日本社会のルール

-日本村社会で生き抜く方法-

大塚いわお


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目次
はじめに
日本「村社会」の概要
日本村社会の調査方法
日本村社会の特徴
(1)『対人関係の重視』
(2)『コミュニケーションの重視』
(3)『対人関係の累積』
(4)『対人関係の癒着』
(5)『集団主義』
(6)『所属の重視』
(7)『定住の重視』
(8)『同調主義』
(9)『同期~先輩後輩制の重視』
(10)『物真似指向』
(11)『和合の重視』
(12)『小グループ間の無関心』
(13)『被保護への欲求』
(14)『権威主義』
(15)『リスクの回避』
(16)『前例踏襲指向』
(17)『後進的、現状維持的』
(18)『恥、見栄の重視』
(19)『気配りの重視』
(20)『みそぎの重視』
(21)『責任の回避』
(22)『なつきの重視』
(23)『事前合意の重視』
(24)『失敗恐怖症』
(25)『閉鎖的、排他的』
(26)『受動的』
(27)『相互監視の重視』
(28)『間接的対応』
(29)『局所的(ローカル)』
(30)『感情的』
(31)『小スケール』
(32)『高密度指向』
(33)『厳格さの重視』
(34)『減点主義』
(35)『管理統制主義』
(36)『従順さの重視』
(37)『総花的』
(38)『突出の回避』
(39)『中心指向』
(40)『マイナス思考』
(41)『努力、苦労、労働の神聖視』
(42)『真実、内実の隠蔽』
日本社会「村の掟」
日本村人度判定テスト
「日本村社会=女社会」論
日本村社会と女社会との関連の実態
日本村社会の理想型としての母子関係
日本村社会における「転村の自由」「非村人の入村の自由」「村内先輩後輩制の廃止」の必要性
「村八分」の解消が必要
負の体験の次世代連鎖の断ち切りが必要
日本村社会の論理の実態
村社会を国ぐるみで隠蔽しようとしている日本 -「欧米出羽守」と言論統制-
強者に惹かれる日本村社会の女性的性質と「欧米出羽守」
欧米諸国から「村八分」にされるのを恐れる日本村社会と「欧米出羽守」
日本村社会の今後の課題
(資料)既存日本人論とドライ、ウェットな態度との照合
(資料)日本人の伝統的国民性:文献調査結果の詳細

はじめに

現代日本社会は、建前は西欧、アメリカ流の自由民主主義社会になったことになっている。

しかし、実際は、隠れた社会規範=「日本村の掟」が存在する。この社会規範のことは公言しないことが日本人の間では暗黙の了解となっていて、それゆえ、この社会規範は、事実上「裏の掟」となっている。この本では、この村の掟について説明する。

日本「村社会」の概要

日本「村社会」は、世界(主に東アジア、東南アジア)に広く分布する(稲作)農耕民社会の一種である。日本村社会とそっくりな社会は、同じ稲作農耕民社会のベトナムにもインドネシアにもあり、日本だけに特殊な存在ではない。同じ稲作農耕民の社会は共通性が多いと考えられる。(これに対して、欧米社会は、遊牧、牧畜民社会である。)

日本「村社会」は、都市にも農村にも共通に存在する。日本社会全体が村の空気に覆われている。日本村社会は地方の田舎だけに存在するみたいなことを言う人がいるが、そもそも日本の中心の東京霞が関の中央官庁が村社会である。日本=国家村である。

日本「村社会」の成員は、大人だけでなく、子供も含む。子供も日本の村人である。

日本「村社会」は、

・国家村 日本国の、天皇家を中心とする中央官庁単位での互助と行政組織と国民。

・地方村 都道府県、市町村単位での互助と行政組織。

・職場村 官公庁、会社の正社員と、家庭における専業マネージャー(専業主婦)のペア。

・学校村 保育園、幼稚園、PTA 、学区 子供、託児所、学校(小学校、中学校、高校、大学、大学院)を媒介とした行政末端組織。あるいは、学習塾やフリースクールのような自主互助組織。サブとして、学級村、クラス村、講座村、部活村、サークル村のように、子供や学生の村人が校内に作る村を含む。また、学者村のように学校の教員が作る村を含む。

・地縁村 村落、町内会、自治会。地域の互助と行政末端組織。

・血縁村 血縁、親戚関係がある者同士の互助組織。門閥と閨閥の組織。

・組合村 生活協同組合のような、地縁の枠を超えた自主互助組織。

・通信村 通信、インターネットを媒介とした自主互助組織(電子掲示板、ソーシャル・ネットワーク・サービス、ネットゲームのコミュニティ等)

に分類することが出来る。


日本村社会の調査方法

日本村社会の真実を知るには、2ちゃんねるに代表される匿名掲示板や、ツイッターなどで、「日本人だけど日本のここが嫌い」等、日本社会のことを批判する人の意見を大量に見るのが手っ取り早い。

日本社会の現状に満足したり、より復古したいと考えている人たちは、日本村社会の現状については特に発言しないことが多い。また、日本社会は閉鎖的、排他的であり、日本の村人たちは村社会内部のことを内密にして公表したがらない。内部告発をすると、村八分等の陰惨な内部制裁が待っていることが多く、直接対面等で匿名性が無い状態では、日本人たちはその実態を公表しにくい。農村とかに出かけて調査するのは調査対象者の匿名性が確保されないので駄目である。

日本社会に不満な人たちは、匿名性の確保されたネットメディアの上では鬱積した本音を自由に発言できることが多いので、その場で具体的な実例をあげて、日本社会の良くない点、改善すべき点を内部告発している。なので、それをたくさん閲覧することで、日本村社会の良いところも悪いところも忌憚なく判明すると言う訳である。

一方、今まで積み上げられてきた日本人論も、日本村社会を知る上では大いに参考になる。特に、欧米社会との対比で日本社会の特質や問題点を描いている書籍や論文、記事が役に立つ度合いが大きい。それも、学者の書いた、学者村の身内の学者同士でしか読まれないことを前提とした書籍に限定すること無く、海外在住経験のある一般人や他国の人が書いた日本社会に関する感想文を大量閲覧する方が日本社会の真実を知る上ではより近道である。

また、日本の官公庁や大企業などで勤務していた人たちや企業城下町とかに住んでいた人たちが書いた内情暴露本も、日本社会の内実を知る上では役に立つことが多い。

日本の地方からの叩き上げの日本の政治家の語録、例えば田中角栄語録は、日本の村人の考え方を知る上で参考になる。

筆者の以下の説明は、上記のような匿名ネットメディアのコメントや書籍、記事の大量閲覧に基づいて書かれている。


日本村社会の特徴

以下、日本社会、日本の村人の特徴がどのようなものか、説明を個別に行う。


(1)『対人関係の重視』

「対人関係を重視する。つながりを指向する。」

日本の村人は、対人関係を本質的に重視する。

彼らは、無機的な物質よりも、人間の方に興味が行く。

彼らは、人間関係、縁故、コネ、人脈の構築に注力し、得意とする。

彼らは、人と人とのつながり、絆を重視する。

政党などで、明確な目標論争やビジョンの相違によってグループができるのではない。

彼らは、「私は、あの時、○○先生に○○でお世話になったから、○○先生の門下に入ろう」といったように、人物や対人関係本位で縁故関係を作る。

それが派閥、学閥等となって、社会を動かしている。

彼らは他人の気持ちに敏感で、人の心の動きを読むことや、心理学やカウンセリングに関心を持つ人が多い。

彼らは、無機的な機械、ロボットをも、ヒューマノイドとして人間化してしまう。

彼らの考え方は、小さいときから人形や周囲の人間に興味を惹かれて、気に入られるように行動する女の子の考え方と、考え方が一緒である(男の子のように、無機的な機械や物質に興味を惹かれる度合いが低い)。

(VS欧米人(牧畜民):彼らにとって、対人関係は、何か目標を実現するための手段に過ぎず、一時的なものである。彼らにとっては、つながることよりも、独立して自由に動けることが重要である。)


(2)『コミュニケーションの重視』

「コミュニケーション、話し合い、打ち解け合いを重視する。」

日本の村人は、対人関係構築、維持のために、会社とかで、コミュニケーション、通信をやたらと重視する。

彼らは、周囲の親しい他者と対話、会話をする、しゃべる、打ち解け合うのを好む。

彼らは、ペラペラおしゃべり可能な電話を好む。

彼らは、親しい相手との手紙、メール、メッセージの、間を置かない頻繁なやり取りを望む。

彼らは、対人関係維持のために、要件が無くても、長話するのを好む。

彼らは、直接対面でのコミュニケーションを好む。

(VS欧米人(牧畜民):彼らにとって、コミュニケーションは、何か目標を実現するための手段に過ぎず、それ自体が目標になるものではない。)


(3)『対人関係の累積』

「対人関係が累積する。リセット出来ない。転身が難しい。」

日本の村人の場合、対人関係が、世代を重ねてどんどん累積していく。

彼らは、対人関係、コネの切断、リセット、初期化が出来ない。

彼らは、一度できた関係やコネをそのままずるずる続け、保持していく。

彼らは、ある分野、領域で一度できたコネを気軽に切って、別の分野、領域に転身することを嫌い、一度入った分野、領域にずっと居続けることを要求する。

彼らの場合、友人関係とか、学校、職場に入った最初の一瞬で、その後がずっと決まってしまう傾向がある。

彼らが、別の領域、組織集団に転身、「転村」しようとしても、既にその領域に既存の対人関係が累積して出来上がってしまっているため、後から入り込む、入れてもらうことが容易には出来ない。

あるいは入れてもらったとしても、彼らは、身分、立場の低い新入り扱いになってしまう。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、対人関係は簡単にリセット出来て、次の新天地への転身が可能である。)



(4)『対人関係の癒着』

「対人関係が長期持続する。対人関係が癒着、粘着しやすい。公私混同、談合体質である。」

日本の村人の場合、いったん出来た対人関係が長期にわたって延々と持続する。

彼らは、対人関係が粘着的であり、しつこい。

彼らの間では、一度始まった会話や説教が延々と長引き、なかなか終わらない。

日本村社会は人間関係が納豆みたいにネバネバ、ベタベタ、ネチネチしており、「納豆社会」と呼べる。

彼らにおいては、対人関係が癒着しやすく、公私混同とか談合とか起こしやすい。

(VS欧米人(牧畜民):彼らの場合、対人関係は短期的なもので、淡白で、あっさりしたものである。)



(5)『集団主義』

「一緒にいること、群れを重視する。仲良しグループ形成、護送船団方式を好む。巻き込み、連帯責任が生じやすい。」

日本の村人は、皆で一緒にいようとする。

彼らは、群れるのを好む。

彼らは、集団、団体での行動、共同作業を好む。

彼らは、集団主義である。

彼らは、一人では行動できない、行動するのを好まない。

彼らは、互いにべたべたくっつき合おう、一緒になろうとする。

彼らは、派閥を作り、互いに主流になろうとしていがみ合う。

彼らは、一人では気が弱くて何もできないくせに、徒党や集団を組むと途端に気が大きくなって、「数の力」を頼りに大声で騒ぎ、傍若無人なことを行う。あるいは、

彼らは、一人~少数を集団で寄って集っていじめるのを許容する(多勢に無勢)。

彼らは、集団内の一体感、愛情を何よりも重んじる。

彼らは、「全社一丸となって取り組もう」みたいに、集団の一体感の強さ、一心同体であることをやたらと強調する。

彼らは、皆で一斉に集中して何かするのを好む。

彼らの社会は、互いの安全、保身を確保するため、皆で一緒に群れて、つるんで、周囲と互いに守り合う形で行動するのを好む「護送船団方式」社会である。

彼らは、皆が分け隔てなく処遇されることを求める。日本人は、食事もトイレも皆、仲良しグループでつるんで行動したがる女性と根が一緒である。

彼らは、一人が何か行動を起こすと、当人で自己完結せず、周囲を否応なく巻き込んで大事、騒動になる可能性が高い。

彼らは、起こした行動の責任が、当人一人の責任にとどまらず、グループとかの連帯責任になりやすい。

彼らは、周囲と無関係でい続けることが難しい。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、グループよりも一人で独立、自立しているのを重視する。彼らは、互いに訴訟し合うのを好む。彼らの場合、責任は、個人で動く結果、自分一人で取る結果になる。)


(6)『所属の重視』

「所属を重視する。包含感覚、胎内感覚を重視する。心中を好む。」

日本の村人は、所属を重視する。

彼らは、必ずどこかの集団に所属しようとする。

彼らは、どこかに所属していないと不安である。

彼らは、所属する集団から排除されるのを何より恐れる。

彼らは、集団に属さずに、一人で独立、自律するのを根底で嫌う。

彼らは、どこの集団にも所属していない自由な人を、フリーターとか言って軽蔑し、信用しない。

彼らは、どこの集団に入ったか、所属しているかを重視する。

彼らは、入る(入った)、所属する(所属している、した)学校、会社の名前、ブランドを重んじる。

彼らは、正規の所属であること、その集団の身内の正社員であることを重んじる。一方、臨時の非正規社員は、同じ仕事をしていても身内に入れようとはせず、所属しているとは見なさず、待遇に格差を設ける。

彼らは、成員が、所属集団のために、我が身を犠牲にして、汗を流すことを賞賛する。

彼らは、成員が、所属集団に身も心も完全に包含、吸収され、所属集団と常に一体化して、自分があたかも所属集団を代表する一人であるかのような心意気で行動することを重視する。

彼らは、成員が所属集団の身体の一部として動くことを重視する。

彼らは、所属集団に、成員一人ひとりが完全に溶解、融解しきって、所属集団それ自体がひとまとまりの人格を持って動くような印象を外部に与えようとする。

彼らの所属する集団が、成員に対して、夫の浮気を疑う奥さんのように嫉妬深い。

所属する成員は、会社、学校とかの所属集団のために、休日、残業時間も含めて、全ての時間を浮気せずに100パーセント入れあげて、捧げることを強いられ、要求される。

あるいは、成員は、所属集団との、可能な限り長時間の生涯にわたる付き合い、長時間残業を要求される。

成員は、自分のプライベートの全てを削って、所属集団に合わせること、自分の時間の全てを所属集団のために使い切ること(滅私奉公)を要求される。

成員が所属集団に、時間的にも、空間的にも、完全包含されることが望まれる。永続的に所属集団に所属する。

所属第一主義である。

会社のリストラみたいに、所属集団側で、その成員の所属を維持できなくなったら、所属集団側によって、一方的に関係が破棄され、成員は所属集団から自己都合で脱退することを強いられる。

一方、所属集団側では、いったん成員を集団の中に入れると、その成員を外に出すことがなかなか出来ない。

成員は、自分の所属集団の存続を第一に考え、その存続のために死力を尽くして、集団の全員が一丸となって最期まで戦おうとすることを要求される。

彼らは、最後まで戦ってそれでダメだった時は、所属集団丸ごと滅びようとする。

彼らは、集団自決を好む。

彼らは、集団への所属は、その集団限りで完結させよう、終わりにしようとする。成員が他集団に、捕虜とかで生きたまま拾われるのを好まない。

所属集団は、成員が一つの所属集団にのみ終生忠誠を誓うことを望み、成員が2つ以上の集団に、同時あるいは逐次に所属することを嫌う。

所属集団の存続が行われれば、自分はその犠牲になってどうなってもよいと考えることが求められる。

彼らは、集団の成員が、所属集団のために、特攻隊のように、進んで犠牲になることを尊ぶ。

所属集団は運命共同体であり、成員が所属集団と最後まで運命を共にすること、「死なばもろとも」、心中を求める。

日本社会では、学校(大学とか)を卒業すると同時にどこかに入社する内定を予め取って、所定の日にきちんと新卒で入社しないと、所属集団から外れた、放り出された既卒扱いされて、どこの会社にも入れてもらえなくなってしまう(既卒差別)。

日本社会では、学卒だけでなく転職の場合でも、今までの所属集団から時間的に切れ目なく次の所属集団に入らないと行けない。

日本社会では、所属において、どこにも所属しないフリーの期間があると、あるいは履歴にブランクがあると、村人としての信用度が低下して、会社とかでなかなか採用してもらえない。

日本の村人は、中の一員で有り続けること、外に出されないことを望む。

彼らは、転職を、所属(集団)からの排出と見なし、嫌う。

彼らは、転職を、スキルアップではなく、前にいた集団で、他の成員とうまくやっていけなかったため、外に出されたか、自分から外に出たとネガティブに捉える。

日本社会では、所属集団を出て行くことが、元の意図、意思に関わりなく、裏切り者、マイナスポイントとみなされ、非難される。所属集団を自分の意思で出ていく回数が増えるほど、社会的信用度が低下する。

日本社会では、成員は所属集団の用意した人生のレール、エスカレーターから決して外れない、降りないことを要求される。成員が所属集団専用の人生のレール、エスカレーターから外れない、降りない限り、成員の生活は所属集団が保証する。一方、成員が、いったん、村のレール、エスカレーターを自分から降りた、卒業した、村を出た場合はその後の生活は自己責任で、所属集団は一切関与しない、助けない。

彼らは、所属集団に自分が包含された感覚、所属集団が自分の母代わりとなって、あたかも自分が母の胎内にいるかのような感覚を好む。

彼らは、所属集団との一体感が極めて強い点、相手との一体感を重んじる女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、どこかに所属するよりも一人で独立、自立してベンチャーするのを重視する。彼らは、所属することによって生じる束縛を避け、フリーを好む。)



(7)『定住の重視』

「定住、定着、根付きを重視する。継続を重視する。専門家を重視する。固執する。」

日本の村人は、村落での居住する土地とか、勤め先の官庁、会社とか、一箇所に定住、定着して長期間根付くのを好む。

彼らは、土着を好む。

彼らは、転出して、出ていく人を裏切り者呼ばわりして嫌う。「転村」することを嫌う。

彼らは、定住しない浮き草、根無し草のような人たちを軽蔑する。

彼らは、あるいは、転職を繰り返したり、一つの職場に定職を持たない人を信用しない。

彼らは、住居でも職場でも、一箇所に腰を落ち着けて、その場で居心地の良い、長期間居着くことを目的とした巣作りをすぐ始めようとする。

彼らは、重心の低い、腰の重い、一箇所に腰を落ち着けてそこから動こうとしない女性的な性格である。

彼らは、学者とか、役者とか、早いうちから一つの分野を専攻して、そこに腰を落ち着けて、根付いて、浮気せずに、その専門の一本道をずっと継続して歩むことを重視する。

彼らは、専門家を重視する。

彼らは、継続は力なりという言葉を重んじる。

彼らは、数多くの専門外のことに多様な関心を持って首を突っ込む人、専門を持たない、決めない人のことを信用せず、軽んじる。

彼らは、自分の代々住んでいる土地のことや、あるいは、自分の専門分野に付いては何でも知っていて、答えられないことが無いのを当然とする。

彼らは、専門知識面での百点満点を指向する。

彼らは、知らない、質問に答えられない、他の人が答えられると恥ずかしいと考える。

彼らは、自分が回答可能な範囲を狭く決めておいて、その範囲内では何でも答えられるようにすることで、専門家としての自分の高いプライドを維持しようとする。

彼らは、知っていること、知識があることを第一と考え、知識を学習すること、暗記することにエネルギーを集中する。

彼らは、学殖のある知識人、学者を重んじる。

彼らは、国会の議論とか、外交とか、自分が根を下ろした今までの意見に、固執して、柔軟に譲ろう、意見を変えようとしない。

彼らは、自分が譲ったら、変えたら負けと考えがちである。

彼らは、譲歩の契機となる対話や審議を拒否し、会議を欠席しようとする。

彼らは、あるいは、話し合いがいつまでも平行線で、押し問答となり、強行採決を繰り返す。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、どこかにずっと定着するよりも一人でどんどん新天地へと移動していくのを重視する。彼らは、新分野への新規参入能力、新規アイデア、知見を生む能力を重視する。)



(8)『同調主義』

「同調性が強い。画一、横並び、流行、トレンドを重視する。相対評価を好む。嫉妬心が強い。」

日本の村人は、同調性が強い。

彼らは、流行、協調性を重んじる。

彼らは、周囲の流行に敏感であり、流行に振り回される。

彼らは、映画やアニメとか、メジャーな流行に皆で追随しようとする。

彼らは、付和雷同を好む。

彼らは、トレンドに合わせて動くのを好む。

彼らは、互いの間の気配り・足の引っ張り合いが得意である。

彼らは、みんな一緒に、横並びでいること、分け隔てなく同じであることを強要される。

彼らは、授業とか一斉に行うのを好む。

彼らは、周囲について行けない「落ちこぼれ」を嫌う。

彼らは、周囲との協調性や気配りをやたらと重視し、「出る杭は打たれる」みたいに、遅れてお荷物になる人間、周囲に歩調を合わせない独立独歩タイプの人間を、寄って集っていじめる。

彼らは、自由、フリーを本質的に嫌う。

彼らは、相互牽制、嫉妬心が強く、行くならみんな同時に同じところに同調して行くことを望み、誰かが一人だけ抜け駆けをしようとするのを許さない。

彼らは、人間や組織の成績評価を、偏差値を利用して、周囲との相対評価で決める。

彼らは、自分に対して気分を害する人が出ないように、誰に対してでも八方美人的に平等に配慮する。

彼らは、嫉妬深く、他の人が自分より上位に行くこと、良い思いをすることを全力で阻止しようとする。

彼らは、常に他者、他社と自分との立ち位置を相対的に比較し、上位を行く他者、他社に必死で追いつこう、追い越そうとして、互いに自らを鍛錬し、向上させようとする。

彼らのこうした嫉妬心の強さが、日本社会、日本企業業績向上の原動力となっている。

彼らは、他人が自分と結果的に平等であること、同じであること、格差が無いことを指向し、その結果、社会が均質化する。それは、互いの処遇上の一体感を求める女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、周囲と同調するよりも、各自が強い個性、独自性を持ってバラバラに、自分の能力を発揮できることをしようとする。彼らは、新規のトレンドを生み出し、それに真っ先に乗って、追随者を多く生み出すことに心血を注ぐ。)


(9)『同期~先輩後輩制の重視』

「同期意識が強い。年功序列、先輩後輩制、エスカレーターを好む。追い抜き、競争を嫌う。天下りを好む。」

日本の村人は、入社とかのタイミングを年一回とかに一斉に合わせ、同期させるのを好む。

彼らは、一緒のタイミングで同じ集団に入った人を、同期と見なして、互いに格差の無い同一、均等の待遇を求めたがる。

彼らは、同じ入社年次、同期の人たちが、揃って同期して昇進し、昇進に格差が生じないのを好む。

彼らは、エスカレーターに乗るのと同じく、年を取るに従って、役職が上に順調に昇進していく、あるいは、組織内で年を取った先輩格の人が後輩格の人よりも常に上位者扱いされる、年功序列、先輩後輩制を好む。

彼らは、官庁や大企業で、同期の関係にある人同士が、役職で上下に格差が生じた状態で互いに顔を合わせるのを嫌い、役職の低い方の人が、外局に落下傘降下する形で、顔を合わせないように組織の外に出ていくのを好む(天下り)。

彼らは、あるいは、先に組織に入った先輩格の人が、後から組織に入ってきた後輩格の人に、昇進とかで追い抜かれる(後輩格の人が先輩格の人を追い抜く)のを嫌う。

彼らは、追い越しの伴う競争を根本的に嫌う。

彼らは、後輩格の若い人が、先輩格の年取った人の上司になるのを、互いに扱いにくいとして双方で嫌う。それは、中途採用で高齢者の就職口が限られる一因となっている。

彼らは、学校での昇級や会社での昇進で、飛び級を嫌い、用意された階段を一段ずつ順次登っていくのを好む。

彼らは、いったん登った役職から降格されるのを嫌う。

こうした性格は、互いの処遇上の時間的な揃い、一体性を求める女性的な性格である。

こうした性格は、あるいは、身の安全性を担保する前例や知識の習得を重視し、先に入社した人が、前例蓄積の度合いが大きく、無条件でいつまでも上位になると考える、女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、同期にこだわらない。彼らは、若い人が年取った人よりも役職が上なのが当たり前である。彼らの場合、追い抜き、競争が日常茶飯事である。)


(10)『物真似指向』

「物真似、コピー、合わせが好きである。」

日本の村人は、他人の物真似を好む、物まね、コピー、パクり文化の持ち主である。

彼らは、周囲の動向、流行に必死になって付いて行こう、同調、同期しようとする。

彼らは、周囲とは別の独自の途を一人で歩むのを好まず、周囲に合わせようとする。

彼らは、個人のオリジナリティ(独創性)を、一人だけ周囲と違ったことをするのは好ましくないとして根本的に嫌う。

彼らは、周囲の他者の真似をすることで、周囲との一体感の持続を確保する。

日本村社会は、周囲と離れて一人ぼっちになるのを恐れる、皆で一緒に群れて行動するのを好む「護送船団」社会である。それは、自分の保身に人一倍気を遣う女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、独自性を好む。彼らは、個人のアイデアに基づく独創性を好む。)


(11)『和合の重視』

「和合、一体感、共感を重視する。」

日本村社会は、集団内で、相互の一体感、共感、調和、和合を好む。「和」の社会、仲良しクラブ社会である。

彼らは、互いに同質で同じ考えを持つことを良しとして、集団の和を乱す個人個人のバラバラで異質な強い自己主張を許さない。

日本村社会は、集団の和を乱す突出した考え、行動の持ち主を、皆で寄って集って袋叩きにして潰そうとしていじめる社会である。

彼らは、集団の存続それ自体がいつの間にか自己目的化し、集団内が喧嘩別れをして割れることを嫌う。

彼らの社会は、互いに、集団の和が保たれる方向へと、自分の行動を合わせる「迎合」「媚」社会である。

彼らは、相互の体温、温もりの感じられる、互いの距離感の無い、親近性のある、親しい相手に対してプライバシーの欠如した対人関係を好む。

彼らは、相互の間で距離を取って、対象となる相手を客観的、冷静に見ようとする科学的な行き方を、相手との関係が冷たいとして、根本的に嫌う。それは、相互の一体感、融合感を重んじる女性的な性格である。

彼らは、揉め事とか、何事も丸く収めようとしがちである。

彼らは、訴訟、裁判を嫌い、なるべく和解しようとする。

彼らは、物事の形状で、円形、丸型、柔軟なクッションを好む。

彼らは、円満解決、大団円を好む。

彼らは、争いごとを好まない丸腰体質である。

女性は、生まれついての(生得的な)集団主義者=collectivist、同調主義者=conformistである。そうした性格は、いずれも、個人主義的な欧米では価値が低いが、

日本社会ではメジャーである。日本の国民性が集団主義となるのは、

日本社会で女性が強い証拠である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、意見の対立や訴訟、戦争を厭わない。彼らは、人と意見が違っていて当たり前である。)



(12)『小グループ間の無関心』

「小グループ同士がバラバラ、無関係、無連携、無関心、縦割り、不仲である。」

日本の村人は、互いに一体感の持てる交遊の範囲を個別に狭く限定し、互いに独立した、外に向かって閉じた小さな集団、サークル、派閥(クラス女子高生の生成する仲良しグループとか)を沢山作りたがる。

