティのあり方である。
(2014年4月)
無神論は、神といった超人的な存在の加護が無い、そのまま等身大の小さな弱い欠点だらけの存在としての人間を、そのまま見つめ、受け入れ、その人間だけで何とかやっていくためのアイデアを皆で考え出して行くための思想であると言える。
人間社会を動かすのは、所詮は人間である。社会をうまく動かすには、誰にも頼れず、人間の知恵だけで何とか回すしか無いのである。
コンピュータとかも人間の知恵の産物であり、コンピュータの限界は、そっくりそのまま人間の限界である。
こうした事実、この世には超人的な存在の加護は無いのだ、自分たちだけで何とかするしか無いのだという事実を人間が率直に受け入れることが、無神論受容への始まりであると言える。
(2014年4月)
キリスト教とかでは、人間は、もともと罪を持った存在であり、それを救い主が身代わりに背負ったとかされている。
筆者の考えでは、こうした原罪相当のものは、人間が生物であることに起因している。言い換えれば、生物は皆、原罪を背負っていると考えられる。
どういうことかと言えば、生物は、生きるために、必ず何か食べたり、保温したり、子作りしたりしないといけないが、そのために必ず何か自分にとって負担、負荷になること、労働(エサ取り、住居の維持等)とかをしないと生きていけない。それは、とても辛いことである。
また、子作り時、食事時等の快楽についついふけったりしてしまい、本業の労働を忘れがちになって、生きていきにくくなったりする。
あるいは、辛い負荷や労働を手抜きしたくなってしまい、そのために、ずるいことや仲間の殺傷とかついついやってしまう。
こうした辛さや一種の中毒、あるいは辛さを回避するための手抜き、違反行為が、原罪と捉えられるのである。
原罪は、人間だけにあるのではない。生物はみな普遍的に原罪を持っているのである。
(2014年4月)
無神論、無宗教は、実物の証拠、データで説明可能な説明のみを採用する、実証主義、証拠主義の生き方であると言える。
神は、あったらいいなと思わせるものではあるものの、あくまで空想上の産物であり、実際に存在しているという証拠は、今まで特に得られていない。
なので、そうした証拠のない存在である神は認めないというのが、実証主義、証拠主義に基づく無神論の生き方なのである。
(2014年5月)
生物や人間の造作が、とても精巧で良く出来ているので、何か偉大な人間を超えた存在による産物だという考え方は以前からあり、それがキリスト教とかの創造主という考えに結びついていた。
しかし、その創造主の実体は未だ確認されていない。その間に、分子遺伝学とか脳神経科学の進歩が進み、人間や生物の造作の仕組みが、特に神や創造主の存在を前提としなくても解明されてしまうことが分かってきた。
その点、神や創造主の概念は不要なものとなってきているのである。
(2014年5月)
昔は、マルクス主義が流行して、中国やロシアとかがこぞって導入したが、あまり上手く行かないことが判明して、一時の熱はすっかり冷めてしまったように見える。
マルクス主義は宗教を否定し、史的唯物論を唱えたが、それは、キリスト教とかの宗教指導者やその信者としての王族、貴族とかが、特権的な地位を利用して、貧富の格差を作り出し、社会を歪ませていたのでそれを糾弾するというのが理由で、宗教そのものの理論が間違えていたからという訳では無いようだ。
また、中国や旧ソ連では、マルクス主義自体が宗教みたいになって、絶対無謬の理論として信仰されていた感じである。
唯物論は、従来のマルクス主義の史的唯物論の囲いから解き放たれて、「この世の存在は、人間の心も含めて、全て物質、物的存在であるとして説明できる」とする科学的唯物論として発展していくべきだと思う。
(2014年5月)
人間や生物は、死ぬのが何よりも怖い。死ぬ時、自分が襲われる断末魔や、死んだ後、自分が無に帰するのを恐れ、それに耐えられなくて、救いを求める。(その恐怖や救いの希求の心理は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「死と変容」辺りに良く出ていて、実感可能である。)
