日本人の国民性

Japanese National Character

第3版

Version 3


大塚いわお

Iwao Otsuka

2007.052015.02



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目次
日本の会社組織の液体分子運動によるシミュレーション
その国の第一次産業のあり方が、その国の国民性を決定する
比較好きな日本人-相対評価蔓延の根源にあるもの-
日本人の定型指向について
日本人の「所属」への指向、欲求。「所属主義」。
先達・前例の絶対視について
東京大学的人間 -その「役人的」性格と限界-
日本人と権威主義
日本社会の後進性について
山河型社会について
日本人の大勢順応とトレンド、空気感知アンテナについて
「集中」好きの日本人
同期社会について
高精度・正確さと日本人
日本人と中国人
「日本らしさ」についての検討
日本人はウェット
日本人は女性的・母性的
日本人の科学嫌い
日本社会と減点主義
専門家と研究者
先輩後輩制と日本社会
エスカレータ社会論
日本人と天下り
年功成果主義
日本人と失敗
先生役社会と生徒役社会
借り物社会
日本社会で個人が定位置を保つことの難しさ
日本人の役所中立幻想
日本人は、英語に早期から習熟すべき
融合社会と非融合社会
学習好きの日本人
母依存の日本社会
清浄(清め)、純白、色・汚れ落としと日本の神社
天下りと天皇制
親子は対等なリレーランナー
内輪指向、内向き社会
日本における「学び」「学習」の重視
光の領域、闇の領域
同期同一処遇の原則
日米同盟と男女の結婚
日本は液体タイプ、アメリカは気体タイプ
先進国と呼ばれたい
日本は欧米化していない
気体タイプと液体タイプの国際分業
気体タイプ、液体タイプの分子運動動画と社会の理想像
液体タイプ社会向け民主制研究の必要性
欧米理論の日本社会への機械的直輸入
東大万能幻想
格差社会と伝統社会
入試と液体
戦後の日米関係と農耕民、遊牧・牧畜民関係
きれいごとが好きな日本人
欧米は格上、一流だ、格付け主体だ
自分からは変われない
休み下手な日本人
会社、官庁の新卒採用優先と「無色透明」「白色無垢」
「スーパーお上」と「お上」-日本人の社会的格付け、偏差値付け意識-
先進的な欧米に劣等感、従属感を抱き続ける日本人
集団本位の個人情報保護
内部告発と係累
日本における「最先端」とミクロな発明
なぜ、日本で公務員が優遇されるか?人気があるのか?
日本人と限定版
欧米礼賛に気を付けろ
日本人と中国人 その2
日本社会は女社会、女性解放の最先端を行く社会だ
小中高教育で日本的ムラ社会を教えるべきだ
パクリ、コピー文化とオリジナル、ユニーク文化
日本で個人の自由、プライバシーを守るには
日本人を見たら女だと思え
日本社会の基盤としての「母」
「相互チェック社会」日本における匿名掲示板の効用
皆の前で・・・
崩れない年功序列
続く終身雇用
所属、雇用の正規、非正規の内外二分法から、社会組織への多段階所属へ
同期横並び処遇と妬み
上方向錐型水流ポンプシステムとしての日本社会
浮気を許さない日本の会社、官庁
「母的存在」としての日本の社会組織と、海、湖
自由が嫌い
日本社会が強迫的に欧米化を試みる理由
日本が戦後、経済大国になれた理由
リーダー上位社会とフォロワー上位社会
完全無傷指向と日本の「専門家」
上から目線の、日本の大学人
ガスタイプの会社、リキッドタイプの会社
新卒一括採用と、閉鎖集団間の時限ブリッジ渡り
「ウチ」を連発する人は、所属組織に呑まれている
所属できない、入れてもらえない・・・
コネ、世話と、自由な言論
迎合社会、媚びの文化
癒着、馴れ合い文化
疑似気体タイプ社会と日本
密室育児と日本人の対人安全、安心指向
個人的金本位制、ユーロ本位制・・・円本位思考からの脱却
流行追従移動根無し集団と定点根付き集団
「日本=先進国」のプライドを捨てること
視線敏感症候群(シンドローム)
自分の意見への固執、意見不動傾向と植物的思考
第二先進国としての日本
所属組織への24時間没入、完全包含
漏れるのが怖い・・・鎖国体質
社会的引きこもり
嫌われたくない・・・いい子の増殖
部外者の自由なアクセスを許さない・・・非公開への指向
気配り、配慮、遠慮、深読みの無限ループ
和合と白色
日本社会の父親役としての欧米
仲良しクラブ社会
待ちの文化、お任せ文化
異議申し立て、楯突き禁止社会
日本社会の雇用状況
なぜ公務員にはストライキ権がないのか?
教科書通り
攻めの社会、受けの社会、クッション社会
鉄道王国日本
日本人のヒステリー体質
日本のいわゆる良識派、「良い子」と減点主義、退嬰性
個人の有能さを認めない社会
「漏斗(ろうと)モデル」 最終完成品出力機としての日本と、技術・原料の一方通行
先生頼み
詰め込み主義と国際的競争力
限定好き、枠好き
個人の抑圧、無私、滅私奉公、緊縛が好き
和の精神が、日本社会が遅れる原因となっている
鉄塔型社会と水滴型社会
終身雇用、年功序列と同色染色、純粋培養、純血性保持指向
表向きドライ、本心ウェット?
日本国憲法教
同格同士のライバル視と対案提示合戦
経験偏重社会
個人情報保護と、日本社会の「覗き」「内情隠蔽」体質
100点満点指向
ウェットな液体社会日本のドライ・気体な人たち
京都大学の独創性
保証が必要
年齢制限社会
日本社会の4大支配者
問題を起こさないことが何より大切
高密度社会、過密社会
年功序列型成果主義
円高貧乏
日本を支配する4つの女性類型
会社教
セレモニー民族、セレモニー国家
再チャレンジ制限社会
実力測定とドライな気体型社会
負けを認めるのが苦手
国際偏差値
自分が無い
日本の欧米模倣の2タイプ
見栄の文化
内輪社会
身寄せ社会
競り勝ち指向
老人崇拝、上位
身寄せ社会2
自己犠牲評価と自己犠牲演技
所属マゾヒズム、会社マゾヒズム
態度の180度転換
ドライ・ウェットパラドクス
ドライ・コンプレックス
天下りをなくす、政党シンクタンク論
日本のムラ社会に取り込まれない方法
年齢差別と日本社会
思考の不変、不動、固着指向
ムラの寄合と、国会、議会改革
抜けられない、脱退できない
稲作農耕社会の中の牧畜民
内部情報の漏洩を何よりも恐れる
和の物質としての液体
退嬰性と目新しさ指向
無縁社会、弱縁社会の積極的評価
直球型社会と変化球型社会
180度転回が好き
家を出て行くのは子供
女脳の日本人
統合失調症患者にとって生きやすい社会と日本社会の現状
結婚、育児格差社会
単一所属、所属固定
信号文化(暗示的主張文化)、受け取り文化、他力本願文化
日本の貧乏からの脱却と、人民元切り上げ
日本社会で一番楽をしている存在は?
高関心社会と低関心社会
日本人のフルコンプ指向
汎用プラットフォームの提供が苦手
恥の感覚の発生条件
宗教と現世社会の改良
日本人と欧米一体化
オタクの定義
放送が好き
連帯保証人の要求
匿名掲示板が、無縁社会、引きこもり社会の維持に役立っている
切れやすさが日本人の特徴
「詰め」と日本人
空きスペース不安症候群
ブレーキが効かない、思考停止社会
財政破綻後の日本はどうなるか?
失業国家日本、国家レベルでの失業状態
うつ病国家日本、国家レベルでの抑うつ状態
雇用プールと通貨切り下げ競争、日本経済の再生について
破綻報道自粛?と大本営発表
日本国財政破綻と円高
アメリカの雲と日本社会
「大本営発表」の心理
日本の学会の特徴 -宗教組織としての視点から-
日本の俳句の問題点
日本はなぜ必死で欧米化しようとするのか?
日本国財政破綻待望論
なぜ謝らないのか
日本と独裁
一人運転の比率
無責任掲示板
外面の権威と内面の権威
先輩後輩制の社会心理メカニズム
高不安感社会日本と大本営発表の繰り返し
日本ムラ社会の社会的風土は、中国、北朝鮮と同じ・・・違う点も
ムラ社会を国ぐるみで隠蔽しようとしている日本 -「欧米化主義」による言論統制-
一言コメント集
お別れ重視
専業主婦中心社会
ダービーとしての日本の会社、官庁
集り社会
日本的独創
無難、粗探しが好き
世間、空気と女性
母艦
無修正、変更禁止、一貫主義の社会
揚げ足取りが好き
失敗の非学習
察しの文化
女性的生き方の押しつけ
円高貧乏とステータスシンボル
媚び、すり寄り、取り入り
日本の二大政党制
迎合社会
集団独裁
ムラ社会の克服
文理の区別と文系優位
雪崩打ち
ブラックホール、ターミナルとしての日本
凪(なぎ)指向
日本人の守られ願望
いきなり中枢に行くのが難しい社会、次第社会
日本社会で最強の存在
教授、先生と強迫観念
オールインワン、オールラウンド、ゼネラル、総花好き
流され社会、成り行き社会
多勢指向
視線社会、見栄社会
世話焼き社会、ケア社会
気配り社会
相対社会
対話のない社会
純正指向
調整型と独断型の国民性
「一つ」onenessの重視、一体感、一致の重視、割れの回避
日本やくざは女性、母性的
休息回避社会
年功序列の再生産
標準指向
日本の警察
天下りの本質
日本の学者と権威
改良refine体質
慣性に従って動く。 中途変更、中止を嫌う。
自己決定の欠如
定時性、定期性、定刻性の重視、「コツコツ」感の重視
天皇家の子女が国立大学に行かない理由
日本の年功序列、先輩後輩制と女性
近接性と離散性
ドライな社会原理、ウェットな社会原理
積極的失敗と消極的失敗
シングルワークとマルチワーク
判断しない
表札と情報漏えい
日本社会と女社会
物象化文化と擬人化文化
液体分子と「島」
農地、土地所有の流動化と日本社会のドライ化
ブレークスルーと改良
罪と恥と外部ルール
親元、地元への根付きと性差
枠内文化、所与文化と枠破壊文化
正確指向
ミクロ文化とマクロ文化
依存体質と自助体質
正解文化
日本人の思考停止
加工文化
その場指向と女性
比較好き、相対評価好き
無口な日本人
高興味社会
日本人と成功
日本人はきつい、ゆとり嫌い、詰め込み主義
日本人は植物的、農耕民的
「○○さん」で平等表現
日本のエロゲーは女性的
師弟、先輩後輩関係の永続
所属の24時間性
日本の国債
日本=「火の玉、日の玉(陽の玉)」社会論
米英追従型の国粋主義と日本社会
中国、韓国の意向を盛んに気にする日本社会
学生在学中は就職活動を禁止してはどうか?
正社員終身雇用の代わりに超長期契約雇用、例えば20年契約にしたらどうか?
日本、中韓に追いつかれる
日本ムラ社会は変わっていない
いじめっ子国家日本
「欧米教」信者の日本人
衣装の着せ替え文化としての日本

日本の会社組織の液体分子運動によるシミュレーション

ウェットな日本の会社組織は、液体分子運動シミュレーションで再現できる。 正社員は、液体分子と同じ動きをする。 その場合、集団に昔からいる構成員は色が濃く、後から加わった構成員は色を薄く、新人は白色で表現すればよい。そして、接触を繰り返すことで、だんだん色が濃くなっていくようにする。

05/17/2007 05:16:33 AM

その国の第一次産業のあり方が、その国の国民性を決定する

直接自然環境と向き合う農林水産業のような第一次産業のあり方が、その国の国民性を決定すると考えられる。その土地の人間の文化は、自然環境の変転の中で生き抜くために生まれてきたものであり、自然環境への衣食住での対応、特に食糧面での対応のあり方、パターンが、人々の生死を分けるため、文化のあり方に直結すると言える。


日本では、第一次産業の代表格が稲作農耕なので、それに見合った農業水利維持のための相互協調や、稲の一斉収穫作業に必要とされるような同調性、一体性を国民性の根本的に基盤として持つようになると考えられる。



↑応用


第三次産業 (第一次、第二次産業の製品を売り買いする)小売業やサービスを生み出す

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第二次産業 自然物に手を加えて3付加価値のある製品を作り出す

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第一次産業 自然界に直接働きかけて富を取得する


↓国民性の基盤


09/03/2015


比較好きな日本人-相対評価蔓延の根源にあるもの-

日本人は、自分と他人とを比較するのが好きであり、上下、優劣のランクを付けたがる。自分が周囲に比べて、上か下か、しきりに比べたがる。 それは、例えば教育現場での成績評価が、偏差値による、自分は周囲の他者に比べて、成績面でどの位置にいるか、上か下かを知ることを重んじることに現れている。大学入試とかは、この評価の全国版である。 あるいは、会社において成果主義が導入された際の、従業員の成績評価が、他のグループ員と比べた相対評価によってなされることに現れている。

要は、絶対的な評価基準が持ちにくく、常に周囲の他者と比べて、自分は上だ下だと評価することになる。 他人と自分とを、とかく比べたがり、それも、学校の学科のように、同じ共通の土俵上で、同じ領域に属する他者と能力の優劣を比べたがる傾向があるように思われる。 こうした、自分の近しい周囲の他者と何かにつけて、上下、優劣を付けたがる、比較したがる「他者相対比較指向」の社会は、何でも、上下、優劣関係で捉える、目上と目下をうるさく区別する傾向に陥りやすい。 日本が、上下方向の人間関係が発達した、いわゆる「タテ社会」になるのも、その根底に、周囲の他人との上下、優劣比較をうるさく行おうとする心理が働いているからだと言える。

相手と、同じ土俵上で能力比較を行おうとするのは、自分と他人が共通の同じ領域にいる、互いに同質であるのを好むことと関係している。 要は、一人だけ皆と別な領域でひとりぼっちになるのが不安で嫌いであり、皆と絶えず一緒にいたがる、他者との一体感、つながり、まとまりを好む性向がその根底にある。 互いに他者と同じ領域を仲良く共有して、互いにひとまとまりに一体化しつつ、その一体となったグループの中で、だれが相対的に優位に立つか、上位に立つかを、絶えず互いにうるさくチェックし合う。また、同じ領域内の他者と比較して、自分が少しでも上位に立てるように、絶えず、相互牽制し、競争し合おうとするのである。

これは、欧米のように、個人が互いに、別々の異質の独自の世界を構築し、互いにバラバラな方向に、共通の物差しなしに、自分の優位性を各自勝手にアピールする方向に向くドライな社会とは、大きく異なっていると言える。 要は、日本人は、他者との共通性、同質性の確保をまず行って、相互のウェットな一体感、まとまりを得ることを指向する。その上で、その同質集団の中で、だれが一番よくできるか、上に立つかを、共通分野における互いの成績競争で決めるのである。

その点、周囲の他者が自分をどう評価しているか、あるいは、他者は自分より成績が上か下か、絶えず気になることになる。自分が他者より上であれば誇らしいし、下であれば恥ずかしい、みっともないと感じる。いわゆる「恥の文化」は、自分と周囲の近しい他者との、共通の分野における絶えざる相互成績比較によって生じていると言える。 また、自分と共通の集団に属する狭い範囲内での相互の出し抜き競争に終始するため、興味の幅が自分の所属する集団内に限定されてしまい、とかく視野、見識の狭い、スケールの小さい人間を生み出しやすい欠点がある。

日本社会における成績評価が、相対評価になりがちなのは、互いに同質な集団に属することを好み、その同質集団内での自分の相対的な上下位置関係を把握することに神経が行きがちだからである。 その根底には、相互の同質性、一体性への強い指向があり、その点、ウェットで母性的な雰囲気に占められていると言える。この雰囲気が変わらない限り、日本社会における成績評価のあり方も変わらないであろう。

05/19/2007 04:41:22 AM


日本人の定型指向について

日本人は、考え方が型にはまっている、というか、一般常識という名の「型」通りに行動しようとすることが多い。 何事も外型から入ろうとする。例えば、何か習い事を始める際に、まず必要な道具を買い揃えることに夢中になる。まずは、外から見える範囲で、型を忠実に踏襲していることを、周囲に向けてアピールしようとするのである。

こうした人たちは、一般常識とされる型や作法から外れること、知らないこと(不作法)を、みっともない、恥をかくとして、何よりも恐れる。 作法とか、権威者の作った型通りに動こうとする。型を忠実に正しく模倣しようとする余り、覚えるべき、注意すべきことを、逐一、先生、師範役に手取り足取り教えてもらい、その通りに厳格に「正しく」動こうとする。そのため、身動きや心構えが知らず知らずのうちに固くなり、思考の柔軟性に欠ける面が出てくる。

あるいは、高校の数学等で、公式を丸暗記し、予め正答の決まった問題に対して機械的に当てはめるのを好む。この場合、公式が、守るべき「型」の役割を果たしている。 日本の人たちは、予め学校の先生とか、家元とかの権威者の定めた「正解」を、その通りに、忠実に模倣、暗記、学習しようとする。「正解」から外れないように細心の注意を払う。

「習い事」「学習」とは、予め権威筋の決めた、かくあるべきという「定型」「正解」「正しい道」を、決まった道具を使って、決まったやり方で、一挙手一挙動毎に、正確に真似することである。そこから少しでも外れると、「間違った」「いけません」として非難され、嘲笑され、「やり直し」させられる。

権威筋の定めた「正解」から外れた結果ばかり出していると、権威筋とその集団から追い出され、居場所がなくなる。どこかの集団に必ず所属しなければならないと考える日本人にとっては、最も避けるべき事態である。 そのため、予め決まった型、道筋や定められた範囲から「外れる」「逸脱する」ことを忌み嫌う。

自分から定型を外れて新境地を開く試みをすることを恐れ、そうして失敗した人のことを嘲笑して助けようとしない。 定型通りに「正しく」動くことを守ろうとし、そこから外れることを、「エラー」「間違い」「失敗」と一律に見なして、非難、批判、嘲笑の対象とする。失敗すること、間違うことを極端に忌み嫌う。エラーが人間に付きものである(人間は間違うものである)、という考えを受け入れにくい。ヒューマン・エラーを、エラーを起こした当人の個人的な責任、能力不足、注意不足と見なし、背後の組織やシステムの抱える問題に考えが及びにくい。

なぜ、行動が定型的となるのか?

(1)他人の目を気にする。変に一般常識から外れたことをして、笑われたくない。パターンに合わないことをすると、目立って、外れて、周囲の好奇のまなざし、覗き、注目を浴びてしまい、恥ずかしい。そうすると、周囲の人々の自分に対する印象を悪化させ、自分は社会の中で爪弾きされて生きていけなくなると考える。

あるいは、皆の守っている一定の型から「外れた」ことをすると、周囲、社会の調和、和合、合意を乱し、騒がせ、迷惑を掛けることになる、それが自分にマイナスの価値を与え、社会から追い出されることにつながるので、避けたいと考える。変な波風を立てたくない、目立ちたくないという思いがある。これは、周囲との調和、和合を守ることへの指向や、一定の型への同調、同質化につながり、無個性化に通じる。

また、周囲に自分を、一般常識によく通じている、権威の裏付けのある定型をきちんと習得し、守る能力があるとして、よく見せたい、よく思われたいという、印象操作のための計算高さ、自己宣伝、プライドの高さが根底に存在する。

(2)根底に安全第一の、退嬰的考え方がある。既に先人によって確立された、その通りに動けば間違いのない、失敗や危険のない行動様式に従うことで身の安全を図ろうとする意図がある。未知のどんな危険があるか分からない分野には近づかない。前例のない行動はできるだけ取らない。リスクを取らない、冒険しない。

こうした考え方は、型を既に体得した先生・師範の人の言うことが絶対であるとする、権威主義につながる。型を破ることは、既にその型を保持している権威筋を批判し、顔を潰すことになり、その権威筋の機嫌を損ねて、権威筋の集団から追い出されることを意味するので、保身のためにも、できるだけ型を守ろうとする。 また、既存の型から外れた新境地を目指すことを自分からは行わず、誰かが外れたことをやって苦闘しているのを、高見の見物を決め込み、眉をひそめて陰口を叩き、嘲笑する。そうした点で、定型指向は、独創的、創造的な思考とは相いれない、それらを殺すものである。

しかし、そもそも「外道」であるとして単なる嘲笑の対象だった人が、いざ欧米等の権威筋から認められるなどして成功して、新境地を確立すると、それを新たな、理想的な「型」として見出し、一転して、彼のことを「先生」「師匠」と呼んで、彼のもとに競って入門し、彼が新たに確立した型通りに動こうとする。 その点では、「新型」の誕生に敏感であり、新しい型に対する学習、適応力に優れていると言える。

要は、「外道の変人」を「先生」と新たに呼ぶことへの方針転換が素早くさっと鮮やかに行われ、その手際が見事なことが、この国の人々の一つの特徴である。 この場合、「新型」とは、礼儀作法とかだけでなく、新たにその操作、デザインを学ぶべき新製品のことも含んでいると考えられる。

05/19/2007 04:47:38 AM


日本人の「所属」への指向、欲求。「所属主義」。

この国の人たちは、何らかの集団、系列に、自分が属していないと、不安というか、人間扱いされないと思っている。要は、社会の中で生きていく上で、どこかの集団、系列に「所属」していることが必須だと考えている節がある。 この場合、所属する集団、系列が「内(ウチ)」と呼ばれ、そうでないのは、「外(ソト)」「他所(ヨソ)」と呼ばれている。 所属集団には、学校(学閥)、部活、学会、会社・官庁、家元、地域(町内会、部落・・)、政党派閥等がある。必要に応じて、所属集団の掛け持ちがある。

本人が所属する集団は、いわゆる内集団である。この内集団の中で、人は互いに親密になって一体感を充足させ、気分よくくつろいで休息したり、一緒になって共通の目標達成に励んだりする。 集団の外は寒風吹きすさぶ劣悪な環境であり、身の安全が保証されない。それを避けるためにも、できるだけ集団の中に入っていよう、所属しようとする。所属する集団、系列は、母の胎内のように捉えられている。

自分の所属する集団、系列が有力、大きいのを望ましいと考える。所属する集団、系列が大規模で有力なほど自分の社会的地位も上がると考える。大会社に就職できると親子揃って喜ぶのが、それである。 この国では、自分が、有力、有名な大組織、系列に所属することを、ステータスシンボルと見なしたり、所属組織・系列名称をブランド視したりすることが一般的に生じている。 人々は、自分の所属する集団、系列がより大きくなり、繁栄するようになるために、懸命になって、所属集団、系列の業績向上のために努力する。そうすることで、自分のステータスも上昇するからである。

人のことを、その所属する集団、系列本位で見ようとする。「○○会社の人」、「○○大学出身者」、「○○派閥の人」という見方が優先され、その人個人の性格、特性は、その中に埋没してしまう。 所属集団、系列には、その派生に従って、親集団と子集団(あるいは親の植民地)があり、親集団に属する方が、ステータスがより上であるという見方が一般的である。国の方が県よりも、親会社の方が子会社、下請け会社よりもステータスが上だと考えられている。

どこにも所属しないフリーの人を浪人とか、旅の人とか呼んで差別したり、信用しない、認めようとしない雰囲気がある。あるいは、どこの会社にも就職しないフリーターは不利であると考える。個人が一人ずつバラバラに散る形で活動するのを好ましく思わず、グループを作って一体となって行動することを指向する。その点、考え方がウェットである。 農家、小売りの自営業とかの人は、農村、町内会といった地域集団に所属しており、その点、浪人、フリーではない。 どこか一つの集団、系列に、どっしりと根を下ろして定着することが望まれており、所属集団をあちこち頻繁に変えることを嫌う風潮がある。

05/19/2007 04:52:14 AM


先達・前例の絶対視について

-日本社会を吹き荒れる先達、先生、先輩「風」-

日本では、会社とか学校に入ってきた新人や新入生に対して、やたらと先輩風を吹かす上級生とかが多い。あるいは、大学、カルチャースクールや家元とかで、入部生に対して、先生風、師匠風を吹かす教授、教官、講師が多い。 あるいは、直系家族の家庭では、姑が嫁に対して、自分が嫁だったときに苦労して体得した家風を吹かして、いじめる姑根性で接することが多い。

こういう風は、たいてい次のような語句と共に吹くものである。 「そんなこともできないのか。駄目だな。」「ちょっと褒められただけでいい気になるな。」「まだまだだな。」「○○は、会得するのは並大抵のことではないぞ。」「○○は、生半可なことではできないよ。」「お前のような初心者には無理だな。とっとと帰れ。」「まだ、当分奥義は教えられない。」「教えてやるんだ。ありがたく思え。」

要は、やたらと、自分が習得した前例の困難さ、厳しさを強調する。また、自分の習得した前例を、「奥義」とか呼んで、誰にでも簡単に教える訳には行かないとして、前例そのものをありがたく思わせる手練手管に長けている。 自分に対して服従し、たくさん下働きをしたら、初めて、少しずつ、あるいはひょっとすると教えてやらないでもないという、尊大な態度に出る。 先生、先輩は乗り越えられない存在として、ひたすら尊敬の目で見られがちである。

こういう風を吹かす元になる考えは、「先達・前例の絶対視」と呼べる。要は、先達=前例ホルダーの持つ前例そのものをむやみに尊重し、前例を持っている、知っていることを盾に、まだ持っていない者、体得していない者に対して、やたらと威張る、上位者、支配者ぶる、厳しく接する。要は、前例を体得していること自体が重んじられ、簡単に後から来るものに教えられないとする。 また、後輩に前例を教えて体得されてしまうと、追いつかれ、下手すると追い越されて、自分より上手に出られてしまうので、警戒してなかなか教えようとしない、という面もある。

あたかも、奥の終点、中核に達する、様々な障害物や勾配に満ちた一本道があって、その道を先に行った者が先輩として、後ろを行く者 (後輩 )よりも尊敬される。また、様々な障害を乗り越えて、奥の終点、中核に達した者が、「奥義を会得した」として、上人とか呼ばれて最も尊敬される。 ひたすら、一本調子で、かつて先達の通ったその険しい道を進んで行きながら、前例を順次体得して行こう、奥義に達しようとする、求道者、巡礼のような日本人のありさまは、あたかも一億総巡礼のような感じである。