日本村社会では、学校、会社とかで、メンバーの形成する社会集団が、小さく固まり、個別に小さく互いにバラバラになりやすい。

複数の小さな仲良し集団同士が、互いに閉鎖的、排他的、不仲である。

そのため、各々独立、孤立した個別小集団同士の意思疎通がそのままでは不足になる。

全体集団、全体組織がバラけたままで統合されにくい。全体集団、全体組織が、統制が取れない、互いに無関係で動く状態になってしまいがちである。

中央官庁とかで、より小さなグループのまとまりが、より大きなグループのまとまりより優先される(国益より省益、局あって省無し)。

あるいは、政党で、派閥がそれぞれ独自に勝手に動いて、政党全体のまとまりを欠きがちである。

集団の下位グループが、互いに連携しようとせずに、勝手にバラバラに重複して動いて、その集団や社会全体の利益を損なう、縦割りの弊害が発生しやすい。

日本村社会では、そうした閉鎖的個別小集団間の間を取り持って、相互の意思疎通を図り、何とか互いに一体感を持たせ、全体の統率を持たせることが課題になる。

彼らは、個人ではなく、自分たちのグループが独自と言われるのを好む。

彼らは、個人が周囲からかけ離れて突出するのは好まないが、グループごと突出するのは、存在を強く主張でき、グループのイメージを強くすることにつながり、自己の保身に有利となるので良いとする。

彼らは、他所のグループや国と違う、他に無い独自、独特の文化を持つと言われると喜ぶ。

(VS欧米人(牧畜民):彼らにとって、グループは一時的なもので、個人単位でバラバラ、無関係である。彼らは、自分の利益のために、互いに関心を持ちドライに連携しようとする。)



(13)『被保護への欲求』

「守られたい、頼りたい、養ってもらいたい、甘えたい、寄生したい心理が強い。」

日本の村人は、一人では不安を感じる度合いが強く、保護されたい、守ってもらいたいという気持ちが強い。

彼らは、依存心が強い。

彼らの間には、甘えの心が充満している。

彼らは、官庁や大企業といった、大組織への依頼心、帰属意識、甘えが大きい。

彼らは、一人で自立するのは不安であり、誰かに助けてもらいたがる。強い者になびく。

彼らは、あるいは、誰かに寄生して養ってもらいたがる。「寄らば大樹の陰」ということわざが、この辺の事情を明示している。

彼らが、就職のとき、大きな会社を選びたがるのもこの一例である。

彼らは、ひとりで外部に露出するのが不安であり、アメリカのような強い国に頼ろう、守ってもらおうとする。

彼らは、強いもの、お金のあるものからおこぼれを頂戴しようとする、集り根性が強い(例えば、政府から公共事業費を少しでも多く分配してもらおうとする等)。

日本人の性格は、自己保身に気を遣い、何事も優先して守られる、エスコートされるのを好む女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、自分の身は自分で守る。彼らは、自助を基本とする。)



(14)『権威主義』

「権威主義である。批判、反論を許さない。」

日本の村人は、権威、ブランドに弱い。

彼らは、権威主義である。

彼らの文化は、媚の文化、迎合の文化である。

彼らは、自らの保身のため、少しでも権威ありそうな、主流派を形成している人、あるいは、大学、病院のような知的権威のある機関に属する教師や医師を、「先生」と呼んで、その後を追従し、ペコペコする。

彼らは、自分も権威ある者の後ろを歩めば、安全であり、威張っていられると考える。

彼らは、あるいは、権威ある人の言う事を聞いていれば、大丈夫、間違いないと考える。

彼らは、自分の身の安全や、自分の判断の正しさを保証してくれる、外部のより大きな存在を求めたがる。

彼らは、自分より強そうな者に対しては、ひたすら媚を売り、ペコペコするが、ちょっと弱そうだと、途端に強気に出て、イヤな仕事の押しつけや、恐喝まがいのことをする。

彼らは、自分を権威付け、高く見せるために、評価の定まったブランド品を進んで身に付けようとする。

彼らは、欧米列強の文物を、権威があるとしてやたらと崇拝する。

彼らは、これを信じておけば間違いない定説とされる学説を、宗教のように信仰し、それに対して批判したり、異を唱えることを認めない。

彼らは、自分を押し倒し、圧倒した強大な存在に対して、進んでその色に染まる。

彼らは、あるいは、盲目的に追従し、お伺いを立てる。

彼らは、先生や先輩とかに対する口答え、批判、反論を、相互の一体感が損なわれ、言われた方の威信に大きな傷が付くとして許さず、絶対服従を強要する。それは、自らの保身のため、権威に寄りすがろうとする点、女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、権威に盾付き、批判、反論の自由を求め、行使するのを好む。)


(15)『リスクの回避』

「安全、保身第一である。不安感が強い。退嬰的である。リスク、チャレンジを回避する。独創性が欠如する。」

日本の村人は、安全第一、自己保身第一で、不安を感じる度合いが強く、臆病で退嬰的である。

彼らは、冒険しない。

彼らは、ベンチャーを嫌う。

彼らは、失敗を怖がる。

彼らは、前例がないと何もできない。

彼らは、独創性が欠如している。

彼らは、例えば、人文社会科学分野では、欧米学説の後追いばかりやっている。

彼らは、既存の学説を乗り越えて、新たな学説を作ろうとする気概に乏しい。

彼らは、既存学説との、同化・一体化の力が強過ぎる。

彼らは、未知の分野はどんな失敗をするか分からないので、怖い、として、手を出したがらない。

彼らは、先頭に立たず、欧米の先駆者の後を追う方が安全である、と考える。

彼らは、危ない、リスキーなこと、未知の新しいことはしない。

彼らは、モルモット(実験台)になるのはいやである。

彼らは、より危険で風当たりの強い一番手を嫌い、より安全で楽な二番手で行こうとする。

彼らは、皆を先んじて率いる必要がある、より大変なリーダーであるより、ただ付いて行くだけで良いフォロワーであろうとする。

彼らは、チャレンジを心の底で嫌う。

日本村社会は、一度失敗すると、敗者復活戦、再チャレンジが難しい。

日本社会は、新卒で大会社とかに入れないと、既卒扱いになって、二度と入ることが出来なくなる仕組みになっている。

日本の科学技術が欧米より常に遅れる、後進性のくびきは、不安の強さ、安全指向、退嬰性、前例指向といった、女性性と関係があり、日本社会で女性が強い証拠である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、安全、保身にこだわらず、リスクに積極的にチャレンジする。彼らは、独創性に富んでいる。)


(16)『前例踏襲指向』

 「前例、しきたり、レール偏重である。前例の小改良、磨き上げが得意である。先輩後輩関係がきつい。」

日本の村人は、前例となる知識、ノウハウの急速な学習、消化、吸収に長けている。

日本社会は、明治維新の時とか、欧米の新知識を素早く吸収、学習し、程なく我が物にすることに成功した実績がある。

彼らは、学校や学習塾、予備校とかで、前例となる知識、ノウハウの学習にとかく熱心である。

彼らの社会では、自身への前例、しきたりの蓄積の度合いに応じて上下関係が決まる。

彼らの社会では、前例、しきたりを自身の中に豊富に持っているほど集団や組織の中で上位者になれる。

彼らの間では、年功序列、先輩後輩関係がきつい。

彼らの社会では、集団や組織で、局のような古株が威張っている。

彼らの社会では、新人いじめが当たり前に行われ、いずれの組織においても、新入りの地位が低い。それは、家庭における嫁姑関係(家風習得の度合いの面で、姑が先輩、嫁が後輩、新人)に通じる。

彼らの社会では、前例となる知識や技能を持っている者が、理屈抜きで偉いとされ、一方、若い新人の方が豊富にあると考えられる独創性は評価されない。

安全性を第一と考え、未知の危ない道を通ることを避けて済ませるには、取るべき行動の前例となる経験知識を豊富に積んでいることが求められる。そうした前例としての経験知識は、年功の上の人たちがより多く持っている。

彼らは、既に誰かが先行して成し遂げたオリジナルの前例を吸収、学習して、その小改良を着実に重ね、磨き上げを重ねて、競争力を付けることで、オリジナルを凌駕し、競り勝つこと、打倒することに長けている。

彼らは、人生で、決まったレールの上を進むのを好み、レールから外れることを恐れ、歓迎しない。

そうした性格は、未知の危険を避け、前例のある道のみを行こうとする点、女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、前例、しきたりにこだわらず、積極的に破壊、批判して、自分の力で新しい知見を生み出し、それを普遍的に普及させようとする。)



(17)『後進的、現状維持的』

(17-1)「思考が伝統的、封建的、後進的である。」

(17-2)「無競争、無風、停滞、(既得権益とかの)現状維持が好きである。不変を好む。」

(17-3)「外部からの先進的考えの流入に抵抗するが、いったん突破されると諾々と受容するものの、流入が止むと元に戻る。」

日本の村人は、考え方が伝統的、後進的、遅滞的、封建的である。

彼らの社会では、姑、局のような古株が偉くて、新入りが古株を超えることができない。

彼らは、古い伝統に縛られ、前例やしきたり、現状維持をひたすら重視する。

彼らは、集団内部での内発的な進歩的な新たな試みを危険であるとみなして皆潰してしまう。これは「姑根性」という言葉で表現できる。

彼らは、新参者が古参者を後から追い越す可能性のある競争を嫌い、既存の安寧秩序を守ろうとする。

彼らは、波風が立つのを嫌い、無風、凪、停滞、事なかれを好む。

彼らは、既得権益とかの不変、維持を好む。

彼らは、外来の新しい文化の流入に抵抗しつつ、圧倒、突破されると無条件で受容、追随する。

彼らは、欧米とかの進歩的な文化、制度が外部からやってくることを黒船来襲と見なして、警戒し、攘夷で抵抗する。しかし、

彼らは、外部文化にいざ圧倒、突破されると、手のひらを返したように、その進歩的な考え方にほとんど盲目的に追随し、丸呑みしようとする。

彼らは、iPhoneのように、外部から入ってくる優勢で抵抗しがたい、自らの力では生み出せない、新たで進歩的な考え方、アイデア、製品に、無条件、無批判で我先に追随し、取り入れよう、真似しよう、小改良しようとする。

彼らは、率先して取り入れたこと、導入した結果を、周囲に対して箔付けして自慢する。

外部からの(先進的な)考えが入り込むことに抵抗しつつ、いったん突破されると諾々と受容、丸呑みすることは、男性的な(欧米的)精子に対する女性的な(日本的)卵子の受精関係に似ている(卵子的行動様式)。

しかし、

彼らが、そのように進歩的で新しい、競争的な態度を取るのは、外部から優勢な新しい考えが存在、流入していて、それに対処する必要が生じている間だけに止まる。

彼らは、外部からの新規文化の流入が止まると、元の無風の凪状態、現状維持的、既得権益維持的な気風に戻る。

彼らは、天皇制のように、ずっと不変なもの、永続するものを好む。

彼らは、変化を嫌う。(日本)社会の、(進歩的な欧米社会に比較した)遅滞、封建制の本質は、危険やチャレンジを避けて安全な前例をひたすら守ろうとする女性、母性にある。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、思考が、伝統に囚われず、先進的である。彼らは、競争、変化を好む。彼らは、外部から先進的な考えを当初から積極的に歓迎し、発展させようとする。)


(18)『恥、見栄の重視』

「恥、見栄を重んじる。内部問題を対外的に隠蔽する。綺麗事、美辞麗句を好む。公式、公開の発言の場で沈黙する。」

日本村社会は、自分に対して向けられる他者の視線や評価を非常に気にする「恥の文化」の持ち主である。

彼らは、自分が周囲にどう思われているか盛んに気にして、周囲によく思われようとして、いろいろ気を遣ったり、演技をしたりする。

彼らは、八方美人であり、周囲の国にいい印象を与えることに懸命である。

彼らは、周囲から自分がどう思われているか、自分が気に入られているかどうかが気になって仕方がない。

彼らは、自分が周囲に気に入られるように、盛んに媚びたり、いい子ぶったりする。

彼らは、自分の周囲に対する印象をよくするために、やたらと気配りをしたり、外面的な見かけを整えたりすることに忙しい。

彼らは、面目、体面をとても気にする。

彼らは、常に人の目が気になって仕方がない。

彼らは、他の人に見られているという感じが強い。

彼らは、他人の視線を前提とした見栄張りの行動を行う。それは、「見栄の文化」である。

彼らは、自分が他人にどう見えるかについて自意識過剰である。他人の視線を前提とした化粧や服装チェックは、女性の方がより行う。

彼らは、自分や自分たちのグループが内部に問題を抱えていることを、外部に対して必死になって隠そうとする。

彼らは、問題が無い振りをしようとする。

彼らは、良い格好をしようとする。

彼らは、対外的に良い子でいようとする。

彼らは、「ぶりっ子」をする。

彼らは、自分についての良くない噂が広まる、騒ぎが起きるのを何よりも恐れる。対外的に自分が良く見られたい、受け入れられたいとして、問題を隠すなど自分の印象操作することは、女性の方がより行う。

彼らは、感覚的に美しい快い美辞麗句、スローガンを使うのを好む。

彼らは、大勢がいる中で発言することで、皆の注目を集めてしまう、失笑を買うのが恥ずかしくて、他人の目が気になって発言できない。

彼らは、シャイである。

彼らは、プライベートな小グループの中だと発言できる。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、人目を気にせず、自分の良かれと思うことを恥も外聞も無く堂々と行う。彼らは、セキュリティのために内部プライバシーを重んじる反面、情報のオープンな提示に積極的である。彼らは、公開の場で歯に衣を着せない発言をして物議を醸す。)

R.Benedictが、「菊と刀」の中で唱えた、罪の文化・恥の文化との関連では、

男性は、「罪の性(ジェンダー)」である。彼らは、誰かに見られていなくても、悪いことをしたとして罪悪感を感じ、償いの行動を起こす。男性は周囲の動向とは独立して、独りだけで罪悪感を感じる点、ドライであり、罪の文化(男らしい文化)の基盤をなす。

女性は、「恥の性(ジェンダー)」である。女性は、「赤信号、皆で渡ればこわくない」といったように、罪悪感を感じるかどうかが、周囲の視線の有無や動向に左右される点、ウェットであり、恥の文化(女々しい文化)の基盤をなす。女性は、他者に「見られている」感が強く、他者の視線を前提にした自己アピールである化粧・服装・ファッションを好む。

日本が「恥の文化」に基づく社会となったのは、「恥のジェンダー=女性」が、社会の根幹を支配しているからである。


(19)『気配りの重視』

「配慮、気配りを重視する。遠慮、引きこもりがち、孤立しがちである。」

日本の村人は、周囲の他者に対して、心情的に細やかな配慮、気配りをすることを重視する。

彼らは、周囲に対して温かい思いやりの気持ちを持って接することを重視する。

彼らは、温もりに満ちた社会の実現を目指そうとする。

彼らは、互いに、周囲の他者に迷惑をかけないようにと遠慮して考えるあまり、個人、家族単位で、周囲との交渉を避けて、各々引きこもりがち、孤立しがちになりやすい。

彼らの社会は、社会の統合が弱い。

彼らは、無縁社会を招きやすい。周囲への細やかな気配りは、女性のほうが得意である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、直接的な物言いを好み、配慮、気配りに欠ける。彼らは、遠慮をせず、どんどん物を言う。彼らは、積極的に交渉する。)


(20)『みそぎの重視』

「清潔さを好む。みそぎをする、洗い流す、総取り替えするのを好む。」

日本の村人は、自分の心身を、洗い流して清めるのが好きである。

彼らは、汚れ、穢れを嫌う。

彼らは、清潔、きれい好きである。

彼らは、河川とかで清流を好む。

彼らは、自分の吐く息等が他の人に臭ったりしないかどうかのエチケットにやたらとうるさい。

彼らは、自分の(他人の)汚れ、穢れが他人に(自分に)回らないか、転移、伝染しないか、影響を及ぼさないか、とても気にする。

彼らは、他人に対して、汚れていない、綺麗な、清らかな、良い印象の自分を見せようとして、やたらと自分の髪や身体を洗うのを好む。

彼らは、綺麗な水流に入って心身の汚れ、穢れを洗い落としたつもりになる「みそぎ(禊)」をするのを好む。

彼らは、風呂に入るのを好む。

彼らは、失敗や過去を「水に流して」済まそうとする。

彼らは、汚れのない白装束を、正月の巫女衣装みたいに神事等で着るのを好む。

彼らの考え方は、自分の身体の汚れに対して自意識過剰になって毎朝シャワーやシャンプーを繰り返すのに余念が無い女子中学生と考えが一緒である。

彼らは、互いに(女性的に)自己の保身を図るために、護送船団方式で互いに密集して一体感を持って共同生活することを指向する。

彼らは、そのため、互いに近場の他人の(自分の)身体とかの汚れが自分に(他人に)付かないか、伝染しないか敏感になっている。

彼らは、新しい導入物に感化されやすい。

彼らは、新たに外から圧倒的な力を持って入ってきた、あるいは国内から新機軸を打ち出して成功した新興勢力の文化に社会全体が一瞬のうちに簡単に感化されてしまう。そして、

彼らは、今まで自分たちが大切にしてきたはずの古来の文物を、新しいものと総取り替えで簡単に二束三文で投げ捨ててしまう。

明治時代初期の西欧文物崇拝と廃仏毀釈や、Apple社のiPhone導入がその好例である。

彼らは、新しい権威やカリスマが生み出した、新たな力ある文物に、各自が自分だけ乗り遅れないように必死で追随しようとする。その結果、

彼らの社会では、社会全体が一斉に新たな文物に乗り換えて、古い殻を脱ぎ捨てる現象が起きる。

彼らは、各自が周囲の動向に敏感で、少しでも遅れて仲間はずれになるまいと必死で同調する、

彼らは、また力あるものに我先に順応して我が身の保身を図ろうとする。それらは、いずれも女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、汚れに寛容であり、シャワーの回数が少ない。彼らは、新文物が導入されても、古いよりオリジナルな思想に基づくものは捨てない。彼らは、各自、互いに一人我が道を行くのを許容する。)


(21)『責任の回避』

「責任を回避する。決定、判断を停止、回避、先送りする。無責任である。匿名行動を好む。」

日本の村人は、責任回避、責任転嫁の傾向が強い。

彼らは、自分の取った行動の結果生じる責任を一人で負うのをいやがり、皆で連帯責任にして、一人当たりが負うリスクを軽くしようとする。

「赤信号皆で渡れば怖くない」という格言が流行したり、太平洋戦争の敗戦責任を「一億総懺悔」して取ったつもりになっていることがその現れである。

彼らは、そうすることで失敗の責任を取らされて危ない目に会う(社会的生命を失う)ことを避けることができる。

彼らは、あるいは、物事の決定にできるだけあいまいな玉虫色の態度を取ることで、責任の所在を不明確にして、責任逃れができるように逃げ道を作るのが上手である。あるいは、

彼らは、そもそも責任が生じる意思決定、判断すること自体を回避、停止、保留する。

彼らは、自分からは決断せず、誰かに決めてもらおうとする。

彼らは、他の責任を取れる人に判断を一任して、その判断が下るまで自分からは決定せず、待ちの姿勢を取り、判断対象を体良く無視し続ける。

彼らは、判断を他人に決めさせることで、決めた他人に決定責任を押し付ける。

彼らは、自分から進んで動くと、行動責任を問われるので、自分からは進んで動かず、誰か他の人がモルモットになるのを待つ。

彼らは、自分では責任を取りたくないので、誰か自分の行動に責任を取ってくれる指導者の存在を望む。

彼らは、決定、決断を先送りする。

彼らは、無責任である。

彼らは、自分が取った行動について、後々まで自分がやったという証拠が残って責任追及されるのを避ける。

彼らは、そのため、自分が誰かを、他者に特定されるのを恐れ、匿名でいようとしたがる。

彼らは、証拠が残るのを好まない。

彼らは、SNSとかで、個人情報や実名、顔を出すのを好まない。

彼らは、失敗時、潔く責任を取ろうとせず、責任逃れの言い訳をするのを好む。それは、社会的に、責任を取るのを免除されやすい女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、個人行動基本のため、責任は回避できない。彼らは、決定、判断を急ぐ。彼らは、責任感がある。彼らは、実名行動、顔出しを好む。)


(22)『なつきの重視』

「可愛がり、なつき、情けを重視する。」

日本の村人は、成員が、その中枢に深く入り込んだ所属集団内で、上位者に可愛がられること、上位者になつくことを重視する。

彼らは、旧日本軍将校に見られるように、失敗しても、責任を問われず、仲間内で内輪でなあなあで、もみ消し、穏便に済ませようとする。

彼らは、失敗した当人を冷たく切り捨てることができず、情けをかけようとしたがる。

彼らは、情状酌量で処分が甘くなる。

彼らは、冷徹さを嫌い、情緒的な対応を好む点、女性的である。

彼らは、可愛い部下や生徒に対して、えこひいきをする。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、冷徹な能力主義を貫徹し、失敗に容赦しない。)


(23)『事前合意の重視』

「事前合意を重視する。いったん合意した流れ、方針の変更が困難である。慣性で進もうとする。」

日本の村人は、予め、利害関係者同士で、内密に議論して、落とし所=事前の合意点を決めておくのを好む。

彼らは、関係者への事前の根回し、談合を好む。

彼らに、前もって、事前合意を取らずに、突然新たな話を進めよう、決めようとすると、反発、拒否される。

彼らは、国会とかで、その場その場の即興の公開討議を嫌い、事前の密室での利害関係者を集めた交渉と合意形成を好む。

それは、予め互いの合意、賛成を取り付けておくことで、互いに和合することを好む女性的な性格である。

彼らにとっては、既に、皆で合意、決定した内容、方針や流れを、後から変更する、覆すことが根本的に難しい。

彼らは、太平洋戦争で、戦局が不利になるという分析結果が政府内で後から出ても、既に戦争をやることで首脳部で合意ができていたので、方針を変えることが出来なかった。

彼らは、いったん決めた方針にとって有利な数字合わせを後付けで行う。

彼らは、いったん進むと決めた流れの方向に、不都合が起きても、そのまま慣性の力でずっと進もうとする。

それは、いったん形成した合意による皆の一体感、仲良し状態を後から人為的に壊してしまうのを怖がる女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、リアルタイムの討議による合意形成を好む。彼らは、方針変更をあっけなく大胆に行う。)


(24)『失敗恐怖症』

「プライド(良い格好を重んじる度合い)が高い。失敗恐怖症である。」

日本の村人は、プライドが高い(皆の前で良い格好をしようとする)。

彼らは、失敗して、皆の前で自分のプライドが傷つくのを何よりも恐れる。そうした性格は、英語とかの語学の授業で顕著である。

彼らは、他人が失敗するのを見ると馬鹿にして総攻撃を加えて袋叩きにしたり、陰口を叩いたり、触れ回ったりする。しかし、

彼らは、本当は自分が公衆の面前で失敗するのが怖くて仕方がない。

彼らは、失敗を、誰でもする可能性のある日常的なことと許容することができない。一度失敗すると再び立ち直る機会が社会的に与えられない。

彼らは、失敗者を日頃の鬱憤晴らしの対象として、ひたすら責め立てる。

彼らは、試行錯誤による失敗の繰り返しを避けて、誰か成功した事例はないかとひたすら探し回り、見つかったと見るや、一斉にその真似をする。

彼らは、その成功事例を究極の正解、侵すべからざる信仰対象として、それにひたすら改良の磨きをかける。

彼らは、そこから少しでも外れた者を、エラー、間違いを犯したとして直ちに叱り飛ばす。それは、自らを大切で貴い存在と見なし、自らに少しでも傷が付くのを嫌がる女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、失敗を恐れない。彼らは、自分は有能だというプライドが高い。)


(25)『閉鎖的、排他的』

「閉鎖性、排他性が強い。内外感覚が強い。入試がある。白紙採用を好む。思考が内向きである。閉塞感が強い。対内融通、配慮が効く。自前で済ませようとする。」

日本の村人は、形成する社会集団が閉鎖的、排他的である。

彼らは、集団内と外とを厳格に区別し、ヨソ者に対して門戸を閉ざす。例えば、中央官庁や大企業では、成員の採用の機会は、新規学卒一括採用がほとんどである。こうした組織では、白紙状態でまだどの社会集団の色(しきたり、組織風土など)にも染まっていない若者に対してのみ門戸を開き、本格的な中途採用の道は閉ざされている。

彼らは、純血性を保った自集団(「ウチ」)内で他集団に対抗する形で強固に結束し、内部に縁故(コネ)の糸をはりめぐらす。

彼らの社会は、ヨソ者を入れずに内部だけで強固に結束する鎖国社会である。

彼らは、親しい、付き合い上の安全が保障された身内、内輪だけで固まろうとする。

彼らは、ヨソ者に対してとても冷淡である。

彼らは、オープンさが欠如している。

彼らは、内輪の会話、なれ合いに夢中で、外界について関心が薄い。

彼らは、思考が内向きである。それは、女子中学生、女子高生の仲良し集団が原型である。

彼らは、内輪での仲の良さを外部に向けてアピールする。それと共に、

彼らは、内輪で浮いているメンバーを外部からは分からないように、陰湿にいじめ、差別する。

彼らの社会は、内輪から外れる、村八分にされると、他に行くところが無い社会の仕組みになっている。そこで、

彼らは、皆、外されないように必死になって、他の集団メンバーに配慮する。

彼らの社会では、いったん集団に入ると、定年やリストラなどで用済みになるまでその中にずっとい続ける(浮気をしない)ことが要求される。

彼らの社会では、転村の自由が存在しない。村を出ると村への裏切り者され、新たに別の村に入れてもらおうとしても、前の村で対人関係が上手く行かなかったと思われて信用されずに入れてもらえないことがしばしばである。転村回数が増えるほど村人としての評価が低下する。また、村を出てから、しばらくどの村にも属さない空白期間があると、村人としての空気が薄くなって、ただの浮浪人と化したとする見方が強まり、村人としての評価が低下して、転村先が見つかりにくくなる。

彼らは、ヨソ者は自分たちと行動様式が異なり、何を考えているか分からないので安全でないと考える。あるいは、

彼らは、ヨソ者は、一緒になると自分の属する集団のしきたりや風紀を乱すことを平気でされるのではないかと不安で、安心できないと考える。

彼らは、中途採用者に対して、いじめを行ったり、新人と同じような屈辱的な扱いを強制する。あるいは、

彼らは、そもそも外部から入ってくる者を、派遣社員のように、一時的、部分的にしか、自分たちの組織にタッチさせず、締め出そうとする。この場合、ヨソ者の許容が自身の保全に悪影響を与えるという女性的な心配が、閉鎖的な風土を生み出す要因となっている。

なお、この閉鎖性は、自分たちの所属する身内集団内部の一体感を保つため、ヨソ者が入るのを防いでいるという点、女性の好きな、他者との一体融合感維持指向に通じるものがある。

彼らの社会では、人々が、あらゆる物事に内と外があると考える、「内外感覚」を持っている。

彼らは、そして、外から内に移行する「入る」という意識(エントランス)を重視する。

彼らは、とにかく何でも入ろう、入れてもらおうとする。「入る」という意識は、相手、対象が閉鎖的な場合にのみ生じるものである。

日本人や女性が、何かと「入る」ことにこだわるのは、社会や集団が閉鎖的であることの現れである(欧米のようにオープンな社会のもとでは、人々の「内外感覚」「入る意識」は弱いと考えられる)。

彼らは、あらゆる物事に、入ることが大変な入試を求める。

彼らにとっては、卵子に例えられる、外部に比べてよりリッチな栄養のある内実を持つ閉鎖空間(公務員、大企業、名門学校等)に何でも良いから入ることが、人生の目的になる。

彼らの社会は、中に入れてもらう(一員になる、溶け込む、一体化する)と、優遇され、リッチな気分を味わえる仕組みになっている。

彼らは、そのように入れたことを周囲に向かって何かと自慢しがちである。

彼らの社会は、白色無垢の者のみ加入を許す。

彼らは、(どこか別の集団に長いこと加入していた)色付きの者の採用を嫌う。

彼らの社会は、嫁入りで白無垢の装束を着たり、会社や官庁で、特定の組織の色の付いていない新卒学生の白色、白紙採用を好む。

彼らの社会では、色の付かない無垢の状態のまま、あるいは今まで付いた色を全てご破算にして(社会的に一旦死んで)、一から所属先の新たな色に染まります、という態度を見せないと、集団(会社、官庁、嫁入り先の家族・・・)の中に新たに入れてもらえない。