その際に、自分を救ってくれるであろう頼れる存在を自ら仮に設定して、それを「神」と名づけた。
あるいは、自分が生まれた時に、既に自分の先祖が、自分を救ってくれるであろう存在=「神」を既に仮設定していたので、自分もその存在を信じることにした。
・・・これが、神や宗教の起源であろう。人間の、自らの死への恐怖、救われたい欲求が、神や宗教を創りだしたのである。その点、人間は、本源的に、神や宗教を必要としている。
無神論、無宗教は、こうした自分を救ってくれる、頼れる存在を否定するものである。だって、神は、人間や生物が、死の恐怖から逃れるために勝手にその存在を設定したもので、元々は存在しないものだから、その方が自然であると言える。
遺伝的な子孫を産んでいれば、自分が死んでも、自分の遺伝的な半身は子孫に受け継がれているから、自分が無に帰することは無い。
また、何かしら文化的な業績を挙げていれば、自分が死んでも、自分の業績が後世の人々や生物に受け継がれているから、自分が無に帰することは無い。
宗教や神を克服するには、自分が死んでも大丈夫なように、優れた、後世に残りやすい、遺伝的、文化的な子孫を予め沢山作っておくことである。
(サバタ指揮のR.シュトラウスの交響詩「死と変容」を聴きながら、まとめました。)
(2014年5月)
人間、生物は、有限な存在であり、自分では無限な存在になれなくて、でもどうしてもなりたい。
そこで、人間や生物と相似の心理を持つ、超能力で無謬、無傷の無限な存在=「神」を仮に設定して、その導きにより、自分も無限の生命を得られると確信させる、心理的導入のからくりが、宗教であり、そのからくりを作り上げたのが、宗教の教祖である。
そのからくりに従って、自分も無限になれると信じているのがその宗教の信者である。
(2014年5月)
人間は、自分たちが他の生物、動物より優れた存在だと思おうとし、そうなるよう努力してきた。
しかし、子作りのセックスやオナニーをする段階で、普通の動物並みに発情する、特に他の動物とのレベル、差異の無い存在と化することを実感せざるを得ない。
そこで、人間は、セックスやオナニーをすることを、淫らだとか卑猥だとか言って、やたらと蔑み、本当は自分もセックスが大好きで、心の底ではやりたくて仕方が無いのに、表面上は清楚ぶって、関心無い素振りをことさら示そうとする。
そして、人間は、そうしたセックスへの欲求を克服することを求道し、それが出来た者を、神に近い存在として尊敬するようになっているのである。
神代わりの存在としての宗教者は、セックスへの欲求を何らかの形で乗り越えていることが求められるのである。
無宗教、無神論では、逆に、人間がそうした、自分を動物、生物より優れた存在と思おうとする先入観や、宗教のくびきから解放され、素の形でセックスへの欲求を解放していくことで、より素の人間のあり方、「人間=生物」図式に近づくことを実現していけば良いのではないだろうか?
それが、生物である人間にとって、一番健全なあり方だと思われる。
もっともセックスの最中は、人間は外敵に対して弱くなってしまうので、そういう点ではセックスに溺れすぎないように抑制が必要で、ドグマチールみたいな性欲を抑制する薬を飲めば良いと思われる。
(この記事の後半は、深夜アニメの「健全ロボ ダイミダラー」を見ながら書きました。)
(2014年5月)
人間は、今まで、超人的な神がいるからこそ、自分たちの生活が正しく律せられて、社会が上手く回るのだと考えがちであった。
実際のところ、神は存在しないので、神無しでも、人間社会が人間自らの手で上手く動かさなくてはならないことが、既に毎日のように起きていると言える。
結局、神無しで、社会が上手く回るようにするには、人間各自が、互いに他の人の生存に役立つような生産物、機能を供給するとともに、他者からの生産物や機能の供給に対して必要十分な対価を支払うことの繰り返しを徹底するしか無いのだと思う。
これは、人間、生物の生存に役立つ働き=機能の提供を中心に物事を考える、機能主義的無神論といえる。
(2014年5月)
従来のキリスト教とかにおける人間の霊魂とかの議論は、人間の心を司る脳に関する知識があまり満足でない状態でもっぱら行われてきたものであった。