こうした、先達の歩んだ道をそのまま一本調子でひたすら踏襲する「道を極める」行き方は、「一本道指向」と呼べる。あるいは、一つの決まった山頂、終点をひたすら目指そうとする点、「山頂・終点指向」とでも呼べる。

こうした一本調子の考え方は、本来、物事を習得するには、様々な複数ルートや人それぞれの別々の通過点があって、終点も特に決まっておらず、それを適宜自分の判断で組み合わせていく考え方複数ルートの自己判断指向と相反する。

日本において、こうした「一本道指向」「山頂・終点指向」が横行するのは、日本が山国で、身近に山があり、山の山頂が一つしかなく、山頂に向かう山道も限られ、しかも、山道の勾配がきつく、岩場とかの難所をたくさん抱えていることと関係していると言える。

要は、先達の切り開いた険しい山道をなぞる形で登って、山頂を極めようとする「登山者的思考」が存在し、この険しい道を登る登山が、先達=前例ホルダーの到達した究極の奥義を極めようとする前例習得になぞらえられて捉えられていると言える。奥義会得が、山頂登頂になぞらえられているのである。

また、こうした「一本道指向」は、一度その道を歩き始めたら、終点までひたすら歩むしかない、変更、やり直しが効かないという、会社や官庁での終身雇用いったんある会社、官庁に入ったら、用済みになるまでずっと構成員として歩き続けないといけないの元になる考えであると考えられる。

全ての進むべき道の判断を、以前道を通った先達に頼りきる、自己判断の停止、先達への依頼心、甘えの強さがそこには見られる。 これは、旧日本軍みたいに、一度失敗しても、進路変更の融通が利かずに同じ道、失敗を何度も強迫的に繰り返しやすい体質につながっている。 そこには、先達と同じこの道を行けば安全だとか、この道を行けば、先達と同じ奥義に到達できるとか言った感じで、権威におもねる、先達の持つ権威に身を委ねる権威主義的雰囲気がつきまとう。

こうした先達・前例の絶対視では、独創性の発揮は、分厚い前例を全て学習、習得して初めて可能なものであり、途方もなく困難であるかのように宣伝する。要は、未知の境地は、前例を全て消化吸収した後で、初めて見えてくると考えるのである。

実際には、独創や未知の境地をみつけることはそんなに難しいものではない。単に周囲の他人のやろうとしない、近づかない方向を目指すことを繰り返していくうちに、ごく身近にありながら、他人の気づかなかった、今までなし得なかった解決につながる穴を見つけることができる、ただそれだけである。 要は、 99人があっちを見ていたら、 1人だけそっぽを向いてこっちを見るのを繰り返せば、前人未到の境地に自ずから立ち至ることができるのであるが、日本のように、周囲が大勢順応の雰囲気に染まっており、一人だけ違うことをするのを許さない精神風土の社会だと、これはなかなか難しいことである (欧米とかだと比較的容易と考えられる )

このようにして抜け穴的に簡単に到達した、一応前人未到の新境地を、あたかも険しい一本道を進んだ終末にやっと見える奥義として、やたらと神聖化、神秘化して見せることで、自分にペコペコいつまでも付き従う弟子をたくさん量産することも可能である。というか、到達した本人にはその気がなくて何もしなくても、弟子の方が勝手にありがたがって付いてくるというのが実態であろう。欧米人の研究者に弟子として師事する日本人の弟子とかはこのパターンと考えられる。

あるいは、そもそもそうした新境地?を簡単な思いつきで自作した後、その境地を分厚い秘密のペールで覆って見せないことで、さもありがたいものであるかのように見せることも可能であり、新興宗教とかの指導者はこの手の輩が多いのではないかと思われる。

このように、先達の会得した前例をひたすら重んじる行き方は、同じ場所に止まったままストックを蓄積していく農耕民的な行き方であると言える。同じ場所にい続けるので、先祖とかの先達の残した物の見方、考え方が、ずっと有効であることが、前例やしきたりを絶対視する風潮につながっている。 また、我が身の安全をひたすら重んじ、安全を保障してくれる先達の成功例にあやかろうとする点、保身、退嬰的な女性性にもつながっている。

この習性が身体に染みつくと、どこかに前例がないと何もできない、お手上げとなる事態が生じる。そのため、誰かの成功した前例探しに躍起となる。それはたいてい欧米社会とかの遊牧・牧畜民的生き方の人々が未知の分野に一人挑んで失敗を積み重ねながらやっとの思いで得た物であり、それを特許料とかの高い代償を支払って、手に入れることになる。

なお、同じタイミングで会社や学校に入った者同士を、自分と同期として、勝手に一体感を抱いて、やたらと馴れ馴れしく振る舞うのは、その進むべき道において、同じ位置を占めるため、前例蓄積の度合いが自分と同じと考え、同一視しているためと言える。 こういう風に同期をなれなれしく扱い、付き合う人は、往々にして、先輩に向かってやたらとペコペコ服従する、後輩根性を持つと共に、後輩に対してやたら厳しく横柄に接する先輩風を吹かせるものである。

この点、「同期」「先輩」「後輩」は、前例絶対主義の 3点セットとして捉えることができる。 要は、「同期意識」と「後輩根性」、「先輩風」は、同じ道を進む時間的前後関係をそのまま上下関係に持ち込もう、その裏返しで、同じ道を進む時間的同期関係をそのまま平等、同格関係に持ち込もうとする意識の現れであり、日本社会を今でも覆う年功序列の考え方の元になっていると言える。

上記と関連して、日本には、ある特定分野についての知識が豊富であることをひけらかして自慢する「ウンチク垂れ」が少なからず存在する。アニメやコミック、ゲーム分野でのオタク呼ばわりされる人とか、ワイン、陶芸分野での知識自慢をする知識人とかがそうである。「オレはお前らの知らないこんなことを知っているんだぞ。どうだ、凄いだろう」という態度が見え見えである。

あるいは、分野を限定せず、様々な事柄について、広範な知識を持っていることをひけらかして自慢する「雑学屋」も多数存在する。「こんなに一杯、いろいろなことについて知っているんだぞ。お前は知らないだろう。」といった感じで威張る。 彼らに共通して言えることは、知識を持っていること自体が偉いことであり、自慢の対象となるという考えを持っていることである。

その知識は、何ら彼ら本人が考え出したものではなく、誰か他の人が考えたことであって、「ウンチク垂れ」「雑学屋」の彼らにアイデアのオリジナリティがなくても、全然問題にはならない。専ら蓄積している知識の質量が問題とされるのである。 この場合の「ウンチク垂れ」「雑学屋」の持つ知識は、既存の知識すなわち前例であり、彼らが、知識を持たない他人に向かって知識をひけらかして威張るのは、経験のない新人に向かって先輩風を吹かすのと、何ら変わることがない。

05/19/2007 04:54:44 AM


東京大学的人間 -その「役人的」性格と限界-

東京大学の出身者は、以下のような特徴を持つ。

(1)正しい答えを暗記し、即答する能力を重んじ、それに優れている。通説、定説、欧米や先進国の学者の唱える権威ある説、論争について、答えを、なるべく多量、なるべく正確に学習し、そらんじるのが得意である。 これは、誰かが先行して作り出した「正答」のフォローばかりやることにつながり、権威主義や思考上の後進性を生み出している。 東京大学出身の研究者は、沢山の植民地大学を抱える形で学界を政治的に牛耳りながら、自らはなかなか斬新な独創的なアイデアを出せずに、欧米の研究者の出した学説の消化吸収、後追いばかりやって、しかもそれが学問の本道だと信じ込んでいる人が多い。

東京大学は、基本的に役人 (中央官庁の高級官僚 )養成の機関である。そこでは、できるだけ、間違わず、大過なく物事を進める能力、先人の作った膨大な量の前例 (法律、技術 )をできるだけ正確かつ多量に頭に入れて、いつでもそれを即座に取り出して運用できる能力、先行する (欧米の )成功例を効率よくキャッチアップ、模倣して、素早く追いつく能力が求められ、東京大学の出身者は、現にそれが得意である。この点、「東大的」とは「役人的」と同義と考えていいと思う。

(2)複雑、難解なものを理解し、説明する能力に優れる。複雑な構文、高度な数式等の入った文章を楽々と読みこなし、また自分で書くことが得意である。 中央官庁が所管する法律には難解なものが多く、それを楽々と読みこなすとともに、自分でも作文できることが求められる。条文を入り組んだ分かりにくいものとすることで、難解な物事を理解できない一般国民を支配できると考えている節がある。こうした、難解さを重んじる役人的な発想が、そのまま高級官僚養成機関としての東大に浸透していると言える。

これは、簡単さ、単純明快さを馬鹿にする態度につながる。しかし、実際のところ、実際の生活や科学でインパクトが大きいのは、より基本的で土台となる部分の発見であり、それは万有引力、地動説の発見のように簡潔で単純であるほど後世に残る大発見となる。ところが、東大的な考え方では、こうした、誰の頭でも分かる簡単さは、軽蔑の対象となってしまい、切り捨てられてしまう。

この場合、価値観が、既に存在することの理解、評価、学習能力の重視に偏っており、受け身で消極的、退嬰的なことも特徴である。その点、女性的であり、東京大学出身者の脳、東大脳は女脳の典型であると言える。 まとめると、正しい答え、定説をできるだけ多量、正確に頭に入れて、すぐそらんじることができること、難解な物事をよどみなく理解できることが東京大学的、役人的人間の特徴と言えよう。

要は、東大出身者は、上記の高級役人的技量に関しては優れており、その点この国の価値基準では「頭がいい」人なのであるが、頭の良さは、こういうものだけとは限らない。機転の利いた斬新な、あるいは、根本的な大変革をもたらす考えを生み出すといった点も、別の意味で「頭がいい」のであり、東大出身者の多くは、こちらの面では、全く無能であり、「頭が悪い」のではないか。

なお、受験勉強の一番の勝者が東大に合格するという考え方が日本人の間には根強くある。上記の高級役人的技量を磨くのが、日本における大学受験勉強であるとするならば、高校生たちが大学受験の勉強に力を入れることは、彼ら若人が一斉に「役人的」になろうとしていることに他ならない。というか、日本人は、大学受験の勉強をする過程で、皆知らず知らずのうちに、多分に「東大的=役人的」思考に慣らされ、どっぷり浸かっていると言える。 そういう意味では、性格としては、「東京大学的」=「日本的」とも言える。

05/19/2007 04:59:37 AM


日本人と権威主義

1.日本人の欧米権威筋への追従について

現代の日本人、特に大学とかにいる学者や、一般知識人、文化人と言われる人たちは、権威主義を否定し批判する。また、自分のことを権威主義者だと言われると顔を真っ赤にして怒り出し、自分は権威主義者ではないと必死になって主張する。 では、権威主義を否定する彼ら日本人が、権威主義者ではないのかと言うと、実は権威主義者だと捉える方が理に適っている。

と言うのは、彼ら日本人が権威主義を否定するのは、そもそも彼らが依拠する欧米権威筋の学者が、権威主義を否定、批判しているからである。 ここで、欧米権威筋というのは、欧米の学界において、著名な学説を提唱した、提唱している学者のことを指す。

欧米の社会学界においては、アドルノやフロムといったユダヤ人学者が、戦前ドイツでユダヤ人らを迫害したナチス・ドイツとその信奉者たちを、「権威主義」だとレッテルを貼って批判し、それが、ナチス・ドイツの性格的特徴をうまく説明した学説であるとして一躍有名となった。この点、アドルノやフロムは著名な学説を提唱した権威ある学者ということになり、その評価は現時点でも変わっていない。この点、欧米の権威筋の学者が権威主義を批判、否定していることになる。

この欧米権威筋による権威主義否定が、欧米のステータスや権威に弱く、その後を追いかけ、崇拝することに熱心な日本の知識人たちの頭の中に導入されると、面白い現象が起きる。 日本人のインテリは、欧米の権威筋が権威主義を否定しているので、欧米権威筋に依拠する自分たちも、権威主義を批判、否定しないといけないと思い込んで、欧米権威筋の「権威主義否定」の学説をそのまま真似て直輸入して、自分たちも権威主義批判を行う。

要は、日本人のインテリは、自分が権威主義者だからこそ、欧米権威筋の出した権威主義否定の学説をそのまま信仰する形で、権威主義を否定するのである。と言うか、「権威主義的に」権威主義を否定する。権威主義に忠実に則る形で、権威主義を否定するのである。この点、「権威主義者が、権威主義的思考で、権威主義を否定する」という、妙に矛盾した事態が日本では起きているのである。これは、「権威主義者による、権威主義の権威主義的批判」現象と呼べる。

日本人インテリが権威主義を否定するのは、欧米権威筋の学者による権威主義批判が世界標準の定説になっているからであり、彼ら日本人のインテリは、本当は欧米権威筋の意見をひたすら後追いする権威主義者なのではないかと考えられる。

日本人のインテリは、欧米権威筋の学者が言うこと、ないし欧米学界におけるメインストリームの学説を、正しい説だとして信じ込む。そして、欧米権威筋の学説を、そのまま忠実に学習し、模倣しよう、いち早く日本に紹介して、その学説の日本における第一人者として日本国内で認められ、尊敬されようと懸命になる。

欧米権威筋の学説は、教科書とかに大きく載っていることが多いので、それが定説だと考える。そして、欧米権威筋の学説欧米で常識になっている学説、潮流に反する学説を日本人が提案すると、あるいは、欧米権威筋の学説を日本人が批判すると、「欧米の権威ある先生に楯突くとは何様のつもりだ。身の程知らずもいい加減にしろ。」と、馬鹿にして足を引っ張る、無視するのが通例である。これが、日本人のインテリが取っている「権威主義」的態度であり、ごく普通に見られる。

ところが、自分たちがそうして馬鹿にしたところの、既存の欧米学説を批判した日本人の学説が、いったん欧米学界で受け入れられると、日本人のインテリは面白い行動をする。すなわち、慌てて旧来の態度を変えて、その馬鹿にしたはずの日本人の学説を持ち上げ、称賛するようになる。馬鹿にし、無視する対象とした日本人同胞のことを一転「大先生」と持ち上げ、自分もその後を追おうと必死になるのだ。ひいては、「自分と同じ日本人が世界に認められた」として、いったん馬鹿にしたはずの日本人同胞のことを誇りに思うまでになる。

無論、彼らにとって、「世界」とは、「先進国である権威ある欧米」のことである。特に、日本人がノーベル賞を取ると、インテリだけでなく、一般大衆も一緒になって、称賛の嵐、ブームが起きる。取る前は、「○○の奴」とかいって馬鹿にしていたのに (この辺の事情は、江崎玲於奈や西澤潤一の著書を見ると載っている )

これから、欧米学界の定説に反する学説を出そうとする日本人は、欧米学界に自説を出す前に、日本人関係者に自分の学説を説明し、反応を録音しておくと良いと思う (多分、多くの関係者から、そんな学説ダメに決まっていると突き返されると思うが。 )欧米学界に学説を出した後で、自分の説が欧米学界に受け入れられた時に、受け入れられる前と後で、日本人関係者の反応が違うことが分かることもさることながら、その日本人関係者が、欧米で受け入れられた説を、かつて否定していたことに関する決定的な証拠を持つことになり、その日本人関係者の弱みを握ったことになる。これは、その日本人関係者が、著名な大学の教授だったりすると、取引材料として大きな効力を持つと言える。

日本人は、中央官庁みたいな「お上」に弱く、従順であろうとするが、欧米 (特にアメリカ )は、更にその上を行く「スーパーお上」なので、欧米でメジャーな学説や運動については、中央官庁の役人も含めて、ペコペコ崇拝、信仰するのである。あるいは、欧米通の日本人は、欧米でメジャーな考えを引き合いに出して、「お上」である日本政府の動向を批判することが多い (「欧米では既にこうなっているのに、日本はまだまだこのような状態のままだ。日本政府は駄目だね。」という感じである )が、これも実は、欧米崇拝の権威主義であることが多いのではないか。「スーパーお上 (欧米 )」の威光を以て「お上 (日本政府 )」を制するという感じである。

こうした権威主義は、「自らもみんながそこに集まる、権威筋の主流派に属して、メジャーで光の当たる安全なところにいて、いい思いをしたい」という、ウェットで女性的な考えと言える。 厄介なのは、こうした欧米崇拝のウェットな権威主義者と、根っからの欧米的なドライな考えの持ち主とを区別することが難しいことである。彼らは、両方とも、権威主義を批判し、ウェットな態度を批判するので、見た目には見分けが付かないのである。ウェットな権威主義者の側も、権威主義否定の学説を信仰しており、自分が権威主義であることを認めると、自分が「欧米 (=権威主義に反対であり、ドライ )=一流」と同等の格付けであったのが格下げになってしまうので決して認めない。彼らは、心理テストとかでも、どちらも同じように、欧米的なドライな方を自分に合っているとして選択する。この 2者を何らかの方法で区別することが必要であり、今後の課題である。


2.日本国内の権威筋の存在について

日本の学者は、欧米学説のデッドコピーとその解釈、いじり、小改良に終始する場合が多い。この場合、欧米学説をいじるというのは、複数の欧米の学者が互いに違うことを言っているので、その整合性を取ろうとする行動である。 もともと、欧米の学者の学説は、あくまで、一個人の学説であり、それは、間違っているかも知れず、乗り越えるべき面のある学説なのであるが、日本の学者には、そうしたことについての視点や気づきが足りない。要は、欧米で主流の学説を、「お上=権威筋の説」「大先生の説」として、無批判に、崇拝、信仰し、受け入れ、取り入れようとする面がある。 日本の学者たちには、自分で、既存の欧米での学説を打ち壊して、それを乗り越える学説を出そうとする試みを出すことを、自分たちの内部で否定し、自分たちが権威筋と見なす、主流の欧米の学説の批判を許さない面がある。

なぜ、こうした現象が起きるかと言えば、そうした欧米で主流の学説について、日本国内の権威筋の学者がそれに依拠しているためである。依拠するというか、せざるを得ないのは、日本国内の権威筋の頭だけでは、欧米学説のような、ドライで革新性に富んだ、意表を突く、スケールの大きい学説を自らは生み出すことができないからである。 なぜ生み出すことができないかと言えば、彼ら日本の権威筋には、心の根本的なところで何よりもプライドが高く、人の風評に傷つきやすく、冒険して失敗して笑い物になることを恐れるために、とにかく安全で、当たり障りのない、既に確立された発見発明や技術等をひたすら頭に入れ、習得して博識、博学になることで、前例、しきたりの生き字引と化して、「自分は何でも知っている、できる先生、先達である」として、皆の尊敬を集めよう、周囲を未熟な後輩と見なして先輩風を吹かせて実効支配しようという、女性的、退嬰的な事なかれ主義的で、なおかつ人の前に出よう、偉ぶろうとする出しゃばりの魂胆があるからだ。

日本の学者は、原則として、何らかの、出身大学や師弟関係、先輩後輩関係に基づく、縁故集団の中に入って生きている。学閥や、似た考えに染まった同士がつるんで形成する派閥が相変わらず幅を利かせており、その中の有力者 (教授、先輩 )が、日本国内における権威筋として、他の成員に向けて睨みを利かせているのである。 要は、日本の学者は、親代わりの権威筋との上下関係に基づく、ウェットな縁故集団、疑似家族集団の中にどっぷり浸って生きている。こうした集団は、親子、上下関係からなる一種の「系列」として捉えることができる。日本の学者は、何らかの有力な権威筋系列の中に入っていないと、アカデミックポストの配分を受けられず、生活できなくなり、生きていけないのである。逆らうと、アカデミックポストを奪われたり、系列の外に飛ばされたりして、生きていけないのである。

日本の学者は、自分の身の安全、保身についての意識が敏感である。そうした身の安全は、現在の権威筋を批判することで、脅かされる。批判することで、権威筋からその行動を批判され、日本国内で仲間外れとされる恐れがある。要は、自分が今入っている権威筋のグループから外される恐れがあり、そうなると、どこからも仲間に入れてもらえず、孤立して、生きていけなくなるので、批判しないのである。 日本の学者は、自分の所属する権威筋系列に対して、異議を唱えたり、逆らうことが難しい。そして、日本の権威筋が、欧米学説をデッドコピーしている状況が、権威筋とその弟子、後輩の関係、師弟関係を通じて、権威筋系列内の世代間を通じて脈々と受け継がれているのが、日本の学界の現状であると考えられる。 日本の学界においては、権威筋に逆らうと、人事上の報復が待っているので、権威筋の学説に逆らえない。要は、逆らうと、アカデミックポストの配分が受けられなくなり、学者として生きていけなくなるのである。

日本の学者は、欧米学説=権威ある学説をデッドコピーしたものを、小改良し、少しだけ変えたり、他の権威ある学説と比較するのに終始している。欧米の学説を微細にうがって、解読、解釈するのに懸命になるのであるが、それは、あたかも、「聖書」「お経」の解読と同じである。要は、欧米の学説が、権威ある教典、経典と見なされているのである。 それは、要は、日本国内でアカデミックポストの人事権を握る、植民地支配大学の教授=権威筋がそうした欧米学説のデッドコピーに終始しており、日本の学者たちは、彼らに忠誠を誓っていることを示すため、それに倣った行動を取っているのである。

要は、日本の学者にとっては、自分の論文等における学説、主張内容が、自分が属する権威筋への忠誠があるかどうかの踏み絵となっているのである。そこでは、権威筋と主張内容が、基本的に同じであるか、継承しているかどうかが重要であり、論文の主張内容そのものは、二の次になっている。 日本の学者にとっては、欧米権威筋や、それに依拠し、デッドコピーを行おうとする自分の先生、先輩が唱えたものは絶対的な重みを持つ。 ある日本人学者の論文内容が、欧米権威筋のデッドコピーとその小改良となるのは、彼が、日本学界の権威筋を中心とする系列の一員である証拠である。論文のスタイルから、彼が、権威筋に忠誠を誓い、身を守られていることが分かる。ただし、微細な内容の相違により、派閥が違ったりする。

3.女性的な権威主義

日本人の権威主義は、ある点、女性的な特徴を持っている。 それは、権威に寄り添うことによって、自分の身の安全が保たれる、大過なく生きて行けるという、保身や、事なかれ主義に結びついている。 また、主流派のいるところに自分もいないと、孤独で寂しいという、主流派との一体感を求める考えとも関係ある。 あるいは、誰か大きな存在の元に寄り掛かり、甘えたい、依存したいという、依頼心の強さとも関係がある。 権威あるものと一体化することで、精神的なバックボーンを支えられる気分となって、気が大きくなり、初めて、人前で発言する勇気が出るといった面もある。

男性の場合は、既存の学説を叩き壊したり、潰したりして、代わりに自分の学説を、種付けしようとする。権威に逆らい、潰し、自由になることを目指し、場合によっては、自分が新たな権威者になって、他人に言うことを聞かせることを目指す。 これに対して、女性は、既存の権威者に従順に従って、権威者をそのまま忠実に継承して、後継の権威者となることを目指す。要は、自分の属する系列の権威筋に逆らおうとせず、既存の権威筋の学説をそのまま継承しようとするのである。 この点、日本の学者の取っている態度は、明らかに、守られる側の性のものであり、女性的である。


4.ウェット、母性的な権威主義とドライ、父性的な権威主義との区別について

従来、欧米で権威主義の定義とされてきた、ドイツ人の権威主義と、上記で述べてきた日本人の権威主義とは、同じ権威主義という言葉を使っていても、その中身は大きく違うと考えられる。

ドイツ人の権威主義は、命令と服従の上下関係の連鎖として捉えられる。要は、上下の命令系統が厳格、正確、機械的に守られること、上位者の命令が下位者にとって絶対的であり、それを可能な限り忠実に守ることが彼らの中では自己目的化しているのである。彼らにとっては、指示や規則が、上から下へと、徹底されること、直行することが、命令する側にとっても、それを守る側にとっても快感なのである。

こうした態度は、上位者が、下位者のことを、自らの目標達成のための道具、ツールとして、突き放して眺めるものである。また、上位者が定めた教条、因習、形式が、カッチリと、機械的メカニカルに、隅々まで絶対的な教えとして下々へ原理主義的に浸透することを目指している。社会全体が、巨大装置のメカのような大きな指示伝達、上意下達のための機械、歯車装置として捉えられる。 これは、キリスト教のような、父なる神の原理主義と軌を一にする男性的、父性的な、ドライなものであり、ドイツ人の権威主義は、ドライな権威主義、父性的、父権的権威主義と呼べる。

これに対して、日本人の権威主義は、自分も主流派の一員に属することで、保身、身の安全、一体感が欲しいという欲求に根ざしている。要は、権威筋が中心となって主宰するウェットな輪、グループの中に自分も加えてもらい、その中の一員でいたい、止まりたい。権威筋系列の一員でいることで、権威筋が優先的に分捕ってくる便宜にあやかって、おいしい思い、温もりに満ちた思いをしたい。権威筋に身の安全を保証してもらい、庇護してもらい、依頼心や甘えを満足したい、という思いが強いのである。

権威筋の主宰する輪から外れると、身の安全が保証されない。寒風が吹きすさぶ悪条件が待っているので、抜けようにも抜けられず、権威筋の言うことにペコペコ従って、身の安全を図りたい、という気持ちが強くある。 権威筋のグループ、系列の一員に入れてもらう、ウチに入ることで、排他的な一体感が保証され、温かな疑似家族集団の中に入った感じとなる。 この場合、権威筋は、母性的なウェットな存在として立ち現れ、日本人の持つ、母なるもの、大きな温かいものに包含されたい、互いに一体感を持ちたいという欲求を満足させる点、日本人の権威主義は、ウェットな権威主義、母性的、母権的権威主義と呼べる。

従来は、この 2つの権威主義は、日本においては、区別されず、混同されて使用されてきた。というか、権威主義という用語は、日本国内では、現在も専ら、ドイツ人のようなドライな父性的権威主義の方を指しており、ウェットな母性的権威主義についての思慮が足りていない。今後は、別物として分けて捉える必要がある。


5.権威主義とプライドの高さについて

権威主義者は、一般にプライドが高い。自分を権威付けたがるのは、自分を高く位置づけたがることと関係しているからである。あるいは、結婚見合いとかにおいて、学歴や資格などで自分のことを箔付けしたがるのも、権威主義の現れである。 日本人は、自分のことを欧米みたいに、世界で一流と呼ばれたい、一流国の仲間入りをして、アジアの他の国を見下したい、差を付けたいと願って、今まで努力してきた節があり、その点、日本は、「高プライド社会」と呼べる。日本人のこうした、一流願望も、一流評価の持つ高い権威への憧れとして、権威主義と呼べる。

05/19/2007 05:01:35 AM


日本社会の後進性について

[要約 ] 日本社会は、欧米に比べて、科学技術の進歩が必ず一歩遅れる、「後進型社会」である。トランジスタにしろ、インターネットにしろ、世界の科学技術に大きな革新をもたらした発見、発明は、ほとんど全て欧米からもたらされたものであり、日本社会からは余り出ていないのが現状である。日本社会が後進型社会になってしまうのは、社会で女性の力が強いため、安全第一で未踏分野に足を踏み入れるのを恐れるのと、定住農耕を主とするウェットな社会であるため、今いるところから踏み出そうとしないためと言える。

日本社会は、欧米に比べて、科学技術の進歩が必ず一歩遅れる、「後進型社会」である。トランジスタにしろ、インターネットにしろ、世界の科学技術に大きな革新をもたらした発見、発明は、ほとんど全て欧米からもたらされたものであり、日本社会からは (皆無ではないが )余り出ていないのが現状である。 また、ノーベル化学賞の田中耕一氏の例のように、例え、発見、発明が日本社会から出たとしても、日本国内では当初全く評価されず、欧米社会に知られて高く評価されたのを知って、初めて日本国内でもあわてて評価し出すという現象が繰り返し起こっている。

日本社会には、科学者に新規の発明、発見を行うように動機づけたり、新規の発明、発見を評価するしくみが備わっていないのではないかと考えられる。 こうなるのは、日本社会が、前例やしきたり、慣例といったものを重んじ、新規の発明、発見を、既存の社会のあり方を変えてしまう可能性を持つものとして恐れる考え方が根底に横たわっているためと考えられる。そのため、日本社会は恒常的に「後進的」なのである。

では、なぜ、日本社会は、万年後進国となっているのであろうか? 一つ目は、日本社会で、女性の勢力が大きいことがあげられる。こういうことを言うと、日本では、女性は弱者として差別されているではないかという意見が出てくるが、実際のところ、日本社会の中で、母親、姑の立場に立つ女性に比肩しうる勢力を持つ存在は見られないのが実情である。

女性は、その行動が、自分の保身や安全を第一に考え、未知のものに対して恐怖心が強く、どんな危険が待っているか分からない、何が起こるか分からない未踏分野に手を出そうとしない。 女性が強い社会では、女性的な考え方が社会全体に行き渡り、皆が未踏分野への進出を避けようとする。その間に、男性の勢力が強い、未知の分野が持つ危険をものともせずに、どんどん進出していくタイプの社会=「先進型社会」に、目ぼしい成果を皆持って行かれてしまう。

二つ目は、日本社会が、一カ所に定着して動かない農耕を主とするウェットな社会であることがあげられる。農耕社会では、物の考え方が、今いるところに定着し続けようとして、新規の場所へと出て行こうとしないものとなりがちである。農耕を主とするため、その他の工業などの分野においても、とかく物の考え方に流動性が欠けがちである。そのため、流動性の高い遊牧・牧畜を主とするドライな社会に比べて、新規分野への参入が遅れてしまう。

以上から、日本社会が後進型社会になってしまうのは、社会で女性の力が強いのと、農耕を主とするウェットな社会であるためと言える。 日本社会から目ぼしい発見、発明がなかなか出ないのは、教育が前例暗記型の受験勉強に偏っているからという意見もあるが、それ自体が原因なのではなく、物の考え方が、前例偏重、微細な重箱の隅をつつくような暗記偏重になるのが、社会が女性的、ウェットであるという根本的な原因に目を向ける必要があるのではないか?