彼らは、新入りが、集団の既存の色を乱さないこと、集団の既存の色との調和、融合を重んじる。

彼らは、付いた色の濃いのが先輩で、薄いのが後輩であるとする。

彼らは、集団に居続けるに従って、自らに染み付く色が徐々に濃くなっていく、それに伴って他集団への転出が難しくなっていくと考える。

彼らは、学校の入学試験や、企業、官庁の入社試験のように、部外者が集団に入るために、やたらと厳しい入試を設けたがる。

彼らの社会では、集団の中に入れてもらうのが大変である。ところが、

彼らの社会では、厳しい入社試験とかを突破していったん集団の中、ウチに入れてもらうことができると、途端に母の胎内にいるかのような、融通が効く、クッション感のある、柔軟な動きが取れる、温かい、利便性に満ちた、優遇された扱いを受けることが可能になる。

彼らは、役所とかで、親しい身内、内部者に対しては柔軟で融通が利く、配慮に満ちた態度を取り、部外者に対しては、杓子定規で利便性を考慮しない硬直した配慮に欠ける態度を取る。

彼らは、自分の本当の気持ち、意見(本音)は、親しい身内に対してのみ開示する。

彼らは、部外者に対しては、見かけの表面上取り繕った、上辺の気持ち、意見(建前)のみを示す。

彼らの間では、国外や、社外といった、外部に対して関心の薄い、所属グループ内のことに専ら関心が行く、内向き思考が蔓延している。

彼らの社会では、閉塞感が強い。

彼らの社会では、グループの中に閉じこめられている、外に出にくいという感じが強い。

彼らは、人材の調達とか、外部に頼らず、自前で(自分たちのグループ内で)全て揃えよう、済ませようとする。

彼らは、互いに、他グループに任せず、自分たちのグループでやろうとする。その結果、

彼らの社会では、似たような内容の組織やアウトプットが、国とかで、重複して発生、生成しがちである(文部科学省の幼稚園と厚生労働省の保育所とかの二重行政がその例である)。

彼らは、自分たちのグループ以外の他グループをライバルと見なして、頼ろうとせず(互いに閉じているため、頼ることが出来ず)、自分たちのグループ内で自活、自給自足、自己完結しようとする。

彼らは、家電製品や携帯電話とかで、機能とか全部入りのオールインワンの機種を好む。

彼らは、(演習飛行をする米軍機が自分たちの領空を飛ばないと分かった場合とか、)自分たちの領域に侵入してくるもの以外の、外部の動向に対しては、どうなろうと知ったことではないと考え、無関心である。

彼らは、自分の領域、領空を直接侵犯してくる以外の他者、他グループの存在に対して、徹底的に無関心であり冷たい。あるいは、

彼らは、税金を、自分たちの会社や家庭から、国とかに支払うと、自分たちの管轄外に拠出されてしまったと考え、その使い道に無関心になる。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、開放的である。彼らは、開かれた空間内にいるため、内と外との区別があまり無い。彼らにとって、転出、転入が日常茶飯事である。彼らは、アウトソーシング、買収と売却が得意である。)


(26)『受動的』

「受動性が強い。行動主体が非明確である。主体性が欠如している。他者のリードを求める。静止、不動状態が好きである。」

日本の村人は、取る行動が受動的である。受け身である。

彼らは、自分からは積極的に行動を起こさず、意思決定を先送りし、周囲からの働きかけや外国からの外圧があって初めて「仕方なく」行動を起こす。

彼らは、そうして、周りに引きずられる形で意思決定をする。

彼らは、自主性に欠ける。

彼らは、退嬰的である。

彼らは、「お不動さん」の信仰に見られるように、静止、不動状態を好む。

彼らは、行動を起こした原因が自分ではないとして、責任逃れをする。男女の恋愛において、結婚のプロポーズやセックスへのアプローチといったリードを、ほとんど男性側が行うのと根が同じである。

彼らは、主体性が無い。

彼らの文化は、待ちの文化である。

彼らは、自分からは動かず、誰かにやらせよう、やってもらおうとする。

彼らは、誰が行為責任を負うかが明確になってしまうのを避けるため、行為主体をはっきりさせない。

彼らは、主語を省略して表現する。

彼らは、主体をはっきりさせないことで、周囲との一体同調の強さ、心理的な凪、和合、静止状態の心地よさをアピールする。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、能動的である。彼らは、行動主体が明確で、主体性がある。彼らは、他者を進んでリードする。彼らは動きまわるのが好きである。)


(27)『相互監視の重視』

「相互監視、告口を好む。他人の噂話を広めるのを好む。プライバシーが欠如している。」

日本の村人は、相互監視が行き届いている。

彼らは、互いに、周囲の他者が何をしているか、チェックするのに忙しい。

彼らは、プライバシーが無い。

彼らは、他人について、噂を広めたり、陰口を叩くのが好きである。あるいは、

彼らは、権威者や当局に対して、密告をするのを好む(学校の教室で「先生、○○さんが隠れて○○しています!」と告げ口するとか)。かつ、

彼らは、自分は、そうした噂や陰口の対象にならないように、絶えず保身に気をつかい、安全地帯にいようとする。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、互いに他者が何をやっているかに無関心である。彼らは、自分のことに忙しい。彼らは、プライバシーを重んじる。)


(28)『間接的対応』

「対応が間接的、ソフト、遠まわしである。」

日本の村人は、対応が間接的であり、陰湿である。

彼らは、相互の一体感、和合をできるだけ維持するため、他人に対して批判をする際にも、直接的な、明らさまな表現を嫌う。

彼らは、意見を口に出さず、相手に直接直言せず、以心伝心で伝えようとする。

彼らは、表現をソフトにしようとして、間接的な遠回しの表現を好む。

彼らは、そうした遠回しの表現の真意に気づかない他者を、鈍いとして陰口を叩いて批判し、無視したり、陰で他人に分かりにくい形でいろいろ寄ってたかっていじめたり、意地悪する。

彼らは、ソフトだが、真綿で首を閉めるような陰険なやり方をする。

彼らは、相手に直接言わず、間接的に陰湿なやり方で相手の足を引っ張る。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、対応や物言いが直接的であり、ハードである。彼らは、直接進言する。)


(29)『局所的(ローカル)』

「対応が近視眼的、場当たり的、個別、局所的である。」

日本の村人は、対応が、近視眼的、場当たり的である。

彼らは、自分にとって身近な目先の場所や、時間的に目の前の事柄に注意が専ら行き届く。

彼らは、ずっと先の未来や、世界全体規模をコントロールしようとする長期的、遠大な計画性や視点に欠けている。

彼らは、自分のいる周囲の動向のみに注意を払う。

彼らは、自分のところの狭い個別の事例、利害に囚われて、物の見方が局所的になりやすい。

彼らは、「~の説は、自分のところとは違うので、正しくない」という言説がまかり通る(「~の説は、全体の○パーセントが当てはまらない、あるいは論理的に~なので、正しくない」というふうになりにくい)。

彼らは、自己中心で周囲が見えない。

彼らは、全体を鳥瞰して判断するのが苦手である。

彼らは、道路の用地買収とか、全体の利益を考えず、個別の利害をゴリ押しする。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、対応が長期的、計画的、普遍的である。)


(30)『感情的』

「対応がヒステリック、情緒的、非科学的である。感情的に反応する。」

日本の村人は、取る対応が、ヒステリックで感情的、情緒的である。

彼らは、相手からの刺激に対して、冷静に分析する事ができない。そして

彼らは、思わずキーッとなって集団全体で感情的に激昂し、前後の見境がなくなって、予想外の飛んでもない行動に出る(太平洋戦争時の真珠湾攻撃とか)。

彼らは、相手との一体感の有無、好き嫌いを目安にして行動する。

彼らは、相手に対して、客観的に突き放す形で向き合う事ができず、感情的な好き嫌いをむき出しにして対応する(太平洋戦争時のアメリカ、イギリスへの鬼畜米英呼ばわりとか)。

彼らは、対象との一体感を重んじ、対象と距離を置いて物事を見ることができず、物の見方が非客観的である。

彼らは、冷静、客観的に物事や状況を捉える科学を嫌い、何事も気合を入れて努力して行えば不可能なことは無いとする、精神論、根性論、努力万能論を振り回すのを好む。

彼らは、教師とかの熱血指導を好む。

彼らは、学説のような、本来冷静に突き放して評価すべき対象に対する主観的、情緒的な思い入れ、こだわりを強く持ち続け、他人に批判されると感情的に反応する。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、対応が冷静、客観的、科学的である。)


(31)『小スケール』

「スケールが小さい。高精細である。」

日本の村人は、やることのスケールが小さい。

彼らは、小さな精密部品の設計、組み立てのような、微調整や、神経の細やかさが必要な、高精細、高い正確性を要求される事項に、世界で並ぶ者のない強みを発揮する。

彼らの社会は、重箱の隅をつつくような、細かい視点が、大学の入学試験とかで要求され、それに適応した若者を次々と生み出している。

彼らは、小さくか弱い柔らかい「かわいい」、それでいて色気のある「萌える」存在を、アニメやコミック等で次々生み出すのが得意である。

彼らは、天地を駆け巡る壮大なスペクタクル叙事詩を著述するのが苦手であり、俳句のように、小さく凝縮した箱庭のような小さい世界を著述するのを好む。小さい可愛いものは、女性がより好み、生み出すのを得意とする。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、スケールが大局的で、細かいところには神経が行き届かず、大雑把になってしまう。)


(32)『高密度指向』

「高密度、詰め込み、集中を好む。」

日本の村人は、高密度、詰め込み、集中を好む。

彼らは、個人のスペースの空きをできるだけ詰めようとする。

彼らは、ゆとりを嫌う。

彼らは、満員電車を当たり前のものと考える。

彼らは、重箱に寿司や料理を詰め込むのを好む。

彼らは、教育で、子供への知識の詰め込みを重視する。

彼らは、東京を中心とする首都圏への一極集中、密集を好む。女性の方が男性に比べて、過密状態をより好むとされている。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、低密度で、空間的に余裕、自由がある、空きがあるのを好む。彼らは、分散、拡散を好む。)


(33)『厳格さの重視』

「厳格、正確である。」

日本の村人は、厳密、厳格、厳正さを好む。

日本の社会、政府や企業は、医薬品の許認可とか、国際基準に比べてやたらと厳しい(厳密、厳格な)検問や検査数値設定を行いがちである。

彼らは、より安全、安心になるためには、より厳しい審査をしなければならないと考える。ちょっとでもリスクがありそうだとやたらと不安になる。あるいは、検査数値設定が甘かったということで、いざリスクが発生した時の責任を取りたくないと思う。それは、誤り、落ち度、突っ込みどころ、隙、減点箇所が無いことを過剰に求める、女性的な責任回避の心理がなせるものであると言える。それは、嫁のすることにうるさく、厳しくチェックを入れて嫁を叱る姑と根が同じである。それは、姑根性と呼べる。

彼らは、正確さを好む。

彼らは、時間に対して、やたらと正確である。

彼らは、定時性、定刻性を重視する。

彼らの社会では、鉄道が、ラッシュ時でも定時発車が当たり前のことのように行われている。あるいは、首都圏の路線バスが、1秒も狂わない電波時計の導入で、発車が、発車時刻の00秒ジャストに行われるのが普通になっている。もしくは、テレビ放送のニュース番組とか、秒刻みのスケジュールで番組が構成されている。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、コンピュータCPU設計のような論理的な、理屈面での正確さ、厳密さにこだわる。それは、父性的な正確さ、厳密さの指向である。)


(34)『減点主義』

「正解、正論、完璧、無難、無傷指向、減点主義である。」

日本の村人は、物事には正解がある、完璧、完全な状態があることを最初から自明視する。

彼らは、正解と見なされることのみ行おうとする。

彼らは、正しい、批判されにくい正論を主張する。

彼らは、間違うことを恐れる。

彼らは、完全であること、テストの点数とかで百点満点であることを目指そうとする。

彼らは、自分に傷、瑕疵が付くことを恐れ、嫌がる。

彼らは、人や物事の評価を、百点満点の完璧、無傷な状態から、どの位下方に離れているか、差分があるかで判断しようとする。

彼らは、人や物事の評価を、百点満点からの引き算で行う減点主義で動く。

彼らは、無難であること、欠点が無いことを重んじる。

彼らは、評価対象に目立った長所があっても、同時に見逃せない欠点、粗があると、直ぐに否定的な評価を下す。

彼らは、完璧な状態に少しでも近づくことを目指し、ひたすら修行する。

彼らは、物事に失敗したり、正解が直ぐに見いだせない状況になると、道に迷ったとして、途端に怖くなって混乱する。そして、それより先には進もうとせず、元来た道をすぐ後戻りしようとする。

彼らは、正解とされる定説を習得すべき前例と見なして、その奥義習得にひたすら励む。それは、ひたすら正しい、安全が保証された道のみを、奥義を求めて極めようとする、自己保身第一の女性的な心理が元になっている。

彼らは、自分の心や、自分の持ち物に少しでも傷が付くのを恐れる。

彼らは、自分の買ったスマートフォンの液晶とか、傷が付かないように、保護ケース、保護シートとかで、万全、完璧に対策しようとする。

彼らは、マイカーとか、無傷でピカピカに洗い上げ、磨き上げるのを好む。

彼らは、自分に心の傷が付かないように、自分の心に傷を付ける可能性のある他者との交流、対人関係を避け、引きこもりがちになる。それは、自分自身や自分の大切なものを傷つけるという、自らの保身に取ってマイナスとなる行為を嫌う女性的な心理である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、他人の長所を短所よりも積極的に見出し評価し、活用を図ろうとする加点主義である。彼らは、難点が見つかっても、長所がそれを上回れば採用する。)


(35)『管理統制主義』

「一体行動、一斉行動を好む。管理主義、統制主義である。牽制、長時間拘束を好む。休むことを罪悪視する。自由行動を許さない。」

日本村社会では、集団とかの所属者が、一体となって動くことを要求される。

彼らの社会では、集団内での個人の自由で勝手な行動が許されない。

彼らは、教育とかで、成員の管理、統制、締め付け、縛りを行うのが好きである。

彼らは、個人が自由に行動しようとするのを、自分勝手であると決めつけ、束縛、制限しようとする。

彼らは、集団から外れた行動をしたことを個人責任として、行動した本人が助けを求めても、勝手な行動をしたとして冷たく突き放し、助けない。

彼らは、集団に属さない個人行動、独自行動による成果を、格下扱いして認めない。個人がどこかの集団に所属して、その所属集団を通して出した成果でないと認めない。あるいは、一定の権威ある集団による編集を通した内容でないと認めない。

彼らは、学校とか、団体行動での統率、一斉に揃った行動をするのを好み、みんなでお揃いの制服、バッジを着用するのを好む。

彼らは、役所とかで、相手の行動を自由に許可、禁止できる許認可権限を得たり、行使するのを好む。

彼らは、周囲の他者が思い通り自由に振る舞うのを妬み、他者の振る舞いを規制、牽制、長時間拘束して不自由にしようとしたがる。休むことを悪いことだと考え、長時間労働、長時間残業を美化する。一人だけ仕事を早退することを、皆が頑張っているのに一人だけ帰るのはけしからんとして非難する。

彼らは、自由が与えられることを、どう行動すればよいか分からず途方に暮れるとして怖がる。そして、

彼らは、不自由であること、他人に指示されること、他人に行動を合わせることを心の奥底で望んでいる。これは、奴隷根性である。

これは、統制されることで集団メンバー間に生まれる一体感を大切にする点、周囲との一体感を重んじる女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、バラバラの個人行動を好む。彼らは、他人による管理統制を制限する。彼らは、自由行動を許す。)


(36)『従順さの重視』

「上意下達を好む。従順である。」

日本の村人は、上意下達を好む。

彼らは、上位者、下位者間の一体感を重んじる。

彼らは、上位者、下位者間の一体感を損なう、下位者による上位者への言挙げを嫌う。

彼らは、上位者、上官の言うことを、異を唱えずに素直に聞く人間、上官の命令をそのまま誠心誠意、忠実、誠実に守る人間、上官の指示を守って動く人間、上官の意を自主的に汲んで動く人間を好む。

彼らは、上位者に素直に従おう、従順であろうとする。上位者を受け入れよう、上位者に反逆しないように行動しようとする。強者になびく。

彼らは、国とかの上位者の決めた規則を忠実に守ろうとする。それは、上位者、下位者間に生まれる一体感を大切にする点、相互の一体感を重んじる女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、反逆、反抗、異を唱えること、自分流を好む。)


(37)『総花的』

「総花式、オールインワン、万能、八方美人を好む。」

日本の村人は、総花式を好む。

彼らは、偏りや、特定面でのみ優れているのを好まない。

彼らは、何でも出来る万能さを好む。

彼らは、製品とか、あらゆる面で平均以上に優れているのを好む。

彼らは、製品の機能がオールインワンで、機能が万遍なく入っているのを好む。

彼らは、八方美人で、誰からも好かれるのを好む。

彼らは、医薬品とかの製造、販売で、どんな症状にも効くことを指向して、例えば、相反する働きを持つ制酸剤と消化剤を一緒に混ぜた胃腸薬を製造、販売する。それは、女性が、絵を描く時の色遣いで、特定の色に偏らず、万遍なく使おうとするのと根が一緒である。

彼らは、全てを満たそうとする。

彼らは、何でもこなせるジェネラリストを、役所とかで重んじる。

彼らは、つぶしの効かないスペシャリストを嫌う。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、製品とかが特定機能に優れていて、ライバルがいないのを好む。彼らは、鋭い判断が出来るスペシャリストを好む。)


(38)『突出の回避』

「突出を回避する。目立たないようにする。標準、普通を指向する。」

日本の村人は、ネットとかで、目立ったことをした他者について、すぐその身元を特定し、プライバシーを暴露することに情熱を注ぐ。

彼らは、逆に、突出した目立った行動を取るのを極力控えようとする。

彼らは、そうすることで、自身が外部に目立って危険な目に合いやすくなったり、自身のプライバシーが暴露されたりすることにつながること、あるいは周囲との協調、和合を乱すことを避ける。

彼らは、普通、標準でいようとする。

彼らは、オタクのように、特殊扱いされるのを嫌い、一般人(一般ピープル)でいようとする。

彼らは、一人だけ目立つのを嫌う。

彼らは、目立ちたい時は、宴会の隠し芸とかで周囲の他人と一緒、同時に目立とうとする。

彼らは、何か一人で行動を起こすと何かと突出して目立ち、叩かれるので、自分からは何も行動を起こさず、無為でいようとする。

彼らは、誰か他の人が勇気を出して行動すると、それに便乗する。

それは、突出することで集団から浮くことを恐れる女性的な性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、突出しようとする。彼らは、強烈な個性で目立とうとする。彼らは、特異性を求める。)


(39)『中心指向』

「中心、周辺を区別、差別したがる。皆で中央、中心、都心を指向する。」

日本村社会は、(ウェットな液体分子群のように、)中心、中央の概念、中心形成の度合いが強い。

彼らの社会では、中心、中央と周辺、地方との差が大きい。(ドライな気体分子群のような欧米では、バラバラ、散り散りで中心、中央の形成が弱い。中心があまり無い。中心と周辺の差があまり無い。)日本の村人は、皆が一カ所に集まろうとする。

彼らは、中心部に集中して存在しようとする。

彼らの社会では、都心が過密状態になりやすい。

彼らの社会では、通勤とかで、皆が都心に集中するオフィスを一斉に目指そうとする。それは、皆で集まった方が、護送船団と同じで保身に有利である、中心に近いほど外部環境露出が少なくて保身に有利であるとする女性的な考え方である。

彼らは、自分が皆の中心に位置して、皆の注目を集めたいと考える。

彼らは、中心、周辺視が強い。つまり、

彼らは、中心、中央と周辺とを区別、差別する考えが強い。日本では、首都東京と、地方との格差が大きい。都心に住んでいる人とか、中華思想を持ちやすい。中華思想は、自分たちが世界の中心である、自分たちが世界の中心にいて偉い、中心部が偉くて周辺部は劣っているとするものである。

彼らは、日本軍による沖縄戦対応のように、中心、本土を守るために、周辺の人々を捨石扱いする。

彼らは、自分や自国が、より大きなグループ、世界の中心、中枢、中央になろうとする。

彼らは、中枢で周囲から温かく守られると共に、周辺に向けて命令できるのを好む。

彼らは、中心に集中する。

彼らは、中央、中心を目指そうとする。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、あまねくグローバルに普遍的に拡散して分布しようとする。彼ら、父性、ドライな人、個体は、自分や自国の文化や指令の、中心の不定な、普遍、グローバルな感染、拡張、拡大、広がりを目指す。彼らは、気体の空気やガスのように、あまねく世界中に広がる、普及する、拡散することを指向する。

彼らは、空気に乗って伝播、伝染するインフルエンザのウィルスと同じ行動を取る。)


(40)『マイナス思考』

「他人の陰口、悪口を好む。他人の欠点探しや粗探し、足を引っ張るのを好む。思考、やり口がネガティブ、マイナス、陰湿、陰険である。」

日本の村人は、他人のマイナス面に関心が行き、他人の欠点や失敗、粗探しをひたすら行おうとする。それは、他人に対して駄目出しをすることを好む「駄目出し社会」である。

彼らは、他人が自分の上を行くことに我慢が出来ず、足を引っ張るためのネガティブ要素を探すのに夢中になる。

彼らは、学校や会社で、自分が気に入らない、かつ、その場にいない他人の陰口を叩く、悪い噂話を広めるのを好む。

彼らは、そうすることで、当人のマイナス評価を周囲に広め、足を引っ張り、当人に大きなダメージを与えようとする。

彼らは、思考、やり口がネガティブ、マイナス、減点主義である。

彼らは、宴席とかで、その場にいない人の悪口を言い合って盛り上がり、その場に居合わせた一同が、悪口を叩かれた不在者をダシにして一致団結しようとする。

彼らは、一方、当人がその場に居合わせる時は、面と向かっては当たり障りの無いことを言ってごまかしたり、見かけ上褒め合ったり、迎合したりして、裏表が激しい。

彼らは、気に入らない相手を直接攻撃せず、周囲から、からめ手で間接的に足を引っ張る。

彼らは、やり口が陰湿、陰険である。それは、相手の欠点、粗ばかりを探そうとする、減点、マイナス思考の姑根性のような性格である。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、他人の長所を見出し積極的に褒めて、勇気づける。彼らは、ライバルと正々堂々と勝負する。)


(41)『努力、苦労、労働の神聖視』

「努力し、苦労することを良しとする。楽をすること、休むことを罪悪視する。」

日本の村人は、(周囲の他人が)地道に努力し、苦労すること、たくさん働くことを尊ぶ。労働することを重視する。

彼らは、自分の周囲で仕事を省力化して楽をする人、さっさと効率的に働いて直ぐに仕事を終らせて帰ろうとする人に嫉妬して、非難したり、強引に別の仕事を割り振ったり、残業させようとする。

彼らは、休むこと、手を抜くことを罪悪視する。体調が悪くても仕事を休まないことを賞賛する。とにかくひたすら働くことを重視し、周囲に強要する。長時間労働、長時間残業を肯定する。

彼らは、仕事を効率化して成果を上げることより、仕事で努力、苦労をいとわない姿勢、心がけそのものを重視する。

彼らは、楽をしていると、仕事をしていないとみなされ、嫉妬されて足を引っ張られるので、必死で苦労している振りをする。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、労働を生きていくための必要悪とみなし、少しでも仕事を効率化して楽をしよう、休もうとする。バカンスを楽しもうとする。)


(42)『真実、内実の隠蔽』

「真実を隠蔽する。相手から急所、真実を突かれると無反応状態になるか、相手を無視する。」

彼らは、本当のこと、真実、内実を、知られると騒ぎになると考えて、隠蔽して語ろうとしない。

彼らは、真実からかけ離れた、当り障りのない、表面的に都合の良い、綺麗事のみを強調した建前の議論でお茶を濁そうとする。

彼らは、リアルな真実を語ることが、社会として出来ない。太平洋戦争時の大本営発表や、福島第一原発事故の際の情報隠蔽、精神障害者の子供を持った親による子供の病気の対外隠蔽が好例である。陰湿な女社会の内実を隠蔽してきた女性たちと根が一緒である。

彼らは、公式、公開の場で発言せずに沈黙する。あるいは、

彼らは、建前上の、無難な、その場の大勢に迎合した良い子、ぶりっ子の発言のみ行う。

彼らが積極的に自由に発言するのは、ある程度非公式、非公開の場に限られる。

彼らは、衆目の監視の中で発言すると、発言内容に公の責任が生じるため、保身のため、何も発言しないで、黙って含み笑いしているのみである。あるいは、

彼らは、親しくない人が大勢いる中で自由な発言をするのに抵抗がある。

彼らは、親しい内輪の中でないと自由に発言できない。

彼らは、相手が急所、真実を突いてきたとき、そこが急所、真実であることを気づかれないために無反応だったり、わざと取り繕ってお茶を濁したり、茶化したり、ことさら無視したり、話題を関係ないものに変えようとする。

(VS欧米人(牧畜民):彼らは、自分個人の独立に忠実であるために社会の真実を積極的に語ろうとする。彼らは、自分の急所を突かれると直ちに猛反撃を開始する。)


(リストアップはここまで)


日本社会「村の掟」

日本村社会で生き抜くには、良くも悪しくも、以下のような対処をすることが必要になる。これは公言してはいけない裏の掟である。人権上問題のある掟も多々含まれているので注意が必要である。

(1)「入村の心得、転村不可」初めて入った村、生まれた村が一生過ごす村になる。後からはやり直しできないので、入る村の選択をくれぐれも誤るな(結婚時、新卒時、就活とかで)。入ろうとする村のこと(社風とか家風とか)を事前に徹底チェックせよ。寄らば大樹の陰。大きく安定していて将来性のある福利厚生の良い村に入れてもらえ。

(2)「コミュニケーション力の重視」コミュニケーション、協調性を重視せよ。村の中の嫌いな相手にも明るく積極的に話しかけろ。コミュニケーション力が無いと、他の村人から疎まれ、村を追い出されるから気をつけろ。

(3)「飲み会の重視」飲み会、宴会を重視せよ。同じ釜の飯を食うことで仲間、身内に入れてもらえやすくなる。

(4)「村への滅私奉公」自分の所属する村、身内の利益をひたすら考えよ。身内のためにひたすら尽くせ、汗を流せ。長時間働け、苦労しろ、滅私奉公せよ。余所者(非正規雇用者とか)はどうなっても良い、無視して構わない。

(5)「村内の強い人、偉い人への対応」村内の強い人、偉い人(先輩、恩師、上司、姑)を立てろ、媚を売れ。気配りしろ。積極的に懐け、甘えろ、頼れ。反論するな、批判するな、理屈をこねるな、言うことを聞け。良く話をして、そうした普段の話の中からふと漏れ出る彼らの弱みを握れ。握った弱みを盾に相手を思い通りに動かせ。長いものには巻かれろ。力ある者に逆らうな。御用聞きをして取り入れ。ペコペコして溜まったストレスは自分より弱い者をいじめてうっぷんを晴らせ。

(6)「村外の有力者への対応」村外の有力者(役人、議員、資産家等)とのコネ作り、コネ維持を重んじろ。いざという時に助けてもらえるよう、常日頃から恩を売っておけ。

(7)「権威への対応」権威あるもの(欧米の文物とか)にはとりあえず従っておけ。自分もその権威に積極的にあやかり、権威と一体化して箔を付けて、周囲に威張れるようにしろ。