その脳に関する新たな科学的知見が、現在着実に蓄積されつつ有り、従来はブラックボックスだった、人間の意識とか霊魂に相当する脳活動の中身がだんだん明らかになりつつある。この流れは、今後更に加速すると思われる。
このように人間の意識や霊魂の実体を明らかにする脳神経科学が発展することで、従来、人間の意識や霊魂が具体的証拠に基づかずに宗教家の願望だけで語られてきた状態は、解消していくと言える。
人間や生物の生体の神秘は、従来、神による創造の賜物と言われてきたが、遺伝学、分子生物学の発展により、神を持ちださなくとも、完全に物質ベースで語れる方向に向かっている。
それと同様に、従来の宗教が特別視してきた人間(や生物)の心、意識、霊魂の神秘も、脳神経科学によって、物質ベースで解明されていくと考えられる。
そのことで、宗教は、その足場を失い、消失、消滅に向かうと言える。
(2014年5月)
戦前の日本では、天皇は、現人神扱いされ、崇拝の対象であった。
戦後、天皇の人間宣言がなされたが、アメリカとかの意向に沿うものであり、日本の相互一体感を偏重する非合理的、非科学的な国民性は、戦後と変わらず一貫して維持されている。
そのため、今後、事態の推移(アメリカの衰退等)によっては、再び天皇が現人神として崇められたり、人々が崇めることを強要される事態がやってくる可能性は十分ある。
これを防止するために、天皇が猿とかイルカとかと同様の生物であることを、科学的に証拠として明らかにしておく必要があると思われる。
天皇の精子を取得して、その遺伝情報を全て解読して記録、保存、解析するとか、脳活動のスキャン映像を保存、解析するとかである。
そうすることで、現人神は不可能であることを科学的に証明するのである。
(2014年5月)
ある人が善人か悪人かを見極めるのは、外見からだけでは難しい。見栄張りで、上辺だけ調子の良い態度を取りたがる、取り繕っている、ずるい人間も相当いるからである。
なので、人間の脳の中身を直接スキャンして、善人か悪人か、人の役に立とうとしている人か、自分の利益ばかり考えている人かを判定することが出来れば、この問題は解決すると思われる。
定期的に脳診断を受けて、あなたの人格、人柄は改善した、ここがこのように悪くなったということを医者に指摘してもらい、治療を受けるようになる時がそう遠くない将来やってくるのではないだろうか。
そうして、その診断記録をデータとして、後世まで受け継ぐことで、●●さんの血筋の人は善人が多いとか▲▲さんの血筋の人はずるい人が多いとか、遺伝学的に分かるようになるかも知れない。つまり、自分が善人か悪人かのどちらであったかの脳診断の結果が、永久的に後世まで残ってしまうようにすれば、人間は悪いことをしなくなるだろう。
もっとも、ずるい人は、診断記録データを偽造して善人ぶるだろうから、データ偽造をチェックする仕組みが必要となることは言うまでも無い。
(2015年12月)
人間は誰でも権力を持ちたがる。自分のことをほめてくれる人、自分に従ってくれる人をとかく欲しがるものである。これは対人関係だけでなく、自分の著作物の内容に賛同してくれる人とかも含まれる。
権力は、社会を動かす上ではどうしても必要なものである。しかし、誰でも持てる訳ではなく、そのリソースには限界がある。そこで、権力は、できれば、有能で人柄の良い行動力のある人に任せたいものである。
どのような領域でも、善政を行う人が、そうでない人よりも後世に名を残しやすくすることが必要である。あるいは、そもそも悪政を行う可能性のある人を、脳スキャンで判定して除外出来るようにすることが必要である。
そうなると、脳スキャンの結果で善人悪人の判定を行う人や機関に権力が集中するということが起きてくるのでは無いだろうか。
かつてのキリスト教とか、天国に行くか地獄に行くかの審判をするのが神だということになっていたが、そうした審判、判定を下すものが最上位に位置するということになるのである。その審判、判定者が、脳神経科学者になる可能性が将来高いのでは無いだろうか。