05/19/2007 05:08:06 AM


山河型社会について

-日本社会の原型-

日本社会は、国土の大半を山岳地帯と、そこから流れ出る河川によって占められている。 その場合、人々が住む場所は、山岳地帯から流れ下るツリー状のディレクトリをなす河川沿いに作られる。各ツリーの幹が河口付近の大きな流れであり、ツリーの枝が、より上流~中流の小さく細分化された谷間の流れに当たる。

各ツリー状の河川沿い地帯同士は、高い山で遮られ、お互いの行き来がない。 人々は、河川沿いに、隣の河川沿いの住民たちとは隔絶した閉鎖性、排他性、セクショナリズムの高い共同体を作って暮らし、そうした共同体のあり方が、日本社会の原点となっている。

日本の社会は、河川の上流同様、末端に、小さな村落共同体を複数持ち、河川が次第に他の河川と合流するのと同期して、そこに物資集散の町が形成され、さらに、河川同士がさらに合流するか、流れを太くして、河口に流れ下る位置に、大都市が生じるのが、日本社会の特徴である。

河川の存在、合流パターンに、地域社会の人や物資の流れが合致している。 各河川同士が上流部で、ツリー状に、山並みに隔てられて互いに連絡が取れない谷間を個別に形成するのと同様、日本社会でも、各河川沿いにツリー状に作られる集落は、山を隔てた別の河川の集落とは全く行き来がなく、隔絶している。

各河川と集落のツリーは、一つの閉鎖的なセクションをなしており、それが、日本社会全体に色濃く漂う、官庁、会社組織などでのセクショナリズム (例えば官庁であれば、「省あって国なし」 )の源となっていると考えられる。

上流の各セクション (実際の河川沿いの地域社会でも、官庁や企業の組織図でも )は、より下流で、他の河川と合流するところに形成されるより大きな行政、組織単位=「集散地」を通してしか、互いに人や物資のやりとりを行うことがない。

下流に向かうにつれて、ツリー状の人、物資の流通がより集積し、大きな都市が作られていく。 こうした、山々の間をツリー状に流れる河川に合わせて、ツリー状の人や物資の流通やコミュニケーションが行われ、各ツリー毎に、山で隔てられて、谷間の孤立性、封鎖性が高く、セクショナリズムが生じる社会は、「山河型社会」と呼べる。日本は、この「山河型社会」の典型である。

05/19/2007 05:10:38 AM


日本人の大勢順応とトレンド、空気感知アンテナについて

日本人は、周囲の皆がどっち、どこに向かっていくか、その場の雰囲気や空気を読み取るのに敏感である。皆の動きに置いて行かれないように、はぐれないように、絶えずくっついて行動しようとし、周囲の動向を感知するためのアンテナを張り続けている。周囲の空気を重視する。

要は、皆と一緒にいると安心で、絶えず団体で動き、自分の属する団体から置き去りにされて途方に暮れることのないように、万全の注意を払っているのである。 各人は、トレンドや時の話題、流行に従って行動し、それらに遅れないように、情報収集と同調に忙しい。 これは、ウェットな液体分子群の動きのパターン (筆者はパターン Wと呼んでいる )と同じである。パターン Wにおいては、各粒子が、互いに周囲の他の粒子と歩調を合わせて、同じトレンドで、一体となって、団体をなして、ゆっくりと進んでいく。

要は、皆と一緒、同じなのがよくて、周囲との一体感を求め、内輪から外れないように、仲間外れにならないように、細心の注意を払う。 ミクロな周囲の動きに合わせようとするが、マクロについては、どこに行くか、誰にも分からない。 要は、一人一人が、それぞれ周囲の皆の行く方向へと行こうとしているのであり、どこの方向へ行くかは一人では決められず、一人一人のその時々の周囲の動向感知とそれに基づく進行方向の決定の合計が全体としての進行方向になる。その結果、団体が大きくどの方向へ向かっているか、誰にも分からない、誰にもはっきり決められない、その場、その時々の雰囲気、空気次第で決まる、変わるということになる。

周囲の、微妙な、繊細な空気の流れを、絶えずアンテナ全開で読み取らないと、一人置いてきぼりを食らってしまう。要は、仲間外れにされたのと同じことになる。 底辺に流れるのは、周囲と協調、同調したい、周囲の動きに何とか付いていきたい、置いて行かれないようにしたい、周囲と一体感を保ちたいという、ウェットな欲求である。これは、周囲から独立してバラバラに一人自由に行動することを欲するドライな欲求とは対照的なものである。

こうした考えは、人々に大勢順応を引き起し、全体が一まとまりになって動くことを指向する全体、総体主義につながる。 この場合、先を歩いている、進んでいる方が、後から付いていく、遅れて脱落しそうになるよりも、望ましいという考えがある。考えがその時々で、全体の中の前寄りにいて進歩的なのが優れた人として尊重される。 もちろん、先を行こうとする人には、先走り過ぎて、気がついたら周囲と違った方向に一人向かって歩いていた、という事態になる恐れがある。これは、先走り、一人歩きを好ましくないとして嫌う考えと結びついている。

要は、全体のトレンドから外れて、一人歩き、はみ出し、スピンアウトをする人、遅れる人、脱落者を嫌う社会である。なので、皆、トレンドに何とか付いていくように、あわよくばトレンドを主導する地位に収まるように、一生懸命、必死である。

日本の社会で支配的な地位を握れる人は、 (1)全体の輪の中にうまく収まっていて、 (2)全体の中の前寄り、先の方の位置をキープして進歩的でいて、 (3)なおかつ、それが一人歩きにならずに全体の動きの先鞭を付けるような、皆を引っ張っていく形になるような「トレンドメーカー」である。

もう一つは、動きの遅さとの関連がある。日本は、一人一人独立してスイスイ素早く動き回るのではなく、皆で共同歩調を取りながら、ゆるゆると進んでいくタイプの社会だということである。これは、欧米のような個人主義のドライな社会 (パターン Dの社会 )に比べて社会進歩が遅れることにつながっている。

05/19/2007 05:12:44 AM


「集中」好きの日本人

日本の人は、集中が好きだと考えられる。 東京への行政、経済機能の極端な一極集中がその好例である。都市機能や居住スペースを一カ所に集中させて、ギュウギュウに詰め込むのが好きである。

要は、周囲の皆の住んでいるところ、集まっているところに、自分もいたい、行きたいという気持ちが非常に強いのではないかと考えられる。周囲から離れて、隔てられて、一人でいるのは悪だ、よくない、皆で一緒がよい、という考え方が広く行き渡っているように思われる。

この国の人たちは、他人の噂話を流すこと、陰口を叩くこと、他人をじろじろ好奇の目で見ることが好きであり、絶えず、注目、噂話の対象、ターゲットを探し求めて、ワッと一斉に集中砲火を浴びせる癖がある。要は、皆の関心のあるところに、自分も行こう、集まろうとする人々が多いということであり、それが、注目、噂話の対象の一極集中を生み出す。

人々の関心のエネルギーが、どこに行けばよいか分からずに、無方向に、行き場を求めてさまよい、見つかるや否や、ターゲットとなる一カ所に殺到する傾向がある。ターゲットは、一挙に注目を浴び、ブーム、流行の対象となる。注目、噂の「集中」が起きるのである。

この場合、注目を浴びせたり噂話を流す当人たちは、自分自身は、注目の対象から外れるように、目立たない格好をして、安全地帯に逃げて、保身を計るのが一般的である。当事者になるのを巧みに避けて、高見の見物を決め込むのである。 噂話、注目の対象は、一種のスケープゴートであり、血祭り、いじめの対象であるとも言える。噂話、注目の対象となった人や組織は、周囲に集まった人々によって、よってたかってもみくちゃにされ、プライバシーをズタズタにされる等、酷い目に会うことが通例である。特に、それが、スキャンダルや後ろめたい事が発端である場合、容赦のない集中攻撃を浴びる、寄ってたかっていじめられる、叩かれることが多い。

日本人がウェットなのは、単に、周囲との一体感、つながりを持つのが好きなだけでなく、立場の悪い人を皆で寄ってたかっていじめたり、ひそひそ陰口を叩くのが好きな、「陰湿さ」もその大きな要因であると考えられる。 人々の欲求不満、ストレスのエネルギーがはけ口を求めてさまよい、たまたま失敗をするなどして目立った人を嗅ぎつけて、そこに集中的に流れ込むと考えられる。

いったん注目や噂話の集中砲火の対象となったら、嵐が過ぎるのをじっと首をすくめてひたすら待つしかない。 ただ、人々がその対象に集中砲火を浴びせるのに飽きて、他の対象を探しに行くようになるまでに、それほど時間がかからないのも事実である。集中砲火を浴びせるのに夢中だった人々は、別の新たな対象が見つかると、今まで攻撃していた対象のことをケロリと忘れて、次の対象に向かうのが通例である。嵐が過ぎるのを耐え忍べば、台風一過の晴天同様、元の平穏な生活に戻れるという面もある。

日本の会社は、スキャンダルや事故等を起こしたことで攻撃を受けている間はひたすら頭を下げ続け、嵐が過ぎて、人々の関心が別のところに向かったところで、こっそり自粛していた CM等の原状回復を行うことが多いのではないかと考えられる。 皆で寄ってたかって集中砲火を浴びせていた人々が、別の目立った対象を見つけるや否や、今まで砲火を浴びせていた対象のことをコロッと忘れて、飽きて、代わりに別の対象へと集中的に猛烈に突進することが、一般的に見られる。

こうした、日本人の集中砲火好きと、それに両立する忘れっぽさ、飽きやすさは、一極にエネルギーを集中させ、次々と風雨、嵐による集中砲火の対象を場当たり的に変えて移動していく、過ぎ去った後は (集中砲火の被害の爪痕の残存は別として )対象には何事もなかったかのような平穏さが戻ってくる「台風」「熱帯低気圧」とよく似ている。これは、「日本人=台風」図式、モデルとでも呼ぶことができる。要は、日本人は台風みたいな性格の人々が多いということである。

この辺、和辻哲郎「風土」での日本人の熱しやすく冷めやすいとする台風的性格の説明と関連があるが、筆者は、和辻の説明とは異なり、日本人の、一人一人のエネルギーを、集団、団体を形成して、一極に集中させて、その場その場のターゲットに殺到、集中砲火を浴びせながら、場当たり的、無方向的に、その場の雰囲気に流されて進んでいく性質を、「台風的」と呼んでいる。

こうした、集中砲火、集中攻撃といった「集中」が頻繁に起きるのが、この国の人々の特徴であると考えられる。要は、「野次馬根性」が強く、人が集まっている所に自分も行きたい、好奇の目で「何で人が集まっているんだろう」「何やっているんだろう」「面白そう」と、対象のプライバシーの尊重などは二の次で、一目見ようと、群がったり、たかったりするのである。 人の集まるところに自分も行こうとする傾向の強さが、日本人の「集中」指向、集中好きを支えている。

皆のいるところに集まりたい、群れをなしたいという日本人の指向は、その中で目立ちたい、注目を浴びたい、有名人になりたいという指向とも強く結びついている。要は、自ら積極的に「集中」の対象となりたいという人が少なからずいるということである。 欧米社会とかのように、他人とは違う独立した個人でいるために、個性的であろうとする、他人と距離を置く「遠隔、分離指向の個性」、「ドライな個性」の重視が見られる社会と異なり、日本社会では、皆のいる中で、埋没しないために、注目を集めて目立つために、個性的であろうとする人が多いのではないか。 要は、目立って、人々を自分の周りに引き付けよう、集めようとするために個性的であろうとするのであり、自分への関心の集中、視線の集中を狙った個性重視なのである。こうした視線、注目集めのための個性重視は、同じ個性でも、欧米流のドライな個性重視と区別して、「集中指向の個性」、「ウェットな個性」と呼ぶことができる。

05/19/2007 05:15:08 AM


同期社会について

-女性社会、日本社会の特徴-

[要約 ] 日本の人々ないし女性たちは、理論、学説、思想自体に興味があるのではなく、思想自体はどうでもいいと心の奥底では思っている。むしろ、同じ思想、理論を周囲の仲間と同時に一斉に共有することで、仲間意識や一体感を得ること、楽しむことが本当の目的であり、思想信仰はそのための単なる手段に過ぎない。この、周囲とのウェットで母性的な一体感を保持するために、同時に一斉に周囲と思想や話題を同期して共有することを指向する日本のような社会を、ここでは「同期社会」と名付けている。

(1)同期社会について

何のために情報を得るかについて、男性と女性とでは、その目的がかなり異なっていると考えられる。男性の場合、何らかの目標達成のための手段として、あるいは正確な情報を得ることに重点が置かれるのに対して、女性の場合、むしろ、他者と情報を共有して、同じ会話の輪の中に加わることが目的となることが多いと考えられる。

女性たちは、テレビを見るのでも、友人たちと同じ番組を見て、友人たちとの会話の輪に一緒に加わることができるようにするため、見るのである。要は、情報を得ること自体が目的ではなく、共通の同じ情報で、仲間たちと盛り上がるため、仲間たちとのウェットな一体感を楽しむために、同じテレビの番組を見るのである。その場合、内容自体は二の次であって、情報は、仲間意識高揚のダシに過ぎない。

これは、情報取得だけでなく、一般的な物品の購買、消費行動にも当てはまることである。彼女らは、周囲に仲間に入れてもらうために、あるいは、友達との会話に参加するために、同じ店に行くとか、同じ物を買うとか、いった、共通の同じ消費経験をする。生活、消費のあり方を周囲に合わせないといけない。そのために、周囲と同じレベルのお金がかかる。

これは、一人で周囲とは違う目新しい体験をしようとする、ドライで男性的な行き方とは対照的である。

これは、思想の信奉においてもそうである。 例えば、父権の強い欧米社会が日本にもたらしたジェンダーフリーの思想は、男らしさでも女らしさでもない「自分らしさ」の確立をモットーにしている。他者との差異、違いを強調し、他者との互いのウェットな一体感、同調感の喪失につながるものであり、各人に、ドライでバラバラな個人主義を押しつけるものとなっている。これは、スタンダードが男性であり、女性を男性化する戦略の一つであり、女性の力を弱くするものである。

日本のインテリ女性はそれに気づかず、性差別を無くして自分たちに有利な社会にしよう、ジェンダーフリーの思想を信奉すればそうなるんだと短絡的に信じて頑張っているのが実情である。

この場合、日本の女性たちは、ジェンダーフリーの思想の中身が、自分たちにとって有害だと気づいていないのであるが、もう一方では、いくら思想を摂取しても、そもそも有害にならないのだという見方も可能である。それはなぜかと言えば、彼女らにとって、母性的な一体感高揚と対極的な、ドライな男性中心の内容の欧米思想は、仲間同士のウェットな一体感を強める、共有するための単なるダシに過ぎないからである。

日本のインテリ女性たちは、皆共同で、一緒にドライな父権的思想を共有しているのであるが、実は、思想を、互いに同じ考えを共有して、互いの結束を強め、母性的なウェットな一体感に浸ること自体が楽しいというか喜びになっている。思想の中身は実は何でも良いのであって、ではなぜ欧米由来の思想にするかと言えば、それが先進的で何かカッコいいから真似しようと思っているだけであり、それ以上の深い考えは持ち合わせていない。

欧米由来の考えを自分たちに本気で当てはめると自分たちには有害だというのはどうでもいいのである。その思想を、仲間で一緒にマスターして互いの結束を強め、盛り上がろうとするのであり、仲間同士の一体感、同一感が欲しいというのが、そうした思想習得の真の隠れた目的なのである。

日本の女性たちにおいては、仲間とウェットな一体感を共有するために、ドライな思想を一緒に一生懸命共同学習するという、逆説的な現象が起きている。 なぜ欧米由来の思想を習得するかについても、それは、先進的で良好なイメージのある欧米思想を持っていることで、仲間内で優位に立ちたいという皮算用があるからである。要は、彼女たちにとって、欧米思想は、仲間内で権威者として優位に立つためのダシに過ぎない。

ドライな父権思想が、日本女性には、有害ではない (こたえない )のは、彼女たちにとって、思想、学説は、単なる仲間意識高揚とのための道具、手段に過ぎないからであり、思想の中身は実はどうでもよくて、その時々に合ったお題目をでっちあげているだけなのである。

まとめると、彼女たちは、他者と一緒に動くこと、他者との同期を取ることに夢中であり、その時々で、他者と一体感を共有できる先進思想に次々と乗り換えるのである。その際、思想自体はどうでもよい、思想は何でもよいのであって、その時々で、周囲と一緒の思想を持っていること自体が大事なのである。周囲と思想の同期を取ることが本当の目的なのである。この点、日本のインテリ女性は、周囲との同期を取ることを重んじる「同期社会」 (synchronous society)の一員として行動しているのである。こうした成員間の同期を重んじる考え方は、「同期主義」 (synchronism)と呼べる。 そして、この「同期社会」は、ウェットな母性的な日本社会の特徴でもある。

日本のようなウェットな人々は、理論、学説、思想自体に興味があるのではなく、思想自体はどうでもいいと心の奥底では思っている。むしろ、同じ思想、理論を周囲の仲間と共有することで、仲間意識や一体感を得ること、楽しむことが本当の目的であり、思想信仰はそのための単なる手段に過ぎない。同じ思想を共有することで、一体感や縁故感といった、ウェットで母性的な感覚を享受するのが、本来客観的なドライな学説検証を旨としているはずの、日本の科学者、研究者や彼らの作る学界の真の隠れた目的となっている。

要は、同じ学説を信じる仲間同士になることが最終目的なのであり、学説は、「共同信仰」の対象なのである。そして、同じ学説を信じる者同士 (これは、師弟関係にある者同士が多い )が、徒党を組んで、派閥を形成し、相互の一体感や縁故感を楽しむのが、真の隠れた目的と化している。要は、日本人の科学者、研究者にとって、学説や科学的理論は、相互の一体感を得る、同じ学説信仰集団に所属することを楽しむという最終目的実現のためのダシに過ぎないのである。

また、この場合、自分が同じ学説や科学的理論を信奉するかどうかで、学説信仰集団に受け入れてもらえるかどうか決まる。そういう点では、客観的な分析対象となるべき学説や科学的理論が、信仰の踏み絵として、本来から想定外の使われ方をしている。自分の入りたい有力派閥に継続的に受け入れてもらうために、その派閥御用達の学説や科学的理論を自分も信奉するという、本末転倒の事態が起きている。

これが、日本の学界が、ドライな欧米に比べて、理論的に劣る真の理由である。 あるいは、日本のキリスト教信者においても、ドライなキリスト教思想それ自体を信じているというよりは、思想を「仲間と、周囲の皆と一緒に信じる」ことが重要なのである。「皆と一緒」の方に強調のアクセントが来る。

「同期社会」とは、皆が一斉に同じ行動をとる社会、皆が一斉に同じ思想を信奉して、互いの一体感を高揚させること自体を目的とする社会であるといえる。要は、自分たち仲良し集団維持のために、その時々で同一の思想を皆で共有することで、思想を仲良し集団維持の手段として用いる社会である。 その際、互いに、周囲と一体感を持とうとして、同じ話題、思想信条に一斉に皆が集まって、ワッとブームになる。その話題、思想信条の中身は、あまり問われることがない。同じ思想信条を皆が一斉に同時に持ち合って、相互のウェットな一体感を高めて盛り上がろうというのが最終目的だからである。この点は、日本のような同期社会が基本的に無思想で、その場その場で行き当たりばったりの施策を取りがちな理由にもなっている。

皆が集まってブームになった話題にそのうち飽きてくると、次の話題に皆一斉に、集中豪雨的に乗り換えて、それがまたブームになる、ということの繰り返しである。そういう点では、皆が一斉に信奉する思想の内容は、一つに固定されることがなく、絶えず捉えどころなく変化し続けると言える。 皆一斉の同期行動が、ウェットな相互一体感を好む人々にとっては、互いの一体感を保持し続けるために必須である。

一つの話題ないし思想への皆の一斉の一極集中と、それに飽きたら、別の話題、思想へと次々と一斉に乗り換えていくことが、同期社会の成員の特徴である。 その際、ウェットな同期社会の面々は、皆、今どこに人が集まっているか、集まりかけているかに敏感であり、自分も話題に乗り遅れないために、皆と一緒になるために、そこに行こうとする。そして、ひとたび人が集まり出すと、雪だるま式に、同じ話題の共有者、同調者が増えていくのである。

「その時々における話題の共有」とそれに基づく「相互一体感の獲得、維持」が、ウェットな同期社会の最終目的である。話題については、共有それ自体が目的であり、話題の細かい中身はどうでもよい。話題のイメージというか、見た目のかっこよさ、先進性が重要なのである。要は、その話題を自分が身につけた、まとった時の他者に与える印象の善し悪しを計算高く算出しているのであり、他者に与える印象をよくして、より優位に立つことが重要なのである。

「同期社会」では、皆が同期する話題で皆に先んじる、話題を先人を切って出すのが、同期社会の上位者、リーダー役であり、その地位が高い。 彼ら、リーダー役は、他の皆よりも、一歩だけ新しい話題を知っている。その際、あまり話題の内容が先走ったものだと、他の皆が付いてこれない。皆が付いてこれて、なおかつ皆がまだ知らない内容を出せるのが、同期社会の理想的なリーダーである。

この場合、「先進的な」新しい話題は、日本のようなウェットな社会では出にくく、欧米のようなドライな社会での新発見、新潮流を、先進的な話題として取り入れることになり、そうした先進的な話題に詳しいことが、日本のような同期社会のリーダーに求められる。 何をするにも皆一緒の「同期社会」での話題消費は次のような順序で行われていると考えられる。

(1)リーダーが次の新しい話題を振る。

(2)皆が一斉に新しい話題に食いつく。つい先ほどの以前の話題を捨て去る。

(3)しばらく、その話題で、皆で集中豪雨的に盛り上がる。ブーム、流行に乗った形で、話題の消費が行われる。

(4)皆、その話題に飽きてくる。→ (1)へ。

同期社会の立役者は、相互の親密な一体感を重んじる女性や、その影響力が大きい日本のような農耕社会の成員である。相互の一体感を重んじる点、同期社会は、ウェットな社会であるとも言える。

(2)同期意識について

日本のような同期社会においては、同じタイミングで組織に加入した者同士は、例え無関係な他人同士であっても、同じタイミングで組織の中に生まれた、家族同様の仲間であり、互いに仲良く連帯して、行動を合わせるべきであり、同一の格差ない待遇をずっと受けるべきであるという考え方が根強い。これは、「同期意識」 (conciousness of synchronicity)という言葉で呼べる。