(8)「先輩後輩制の重視」年功序列、先輩後輩制を重んじろ。年を取るほど前例、しきたりが蓄積されて偉くなる。

(8-1)「先輩への処遇」古参、古株が偉いことを肝に銘じろ。先輩を立てろ、敬え、批判するな、とにかく言うことを聞け。先輩の言う通りに動け。

(8-2)「同期の処遇」同期はなるべく同等に処遇せよ。やむを得ず処遇に差が出る場合は、互いに顔を合わせずに済むように周囲が配慮せよ。仕事が出来ない方、コネが弱い方を子会社、子集団に出向、天下りさせろ。

(8-3)「後輩への処遇」後輩に懐かれる、尊敬されるだけの器量(技とか人間性)を持てるよう頑張れ。後輩にバカにされるようでは終わりだ。後輩は部下としてこき使って構わない。

(9)「管理職の登用」村のまとめ役、管理職は、長年村のことを第一に考えてリードしてきた、生え抜きの年功を一定以上積んだ者の中から優秀な者を選べ。役職付きになれる者は上に行くほど限られている。

(10)「役職登用と年齢制限」一定の年功に達したのに役職が付かなかった者は一生下積み、下働きの現場労働だ。

(11)「空気を読むことの重視」自分を周囲に素早く合わせろ。周囲の動きに敏感になれ。空気を読め。自分の考え、独自の意見に固執するな。自分の考えを持つな。周囲と一体になれ。とにかく周囲に合わせて動け。自分を無にせよ。異を唱えるな。その時々のお上や村の有力者、村の仲間、周囲、世間の中で大勢となっている意見に、時々刻々意見を合わせて、カメレオンのように迎合、変身して付いて行け。

(12)「少しだけ先んじることの重視」ライバルや世間の一歩先を行くような気の利いた意見を流布させ、人気者になって力を得よ。先に進み過ぎないようにせよ。

(13)「人気者になる心得」先進国、首都とかで人気が出たもの、出そうなものを、周囲に先んじていち早く取り入れて見せびらかせ。村の人気者になれるぞ、儲かるぞ。

(14)「和合、事なかれの重視」村内部の和を第一に考えよ。波を立てることをするな。揉め事を起こすな。事なかれ主義に徹しろ。空気を読め。

(15)「出る杭は打たれる」出る杭は打て。内輪の和を乱す目障りな異質な者、異分子は寄ってたかって徹底的に叩け、いじめろ、同化させるか外に追い出せ、排除せよ。皆が一つの色に仲良く染まることを理想とせよ。自分は余り目立つな、浮くな。個人行動をするな。皆と一緒に地道に努力して、認められる時を待て。

(16)「失敗回避と自己責任」起こした失敗はそのままでは連帯責任になってしまい、村の身内や偉い人まで対象になり迷惑がかかる。とにかく失敗するな。石橋は叩いても渡るな。慎重に動け。村の身内や偉い人を巻き込みたくなければ自分で腹を切れ(自己責任を取れ、自殺しろ)。失敗したら再チャレンジの機会は無いと思え。

(17)「遅刻、休みの禁止」遅刻は絶対するな(定時に皆揃って一斉作業を行うことが村の行事遂行に必須である)。休むな。這ってでも出社せよ。周囲に合わせて遅くまで残って頑張れ。自分だけ早く帰るな。すると周囲の受けが良くなる。

(18)「村外に追い出されないことの重視」所属する村(身内の集団)から決して外に追い出されないようにしろ。出て行けと言われないように、常日頃から周囲に対する気配りを怠るな。村に何が何でもしがみつけ。一度出されたら次は無い(余所者、浮浪人扱いされ、どこにも入れてもらえなくなる)。

(19)「村への連続所属の重視」所属する村の存続、永続のために我が身を削って滅私奉公せよ。(あるいは、周囲の受けを良くするために滅私奉公している振りをせよ。)所属している村に、死んだり、定年で退職するまでずっと所属し続けよ。村の用意した人生のレール、エスカレーターから決して外れるな、降りるな。外れない、降りない限り、生活は村が保証する。いったん、村のレール、エスカレーターを自分から降りた場合はその後の生活は自己責任で、村は一切関与しない、助けない。

(20)「村八分」村の掟を破ったり、村に迷惑、負担をかける者はみんなで懲戒処分にせよ。村八分にせよ。困っていても無視しろ。自分が懲戒処分されないように村の掟には絶対服従せよ。

(21)「集団自決」村と運命を共にせよ。集団自決せよ。一人だけ逃げ出すなんてもってのほかである。

(22)「村を出ていくのは裏切り者」村を自分で勝手に出て行った者(原発事故避難者等)は裏切り者扱いされるので、その覚悟をしろ。村から出るな。一生を今いる村で過ごす覚悟をせよ。

(23)「気に入らない者への対処」村内で気に入らない者は陰口、噂話を流して潰せ。

(24)「村の名誉の重視と恥の回避」見栄を張れ。同じ村人として恥ずかしくないようにしろ。村の名誉のために頑張れ。不祥事を起こして身内に恥をかかせるな。身内に迷惑をかけるな。

(25)「内部告発の禁止」村の内輪のことを外部に漏らすな。内部告発するな。漏らした者は裏切り者だ。

(26)「余所者、非村人の入村不可」余所者、非村人(非正規社員等)を信用するな。余所者、非村人を内輪に入れるな。内輪だけで固まるようにしろ。身内のことだけを考えろ。

(27)「強者の神格化」頂点の支配者(天皇陛下)を、お上として神扱いせよ。お上にはいかなる時も絶対服従せよ。お上の家来の役人にも絶対服従せよ。出世するには、厳しい受験競争を打ち勝って、お上の官公庁のキャリアの立場に新卒の白紙採用で身内扱いで入れてもらうことを子息の教育の究極目標とせよ。

(28)「強者への従順」お上にはペコペコ頭を下げて従え。媚を売れ。反抗すると命は無いと思え。お上の言うことは絶対だ。強い者が誰かは時々刻々変化するので、遅れ無いよう、その時々の強者に付いて行け。

(29)「弱い者いじめの容認」お上にペコペコするとストレスが貯まるので、捌け口として弱い者いじめを積極的にせよ。多数で一人をいじめるのは全然構わない。数こそ力だ。集団こそ力だ。浮いた弱い者をいじって叩いて無視して、日頃の憂さ晴らしをせよ。

(30)「ピンはねの容認」自分より強いお上や元請けには、頭を下げて仕事を貰え。ピンはねされても生きていくためには止むを得ないから黙って従え。自分より弱い下請けには、利益をピンはねして構わない。下請けは徹底的に搾取せよ。生きていく上で必要だ。

(31)「強者への反抗、一揆」止むを得ずお上に反抗する時、一揆を起こす時は首謀者が誰か分からないように書類を全て焼却しろ。

(32)「スーパーお上の利用」国内のお上や元請けを動かすには、外国、外資(西欧、北米)とか国連とかの、より強い「スーパーお上」の出羽守になって、スーパーお上の権威ある説の中から自分たちに都合の良い説をピックアップして主張せよ。スーパーお上の身内になって、国内のお上や元請けよりも上の立場に立て。スーパーお上に取り入って、自分の都合の良い情報を吹き込んで操り、その力で、国内のお上を支配せよ。

(33)「新卒一括採用の重視」村に入ろうとする新参者は、自分に反抗しない子飼いにするため、出来るだけ若い新卒の白紙状態の者を揃えて一括採用せよ。色の付いた中途は採用するな。既卒や職歴の途切れた者は村人の気が消えているので採用するな。

(34)「派閥抗争の重視」村の派閥に積極的に入れ。派閥こそが身内の中の身内だ。自分の身内にとってライバルとなる他の村や派閥に気を許すな。ライバルの派閥は身内一丸となって攻撃し、せん滅せよ。やられたらやり返せ。身内の中で力を発揮して実力者の証を見せることを生きがいとせよ。派閥に入ろうとしない八方美人とは付き合うな。

(35)「情報統制の重視」自分たちが負けているとか、自分の村、身内の恥になる都合の悪い情報が流れることが無いよう、徹底的に情報統制せよ。都合の良い情報だけが流れるように記者を会食とかで懐柔し締め上げろ。都合の良い情報だけを広報せよ。都合の悪い情報を流した者、知っている者は、何としても探し出し処分せよ。身内の都合の悪い、恥ずかしい内情は最後の最後まで外部には隠し通せ。焼却処分して消せ。

(36)「根性論、精神論の重視」やる気、根性、精神力があれば、努力すれば、何事もなしうる。科学的指導など意味がない。根性の無い者、耐える力の無い者は、しごいて焼きを入れる必要がある。とにかくやる気を見せないと身内には入れてもらえないし、身内から放り出されるぞ。

(37)「おもてなしの精神」自分の所属する村にお金を入れてくれる元請けやお客様とかは、自分の村の村人で無くても村の存続を図ってくれる有難い存在なので、神様扱いして最大級の心細やかなおもてなしをせよ。

(38)「村を通すことの重視」物事を通す、決定するには、必ず村を経由しろ。身内で協議しろ。村を通さずに、個人で勝手に動いて出来た成果物は信用するな。書籍とか必ず出版社の村の編集を通したものを買え。自費出版書籍とか信用するな。

(39)「個人行動の禁止」個人で勝手に動くな。必ず他の村人にお伺いを立てて、協議を通せ。必ず事前に根回しをしろ。




日本村人度判定テスト

村人かどうかを判定する基準は、テスト形式で以下のようにまとめられる。

1.ウチという言葉を良く使う→村人

2.先輩後輩同期という言葉を良く使う→村人

3.外人という言葉を良く使う→村人

4.先生という言葉を良く使う→村人

5.発言する時、空気を読む→村人

6.人物の成績を偏差値で評価するのが好き→村人

7.無難、事なかれなのが好き→村人

8.減点主義である→村人

9.失敗するのは本人の努力が足りないからと考える→村人

10.失敗するのは本人の根気、精神力が足りないからと考える→村人

11.身内の恥を外部に出さない→村人

12.人の目、噂を気にする→村人

13.見栄っ張りである→村人

14.上手く行っている他人が妬ましい→村人

15.陰口を叩くのが好き→村人




「日本村社会=女社会」論

日本の村人は女性的である。日本社会、村社会は、女々しさにあふれている。社会が女の色に染まっている。(一方、欧米社会は、日本村社会に比べると男性的であり、男社会である。)

これは、女性の、日本社会に占める勢力、影響力の大きさの現れである。男性の勢力を上回る女性優位の証拠である。日本社会を支配するのは女性である。

日本社会、日本的村社会は、女流社会、女社会(女性優位社会)と言うことができる。女性は、皆、村人である、ということも出来る。村社会を作り出す力の源泉は女性である。

日本社会と女社会の相関、類似性は、日本的パーソナリティと女性的パーソナリティが、双方共通して液体分子運動パターンに当てはまっていることに示されている。液体分子運動パターンは以下のようにして示される。



液体分子運動パターン(女性的、母性的。(稲作)農耕民的。日本的、中国、韓国、北朝鮮的、東南アジア的。ロシア的。)


液体分子運動パターンにおいて、一つ一つの個体を日本人として捉えると、

・身内集団への所属重視

・集団同調行動を好み、浮くといじめられ追い出される

・身内に留まるため絶えず自分の向きを動かし必死で周囲に気配り、空気を読む

・護送船団で個人責任回避

・身内のために滅私奉公

・閉鎖的、排他的

である。

この液体分子運動パターン(リキッドタイプ)で、従来日本的とされてきた社会の特徴の大半を説明可能である。


あるいは、液体分子運動パターンにおいて、一つ一つの個体を女性と見なすと、

・絶えず群れて派閥を作る

・必死に周囲と癒着し甘え媚び同調一体化しようとする

・自分の向きを絶えず動かし、周囲の空気を読むのに懸命

・周囲を絶えず相互監視し、足を引っ張り合う、妬む、陰口を言う

・責任分散で個人責任回避

・外部に対して閉鎖的で冷たい

である。

この液体分子運動パターン(リキッドタイプ)で、従来女性的とされてきた社会の特徴の大半を説明可能である。

この液体分子運動パターン(リキッドタイプ)で、日本的社会、女性的社会を共通に説明可能である。

女性(リキッド、液体的な行動原理で行動するジェンダー)が支配する日本社会の中で生活するのは、液体の中、言うなれば水中に潜って生活しているのと同じである。息が出来ない窒息感が著しい。

日本の人々がこうした行動を取る背景として、日本の人々が自分の保身に敏感であることがあげられる。

生物学的に貴重な性である女性の取りがちな行動は、根源的には、安全第一、危険回避、失敗が怖い、不安が強いという点に尽きる。

女性は、言わば、生ける宝石のような、貴重品として、護衛(の男性)に守られる形で、自分の保身を最優先にして行動するのである。

女性の持つ「貴重な、守られる性」としての性格についての説明は、著者の他著作を参照されたい。

こうした、生物学的に貴重な性=女性的行動が、社会全体に及んでいるのが、日本社会の特徴である。

つまり日本人は、自分の保身に不安で敏感であり、安全第一、危険・失敗の回避を最優先にして行動する点、女性的である。自らは危ない橋を渡らず、ベンチャーとか冒険を嫌がる。日本の銀行のベンチャー企業への貸し渋りがこの典型である。

上記村社会原理リストの各内容が、貴重な性としての女性に支持されるのは、みんな一緒に、集団でいれば、孤立して、他者の助けが得られなくなる、という事態から逃れることができて安全だからである。集団、護送船団を作って相互牽制し合う方が、ひとりぼっちの孤立無援状態になりにくい。生物学的に貴重な性として、安全な群れの中心部にとどまる女性に向いている。

上記リストの各内容は、何らかの形で、女性の持つ、自分の身を守ろう、安全第一で、危険を回避しよう、誰かに保護してもらおう、不安を回避しようとする自己保身傾向に合致している。

以上で見てきたように、

日本社会は、女性に都合よくできている、女性的価値観で動く社会であると言える。日本は、母親の力の強い母性、母権社会であり、欧米は、父親の力の強い父性、父権社会である、と見ることもできる。

参考までに、日本とは対照的な父性、父権的な西欧、北米社会のパーソナリティと、男性的パーソナリティは共通して気体分子運動パターンに当てはまっており、以下のように示される。




気体分子運動パターン(男性的、父性的。遊牧民~牧畜民的。西欧、北米、ユダヤ、アラブ、トルコ、モンゴル的。)

気体分子運動パターンの一つひとつの個体の動きを人々の心理的動きとして捉えると、
・個人主義、自由主義。プライバシーを確保できる。
・能動的。動きが高速。
・自立するしかない。一人であり、周囲に助けてくれる人がいない。自分のことは自分で守る(守らないと生きていけない)。責任を取る(取らされる)。
・攻撃的。流れ弾がどんどん自分のところに飛んできて危険である。
・一人で未知の空間に進まねばならずリスキーである。
といったようにまとめられ、西欧、北米社会の国民性に近いことが分かる。

日本と欧米とで権力者の行動様式が違うのも、日本で主流を占める女性の権力行使パターン(ボスとしてのあり方)が、欧米で主流を占める男性のそれと違うからではないだろうか?

日本では、

権力の行使のあり方が、

(1)集団主義的である。同調・同質性の確保を優先する

(2)人格そのものを重視する(上位者に可愛がられることが重要。上位者への甘え・なつきを重視する。)

(3)(流行への)同調競争に勝ち得た者が、上位へと昇進する

(4)前例を多く蓄えた年長者が威張る

(5)上位者への権威主義的な服従を好む

(6)一人の犯した失敗も周囲との連帯責任とする

というように、ウェットであり、女性的である。


なぜ、日本社会が女性的性格を持つに至ったか?それは、日本が典型的な稲作農耕社会であることと関係する。

稲作農耕社会を構築する過程で、集団による田植え・刈り取りなどの一斉行動、一カ所への定住・定着、農業水利面での周囲他者との緊密な相互依存関係の樹立、集約的農業による高密度人口分布、といったウェット、液体分子的な行動様式が求められた。

ドライ・ウェット、気体分子的・液体分子的な行動様式についての説明は、著者の他著作を参照されたい。

ウェット、液体分子的な行動様式を生まれながらにして身につけているのは女性であり(男性が生得的に身につけているのは、個人主義、自由主義といったドライ、気体的な行動様式)、社会のウェット化、液体化には、女性の力が強く求められた。

女性の強い影響下で社会のウェット化、液体化を推し進めた結果、その副作用として、自己保身や安全第一といった女性的な行動様式が、男性にも強く感染して、男性の「女性化」を引き起こした。のようにして、女性的行動様式が日本社会全体を包み込むような形で、支配的になり、「日本=女性的性格を持つ社会」という構図が成立した。

日本社会全体、ないし国全体を一人の人格として擬人化して捉えるならば、それは一人の女性、女の子として捉えることができると考えられる。国全体としての意思決定や外交交渉のあり方などにおいて、

(1)彼らは、自ら明確な意思決定をせず、あいまいな態度を取り続け、決定をずるずる先送りする

(2)彼らは、自分からは行動を起こさず、受動的、退嬰的である

(3)彼らは、その時々の雰囲気に流されて、周囲のメジャーな流れに追従する

(4)彼らは、ヒステリーを起こす(太平洋戦争などで、思わずカーッとなって、残虐行為を繰り返すなど)

(5)彼らは、意思決定のあり方が情緒的で、非合理・非科学的、精神主義的である(根性論を振り回すなど)

(6)彼らは、身内だけで固まり、外国人や難民などのヨソ者に対して門戸を閉ざす(閉鎖的、排他的)

(7)彼らは、周囲の国々に自分がどう思われているか、やたらと気にする、八方美人的態度を取る

(8)彼らは、先進国に追いつき追い越せというように、自らは先頭に立たず、二番手として絶えず先進諸国を後追いする

(9)彼らは、アメリカなどの外圧がかかって、初めて重い腰をあげる(外圧がないと、動かない)

(10)彼らは、長期的視点を持たず、目先の短期的な動向に関心が行って、場当たり的な対応に終始する

など、日本の国ないし社会全体が、ウェットな液体的な女性的人格をもって行動していると言える。 日本の国家・社会は、「女社会」「女流社会」「女性優位社会」「大和撫子社会」と呼べる。

こうした社会の液体的、ウェットな性質は、同じ稲作農耕民社会である、東アジア(中国南部、韓国)、東南アジアにも共通して見られると考えられ、その基本的性質は、決して、日本独特、日本特殊のものでは無く、東アジア、東南アジアの稲作農耕民社会ベルトに共通のものである。稲作農耕民社会は女社会であり、アジア的生産様式は、女性的生産様式であると言える。

日本村社会の掟は、ほぼ稲作農耕民社会の掟、女社会の掟である。

(これに対して、気体的でドライな牧畜民社会の欧米各国は、男性的社会、男社会として捉えることができると考えられる。アメリカが日本に導入した日本国憲法とか、ほぼ男社会の掟である。)

日本では男性も、女性の色に染まっている。日本男は、自分の保身に敏感であり、親分子分関係や浪花節といった、ベタベタ・ジメジメしたウェットな人間関係を好む、女性的な中身を持っている。日本男性の心理は、さらに、それに加えて、女性を守る役割を取らせるため、女性によって植えつけられた、表面上の専制君主的な「強さ」「強がり」とが、一緒に同居していると考えられる。

日本の男性は、筋力、武力のある女性モドキの存在、女性化し男性として劣化した存在として捉えられる。日本男性は、家庭で家計管理の権限を女性に取られてしまい、母子のために下僕のように給料を稼ぐしか存在意義が無かったり、育児の主導権を女性に握られていたりして、父性を喪失した立場の弱い存在である。

(これに対して、牧畜民社会の欧米各国の女性は、男性の色に染まった、男性化した存在、女性として劣化した存在として捉えることができると考えられる。)

日本の村社会=女社会であり、共に閉鎖的、排他的で、村人や日本女は内部事情を必死で隠蔽しようとする。日本村社会、女社会の内情、掟を徹底的に明らかにして文書化することが日本の社会学では必要だ。日本の社会学者は欧米出羽守ばかりやっていないで、本気で取り組むべきである。



日本村社会と女社会との関連の実態

以下、日本村社会と女社会との関連の様々な実態について短文での説明をまとめてみた。


陰湿な日本村社会を作り上げた張本人が日本女である。

日本が自分から変われない、外圧があって初めて変わるのは、社会の中枢を女が支配しているからである。

日本村社会の解体には、日本女社会の弱体化が必要である。

何かと他人と自分を比較して、優越感に浸ったり、落ち込む、嫉妬することを延々と繰り返す人たちの集まりが日本社会=女社会。他人は他人、自分は自分と区別が付けられた方が気楽で自由なのに。

母子一体化、母子癒着こそが、日本女が日本社会を支配する大きな手段になっている。日本女は我が子を通じて社会を支配する。

日本のフェミニストたちが欧米出羽守の文献、知見ばかり持ってくるのは、自分でオリジナリティの説明を出すと、周囲の村人たちから出る杭を打たれ、足を引っ張られて邪魔されるので、それを予防するためだと考えられる。日本人が、やたらと欧米の言説を取り入れて真似をしたがるのは、自分がいじめられないようにするための戦略なのだ。日本人のオリジナル言説だと「勝手に変な言説立てるな。独自研究するな。」と叩かれるが、スーパーお上の欧米人の言うことは日本人より格上だから叩かれない。

本来、日本のフェミニストは、日本で女権拡張するなら欧米出羽守をやっていては駄目で、「日本伝統の村社会=女社会、母権社会を、西欧/北米の男社会、父権社会による支配から解放しよう!」とか運動しないといけないはずである。

日本社会が停滞しやすいのは、保身第一で事なかれ主義の日本女性が社会を支配しているのが原因である。日本女性はリスクを取らない。

日本女性による男性保育士叩きは、男性に保育の主導権を取られたくない日本女性の本音を隠蔽するための工作だ。日本女性は保育の主導権を握る既得権益者なのだ。

テレビもラジオも、他人と同じ内容を視聴して、同調コミュニケーションが出来るので、日本村社会、女社会向けである。

日本の夫婦同姓(嫁入り)と、日本社会の長時間残業労働、滅私奉公労働とは深い関係がある。農村の嫁が、新入りした血のつながりの無い家での昼夜を問わない長時間労働を強いられるのと、日本の労働者による、新しく入った会社で長時間残業を強いられるのと、社会の根本原理は同じである。また、日本の中高生の長時間部活動は、将来の滅私奉公長時間残業生活に向けての練習であると見ることが出来る。

女社会は自分からは変われない。変わるには行動や判断が必要だが、それに伴って生じる責任を、自己保身のため誰も取りたがらないので、皆変化の行動を自分からは起こさない。女社会の一種の日本村社会も、自分からは変われない。変わるには外圧が必要だ。

日本フェミニズム不要論が考えられる。日本は稲作農耕民社会で、農村とか、女性は、母や姑みたいにもともと強い。日本の都会の専業主婦も家の財布と子供をがっちり掴んでいて強い。日本のフェミニストの本来目指す女権拡張は既に実現してしまっている。

日本は母子癒着、母子一体化を理想とする社会なので、夫婦離婚になるとほぼ子供の親権は日本女の方に行ってしまう。これも日本女の権力の強さの現れである。

専業主婦希望の日本女が日本男に課す経済的ハードルは高すぎである。それに対応する価値を日本女が本当に持っているのか怪しい。専業主婦と結婚したい日本男も、何か自分の母親を理想化しているようで、母子癒着で、母という日本女に負けている。日本男は母への甘え、依存意識があるから、それを断てない限り日本男は女社会の日本社会の中で弱者のままだろう。

陰湿で自由のない、社会の遅れの原因となっている日本村社会の解体が必要だ。そのためには、日本社会の村社会化の原動力となっている日本女たちの女社会を弱体化させる必要がある。

日本と欧米とでフェミニズムのあり方は根本的に異なる。

・家庭で夫から小遣い制を押し付けられていた立場の弱い女性たちが経済的自由を求めて、職場進出の運動をしたのが欧米フェミニズムである。

・家庭で夫に小遣いを渡していた立場の強い専業主婦が、性別分業のため収入を夫に頼る経済リスク低減のために職場進出の運動をしたのが日本のフェミニズムである。

戦前日本で選挙投票権があったのは日本男だけという時代があって日本フェミニストに非難されているが、伝統的母子癒着の日本男は母=姑の子分でお遣い役でしかなかった訳で、選挙に行くのも権力者の母=姑の代行に過ぎなかった。この件のフェミニストによる男非難は、日本女=母、姑の権力保持隠蔽である。

厳しい同調圧力の発生、空気を読むことの強制、団体行動の強制、事なかれ主義と責任回避等によって日本中を村社会化して苦しめているのが日本女である。

日本人が強きを助け、弱きを挫くのは、日本社会が女社会だからである。女は強きになびき、弱きを嘲笑して助けない。

日本社会の建前と本音は以下のように分けられる。

・日本社会の建前=疑似牧畜民=疑似西欧・北米=疑似男社会

・日本社会の本音=農耕民=中韓と同類=女社会

日本社会の空気読み強制、同調圧力、一体行動・団体行動の強制、出た杭を打つ等は、全て女社会由来。日本社会が女社会であることの証拠。女社会は、欧米自由主義、個人主義とは明らかに異質であり、欧米男社会の敵である。

女社会の特質を解明すると、内部告発扱いになる。道理で皆やらない訳である。解明すると、フェミニストが主張する男女に性差が無いなんてウソであることがバレてしまう。日本社会を奥から支配しているのが女であることがバレてしまう。女にとって都合が悪い。同様に、日本村社会の特質を解明すると、内部告発扱いになる。道理で皆やらない訳である。日本が欧米と離れた中韓に近い存在であることがバレてしまう。日本人にとって都合が悪い。

毎日長時間残業して、有給休暇を殆ど取らない日本の官公庁や企業の社員は、立場が農村の嫁そっくりである。農村の嫁は、家族で一番早起き、遅く就寝すること、毎日休まず身内の家族のために、姑に怒鳴られながら明日の見えない下働きをひたすら長時間続けることが特徴だから。経営者や社員の上司が姑相当で、同僚が小姑相当である。

日本女は、結婚すると、自分は働かずに寄生して金をたかるだけでなく、家の財布の紐を奪取して、男への小遣い制を確立させるから厄介だ。日本女は家計管理者として家の金を使い放題。日本男は少ない小遣いで我慢。

日本女が専業主婦になりたがるのは、その方が、キャリア女になるよりも、社会的な待遇が圧倒的に良いからだ。

日本村社会が嫌いな人は、日本女に近づかない方が良い。なぜなら彼女らが日本村社会の総本山なのだから。

日本男も日本女も欧米出羽守なので、女性差別反対運動も、男性差別反対運動も、欧米発の社会理論をお経のように唱えながらやることになる。

夫婦共働きで両方とも滅私奉公だと、子育てに必要な時間的余裕が出来ず、夫婦の意思疎通も上手く行かず、少子化と離婚率の増加につながる。滅私奉公は無くす必要があるが、日本人には、男女とも仕事が全て、キャリア構築が全ての職場村に包含された人が多いので、上手く行かない。

姑は怖くていたぶれないので、姑の子分の夫=日本男を代わりにいたぶる嫁=日本女。日本フェミニズムは嫁のフェミニズム。姑は決して出て来ない。

日本社会で、母との強力な一体感、癒着感持続で育てられた子供が、学校に入って、周囲生徒との一体感をずっと維持するために、学校部活を長時間活動する。更に会社や官庁に入ると、周囲の社員との一体感維持のために、社畜になって長時間残業するように。これらは母子関係が原型、理想型になっている。