これまでの宗教の本質は、いかに、社会的に有益な人に好待遇を与え、社会的に有害な人に劣悪な待遇を与えるかということにある。これまでの宗教者は死後の世界という概念で、有益な人は天国に、有害な人は地獄に行かせる、ということで、社会的に有益な人を増やし、有害な人を減らすことをしようとしてきたが、その役割が脳神経科学者に行くことになるだろう。
つまりある人の有益、有害の判定を行う脳神経科学者が新たな権力者となる可能性が高い。
(2015年12月)
いつの世にもずるい人、小賢しい人、上手く立ち回ろうとする人はいるものだ。上手く立ち回ろうとすることが、自分のことばかり考えているようでも、その人があることに秀でていて有能であるならば、結果的に社会に有益な結果をもたらすこともある。
要するに、
・有益-有害
・有能-無能
・善人-悪人
とは別々の次元に成り立つものである。
なので、例えば、根は良い人なんだけど、失敗ばかり引き起こして社会的に有害、無能な人もいるし、逆に、ずるい、自己中心的な良くない人なんだけど社会を上手く回すのに欠かせない能力を持つ有能な人もいる。
この場合、こうした多次元の人物評価、判定を脳スキャンで行い、善人で有能、有益な人がトップ評価に来るような診断法を開発すべきである。そして、有能だが性格に問題のある人は、ランクダウンさせてトップにはなれないが、ある程度評価するようにするのが良いだろう。
(2015年12月)
遺伝学が発達したことで、無神論が受け入れられる素地が整ってきた。
例えば、生物学者のR.ドーキンスが無神論の書籍を出版しているが、生物の創造を全て遺伝子の働きに帰することで、神的存在を伴わずに生物や人間の誕生を説明できるようになっている。
ただし、霊魂の存在については、遺伝学だけでは不足で、脳神経科学の発展が必要である。
(2016年1月)
脳神経科学が進展することで、人間が誰か他の同性、異性を好きになったことを検知できるようになると考えられる。
つまり、自分が好きな恋している相手が視界に現れたら、その時独特な脳内神経系活動が見られるようになるはずで、そのことを相手に無線で伝えられるようにして、その際、相手側にも同じ反応が見られたら、互いに恋人候補で有力だということが分かるようにする。
あるいは、互いに相手の許可を得て、脳スキャンを実施することで、互いの価値観とかを脳スキャン映像から分析して検証し、自分に合った恋愛、結婚相手であるかを詳細に判断できるようにすることも可能になるだろう。
そうすることで、離婚も減らせるようになる。
これは、友達作りにも応用可能であると考えられる。
(TVアニメ「ハッカドール」の成分分析を参考にしました。)
(2016年1月)
人間はどんなに崇高なことを主張しても、所詮は猿の一種であり、動物並みの存在である。
見栄張りや縄張り争いや権力獲得、弱者蹴落とし、セックス相手の奪い合いに余念が無い。
人間には救いは無い。死後は、単に脳活動が終わるだけで何も起こらない。魂の昇天とかありえない。
存命中にお金とか貯めて、自分の心が綺麗なことを脳スキャンで実証して、自分の精子、卵子も分析保存した上で。自力で救われないといけない。
(2016年1月)
脳神経科学の発達により、近い将来、人間が頭の中で考えている言葉、すなわち内声を文字起こしして外部出力する機械、装置が出て来ると考えられる。
こうした内声文字起こし装置を頭に装着することで、人間は自分の思考が全て表沙汰になる。
装置を装着した人間が、少しでも悪い考えが出るとたちまち周囲にバレる。
そうすることで、皆、良い考えしか持てなくなる。否が応でも、装着した人間は良い人にならざるを得ない。
その点、内声文字起こし装置は、悪人が存在できなくなる究極の存在である。人工装置が神になるのである。
そこで、キリスト教とか宗教が無くても、善意と愛に溢れた世界を実現できる。
また、内声はそのまま肉声に出るので、肉声を出させて内声と照合することにより、まがい物の装置を排除できる。
権力者の悪辣な内心とか全て露わになる。
一方、統合失調症患者の陽性症状と似た感じになるので、統合失調症に罹患していない健常者が統合失調症の世界を体験する上で役に立つとも考えられる。
(2016年10月)