そこには、毎年 4月の時期的に同時に同じタイミングで、皆一斉に学校、官庁、企業といった組織に「新入り」することが想定されている。「時期・時間的同期性」が重要である。 同じタイミングで組織に新たに加入した「同期者」同士には、画一的、同一で横並びのウェットな処遇をすることが心の奥底で求められている。なので、同期者同士の間で、給料や昇進で差が付くと、遅れた者はショックを受け、差を縮める、埋めるべく、努力し競争をする。これは、自由競争ではなく、画一化に向かう、「同調競争」である。

同期者同士は、もともと、赤の他人である、非血縁者であるにも関わらず、互いに、親密で一体感があり、慣れ慣れしく、互いに一致団結し、同調する。こうしたウェットな一体感は、同時期に同一の内集団 (ウチ )に入った者同士の間のみに芽生えるものである。

内集団は、通常は、学校、官庁、企業などが想定されるが、場合によっては、家族・親戚ネットワークや、集落のような地域コミュニティも想定される。あるいは、日本社会全体を、巨大な内集団と捉えた場合、同じ生年、同じ学年の (だった )者同士は、ある程度強い同期意識を持っていると言える。

この同期意識は、一緒に所属する内集団以外のヨソ者との間には生じない。同じ集団に一緒に同時に加入したという点が、同期意識の発生にとって重要である。 また、加入する集団に対して、互いに白紙状態であること、他集団の色に染まっていないことが、同期意識を生み出す上での条件である。要は、互いに同じタイミングで、加入組織の色に段々と同じように染まっていくこと、色の同期を取ることが、同じ内集団に同時に加入したことを表す印として重要である。

なお、この同期意識は、先輩・後輩関係ないし年功序列関係と深い結びつきがある。 要は、後のタイミングで組織に入った者 (後輩 )は、前のタイミングで入った者 (先輩 )よりも、下の待遇をずっと受けるべきとする考え方である。あるいは、後輩が、処遇 (組織内の地位とか )で、先輩を追い抜くことがないというものである。これは、日本の官庁で典型的に見られる。

同期処遇が、同じ時期に内集団に加入した者同士の間で、処遇が横並びになると共に、その横並びのスライスが、平行状態を保ったまま、加入年度順に、下から順々に地層のように平行に積み上がっていき、上の層の先輩は、下の層の後輩よりも互いに同期して横並びでより上の待遇を得るというのが、同期社会における成員処遇のあり方の特徴である。

こうした同期意識は、稲作農耕との関連で、稲穂とか毎年一斉に発芽、成長し、同じ時期に刈り取られる、収穫されるのと同じである。要は、農作物は、一年単位で管理、成長していくものであり、それが人間関係になぞられられているのが、同期意識であると考えられる。 同期意識のもう一つの源は、社会における前例、しきたり重視の指向である。前例をより豊富に持つ先輩が、そうでない後輩よりもいつも上位であるという考えに基づいている。また、毎年同じタイミングで、学校に入り、同じ授業を一斉に受けることで、前例、しきたりの頭の中への蓄積が、各学年ごとに揃っている、同期しているという考え方に基づいているとも言える。

05/19/2007 05:16:23 AM


高精度・正確さと日本人

-「手本」のあくなき追求と国際競争力 -

日本人は、半導体製造装置や小型デジタルカメラに見られるような、高精度を誇るプロダクトを作るのが得意である。また、微小なところまで正確さを重んじる。それは例えば、鉄道会社が列車時刻を秒単位できっちり守るところに現れている。

こうした高精度、正確さ、正解、間違いのなさを重んじる気風は、例えば、人前で英語をいつまでもしゃべれないことにつながっている。周囲との強力なつながり、一体感を重んじ、周囲の目を気にする日本人は、皆の前で間違ったり失敗することで、笑われたり、恥をかいたり、体面を失うことを、周囲からつまはじきにされるとして、何より恐れる。それが、間違いなく、失敗なく、「正しく」行動したいという強烈な要求を生み出している。その姿勢は、女性的な安全第一で、権威主義的であって、著名な学者や中央官庁等、権威筋が認めた、既にある (既存の )正答へ近づくこと、模倣することを極限まで追い求める傾向がある。

要は、何もない状態から何か新しい考えを生み出す独創的な思考が苦手であり、無から有を作り出すことができない。誰か権威筋の書いた教本、教科書、手本といった、「正しさ」を保証する前例がないと、何もできない。そうした「正しい」手本をできるだけ正確にまねることが望ましいとされ、現に得意である。 日本の学校での学習は、大学入試対策とかに見られるように、「お上」、権威筋の定めた絶対的な正答に当たる教科書の内容を、重箱の隅をつつくように、微細なところまで正確に暗記する必要がある。このことが、日本人に、精細さ、正確さの感覚が身につくことと大きく関連していると言える。

こうした精密さ、正確さへの指向が強いことは、はっきりした正解や追いつくべき目標が既にある分野を制覇する際には、大きな追い風となる。正しい手本を、誤差なく微細な点に至るまできっちり正確に模倣し、磨きをかけることができる能力は、例えば、電化製品や自動車の製造技術を、欧米からキャッチアップして追いつき、無比の精密さで国際的な競争力のある製品を作り上げて、日本を豊かな経済大国に押し上げるのに貢献してきた。

現在、迷走気味の日本社会が再び活力を取り戻して繁栄するには、この、長年培ってきた高精度・正確さを重んじる気質を大切に維持・発展させて、様々な分野の製品の生産に生かしていくことが何より重要であると考える。高度な精密さや正しさを要求される分野を重点的に攻めていくのがよいと思われる。一方、欧米並みの独創性を発揮することは、多分あきらめた方がいいかも知れない。

ただし、学校での学習にしても、どうせ高いコストをかけて、手本の内容を細かいところまで正確無比に覚えさせるなら、覚えても役に立たない年号とかでなく、企業の生産~研究開発現場に直結するような、人間の環境適応に直接役立つ、実践的で機能的な内容を覚えさせるべきである。

また、権威筋の説というのは、そのルーツが往々にして欧米の学者の説であることが多いのであるが、その中には、個人主義や独創性の重視のように、ドライな欧米社会には向いていても、ウェットな日本社会にとってはなじみにくい、手本としてそのまま真似しても有効性が薄い内容も含まれていることが多い。日本人が、欧米の学説を真似するに当たっては、そのドライな部分を、予めウェットなものへと変換してから真似るようにするという、「ドライ→ウェット変換」が必須であると考えられる。しかし、実際には、こうした変換は行われず、欧米学者の説を「鵜呑み」にして「お上の説」として信仰しているのが実態である。

こうした「正しさ」への指向は、正解通りに「正しく」動くことを守ろうとし、そこから外れることを、「エラー」「間違い」「失敗」と一律に見なして、非難、批判、嘲笑の対象とする。失敗すること、間違うことを極端に忌み嫌う。エラーが人間に付きものである(人間は間違うものである)、という考えを受け入れにくい。ヒューマン・エラーを、エラーを起こした当人の個人的な責任、能力不足、注意不足と見なし、背後の組織やシステムの抱える問題に考えが及びにくい。 結局、日本人は、人間は正解、手本通り「正しく」動くべきものだ、という信念がことの他強く、それが日本人に社会システムを、微細なところまで正確に運用、構築する能力を与え、社会、経済の発展に大きく寄与する一方、「正解」への強迫的な遵守を人々にもたらし、社会の余裕の無さやヒューマン・エラーへの不寛容、独創性の欠如につながっている、と言えよう。

05/19/2007 05:18:46 AM


日本人と中国人

-国民性の違い、共通性の根底にあるもの- 日本人と中国人 (漢民族 )との類似、共通点は、以下のように短くまとめられる。 日本人と中国人は、共に、稲作や畑作を主にする農耕民族である。その点、一カ所に定着して動かないのを好むとか、集団・団体行動を好むとか、相互の一体感、心理的結合、人情を重んじ、縁故を重視し、ジメジメ、ベタベタしたウェットで女性的、母性的性格を持つ点では共通している。

しかし、この両者には、大きな相違点があるのも事実である。 中国人 (漢民族 )と日本人の最大の違いは、自分の属する内集団、すなわち親密感、一体感を持てる「ウチ」と見なす範囲がどこまでか、についてが、大きく異なる。 中国人の場合、「ウチ」の範囲は、千年以上にわたって続いてきた父系血縁集団 (同族 )の系譜内に限定される。同じ姓を持ち、同じ血縁集団の中に含まれている相手との間は、温かく、親密な身内の関係になる一方で、父系の同一血縁に属さない他者は、全て「ヨソ者」であり、信用ならない冷たい関係に置かれる。

会社とかも、経営者と同じ父系血縁集団に属する従業員は、会社に対して「ウチ」意識を持ち、一体感を持って経営に参加する。というか、同じ父系血縁集団=「ウチ」に属する他者は、「会社は一族皆の持ち物」という意識で、どんどん馴れ馴れしく会社の経営に参画、介入してくる。同じ同族の者同士は、強い一体感、縁故で結ばれ、甘えの関係が横行し、いかようにも融通が利く。

それに比べて、経営者と同じ父系血縁集団に属さない従業員は、会社に対して、冷たい「ヨソ者」意識を持ち、決して、一体感を持たず、一時的な腰掛け意識のみを持つ。この場合、会社で技術とかを教えても、その会社に対して一体感を持たないため、その会社に定着しようという意識がなく、さっさと教えられた技術を「持ち逃げ」して、別のより有利な会社へ行ってしまう。その移った次の会社も、同じ父系血縁で結ばれていない限りは、ヨソ者、一時的な腰掛けという意識で臨むことには変わりない。

この部分だけを取り出すと、中国人は、個人主義者に見えるが、実際は、父系血縁集団と強く一体化し、強い帰属意識を持つ、ウェットな集団主義者と考えられる。

父系血縁集団に属さない他者との関係で親密なものは、個人的な友人、朋友関係になる。

こうした特徴を持つ中国人が、日本人と違うのは、以下の点である。

(1)まず、血縁を重要視する度合いが、中国と日本では大きく異なる。違いは、日本では、天皇家とかのごく一部しか、こうした父系血縁集団の系譜を書いて保存していないのに比べて、中国では、ごく一般的な庶民も、父系血縁集団の系譜を千年単位で保持し、系図を見て、自分が系譜の中のどこにいるかを確認できる。これに比べて、日本人の血縁意識は、中国ほどは強くなく、系譜も千年単位で保持することは、庶民レベルでは稀である。

(2)次に、日本では、必ずしも、同一父系血縁集団に属さなくても、温かく親密な身内の関係に入りうる。例えば、同じ学校や会社に属する者同士を、「ウチの学校」「ウチの会社」と呼んで、強い一体感を持ち、お互いを家族のように意識する。血縁が通じてなくても、「同じ釜の飯を食べた者同士」であれば、あたかも同じ家族に属するかのように扱ってもらえる。その点、「ウチ」と見なしうる集団が父系血縁集団に限らず、いろいろ多数存在することになる。例えば、大学とかでの師弟関係があたかも擬似家族のように連なって、学閥と呼ばれる内集団ができたりする。

あるいは、日本においては、夫婦の結婚に際して、 (多くは )妻の方が、夫の実家に嫁入りする形で、自分の姓を夫の姓に変えることが一般的に行われている。これも、本来血のつながらない妻が、姓を変えることで、夫の家族集団=「ウチ」の一員に「新入り」の形で迎えられるのであり、日本において、血縁に属さない者が家族としての扱いを受ける代表的な事例と言える。

この場合、「ウチ」の仲間に入れてもらうために、大学の入試とか、厳しい試験を突破しなければならないことが多い。また、「ウチ」集団の新入り (会社の新人とか、新たに夫の家に嫁入りした嫁とか )は、集団の一員として明確に認められるために、いろいろ試練やいじめとかを受けたりする。 要は、日本では、集団に液体の表面張力みたいな、ヨソ者を内に入れようとしない力が働いており、それを突破するのが難しく、なかなかウチに入れてもらえないが、いったん突破してウチに入れてもらえると、血縁で結ばれた家族同様、あるいはそれ以上の強い一体感、縁故で「ウチ」の一員、同じ運命共同体の一員として扱ってもらえるようになる。これは、あたかも集団に内外を隔てる膜があり、例えば卵子の膜をかいくぐって中に入って受精する精子との関係と感じが似ている。

こうした、同じ父系血縁に属さなくても、相互に「ウチ」の関係に入れる、家族同様のウェットで強い絆、一体感を持てることが、中国と比べた日本の特徴ということになる。一方、中国人は、同じ父系血縁集団に共に属していない限り、その対人関係は、原則として、冷たいドライな、一時的なものに止まる。 中国人にとっての「ウチ」は、同じ父系血縁で結ばれた者同士に限られ、日本のような非血縁の相手にまで「ウチ」の範囲を広げる融通性に欠けている。そういう点では、「ウチ」の集団の定義が明確である。日本のように複数の非血縁者同士で作った会社のような組織が、組織成員にとって家族同様の「ウチ」になるといった不明瞭な「ウチ」の発生、範囲の拡大は、中国では起こり得ない。

中国人を欧米と同じ、強固な個人主義が貫徹した、日本とは異質な社会関係の持ち主と捉えることは、ある面では正しいが、ある面では大きく間違っている。 中国人は、自分と父系血縁を同じくしない者同士は、互いによそよそしいドライな関係にあり、そういう側面だけ取って見れば、欧米同様、ドライな個人主義的社会関係が主流に見えるというのは事実である。

しかし、それでは、中国人の本質はドライかと言えば、そうではなく、同じ父系血縁に属する者同士の関係は、非常に親密、一体感に満ちた、ウェットなものである。同族に属する者同士は、強い絆で結ばれ、互いの間は、いかようにも融通が利く、強い甘え、和合の支配する関係にある。しかも、そのウェットな父系血縁集団は、千年単位で持続、形成されてきた、日本人の想像を超えた大きなスケールのものであり、しかも、そうした血縁の系譜を、ごく普通の庶民が当たり前のように保持しているのである。

日本の会社が中国に進出する際に、中国人の従業員に対して、日本人の従業員同様、従業員が、会社に対して強い一体感、「ウチ」意識を持って、会社を我が事のように思って、会社のために骨身を削って尽くそうとしてくれるように、従業員を教育すればなってくれると思い込みがちである。

しかしこれは、中国人の「ウチ」の範囲が父系血縁集団にほとんど限定されることを知っていれば、これはほとんど期待できないことが分かる。中国人従業員にいくら懇切丁寧に技術指導とかしても、他の会社にすぐ移る形で持ち逃げされるのは、そもそも、中国人従業員は、日本人の会社を、 (日本人従業員が多く取るような )自ら一体化、共同化すべき家族同様の関係にあるとは全く見なしておらず、ヨソ者同士の冷たい関係、一時的な腰掛けの相手としてしか見ていないからである。

この点、日本の会社としては、個別の中国人従業員は、あくまでヨソ者として、一時的な相手としてドライに扱う方がうまく行くと考えられる。従業員は、あくまで赤の他人と見なし (これが、日本人の感覚からすると難しいのであろうが )、技術指導とかする際も、全部ノウハウを開示して教えてしまうのではなく、そのうち自分たちからすぐ離れて行ってしまう一時的な関係にあるとして、表面的なところを教えるに止めるべきであると考えられる。

あるいは、個別の中国人従業員の背後に存在する、各中国人が寄る辺とする巨大なサイズの父系血縁集団それ自体を、初めから意識して動くべきとも考えられる。例えば、日本企業の合弁の相手を、中国人の父系血縁集団とすることで、中国人の父系血縁集団への一体感、忠誠意識を、日本企業が活用、利用できるように考えるのである。

中国社会のあり方についても、複数のアメーバのような別々の互いに融合することのない巨大父系血縁集団同士が、絶えず、互いに対立したり、合衝連携を繰り返すものとして捉えるべきである。日本のように、社会全体を、個別内集団を超えて、互いに一体感、一つのまとまりを持つ「国家」として捉える見方を取ることはしない方がよいと言える。中国人にとっては、「国家」も、その指導者の属する父系血縁集団の私有物のように思われているのである。

このように、日本と中国との差を見た場合、日本が中国に対して優位に立てる条件がどこかが見えてくると言える。人口や国土の大きさ、資源などで日本を圧倒する中国が、現代の日本にとって大きな脅威であることは事実である。それゆえ、どのポイントを突けば、中国に比べて、決定的に優位に立てるかを見極めることが重要となる。

この点について、筆者は、日本人は、互いに血のつながらない赤の他人同士が、同じ学校、会社に入る等のきっかけで、互いに共通の内集団=「ウチ」の中に一体・融合化し、実際に血のつながった親戚同士をはるかに超える強い絆で結ばれた運命共同体を作って一致団結して、目標達成に突き進むことができることが、血縁の枠にしばられた動きしかできない中国人に比べて、圧倒的な優位に立てる可能性を生み出していると考える。

要は、ある目標を達成するのに必要な人員は、同じ血縁の中から適材を常に見出すことは難しく、赤の他人の助けを借りる必要がどうしても出てくる。その際、血縁の枠を超えて、一致団結できる心理を備えた日本人は、血縁の枠の外に出られない中国人よりも、目標達成のために、心理的に一致結束できる度合いが強く、その結果、血縁の枠内でしか物を考えられない中国人に比べて、より効果的に目標達成をなし、勝つことができると考えられる。

日本人が、中国に比べて優位に立とうと思うならば、この、非血縁の赤の他人同士が同じ内集団の中へと溶け合って、一体融合化し、共通の目標に向かって、家族同様の強い絆で一致結束できる能力 (非血縁内集団形成能力とでも呼べばよいか )を今まで通り維持し、より一層強化すべきである。

05/19/2007 05:20:38 AM


「日本らしさ」についての検討

従来の日本文化論において、日本社会・文化の特徴であると言われてきた、「集団主義」「閉鎖性 (鎖国 )」「年功序列」「甘え」などは、実際のところ、日本だけに固有なものではなく、広く東アジア (中国、韓国、フィリピンなど )などの農耕社会全般に当てはまる特徴である。「侘び寂び」についても、細部は違うにしろ、大まかには中国の水墨画の世界や隠遁者の文化と共通なのではないかと考えられる。

それゆえ、日本の社会・文化のどこが他の国にない独自のものであるかを説明するのは、それほど簡単ではない。実際には、他の国にも存在するいくつかの特徴を掛け合わせて持つことで、日本の独自性が出てくると考えられる。その場合、他の国は、日本と異なり、それらの特徴を掛け合わせた形では持ち合わせていないということになる。

筆者は、日本社会は、以下の 3つの特徴を掛け合わせて持つことで、他の社会にない独自性を持つと考える。この場合、これらの特徴は、それぞれ単独では、他の社会にも存在するかも知れないが、それぞれの ANDを取って絞り込むと、日本だけになると考えられる。

(1)「農耕的」 一カ所に定住・定着して、植物の栽培 (稲作など )を行って生活する。この生活態度から導かれる特徴が、以下に述べる「ウェット」「女性的」というものである。

(1a)「ウェット」 互いに精神的にベタベタ近づき、くっつき合ってあまり動かず、排他的な集団を生成する。グループ単位で行動するのを好む集団主義者である。周囲との同調、協調を重んじ、自我が弱い。プライバシーに欠ける、などが特徴となる。

(1b)「女性的、母性的」互いに永続的に同じ集落で顔を合わせ続ける必要があるため、仲間を割ることが許されず、良好な人間関係の維持、相互の一体感、温もりを大事にする。これは女性が得意な、女性向きの生活態度であり、そこから社会における女性、母性の力が強くなって、以下のような態度を主流にさせる。例えば、態度が受け身である。自らの保身、安全を第一に考え、冒険を嫌う。権威におもねって自らの保身を図る権威主義者である。前例、しきたりを持つ年長者を重んじ (年功序列 )、個人の独創的な試みを評価しない。

上記の特徴は、日本だけではなく、広く農耕を行って生活をしている社会 (中国、韓国、東南アジア、ロシアなど )に広く共通に見られる特徴であると考えられる。一方、遊牧・牧畜系統の社会 (西欧、北米、アラブ、ユダヤなど )は、上記とは反対のドライで男性的な文化を持つ。

(2)「求心的」 父系の家族集団 (例えば天皇家 )を基盤とした (あるいはそれにならった )、一点に集中した、ツリー構造の求心力のある組織を作って行動する。 これは、父系の族譜を熱心に作成、維持して、共通の祖先からツリー状に広がる家族集団を持つ中国や韓国と共通である。一方、タイのような東南アジアでは、家族集団は、父系・母系両方にまたがって網の目状に散逸、分散する形になり、求心性に欠ける。

(3)「非血縁内集団=ウチの形成」血縁関係にない赤の他人も、新卒採用などで「同じ釜の飯を食べる」体験をすれば、家族同様の温かい全人的一体感を持って集団に溶け込む=「ウチの仲間に入る」ことができる。自分の会社を「ウチの会社」という呼び方をするのが、その典型である。

これは、内集団 (「ウチ」に当たる集団 )が、同姓の家族集団に限定される中国や韓国と大きく異なる点である。中国、韓国では、「ウチ」の仲間になれるのは、血縁関係のある相手同士に限定される。血縁集団以外の相手は、心を許すことのできないヨソ者のままなのであって、企業に雇われても、 (その企業が親族の企業である場合を除き、 )その企業に一体感を持つことがない。日本のように、入った企業に強い一体感を感じ、血縁関係にないヨソ者同士があたかも家族のように同じ「ウチ」に所属する者として一緒に過ごすことは、中国、韓国ではありえないと考えられる。

(1) (3)の側面を同時に兼ね備えているのが、他の社会にない日本社会独自の特徴に当たると考えられる。

05/19/2007 05:22:16 AM


日本人はウェット

以下は、日本人がウェットであることを説明する筆者の文章のタイトル紹介です。詳細は、湿度感覚と気体、液体に関する筆者の著作の中に収録されております。

日本人はドライか、ウェットか?(既存日本人論との照合および心理テスト回答結果分析)

ドライ化する日本-「消極的・自閉的ドライ」性格の拡大と社会の「セミ・ドライ」化-

ドライな法律・宗教としての日本国憲法-日本人の法律「信仰」-

ウェットな社会におけるドライな対人関係について

(参考 )ドライ・ウェットな感覚・性格・社会について (心理テスト付き )

(参考 )乾いた・湿った自然環境のどちらが、よりドライ・ウェットな性格・態度を発達させるか?(自然環境(農業)との照合)

(参考 )社会のドライ・ウェットさと近代化との関連について

(参考)集団成果主義-ウェットな組織に適した成果評価手法の提案-

05/19/2007 05:23:21 AM


日本人は女性的・母性的

日本人が、女性的、母性的であることを説明する筆者の文章のタイトル紹介です。詳細は、心理的、社会的性差に関する筆者の著作の中に収録されております。

日本社会の女性的性格

日本教育システムの女性性

日本社会は母権制である

日本社会における母性支配のしくみ-「母子連合体」の「斜め重層構造」についての検討-

「母性的経営」-日本の会社・官庁組織の母性による把握-

日本男性=「母男」(母性的男性)論

(参考 )女らしさ・男らしさについて (心理テスト付き )

(参考 )母性と父性-態度の比較-

(参考 )日本男性解放論(日本女性学・フェミニズム批判)

05/19/2007 05:35:01 AM


日本人の科学嫌い

日本人は、欧米人の科学のような、相手と距離を置き、間を空けて観察する、ドライな客観性を嫌う。対象を冷たく突き放して捉えることが苦手である。科学はドライなものであるが、そのドライさが日本人に避けられる原因となる。 欧米人の科学に対応するものが、日本人では、「技」「工たくみ」「芸」「術」といったものになる。これらは、いずれも、心や情を込めた主観的思い入れの世界であり、対象とのウェットな一体化、没入が見られる。

大学とかで日本人が行う「科学」にしても、同じ大学の同門に属する先輩後輩、親分子分関係にある教授や院生との家族的でウェットな人間関係維持が主目的となり、そのための手段として、科学の振り、まねごとをしている面が強い。そういう点では疑似科学である。つまり、同じ学閥、同じ流派、同じネットワークに属する者同士のウェットな一体感を重視し、その一体感を保持する手段として、科学のまねごとを行うのである。

要は、学説を縁故、学閥、先輩後輩、先生弟子といった対人コネクションの維持とか、派閥を作る手段として使うのである。世話になった恩師の学説を否定できないとかの問題点が生じる。

信奉する学説にしても、自分から離れた客観的な批判の対象とはならず、常に一体化、思い入れ、愛着の対象となる。学説を批判されると、自分自身を否定されたように感じ、機嫌を損ねたり、怒り出す。学説が自分と一体化しており、批判すると本人を侮辱したことになり、恨まれることになる。

その点、日本人の研究者は、「科学」者ではなく、「学者」である。専攻分野に関するいろいろな専門知識を持っているが、その専門知識は、自分の愛情、主情を込めた思い入れに満ちたうんちくであり、客観的な批判、評価を否定するものである。学説や知識への感情的、情緒的思い入れ、一体感で動き、批判に対して感情的に反論する。

これに対して、欧米のようなドライな社会では、学説、理論は、自分とは切り離された冷静な批判対象となる客体であり、批判してもいっこうに構わない。他人から批判されるだけでなく、自分にとっても冷静な批判対象となる。

05/19/2007 11:33:01 PM


日本社会と減点主義

日本社会においては、視点がポジティブでなくネガティブであり、他人の落ち度、悪いところ、ミス、エラー(失敗)、欠陥、欠点がないかどうか、一生懸命になって探そうとし、見つかった相手の足を引っ張る行動をする人が多いように思われる。

相手の良いところをほめないで、悪いところを叱る行き方である。 こうした、相手の否定的なところに専ら注意が行き、その観点からのみ相手を評価する行き方は、「減点主義」である。 減点主義の人々は、守り、防御の姿勢に入っており、消極的で、ネガティブ、マイナスの思考を持つことが多い。何かを今まで通り守ること、決まり、規則、正しいことを守ることをよいことだと考える。その点、減点主義と保守性、伝統指向は深い関連がある。 減点主義においては、何事においても「事なかれ」を選ぶ。何かに積極的にチャレンジして、何かもめ事とか起こしたり、失敗、危険をしでかすよりも、毎日が何事もなく平穏、平和に、安心して過ぎていくのがよいと考える。「大過ない」「何も起きない」ことを理想とする。その点、「何もしない」、現状維持的である。問題が起きそうになると、とりあえず判断を先送りする、「判断回避」とも関連がある。もめ事、対立の発生を好まない「和合」好きとも関連ある。

また減点主義の人は、就職とかで、ベンチャーみたいな、未知の可能性に満ちているが、悪く言えばこれからどうなるか分からない所よりも、役所や大企業といった、既によい現状を持つ「既得権益」のあるところに入ろうとする。 減点主義においては、積極的にチャレンジ、変革して失敗すると、落ち度、悪いことをしたと見なす。その点、恐がりであり、「退嬰的」、「女性的」である。 減点主義では、何事も正しく、問題がないと気が済まない側面がある。安全な、波風の立たない、反対意見の就かない、正しいと認められたことのみしようとする。大学入試等、間違いのない正答、正解に合った行動をひたすらしようとする。「正解指向」と関係がある。また、権威筋の決めた正答をひたすら守ろうとする点、「権威主義」とも関係がある。

減点主義では、失敗を何が何でも回避しようとする。何か変なことをやらかして、周囲の注目を浴びることを何よりも恐れる。その点、他人の目が気になる、「ウェット」な性格である。 あるいは、世間の注目を浴びる事故やヒューマンエラーの発生回避に懸命となる。エラーを直そうとし、正しい、欠陥や傷のない「完全さ」「正しさ」を保った状態に持って行こうとする。その点、「完全主義」とも関係がある。安全・安心の確保にやたらとうるさい。 減点主義の風土では、一度失敗すると、ダメージを消すことができず、ずっと残ってしまう。再起を図るのが難しい。これは、「再チャレンジ不能性」と呼べる。

また、何か競争相手とかを攻めるにしても、攻め方が消極的となる。つまり、ライバル、競争相手がいるので、仕方なく、嫌々ながら自分も競争する。本当はライバルのいない、ライバル同士がつるんだ状態がよいと考え、カルテル、談合に走る。その点、競争嫌い、競争回避である。

物事をきちんと正しく失敗なく管理、統制する、されるのが好きであり、決まりを守る、上位者に決められた言いつけを守り、問題を起こさないことを何よりもよいことだと考えるふしがある。その点、「管理・統制指向」である。きつくしばられるのを好む。その際、上位者の「正しい」言いつけを絶対遵守するとともに、下位者にも自分の考えを一方的に押しつける「サディズム・マゾヒズム」的である。

05/19/2007 11:34:54 PM



専門家と研究者

研究者は、試行錯誤して闇を光に変える、未解明分野を解明する役割の人である。 日本の学者は、大学とかで、専攻した分野に対して詳しく、常に正しい答え(正解)、アドバイスを導き出せる、言える、教えることができる「正解」「正しさ」指向の「専門家」を目指すことがほとんどである。

専門家と研究者は、「既知の知識の蓄積と他人への誤りなきアドバイス」をメインとする専門家と、「未知の領域の解明」をメインとする研究者では、性質が明らかに異なっている。 日本の大学とかでの学者は、専門家ではあっても、実質研究者とは言えない場合が多いのではないか?