日本女が黒と言うと黒になり、白と言うと白になるのが日本村社会である。

母、姑として日本社会を隅々まで支配する日本女は許せないが、見かけの男尊女卑の優遇の上にあぐらをかいて亭主関白とか言ってふんぞり返るバカマッチョ日本男も許せない。特にフェミニスト媚びの日本男は最低である。

日本人は他人に対して姑根性で接する。とても厳しくてうるさい。しかも絶えず監視する。

日本男は、日本女に対して、以下の相反する2側面の態度を持っている。

・お母さんのように甘えたい。依存したい。支配されたい。

・お嫁さんのように家風継承面での先輩として支配したい(お嫁さんは新入り)。

今の日本では、性別分業制を肯定するCMを流すと、日本女(とスーパーお上の欧米)の圧力で炎上し、男女両方外働きで男性の家事、育児を肯定するCMを流すと歓迎されるようだ。でも、日本男の家計管理権限掌握を肯定するCM、日本男が家計簿を付けるCMは、なぜか流れない。日本女によほど都合悪いからだろう。父子関係の母子関係への優越を肯定するCM、日本男が家計簿を付けるCMが日本で作られ、受け入れられたら、日本の女尊男卑は根本的に解決されるだろう。

日本男による家事、育児の分担も、実際の管理監督の権限を握っているのは日本女の方で、日本男は実質下っ端のこき使われる労働者役しか担えないのだと思う。母子癒着と家計管理権限掌握こそが日本女による日本社会支配の原動力だから、日本女は権益を手放そうとはしないだろう。

女も男も自分らしく生きることが難しい社会、日本。常に自分を周囲に合わせて変えていかないと生きていけない。国際女性デーは、欧米スタンダードだ。

日本女は、本当は姑を批判したいんだけど、女同士なので出来ない。それで旦那を批判する。旦那を家事、育児をしない人に育てたのは誰なんだろうか?姑に決まっている。

日本女が伝統的な日本の家族制度や母親像を批判するのは、姑との同居がたまらなく嫌だから。専業主婦になると、姑との一日中同居の危険性が高まるので、キャリア女になろうとする。

日本の父は母子の奴隷。大黒柱と威張っているけど、小遣い制に甘んじ、自宅に自分の居場所も無い。母子の間に割って入る力もなく無視されている。日本に家父長制を導入すべき。日本女が握っている家計管理の権限も、子育ての権限も親権も日本男に渡すべき。日本男の地位向上には、西欧、北米の家父長制導入が不可避。

日本で子育てを日本女が独占する現状だと、子供は母親に懐いてしまい、父親が除け者になってしまう。これが日本社会が女社会になる根本原因。父の立場を強めるには、子育てを日本男も担う必要がある。

今の父の給料の上に乗って母子が安泰に暮らす日本の性別分業制(母子上位、父下位)は、父母が離婚すると、放り出された母子が一挙に生活に困ってしまうので、母が子供の世話をしながら十分稼げるようにするとか、変革が求められている。

日本男は家事、育児に興味がない、良く知らない。お母さんが全部やってくれた時代の申し子だから。日本男に家事、育児ノウハウを日本女並に学習させる機会が必要。

日本男がお母さんに甘えるのと、家父長制とは両立しない。

日本男みたいな農耕民男は全てマザコン。中国、韓国、東南アジア、全部そうだろう。母親の子分、母親の奴隷だ。

日本の村人になっている男性、村に適応している男性は、あまねく父性を喪失して女性化し、男性として劣化している。逆に言えば男性が日本の村人になるには、母子癒着育児による父性、男性性の除去が不可欠。女性の力が必要である。

女に利益があることと、男性に利益があることの両方を客観的に俯瞰するのが性差社会学のあり方。日本の女性学も男性学も、この姿勢が出来ていない。日本は、所詮は女社会なので客観性が欠如しているためだ。

子育てを担うことこそが、日本女が社会を支配する最も効果的な手段。日本男も日本女も母の子分。母子癒着、母子一体感の強い状態で育つと、皆、村人になる。

かつて、日本のテレビの「冬彦さん」ドラマでマザコンと姑を否定する風潮が作られ、嫁の勝利と思っていたら、今度は、嫁の実母を否定するドラマが流れている。日本女は、自分より上位者の女に耐性がない、というか日本女同士の権力闘争がそれだけ地獄だということだろう。

日本=男装の麗人である。本来女流の国なのに、家父長制の欧米諸国の仲間に入れてもらおうと一生懸命になって男性国家の振りをしている。

日本女は、自分の周囲の人間関係にうるさく、相互監視が大好きで、個人のプライバシーに興味津々である。また嫉妬心が満載で、誰かが自分よりも良い思いをしていることを知ると、足を引っ張ったり、陰口や密告で潰そうとする。日本で成立する予定の共謀罪と日本女とは、とても相性が良い。

日本の学校では、中学校辺りから急速に集団に合わせて一体行動することを学習する度合いが強くなる。こうした所属集団に自分を一体化させる行動は、女性がより良く好む行動様式であり、その点、日本の学校は中学校辺りから顕著に女社会化すると言える。その原因としては、この中学の年齢は、ちょうど生徒たちが第二次性徴期に入る頃であり、性差が大きく出て来る時期である。すなわち、男社会、女社会の特徴が大きく出て来る時期であり、日本は女子の方が勢力が強いので、この頃から急に学級が女性の性徴の発現に合わせて女社会化すると言える。中学校辺りから生徒間の先輩後輩制がきつくなるのも同様で、女社会化の表れである。

日本の滅私奉公社会では、夫婦のどちらかが、職場ムラで100%余力を残さず働き、もう一方がその生活の全面サポート、管理に回ることを余儀なくされ、性別役割分業が必然的なものとなる。専業主婦か専業主夫のどちらかの存在が必須。この構造を壊すには日本社会の滅私奉公指向を消滅させるしかない。

日本社会の伝統的な慣行である滅私奉公こそが、日本社会のジェンダーギャップ指数を押し下げている(男女不平等になる)根本要因。日本社会のジェンダーギャップ指数を上げる(男女平等にする)には、滅私奉公の社会慣行をなくすことが必須。

日本の男性差別反対の男性運動家は、自分たちが社会的強者の側に立っていると信じている限りは、運動に失敗するだろう。自分の置かれている立場を再検討すべきだ。

いくら日本男の社会的地位が高くても、しょせん日本男は、母の独占支配物。日本では子育てを母が独占しており、母子の関係は親分子分で、母が息子を支配する。母の方が息子よりも社会的地位が高い。

日本男の社会的地位<日本母の社会的地位。

日本社会で、子育てを女性に託す慣行が、日本女性が我が子を通じて社会で大きな勢力、権力を振るう原因になっている。

稲作農耕は、女性、母親の強い社会を生み出し、マザコン男性女性を量産する。

女流の日本には、全体主義的民主主義の開発が必要。

日本の職場村が、男性が主要な地位を占めているにも関わらず、同調圧力や一体感、和合の重視と、女流の雰囲気をかもし出すのは、高地位高収入の男性たちも含めて、男性たちをずっと育てて生きた彼らの母親が、男性たちを精神的に支配しているからだろう。男性たちの母親の空気が、日本の職場村を覆う。

日本の職場村で、女性が管理職昇進をためらう、避けるのは、もし自分だけ昇進すると、今まで同僚で同じ地位だった職場の他の女性たちから「出る杭」扱いされて疎外されるのをとても恐れるかららしい。対策としては、女性たちがみんな仲良く一斉に昇進するようにするのが正解だろう。これは同期が横並びで出世する日本の高級官僚の昇進と図式が一緒。日本の中央官庁が女流であることの証拠になるのではないか?

女社会って、北朝鮮と似ているのでは?

欧米フェミニストは、何でも自分の社会の基準(女性が社会的に劣る)で理論を考えて、それを日本のフェミニストに強引に押し付ける。そのため、本来、姑、母が強く、女権拡張では先を行っているはずの日本社会のフェミニストが、欧米フェミニストの作った理論をひたすら真似る事態になっている。

欧米を席巻するポリティカル・コレクトネスでは、男女性差を明らかにする研究は、性差別扱いされて総攻撃されるようだが、父性と母性の差を明らかにする研究はどうなのだろうか?

日本のフェミニストは、女権拡張を目指したいのではなく、欧米出羽守になって上から目線で日本の庶民を啓蒙して良い格好がしたいだけ。女権拡張の先進国=女が強い国ならベトナムとか、稲作農耕民社会~国家にいくらでもありそうなのに、それらの存在は完全無視。

日本の宮内庁が天皇陵の発掘を許可しようとしないのと、日本のフェミストが女社会の解明をしようとしないのは、共通している。自分たちに不利な結果が出るからだ。

日本では戦後、女性と靴下が強くなった(女性は戦前は弱かった)と言われるが、母と姑は戦前から強かったのでは。戦後強くなったのは嫁。

日本の人は、学校で教えられた「日本社会=男社会」説を素朴に信じている人が多い。あと、「社会的地位=職場での地位」と信じている。

日本の核家族化は、姑と同居したくない嫁の手によって進められた側面が大きい。

日本夫が滅私奉公で残業しまくりになるのは、専業主婦の妻の自由時間と趣味に費やすお金を確保するため。

母子癒着育児の結果としての日本男の父性喪失を問題視する人がいないのは問題だ。

日本男は、社会的地位が高いとされる高級官僚も大企業の社長も、皆、日本母の操り人形、小間使い、奴隷である。強力な母子癒着がそうなる原因である。かつ、日本母は、日本女の部分集合。ということは、日本男は、社会的地位が高くても日本女の支配下にあるということである。これは、日本の子持ちの夫婦の離婚で、親権が専ら日本母に行くこととも関連しているだろう。日本母は日本の隠れた権力者なのだ。

日本男は日本女から小遣いをもらう立場ではなく、日本女に小遣いを渡す立場を確立すべき。そうでないと、日本女の使い走りの犬の地位から、いつまで経っても脱却出来ない。

恋愛で、日本男が考えたり提供したデートコースや食事を厳しく査定して評価する日本女は、「恋愛管理職」だ。日本女のやっていることは、会社で部下の成果を査定する管理職の上司と変わらない。デート中一生懸命サービスする日本男を上から目線で一方的に評価するのが日本女だ。

日本男が日本女に家庭の財布の紐を渡してしまうのは、日本男が日本女に無意識のうちに心理的に依存している証拠。日本男は、日本女に自分を管理して欲しいと思っているんだ。女尊男卑の典型だと思うが、日本男も日本女もめったに話題にしない。現状を変える気持ちが無いということだ。問題だと思う。

日本男に投げかけられる「ワンコイン亭主」という言葉とか、女性に使われると「ワンコイン奥さん」になると思うんだけど、日本の家庭の7割が妻が家計管理権限を握っている状態だと、「ワンコイン奥さん」はほとんどいないのだろう。「ワンコイン亭主」は日本男に対する蔑称であり、男性差別だ。

女性が弱い牧畜民のフェミニズムと、女性が強い農耕民のフェミニズムとは、あり方が根本的に違うと思う。

日本人が肯定する価値観である、「僕稼ぐ人、私使う人」は男性差別。

日本の職場村への女性管理職登用の増加に伴い、キャリア局(つぼね)の問題が顕在化するだろう。キャリア局は、今までの平社員局に比べて公式に使える権力が格段に増えているから、周囲の誰も彼女の専横を止められなくなる確率が高くなっている。

女流の日本村社会は、女性による男性支配の世界的象徴。


日本村社会の理想型としての母子関係

日本人は、生まれた時から急速に村人になって行く。

子供は、まず、母親と強力な一体感をもって癒着し、排他的な母子連合体を形成する。他者との一体感の維持を母子関係で習得する。そして、小さな子供の時分から周囲とお揃いの制服とかを着て、周囲との一体行動を学習する。日本の子供は、幼少であっても既に村人である。

更に、中学校や高校の長時間部活とかで、自分の所属する集団(学校)に完全に一体化して全ての時間を捧げて活動することを最優先とする考え方を身に付ける。これが、学校を卒業して官公庁や会社で滅私奉公の長時間労働を当たり前とする考え方につながっていく。

日本の村人の対人関係の基本、理想型は母子関係にあるのである。日本の村人は母子癒着育児が生み出している。日本の村人を生み出す主役は母親であり、女性である。日本村社会の主役、真の支配者は女性である。

一方、男性は、この母子癒着育児の過程で父性を失い女性化して一生子供扱いの弱い立場にランクダウンしてしまう。男性は、生得的には個人主義、自由主義の人間であり、相互一体感と統制、相互監視を重視する稲作農耕民社会の日本村社会では環境適応的に不適格な、人権の無い、村人としては劣った存在なのである。

かつては、男尊女卑が日本男性の人権の弱さを補償し、日本男性は姑の傘の下で威張っていたが、嫁による姑の家庭からの非同居化による排除と、欧米からのレディーファーストの導入で男尊女卑は否定され、子供の親権も嫁に行ってしまい、社会的弱者の地位に落ちてしまっている。

なお、母子癒着状態で育てられた子供は、母親との強い一体感により、母親の言うことを汲んで行動するようになり、その存在が母の操り人形、母の競走馬状態に置かれる。要するに、子供は母による社会的自己実現の道具であり、競走馬として動くことを要求されるようになる。子供がビジネスでのライバル同僚との競争で早く走って成果を出して、役職上、経済力上の昇進を図るとそれがそのまま母親の社会的地位の向上となり、母親は、そのために子供の尻を叩いて昇進競争に向かわせるのである。日本の職場村で威張っている日本男の管理職や先輩面の社員は、実際のところは、自分のお母さんが騎手役になって搭乗して、ひたすら出世に向かって鞭打たれて走る競走馬だ。つまり、お母さんの奴隷だ。だからこそ職場村の雰囲気が、男性ばかり多いのに、集団行動重視、和合重視、年功序列、事なかれ主義で女性的になる。

要するに、子供は母親の社会的昇進のための道具、ツールなのである。日本の職場村で働く男性は、多かれ少なかれ自分の母親の競走馬の立場に甘んじている。日本の職場村は今まで男性が多く配置され、男社会とされて、フェミニストによる男女差別反対運動の批判にさらされてきたが、実は、男性たちの母親による自分たち母親の社会的地位向上のための激しい競争の場、代理戦争の場となっているのである。職場村の主人公は実は男性たちの母親である。

日本の職場村の慣行が、男性が大多数を占めているにも関わらず、集団行動の重視、年功序列、相互監視とプライバシーの欠如といったような女社会みたいなものになっていて、男性にとって実際には不利になっている。日本の男性は母親との母子癒着育児によって父性を失い、母親によるメンタルの支配のもとで、知らず知らずのうちに女性的行動や女性的慣行を強要されているのであり、ある意味、男性差別の象徴である。だが、育児での母子癒着の快感が忘れられないため、母の側に付く日本の男性は、その事実を無意識のうちに無視し、母親の小遣い役として、子供的な存在のまま、女性的な日本職場村慣行に慣れて行き、母性による支配を受け入れる存在となるのである。

日本の職場村で威張っている日本男の管理職や先輩面の社員は、実際のところ、ほぼ自分のお母さん(、あるいは奥さん)が騎手役の、ひたすら出世に向かって鞭打たれて走る競走馬だ。つまり、お母さん(奥さん)の奴隷だ。だからこそ職場村の雰囲気が集団行動重視、和合重視、年功序列、事なかれ主義で女性的になる。

男性の専業主婦の妻も、男性の母と同じように、男性の社会的昇進を媒介として自分の地位を上げていくのであり、男性の長時間残業を、自分が管理する家計収入の額を増やす面でも、男性の昇進を媒介として自分の社会的地位を向上させるためにも大いに奨励しているのである。日本男の妻は、日本男の母に代わって、騎手として日本男の上に搭乗し、競走馬の日本男の尻を鞭で叩いて出世競争させるのである。日本男の職場村での長時間労働の原因のかなりは、日本男の母と妻にあると言っても良いのである。日本男は、無意識のうちに妻に対して心理的に母親代わりに依存しているので、母や妻の、息子や夫の長時間労働への要望をひたすら聞くようになってしまい、滅私奉公のブラック労働をするしかなくなってしまうのである。

日本の子供は、息子も娘も一生、母の所有物、奴隷だ。日本の子供は母の支配から抜け出ることが出来ない。日本の村人は、男性も女性も一生母親の支配下に置かれ、その支配従属関係が世代を超えて連鎖している。

男は仕事で女は子育てと思っている時点で、日本男は日本女に負けている。親権を日本女に取られ、子供は日本女の操り人形になる。

男性に有利な社会的性差もあれば、女性に有利な社会的性差も沢山あるはず。特に稲作農耕社会の日本では、女性に有利な社会的性差がたくさんあるのではないか。場の空気を読んで同調、迎合するのが得意なのは女性だとか。東京一極集中社会で高密度分布が得意なのは女性だとか。

男尊女卑とレディーファーストは共通している。男尊女卑社会では女性が社会の実権を握り、レディーファースト社会では男性が社会の実権を握っている。家計管理や子育て主導権を握る者こそが社会の真の実力者だ。社会的に優先されている者が社会で実権を握っているとは限らない。

戦前日本の男尊女卑社会を欧米並みの家父長制社会だと信じている日本の男性差別反対者は考えを改めた方が良い。根本的に間違っている。威張ることと社会的実権を握ることとは乖離しているのだ。戦前の日本男は、母親の操り人形が大きな顔をしていただけの存在だ。日本男性の地位が戦後になって低下した訳ではない。戦前から日本男は女流でダメなのだ。

日本の男性権利拡張運動家は、女性専用車両やレディースデイ撤廃みたいな瑣末な事象ばかり叩いているが、それでは勝ち目はない。本当の敵は伝統的稲作農耕がもたらしている日本社会の女性化、母性化だ。これを根本的に打破する必要がある。


日本村社会における「転村の自由」「非村人の入村の自由」「村内先輩後輩制の廃止」の必要性

労働条件が悪いのに、日本の村人たちが今いる職場村を簡単に辞めることが出来ないのは、辞めると、職場村を裏切ったと見なされて悪い評価が付き、次の職場村になかなか入れてもらえなくなる度合いがとても上昇するからである。また、職場村を辞めて非村人になっていた期間が長いほど、職歴の断絶=村人歴の断絶と見なされ、再就職に不利になってしまうのである。職歴も村人であった時期にやっていたことしか評価されない。

これら職場村の慣行は、その大元が女社会にその原型を持っていると考えられる。女社会は自らの保身、安全確保のため、閉鎖的、排他的集団を作ってその中で生きるが、そうした女集団では、集団の中で絶えず主導権争いの派閥抗争が繰り広げられ、その中で浮くと、集団内の調和を乱すとして仲間はずれにされて、かと言って他の集団に入れてもらうことが難しくなってしまう。そのため女性は、自らの保身のために、必死で所属集団にしがみついていなくてはならず、所属集団内部で生き残るには、所属集団の有力者の出す理不尽な条件(=実質上のいじめ)をひたすら呑まざるを得なくなる。

日本の職場村で人権が保証されないのは、従業員の村人が職場村を出ると、その時点で、前の所属職場村で対人関係とかで上手くやって行けなかった無能の村人であるという評価になったり、村を出ていくなんて職場村への裏切り者であり、信用ならないという評価になったり、転村回数が一定以上増えると、村人としての信用が無くてどこにも行き場が無くなったりするから、そうした弱みを利用して廃人になるまで使い捨てで長時間労働、残業させようと経営層の村人が考えるからだと思う。

あるいは新規一括採用の若者の所属しているのが職場村だったとして、職場村での残業代不払いとか、長時間サービス残業に対して声を上げることができなくなってしまう。声を上げると、職場村から追い出され、転村先が見つかる保証が無いため、長時間労働で条件が悪くても必死に今の職場村にしがみつき、経営者からの搾取を受けっぱなしになるのを許容せざるを得ないのである。

転村不可こそが、日本の非人道的な職場慣行の原因であり、転村の自由こそが日本の労働者の村人層が権利として勝ちうるべき日本の村社会の新たな規範なのである。

これは非村人層(非正規雇用者)にも適用されるべきである。ある村人が、子供が生まれて子育てが忙しいとか当座の生活資金が溜まったとか今いる職場村でサービス残業が横行しているとかいう理由で、いったん職場村を出て、非村人になって、しばらく育児とかライフワークとか休養をして村人としての職歴にブランクを作った後、また別の職場村に入ろうとすると、前の村を勝手に飛び出した村の裏切り者、非適応者扱いされ、かつ非村人であった期間が長過ぎて、村人としての信用度が低下しているため、とても入村を許可することが出来ないとかなってしまい、非村人のパートタイムとかの臨時雇用の地位に固定化されてしまう。いったん非村人になると再度村人になるのが難しくなってしまう。非村人の期間中に資格とか取っても職場村の職歴にはカウントされず、村に入れてもらうことが出来ない。

こうした非村人の再入村不可の慣行は、事実上の村人と非村人の間の身分差別になっており、社会的不平等の度合いが大きいため、一定期間以上、村人の立場から離れていて非村人になっていても、能力や人柄次第で非村人を村人として迎える「非村人の入村の自由」を確保すべきである。新規一括採用で職場村の村人になれなかった既卒者の非村人(就職氷河期世代とか)も、この文脈で入村を認められるべきである。

また、日本の村社会、女社会で、新入りの村人や、中途採用の村人(いわゆる後輩)に対して、古株の村人(いわゆる先輩)が、自分たちが昔から先んじて村にいるというただそれだけの理由で、後輩に対してやたらと威張ったり、嫌がらせを行ったりすることを当然視する「先輩後輩制」は、明らかに年齢差別であり、人権侵害につながっている。この背後には、「村の前例、しきたり」は村人にとって絶対不可侵であるという強い信念があるのである。新しい文化への適応力は明らかに若い人の方が優れており、古株は置いていかれるのだから、いい加減、日本村社会、女社会では、「村内年功序列」「村内先輩後輩制」を廃するべきである。○○さん付けで名前の呼び方を統一するとかすべきである(これについてはすでに実践している日本の会社もあるらしい)。

また中高年の歳を食った人が転村しようとしても、職場村の中にちっとも入れてもらえないのは、日本の職場村において、年齢の高い人は、管理職として部下の仕事のマネジメントをすべきという考え方が強く浸透しており、上司より部下の方が高齢者という、年功序列に反する人員配置が忌避される慣行があるからである。現場の作業は中高年の管理職はタッチせず、若い下っ端の村人や下請け村にやらせるという慣行があり、それに反する中高年でかつ現場指向の人々は、なかなか自分の居場所が見つからず、結果的に職場村を去っていくことになる場合が大きい。これに対しては、村内年功序列上位者=管理職という固定した見方を止めるべきである。

こうした硬直した日本村社会の考えが、現代日本社会が衰退している大きな原因になっていることは明らかである。村社会の規範を見直すときが来ているのだ。その為にも、日本村社会、女社会の掟のどの箇所をどのように変えると効果的かの研究が必須である。



「村八分」の解消が必要


日本村社会とかの農耕民社会、女社会で頻発する村八分を何とかする必要がある。重大な人権侵害行為だからである。

日本の職場村(官公庁、企業)とか、建前上は終身雇用だけど、村の空気に合わない、周囲に同調しない、浮いた態度(一人だけ長時間残業せずに定時帰宅するなど)をちょっとでも見せると、いじめられたり叩かれたり無視されたりして、うつ病とかになって村八分扱いで追い出されるので、油断がならない。職場村で終身雇用扱いになるのは、村の空気(その時々の職場村の有力者、経営者の意向、あるいは村益とみなされる行動様式)にずっと自分を滅私奉公で合わせられた成員だけであることに注意する必要がある。

日本の学校村、学級村では、特に女子生徒とか、閉鎖的な仲間グループを作り、グループ内輪で周囲の空気に絶えず合わせて行動しないと、いじめられ、仲間はずれ=村八分にされ、他のグループにも入れてもらえない。村八分は、特に自己保身のため集団所属を強く求める女子の場合に深刻になる。

村八分は、特に田舎の農村に限った話ではなく、都会のママ友とかの間でも村八分が起きる。また、日本だけでなく、ベトナム社会とかでも見られる慣行である。稲作農耕民社会、女社会に普遍的に見られると考えられる。

村八分の慣行(ある村からいったん追い出されるとその村に二度と入れてもらえない。ある村を追い出されると他の村にも入れてもらえない。一人ぼっちになってしまい生きて行けない。)こそが、日本社会を、ひたすら周囲に同調しなくてはならず、生きづらくしている根本原因である。村八分は、人権上大きな問題であり、直さなくてはいけない。

集団内外の区別、差別がある液体分子運動型の社会(女社会、農耕民社会)では、村八分は発生が不可避である。

村八分は、女社会が起源と考えられる。女社会では、成員が自己保身、安全確保のため、護送船団方式で閉鎖的、排他的な集団、団体を作って互いに守られることを指向し、みんな一緒に調和して一体化して行動することを指向する。そして彼女らは、集団内部で出る杭になったり、遅れたり、失敗したりして調和を乱す成員を、集団にとって有害であるとして仲間はずれにして追い出す。成員は、ある集団から追い出されたことで、他の集団でも有害になるとして受け入れて貰えなくなり、行き所が無くなり、生きていけなくなる。これが村八分の原型であり、女性が強大な勢力を持つ農耕民社会に受け継がれている。

対策としては、村八分になった人を無条件で受け入れる互助組合、村八分に遭遇しても生活していけるセーフティネットが社会的に必要である。学校村、学級村では、学校の保健室あるいはフリースクールがその役割を果たしている。こうしたセーフティネットは、職場村や大人の女性集団(ママ友)の場合も必要である。ネット上に村八分を受けた者同士の互助組合、村八分に遭遇した時の駆け込み寺、相談窓口を立ち上げるとかする必要がある。

性格的に、周囲に同調するのが苦手で村八分に遭遇しやすい人たち(発達障害者とか)の人権を守る必要があり、社会的な取り組みが必要である。

社会的に村八分による人権侵害を無くしていく取り組みが必要である。例えば、ある人が前の職場村で村八分に遭遇して転村(転社)の回数が増えても、ネガティブに見ないようにする職場村の人事担当者の意識改革、人権教育が必要である。あるいは、日本語の会話だけでほとんどやっていける、出る杭になりやすいことが逆に個性的であるとして長所として受け入れられる、牧畜民外資系の、村社会では無い職場集団を積極的にたくさん作るとかの改革が必要である。

村八分に遭遇した人の救済は、職場村とか、そもそも村に最初から入れてもらえなかった人(就職氷河期世代の既卒の非正規雇用者とか)の救済と共通の側面がある。

あるいは、犯罪を犯した前科があって、どの村にも入れてもらえなくなった人の救済と共通の側面がある。

村八分なんて怖くない、村八分に遭遇しても、村に属さなくても問題なく生きていけるというようにするべきである。人々が安心して村八分を受容し、村のしがらみを超えて気分をプラスにして再出発することが出来るように社会を変革するべきである。



負の体験の次世代連鎖の断ち切りが必要


日本人は、自分がした負の体験の次世代への連鎖が大好きである。嫁姑関係の体験も、学校PTA役員の体験もそうである。自分が、一つ前の世代の先輩格の年代の人たちから強引に、所属集団の迷惑な因習を押し付けられて苦労させられた後、次は自分たちが次世代の後輩格の人たちとかに教えることになった場合、自分たちが押し付けられた因習から負の部分を取り去って明朗な中身にして後輩に渡して、負の体験の連鎖を自分たちの世代で終わらせることは決してせず、自分たちが苦しめられた因習の負の部分を後輩にも味わせようとして、後輩たちをしごき、いびることになりがちである。