人は生き物である。変転する厳しい環境の中、何とか生き残って、増殖する必要がある。
変化する環境の中で生き残るには、生き残るのに役立つ働き、効果=機能を、その都度入手する必要がある。
生物の本質である、生き延びたいという、生への衝動と、機能=生命維持、繁殖に役立つ働きとは、密接に結びついている。
人は一人では生きられない。
一人だけで、環境適応に必要な全ての働き=機能は賄えない。
一人だけで、衣食住に必要な働き=機能を十分に自前で用意することは難しい。これは、絶海の孤島に一人取り残された人がこれからどう暮らしていけばよいか途方に暮れることを考えれば、容易に想像できるだろう。
環境適応に必要な他の働き=機能を持つ人との共同、協力がどうしても必要である。
他の人から、機能を融通してもらう必要がある。
個人の、完全な自主独立、外部社会からの引きこもりは不可能である。人間は、相互依存、互助の生き物である。
環境適応に有効な機能を互いに他人に提供し合って生きるのが、機能主義的な生き方の基本である。
本来、他人の役に立たないと、他人から、自分が必要としている機能を、返礼として貰うことはできない。人は、互助的な生き物であり、一方的な持ち出しは、不平等な搾取であり、許されない。
人が生きていくには、他の人の役に立つ働きをすること、他の人にとって環境適応に有効な働きを提供することが不可欠である。これが、労働である。
他人の役に立つこと、人助けをすることが、人が生きていくための条件である。
他人の役に立たないと、返礼の物資、お金が貰えず、生活できないというのが、人間社会の原則である。他人の役に十分立っているのに、貧しくて生活できない人がいるというのはおかしいし、他人の役に全然立っていないのに、ぜいたくな暮らしができる人がいるというのも、社会のあり方が間違っている。
他人の役に立つことで、他人から存在を認められ、他人から返しの援助を受けやすくなる。その結果、生き延びやすくなる。
人間は、誰でも、他人の役に立つと、あるいは、他人から「ありがとう」と言われると、いいことをしたと感じて、気持ちがよくなる。これは、人類に共通した心理であり、人間の神経系の根幹を占めている。人間には、いつしか他人の役に立つことを快感と見なす神経回路が遺伝的に備わるようになったのではないだろうか。こうした感覚は、人間が生き延びていく上で、遺伝的、本能的な根拠を持つと考えられる。
他人のためになることをすることで、他人の返しの援助を得やすくし、そうすることで自分自身を生き延びやすくするのが、変転する環境の中でうまく立ち回ることの出来る、賢い人間の生き方である。
必要な時に必要な機能を手に入れることができるのが、人間が生きていくための条件である。常日頃、他人に必要な機能を、他人が必要とするタイミングで提供できることが、他人から、返しの機能を確実に手に入れやすくする極意である。
人間が、自分のところに物資に恵まれ、豊かになる条件としては、自分と他人に役立つ機能を提供することが第一である。自分と他人に役立つ機能を質量面で多く提供するほど、より人の役に立って、返礼としての物資をより多く貰い、生き延びやすくなるのが本来の姿である。
株式や原油、貴金属とかへの投機で金儲けをして豊かになるというのは、極力避けるべき生き方である。なぜなら、それらの行為自体、何ら、人々にとって役に立つ、有益な機能を生み出さないからである。人々の役に立つ、製品やサービス提供に結びつく仕事をすべきである。
人間は、環境適応に有効な機能を、互いに、他人に提供し合って生きるのが望ましい。要は、個人単位間での、機能の輸出、輸入を行うのである。
他者に、自分の生成した、有効な機能をできるだけよく提供、輸出することが、より自分のコピー、アウトプットを増殖、繁殖させることにつながり、結局は自分のためになる。
その際、輸出入で出超になるのは、人に貰うより、与える方が多く、生存力に余裕があり、自立できている証拠であり、よいことである。一方、入超になるのは、他人のお荷物になっている証拠であり、その状態から早く抜け出す必要がある。そのために、日夜、自分が他人に対して提供できる有効な機能は何かを絶えず考え、生み出して行く必要がある。