05/19/2007 11:39:11 PM


先輩後輩制と日本社会

年功序列と先輩後輩制

「年数を経るほど、高い地位に就ける」とする年功序列は、日本社会の右肩上がりの高度成長期にのみ成立可能な限定的現象であり、現在は成果主義が取り入れられて過去のものとなっている、という見方が幅を利かせている。それは本当に正しいか? 従来の官庁や企業とかいった組織における人々の上下の序列のみを想定した「年功序列」という表現でなく、「先輩後輩制」=「先に入った人は、後から入った人より上位である、優遇される、偉い」というより一般的な表現に広げて考えてみると、これが、現在でも日本社会において強大な力をもった、社会の根幹をなす考え方であることが生活の実感として感じられるはずである。

先輩後輩制と植物的思考

年功序列、先輩後輩制は、「先に入った者が、新たに入った者に比べて、無条件に管理職とかの上位者になれる」とする考え方である。技術、経験、ノウハウ、知識の質量が歳を取るとともに蓄積され、その蓄積によって、蓄積がより少ない新参者よりも優位に立てると無条件に考える行き方である。 これを言い換えると、「前からいた人が、後から来た人に、抜かれる、追い越されるのが嫌だ」というものである。先輩が、後から来た後輩に能力面、管理・命令系統の面で追い抜かれる、先に上に行かれると、精神的に傷つく、ショックを受けるというのが、根底にある。

より以前から存在する者、年次の高い者は、後から新たに入ってきた者、年次の低い者より、ノウハウ・知識をたくさん持っている、よりよく知っている、よりよく出来るはずであり、そうあるべきだという信念が、年功序列、先輩後輩制の根本にある。 これは、植物的思考であり、農耕民的考え方である。植物は、芽吹いてから、直線的にどんどん伸び続けて、大きく、上になる。古株は、新株より必ず上にある。これは、古参の先輩が、新人の後輩より上であると考える、年功序列、先輩後輩制と共通である。

一方、動物は、若いときに活力のピークを迎えた後、徐々に活力を減らし、老いるとヨボヨボの無力になってしまう。動物的思考をする遊牧・牧畜民は、年功序列、先輩後輩の考えを取らないと考えられる。

人材の逆年輪構造

先輩後輩制の社会においては、会社等の組織で、人材の逆年輪構造が生じている。 年輪が、組織に入ってからの年次によって刻まれているが、植物の年輪と逆に、年輪が形成される。 内側、中枢ほど、古参、先輩で上役であり、外側ほど新人、後輩で下っ端である。内側の上位者が消える、退役すると、その中枢を次の外側の人材が入る。 いきなり外周から中枢へは行けない。1年毎に少しずつ入っていく。

年功序列、先輩後輩制と性差

先輩後輩制、年功序列は、性差から見ると、女性的であるといえる。 年功序列では、学習、経験を重視し、正解知識、技術の蓄積により、年齢が上がるほど、エラー、間違いを起こしにくくなるなど、レベルが上がり、有用になるとする。 年功序列では、既にノウハウが判明している光の領域の中で、既に有用と判明した知識、技術をひたすら貯めていこうとする。その点、ストック指向の考え方である。そうした、既にノウハウ、安全性が判明した光の領域から外の闇の領域に出ることを恐れ、光の領域の中でのみ生きていこうとするのは、安全、保身第一の女性の行き方につながる。

女性の場合、職場等で古株の人が、最初から、昔からいるというただそれだけの理由で、「お局」として強大な権力を振るい、先輩には後輩は絶対服従みたいに考える度合いが、男性より強いように見受けられる。先輩が後輩に対して無条件に威張ったり、根拠なく高飛車な命令口調の態度に出ることが日常化している。 また後輩は先輩にかわいがられる、なつく者だとか、先輩が親分で、後輩が子分だとかいった感じで捉えられる。この点、先輩後輩関係が、相互に一体感を持った上下、包含関係からなる疑似母子関係として把握することが可能であり、日本社会が母性によって支配される社会であることと、日本社会で年功序列、先輩後輩制が根底では今なおメジャーであることと深い関係があるといえる。

日本では、男性の間でも、ふつうに先輩後輩関係が見られるが、それは、日本男性が、母性の支配下にあること、女性的であることの証拠であるといえる。 もしも、男性が強いならば、文化は、より闇の未開拓の領域の開拓を目指したものとなるはずである。闇の領域は、何が待ち受けているか分からない危険に満ちた領域であり、そうした領域には、死んでも構わない男性が進んで進出する一方、保身、安全第一の女性は進出を避ける、控えるものである。

そうした「闇領域開拓指向」の強い文化では、ある程度若い方が、知識は少なくても、既存の枠から外れた新発想の独創的なアイデアで未開領域を開拓する、開拓力の面で優れており、より上位に立てるとする考え方となると考えられる。

この点年功序列、先輩後輩制は、女性起源であると言える。

先輩後輩関係と包含関係

先輩後輩制、年功序列においては、 先輩は、後輩を、絶えず包含、カバーしていないといけない。先輩は、後輩よりカバー領域が絶えず大きく、広くないといけない。例えば、先輩は、管理職で部署でのカバー領域が広く、後輩は、狭い担当分のみカバーする。 後輩は、先輩のカバーする領域を超える、抜くことを許されない。後輩は、先輩に比べると、いつまでもスキルが半人前、半熟で一歩劣るとする。先輩が、熟練した先生であり、後輩は未熟な弟子のままである。

後輩による、先輩の下克上は不可能である。後輩は先輩に追いつけない、超えられない。前に有効だったことが後にも半永久的に有効であり、伝統保持、正解熟達の度合い、質量で先輩が恒常的に上である。先輩が先生であり、後輩が弟子である。先輩後輩関係は、子を抱きしめる母との関係に似ている。先輩は、子供を包含する母に相当し、後輩は包含される子に相当する。

高齢者採用問題

日本の会社は、 40歳を過ぎると中途採用が少なくなる傾向があるが、これと先輩後輩制、年功制は密接な関係がある。それは・正社員は、 40歳以上は管理職である。「一定の年功になった者のみが管理職に登用される。」・管理職は、生え抜き正社員で優先的に充当される。・管理職登用の正社員の数は十分足りているので、外部から補充する必要がない。・管理職より年長者が、外部から平社員として充当されることは、「同じ条件の年長者が年少者より下位にはならない」という先輩後輩制の規則によりあり得ない。

05/22/2007 03:01:00 AM


エスカレータ社会論

-日本社会との関連- エスカレータ社会とは、いったん下から乗ると、何もしなくても自動的に上まで連れて行ってくれるのを理想とする社会である。 学校教育だけでなく、日本の社会全体、各集団が、エスカレータを心の底で望んでいる。上まで、というのは、学校なら、上級学校まで、会社や官庁なら会社内の上位役職まで、運んでくれるのを望む、ということである。

エスカレータ社会の原型は、小学校、中学校といった義務教育とかで、学年単位で同年齢の人間を揃えて区切り、年次、年齢の高い人ほど上に自動的に一段ずつ飛び級、追い越しなしで上がっていく、ところに見いだすことができる。会社とかにおける年功序列の原点とも言える。 入る前は競争だが、入った後は年功序列での昇進が基本である。昇進ルートから降りると、二度と上がれない。 その点、エスカレータ社会は、皆が一斉に同期して上がっていく、追い越しを嫌う、追い越し、追い抜き禁止社会とも言える。

もう一つの特徴は、エスカレータにいったん乗ると、下りられない、他に変更できないということである。いったん乗った人は、何もできずに上へ連れて行ってもらうしかない。乗るエスカレータを間違えると、再チャレンジが効かない。エスカレータの両側の手すりが防護壁となって移れない。ないし、エスカレータが単線のトンネル内を通っていて、ひたすら上まで乗るしかない。その点、再チャレンジ不能社会とも言える。

自分に不向きなエスカレータに乗ってしまうと、不向きと分かっていても下りられず、悲惨なことになる。 いったん下りる、落ちると、別のエスカレータには、どこも乗せてもらえない。 外に対してトンネル、母の子宮みたいに閉じたエスカレータとなっている。外部の者を中途からは受け入れない。入り口で新たに乗った者、受験等で選別された新卒者のみを受け入れる。各エスカレータは、新卒者の就職活動に合わせて、エスカレータの乗り口を同時に開き、同時に閉じる。就職内定とかで、口が閉じる前にどこかのエスカレータに乗らないと、一生乗れない。

自分の段の上にも下にも、既に人がいて、段を足で上ることも下りることもできない。 一緒のタイミングで乗った人は、ずっと上まで、同じ高さで同期して上っていく。 上にいる人は、下から乗ってきた人に乗せられる、背負われる形で上に上る。その点、下にいる若者、後輩の負担が大きい。

エスカレータは、乗っている人を、徐々に選別してふるい落とす。上に行くに従って幅が狭窄し、そのまま乗っていられず、はみ出す人が続出する。官庁の役職とかのように、上に行くほど限りがあり、リストラしなくてはならない。 同じところに一緒に乗った人が同期である。先に乗っている人が先輩、後から続いて乗ってくる人が後輩である。

エスカレータ社会は、年齢面での同期を重視する、横並び同期社会である。小学校、中学校とかでの飛び級の否定が後々まで影響する。 年齢は、実年齢の場合もあれば、組織に入って何年目かという入社年齢のこともある。 先に乗った人、年齢の上の人は、能力にかかわらず先輩、上位者扱いを受ける。 後輩が先輩より同位~上位になること、後輩が先輩を指揮することを、越権行為とみなし嫌う。自分と同位~後ろだった人に追い越されるのを嫌う。上司は先輩でなくてはならない。同期、後輩がなると、追い越されると、心理的に抵抗感があり、自分が無能に見えて、プライドを傷つけられる。 その点、エスカレータ社会は、追い越し禁止社会とも言える。

年齢が下の後輩が、年齢が上の先輩を指導しにくい、管理しにくい。 中高年で、他のエスカレータからリストラとかで落とされた人が、他のエスカレータに再び乗れないのは、彼らが、後から乗る後輩相当でありながら、先輩相当の年齢になっているためである。

生え抜きの人は、最初の入り口からエスカレータに乗って上ってきた人のことである。 同期同士は、年齢が一定以内、以下にくっついていないといけない。 一から業務を覚える場合、先輩の年齢で後輩と同じ場で同じ仕事をすることは許されない。先輩の年齢の人は、先輩の年齢なりの仕事をこなせないといけない。

エスカレータを上がるにつれ、他のエスカレータとは区別される。そのエスカレータの構成員独自の色が付く。他のエスカレータに乗って時間の経った人は、既に別の色が付いていて、別のエスカレータに乗ろうとすると、不協和になり、和合を乱すとして嫌われる。

組織内での色の調和による一体感の醸成が目指される。同期は同じ色、ウチは同じ色となる。 最初から色つきの人=創業者と、最初は白紙の人=何色にも染まる人がいる。色つきの人(創業者である場合もあれば、最初は白紙で後から濃く染まった従業員上がりの人である場合もある)は、自分の求める色に染まってくれる、従順な白紙の人を、人材として求める。

エスカレータ社会では、中途採用の人の扱いが難しい。 中途採用の人は、新しく組織に入ってきたという点では、入社年齢では下であり、新人、新入り扱いである。しかし、実年齢では上であり、年配である。また、経験を積んできた度合いでも上である。 日本の組織は、組織内年齢と実年齢とのギャップを嫌う。そのため、年配の新人がありえないと見なす。日本で中途採用、高齢者の再雇用が進まない本当の原因はここにある。

組織では、その年齢にふさわしい階級の人しか当てはめない。年配なら管理職しかない。年齢が経つにつれ、順に偉くなるものと考える。管理職は、なり手が社内にいくらでもいる。管理職への登用は、社内からの登用を優先し、社外から引っ張ってくる必要がない。これが、高年齢の人の仕事先が見つからない理由となっている。

自分より高年齢の人には命令しにくい。また高年齢者は若年者に命令されるのを嫌う。高年齢の新人は敬遠される。これは、会社に限らずどこでもそうである。年功序列は会社に限ったことではなく、社会全体がそうなっている。 この問題を解消するには、高年齢の者だけでなる会社、シルバー会社とかを作るしかないのではないか?

エスカレータと母性・女性とは深い関係がある。 母性、女性は、相互のウェットな一体感、包含感覚を重視する。相互の同期、同調、一体化、一斉の横並び、相互の調和、和合を好むことにつながる。これが、エスカレータ社会の心理的な源となっている。 父性のような、各個人がバラバラに分離したドライな自由競争を好まない。 前からそこにいる者、先に(前に)そこに入った者たちが、後から入ってくる者の新規加入によって、同期して自動的により上座に昇るのを好む。それは、自動同期上昇性といった言葉で表すことが出来る。

上昇した先住民が先輩、新たに入ってきた新住民が後輩ということになる。 同時(加入)者の同一処遇ということになる。 それは、昔からいる人、お局の支配につながる。 エスカレータ社会になるのは、社会が女性、母性優位であることの現れである。 日本の農業村落で、前から住んでいる先住民が、後からの移住者である新住民より立場が上である。その点、日本のムラ社会は、エスカレータ社会の典型である。

先輩後輩制度とエスカレータ社会とは、深い関連がある。 先輩後輩制の本意は、「後から入ってきた人に、能力面で追いつかれる、追い越されるのが嫌だ」というものである。 より以前から存在する者、年次の高い者は、後から新たに入った、生まれた者、低い年次の者よりも、ノウハウ・知識をたくさん持っているべき、よく知っているべき、能力が高くあるべきと考える。 これは、植物的思考であり、農耕民的考え方とも言える。要は、古株が新株よりも上位にあるべきという考え方である。植物は、年齢が経過するに従って、どんどん伸び続け、勢力、大きさが上になる。正比例のグラフとして表現できる。

一方、欧米のような動物的、牧畜民的思考においては、動物は、幼い頃から年齢が経過するに従って、植物同様伸びるが、壮年期に頂点を極めた後は、年を経るに従って、老いてよぼよぼになり、無力になる。これは、逆 U字グラフとして表現できる。 植物的思考の、時間、年数が経過するほど自動的に上位に行くというのは、エスカレータと同じであり、その点、年齢が上ほど上位者になるという先輩後輩制の社会は、エスカレータとして表現できる。

05/23/2007 01:02:14 AM


日本人と天下り

上位会社や官庁でリストラされ、余った成員のより下位の全く別の組織への雇用斡旋が「天下り」である。「天下り」は、官庁の役人向けに専ら用いられる用語である。それは、官庁が「天皇直属、直参=お上の人員のいるところ」であり、そこから下々の民間の人々のいる上へと、リストラされた「お上=官」の余った成員が落下傘的に降下する様を表したものである。

しかし、実際には、「天下り」は、官庁だけでなく、企業でも普通に行われていることである。すなわち、上位、上部組織(本社、親会社)を「天」「上」「親」と見なし、そこで不要になった社員が、下位、下部組織(子会社、下請け会社)へと送り込まれる、押しつけられるさまが、「天下り」として捉えられる。

その際、上部組織から天下った者が、下部組織の上部ポストに就いてしまうため、下部組織の生え抜きの社員が、昇進できなくなってしまう。彼らは、一生、上部組織から天下った社員の言うことをひたすら聞くはめになる。その点、「天下り」は、上部組織による下部組織の乗っ取り、下部組織の私物化、植民地化、下部組織生え抜き成員の奴隷化のような面がある。

似たような、影響下組織(植民地)への、自分の組織人員の送り込みとしては、大学(例えば旧帝国大学)の「学閥本部」による、植民地大学(新設大学)や、一般病院(医学部の場合)への人材送り込みと、影響力の維持・拡大というのがある。

あるいは、企業や官庁においても、「一時的出向」という形で、本社・本省の人間が、子会社、出先機関に送り込まれることがある。 こうした大学学閥による一般病院等への人材送り込みや、企業・官庁における「一時的出向」と、前述の「天下り」は、上位組織から下部組織への人員送り込みという点で共通している。一方、違う点としては、「一時的出向」の場合は、出向した人が、本社、本部、本省にいずれ戻り、管理職になったりする道が十分残っているのに対して、「天下り」は、片道切符で、元の上部組織に戻ることはあり得ないという点である。

05/23/2007 01:08:20 AM


年功成果主義

日本の会社では、成果主義の導入により、年功制ではなくなったとする意見があるが、実際には、年功序列と成果・能力主義が組み合わさった形で運用されていると考えられる。

・現在でも、管理職に登用される、昇進するのは、ほぼ年齢順である。→年功序列

・ただし、管理職への登用あるいは昇進時に、正社員のふるい分けが行われ、成績がよい者、成果を上げた者、能力がある者のみが管理職に就ける、残れるようになっている。残りの成果を上げなかった、管理職に就けない管理職と同年齢の平社員は徐々にリストラされる。→成果主義

05/23/2007 01:09:30 AM


日本人と失敗

この国の人は、他人の失敗に対してうるさく、手厳しく、絶えず監視している。姑根性丸出しである。また、自分が失敗して恥をかいたり、危ない目に会うのを恐れ、権威筋の先生とかが大丈夫ですよ、必ず成功しますよと認めたことしかやらない。 失敗や危険を避けるために、未知のことを行うな、既知のことのみやりなさい、という考えがこの国で根強い。ベンチャー精神に欠けている。銀行が、ベンチャー企業へ融資を断る傾向が強いとかである。

05/25/2007 09:15:42 AM


先生役社会と生徒役社会

日本社会は、明治維新以降、先生役の欧米から新技術、新思想の導入に忙しい状態が、今日までずっと続いている。一方、日本社会が先生役を務めるのは、欧米産の技術や思想の消化・吸収が自分たちより遅れている社会に対してのみである。 その点、日本社会は、先生役の欧米社会から、新しいことを教わる側に専ら徹する生徒役に、役割が固定している感がある。一方、欧米社会は、一貫して教える側に立っている。

このことから、教える教師、先生役をずっと務める欧米社会は「先生役社会」、ひたすら教えてもらい、その結果を消化・吸収する側に回っている日本社会は「生徒役社会」と言える。

なぜ、このような差や役割分担が生じるかと言えば、先生役の欧米社会は、生徒役の日本社会に比べて、革新的な新事実の新発見、発明を先んじてすることが、より多いからだと言える。 先生役社会の人々は、海の物とも山の物とも分からない、未知の、どんな危険や失敗が待ちかまえているか分からない「闇の領域」に、生徒役社会の人々よりも先んじて入り、いろいろ失敗を重ねながら、より先んじて新たな知見にふれることが出来る。 一方、生徒役社会の人々は、未知の領域が持つ潜在的危険を怖がり、安全、安心を得るために、既に闇でなくなり光が当たっている「光の領域」から出ようとしない。

先生役社会の人々が、未知の領域内で散々失敗し、苦労を重ねて今までにない新たな知見を得たまさにその瞬間が、「闇の領域」が「光の領域」に変わる瞬間である。 闇を光に変えて新たな知見を先に得た者が、まだ知見を知らない者に対して、先生、教師役を果たすこととなる。 その点では、闇を光に変えようとして、失敗を恐れない強い意思を持つ人々の社会が、先に闇の中で新事実、新知見に触れることができるため、先生役社会になり、闇を怖がり光の領域から出ようとしない保身に余念のない人々の社会は、新たな知見に触れるのが必然的に遅れるため、生徒役社会になるということになる。 その点、万年生徒役の日本人は、先生役の欧米人に比べて、臆病、退嬰的、女性的でベンチャー嫌いと言える。未知の領域に危険を顧みず果敢に挑戦する心意気が、先生役の社会の人々に比べ明らかに弱く、前例、しきたりを重んじる度合いが大きいのが、万年生徒役に甘んじる原因となっていると言える。

06/07/2007 02:05:57 AM


借り物社会

日本は、外国からの技術や文化を導入する、輸入する、借りることの多い社会である。その点、外国の文物の借り物の横行する社会であり、「借り物社会」と名付けることができる。 自分たちで、何もない状態から一から何かを作り出すことが不得意であり、既に誰かよその国の人たちが発見、発明した文物を、そのまま借り入れ、輸入して、それに小改良を加えることを得意とする。 借り入れの源は、以前は中国から、近世以降は欧米からが主流である。

06/18/2007 03:49:44 AM


日本社会で個人が定位置を保つことの難しさ

この国で生活していると、その時々の流行、ブームにつられて、集団であっちフラフラ、こっちフラフラして、自分なりの定まった定位置を持ちにくい。 一人定位置をそのまま保っていると、やれ協調性がないだの、和合の精神に欠けるだの、団体の統率を乱すだの、流行に鈍感だだの、たくさん罵声が飛んでくる。それに負けないようにするのは大変である。 周囲のみんなと一緒になって、一体感を保ちつつ、その時々の流行に従って、ゾロゾロと動き回らないといけない。

中には、一見定位置を持っているように見える人たちもいる。しかし、実は、古来からの前例、しきたりとして存在する伝統をひたすら重んじて、それに盲目的に一体化してしがみついているだけだったりする(神社の神官とか)。どっしり重たく構え、一つの土地に土着する農耕民にありがちな態度である。

周囲の対象から一人離れて、客観的な立場で、冷静に、自らをコントロールし、対象を観察する、ドライな態度が、この国ではあまり認められていないような感じである。何でも、みんな一緒でないといけない。単独行動は許されない (一人になるのは、集団から不要人物として疎外されていることを示す、よくないことであるとされる。 ) どちらかというと、周囲に合わせて、溶け込むこと、周囲が盛り上がっていれば、「祭りだ、ワッショイ!」と一緒になって踊り騒ぎ、周囲が沈んでいればそれに合わせて一斉に「ショボーン」となること、いついかなる時でも、周囲との一体化を維持することそれ自体が目的化している感じである。

06/19/2007 06:15:12 PM


日本人の役所中立幻想

日本人は、役所の意思決定を、政党やマスコミの意見のような先入観や特定の色の入らない、無色透明、公正中立、清廉潔白なものと捉えがちである。 役所に勤める公務員、官僚は、天皇家の直参、直属の親衛隊である。 天皇家は、神社を究極的に統合する者として、神社神主に代表されるお祓い、みそぎのような、色、偏りを初期化して、洗い流して、白紙透明に直す機能、能力を神社の元締めとして備えている。その能力を、天皇家直属の役人、官僚も受け継いでいるという訳である。

現在の官庁は、建前上は国民主権となっており、国民へのサービス機関として捉えられているが、これは、アメリカが天皇家より更に上に、日差しとなって差し込む、輝いているため、アメリカ色に染まってそう見えるのであり、アメリカの放つ光を遮る、どけると、旧来からの天皇家直属の機関である本性が顔を現す。 官庁の官僚が民間に「天下る」という表現がなされるが、これは官僚が「天に属する者」=「天皇家直属の働き手」であることを指しており、「天にいる者=お上の一員」であることを示している。 官僚が国内の様々な有力者勢力の影響から自由で、頭一つ抜きん出た存在でいられるのは、彼らが、伝統的に国内のあらゆる勢力の上に精神的に立っている天皇家に所属するからである。