これは、起源は女社会にあり、自分たちが、前の世代の人たちのせいで味わったマイナスの体験を、他の世代の人たちがしないで済みそうだという事実や、マイナスの体験をしないで済みそうな人たちに対して、「あの人たちばかり良い思いをして、ずるい」という強い嫉妬心が起きて、自分たち以外にもマイナス体験を味あわせたい、良い思いをしそうな人たちの足を引っ張って、自分たちと同じ苦労をさせたいという強いマイナスの欲求が湧くためである。日本社会がいつまで経っても明るくならず、因習に囚われて陰湿な暗いままなのは、日本社会を実効支配する日本女たちの強い嫉妬心によるところが大きい。「男が陽、女が陰」と言われるのは、これと関係あるだろう。

この問題を解決するためには、日本女の嫉妬心、マイナス思考を何とかして取り除く必要がある。負の体験をした彼女らに美味しいものを食べさせて、負の体験を心理的に昇華させるとかである。あるいは、例えば嫁姑関係なら嫁と姑を別居させて物理的に離すことで、嫉妬心が物理的に働かない、無効になるようにして、連鎖を強引に断ち切るといった方法が考えられる。


日本村社会の論理の実態

以下、日本社会において村社会の論理が隅々まで行き届いている実態について短文での説明をまとめてみた。


現代の日本社会では村の論理が引き続き貫徹している。

日本村社会では、村に途切れなく連続して所属することが求められる(所属の連続性)。職場村に新卒で入ったら、途中で退出すること無く最後までずっといないといけない。途中で村を出ると、他の村では余所者扱いされて入れてもらえず途端に生きていけなくなる。

社会のレールに乗りたいところからいつでも誰でも乗れて、好きなところでレールから降りて、好きなことをして、いくらかブランクが出来た後、再び社会のレールに乗れるような社会に、日本がなって欲しいと思う日本人は多いと思うが、村社会の原理がそれを許さない。育児退職や病気退職をして、新卒一括採用でのレールからいったん外れた人が、もう一度乗れるような社会に変えないと、日本の格差社会は是正できない。そういう点では村社会のルールの抜本的な変更が必要だ。

日本の職場村は、いったん退職すると二度と入れてくれない。入れるのは原則として新卒の子飼いだけだ。中途採用は、ある会社の正社員から別の会社の正社員に即戦力として即時に切り替わることしか想定されていない。所属の経歴にブランクがあると、村の空気を忘れた、失ったと見なされ、中途採用してもらえない。

日本の会社における子飼い雇用(新卒一括採用)と終身雇用はセットになっている。子飼いで自社の色に社員を染め上げようとするため、他の会社の色の付いている人を雇用しないことが、雇用の流動化がいつまで経っても起きない原因となっている。

日本は、連続労働強制社会である。

・朝から夜遅くまで一日中ずっと働き続けないといけない。

・一度ある会社に入社したら、引退するまでその会社でずっと働き続けないといけない。

日本の学校の生徒たちが学校部活を土日も無く休みなく続けさせられる状況は、「労働者は、絶えずお国、会社のために土日も休みなく労働して搾取されるのが当然だ」という考えに洗脳されるための訓練なのだろう。人権侵害で恐ろしいことである。

自分の所属する社会を批判すると「出て行け!」と言われ、かと言って追い出されると生活できなくなるので、それを恐れて皆批判することが出来ないのが、今の日本である。そこには言論の自由なんか元から存在していない。

自分の所属する村に滅私奉公させられる日本の村人たちは、村の奴隷、より詳しくは村の有力者、資本所有者の奴隷である。日本の村人たちは、職場村であれば、経営者や会社大口株主の奴隷、地域村であれば、大土地所有地主の奴隷である。血縁村であれば、父は母子のATM奴隷である。

日本の村人たちは、村内の既得権益者によって休みなく働かされ搾取されることが当然とされる存在である。しかも、日本村社会は女社会なので、村人同士が互いに休まないように相互監視し、ある村人が楽をしようとすると、それを嫉妬して皆で集中的に叩いたり非難するようになっている。また、既得権益者側の村人に対して絶対服従で批判の声を上げることがそもそも許されなかったりする。天皇家に対してストライキが出来ない下級役人とか典型的である。

日本の村人が日本の職場村とかで転村しようとしても次の入れてもらえる職場村が見つからなかったり、日本の社会保障制度が希薄なのは、国民が勤務先の会社=職場村を辞めることをちゅうちょさせ、一生一つの会社=職場村の奴隷として働くように仕向けて、会社=職場村の支配者、既得権益者である株主や経営者をますます富ませるために意図的に行われている。

日本の村社会は、職場村の大規模なものになったりすると、発注元~元請け~下請けの階級構造を内包し、上位の強者(元請け)が下位の弱者(下請け)を金銭的に搾取するようになる。支配する村(元請け)と従属する村(下請け)が出来る。

日本では所属村の意思と関係なく個人行動すると、全て自己責任とされ、所属村は助けてくれない。日本村社会では個人行動は厳禁である。他国に一人で出かけて武装勢力の人質になったりすると、自己責任扱いで助けてもらえない。

日本村社会では、原発事故とかで所属していた村を出て行くと村を捨てたとして裏切り者扱いされてしまう。村から出て避難することは浮浪人になったのと一緒で、引越し先に親戚がいないと、そこの村には入れてもらえず、ずっと浮浪人になってしまい、人権が無くなる。なので、村人として扱われるには、嫌でも原発の近くの元の所属村に戻らざるをえない。日本村社会原理に従って原発事故での自主避難住民は存在を否定される。

日本の学者村に欧米出羽守が多いのは、
・欧米の権威を笠に着て威張ることが出来、自分の意見を通しやすくなるから
・独自学説を打ち出して、出る杭と周囲から見なされ叩かれるよりは、互いに同じ欧米出羽守としてお仲間で居た方が、周囲から叩かれる心配が無く自分の保身に有利だから
である。

日本の職場村で、あまり村の稼ぎに貢献しない村人が、他の意識高い系の村人から嫌がらせを受けるのは、日本の国家村で、生活保護を求める村人が、他の一生懸命働いているぞ系の村人からバッシングされるのと構造は同じである。

日本社会の国家村では、健常な村人の足を引っ張る障害者や生活保護受給者が叩かれている。また、少し自由に動いて失敗すると「自己責任」呼ばわりで大声で非難される。日本国家村の村人たちは、自分たちが払った税金の役人による無駄遣いにはほとんど無頓着だが、生活保護受給者や障害者が税金に頼って生きようとすると「オイラの支払った血税で生活するのはけしからん」と怒る。天皇家や役人も税金で食べているが、強い者の味方の村人たちは怒ろうともしない。

日本人が長時間残業するのは、職場が村社会で、自分だけ先に帰ると他の残った村人たちの機嫌を損ねて村八分にされてしまうという恐怖感があるからだろう。一番居残りをする人に皆が合わせることになる。日本の村人たちにとって、生産効率の向上は二の次で、職場村に長く居残ること自体が自己目的化している。

日本の職場村で昇進して管理職になる、経営者側に回るには、常日頃、村人らしく振る舞ったり(上司部下関係、先輩後輩関係を円滑に維持する、村のために長時間残業で尽くしている・・・)、望ましい村人の規格(結婚している、持ち家がある・・・)に合致していないとなれない。

日本の職場村で、最初の新規一括採用時、経営者側に回る村人と奴隷労働側に回る村人とを明確に区別せず、働き次第でどちら側にもなり得るように仕向けるのが、労働する村人たちに経営者視線で物事を考えるようにさせて長時間残業を職場村のために是認したり、村人間で成果競争をさせてより多く自主的に働かせる原動力となっており、経営者や株主といった既得権益者側の村人を何もしなくても富ませる濡れ手に粟のような巧妙な仕掛けとなっている。

日本の村人たちは、しきりに村のために働け、働かないのは悪だと主張するが、実は、既得権益者側の村人、特に門閥、閨閥によって守られた特権階級の村人たちとか、首都圏の賃貸マンション経営の地主の村人たちとか、何も働かなくても多額の株式配当とか家賃とかの収入が得られ、遊んで暮らせているのであり、そのことは日本の村人たちによって触れられたり批判されることは無い。日本の村では、既得権益層はひたすら守られるのである。

日本の官公庁、企業の正社員=職場村の村人は疑似家族の身内扱いである。
身内のために汗を流せ、ひたすら働けというのが日本村社会の掟である。

こうした疑似家族制度、非血縁家族制度を公式に国家レベルに拡張していたのが戦前日本だが、今の日本でも自民党とか復活させようと画策している。日本が国家村を公式に復活させたら大変である。国民全員疑似家族、非血縁家族となる。
完全に北朝鮮と同じになる。相互監視と団体行動の強制が待っている。
日本は、今でも事実上は国家村だけど、欧米の手前、自由主義者、民主主義者の振りをして隠している。
同じ日本人だからと言って、勝手に日本国家村の身内扱いされ、「身内のために滅私奉公せよ。休むな。ずっと働け。さもなくば非国民、出て行け!」と言われるのは嫌なものである。

日本国内にいたままで村社会から独立するには、村人との人間関係を全て断って引きこもりになるかしか無いのだが、収入をどうするかという問題が立ちはだかる。そのままでは食べていくのが難しい。解決は、個人事業主の動画制作者やスマホアプリ開発者、同人誌制作者等になることだが、動画間やアプリ間、同人誌間の競争が激しく食べていくのが大変な点だ。

所属する村(会社、官庁、学校・・・・)に完全に呑まれないこと、一体化しないことが、日本村社会で自分自身の精神の自由を確保するためにとても大事である。村内、社内での出世はほどほどにして早く帰宅し、自分の時間を持てるようにすることが重要である。

日本の村人たちにとって、日本村社会アンチ=反日である。

日本では、
・正社員=村人
・非正規社員=一時的に雇う浮浪人、旅の人
非正規社員から正社員になるのが難しいのは、これが原因である。

日本ではどこかの村社会の身内になっている村人でないと人権が保証されない。職場村の非正規雇用者は非村人なので、例え村人の正社員以上の働きがあっても、労働的に人権が無く、低賃金と不安定な雇用に苦しめられてしまう。

日本の会社の理想型が中央官庁=国家村で、中央官庁では終身雇用も年功序列もブラック労働も維持されている。日本の民間会社で終身雇用、年功序列が維持出来なくなっているのは民間会社を取り巻く生存条件が厳しくなっているからで、民間会社が今でも新規学卒一括採用を維持しているのは、自分たちを取り巻く条件が良くなれば再び終身雇用、年功序列にしたいと考えていることの現れである。日本の会社=職場村の労働形態、働き方を変えるには、中央官庁の労働形態にまず手を付ける必要がある。

日本社会に適合するには、周囲に対して、苦しんだり、苦しむ振りをしないと駄目。

日本の地方に皆移住したがらない理由、日本の地方の人口が増えない理由は、古株の先住民の村人たちが、移住してきた新入りの新住民を見下したり、差別したり、嫌がらせするから。姑と嫁の関係と同じ。

絶えず異分子をいじめて排除することを繰り返すのが日本村社会。人権なんて無い。

日本は、左翼も右翼も村人。主張は正反対だが村人という点では共通している。

日本の職場村は、体調を崩して長期休職とかすると、休職期間内に体調を戻せないと、強制的に退出させられ、余所者扱いされて、二度と入れてもらえなくなる。国家公務員なら累計3年で強制退出の扱いを受ける。日本の職場村は所属条件について厳しい。日本職場村の村人として暮らせるのは健常者か、休まないでいられる障害者だけ。うつ病患者とか統合失調症患者みたいな良く休む精神障害者の人間は不適格者扱いで追い出される。

日本には職場村とか学校村とかいろいろ村があるが、その最大のものは国家村だ。日本人を全員強制的に国家村の村人とみなし、村の身内のために苦労しろ、働けと言ってくる日本人はとても多い。生活保護受給者が叩かれるのは、彼らが身内のために働くのを怠けているように見えるからだ。皆で働かずにベーシックインカムを貰うとかの方が生活に余裕が出来て良さそうなのに、なぜかそう考えようとせず、働くことをひたすら美徳としたがるのが日本の村人である。

日本の村人の排他性は酷いものだけど、村人内輪での陰口、悪口での叩き合いも酷いものだ。我慢できなくて村を出る人は相当多い模様。女職場の保育園とか典型。

強制力のある、就職年齢制限無しの既卒者の正社員採用制度が日本には必要。一度退職して職歴にブランクある人も、非正規雇用では無く、いつでも安定した仕事に就けるために必須。

収入得るために働いて、収入がたまったら働くの止めて自分の好きなことを十二分にやって、お金が無くなったら、また収入を得るために働いて、収入がたまったら働くの止めて自分の好きなことを十二分にやって、の繰り返しが出来ず、ひたすら連続して働き続けなければいけないのが日本村社会である。

知識量のストックの豊富さで偉ぶるのが日本人みたいな農耕民。自分自身で切り開いて得た知識の新規性、斬新さで偉ぶるのが西欧人みたいな牧畜民。

就活で自分の一生所属する職場村を選んで、入った後は追い出されないように一生しがみついて行って、その間に結婚し子供を育てて、年功序列のエスカレーターで上に昇り、定年までリストラされないように無難に勤め上げるのが、日本人の男女の理想的な人生コースになっている。

日本文化の特殊性を主張するのが日本人は大好き。日本文化を真に理解できるのは日本人だけと考えてしまう。所詮は、稲作農耕民文化の一類型に過ぎないのに、馬鹿げている。日本人の閉鎖性、排他性と独善性の現れ。

日本人がテレビでディズニー映画とかを観るのは、学校や職場や近所付き合いで、次の日、皆と同じ話題を共有して、自分だけ仲間はずれにならないようにするため。映画自体を楽しむのは二の次。周囲から爪弾きに会いたくないという対人的緊張感から観ている。

欧米とかのスーパーお上によって高い評価を受けた作品について、盲目的にこれは良い作品だと何も考えずに見て、高い評価を付けて絶賛するのが日本人の通例である。仲間同士で互いに絶賛しまくることで仲間内から外されずに済む。ディズニーの「アナと雪の女王」とか、植民地映画であり、日本人は映画の内容が素晴らしいと言わないと、アメリカ植民地の被搾取者としての態度をわきまえていないとして、日本人から非難され、差別される。

何かと他人と自分を比較して、相対評価を持つのが好きな日本人のハマったのが偏差値教育である。他人と比較して、自分が相対的にどこまで有利かを知るのに必須。なのに文部科学省はセンター試験受験者の偏差値を公表しない。受験産業に偏差値を計算させて官僚が天下るための取引に使われていることは明らかである。

日本では、仕事を長時間していないと真人間と見なされない風潮がある。村社会由来だと思う。労働時間短縮で、みんなで楽しようという感じにちっとも行かない。

日本の会社員や学生の良く言う「ウチは」という言葉は、その人の所属する会社や学校が閉鎖的で内向きな同調圧力の強い体質を持っており、その人もその体質に染まっていることを示している。その人とは気を付けて付き合ったほうが良い。

日本人は、他人に批判されるのが大嫌い。精神がソフトで傷つきやすい。なので、誰からも批判されることのない天皇陛下みたいな存在に自分を一体化して、批判から逃れようとする。

曖昧言葉の多い日本語は、喋る人が明確な責任を取らずに済む責任回避言語である。

同じ税金を支払う~使う日本人同士に身内意識があって、他の誰かが生活保護とかで税金のお世話になろうとすると、その分税金を支払った自分が損をすると考えて、自己責任論を唱えて反対するのが、日本人である。保険会社の保険料支払いと同じ構図なのに、なぜか税金だと反対する。国家村の同じ村人という意識がそうさせている。

リア充=日本村社会に適応した人間。村人の理想形である。

日本人は、自分が村人だという自覚をもっと持ったほうが良い。欧米流になっているのは見かけだけで、後は先輩後輩制度や統制同調大好き、陰口大好き、官尊民卑とか、欧米とは似ても似つかぬ社会になっていることを自覚すべき。ディズニーランドに行ったら欧米的になれたとか、一番馬鹿げた勘違いである。

日本の稲作農耕は現状一毛作なので、年に一回しか収穫のチャンスが無く、失敗すると飢餓、死が待っている。そのため、日本では、何事にも失敗が許されず、退嬰的で無難な事なかれ主義がはびこり、人生で一度失敗すると後が無い再チャレンジ不可の社会が出来上がっている。その点、日本社会は、「一回性」社会と呼べる。人生のやり直しが難しい。日本人がとかく失敗を恐れ、無難を好み、事なかれ主義になるのは、稲作が単作で、年に一回の収穫に失敗すると、もう後が無いので、その点心理的な余裕に根本的に欠けているからだろう。一回勝負を強いられるので、失敗が出来ないのだ。年に何回でも収穫可能な東南アジア稲作諸国との相違点だろう。

牧畜民(アメリカ)に実効支配されている農耕民の社会、それが日本。
口先では実効支配者の牧畜民に向かって盛んに媚びて、牧畜民のイデオロギーの自由民主主義の自己着用をアピールするが、実態は昔ながらの農耕民。自分たちが農耕民であることを社会的に明言するのは支配者の牧畜民に逆らうことになるのでタブー。

日本の農耕民社会は、表面的には牧畜民社会を装っているが、実態は、農耕民の社会的伝統に固執し、決して変えようとしない。内側から変化を試みる者は村八分にあって排除されるか、足を引っ張られ束縛される。疑似牧畜民社会、日本。

日本の現状は、米尊日卑・欧尊日卑と、日尊華卑・日尊韓卑である。

日本人は、自らが稲作農耕民、村人であることを克服しないと牧畜民的な立憲主義、法治主義に行き着けない。

日本人は、日本国のことを盛んに先進国だと触れて回るが、その先進性のほとんどは欧米諸国のおかげで、日本は欧米技術を小改良して最先端に行ったと主張しているだけ。最近は、中国、韓国も日本と同じことをやっていて、すっかり日本に追い付き追い越してしまった。日本の技術はもう余り先進的でない。

日本社会の同期横並び原則が、同期の人たちの中でより出世しそうな人に対する嫉妬心を爆発させ、足を引っ張る結果につながっている。これは社会的損失だ。同期横並び意識そのものを日本社会から無くすべき。

会社別ではない、職業別の大きな組合を非正規雇用者のために樹立し拡大することこそが、日本の格差社会を解決するだろう。

年功序列、先輩後輩制は、日本の若者の人権を無視する極悪制度。特に将来ある若者は、早く制度の弊害に気付いて打破するように動いた方が良い。

権力者に対する滅私奉公が無くならない限り、ブラック企業もブラック部活も健在で、日本は悪社会のまま衰退するだろう。

日本社会の村八分は人権問題。この問題を広く世界中に広めよう。

日本の正社員の長時間残業は、自分が他の社員と比べてどれだけより長時間ムラに居続けるかの競争。長時間ムラに居続けるほど、ムラの権力者による評価が高くなる。仕事の効率など考慮されない。

農耕民のまま、牧畜民になろうとしているのが日本人。

日本人は、自分の身内には滅私奉公で尽くすが、身内以外の余所者にはとても冷淡だ。余所者を人間扱いしないのは、職場村の正社員による非正規雇用者への扱いを見れば一目瞭然だ。これは深刻な人権問題なんだけど、伝統的な稲作農耕の村社会のルールが起源なせいか、日本人は誰も直そうとしない。

少子高齢化が進む日本社会は、財政的、社会人口的な余裕がなくなり、病気や高齢化によって社会の役に立たなくなった弱者に対して、今後どんどん冷たくなり、苛酷になっていくだろう。社会的に役立たずで有害な病人や高齢者をどんどん切り捨てていくだろう。安楽死やガス室送りが横行するだろう。

日本人が欧米人並の個人主義者、自由主義者、民主主義者になるには、稲作農耕から脱却して、大規模放牧とか始めないとダメ。

職場村に入れてもらえず非村人のままになってしまっている日本人たちを経済的、社会的に救済し、生活を保証する政策が必要。

日本でtwitterとかの言論が自由なのは、まだアメリカの影響力が残っているからで、アメリカの影響力が消えたら、日本は即北朝鮮化するだろう。

日本社会の活性化には、伝統的な村社会の解体が必要。
・余所者を拒絶する強力な閉鎖性、排他性。新入りいじめを平気で行う人権なき組織風土。
・身内に対して滅私奉公と苦役を強いて、長時間労働が当たり前。従わない者は村八分。
・とても嫉妬深く、すぐ人の足を引っ張る陰湿さ。
とっとと潰すべきだ。

身内には滅私奉公、周囲の空気を読んで付和雷同、上位者には絶対服従。これらが日本社会でブラック労働、ブラック部活を生み出す原因の根本心理だ。無くして行かなければならない。これらの心理は女由来だと思うので、事態を解決するには日本女(特に母や姑)の社会的影響力を断て、ということだろう。

日本人の職場村や学校村への滅私奉公のメンタリティ、発生メカニズムを研究し、どうすれば日本人の頭の中で、滅私奉公の掟が発生するメンタリティを解決し、定時退社が当たり前にすることが出来るかを研究する必要がある。

「日本は自由民主主義国家であり、基本的人権を重視する」と言う言説そのものが、実は政府の大本営発表なのだ。実際の日本人は、自由よりも、他者と足並みを管理統制で揃えて、心理的に一体化して、他者と同じところを仲良く回るのが好き。人権とか、天皇や官邸や役人からの一時的恩寵に過ぎない。

稲作農耕民に共通な社会心理の解明が必要。

日本は官庁や企業の人員採用とか処遇で、身内と余所者の区別を撤廃すべき。身分の正規、非正規の区別、差別そのものを禁止するとかすべき。村八分を、社会的いじめの一種として規制すべき。

「所属組織に100%滅私奉公せよ」という日本村社会のルールは、ブラック労働、ブラック部活を生み出すだけで、まともに機能しなくなっている。今後は、4時間、6時間あるいは8時間交替制の労働にして、残りの時間は、所属組織にしばられない自由時間を得られるようにすべき。

先輩後輩制が日本社会の諸悪の根源。皆「○○さん」付けで統一し、年齢や組織への所属年数での上下関係を 無くすべき。

欧米上げと日本落とし。上から目線で中韓見下し。今の日本のインテリの言論はこんな感じ。

日本の公教育は、高級役人登用のための適性検査の連続と見ることができる。

強者による弱者搾取を法律で禁止出来れば良いんだけど、日本の立法府の人間たちは、搾取する側の人間ばかりなので、実現するのが難しいという課題がある。

知育重視の子供と、体育重視の子供とに分けて教育することが、日本の学校の部活問題を解決するだろう。一人の子供に知育も体育もと欲張ると、教員が部活指導で長時間労働になってしまう。

日本の会社員は、しょせんは株主の使用人に過ぎない。高級官僚はスーパーお上のアメリカや天皇の使用人に過ぎない。



村社会を国ぐるみで隠蔽しようとしている日本 -「欧米出羽守」と言論統制-

日本は、政府も国民も、自分たちは、欧米流の自由民主主義を身に付け、欧米先進国の一員になったのだと、強く自負している。

そのため、本当は、社会の基盤部分が、今なおウェットで旧態依然とした、伝統的稲作農耕民型の村社会であることを、政府、国民一丸となって、必死に隠蔽しようとしているかのように見える。

村社会は、古い、すでに消えつつある社会のあり方であり、我々は、ドライな欧米の文化と積極的に一体化して、率先して取り入れ、社会や生活は、欧米化を達成した、という考え方が日本では支配的である。

西欧かぶれの日本人は、自分が村人だという自覚が無い。西欧の一員だと思っている。

日本の社会学のあり方にしても、日本の村社会は、遅れた封建遺制であり、現代の日本社会は、欧米並みに近代化して、自由民主主義を身に付けたのだ、あるいはそうなりつつあるのだ、という前提で、教科書とか組んでいるのである。村社会のことは、社会の教科書とかにはほとんど出てこない。

そう考えないと、というか、日本社会の基盤が昔ながらの村社会であることを外部に公式に露出させて認めてしまうと、日本は、欧米先進国の仲間では無い、異質な存在だということを認めざるを得なくなり、欧米先進国の一員ではいられなくなってしまう、欧米先進国から村八分、仲間はずれになってしまうという恐怖感、不安感が、日本社会に根強く存在し、それが、日本社会の基盤の村社会の存在を国ぐるみで隠蔽しようとする大きな要因となっているような気がする。

欧米は牧畜民社会で、個々人がバラバラに分離して別々の存在になっている社会なので、日本のような村八分の思想を持っているかどうかはかなり疑問である。むしろ、白色人種と黄色人種との人種差別の方が、日本を仲間から外す原因になりそうである。

日本はダブルスタンダードの社会である。口先では欧米流に動くべき(民主主義が、自由が等々)と盛んに唱えるが、実際の行動は伝統的な村社会に合致したものでないと非難され、いじめられ、村八分にされる。見かけに騙されてはいけない。

日本学者村の村人なのに、何事も西欧、北米理論経由でないと論じられないのが日本の社会科学者である。

日本人は、大日本帝国憲法派も、日本国憲法派も、どっちも欧米出羽守、欧米事大主義者である。

日本は、西欧、北米諸国の言うことを聞いて、西欧、北米諸国基準での「職場でも家庭でも性別分業の無い男女平等の国」に一生懸命なろうとしている。自分の国がもともと女、母の強い社会であることは無視して、ひたすら西欧、北米基準での「女が社会進出を果たした国」になることしか頭に無い。

あるいは、日本は太平洋戦争でアメリカに敗退して、アメリカの実効支配を受けているのが現状で、日本の村社会は、アメリカの自由主義、民主主義に反する「反米」の存在になってしまっており、強い存在に対して逆らえない、批判できない日本の村人たちは、とりあえず日本村社会の存在を表向き隠蔽することで存続を図っていると見ることも出来る。

中国とかと違って、日本では表現の自由が認められているとか、盛んに日本人は主張するが、実際のところ、日本人が自由を信奉するのは、自分たちより上位の宗主国のアメリカが、自由主義、民主主義をやたらと主張するため、とりあえず強者のアメリカの言うことを聞いていれば、身の安全が図られ間違いがないという、アメリカの権威に頼る、女性的な権威主義から来ているのであり、アメリカが日本を支配している間の一時的な現象だと考えられる。日本人は自由を心の底から体得している訳では無く、自由主義が権威、権力があるから、自分も従ってみるかとかいう感じなのである。

その証拠に、日本社会は、会社とかで、やたらと周囲との和合や協調性を求め、一体、一丸となって団体行動し、個々人は、会社組織の中に溶けて無くなることを求めるのであり、プライバシーも存在せず、個々人は会社に全人格的に拘束され、行動の自由が無いのが当たり前だったりする。個々人の自由行動が保証されやすい遊牧民に近い欧米社会とは、社会のあり方が農耕民的で根本的に異なり、かつそのことを世界に向けて公に認めることが出来ない立場にあるのが今の日本社会である。

もともとお上に絶対服従の日本人は、日本が軍事的、文化的に勝てそうにないスーパーお上のアメリカや西欧に対して絶対服従であり、自分からは欧米の社会体制に反することを欧米に対して主張することが心理的に怖くて出来ない、難しい。

家父長制社会アメリカの支配の下で、自分たちの社会を変えたくなかった日本人は、母権社会の日本村社会の存在を徹底的に隠蔽し目立たないようにする作戦に出て、今でもそれが続いている。母権社会、村社会のことを明言することをタブーとしたのだ。

日本村社会は、その存在自体がアメリカ流の自由民主主義に反し、反米である。日本の村人たちが村社会の話を避けるのはこれが原因である。同様に、日本の女社会、母権社会は、その存在自体がアメリカ流の家父長制に反し、反米である。日本の女性たちが日本の女社会の話を避けるのはこれが原因である。日本人はスーパーお上のアメリカの意に叶う自由民主主義社会と家父長制社会、男社会の話しか怖くて出来ないのである。まさに、「スーパーお上恐怖症」、「アメリカ恐怖症」あるいは「欧米恐怖症」である。