本来、各人にとって、機能の出入りは、資金の出入りと同じで、最低限収支とんとんか、望ましくは、出超、黒字になる必要がある。なぜなら、不意の事故とかで、機能を生み出せない体になってしまい、入超状態になる可能性があり、そうなったときに、手持ちの既存の黒字分、預金の消化で食いつなぐ必要があるからである。出超、黒字にするには、絶えず、他人が必要とする機能を提供し続ける必要がある。
他人に有効な機能を出さずに、貰ってばかりだと、機能輸出入の収支は赤字になってしまう。人は、こうした一方的な機能の提供を好まない互助的な生き物なので、機能収支の赤字の持続は、結局その人が生きて行けなくなることにつながる。
他人に有効な機能を提供せずに、ただ他人から機能を受け取る、奪うだけの生活をする人は、略奪者であり、人々の機能提供の相互助け合い、融通を崩し、生きにくい社会を作り出す。これは、極力排除しなければいけない。
他人の役に何ら立っていないのに、リッチな生活をするのは、泥棒、寄生虫と同じであり、病的である。一方、他人の役にたくさん立っているのに、生活が苦しい人の存在も問題である。こうした状態の人が発生しないように、他人の役にたくさん立っている人がリッチな生活をし、役に立たない人はとりあえず最低限の生活ができるように、社会をコントロールすべきである。
人の役に立たないと、生活できない、お金は貰えないというのが、一大原則である。人が生存していくのに有効な機能を提供できないと、提供した機能に対する返礼の物資が貰えず、蓄積できず、生きていけない社会というのが、本来あるべき社会の姿であり、そういう社会の姿に保つべきである。「働かざる者、食うべからず」の精神が必要である。
他人と機能のやりとりをする際、相手側が、自分の欲する機能をそのまま持っていることはまれである。
他人と機能のやりとり、交換を円滑にするには、互いの交換する機能の価値を、共通の尺度で数値化した貨幣、お金が必要である。
確かに、お金があればあるほど、必要な機能を手に入れやすくなり、より生存しやすくなるのは事実である。
しかし、お金さえ儲かればよい、お金が全てという考えは誤りである。大切なのはお金それ自体ではなく、お金と交換で手に入れる機能の方である。お金をいくら持っていても、いざと言う時に、必要な機能(衣食住に必要な働き)と交換してもらえないと何にもならない。
人が機能不足で困っている時に、機能を融通してくれるのは、常日頃、自分が親切に、協力、相互援助していた相手(友人)であることが多い。そういう点で、友人の存在は不時の機能の獲得に不可欠である。持つべきものはお金ではなく、友達である。
一般に、ビジネスは、相手に機能を提供し、その分の対価をきっちり貰って利益を得る、儲けるものとみなされる。
しかし、その際、他人から対価をなるべく多く巻き上げて、金持ちになることが自己目的化してしまう人が多い。要は、他人に対して提供する機能そのものに目が行かず、機能提供の対価として支払われるお金に目が行ってしまうため、目先の利益確定に目が囚われて、自分が提供する機能の品質確保、向上がおろそかになるのである。儲かるなら、低品質の機能で構わないとする見方が広まることになってしまう。
これだと、人々の間に行き交う機能の品質が低下してしまい、人々の環境適応の水準が低くなり、人々はより生き延びにくくなる。これは、まずいことである。
そこで必要なのは、見方、スタンスを変えることである。
要は、人の役に立つ、人々の環境適応水準を向上させるのに資する、よりよい機能を周囲に向けて生み出していこうとする心構えを、まず根底で持つことである。
その心構えが、日常の仕事の中で、人々がより生き延びやすくなるのに役立つ、新たなアイデアを生み出す原動力になる。それは、新たなビジネスチャンスに直結し、ビジネスを推進することで、周囲の人々の生活水準を向上させつつ、自分自身も、周囲の人々から対価を貰って、金持ちになり、豊かになることができるのである。