そして、天皇家の持つ祓い、みそぎによる、特定政治色の排除、洗い流しの機能が、官庁にも天皇家直属の機関ゆえ備わっており、それが官僚、役人を、公平無私の存在に見せているのである。彼ら官僚、役人は、実質天皇家の私的お抱え集団なのであるが、天皇家がずっと日本社会全体をまとめ上げる精神的支配者、支柱、よりどころとなっているため、「公」の人=公務員と呼ばれるのである。

06/20/2007 02:23:42 PM


日本人は、英語に早期から習熟すべき

日本人は、英語に早期から習熟すべきである。 なぜ、日本人は、英語を学ぶ必要があるか? 英語は、遊牧、牧畜民系統の言語で、現在、最も勢力があり、広く使われているからである。先進的な遊牧、牧畜民の言語として、より先進的な文化を、日本や中国のような農耕民よりも、いち早く発見、発明してその内容がいち早く言語に反映されるからである。 欧米のような遊牧、牧畜民は、男性、父性の力が強く、未知の何がどうなっているか分からない「闇の領域」に進んで動いて入り、危険に立ち向かい、試行錯誤しながら、闇を光に変える、すなわち最新の発見、発明を行う。

その最新だが粗削りな成果を、普段いる、光が当たって何がどうなっているか前例として一通り分かっている「光の領域」から自分からは出ようとしない日本人のような農耕民 (女性、母性の力が強い )が導入、コピーして、さらに細々と改良し、完成品として、欧米人側へ渡すことになる。 その欧米人から最新の探索成果を、いち早く効率的に導入するのに、欧米人の使う言語=欧米人のあげた最新成果の乗り物、伝達媒体を知っていることは何よりも重要である。欧米の中でも、最も現在勢力があるのがアメリカなので、英語が一番有利ということになる。生育の早期から英語に慣れるほど、より新成果、新文化を取り入れる能力がアップする。

日本語と言われている物は、実は、中国語からの借り物がほとんど。純粋な日本語は実はあまりない。どうせ、中国からの借り物だったものが、英米からの借り物に変わるだけで、文化を海外からの借り入れとその自己消化、改良で過ごしてきた日本人の本質に何ら変わりが起きるわけではない。英語をより主力として学んでも、日本人は今まで通り変わらない。 日本人は、現状余り先進的とは言い難い中国の借り物である現在の日本語にそれほど執心する必要はないのではないか?がらっと考えを変えて、先進的な文化の伝達媒体である英語の学習にシフトすべきである。 また、英語を選択するのは、今のところ、牧畜系民族の間で一番影響力があるから、当面とりあえず選択するのであり、英語民の勢力が衰えたら、また別の牧畜民系言語に乗り換えるだけである。

06/23/2007 04:49:34 AM


融合社会と非融合社会

日本と中国とかの一番の違いは、社会のあり方が融合的かどうかということである。 中国社会では、父系の家族、血縁集団が、対内的に強い一体感をもってまとまっているが、それぞれが別々に独立に存在し、互いに混じり合い、一つに融合することが決してなく、家族集団毎にバラバラに分かれたまま、一つにまとまることなく別々に存在し続ける。国内の政治は、そうした互いにまとまることのないバラバラな家族集団=非融合集団間の勢力争いとして捉えられる。皆、自分の所属する家族集団のことばかり考えて、社会全体を一体化、溶け合わせる力、契機に乏しい。これは、「非融合社会」として捉えられる。

一方、日本社会は、天皇家(とその直属機関の官庁)を頂点に、人々が、会社や学校とかで、同じ釜の飯を食べた者同士が、血縁の枠を超えて、相互に強い一体感をもって一つにまとまる、内集団(融合集団)を形成することが可能な「融合社会」である。この融合能力は、互いに何の血縁関係もない者同士が、国や会社のために精神的にまとまって一丸となって無私の心で動くことを可能にする。

06/23/2007 04:52:27 AM


学習好きの日本人

日本人は、既存の知見を学ぶのが好きである。知識をたくさんそらんじるのを目指す。学習すること、知識をため込むことそれ自体が自己目的化している。受験とか、とにかくたくさん知っていることが偉いとされる。うんちく、講釈を垂れることで得意、上位者になった気分になる。生涯学習と言えば聞こえはいいが、とどのつまりは、一生ひたすら消化吸収するのみである。これは、受け身、受信一方の態度であり、創造性に欠ける面がある。既存の枠内に止まる行き方である。自分からは新しい考え方が出て来ない。他人の請け売りに終始する。

07/01/2007 05:57:21 AM


母依存の日本社会

日本人は、何でも母にやってもらう。母がいないと何も出来ない人が多い。 母がいないと、娘が子育てができない。ワーキングマザーの場合、育児、家事、裁縫とかを、マザーの母が代行している場合が多い。 日本の職場、会社システムは、後方で母のサポートがあることを前提に組まれている。男性社員だけでなく、女性社員も、自分の母に寄りかかって生活している。 母のサポートがなくなると、日本社会が崩壊する。 今まで日本社会で若い大人=大きな子供をサポートしてきた母の世代が消滅し始めている。今まで自分の母にサポートされてきたが、自分からはサポートされるばかりで、我が子をサポートする習慣、実力のない世代が、従来の母の世代になり始めている。 生活面で依存的で、自分は(母に)何かをされる(してもらう)経験だけしかない大人しかいなくなったら、日本社会はどうなるか、大いに問題である。

07/01/2007 05:59:11 AM


清浄 (清め )、純白、色・汚れ落としと日本の神社

神社でおはらいを受けたり、みそぎを受けることで、 (汚れた )色が落ち、純白になって、心身が清められ、浄化される感じを、日本人は多く受ける。 その効能を、日本社会に当てはめると、以下のような例があげられる。 既に他の会社で働いて、その会社の色に染まった人が、別の会社に中途採用されようとしたとき、前の会社のカラーに染まったままだと、協調性に欠けるとされて、やっかい者扱いされる恐れがある。そこで、神社に行って、みそぎを受けて、色のつかない白紙状態に戻ることができる。

死んだ牛馬の処理など、けがれるとされる職業についているため、「エタヒニン」扱いされて差別されている人々は、作業が終わったら、神社に行って、みそぎ、おはらいを受けることで、心身ともに清められ、汚れを完全に落とした感覚を、周囲の人に与えることができる。そうすることで、社会的差別をなくすことに役立つ。

犯罪やヤクザなど、悪の道に進んだ人が、神社で清めを受けることで、悪を断ち切るきっかけになる。

なぜ、神社で、おはらいやみそぎを受けると、心身ともに白く汚れがない状態に清められたと感じるのか、そのメカニズムの解明が必要である。 また、寺院や教会とかでは、こうした、神社での清めと同様の機能が存在しないのではないかとも思われる。なぜ神社は、こうした清めの感覚を生み出すことに成功したのか、なぜ神社でないと駄目なのか、その辺を探る必要がある。

07/01/2007 05:59:58 AM


天下りと天皇制

官庁から民間への職員移動が、天下りと表現されている。「天」から「下々」へと「下る」「降りる」という意味として捉えられる。官庁が「天」と捉えられており、民間が「下々」と捉えられている。官庁と民間の上に、身分の上下格差があることを示している。「天」は、「天皇」を意味すると考えられる。「天皇の家臣、直参、直属の部下、親衛隊=官僚が、より身分の低い民間へ、パラシュートで落下する」と読める。このことは、日本が、現在も戦前とあまり変わらない、国民主権ではなく、天皇 or天皇の家臣、直参が主権の国であることの証拠として考えることができる。

07/01/2007 06:02:16 AM


親子は対等なリレーランナー

日本の親子間の上下関係は誤りである。 日本では、江戸時代の儒学の影響もあってか、親子関係を上下関係、支配服従関係と捉える見方が支配的だ。 例えば、親会社、子会社、あるいは、親分子分といった言い方がなされ、いずれの場合も、親が上で、子が下というように立場の格差がはっきり付けられている。 しかし、それは誤りだ。

親と子の関係は、世代間で、環境に適応していくための文化を受け渡しする、リレーのランナー、選手の関係だ。先行する親が、子供に、自分が自分の親から引き継いだバトンを渡して、うまく渡せたら安心して死ぬ、というものだ。リレーの各ランナー間の関係は、基本的に対等、平等なものであり、時間的な前後関係があるだけだ。

子供はまっさらな状態で生まれてくるので、親が、子供によりよく生き延びてもらうために、いろいろ知恵を付けるのであるが、どうも日本では、その知恵を保持していること、知識を持っていること自体が偉い、上位であるとされる傾向があるため、知恵をより豊富に備えた親が偉い、上位ということにどうしてもなりがちである。 しかし、新しい事態、環境への適応力、新分野を開拓する力や体力は、若さを備えた子供の方が優れているとも言えるので、そうした点を重視するように見方を変えてみれば、親子は対等であると言える。 また、親と子の関係は、遺伝的に見て、子の体の半分は親自身である。親が、生物学的に同等である、自分自身の分身、半身より偉い、優れているということは、ありえない。

07/19/2007 04:47:21 AM


内輪指向、内向き社会

日本人は、自分の所属する集団内に専ら関心が行き、集団外への関心、配慮が乏しい。そして、いつも内輪に限定された、内輪受けする話題を互いに振ろうとする。集団外の人からは、何のことをしゃべっているか分からない。集団に入っていないと、あるいは、親しくないと、話題について行けない疎外感を味わうことになる。

集団内だけで理解可能な話題で盛り上がることで、集団内での相互の一体感、一致結束を楽しむのであり、集団に所属していること、一員として受け入れられていることをその都度確認していると言える。 互いに緊密なコミュニケーションを取り、互いに体験を同じ場所にいて共有していないと、他の人たちの話題について行けず、取り残されてしまう。ひいては、集団から除け者にされてしまう。

それを避けるために、必死になって周囲の仲間の話題について行こうとし、そのために、必死になって周囲の仲間とコミュニケーションを取り、仲間が行くところには必ず自分も参加しようとする。 これが、この国の人たちの、傍目をわきまえない、自分たちの仲間のことしか眼中にない、必死の集団、団体行動につながる。また、携帯電話でむやみやたらと仲間と連絡を取り合おうとする、仲間からの連絡が来ないと不安になる、携帯電話依存症を引き起こしている。 その背景としては、仲間集団が成員相互の一体感、相互理解を偏重し、一体感の持てない、内輪の話題について行けない成員をすぐ仲間はずれにしようとする点がある。

外部の人に対して、自分たちのことを理解してもらおうと、積極的に、誰でも分かる、グローバルな用語とか用いた説明をしようとしない。というか、むしろ自分たちのことが外部に理解され、対外的に筒抜けになると、よそ者に首をつっこまれることになるとして、外部に対して門戸を閉ざし、対内的に内向きの結束を図ろうとする。 これが、排他的であるとか、対外的な隠蔽体質につながっている。内輪だけで分かる話題で盛り上がって集団内の一体感を得ることと、集団が排他的、閉鎖的、内向きであることとは、大きく関連していると言える。

07/19/2007 05:38:05 AM


日本における「学び」「学習」の重視

この国の人は、「学び」「学習」を重視するが、それは、既存の、既に知見として存在する情報を知識としてひたすら頭に入れる、暗記することを重視することに他ならない。 日本の教育現場における「学び」「学習」の重視、知識人になることを指向することは、既存の枠内の知識を暗記することは得意だが、今までにない新たなアイデアを発案することが自分では余りできず、よそから引っ張ってきて、導入しないといけないタイプの人間を量産することにつながる。

日本の科学が、ともすれば欧米原産の理論や技術の導入にばかり一生懸命で、日本独自の内容をなかなか構築できないことが多いのは、上記の「学習」重視の姿勢と関係あるといえる。 専ら既に判明した、光の当たっているところ(光の領域)の知識を、細かいところまで正確に頭に入れることを指向する「学習」重視は、既に状況が分かっていて安全であると確認されたところから出ようとしない、安全第一で自己保身重視の女性的な考え方とも言える。

07/29/2007 10:15:50 AM


光の領域、闇の領域

人間の周囲にある環境には、どうなっているか分からない、どんな危険が待っているか分からないリスクに満ちた「闇の領域」と、どうなっているか、どう対処すればよいか、安全か、正しいかが分かる光に照らされた領域(「光の領域」)とがあると考えられる。

光に照らされた安全な領域はどちらかというと限られており、狭いのに対して、未開の闇の領域は光の領域の周囲に大きく広がっている。 既に光のある領域の枠内に止まり、闇の領域に進むのを避ける安全・保身を取るのが女性や日本人で、闇の領域に積極的に打って出て、失敗を重ねながら、徐々に闇を光の領域に変えていく開拓のリスクを取るのが男性、欧米人だということになるのではなかろうか。

男性や欧米人も光に照らされた、何をどうすれば成功・失敗するか分かっている領域では、女性や日本人同様正しさを追求すると考えられるが、その際もわざと本来から逸脱する違反することをやって、そこから思いがけない新たな未開の闇の領域を、本来光に照らされているはずの領域に再発見し、チャレンジの対象として向かっていく。

一方、女性や日本人は、光に照らされた領域内で、正しい、成功することのみを繰り返し行い、従うべき前例として蓄積していき、小さな改良を加えていく。どんな危険、失敗が待っているか分からない、安全、保身が確保できない闇の領域には近づかない。

07/29/2007 01:21:57 PM


同期同一処遇の原則

日本においては、同期で官庁や会社に入った者同士とかが、一斉に横並びで、同一処遇を受けることを望む風潮が色濃くある。 これは、同期同一処遇の原則、一斉原則と呼べる。 同期の間で、優劣の処遇の差をできるだけ付けないことを理想とする。そうすることで、同期の間の一体感を維持し、無用な嫉妬心とかを生じさせない、プライドを傷つけないことで、組織の成員のモチベーションを保つ効果がある。 官僚や社員の昇進において、可能な限り、同一時期に入社した者同士の処遇を揃えようとする。また、例えば管理職のポストが少ないために、同期の者同士が、同じ処遇をうけられなくなった場合は、受けられなくなった、相対的に劣る者を組織内で出さないため、あるいは劣るとされた官僚、社員の対面やプライドを傷つけないために、彼らを積極的に組織の外に排出し、同一処遇の対象から外すことを行う。

08/21/2007 10:05:24 AM


日米同盟と男女の結婚

進取の気性に富み、機動性に優れる遊牧・牧畜民が、物資を蓄積して豊潤な資力を持つが鈍重な農耕民を、外部、外敵から守護し、新たな知見を農耕民にもたらすと共に、農耕民に対して経済的に寄生し、農耕民を支配・利用・搾取する。 こうした相互依存の関係は、ずっと昔から、牧畜民と農耕民とのあいだで繰り返し見られる関係であり、日米の関係も、その一例として考えられる。 アメリカのような遊牧・牧畜民と、日本のような農耕民との関係は、男女関係に似ている。遊牧・牧畜民が男性、夫で、農耕民が女性、妻に当たる。 遊牧・牧畜民と農耕民との協力関係、例えば日米同盟は、男女の結婚に似ている。アメリカが夫であり、日本が妻である。

08/21/2007 12:03:58 PM


日本は液体タイプ、アメリカは気体タイプ

欧米人の行動様式は、気体分子運動として表せる。欧米人は気体タイプである。すなわち、一人一人が、互いに離れてバラバラに独立、自立して、互いに高速に動き回り、能動的、攻撃的に振る舞う。 気体タイプ(気体分子運動シミュレーション)=欧米的行動様式

一方、日本人の行動様式は、液体分子運動として表せる。日本人は液体タイプである。すなわち、一人一人が、互いに近づき、集まり、くっつき合って、互いに低速で、静的、受動的に振る舞う。 液体タイプ(液体分子運動シミュレーション)=日本的行動様式

インターネット利用者 (200名程度 )に、 Webページ上で気体、液体分子運動の動画を見せて、それぞれどれほどアメリカ的か、日本的かを回答してもらったところ、気体分子運動がよりアメリカ的と捉えられ、一方、液体分子運動がより日本的と捉えられることが分かった。

気体的性質、液体的性質を表形式で一覧する内容、および、気体、液体分子運動の動画に対する「アメリカ的-日本的」回答結果については、湿度感覚と気体、液体に関する筆者の著作をご覧下さい。

11/14/2007 12:57:40 AM


先進国と呼ばれたい

日本は、先進国の仲間入りをしたいと思っている。日本人は、日本が先進国として振る舞い、国際的にいい格好をしたい、ハイソな思いをしたいと思っている。 日本の人々は、国際的にどう見られているか、格付けとしてどの位置にあるかを非常に気にする。周囲の目を気にして、プライドが高い。先進国と呼ばれることは、そのプライドを満足させる。

しかも、そのプライドの高さを表に出すことを、はしたない、みっともない、恥ずかしいと考えて、人目を気にして表向きは、へりくだり、謙遜する。日本では、「自分は大した者ではありません」と一歩下がって言う人たちほど、内心では、大した人だと言われたい高いプライドを持っていると言える。「いや、そんなことありませんよ。本当に素晴らしいですよ」というと、恰好を崩して喜ぶので、内に秘めたプライドが露顕することになる。 日本は国際関係でも、自分の実力をへりくだり、謙遜する傾向があるのではないだろうか。そして、それは心理的には裏返しの「自分は先進国と呼ばれる実力を持っているのだ」「先進国と呼んでほしい」という強烈なプライドを内蔵していると考えられる。

11/22/2007 11:32:35 AM


日本は欧米化していない

日本の人は、欧米に追いつこう、欧米の仲間になろうと必死である。そうすることによって、アジアの同僚 (中国、韓国・・・ )を、自分たちより一歩遅れた存在として見下すことができ、それによって、相対的に自分は高い位置にあることを確認して、高いプライドを満足させることができる。 しかし、そのように、欧米の真似をすることによって、欧米と同じになれる、欧米化すると考えるのは間違いである。 日本は、いくら欧米の真似をしても、考え方までは欧米化しない、というか、欧米にはなれない。というのも、そうした他国の真似をすることに必死なこと自体、欧米的ではないのである。 欧米人が独創的な成果を上げてきた背景には、なるべく他人のやらないことをやる、他人の真似をなるべくしない、という態度が彼らの間で共有されてきたというのがあると考えられる。

欧米の人々は、合わせたり、真似をするのが嫌いであり、独自性が好きなのだと考えられる。 日本の学者が欧米理論の真似をして、それを日本に導入しようと必死になること、自分からは学問上の新機軸をなかなか打ち出せず、欧米頼みになっていること自体、気体的な欧米になりきれず、液体的な状態に止まっている証拠であると言える。 もしも欧米化したのなら、彼ら日本の学者は、今までにない、欧米にもない新機軸の学説を既に欧米並みに沢山生み出しているはずである。しかし、実際には、余りそうなっていない。これは、日本が、欧米化していない証拠となる。

11/22/2007 11:33:27 AM


気体タイプと液体タイプの国際分業

国際的な分業では、気体タイプの国々が上流工程を、液体タイプの国々が下流工程を担当するのが適切である。 液体タイプを示す動画↓(液体分子運動シミュレーション) 気体タイプを示す動画↓(気体分子運動シミュレーション) 最終的な完全に磨き上げられた完成品を作り出すのは、下流の液体タイプの人々 (農耕民 )である。日本人がこれに当たる。 その元となる新しいノウハウ、革新的な発明、発見を生み出すのは、上流の気体タイプの人々 (遊牧・牧畜民 )である。欧米人がこれに当たる。

液体タイプの人々は、気体タイプの人々の生み出した新しい知見を取り入れるために、気体タイプの人々の言語を習得する必要がある。その点、日本は、欧米の言語のいずれかを習得する必要があり、現状では、英米系の国際的な影響力が強いため、英米系の英語を学ぶのが効果的ということになる。 最終的に完璧な出来の製品を作り出すには、上流の気体タイプと、下流の液体タイプの社会的な合弁が効果的であると考えられる。

気体タイプの人々の基礎的な発見、発明、新たに得た知見を、液体タイプの人々が取り入れ、詳細に磨き上げて、完成度を高めるという、気体タイプ=基礎研究、液体タイプ=応用研究という国際分業が、人類にとって一番望ましいと言える。 日本企業は、液体タイプであり、機動性に欠けるため、目ぼしい成果、権利を、気体タイプの欧米に先取りされてしまう傾向にある。そこで、気体タイプの国々のまねをして、能力主義等取り入れようと必死であるが、余りうまく行っていない。

しかし、日本は、逆に、液体特有の動きがゆっくりと細やかである特徴を行かして、対象に対する細かい微調整、小改良の積み重ねによって、対象製品の完成度を高める能力に、非常に優れているのであり、そうした長所をもっと生かすべきであると考えられる。もっとも、そうなると同じ液体的な社会である中国、韓国等との同レベルでの競争になってしまうというジレンマも存在する。 液体タイプについての説明しているサイトはこちらです。

11/22/2007 11:34:06 AM


気体タイプ、液体タイプの分子運動動画と社会の理想像

気体タイプの行動様式=気体分子運動シミュレーション 液体タイプの行動様式=液体分子運動シミュレーション は、それぞれのタイプの社会や人々にとって、最も望ましい状態、理想像を表していると言える。 気体タイプの人々、例えば欧米の人々にとっては、気体分子運動の動画は、各分子=各人が互いに自由があり、個人の自立が達成できている点望ましいものである。液体タイプの人々、例えば日本的ムラ社会の住人にとっては、液体分子運動の動画は、各分子=各人が互いに和合し、団体の一体感を保てている点望ましいものである。 現実の国際社会は、この気体タイプの動画 (例えば欧米人の行動 )と、液体タイプの動画 (例えば日本人の行動 )が同じ領域内に同居して互いに影響を及ぼし合っている状態として表すことが出来る。

11/22/2007 11:34:41 AM


液体タイプ社会向け民主制研究の必要性

現在の議会制民主主義は、気体タイプの牧畜民 (イギリス人とか )が考え出した、互いにバラバラに独立した個人同士のその場でのリアルタイムの討議によって物事を決めていこうとするタイプの行き方であり、互いに一体感と和合を重んじ、事前協議を優先する液体タイプの農耕民 (日本人とか )には、余り向いていないのではないかと考えられる。

現に、気体タイプの社会であるイギリスの議会制を取り入れた日本の国会とか、実質的な議論はあまりなされずに、空転したり、感情的な押し問答になったり、強行採決したり、国会以外の場で水面下で協議したりといった形で、国会自体あまりちゃんと機能していない。肝心の法律は、官庁の役人が作成したものをそのまま承認するだけなのが大半みたいになっている。

こうした現状を鑑みるに、必要なのは、従来の気体タイプの欧米の社会制度、民主制をそのまま性質の違う液体タイプの日本社会に直輸入するのでなく、液体タイプの日本社会向けにより適した、独自の液体タイプ、日本タイプの民主制のあり方を考えることである。 そのためには、従来の日本の村落とかのムラ社会における、人々の意思決定のあり方、その理想像を明らかにして、その理想像に沿った形で、社会の物事が決まるように制度化を行うことである。

これを行うには、日本の村落とか、会社とか、官庁とか、いわゆる伝統的ムラ社会が存在するところでの、望ましい理想的な意思決定のあり方を、現場観察や構成員に対するインタビュー等でもう一度分析、抽出して、その形を、一般の人たちの意思ができるだけ反映されるように、また効率と完成度の高い成果を上げられるように、独自の改良を加えて、日本型民主主義として、他の液体タイプの社会の模範となるような形で、作り上げればよいであろう。

あるいは、液体タイプは、女性に相当するので、女性、女社会の意思決定のあり方の特徴を抽出して、日本の民主制をその特徴に従って作り替えた方がいいのではないか。 そうすることで、気体タイプの欧米社会に対して、自分たちは、あなた方とは違う別の優れた文化、やり方で対処できますという自信を示すことができるし、また、中国や韓国といった液体タイプの同僚社会に対しても、いち早く模範を示すことで、より先導的な優位な地位を確保することができるだろう。 液体タイプの国会、議会運営についての説明している筆者の他文書を参照されたい。

11/22/2007 11:36:38 AM


欧米理論の日本社会への機械的直輸入

日本の、特に進歩的と呼ばれる学者、役人たちは、より進んでいると考えられる欧米理論を、日本に導入するために、我先にと理論着想元の欧米学者のもとに心理的に群がっているのが現状である。 そうした彼らの致命的な欠点は、自分たちの足元が見えない、「灯台もと暗し」を地で行っている点にある。つまり、欧米社会の方ばかり見ていて、自分たちが本来どういう社会の中に住んでいるか、どういう世界の住人であるかについての自覚が足りないのである。

彼ら、進歩的学者、役人とされる人々も、実際には、伝統的な日本のムラ社会の住人のままであることがほとんどである。彼らは、いわゆる旧帝国大学の学閥とか官庁一家の派閥に属し、師弟関係、先輩・後輩関係といった家族的でウェットな、液体的上下関係の中に生きている。 問題なのは、彼ら自身は、そうした伝統的日本的人間関係、社会ネットワークの中にどっぷりと浸ったままの状態でいながら、そのことをほとんど自覚せずにというか別腹で、自分たちの現状とは相容れないはずのドライな欧米理論を、進歩的であるとしてやたらと盲目的に崇拝し、そのままでは合わない日本社会にそのまま持ち込みたがることである。

なぜ、彼らはそうしたがるのか。彼らの深層心理では、欧米が格上で優れており、日本が格下で劣っていると見なし、自分たちが格上とする欧米と心理的に同化することで優位に立ち、伝統的日本のムラ社会に生きる一般大衆を下位に見下そうとする心理が働いているのは事実であろう。

早い話が彼らは、欧米を上に見て伝統日本を下に見て、そして上位の欧米を崇拝し、欧米と心理的に同化することによって、自ら上位に立とうとする、欧米の権威に弱く、見栄っ張りで、人より上位に立ちたいプライドや支配欲の強い人々なのだ。そうした彼らにとって、欧米理論は、手っとり早く自らの権勢欲や支配欲を充足するための「使える」ツールなのである。

彼らは、表面的には、個人の人権の尊重とか、欧米民主主義のお題目を唱えることに熱心である。彼らは忠実に欧米理論の理解を行っていると見て良い。しかし、彼らは、欧米から教わったそのお題目から外れた独自の工夫とか発展を行う能力がほとんどない。いわば、欧米理論をそのままの形で直輸入状態で理解はするものの、そこから逸脱した形で、日本社会により適合した理論を作ろうとかいう考えや能力は持ち合わせていないのである。