日本の村人が欧米を恐れるのは、江戸時代末期に、圧倒的武力と先進的西欧近代文化を背景に西欧列強に強制的に開国させられて不平等条約を結ばされたり、アメリカに太平洋戦争で特攻隊みたいに死に物狂いで抵抗したにも関わらず完全に打ちのめされて敗北し、国を占領され、異文化の日本国憲法等の法律を一方的に制定され、その後も在日米軍の強力な武力で日本の国家村自体がアメリカの言うなりにならざるを得なくなっている歴史的状況が、日本の村人たちにとって強いトラウマ、恐怖心の源となっているからである。

伝統的日本村社会も、伝統的日本女社会も、アメリカに実効支配されている今の日本人にとってタブー、隠蔽、批判、表面的せん滅の対象となっている。

公に日本社会が村社会であることを認めることが出来ず、社会ぐるみ、国民ぐるみで隠蔽しようとすることは、言い換えれば、日本社会が村社会であることを主張する言説を無視する、亡き者にする形で公認されないように規制することになっており、そういう点では、現代の日本社会は、言論の自由が存在しない言論統制、規制社会であると言える。

日本では、明治時代から、実質、欧化主義が、現在に至るまでずっと続いている。確かに、欧米の文物を導入し、それらを改良して、世界に向けて売りまくることで、大いに儲けて経済的に成功したのは、選択としては正しかったといえる。

しかし、日本国や日本人がいくら心身ともに欧米化を進めようとしても、そのやり方が、欧米との心理的情緒的一体化に基づく女性的、母性的なものであるため、欧米社会本来の個々人の自己責任と独立、バラバラさを許容し、積極的にリスクを取って、率先して未知の領域を切り開く男性的、父性的な精神を、日本人が心の底から体得することは決してできないのである。

敗戦後70年間、アメリカの実効支配を受けて、日本人の国民性も変化したのかと思ったら、戦前のままだったようだ。

日本は、日米同盟最強と盛んにアメリカとの仲の良さを強調するが、その実態は個人主義、自由主義重視のアメリカ社会とは正反対の、団体行動最優先で、個人を長時間統制拘束し、自由、プライバシーの無い村社会、女社会を頑なに維持する反米社会である。

日本人は欧化主義推進にとって都合の悪い事象をことごとく表に出ないように隠そうとしている。面白いのは、表向きは一生懸命否定し隠すが、表から見えないところでは昔ながらに絶対的に従っていることだ。日本村社会の掟や姑の存在はその典型だ。

日本人が自分たちの村社会や女社会を必死で隠蔽して欧米出羽守ばかりやるのは、よほど欧米が怖くて逆らいたくないのだと考えられる。日本人は、反欧米と見られることがそんなに怖いのなら、村社会、女社会であること自体をさっさと止めてしまえば良いのに、それはなぜか全力で死守しようとしているところが矛盾している。

日本の社会学者が欧米社会理論の輸入と啓蒙に明け暮れるのは、日本社会を欧米化していると表面的に見せかけることで、反欧米的特質を持つ日本村社会、女社会、母権社会の潜在的永続を欧米社会に対して隠すための戦略である。日本のフェミニズムとかその典型である。

日本村社会、女社会の反欧米的特質を指摘されると必死で否定、無視し、日本は民主化していますと釈明するのが日本人である。スーパーお上の欧米にお仕置きされたくないから、村社会、女社会を必死で隠して事なかれしようとする。

日本の村人たちは、反欧米的な本性がバレてスーパーお上の欧米に攻撃されないように、必死で欧米的な行動を表面的に導入して、見た目を取り繕おうとしている。それが日本社会で欧米出羽守が量産される真相である。欧米理論の紹介、導入に明け暮れる日本社会学も、その一類型である。欧米出羽守の日本人が目立つが、最近は、その亜種の国連出羽守の日本人も目立つ。

日本女性は、自分たちが日本社会の中で強いことを認めてしまうと、反欧米になってしまうので、「日本の女性は弱い!差別されている!」と必死になって叫んで取り繕いを行っている。日本の女性学、フェミニズムは、スーパーお上の欧米を懐柔するための日本女たちの戦略である。

アメリカ追従をする日本人は2通りいる。どちらも見かけ上欧米出羽守になるので見分けが付きにくい。

・アメリカが強くて怖いので、とりあえず従っておくかという権威主義的な伝統的村人。

・伝統的日本村社会、女社会の統制の強さ、相互監視の強さ、自由の無さに辟易している、つかの間の自由が欲しい隠れ自由主義者。

両者の区別は、日本村人度判定テストの結果で行うことが出来る。

日本人は、欧米の文物をしきりに有難がって、身につけようとする一方、中国や北朝鮮、韓国を敵視して馬鹿にする。日本が自分たちの社会の基盤が村社会のままであると認めることは、自分たちは中国、韓国、北朝鮮と同類ですよと認めることになり、中国、韓国、北朝鮮と仲の悪い日本の人たちは、それを避けるのに懸命になっているのでは無いだろうか?

だから、日本の高校の地理学の教科書とか大学の社会学の教科書とか、農耕民と遊牧民の社会のあり方の根本的な違いとか、一切教えずに無視するのだと思う。もしも教えると、日本は、欧米のような遊牧系に近い社会からかけ離れた稲作農耕民の社会であると教えることになってしまい、自分たちが心理的に一体化しようとしている欧米社会からは距離が遠くなり、自分たちが避けたいと考えている中国、朝鮮と一緒のカテゴリーになってしまうからである。

現代の日本人は、対欧米従属、反中韓になっている。欧米の言うことは絶対で事大主義的に従う。一方、中韓には敵意をむき出しにして馬鹿にする。日本の国民性が欧米よりも中韓に近いという意見は無視する。

日本が欧米しか見ていない(中韓は見下す)のに対して、中韓は欧米、日本の両方を見ている。これが、製造業で日本が中韓に勝てない理由である。中韓は、日本のものを更に改良するので、競争力が日本のものよりも強くなる。日本村社会は、中国、韓国、東南アジアの社会と大差ない。欧米追従のスタート時刻がたまたま他の東アジア諸国より早かったので成功しただけである。

日本政府やそのブレーンたちが、男女の心理的性差や、女性的性格と日本社会の国民性との相関、男性的性格とアメリカ社会の国民性の相関とかについてきちんと教えずに、男女の性差をひたすら無視しようとするフェミニズムや男女共同参画社会構想とかに向けて突っ走るのも、日本社会が女性的だと認めてしまうと、男性中心の家父長制の欧米社会と、超えられないギャップが認識されてしまうから、都合が悪いためであると言える。

また、日本の女性的社会、母権社会の存在自体が日本を実効支配するアメリカの家父長制社会に反する「反米」の存在であるため、存在を隠す必要が出てくるのである。日本社会を男社会と必死になって主張するのも同根である。日本の嫁の地位の低さは論じられるが、母や姑の地位の高さはちっとも論じられないのも同じである。

河合隼雄の日本=母性社会論が例外的に受け入れられたのは、彼が、西欧に留学して、ユングの精神分析の理論という、西欧で権威が確立された理論を土台にした自分の理論を提示するという形でライフワークの展開を行ったため、日本人の欧米の文物をこぞって取り入れようとする、欧米の文物を上位に置いて有難がる権威主義的な心理的傾向、ルートにうまく乗っかることが出来たからである。

この仕組を利用して、例えば少数の日本人が欧米に留学したりして、欧米人の一員としていったん成果を出して認められた後、そこから日本村社会の社会システムを克明に分析、論評し、中国、朝鮮社会といった他の農耕民社会との対応付けや、アラブ、ユダヤ、トルコ、モンゴル、欧米といった遊牧系、牧畜系社会との性格比較を行っていくことが、欧米文物に弱い日本人に、自分たち日本人が欧米とは異質な村社会であることを世界に向けて公認せざるを得ない状況を作り出す条件になるのではないだろうか?そうなれば、大きな日本社会の変革、改革につながるだろう。

ともあれ、現状の日本社会学のような、アメリカに逆らうことを怖がって、日本村社会、女社会の実態を隠蔽し、欧米理論の日本社会への強制輸入と当てはめに奔走している「欧米出羽守」状態は、欧米社会の真実は知ることが出来るかも知れないが、日本社会の真実を知るには不適切であり、社会の真実を解明する社会科学のあり方としては間違っていると言わざるを得ない。日本人、日本の社会学者の「欧米恐怖症」が、その間違いの原因である。日本の大学の文科系が役に立たないと言われる原因も、この「欧米恐怖症」と大いに関係あるだろう。

その時々の強い者(今は欧米列強)に逆らうのが怖くて、保身のため、強者に従順で迎合して、コロコロ自分の学説を変えたり、強い者(欧米列強)の意見に沿った学説を日本国内に役立つか事前検証せずに一方的に直輸入して人々に機械的に押し付けてしまうのが、日本の社会科学が税金の無駄遣いで、役立たずでダメな根本原因である。

欧米出羽守や、「スーパーお上」の欧米、国連を利用して日本国内の「お上」(官庁、役所)を支配しよう、動かそうとする態度自体、強者に惹かれてなびき、一体化して、利用しようとする女性的な態度である。

その点では、日本女の存在が、日本の社会科学をダメにしている。

日本の社会学が科学になるには、日本村社会、女社会をきちんと解明するように方針転換することが必要である。日本の社会学者は、存在が反米だから、アメリカから圧力がかかるからと言って怖がって研究を尻込みせずに、勇気を持って現状の日本村社会、女社会の実態解明をすべきである。日本の社会学者自身も所詮は日本の村人なのだから。

もっとも、日本の社会学者からは、アメリカのようなその時々の強者に惹かれ、なびき、従い、媚び、反逆しないのが日本村社会、女社会の掟であり、自分たちはそれに従っているだけで、日本の村人として当然の行為であるとされるだろう。

日本の社会学者からは、むしろ日本村社会、女社会の解明が村の内部告発とみなされ、自分たちが国家村や学者村から村八分の対象になりかねないので日本の村人的には不可だという反応が返ってくるだろう。日本の村人たちや女性たちが、日本村社会、女社会のことを語りたがらないのは、語ると村の内部情報の漏洩、村の内部告発になってしまい、自分が村八分や仲間はずしの対象になってしまう危険性があるからだ。

その点、日本村社会、女社会解明を妨げる真の敵は、

・日本人の「欧米恐怖症」

・日本村社会、女社会自身の、内部告発者に対する「村八分」「仲間はずし」の掟

である。

こうした日本村社会や女社会からの「村八分」「仲間はずし」の脅しに屈すること無く、日本村社会、女社会の内部の真実を追求し続ける勇気を持つことが、日本の社会学者には求められると言える。

また、日本村社会、女社会の国際的な位置付けのためには、東アジア(中国、韓国、北朝鮮)、東南アジア(ベトナム、フィリピン、インドネシア、タイ・・・)の他の稲作農耕民社会も共通に視野に入れることが必要であり、研究の国際協調が求められると言える。日本村社会、女社会は、日本だけに特殊な性質の社会では無く、稲作農耕民社会の一類型として捉えるのが適当だと考えられるからである。(これはこれで、経済的に自分たちを追い越した同類の中国、韓国が嫌いで、東南アジアを未だ発展途上国と見下し蔑視する日本社会の広範な層の偉そうな村人たちから反発を招きそうであるが。)


強者に惹かれる日本村社会の女性的性質と「欧米出羽守」

一般的に、女性には、その時々の強者に惹かれ、なびき、従う性質がある。それは、女性の、自分が強者との間に子供を設けて、自分の遺伝子が、強者の遺伝子との統合によって環境に適応しやすく、将来的に生き延びやすくしたいという傾向の表れである。

日本村社会は女社会なので、当然ながら女性の上記の性質を社会的に引き継いでいる。すなわち、その時々の強い勢力に惹かれ、なびき、一体化、神格化したがるのが、日本の村人の性質である。これは国内向けにも、国外向けにも当てはまることである。

この女性的心理を象徴するのが、「お上」という概念である。「お上」は、日本村社会を支配している最上部の権力者に対して日本の村人たちが付けている敬称である。「お上」の実態は具体的には、天皇家と、その使用人の役人たちである。

日本の村人たちは、日本国内向けには、「お上」の天皇家やその使用人である高級役人を神格化して、「天皇陛下万歳!」と叫んでペコペコ頭を下げている。

この日本の村人の、その時々の強者に惹かれる性質が、国外向けに発揮されているのが、欧化主義である。日本人が自国への欧米の社会制度や文化の導入に一生懸命で、欧米文物を強く愛好し、欧米出羽守になりたがるのは、国際的に強い勢力である欧米列強=スーパーお上に心理的に惹かれ、なびいて、一体化しようとする女性的な欲求の現れなのである。これは、日本村社会が女社会であることの一つの証拠である。

アメリカ主導で制定した日本国憲法の条文が神格化され、護憲派によって長年字句の変更を拒まれてきているのも、日本の村人たちの「お上、スーパーお上の無謬性」の信仰、すなわち、お上やスーパーお上のすることに間違いはない、安心して従っていれば村社会や自分たちの安寧が図られるという信念が強固だからだろう。


欧米諸国から「村八分」にされるのを恐れる日本村社会と「欧米出羽守」

稲作農耕民社会の一種である日本村社会は女社会であり、集団一斉行動を好み、相互の一体感を何よりも重んじる。なので、村内に異質で浮いた人間がいると、寄ってたかっていじめたり、無視して仲間はずれ、村八分にする。日本の村人たちは、村の外に放り出されると生きていけないので、村八分にならないように、仲間はずれにならないように、必死で村内の空気を読んで、他の村人と和合、協調しようとする。

日本人は、この日本村社会、女社会の感覚を、国際関係にそのまま何も考えずに持ち込んでしまう。つまり、欧米列強諸国間の関係を、日本村社会と同様な関係である=諸国の間で相互の一体感、同類感、同調感を重んじていると勝手に思い込むのである。日本は欧米諸国から離れて一人東アジアに位置するが、戦後の高度経済成長で欧米諸国同様社会の近代化を達成して先進国となり、欧米諸国の仲間、身内になったと思っているのである。G7会議出席とか、その典型である。

日本人は、その状態で、日本が、他の欧米列強諸国から異類と見なされ浮いてしまうと、欧米列強諸国の共同体から無視され、村八分、仲間はずれにされてしまい、国際的に孤立して生きていけなくなると思い込む(日本は東アジアで中韓と仲が悪く孤立している)。そして、欧米列強諸国に対して、日本は皆さんと同質、同類になります、一体化します、どうか村八分、仲間はずれにしないで下さいと必死になってアピールする。

そのアピールが、日本による、欧米列強諸国の社会制度や文化を、必死になって輸入し盲目的に導入する社会的行動として現れる。それがすなわち日本における欧米出羽守の行動である。欧米出羽守の日本の村人たちは、欧米社会の真似と表面的な同一化、一体化を必死に行い、見かけは欧米諸国と変わらない社会的、文化的外観を身に付けることを達成し、これなら欧米諸国の身内に入れてもらえるだろうと考えるのである。日本の欧米出羽守の行動には、欧米諸国から仲間はずれ、村八分にされることへの恐怖心が無意識のうちに反映されているのである。

ところが、欧米諸国は、牧畜民社会、男社会なので、相互にバラバラ、異質なのが前提で、そもそも日本村社会、女社会では当たり前な「身内、内輪の一体感」「仲間はずれ、村八分への恐怖感」の概念とか特に持っていないと考えられる。個人主義、自由主義の牧畜民は、所属集団による成員への締め付けが弱く、仲間はずれ、村八分の恐怖とは無縁の存在と言える。あと、欧米諸国は黄色人種の日本と違い、白色人種がほとんどで、地理的にも日本の位置する東アジアとは全然関係の無い大西洋側の位置にいるのである。なので、日本が必死に片思いするほどには日本には関心も親近感も持っていないと考えられる。

日本の欧米出羽守の村人たちの欧米諸国に対する、「欧米諸国の身内に入れて」「村八分にしないで」というひたむきな片思いは、その必死さと裏腹に、欧米諸国にはあまり伝わっておらず、実効性にも乏しく、近年は日本と同類の中国の台頭と相まって、欧米諸国にとっては日本は影の薄い、ますます遠い存在となっているのが実情では無いだろうか。

その点、日本は、欧米諸国の仲間に入れてもらおうとして欧米出羽守ばかりやっている現状をそろそろ見直した方が良いのではないかと考えられる。日本が国際的に孤立しないために、仲の悪い中韓との関係を修復したりとか、考えるべき時期に来ているのではないだろうか。



日本村社会の今後の課題

以上、日本村社会の特徴、その中で生き抜くための処世術をまとめた。日本村社会は女性的な性格が強く、女性のペースで動く社会であり、「(日本的)村社会=女社会」と捉えることが可能である。

太平洋戦争でアメリカに負けて70年、必死に欧米化を進めてきたはずの日本社会が村社会を維持してきたことは驚きである。社会の基層が、外部からのイデオロギー直接導入では変わらないことの格好の一例である。異文化受容は表面的に留まり、伝統的な社会構造が続いている。

こうしたことの原因は、日本家族関係の不変性に求めることが出来る。今も昔も母子関係が第一であり、あらゆる社会関係、人間関係が母子関係の延長となっている。稲作農耕民は、人員の一斉集団作業を重んじる、相互一体感偏重の女性優位の社会を作り、それを次世代に継承する際に、母子癒着を利用するのである。

西欧、アメリカと違い、日本の母子関係はとても強固で、父親は割って入ることが出来ず無力な存在と化している。そして、父親は育児の過程で強烈な母子癒着によって父性を失っており、子供のままである。母子関係が子供が大人になっても切れず、ずっと続くのが、稲作農耕民社会であり、日本村社会はその典型例である。

では、中国、韓国、東南アジアといった他の稲作農耕民とどう違うかと言えば、日本では血縁の無い者同士が、白紙状態の新入りの成員(嫁、新卒社員)を自分たちの集団の色に染めることで、血縁者同様の疑似家族を形成することが出来る点にある。この非血縁家族集団社会が日本村社会なのである。

日本村社会は、西欧人、アメリカ人には、とても息苦しく自由の無い社会として感じられる一方、強い母性によって形成された文化が異質で魅力的に映る。また、家庭の財布の紐を西欧、アメリカのように夫が握るのでは無く妻が握っていることも大きな驚きとして感じられる。夫婦共働きでも家庭の財布の紐は妻が握るのであり、女性の経済的権力が強いことを伺わせ、女性が強いことを印象付ける。子育ても女性が独占している。そのため、日本の子供は、息子も娘も一生、母の所有物、奴隷だ。日本は女社会であり、女権拡張を目指す世界のフェミニズムの先進国である。

日本村社会は、明治維新後の日本の国際的躍進や、太平洋戦争後の日本の高度経済成長、経済大国化のバックグラウンドとなった社会であり、それなりに優れた大きな長所を持つと言える。そういう点では、日本人は、村社会、女社会に自信を持って良い。

もっとも、その村社会、女社会の本質が、中国、韓国、東南アジアの稲作農耕民の国々と大きな差が無いので、現状、それらの国々との経済面での競争で差別化出来ず苦戦しているのも事実である。また、バブル崩壊後、村社会のせいで若い人、若かった人が結婚したり子供を設けたりできず少子化がどんどん進んでしまい、村社会の存在が日本社会が衰退の一途を辿る原因ともなっている。あるいは村社会が女性の雇用を妨げている面も見られる。すなわち、

・新卒で職場村に正社員として入れなかった若者たち(いわゆる就職氷河期世代)

・出産、育児でいったん正社員を辞めて所属していた職場村を出てしまい経歴にブランクのある女性たち

を、職場村の一員として受け入れることを一貫して拒絶して低賃金労働で身分の不安定な、子育て費用を十分賄えない非正規雇用の状態に置き続けた。村をいったん出て経歴にブランクのある人を、信用ならない浮浪者扱いして、再び正規の村の成員として村に入れることを拒絶する村の論理がそうさせているのである。

また、中高年で介護等の事情で職場村を辞めた正社員の雇用者たちの管理職以外での再就職が難しく、この場合、他の村人と一緒にすると年功序列に乱れが生じて扱いにくいので、職場村の中に入れようとしないという村の論理が働いている。

就職氷河期世代を生まないためにも、日本の職場村は、既存の正社員の給与を削っても良いから、彼らを全員正社員として雇うべきだったし、非正規雇用状態の就職氷河期世代の人々を途中から再び正社員として雇うべきだったが、村社会の論理で拒絶してしまった。また、職場村は、子育てが完了した女性を正社員として雇わずパートとしてばかり雇うことで、男女の賃金格差を広げることにつながっている。職場村への所属期間にブランクが生じると当人の社会的信用が低下するとみなして村の中に入れようとしない村社会の論理が原因である。

実質、村から追い出されている旅の人状態である、非村人の非正規雇用者同士が、相互に連帯して新たに協同組合という形の組合村を作って入り、組合村の村人となって社会的発言力を確保するのも、社会問題解決のための一つの方策である。従来の生活協同組合と似たやり方である。日本社会では村人でないと人権が保証されないため必要である。非正規雇用者同士の連帯を促進する会食の場とかを、貧困な子供向けのこども食堂同様設けるとか、ネット上につながりの場を設けるとかである。もっとも、職場村の正社員の村人の滅私奉公の慣習が嫌で、精神面での自由が欲しくて正社員を辞めている非正規雇用者も相当いるので、非人権的な職場村の掟の二の舞いにならないよう形成される労働慣行に注意すべきである。従来の村よりも緩い連帯を目指すべきだ。

また、職場村、学校村とかで男女共に滅私奉公、長時間残業を要求するため、男女の一方(主に女性)が仕事を止めて他方のサポート係に回らざるを得ないか、男女とも忙しすぎて結婚、子育てできない。男女共に職場村で終身雇用で100%滅私奉公することが、日本人の目標となっている以上、家庭や子供は日本人にとって不要、邪魔な存在と化している。少子化と家庭の崩壊が、職場村や学校村といった日本村社会の論理によって進んでいる訳である。

日本の村人には、何も働かなくても株式配当とか賃貸不動産の賃料のような高い収入が入って来て遊んで暮らせる資産家とか、世襲で高い社会的地位をキープできる皇族とか議員とか医者とか、門閥、閨閥とかの特権階級の村人と、彼らに全人生滅私奉公を強いられる雇用者の立場の、実質的に奴隷の村人がいる。高級官僚みたいに、一見社会的地位はとても高いが、実は天皇家の実質的奴隷の村人もいる。また、村人になれない、村から追い出された非正規雇用者=非村人たちは、人外の扱いをされ、人間らしさを保証されない苦しい生活を強いられている。

日本村社会は静的なため、そのまま放置すると身分が固定され、社会が停滞しやすい。日本の村人は女性的で自分の保身を優先するので、既存の社会体制を自ら変えるリスクを冒そうとはせず、むしろ、そうした社会体制の強者に惹かれ、なびき、自分たちも社会的強者、既得権益層の一員に入れてもらおうと必死になる。皇族崇拝とか、公務員採用試験への殺到とか、その典型である。そしてたまったストレスを社会的弱者叩きで紛らわせる。同じ働かない人でも、生活保護受給者は叩くが、世襲の資産家は叩かない。そうした日本の村人たちの、社会的強者に迎合する女性的態度が日本村社会の既得権益層の維持、再生産につながっている。自分からは変われないのが日本村社会の特徴である。日本村社会が変わるために、個々人がより自発的に動き回ることが出来、社会を自主的に変革させる度合いの高い、西欧、アメリカのような男性的牧畜民社会との連携、同盟が必要な所以である。

また、村内の一体感を重視する余り、村内で周囲から浮いた成員を集団で異分子扱いして、いじめたり、追い出したり、自殺に追い込んだりする人権抑圧が恒常的に起こってしまうことも問題である。学校村内の学級村でのいじめとか、日本の子供たちも所詮は陰湿な村人の集まりであることを考慮に入れる必要がある。

そういう点では、日本村社会は、その本質を受け継ぎながらも、大きな変革が必要であり、日本人にとっては、今までのように存在を隠すのではなく、その存在を表に出して公の議論の俎上に乗せ、村社会、村の掟自体の改良をしていくことが早急に求められると言える。また、日本村社会の抱える諸問題の原点は女社会のあり方にあるのであり、日本女たちは、隠蔽している女社会の内実を表に出して、その改革をすべきである。


おしまい!ここまで読んでくれてありがとうございます。


(資料)既存日本人論とドライ、ウェットな態度との照合


対人関係のドライさ(乾燥している度合い)が、気体分子運動パターンと相関し、対人関係のウェットさ(湿潤の度合い)が、液体分子運動パターンと相関する。

対人感覚のドライ・ウェットさのうち、特にウェットさに関しては、従来から、日本人の性格・態度の特徴を表す、とされてきた。例えば、〔芳賀綏1979〕においては、日本人像のアウトラインとして、「おだやかで、きめ細かく、『ウェットで』(強調筆者)、女性的で、内気な」といったように、その中にウェットさを含めて考えている。あるいは、〔吉井博明1997〕においては、日本人のコミュニケーションのあり方の特質について、直接対面によるコミュニケーションの重視の現れを示すものとして、「ウェット」という言葉を用いている。

そこで、こうした見方が果たして正しいかどうか、当調査において抽出した対人関係パターンを、従来提唱されてきた、日本人の伝統的な国民性を現すとされる、主要な学説と照合した(学説抽出に当たっては、〔南1994〕〔青木1990〕などを参考にした)。

その結果、以下の表が示すように、従来の学説で取り上げられてきた日本人の対人関係における特徴は、ほとんど「ウェットさ」を示している。したがって、日本人の伝統的な対人関係は、基本的にはウェットである、と捉えることができそうことが分かった。言い換えれば、「日本人の伝統的な行動様式は、(分子間力の大きい)液体分子運動パターンに似ている」ということになる。

また、以下の、日本人の国民性として列挙した文献データベース表は、内容的に十分網羅的である(日本人の対人関係上の特徴の大半をカヴァーしている)ことが考えられ、したがって、従来の日本人の国民性とされているものの大半を、「ウェット」というひとことで要約することができることになる。

〔伝統的な日本人論とウェットさとの関連:まとめの表〕

各論が発表された年代順にまとめてあります。
項目欄のリンクをクリックすると、その項目に関する文献情報に飛びます。

番号

項目

研究者名

要旨

抽出した次元
(
ウェット)

対応する欧米文化

抽出した次元・欧米
(ドライ)

(1)

恥の文化

R.Benedict(1946)

自己の行動に対する世評に気を配る。他人の判断を基準にして自己の行動の指針を定める。

反プライバシー、他律指向(他者の目を気にする)

自分の行動の指針を定めるのに、自分自身の判断を基準にする。(罪の文化)

プライバシー、自律指向

(2)

家族的構成

川島武宣(1948)

権威による支配。個人的行動の欠如。自主的な批判・反省を許さない社会規範。親分子分的結合の家族的雰囲気と、対外的な敵対意識。

権威主義、集団主義、規制主義、同調指向、縁故指向、閉鎖指向

権威への反逆。個人的行動の重視。自主的批判、反省の許可。家族的一体感の欠如と、対外的な開放意識。

反権威主義、個人主義、自由主義、反同調指向、非縁故指向、開放指向

(3)

終身雇用、年功序列
(日本的経営)

J.C.Abegglen(1958)

会社と従業員との間に終身的な関係がある。

定着指向(組織内定住)、前例指向

会社と従業員の関係が、契約的、一時的である。

移動指向、独創指向

(4)

タテ社会

中根千枝(1967)