金儲けには、こちらの考え方の方が重要である。単なる金の亡者のように、周囲の人々から一方的に金を巻き上げるのではなく、他人の役に立った上で儲けているので、他人からは「ありがとう。助かった。」と称賛を受け、周囲~社会に受け入れられつつ金持ちになれる。また、周囲の人々の頭に、自分をプラスの価値あるものとして売り込むことができ、自分の文化的子孫を周囲の人々の頭の間に残すことにもつながる。
他人の役に立つことは、自分の分身を他人の間に広めやすくなる効果も持つ。
人間は生き物であるから、絶えず、自己増殖を図ろうとする。
自分のアウトプット、分身を、生きた証として、できるだけ長く残そう、広範囲に広めようとする。これが実現したら、人生は成功である。一方、自分のアウトプットが途絶え、広まらずに消滅したら、人生は失敗である。
要は、成功した人生は、自分とその分身の、外部世界への拡大・増殖をうまく果たした人生であり、失敗した人生は、自分とその分身の拡大・増殖に失敗した人生である。
ただし、この人生の成功と失敗は、長い目で見ないと分からない。場合によっては本人が死んだ後で、その功績が発掘されて、有名になって世界中に広まることもある。逆に、本人が生きている間は成功者として恵まれた人生を送るものの、死後、急速に忘れられて、消えてしまったり、批判の対象になって汚名を残すこともあるからである。
各人が生成する機能も、その人にとっては、自分自身の分身、コピー、生きた証である。
各人が生成する機能を、自分の分身、生きた証として残すには、
(1)質を最上級にする(質をできるだけ高める)
(2)量を最大化する(できるだけ広範囲に広める)
必要がある。こうした意図から良質の機能がたくさん社会に出回ることが、人々を社会の中で生きやすくすることにつながる。
こうした、自分の生成した機能をできるだけ長生きさせよう、広めようとする欲求は、生物として自己増殖しようとする、極めて利己的な自分勝手なものである。しかし、結果的にその利己性が、社会に流通する機能の質量の向上をもたらし、ひいては社会の発展に貢献すると考えられる。
他人の役に立つこと、他人に対して有益な機能を提供し続けることが、自分のアウトプット、コピーを他人のもとに広める自己増殖につながり、ひいては、生き物としての成功につながる。他人の役に立つことは、結局は、自分のためになる。
他人に必要とされること、他人にとって必要な機能を提供できることが、人間にとっての生きがいである。
他人に対して、必要な機能を提供できることで、対価が得られ、その対価で自分が生き延びていく上で必要な物資を手に入れることができ、より生き延びやすくなる。また、他人、周囲へと自分の分身である自作の製品のコピーを広める機会が増えることになり、自己増殖につながる。
他人に、必要な機能を提供できないこと、他人から不要、お荷物と見なされることが、生きていく価値なし、存在価値なし、人生の失敗ということになる。
人間が、仕事で給与稼ぎに一生懸命になるのも、単に、自分の生活を豊かにしたいというだけではなく、その過程で、いかに他人に必要とされる価値ある人間となるか、いかに他人に必要な機能をてきぱき提供できる有能な人間とみなされ、周囲から高い価値を与えられるかに、人生の成功がかかっているからである。有能さが後世まで語り継がれれば、歴史上の人物として、自分の存在を死後もずっと人々の間に広めることが出来、(文化的な)自己増殖に成功したことになる。
高い機能提供能力を持っている有能者と見なされることは、「あの人には(生きて)いて貰わないと困る」「あの人の存在は必要だ」「あの人がいると助かる」「あの人をバックアップ、サポートして、持てる能力を十分発揮してもらおう」という周囲の評価につながり、自分が生きていく上での必要な援助、サポートを周囲からより得やすくなることにつながる。要は、より生き延びやすくなるのである。
それはまた、よりよい機能提供のためにはどうすればよいか、人より物事がよく見えることにつながり、社会や組織で高い指導的な地位を約束されることになり、周囲の人たちを自分の言うことを聞く分身、部下として使うことが可能になる。その点、周囲に自分の教えが広まりやすくなり、自己増殖に成功したことになる。
人が周囲から褒められると喜ぶのは、本質的には、「他人に必要とされた、他人の役に立った」有能感を持てるからである。そして、その有能さが、自分自身を生き延びやすくすることにつながるからである。