というか、彼らは、欧米理論を自分たちより格上で「正しい」ものと思い込んでいるため、欧米理論を勝手にいじる、批判することなど、彼らには恐れ多くて出来ないのである。その点、彼らは、欧米に対する大きな劣等感の持ち主である。

彼らは、世界の各社会についての格上、格下の格付け、ランク付けと、その中で自分たち日本がどの高さにいるかについて心理的にうるさい、「格付け」症候群とでも呼べるような心理を持ち合わせている。彼らが大学入学に至る教育過程で慣れ親しんできた相対評価の「偏差値」重視、大学や会社、官庁の相対的な格付けに熱心な考え方が、世界の各社会や、各社会が生み出す理論に対しても適用されていると考えられる。

彼らのやっていることは、世界の各社会、国、文化を、偏差値でランク付けしているようなものである。要は、彼らの頭の中に、「国際偏差値」みたいな、国際社会の各国を偏差値でランク付け、格付けする意識が存在するのだ。彼らの心の中では、欧米が高くランク付けされ、というか偏差値が高く、アジアは低い。そして日本の偏差値が、欧米レベルに近づいて、他のアジア諸国を見下ろす優位な位置に付ければ、喜ぶのである。

というか、そうした日本の偏差値が欧米並みへと向上すること (と他のアジア諸国に対して偏差値の面で優位に立つこと )への喜びが、彼らの、欧米理論を日本へ熱心に直輸入しようとする動機付け、原動力となっていると考えられる。格付けの高い欧米理論を日本に直輸入し、直ちに適用することが、日本の国際社会における進歩性や格付けを高めることに大変役立つ、自分たちは正しいことをやっているのだという認識があるのではなかろうか。

彼らは「正しい」「格上の (偏差値高ランクの )」欧米理論の日本における嫡流であろうとして、欧米理論に対して高い権威付けを行い、それを欧米人の考えた「正解通りに」忠実に (現状格下の )日本社会に移植しようとする。これが、日本社会への欧米理論の機械的な直輸入が起きる原因である。 彼らにとって、欧米理論は、それと自らを一体化することで自らの格付けを直ちに飛躍的に高めて、日本社会における一般大衆より上に優位に立ち、手っとり早く自らの権勢欲や支配欲を充足するための「使える」ツールであると共に、自らの属する日本社会そのものの格付けを上げて、自分たちの社会を国際社会の中で高い偏差値を持たせて、自分たち日本は、 (アジア諸国に対して )格上だというプライドを満足させるための「使える」ツールなのである。

彼らは、何事を考えるにも、欧米の基準で考えようとする。欧米人の作り出した基準を、一様にグローバルな国際標準だと見なして、それに忠実に追随しようとする。欧米社会を優れており、自分たちより格上であると見なし、欧米の基準が世界の基準だと考えるのである。

こうした、欧米理論の日本社会への機械的直輸入が、従来の伝統的な日本的価値の否定につながることから、伝統的な日本社会を愛好し、その中にどっぷり浸りつつ、そのことを肯定的に考えるもう一つのタイプの学者による批判を生み出している。

このタイプの学者は先ほどの洋式を重んじる「洋学者」に対して和式を重んじる「国学者」と呼べるタイプであり、伝統的な旧軍部 (陸軍 )や右翼と心理的基盤を同一にする人々である。 彼らは、昔から日本社会に精神的、軍事的支配者として君臨してきた天皇家や将軍家 (徳川氏とか )を中心に捉え、日本を欧米を含む諸外国よりも格上と見なし、排外的な尊王攘夷論を振りかざす人たちである。天皇を中心とする伝統的な日本文化をこよなく愛好し、それらと一体化、同一化し、高い権威をそれらに与え、神社や仏閣回りを好むタイプの人たちだ。

たとえて言うなら、欧米流のフェミニズムを性急に日本社会に導入しようとする「洋学派」に対して、お母さんやお袋といった母性の日本社会における復権、強化を主張するのがこの「和学派」だ。彼らは、伝統的日本の価値観を最上の格上のものとみなし、そのことを諸外国に対して、ひたすらワンパターンに主張し、隙あらば、周囲の諸国に対して再び精神的、軍事的に侵攻し、伝統日本の国際社会における支配範囲を広げようとするのである。

その他、若干少数者ではあるが「漢学者」もいる。欧米がアジアに進出してくる前は、長い間中国 (漢民族 )が日本にとって支配的な格上社会であったため、中国の制度や文化を崇拝し、日本社会に降ろそうとするタイプである。より格上の外国から日本に制度や文化を直輸入しようとする点、「洋学者」とタイプが同じである。昨今の中国の隆盛に伴い、再び息を吹き返しそうである。

日本の学者に、この「洋学者」「国学者」 (これに加えて「漢学者」 ) 2 3タイプしかいないみたいなところが、実は問題なのである。なぜ問題か。それは、今の日本には、欧米と日本とが互いに別次元にある全く別物の文化であり、それゆえ、格上も格下もない、比較の対象とならない、ある意味対等なものとして相互に尊重し合うというか、欧米と日本のそれぞれを、そのどちらにも巻き込まれずに自分から突き放して、距離を置いて、離れた場所から客観的に冷静に捉える、分析するという考えのタイプの学者が余りいないということだ。

要するに、今の日本の学者は、欧米、中国、日本といった社会対象のいずれかに精神的にすっかり入れ揚げて情緒的に崇拝、信仰する形となり、それぞれに対して突き放した冷静、客観的な視点が持てていない。彼ら日本の学者が、行動タイプとして、ターゲットに心理的に近づき、互いに一体・融合化して和合状態に入ることを指向する液体タイプであるが故の限界である。突き放して冷静に観察して合理的に判断を下すには、特定の文化に肩入れしない、所属しない客観的な判定者としての態度を取ることが必要である。欧米もこの点では、自国文化を優越したものと考え、それを信仰して、他国へと自国文化を押しつける身びいきの考え方、行き方から抜けきれていないように思われる。

特に、「洋学者」のように信仰する対象が欧米の場合、そのままでは日本の社会に当てはまらない欧米の気体的な社会制度を、無理やり正反対の液体的な日本に押し込もうとすることにつながるので危険である。また、彼ら自身、欧米の気体的な文化を、それとは対照的な液体的な日本的やり方で消化吸収し学習しているという矛盾した行動を取っていることに気付いていない、気付けていないのは問題である。

こうした問題をなくすには、彼ら自身が、自分たちが本来見下しているはずの日本的ムラ社会の住人であることを自覚して、自分たちがふだんどういう価値観で行動しているか、現場観察なりフィールドワークとかを行って自らを振り返ることが必要だと考えられる。その点、日本的ムラ社会、稲作農耕社会の研究、フィールドワークとその結果の体系化、理論化が必要である。日本的ムラ社会は、液体として捉えられると考えられる。

また、何かにつけて、彼らの頭の中に、格上格下の格付け意識、相対評価の序列意識が頭をもたげてくるところも問題である。こうした格付けは、世界の社会・文化を、自分たちが中心に据える、一次元の格付け評価次元 (欧米中心、中国中心、日本中心・・・ )の中に何がなんでも落とし込もうとする行為であり、本来多様な世界の社会、文化を、何かしらの社会を格上とする単一の視点でしか見られなくなってしまう欠点を有する。

この点は、欧米も、自分たちの文化を対外的にアピールするために、自分たちのことを必要以上に理想化してきれいごとを言っている面もあり (例えば、個人の人権の尊重を謳いながら、人種差別があったり、階級があったり、自由競争偏重で、負け組の人たちが厳しい非人間的な生活を強いられる等 )、実態との乖離がかなりあると考えられ、彼らの宣伝と実態が合っているかどうかを確認する必要があるのではないか。これは、彼らを伝統的な牧畜民と見なし、そのフィールドワークをすることとして捉えられる。

11/22/2007 11:37:12 AM


東大万能幻想

日本社会では、東京大学を出た人間は、優秀で、何でもできる万能人間であるかのような捉え方をする風潮がある。 しかし実際には、彼らは、ある偏った特定の内容のタスクしか、うまくこなすことができない。 彼らが優位に立てるのは、既に正解のある分野における、分かりにくい難解な事項を理解、吸収、小改良を行うことに限られる。 彼らは、学習、暗記すべき正解が確立されている分野でのみ有能であり、未開拓のベンチャー的な分野においては、あまり能力がないと考えられる。

11/22/2007 11:37:49 AM


格差社会と伝統社会

現代の日本社会は、格差社会であるとされる。 その格差は、規制撤廃や自由競争の結果起きたと言われ、議論が、格差をなくすためには再び規制を強化すべきという方向に向かっているように思われる。 しかし実際のところ、こうした格差は、日本社会が伝統的なままのため起きた、生じたと考えるのが正しい。

格差が生じた理由は 2つあり、一つは、企業や官庁が、就職氷河期とかでやむを得ずいったんフリーターになった人を、なかなか正社員として雇わず、派遣労働者といった形で低賃金で差別雇用するところにある。 企業や官庁は、新卒や既に他の会社で正社員の経歴の長い人しか採用しない。そうした、未だに特定会社の色の付いていない新卒者のみを自社の生え抜きの社員として採用し育成しようとか、かつて正社員としてちゃんと働いていた所属身元の確かな人のみを採用しようとかいったように、学生の身分から正社員の身分へと失敗なくうまく渡ることができる、あるいはかつてできた人しか採用の対象としない、伝統的な所属重視の考えが、格差を生んでいるのである。

もう一つの格差は、大都市と地方の格差である。大都市が比較的好況で資金的に潤っているのに対して、地方は不況であり、浮上できていない。 では、地方に対して何にも対策が打たれていなかったのかというと、決してそうではなくて、大量の公共事業費が投入され、それでもなおかつ浮上できていないのである。かつ、公共事業費を投入した官庁や自治体は、投資を回収できないまま財政難に陥っている。こうした点、地方は、ひたすら公共事業費を吸い込むだけで、自ら経済発展につながるようなアウトプットをほとんど出せない「ブラックホール」と化している。

では、なぜ地方は「ブラックホール」と化して、浮上できないのか?それは、地方社会の持つ伝統的な体質に原因があると筆者は考える。 地方は、地縁、血縁といったコネが張りめぐらされた、相互監視のネットワーク社会である。皆、周囲の相手に対して強力な興味を抱いており、何かと他人に対するうわさ話が好きだったり、お節介、過干渉である。人々は、うわさになるのを気にして、自分からは積極的に動きにくい。

さらに、何事も大過なしを良しとする、減点主義の体質があり、何かやらかして失敗すると、長期に渡って陰湿なうわさ話、陰口の対象となってしまうので、率先して新しいことをすることが難しい。今までどおりのことを、周囲に合わせて行う、前例、しきたりで動く社会となる。

また、妬みの精神が横行しており、誰かが何かプラスのことをして成功すると、何かと妬まれ、やっかみを持たれて、足を引っ張られてしまう。

また、自分からは何もしない、考えない、受け身の体質があり、お上 (官庁 )が何とかしてくれるという「お上頼み」の考え方が根強くある。官庁に依存し、たかり、甘えて、かつ自分からは、吸い取るばかりで、何かを積極的に提供しようとする考えが薄い。

地方が浮上するためには、社会が、東京、大阪のような匿名性を持つことが必要なのではないだろうか。ふだんは放っておいてくれ、干渉しない気楽さと、噂を気にせず、自由に積極的に動くことができる社会環境を、地方に生み出すことが、地方が「ブラックホール」状態から抜け出すのに必要なのではなかろうか。

11/22/2007 11:38:25 AM


入試と液体

日本社会は、学校にしろ、会社・官庁にしろ、入学試験や入社試験といったように、集団、団体に加入する際に試される度合いが大きいというか、大きなパワーを必要とする。 これは、集団、団体が、液体特有の表面積を最小化する表面張力みたいなものが働いているため、外部に向かって閉じており、そうした閉じた空間に割って入るためには、高い負荷の課題をクリアするよう「試され」、そのために大きなパワーを必要とすることを表している。

その点、入学試験、入社試験が厳しいことは、それだけその集団、団体が液体的であることを示していると言える。 日本社会で、学校の入学試験、会社・官庁の入社試験が大変なのは、日本社会の体質が液体的であることの証拠であると言える。

11/22/2007 11:39:00 AM


戦後の日米関係と農耕民、遊牧・牧畜民関係

戦後の日米関係は、太古からある遊牧・牧畜民と農耕民との対立、相互依存の関係の一例に過ぎない。 隣の中国では、北方系の遊牧民族が、南方の農耕民である漢民族を襲って、支配王朝を樹立することが頻繁に起こったが、それと同じことが、戦後日本に起きたと言える。 要は、ドライに高速に自由に動き回る、機動性に富んだ遊牧・牧畜民のアメリカが、ウェットで鈍重な農耕民の日本を、外部からの急襲して、支配下、影響下に置き、日本人が生み出す富を適宜収奪すると共に、自らが得た新しい知見、技術を日本に友好的に供与するという関係を築き、それが現在まで続いているのが、戦後の日米関係であると言える。

11/22/2007 10:21:26 PM


きれいごとが好きな日本人

この国の人は、耳当たりのよい、心地よい、きれいな美しい響きや感じのする標語とかスローガンに弱い。 核兵器のない恒久平和とか、信頼と友好とか、平等で差別ない社会の実現とか、実際には、実現するのは不可能なのに、そうしたキャッチフレーズというか美辞麗句に酔ってしまっている。そして、民主主義とか、高尚な理想論をひたすら並べ立てて、あたかも実現可能なような錯覚に自分たちで勝手に陥っている。そして、実際には、何も実現できないままで終わってしまう。

この国の人は、もっと厳しい冷たい現実を見るべきだ。というか、人間の持つ汚い、なりふり構わない、きれいごとでは済まされない本性をもっときちんと把握し、研究すべきだと思う。また自分たち自身も、そうした人間の本性に従っていることをもっと自覚すべきだ。 そうした冷酷な突き放した現実把握が苦手で、そうするよりも、きれいな心地よい理想論を打ち上げて、それに一緒に共鳴して互いの快い一体感を味わうのが好きというのが、この国の人の本性だろう。なので、今後も、きれいごとを言うのが続くのではあるまいか。 また、こうした見かけや感触のきれいさ、美しさ、心地よさを大事にするのは、女性的な特質であり、野卑な直接的言動を好む男性的性質とは反対である。その点、日本の人たちは女性的と言える。

11/27/2007 12:28:26 AM


欧米は格上、一流だ、格付け主体だ

日本では、日本人の学者の上げた成果が、欧米メディアや学術誌に取り上げられると、大喜びして、その学者のことを持ち上げる。 この場合、欧米メディア、学術誌が、日本人の学術的成果の格付け機関として機能しているのである。欧米メディア、学術誌に取り上げられた論文が一流だという考え方が根強い。

このことは、日本国内には、新規の内容の学術論文とかを自前で評価する格付け能力、機能が無いか、あっても学閥とか学界内部の抗争、主導権争いとかの影響でほとんど機能していないことを示しているのではないか? 日本の学界内部には、自分たちの書いた論文について、世界に通用するような格付け方法、ノウハウが無いように思われる。自分たちには判断能力がないのだ。 もう一つの問題は、この国の人たちの、何事に付けて欧米に認められると一流だと考えたがる癖である。欧米が一流、格上で、自分たちはそれより一段下がると見なすため、欧米の理論をやたらとありがたがる。

日本人の学者には、欧米産の格上の理論は、同じ格上の欧米人が批判するのはよいが、自分と同じ格下レベルの他の日本人が批判したり、それらを超える理論を提唱するのは、格下の者が格上の者を批判する、乗り越える越権行為であり、けしからん、許せないと考えて潰そうとする人が多いのではないか。

この、妙な劣等感、格下意識が、日本人を自ら萎縮させ、欧米理論を批判し覆す新規理論の導出とか、独自の格付け尺度の開発とか、欧米の評価によらず、自分たちできちんと評価できるようにする試みから遠ざけているという感じである。

12/14/2007 02:27:30 AM


自分からは変われない

日本の人たちは、現状の日本社会の相互監視の網の息苦しさ、相互牽制の煩わしさの中で、現状に不満を抱き、現状が変わってくれないかと思っている。 しかし、それと同時に、現状の、一定の一体感や和合が保たれた社会の中で、自分からはそうした一体感や和を乱す形で行動を起こしたくない、変に目立ちたくないと思っており、受動的、退嬰的な雰囲気の中で生活している。つまり、この国の人は、閉塞した社会の現状には変わってほしいが、自分からは変えられない、変えようと行動を起こす契機に欠けているのだ。

そうしたところに、既存の秩序をそっちのけで社会を大きく変えようとする変革者が現れると、「この人なら自分の現状を変えてくれる」と思い、大いに歓迎して、その後を付いていこうとする。 例えば、「日本社会を改革する」というスローガンで立ち上がった、どちらかと言えば変人でマイナーだった小泉前首相が社会的に大きなブームを引き起こしたのがこれに当たる。社会をどう変えるかの目標はさておいて、社会が現状から変わってくれること自体に期待を寄せたのである。

この国の人たちの「社会や自分を変えたいけど自分からは変われない」思いを、ちょうどよいタイミングで代弁してくれたのが小泉前首相だった訳である。 自分からは動かず、誰か動いてくれる人の登場を待って、その人をだしに使って状況を変えてもらおうとするのがこの国の人たちの常套手段である。要するに、何事にも「待機的」なのである。

12/15/2007 08:12:00 PM


休み下手な日本人

日本の人は、休むのが下手だと言われるが、その理由は、

・社会の同調圧力が強すぎるためである。絶えず、周りに合わせて行動しなければならないため、常に周囲の動向にアンテナを注意深く張っていなければならず、気を抜いて休むことが許されない。マイペースで動くことが許されず、絶えず周囲と同調、協調し続ける必要がある。その根底には、周囲と絶えず同調することで、周囲との一体感を得たい、包含されていたいという母性を求める欲求がある。

・遊び、アイドル状態を罪悪視する「勤勉性」重視の風潮があるためである。充電のために休むことを怠けることと同等と見なし、企業とかで年次休暇をなるべく取らない皆勤型の社員が成果評価で高い評価を得るのがこれである。休む人は怠惰な人である、というマイナスの見方が一般的である。

・休暇を取って楽しむことを、「快楽主義」と見なしてネガティブに捉える風潮があるためである。一般の勤労者たちが、普段なるべく楽しまず、本来休むべき時にも残業とかをして苦労することそのこと自体が望ましいとする「労苦至上主義」というか、自ら苦しんで労働することそれ自体が快感になるように、少しでも仕事をしてたくさん稼いでくるように、社会の支配層(資産家~専業主婦)から仕向けられているためである。

・ゆとりを罪悪視する「詰め込み主義」の風潮があるためである。とにかく、何事にも空きを嫌い、なるべく高密度に詰め込むことをよしとするので、時間的にゆとりを持とうという気分になりにくい。時間的にきっちりと詰まったスケジュールを組んで、なるべく多くの観光スポットを見て回ろうとする。その結果、休めなくなる。

01/10/2008 10:55:22 PM


会社、官庁の新卒採用優先と「無色透明」「白色無垢」

日本の会社や官庁は、学生の新卒採用を好む。 採用に新卒の学生が好まれるのは、彼らが他のどの会社の色にも染まっていない「無色透明」ないし「白色無垢」の状態にあることと、深い関係がある。 閉鎖的、排他的な日本の会社には、それぞれ会社ごとの独特なカラーが形成されており、既に他の色に染まったよそ者の混入を避ける傾向がある。まだどの色にも染まっていない新卒のみが、会社にとって「純血」「純粋培養」可能であるとして好まれるのだと言える。

01/29/2008 04:51:20 PM


「スーパーお上」と「お上」-日本人の社会的格付け、偏差値付け意識-

日本社会における、団体や個人の格付け(偏差値の上下)、階層は、以下のリンクの図のようになっていると考えられる。

格付け・階層図

この図から、日本社会の階層構造、日本国民の社会格付け、偏差値付け意識を読み解くことができる。 天皇家 (宮家 )やその直属の支配機関である中央官庁や自治体等の公務員が上に来て、大企業等を筆頭とする民間を指導、支配している。

その天皇家や中央官庁のさらに上に、欧米が位置しており、ウェットな日本社会に対して、ドライな民主主義等の風を送り込んでいる。そのため、本来日本社会の支配者、「お上」である中央官庁とかが、欧米民主主義の観点からは「国民への奉仕者」と下位に捉えられ、支配構造上のダブルスタンダードを生み出している。 また、日本の知識人の、欧米産の進歩的な民主主義とかの思想を口で唱えながら、自分自身は伝統的な日本的ムラ社会の住人のままであり続けるというダブルスタンダードな生き方も、この格付け図から説明することができる。

現在は、アメリカが、日本に対して強い経済的、軍事的影響力を行使しており、ヨーロッパも文化的優位を保持しており、「お上」である日本の天皇家や中央官庁を超えた「スーパーお上」の地位にあるので、その間は、日本人は、格付けの上な「スーパーお上」の言うことを口で唱えることが、自らの保身や体裁を整えるのに都合がよいと考え、欧米的な考え方を進んで口にして、また表面上は、欧米的な民主主義、個人主義とかを身に着けようと一生懸命になるのである。

その点、一見日本社会は欧米一辺倒になっているようにも見えるのであるが、実際の日本社会は、戦前と変わらず、所属集団に強い一体感で同調、協調することを求めつつ、相互に監視の目を光らせ、外れた出る杭をいじめる伝統的な体質のままである。このことは、伝統的な「お上」である中央官庁とかが、見かけは「スーパーお上」である欧米に従いつつも、実際は、伝統日本的な考えを保持したまま、民間を支配していることを表している。 要は、日本社会の支配者である「お上」が、「スーパーお上(アメリカ+ヨーロッパ)」と「お上(日本の中央官庁)」との二重の重層構造、ダブルスタンダードになっているのが、現在の日本社会の特徴である。

地方の有力者 (名家 )や自営層 (医者等 )は、こうした「お上」の支配を受けつつも、ある程度の自立性を保っていると考えられる。学者やスポーツ選手とかも、ある程度格が上である。

また、従来、日本より格下と日本人がみなしていた中国、韓国が、経済的に発展して、格を上昇させている最中である。中国、韓国は、日本と同じ稲作を中心とした農耕民族であり、その点、日本と社会的に差がない。差がないということは、同格のライバルとなりうることを示している。

例えば、中国は、欧米と対立する共産主義を取ってきたため、欧米の文化を取り入れるのが遅れ、その点、欧米の文化を進んで取り入れてきた日本より格が下に甘んじてきたのであるが、現在はそういう足を引っ張る要素がなくなっているので、昔のように再び日本より格上になる可能性も十分ある。 韓国は、かなり以前から実質日本と同格のライバルとなっており、激しい競争を日本と繰り広げているのが実情である。

02/23/2008 11:23:05 AM


先進的な欧米に劣等感、従属感を抱き続ける日本人

なぜ、日本人は、欧米人の言うことを一方的にハイハイと聞いてしまうのか?なぜ、欧米人を超えられないのか? その理由は、欧米人に、いつも、たいてい自分より先んじられる、先を越される、先に進まれるからである。日本人は、自分たちは、相対的に遅れ、無能であることを思い知らされるため、恒常的に欧米人に対して劣等感を抱くようになる。

その結果、日本人は、欧米を優位者と見なし、欧米の言うことをハイハイ聞く、欧米にひたすら従おうとすることになる。 欧米に対して従順になることは、欧米のことを、自分たちが超えられない「先生」として扱い、ひたすらその後を追い、崇拝し、模倣する=デッドコピーする現象をもたらす。

一方では、そうした欧米を支配者と見なし、欧米文化を否定し、自分たちのしきたり、伝統に回帰する動きを取る場合もあるが、その結果、欧米に対してますます遅れることになる。 では、なぜ、欧米に対して恒常的に遅れる、後進的となるのか?その理由は、日本人がとかく安全、保身第一で、自分から前例のない冒険、探検を行うのを嫌うからである。その結果、進んで未知の新しい試みに失敗覚悟でどんどんチャレンジする欧米が、絶えず先行することになる。

この、欧米人と日本人の関係は、より広くは、男性と女性、ドライな人とウェットな人との関係で成り立つ。 すなわち、新しい試みによりよくチャレンジするドライな人、男性が、失敗や危険な目に会いながらも、結果としてより先進的な地位を確保することになり、それに対して、保身、安全第一でチャレンジを回避するウェットな人、女性がより後進的で遅れることになる。その結果、ウェットな人、女性は、ドライな人、男性に対して、劣等感を抱いたり、従属的になったりするものと考えられる。

03/09/2008 08:27:03 PM


集団本位の個人情報保護

現在の日本では、住所、氏名等の個人の情報がネットとかに流出するのを防ぐ法案が施行され、個人情報の保護が声高に叫ばれている。 しかし、実際のところ、日本におけるこうした法案は、個々人のプライバシーを守るために作られたものではないのである。 ではなぜ、作られたのかといえば、個人のプライバシーではなく、各個人が属する「集団」プライバシー保護のためである。この場合、「集団」とは、家庭、家族であったり、学校、会社、役所であったり、地域村落であったりする。

日本の伝統的な組織や集団においては、集団の成員は、互いに強い心理的一体感と絆で結ばれることを望ましいとしている。そこでは、集団の成員である各個人は、集団の他のメンバーに対して、なるべく隠し立てをせず、腹の内、本当の気持ちや情報 (本音 )を互いに開示し合うのを理想とする。 このことは、集団内部において、各個人のプライバシーに関する情報や意見、判断が、何の隠し立てもなく、おおっぴらに流通することを意味する。言い換えれば、集団内では、各個人のプライバシーはもともと存在しないのも同然なのである。

ここで、集団内のある個人が、外部の他集団の内通者であったり、そうでなくても、本来集団の誰から誰までに集団内を流れる情報を開示して良いかの判断をうっかり誤ったりすると、たちどころに、集団内を駆けめぐっていた、機密度 No.1の情報や意見が、外部にどっと漏れてしまうことになる。つまり、集団の機密は、個人を通して漏れるのである。

これを防ぐため、各個人の動きを厳しく制限して、集団の内部情報 (それは取りも直さず集団内を流通する個人情報の集積体である )を外部に漏らさないように締め付けるのが、今回の個人情報保護法案の隠れた本当のねらいである。

これは、欧米流ドライな個人主義の社会での個人本位の個人情報保護に対比させて、ウェットな集団本位の個人情報保護と呼べる。

03/31/2008 01:11:12 PM


内部告発と係累

現在の日本の会社、官庁のような組織では、内部成員の不正を外部に対して、内部告発するのには、大分の勇気が必要である。それはなぜか? 出てくるのが係累の問題である。すなわち、ある人が、組織の中の別のある一人~何人かを、許せない不正を行っているとして、外部に向けて告発したとする。すると、告発の対象は、告発対象の本人だけでなく、その管理責任を追っている上司や横の関係者、そのまた上司、あるいは横の関係者、・・・・・ひいては組織のトップ、といったように、芋づる式に自動的に際限なく周囲に伝染してしまうという問題である。

一人の人物を告発したつもりが、話がとてつもなく大きくなり、そうなることで、告発をしたことに対する責任 (もしも告発の内容が不当と外部に判断された場合の報復措置 )もとても重くなってしまうのである。要は、組織の中の人脈が、糸を引くとろろ芋や納豆のように、連続したコネ、縁故の形で、成員の間に張られているため、その中の一人に対する告発が、直ちに、その一人に縁故、人脈の連なる周囲の関係者に、見る見るうちに伝染し、対象が広がって、話が大きくなってしまうのである。これだと、よほど心臓が強くないと、内部告発はでぎない。日本における内部告発において、匿名性が必須となるゆえんである。

しかし、誰が告発したかは、その告発内容から、その情報を知り得る人物はこいつしかいないとして特定されやすく、その場合、陰湿な報復が事後に告発者を待っていたりして、結局、内部告発者は、集団から浮いた存在となり、その集団にいることができなくなってしまう。また、内部告発は、集団内部の秘密情報を外部に漏らすことにつながり、その秘密情報には、えてして集団成員の生の重大情報が含まれていることから、内部告発をした人が集団の意思に背いた密告者として制裁を受けることにつながる。

こういうことを考えると、日本社会において、内部告発を行うには、自分の所属する集団から跳ねられる覚悟が必要ということになるが、液体分子のように互いに近づき一体化して、集団に所属することを本質的に好むウェットな日本の人々にとって、所属集団からそうして村八分にされることは死刑宣告に等しい重大さを持つものとなるのである。

03/31/2008 01:57:47 PM


日本における「最先端」とミクロな発明

日本人は、物事を考え発展させていく上での基盤、基本になる発見、発明こそ、欧米に持っていかれることが多いが、欧米がなし遂げた基本的な発見、発明のいいとこ取りをして、広く採集してきた外部の最新の成果を元に、それにさらに細かく磨き上げ洗練や研ぎ澄ましを加え、ミクロな加工を施すことで、欧米人が成し得なかったぎりぎりの最先端に到達することができている。 欧米が大局的、基本的であるが往々にして粗削りで素朴なマクロな発明、発見に優れるのに対して、日本とか (中国とか )は、そうしたマクロな発明、発見を元に、繊細な知恵と手先を働かせて、最先端の切れ味鋭く無傷に完璧に磨き上げるミクロな発明、発見に優れると言えるのではないか。

03/31/2008 02:33:41 PM


なぜ、日本で公務員が優遇されるか?人気があるのか?