「場」と「集団の一体感」によって生れた日本の社会集団は、その組織の性格を、親子関係に擬せられる「タテ」性に求める。

閉鎖指向、縁故指向、集団主義、非合理指向

組織が水平方向、フラットである。

開放指向、非縁故指向、個人主義、合理指向

(5)

静的育児

Caudill,W.,Weinstein,H.(1969)

日本の母親は、子供と身体的接触を多くし、子供があまり身体を動かさず、環境に対して受動的であるように、子供を静かにさせる。

静的指向、相互依存指向、密集指向

母親は、子供と身体的接触を少なくし、子供が身体を動かし、環境に対して能動的であるように、子供を動的にさせる(動的育児)。

動的指向、自立指向、広域分散指向

(6)

中央集権

辻清明(1969)

中央集権的官僚制の強い拘束の前に、近代的な地方自治が完全に窒息せしめられていた歴史を持つ。

密集指向(中央への権限の一極集中)

地方分権的である。権限が地方に移譲されている(地方分権)。

広域分散指向(権限の地方分散)

(7)

同調競争

石田雄(1970)

所属集団に支配的な価値指向と行動様式に従う。他人と同じ行動を取る。

同調主義(大勢順応)、画一主義(横並び)

他人とは別行動を取る(非同調)。

非同調指向、多様性の尊重

(8)

甘え

土居健郎(1971)

日本人は、成人した後も、「母子」間での気持ちの上での緊密な結びつきと同じような情緒的安定を求め続けて行く。

相互依存指向、集団主義(一体感)

母子間の結びつきが薄い。母親に対して情緒的安定を求めない(甘えの欠如)。

自立指向、個人主義

(9)

間人主義

木村敏(1972)・濱口恵俊(1977)

対人面での相互依存、相互信頼、対人関係の本質視、という特徴を持つ。

人間指向(人間関係そのものを重視)

対人面で、相互自立を重んじ、対人関係を単なる手段として見る(個人主義)。

非人間指向(物質指向)

(10)

他律的

荒木博之(1973)

ムラ的構造の中にあって、個人がその個性を喪失し、集団の意志によってその行動が決定されて行く。

他律指向

個人が個性を維持し、集団の中においても、個人の意志によって行動を決定する(自律的)。

自律指向

(11)

集団主義

間宏(1973)

個人と集団の関係で、集団の利害を個人のそれに優先させる。個人と集団が対立する関係ではなくて、一体の関係になるのが望ましい。

集団主義

個人の利害を、集団のそれに優先させる(個人主義)。

個人主義

(12)

母性原理

河合隼雄(1976)

「包含する」機能で示され、すべてのものを絶対的な平等性をもって包み込む、母子一体という原理を基礎に持つ。

人間指向(ふれあい)、集団主義(一体感)

母子の一体感が薄い。開放的な父性原理で動く(父性原理)。

非人間指向、個人主義

(13)

大部屋オフィス

林周二(1984)

日本のオフィス空間では、大部屋に多数の社員が机を向かい合わせに並べてがやがやと働いているのに比べて、欧米では社員は個室で働いている。

密集指向、反プライバシー(相互監視)

社員が大部屋ではなく、個室で働く(個室オフィス)。

広域分散指向、プライバシー尊重

(14)

権威主義、独創性の欠如

西澤潤一(1986)

欧米の権威者の説をあたかも自分の体験のように思い込み、批判したりすると過剰に反応する。欧米の独創技術を自らは危ない橋を渡らずに拾い上げて集中的に実用化する。

権威主義(欧米学説に追随したがる)、前例指向(自分からは未知の領域には進もうとしない)

既存の権威秩序に反抗し、破壊し、新たな独創的知見を生み出そうとする。危ない橋を進んで渡る。

反権威主義、独創指向

(15)

相互協調的自己

Markus,H,R,&北山忍(1991)

自己を相互に協調し、依存した存在とする。

相互依存指向、人間指向

自己を相互に独立し、自立した存在とする。(相互独立的自己)

自立指向、非人間指向

(16)

直接対面

吉井博明(1997)

対面コミュニケーションに過重に依存する文化を持ち、集中が集中を呼ぶ体質を内在させている。

密集指向(物理的に至近距離)、人間指向(親密さ)、反プライバシー(視線)

対面コミュニケーションを偏重しない。

広域分散指向、非人間指向

(その他)

根回し

交渉などをうまく成立させるために、関係方面に予め話し合いをしておく。

縁故指向、規制主義

交渉時、予め関係方面に話をせず、直接交渉を行う。

非縁故指向、自由主義

談合

互いに相手の動きを、相手が自由な行動(安い入札価格の提示競争)を取らないように、牽制し合って、相互の取る動き(入札価格)を事前の話し合いで決めてしまう。

規制主義(自由競争を抑制)、同調指向(相談仲間を作る)

互いに事前の話し合いをせずに、自分の取る行動を自由に決める。

自由主義、非同調指向

政府による規制

政府が、行政指導などで、業界の動きを牽制・拘束する。

規制主義

政府が、業界の動きをあまり牽制、拘束しない。

自由主義

NOと言えない

互いに相手に配慮して、相手の言うことを拒絶することができない。

人間指向(気に入られようとする)、集団主義(相互批判を許容しない)

相手の言うことを、きっぱり拒絶する。

非人間指向、個人主義


こうした、従来、日本的とされる対人関係の上での特徴は、決して、日本だけに特殊なものではなく、より一般的には、農耕、とくに高温多湿な東アジアに広く分布する稲作社会(集約的農業型社会)での対人関係上の特徴へと拡張して捉えることができそうに思われる。この点の根拠については、別項の環境のドライ・ウェットさとの照合についての記述を参考にしていただきたい。

現状では、研究者の関心が、日本対欧米という視点にしばられて、日本以外の東アジアの社会のあり方に対して向いていないため、日本の対人関係上の特徴を、(本当は東アジア稲作社会に共通であるのに)日本に特殊的と思い込みやすいのではあるまいか?

〔参考文献〕

青木保「日本文化論」の変容-戦後日本の文化とアイデンティティー-中央公論社1990
芳賀綏「日本人の表現心理」中央公論社1979
南博「日本人論-明治から今日まで」 岩波書店1994
吉井博明「情報化と現代社会」 北樹出版1996


(資料)日本人の伝統的国民性:文献調査結果の詳細

以下は、日本人の伝統的な国民性が、ウェットであることを示している、既存の日本人の国民性に関する文献の、大まかな一覧です。 文献の順序は、発表が古い順に並べてあります。 記述は、(1)文献の著者名、題名などの書誌データ、(2)ウェットさに関連する部分の要約、(3)筆者が以前行ったアンケート調査項目との関連についての情報、から成っています。


1.〔恥の文化〕

(書誌)Benedict,R. The Chrysanthemum and  the Sword : Patterns of Japanese Culture, Boston Houghton Mifflin, 1948 長谷川松治訳 「菊と刀 - 日本文化の型」社会思想社1948

(要旨)日本文化は、恥の文化に属する。
悪い行いが「世人の前に露顕」しない限り、思い煩う必要がない
恥を感じるためには、実際にその場に他人がいあわせるか、そう思い込む事が必要である → 他律指向
生活において恥が最高の地位を占めているという事は、..各人が自己の行動に対する世評に気を配ることを意味する →人間指向
他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める → 反プライバシー
 
 

(アンケート項目との関連)↓

 反プライバシー
B24 自分が他人にどう見られるかを気にする

 他律指向
E26 周囲の他者の影響を受けやすい

人間指向
E18 周囲の他者に気に入られようとする
E22 周囲の他者によい印象を与えようといつも気にする


2.〔家族的〕

(書誌)川島武宣 日本社会の家族的構成 1948 日本評論社

(要旨)日本の社会は、家族および家族的結合から成り立っており、そこで支配する家族原理は民主主義の原理とは対立的のものである。家族的原理とは、
1 「権威」による支配と、権威への無条件的服従 → 権威主義
2 個人的行動の欠如とそれに由来するところの個人的責任感の欠如 → 集団主義、規制主義
3 一切の自主的な批判・反省を許さぬという社会規範。「ことあげ」することを禁ずる社会規範 → 集団主義
4 親分子分的結合の家族的雰囲気と、その外に対する敵対的意識との対立。「セクショナリズム」。 → 縁故指向、同調指向、閉鎖指向
である。

(アンケート項目との関連)↓

権威主義
D24 権威あるとされる者の言う事を信じやすい
E15 人付き合いで相手の身分・格式を重んじる

集団主義
A1 集団・団体で行動するのを好む
D29 ひとりで他者とは別の道を歩むのを好まない

B22 集団内での相互批判を好まない

規制主義
B15 一人の犯した失敗でも周囲の仲間との連帯責任とする

縁故指向
C24 人付き合いの雰囲気が家族的である
B14 人付き合いで親分子分関係を好む

同調指向
E36 意見の同じ者だけでまとまろうとする

閉鎖指向
B21  人付き合いで身内・外の区別にこだわる
D33  自分が属する集団内の人々としか付き合おうとしない


3.〔終身雇用、年功序列〕

(書誌)Abegglen, J.C.,The Japanese Factory:Aspects of Its Social Organization, Free Press 1958 占部都美 監訳 「日本の経営」 ダイヤモンド社 1960

(要旨)日本とアメリカの工場組織を比較したときに直ちに気づく決定的な相違点は、日本における会社と従業員との間の終身的関係である(終身雇用)。→定着指向

従業員の給与は主として入社時の教育程度と勤続年数・家族数によって決まり、仕事の種類と仕事をした結果に基づく部分はほんの少しである(年功序列(賃金))。→前例指向
 

(アンケート項目との関連)↓
定着指向
D15 一つの組織(職場など)に長期間所属しつづけるのを好む(組織内定住)
前例指向
E12 年功序列を重んじる


4.〔タテ社会〕

(書誌) 中根千枝  タテ社会の人間関係 講談社 1967
 

(要旨)日本では、個人が社会に向かって自分を位置づけるとき、自分のもつ資格よりも「場」を重視する。自分の属する職場、会社、官庁、学校などを「ウチの」と呼び、一定の契約(雇用上の)関係を結んでいる企業体であるという、自分にとっての客体としての認識ではなく、「私の、またわれわれの会社」が主体として認識されている。

「イエ」は、「居住」(共同生活)あるいは「経営体」という枠の設定によって構成される社会集団の一つであり、そこでは「場」が重要性を持つ。「場」という枠による機能集団の構成原理こそ、「イエ」において、全く血のつながりのない他人を後継者・相続者として位置づけて疑問が生じない根拠である。

資格が異なるものが成員として含まれる日本の社会集団においては、集団のまとまりを強める働きをするのが、一つの枠内の成員に一体感をもたせる働きかけと、集団内の個々人を結ぶ内部組織を生成させて、それを強化させることである。それが、「われわれ」という集団意識の強調であり、「ウチ」と「ソト」を区別する意識とそれに伴う情緒的な結束感が生れる。→集団主義、閉鎖指向

「場」と「集団の一体感」によって生れた日本の社会集団は、その組織の性格を、親子関係に擬せられる「タテ」性に求める。→ 縁故指向

集団原理を支配する強い情緒的一体感が見いだされる → 集団主義

「タテ社会」性が、日本人の「批判精神の欠如」、「論理性の欠如」を生じさせている→ 集団主義、非合理指向
 

(アンケート項目との関連)↓

集団主義
A14 他者との一体化・融合を好む

B22 集団内での相互批判を好まない

閉鎖指向
B21  人付き合いで身内・外の区別にこだわる

縁故指向
B14 人付き合いで親分子分関係を好む

非合理指向
C6 考え方が非合理的である
 


5.〔静的育児〕

(書誌)Caudill,W., Weinstein, H.,  Maternal Care and Infant Behavior in Japan and America  Psychiatry,32   1969
 

(要旨)アメリカの母親は、子供の自己主張を明らかにし、母親とは違う存在であることを気づかせ、子供をより独立的にさせてゆく必要があると考えている..日本の母親は、子供との間の相互依存的な関係を発展させ、他人に依存的で従順な子供になることを期待している。

アメリカの母親は、子供に対して声をかけ、活発に働きかけることで関係を持ち、子供がより身体を動かし、環境に働きかけていく事を期待している..日本の母親は、子供と身体接触を多くし、子供があまり身体を動かさず、環境に対して受動的であるように、子供を静かにさせる傾向にある

→相互依存指向、静的指向、密集指向

(アンケート項目との関連)↓

相互依存指向

D32 互いに依存しあおうとする

密集指向

E35 他者と肌と肌が触れ合うのを好む

静的指向

F36 静止しているものを好む


6.〔中央集権〕

(書誌)辻清明 新版 日本官僚制の研究 東京大学出版会 1969

(要旨)わが国は、地方自治法を制定するまでの数十年間、前近代的な中央集権的官僚制の強い拘束の前に、近代的な地方自治が完全に窒息せしめられていた

地方自治法の問題の所在について...「権力的統制」の強い残映をうかがうことができる。

第一..中央官庁による多元的拘束である。地方自治体に対する主たる監督権を掌握していた内務省の支配は廃棄せられたのであるが、同時にその他の官庁はいずれも多岐的な地方機関を保有増設し、地方団体の自主的機能を阻害しているとともに、さらにこれらに対して煩瑣な中央的拘束を加えている。

第二..人事権を通してなされる官僚制的拘束である。従来の地方官吏は警察官を除いて地方吏員に切り換えられたのであり、したがって人事権は地方団体長に所属している。しかしながら、そのことは極めて形式的であり、今後依然として地方吏員の任免・転任などの実権を中央官庁が掌握していく危険ははなはだ大きい。現在、副知事や助役をはじめとして地方団体の幹部級が、ほとんど従来の内務官吏によって充当されていることは、これを裏書きする。地方団体長が実質的な強力な人事権を保有できないならば、地方自治に対する中央官庁の権力的統制は、今後といえども隠然として存続する..

→密集指向

(アンケート項目との関連)↓

密集指向

F24 中央集権を好む
 
 


7.〔同調競争〕

(書誌)石田 雄  日本の政治文化 -同調と競争-  東京大学出版会 1970

(要旨)同調と競争の複合..日本の歴史的発展の連続と変化を統一的に説明する上で最も便宜だと考えられる...この視角によって日本の急速な発展とそれに伴う困難とを同時に説明できる
同調 所属集団に支配的な価値指向と行動様式にしたがうこと、すなわち他人と同じ行動を取ること
集団内の強い同調が集団外のものに対する対抗意識を強め、あるいは逆に外からの脅威が集団内の同調を強めるという関係は日本近代のナショナリズムに最もよく示されている

集団内の競争と同調との結びつき....競争と同調との相互補完と相互加速の関係....忠誠競争(同調の中の競争)の結果が忠誠の度合いをいよいよ強め、それによってより強い同調性をもたらし、逆に今度はそのような同調性の中で、より激しい忠誠競争が行われる...

→同調指向

(アンケート項目との関連)↓

同調指向
B9 行動を周囲の人々に合わせようとする
C8 周囲の皆と同じことをしようとする
C34 周囲に同調したがる

E38 主流派の一員でいようとする
 
 
 


8.〔甘え〕

(書誌1)土居健郎  「甘え」の構造  弘文堂 1971
(要旨)日本人は、「母子」間の気持ちの上での緊密な結びつきを、生れてから「社会化」の過程において経験する。
日本人は、成人した後も、家庭の内外で、母親依存と同じような情緒的な安定を求め続けてゆく。
甘えの心理は、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることである。

甘えの精神は、非論理的で閉鎖的....甘えの「他人依存性」
→非合理指向、閉鎖指向、相互依存指向

(アンケート項目との関連)↓

相互依存指向
B2 互いに甘え合おうとする
A2 人付き合いで互いにもたれ合うのを好む
A15 依頼心が強い

集団主義
A14 他者との一体化・融合を好む
 

非合理指向
C6 考え方が非合理的である

閉鎖指向
閉鎖的な人間関係を好む


9.〔間人主義〕

(書誌1)木村敏  人と人との間 弘文堂 1972

(要旨)日本人が「自己」を意識して言う、「自分」とは、西洋人の場合と違い、確たる個人主体の「自我」ではなく、恒常的に確立された主体ではない

selfとは、...結局のところは自己の独自性、自己の実質であって、...selfと言われるゆえんは、それが恒常的に同一性と連続性を保ち続けている点にある。

日本語で言う「自分」は、自分自身の外部に、具体的には自分と相手との間にそのつど見いだされ、そこからの分け前としてその都度獲得されてくる現実性である

日本的なものの見方、考え方においては、自分が誰であるのか、相手が誰であるのかは、自分と相手との間の人間的関係の例から決定されてくる。個人が個人としてアイデンティファイされる前にまず人間関係がある

→ 人間指向

(アンケート項目との関連)↓

人間指向
E27 人間関係そのものを重視する
 

(書誌2)浜口恵俊 「日本らしさ」の再発見 日本経済新聞社 1977

(要旨)日本人の特性である「間人主義」は、個人主義の、自己中心主義、自己依拠主義、対人関係の手段視、という特徴に対して、相互依存主義、相互信頼主義、対人関係の本質視、という特徴を持つ。→ 相互依存指向、人間指向

(アンケート項目との関連)↓

相互依存主義
D32 互いに依存しあおうとする

人間指向
E27 人間関係そのものを重視する
 
 
 


10.〔他律的〕

(書誌)荒木博之 日本人の行動様式 -他律と集団の論理-  講談社  1973

(要旨)ムラ的構造のなかにあって、個人がその個性を喪失し、集団の意志によってその行動が決定されてゆく他律的人間になりおおせていく
他律的精神構造が、日本人の行動様式決定の動かすべからざる要因として働いてきた
→他律指向、同調指向

(アンケート項目との関連)↓

他律指向

E26 周囲の他者の影響を受けやすい
E20 自分の今後の進路を自分一人で決められない

同調指向

E30 没個性的であろうとする
B9 行動を周囲の人々に合わせようとする
 
 


11.〔集団主義〕


(書誌1)間宏,日本的経営-集団主義の功罪,日本経済新聞社,1973

(要旨)集団主義とは、個人と集団との関係で、集団の利害を個人のそれに優先させる集団中心(集団優先)の考え方である。あるいはそれに道徳的意味が加わって、そうするのが「望ましい」とか「善いことだ」とろる考え方である。

集団主義の下で、個人と集団との「望ましい」あり方は、個人と集団とが対立する関係ではなくて、一体の関係になることである。ここから、西欧の観念から見て、個人の未確立の状態がでてくる。だが、集団主義の理想から言えば、個人と集団、もっと抽象的にいえば個と全体とは、対立・協調の関係にあるのではなく、融合・一体の関係にあるのが望ましい。個人(利害)即集団(利害)であり、集団(利害)即個人(利害)である。


(書誌2)Triandis H.C., Individualism & Collectivism, Westview Press, 1995

(要旨)集団主義とは、互いに近接的にリンクされ、自分自身を、1つかそれ以上の集団(家族、会社、...)の一部であるとみなす個人からなる社会類型のことである。

1)自己の定義が、集団主義では、相互依存的であるのに対して、個人主義では、独立的である。
2)個人と集団の目標が、集団主義では、近接しているのに対して、個人主義では、そうではない。
3)集団主義社会における社会的行動の多くは、規範、義務によって導き出されるのに対し、個人主義では、個人の態度や欲求、権利や契約によって導き出される。
4)人間関係を強調することを、たとえそれが不利益な場合でも、重視するのが、集団主義社会である。個人主義社会では、人間関係の維持が生み出すのが、利益か不利益かを、理性的に分析することを重視する。

日本では、...全体の25%が、水平的集団主義(内集団の凝集性や一体感を重んじる)、50%が、垂直的集団主義(内集団のために尽くし、内集団の利益のために自己を犠牲にする、とともに、不平等性や上下方向の階層を受け入れる)である。水平的集団主義が高いのは、日本では、他者と違う態度を取ることが、悪いことである、と考えられているからである。垂直的集団主義が高いのは、日本では、権威や上下関係についての感覚が強いからと考えられる。


12.〔母性原理〕

(書誌)河合隼雄 母性社会日本の病理 中央公論社 1976

(要旨)母性原理は、「包含する」機能で示され、すべてのものを絶対的な平等性をもって包み込む。それは、母子一体というのが根本原理である。→人間指向(ふれあい)、集団主義(一体感)

一方、父性原理は、「切断する」機能に特性があり、主体と客体、善と悪、上と下などに分類する。

日本社会は、母性原理を基礎に持った「永遠の少年」型社会といえる。

(アンケート項目との関連)↓
集団主義
A14 他者との一体化・融合を好む
B1 互いにくっつき合おうとする

人間指向
B3 他人との触れ合いを好む
C10 人付き合いのあり方が親密である


13.〔大部屋オフィス〕

(書誌)林  周二  経営と文化   中央公論社  1984

(要旨)開場前の図書館口の人の列や、バスを待つ行列などを観察すると、日本人の場合には、人と人との間合いが狭く、いささか押せ押せ的に並んでいるのに、西欧人の場合には、列を作る人の間合いがかなり広い

西洋人の場合、 一人の個人の周辺の空間距離が日本人の場合より一般に広く、個人住居でも一人一部屋で住む傾向がある

企業オフィスでも、欧米について調査してみると、社員一人当たりのオフィス面積は、日本の二倍近くある。日本の役所や会社のオフィス空間は、管理職は別として、いわゆる大部屋に多勢のヒラ社員が机を向かい合わせに並べて、がやがやと働いている。これに対し、西欧の会社を訪ねるとヒラの人たちでも概して一人か二人が一部屋にこもって働いているし、米国でも、社員は一人ずつブースみたいな空間を構えている。

欧米の会社では、社員の一人一人が、ヒラに至るまでそのような隔離空間で、自分に与えられた仕事義務だけにひたすら従事し、それを果たし終えれば、隣りの仲間がどんなに忙しかろうが、どんどん帰る習慣である...逆に、日本のように、ホワイトカラーの職場集団の、仕事を通じての一体感づくりが大事にされるところでは、大部屋空間法式が向いている...   →密集指向
 

(アンケート項目との関連)↓

密集指向

A16 多人数で大部屋にいるのを好む
E32 互いに一緒にいるのを好む
 
 


14.〔独創性の欠如〕

(書誌)西澤潤一 独創は闘いにあり プレジデント社 1986

(要旨)(日本の科学者は、)自分の目で確認し、実験をやって納得しようという、あるいはそういう研究発表をあるがままに受け止めようという、最低限の自然科学技術者としての基本的姿勢に欠けて...その代わりに本(定説)に頼る姿勢が極めて濃厚である。なまじっか、権威者が書いている形になっているから、ありがたくも本当のことのように、読み手のほうは思い込んでしまう。多くの人は、欧米の権威者の説だということで、あたかも自分の体験のように思い込み、批判したりすると過剰に反応する。時には、本人以上に強烈なしっぺ返しをしたりする。欧米の知性に、それだけ寄り掛かっているが故かも知れないが、まことに不健全な話である。→権威主義

欧米は、種子の段階から金を投入し、独創技術を根気よく育てようとしている。それだけ真の独創性の難しさを熟知し、敬意を払っているからである。ひるがえって日本は、官民共に危ない橋を渡ろうとせずに、欧米でうまくいっているかどうかを探り、工業化途上の大事なものを拾い上げて来て集中的に実用化し、改良の努力を傾ける。 → 前例指向
 

(アンケート項目との関連)↓

権威主義

D24 権威あるとされる者の言うことを信じやすい

前例指向

D37 冒険しようとしない
C30 前例のあることだけをしようとする
 


15.〔相互協調的自己〕

(書誌)Markus H.R.,Kitayama,S.,    Culture and the self: Implications for cognition, emotion, and motivation. Psychological Review, 98, pp224-253  1991

(要旨)日本をはじめとする東洋文化で優勢な、相互協調的自己観によれば、自己とは他の人や周りのことごとと結びついて高次の社会的ユニットの構成要素となる本質的に関係志向的実体である。..自己を相互に協調し、依存した存在とする....相互に依存・協調し他者と密接に結びついた自己を確認する..→ 集団主義、人間指向、相互依存指向
 

(アンケート項目との関連)↓

集団主義

B1 互いにくっつき合おうとする
 

人間指向

B3 他人との触れ合いを好む

相互依存指向

A2 人付き合いで互いにもたれあうのを好む
D32 互いに依存しあおうとする
 


16.〔直接対面〕

(書誌)吉井博明 情報化と現代社会[改訂版] 1997 北樹出版

(要旨)組織にとって重要度の高い情報は、不確実性が高く、多義性も高い、しかも外部環境情報であるため、最もリッチで、シンボリックな意味伝達能力の高いメディア=対面コミュニケーションに依存せざるを得ず、これが立地を最も規定していることがわかる。情報通信メディアの発展は、皮肉なことに、情報通信メディアにのりにくい情報の希少性と価値を一層高め、情報中心地へのオフィス立地を促進しているのである。

複雑、かつ高度な相互依存の網の目で結ばれている日本の組織は、ウェットな対面コミュニケーションに過重に依存する文化を持っているのであり、日本社会は、全体として、集中が集中を呼ぶ体質(集中体質)を内在させているといえよう。

→密集指向

→人間指向(親密さ)、反プライバシー(視線)

もちろん、圧倒的な技術力を持ち、政府の規制や系列の制約を受けない組織が多ければ、このようなウェットな対面コミュニケーションへの依存度は低下し、集中の必要性が少なくなるのは言うまでもない。

(アンケート項目との関連)↓

密集指向
F24 中央集権を好む
A3 狭い空間に密集していようとする

人間指向
C10 人付き合いのあり方が親密である

反プライバシー
D27 互いに視線を送り合うのを好む
B7 互いに監視し合うのを好む


〔その他の、日本文化と関係の深い概念について〕

以上の文献以外で指摘されて来た、日本文化と関係の深い、ウェットさを表していると考えられる概念を、以下にいくつか列挙しました。説明は、なぜウェットと言えるかについて書かれています。

〔根回し〕

(説明)交渉などをうまく成立させるために、関係方面に予め話し合いをしておくことを指す「根回し」は、予め存在する縁故関係をたどって、そのネットワークの中にいる各人の了解を取り付けようとする行為である。各人が、関係を生成する相互間引力の只中にいることを、話し合いの機会を持つことで、再確認させる意味合いを持ち、根源的には、縁故関係とそのもとになる相互間引力の存在が前提となる行為である。
→縁故指向

相互間引力のある状態では、何か自分のやりたいことがある場合に、根回しが必須になる。相互間引力が働いている只中にいる状態で、何か新たに行動を起こそうとする個人は、事前に周囲に、自分はこれからこういうことをします、ということについて了解を取る、ないし根回しを行っておかないと、後で、本人の行動が周囲の他者をあらぬ方向へ(相互間引力の働きで)振り回した(あるいは、逆に、周囲が本人を、自由に動けないように、相互間引力によって拘束しようとした)ということで、互いに不本意な思いをする(互いの行動を非難し合うなど)ことにつながる。
→規制主義

〔接待〕

(説明)接待は、元々あまり近くなかった存在の者同士のうちの一方が他方に対して、より心理的に近づこうとして(相手に近づいてもらおうとして)、食事などの供与をすることを指し、その点で、相互間引力がより強く働く状態に持ち込もうとする態度の現れと言える。
→縁故指向

〔談合〕

(説明)官公庁の入札などの際に見られる談合は、互いに相手の動きを、相手が自由な行動(各自が自由に安い入札価格を提示し合って競争するなど)を取らないように牽制し合って、取る動き(特定の誰かが、高めの入札価格を提示すること)を事前の話し合い(相互拘束)で決めてしまう点で、相互間引力の産物である。
→規制主義

〔公私混同〕

(説明)公共物と自分のものとを混同することが、公私の区別が「あいまい」となることに結びつく。
→あいまい指向