「他人に必要とされる(プラスの)価値ある人間になりなさい」「他人に必要な機能を提供できる有能な人間になりなさい」というのが、(機能主義者の)人生訓ということになる。
人は、死後天国に行くために善行をしようとする。しかし、本来、善行は、そうではなく、社会を自分や他人にとって生きやすくするために行うものである。社会が生きやすくなることで、生物としての自己保存、自己増殖を図りやすくするのが、善行の効果である。善行は、天国の存在など仮定しなくても、生き物としての人間にとっては、行うべき根拠が十分あると言える。
善行や隣人愛は、その動機が、自己保存や自己増殖を有利にしようとする自己中心的なものであって全然構わない。善行は、自分の利益のために行うものである。「情けは人のためならず、(自分のため)」である。動機が自己中心的でも、結果として人間が相互に生き延びやすくなることにつながれば、それでよいのである。自分を無に(犠牲に)して、他人のために尽くそうと、わざわざ苦闘する必要はない。そういうのは生き物として不自然であり、「偽善者」で全然構わないのである。
愛は、機能主義の観点からは、互いに相手の役に立とうとすることである。それは、第一に自分の生活維持のためであり、天国に行くためのものではない。困っている人への共感(明日は我が身かも)と解決策の提示、実行が、機能主義的愛の中身である。
十分自分や他人の役に立つだけの機能を提供できるようになるには、それなりの情報、ノウハウの取得、学習が必要である。
人間にとって教育がなぜ必要かと言えば、人間が、自分が生きていくために必要な機能生成能力を身に付けるため、また、十分他人の役に立つだけの機能を提供できる能力を身に付けるためである。自分や他人の環境適応の役に立たない勉強はしても仕方がない、意味がない。
教育を、人間を能力面でふるい分けするための道具として使うのは本来の用法(人間に、変転する環境下で生き延びるノウハウを与える)からすれば間違いである。生き延びていく上で役立つことを教えるのが、学校教育の基本である。
生きていくために必要な機能の獲得は、複数の人間の間で、取り合いになることがある。また、自分の生成した機能を、他者の間に広めるのにも、類似した機能をを生成する他者との競争になる。
また、機能への引換となる貨幣を多く持つ金持ちが、機能を独占して所有する事態も起こる。
この反対に、貧乏人とは、必要な機能を手に入れられない人のことである。
一部の人間による機能の独占は、本来、互助的な生き物である人間の本性になじまないものである。機能は、できるだけ、必要とされる人々へと、必要最低限、平等に分配される必要がある。
病気などで、他者に機能を提供できず、そのため返しの貨幣も貰えずに貧乏でいる人も、ひとたび病気が治れば、あるいは、十分な教育を受ければ、他者に対して有用な機能を提供できるようになる可能性、能力を秘めている。なので、現状では、生活保護とかで、他者から機能を一方的に貰いっぱなしになっている人に対しても、最低限の機能を融通して、生き延びてもらうことが必要である。当世代の親が病気とかで能力的に駄目でも、次世代の子供は優秀という可能性もある。
経済的な稼ぎや社会的地位に囚われ過ぎるのは駄目である。いくら稼いでも、出世しても、自分のことを後世にずっと残せなかったら、人間としては何もならない。
要するに、人間には、永遠の命が必要な訳であるが、これは、宗教への信心によって得ようとするのは誤り、ミスリードである。宗教は、人間が勝手に想像し作り上げた天国の存在に頼っており、それは本来存在しないものだからである。
自分の遺伝的、文化的子孫の後世への永代的な受け継ぎを実現することが、人間にとっての実際の永遠の命に当たると考えられる。自分の遺伝的、文化的子孫が後世へとより受け継がれ、生き残りやすくするには、それらの子孫がより機能的であることが必要である。変転する環境に対して適応的であるほど、すなわち機能的なほど、後世に受け継がれ、生き残りやすいのである。人間が永遠の命を得るには、機能主義を信じ、実行することが有効である。
(2005年)