今の日本では、民間に比べて待遇の恵まれた公務員になりたがる人が多い。 なぜ、公務員が恵まれているかと言えば、言ってしまえば身も蓋もないが、「親方日の丸」だからだろう。言い換えれば、日本で一番長続きして安定し、アメリカを除けば一番高い精神的地位についている「宮家 (天皇家 )」がバックにいる組織だからだ。

アメリカ主導で行われてきた戦後日本の教育では、公務員は、国民に対する奉仕者であるという位置づけがなされ、その点、国民は公務員に対して威張れるのだ、公務員は下だという意識が表向きは根付いている。 ところが、よくよく社会の動きを、例えば民間業者に対する公務員による行政指導の実態とか、民間企業への「天下り」の実態とか見ると、実は、公務員は、戦前から引き続き「お上」「お役人様」「天皇陛下の直属の臣下」であるという強固な姿が浮かび上がる。

国民に対する奉仕者としての公務員というのは、アメリカが日本政府に対して一段上の影響力を持ち続けている間の仮の見せ掛けの姿であるというのが、本当の所なのではあるまいか。アメリカが退潮すれば、にわか作りのメッキははがれ、元の「お上」の姿が再び出てくるというわけだ。 そういう風に、超安定の恵まれた待遇、民間を支配する高い権威と権力、支配的身分といった公務員の性質が、元々時々の権威に長いものに巻かれろ的に従ってきた一般国民には、誰でも受けられる公務員試験に通れば、見かけはペコペコ国民に頭を下げている感じだが、実態は日本社会、国民を支配する立場の特権的な身分になれるんだという気持ちが芽生え、公務員の座を目指して高倍率の競争をするようになっているというのが実態だろう。

むろん、 1990年代前半までのいわゆるバブル時代には、公務員は給与が安いからねというので、あまり人気が無かったのも事実だが、それだけ、国民の間に自分たちは経済的に十分豊かだし、今後もこの状態が続くだろう、だからそんなにセコい考えで安定的な地位は求めなくていいや、どんどん浪費しようという経済的な余裕というか、楽観的な雰囲気があったのが原因だろう。 それが、バブル崩壊及び周回遅れで経済発展のレースを走り始めた中国とかの台頭、追い上げにより、日本社会が経済的に余裕を失い、十分な雇用とかを保持しえなくなって、改めて、公務員の安定性と民間に比べて無競争で恵まれた待遇に国民の目が向くようになり、「いいなあ、公務員」というようになっているが現在の状況であろう。

むろん、公務員は、民間会社の人間のように、自分で自分の食い扶持を稼ぐ、利益を上げることを、何にも考えなくてよい。民間が上げた利益を税金として一方的に召し上げる形で吸い上げ、その税金を自分たちの好きなように、給与に変形させた後に各自消費することができるのである。公務員は、年金生活者ならぬ税金生活者である。利益を上げるために骨身を削る思いを何らしなくて良い、「稼ぐ」ことは考えず「使う」ことだけ考えていれば良い気楽な職業であるのは確かである。 そのため、公務員は、民間に比べて、金銭感覚がどうしても甘くなって、公務員の行う事業は、効率化とかが遅れたり、無駄な出費が多かったりして、日本経済の足を引っ張っていることが多い。国民もそのことに気づきながらも、「お上」のすることだからしょうがないとあきらめムードが漂っているように見える。

というか、国民自身、自分たちも、自分の子どもはぜひ公務員にして、親子共々おいしい思いをしようという魂胆が見え見えだ。妬み半分で公務員の引き起こす不祥事とかを断罪する人々の心の裏に潜む「本当は自分も公務員がいい」という隠れ公務員願望の存在に、「悪代官征伐するぞー」みたいに表面的にはいい恰好をして公務員を断罪している本人がもう少し自覚して自らの本心に目を向けるべきであろう。

03/31/2008 05:39:38 PM


日本人と限定版

日本人は、商品の購入とかで「これは限定版です」という宣伝文句に弱い、というのが言われているが、その背景の深層には、物事を何かと限定したり制限することが日本人の心の中でプラスの価値を持っていることが上げられるのではあるまいか。 日本人は、物事が制限、限定されるのを望ましく思い、フリーなのを嫌い、自分でも外部から束縛を受けると表面上は反発しながらも、それも肯定的に受け入れていく心理的な素地が強く存在するように思われる。その基盤には、互いに束縛し合いながら、強い一体感を持って、所属集団に付いていくのを心理的に望んでいるという側面がある。

04/08/2008 03:09:12 PM


欧米礼賛に気を付けろ

日本では、欧米のことを先進的であるとして盛んに持ち上げ、自分もそうした欧米文化を信奉し、欧米の動向に極めて敏感で精通し、欧米のような高い人権、自由に対する意識を持っているかのように振る舞う人が、特に知識人、文化人とかに多いが、気をつけた方がいいと考えられる。

というのも、そうした人たちは、往々にして、鼻持ちならない権威主義や、見栄、虚勢の持ち主であり、人々をランク付けしては、その中で自分が上流に位置していることを確かめたいスノビズムの持ち主であることが多いからだ。 欧米を持ち上げるのも、欧米文化が体現する、バラバラな人間同士の自由で直接的な衝突、対立や、攻勢的な個性の自己主張といった価値観に同意しているからではない。欧米が力や勢いがあり、そうした欧米が持つ権威や権力に自分もあやかって、自分をよりよく先進的に見せたい、演出したい、「良い恰好をして、皆の注目を集めたい」という心理というか高いプライドが根底にある。

その点、化粧服飾や流行を追うのに熱心な、自己中心的な若い女性と余り心理的に変わらない。

むしろ、学閥や会社といった伝統的な組織や集団に所属して、その中で無難で主流の立場になって、威張っていい思いをしたいという気持ちが人一倍強い。欧米への追従、崇拝は、自分の所属する組織や集団の中で、自分を格好よく見せる手段、張りぼてに過ぎない。

また、彼らは、欧米の権威や威力を借りて、自分の立場を強化しようとしている点、保身第一であると言える。欧米の著名な誰々がこう言ったから、自分も皆もそれに従うべきだ、それに反論しようとする人間は身の程知らずであり、反論するならまずは欧米の論客の議論を全て頭に入れないといけない、といった感じで、自分の意見がなく、欧米の論客頼り、引用オンリーで受け身なのもその特徴である。 彼らのそうした態度は、既成の権威に対して反逆し、各自が自分独自の意見を持って自由に動き、周囲にアピール、攻勢をかけようとする、欧米のよくも悪くもドライな牧畜民系の文化 (モンゴルとかも共通する )とは、本来相容れないものなのであるが、その限界に気付かずに、嬉々として欧米礼賛をするところが、見ていて痛々しいところである。

04/08/2008 03:21:27 PM


本人と中国人 その2

-社会規模の違いがもたらす国民性の違いについて- 中国人と日本人は、同じ農耕民であり、同じ女性、母性主導の社会の一員であるという共通点があるが、その他の点ではだいぶ異なっている。

以前の文章では、両国間の家族制度の違いから来る国民性の違いについて触れたが、それとは別に社会の規模から来る国民性の違いも存在すると考えられる。 中国人は、強い中華思想の持ち主であり、自分が皆の中心、世界の中心にいて当然だと思っている。自分たちの存在が大きいため、自然と皆の注目を集めるからである。その点、自信が過剰な自己中心女の雰囲気が強い。

一方、日本人は、存在が相対的に小さいため、自分から精を出さないと、注目してもらえない運命にある。そこで、周囲の皆に注目して振り向いてもらえるために、かわいい女と見られるために、周囲に対して必死に媚びを売る側面がある。また、自分に自信がなく、周囲の自分への噂、評判をしきりと気にして、絶えず八方美人的な態度を取る、いい娘ぶる側面がある。

ただ、日本人に中華思想の気がないかと言えば、そうとも言えない。京都の人みたいに、自分を日本社会の中心と考えて国内に向かって「お上」ぶる日本人はかなりいるようである。その点、仮に日本が中国並みに大きな国家であれば、中華思想にはまったと考えられる。

中国は、大きな国家、大国であり、外圧に屈する必要がない。かっては、科学技術のレベルで大きく遅れたため、欧米列強や日本の支配下に入ったが、最近は再び政治的、経済的、軍事的に大きな存在となって、周辺国を威圧するようになってきている。

中国人は、自分が世界の中心であると考えがちなため、とかく周囲に対して態度が大きく厚かましくなりやすい。同じ女性でも、日本と比べると、より尊大で、ふてぶてしい、どっしり堂々と構えた「グレートマザー(太母)」、ないし図太いおばさんの化け物=「オバタリアン」的なものとなる。これは、例えば中国政府の報道官(男性も女性も)の威圧的な態度を見ると分かりやすい。

これに比べると、日本は相対的に小さな国家、小国であり、とかく外圧に弱く、アメリカとかの要求に容易に屈してしまう。また、国際社会の中での自分たちがどう見られているかを盛んに気にする癖があり、いい格好、いい顔をしようとして、各国に対して盛んに媚びを振りまく面がある。

「大和撫子」社会の日本人は、国際社会の中で、周囲から浮いたり、嫌われるのが怖くて、やたらと気を遣ったり、はっきり物が言えなかったり、とかく謙遜、遠慮しがちである。その点、「八方美人」的である。また、その時々の大国、強国、権威の後を追ってあっちにふらふら、こっちにふらふらとして、依存的で頼りない、か弱いことおびただしい。

その点、日本人は、行動が、国際社会を仲良しグループに見立てて、その中でのけ者にされまいと必死で周囲に対して媚びを売り親密さをアピールする女子高生~女子大生みたいな「可憐な乙女、かわいい娘さん」として立ち現れる。 では、韓国、朝鮮はどうかと言えば、日本、中国と同じ農耕民の母性主導の社会であることは同様であるが、隣の大国である中国と距離があまりにも近すぎて、呑み込まれかかっている感じが絶えずつきまとう。大国中国に絶えずぺこぺこして媚びへつらうとともに、自分と同格の日本を何かとライバル視して、その足を引っ張るのに忙しい感じである。そして、大国中国(大姑)の威を借りる形で、日本に対して、自国の相対的優位性(東方礼儀の国だとか)をさかんに主張する「小姑」みたいな面がある。

04/13/2008 07:53:23 AM


日本社会は女社会、女性解放の最先端を行く社会だ

日本社会は、表面的には男が威張っているが、実際は女性の影響力が強大な女社会である。お母さんの力が社会の中で一番強い、母性社会である。その点、日本社会は、実際は世界の中で女性解放の最先端を走る社会であるとも言える。日本社会を女性化している原動力が母親であり、日本社会は、男性が、母親の強い影響下で、女性化している社会とも言える。 また、女社会日本の伝統的な女性は、本来、父性の影響の混じらない、純粋に女性、母性のみの影響で生成された「純粋女性」「ネイティブな女性」 (native woman)であると言える。日本社会にもともと父性は希薄であり、それは欧米社会が外来文化の形で専ら供給している。

従来あげられてきた日本社会の特徴(集団主義、恥の文化、和合や気配りの重視・・・)と、女社会の特徴とが極めて似ていることが指摘できる。詳細は、筆者の、女社会と男社会、「女らしい」日本人に関する著作を参照されたい。

また、妻が家庭の財政管理の権限を独占し、夫の尻を叩いて会社に行かせて給料をさんざん稼がせた上、その給料を全額取り上げて、いったん自分の手元に納めた上で、少額を小遣いとして夫に渡す、「鵜飼い」のような風習が、日本女性の強さを表している。会社で威張っている、いわゆる「男社会」の立役者のはずの男性も、その実態は、妻や母に尻を叩かれて働かされている「下男」と大して変わりない。いわゆる「ワンコイン亭主」が社会のデフォルトとなっている。

詳細は、鵜飼い型社会に関する筆者の著作を参照されたい。

また、母親が、子供の教育権限を独占し、子供と緊密な一体感を構築して、子供を自分の意のままに動く「ロボット」「駒」として、受験戦争に邁進させ、子供が就職したら今度は社内での昇進競争へとハッパをかける、一生涯子供を支配し、まとわりつく存在となっており、一方で父親の影が薄くて父性がはっきりしない状態になっている「母性社会」というのも日本ならではの現象である。男性中心の会社で出世競争に邁進する男性たちの背後で精神的にがっちり手綱を握っているのが、母親という女性なのだ。

詳細は、母性的経営に関する筆者の著作を参照されたい。

そろそろ、欧米フェミニズムの後追いばかりしている日本の女性学者たちも、自分たちの社会の実像を見つめ、日本社会で本当に強い、一番強いのは母親に代表される女性であることを認識し、女性解放と言う点では、実は日本社会は伝統的に、大変進んだ、世界の最先端を行く社会なのだということを、世界に向かって主張すべきだろう。

04/26/2008 12:57:23 AM


小中高教育で日本的ムラ社会を教えるべきだ

現在の小学校から中学~高校の現代社会や政治経済とかの教科書、参考書を見てみると、戦後から現代に至るまで、日本社会が、欧米の社会制度や科学技術を取り入れて、急速に経済発展し、欧米先進国の仲間入りを果たし、現在もその一員として世界をリードしているのだ、みたいに書かれている。

これを見ると、あたかも日本の社会風土がすっかり欧米化し、伝統的ムラ社会は影を潜めたかのように傍目からは見える。

しかし、実際のところ、日本の小中高~大学の学校は、学齢毎に先輩後輩の上下関係の厳しい年功序列の社会であり、お揃いの制服着用や生徒の団体行動を一番に重んじる画一性重視の集団主義社会であり、重箱の隅をつつくような厳しい校則でがんじがらめにされた管理社会であり、・・・といった感じで、伝統的なムラ社会の雰囲気を強く持っている。

これは学校が教えている欧米流の教育内容と矛盾しているのであるが、その矛盾を指摘する人が教師を含めいないので、生徒は、自分たちがすっかり欧米先進国の一員なんだ、欧米的考えを体得したのだと考えてしまい、自分たちが無意識に従っている日本的ムラ社会の実像に気づくことができないでいる。

そうした生徒、学生たちが、学校を出て、会社や官庁に就職して働くと、そこは、欧米流の個人主義やオープンな自由競争の世界とは遠くかけ離れた、「ウチの会社」といった外に向かって閉じた感覚、家族的な相互一体感や協調性重視、年功序列といった、伝統的ムラ社会のただ中に放り出されることになる。そこで、学校で教えられてきた「欧米的日本」とのギャップを死ぬほど味わう羽目になるのだ。

個人的には、自分たちの所属する日本的ムラ社会の特徴、実態を、生徒たちが学校にいる間気づけない、把握できないのはまずいのではないかと思う。何らかの時間を割いて、日本的ムラ社会の実像、特徴をその長所、短所を含めて生徒に教えるべきだし、社会の教科書にも書くべきだし、入学試験にも出すべきだ。

さらに、日本的ムラ社会が、稲作農耕に主に従事する他の世界の社会(中国、韓国、東南アジア)と共通点を持っていることで、日本は東アジアの一員であるという位置づけをちゃんと教えるべきだ。 また、日本的ムラ社会が、表面的には男が威張っているが、実際はお母さんの力が社会の中で一番強い、母性社会、女社会であることも教えるべきだと思う。日本的ムラ社会を、女性解放の最先端として捉える視点を生徒たちに与えるべきだ。

04/27/2008 12:11:58 AM


パクリ、コピー文化とオリジナル、ユニーク文化

日本とか、中国、韓国とかは、他人の作った製品をどんどん真似して、コピーして、そこに少し改良を加え、自分なりの変化を付けて、製品の完成度をどんどん上げるのが得意である。

日本のような母性、女性の力が強い液体タイプの社会では、互いの間の一体感の確保、維持が何よりも重要となる。周囲との一体化、協調が重視されるのである。 そのように互いに相手と同一化し、みんな一緒で一体化し、くっつくには、相手と同じになること、相手の真似をして、コピーする、パクることが必須である。相互の一体感、包含感を重視する母性、女性が好きな考え方である。母性、女性文化、液体タイプの文化の本質は、パクリ文化、コピー文化と見つけたり、というところである。

もっとも、相手と全く同じだと没個性で、埋没して目立たないのは嫌なので、大本はコピーで、そこに自分なりの味付けを少しだけ表面に付けることで、自分は他人と違うというオリジナリティを持った気になっている。周囲と同じミニスカートをはいて、色だけをちょっと変えるとかである。その点、「プチ・オリジナリティ」「プチ独自性」の主張や、「プチ独創」が好きであると言える。

日本のような母性社会では、著作物や発明はみんなのもの、皆の共有物であり、パクリは決して悪いことではない。というか、パクリ、他人の物まねは相互の一体感維持のためにどうしても必要なのである。重視されるのは自他同一、自他世界の共有であり、日本文化は「同一・共有指向」と言える。

これに対して、父性の力の強い気体タイプの欧米社会では、互いに他人の真似をするのを好まない考え方が根強い。最初にアイデアを考えついた人を優先すると共に、自分は他人の世界を真似せずに独自の世界を自分で切り開くんだという考えがある。これは、「オリジナル、ユニーク指向」と呼べる。

これは、他人と自分は違うんだ、別々だということが前提の考え方である。他人と自分を切り離し、自由とプライバシーを得る反面、何でも自己責任になり、失敗しても他人のせいに転嫁できない、厳しい世界である。自他の絆を切断する父性文化の申し子である。

欧米のような父性社会、気体タイプの社会では、著作物や発明は著作者、発明者個人のもの、個人のユニークなものであると捉えられる。重視されるのは、自他の区別、差別化、自分独自のオリジナルな世界の構築であり、「相違、個人帰属指向」と言える。 オリジナルを指向するとは、他人と違うことをやるということであり、周囲との一体感がなくなるので、周囲との相互一体感を重視する日本のような母性社会においては由々しき問題である。それ故、日本社会では、欧米社会との協調を図るため、口先では、独創性の重視を唱えつつも、独自性にこだわって周囲と協調しない輩を「出る杭を打って」排斥するのが常である。

06/21/2008 03:57:06 PM


日本で個人の自由、プライバシーを守るには

日本のような液体タイプのムラ社会で個人の自由、プライバシーを守るにはどうしたらよいか? それは、できるだけ人付き合いをしないことである。自分の周囲に一定の他人の入ってこれない空き領域を確保することである。

いったん、うっかり周囲と付き合うと、周囲のベタベタした、母の羊水のような液体の中に呑み込まれてしまい、脱出できなくなってしまう。物見高い、噂、陰口と監視、告げ口の対象となり、プライバシーは二度と帰ってこない。絶えず他人に見られているという感覚が生まれ、人目を気にして、恥ずかしいという、恥の感覚にさいなまれ続けることになる。これは避けるべきである。

でも、何らかの人付き合いをしないと、生きていく上で必要な情報が入ってこない。それをどうするか? それは、匿名の生活ネットに参加することで解決する。互いの煩わしい相互監視を避けながら、緩やかに連帯して、互いに情報提供をして助け合うことが必要である。この点、「まち BBS」のような匿名地域生活 BBSが威力を発揮することになる。

06/21/2008 03:58:00 PM


日本人を見たら女だと思え

外国の人には、日本人を見たら女だと思え、とアドバイスするのがよい。日本人は、一見、男でも、中身の行動様式は、母親に支配されて、すっかり女性化しているのである。 男尊女卑で男性が威張っているのと、フェミニストによる「日本は男社会」という宣伝によって、日本はすっかり男中心の人々というイメージになっているが、これは間違いである。 液体的で、集団、団体行動を好み、相互一体感の維持、協調性にうるさくて、相互監視の行き届いた、陰口をたたき合う、足の引っ張り合いが大好きな、といった日本的ムラ社会の特徴は、全て女性の特徴と重なっているからである。日本的ムラ社会は女社会である。 逆に、気体的な個人主義、自由主義の欧米人は、たとえ女性であっても、男として扱うべきだ。彼らは、父親の支配下にあり、男性化しているからである。

06/21/2008 03:58:57 PM


日本社会の基盤としての「母」

日本の女性たちは、「母」となって、自分たちが社会の基盤、下部構造を支配しつつ、表面的には男性たちを上部に立てて、「男性上位」と外部に対して見せかけている。 社会において男性が上部に浮き上がって表面的に活躍する一方、女性が下部を押さえて、どっしりと社会の根幹、基盤を支配しているのが、日本社会の現状である。 日本の男性たちは、母の手のひらの上で踊っているだけである。 「見かけ、表層は男社会、実質女社会」が、日本社会の実態と言える。

06/21/2008 03:59:55 PM


「相互チェック社会」日本における匿名掲示板の効用

2ちゃんねるとかの匿名掲示板においては、匿名同士の緩やかで自由なつながり、連帯が得られる。同じ興味、関心を持つ者同士、同じスレッドの「住民」となって、知らない同士が助け合うことができる。 これは、日本的ムラ社会、あるいはソーシャルネットワーキングサービスの mixiと言った、相互の一体感、相互に相手の注意を引き、相手に気に入られることを求める余り、互いに相手が自分の日記とかにコメントしてくれたかどうかを、うるさく気にしてチェックする「相互チェック社会」に陥って、精神的自由が失われることへのアンチテーゼとして作用しているのである。

むろん、匿名掲示板では、荒らし、煽りが絶えず発生し、アンチ同士で叩き合いを果てしなく続けることで精神的に凹むことも起こりやすいのであるが、それでも、とかく日本人を牛耳りやすい周囲の意向や物見高い監視の目を気にせずに、自分の言いたいこと、本音を言える、ぶつける言論の自由が確保されていることは、根本的なところで精神的な自由を、日本人にもたらしており、精神的な健康につながっていると言える。

06/21/2008 04:00:45 PM


皆の前で・・・

液体的な母性社会の住人である日本の人たちは、閉鎖的、排他的なムラや内輪の中で、周囲の人々と互いに一体化して、相互に引力で引き合うようにして生きている。 そのため、何かにつけて、周囲の目や意向を気にする、周囲の空気を読むことに必死になることになる。日本社会は、周囲に対する感度が強いことが求められる「センサ社会」であると言える。 日本社会は、周囲に見張られている「相互監視社会」であり、他人に見られて恥ずかしいという感覚が強い「恥の文化」である。「見られている」という感覚が強い、他人の視線を絶えず気にする、また他人のすることに関心が高く、他人に視線をよく向ける「視線社会」である。

日本人は人前でのプライドが高く、見栄っ張り、いい格好をしがちで、人前で自分にケチや傷が付くのを嫌う傾向がある。 何をするにも、「人前で」「皆の前で」うまく立ち回って、恥をかかないようにしよう、面子を保とうと必死になる。 何をするにも、周囲の視線が気になり、「皆の前で」という前置詞みたいのが必ずついて回るのである。 すなわち、 皆の視線が怖い。皆にどう思われるかが心配である。自分に悪い噂が立つ、陰口されるのが怖い。 皆の前で間違う、失敗するのが怖い。恥をかくのが怖い。間違っても目立たない、周囲にばれないのがよい。マイナス面で皆に注目されたくない。

自分だけが知らないのが怖い。周囲が知っていて自分が知らないことがばれるのが怖い。知ったかぶりをしたい。パソコンとか、初めて触って、操作しても、そのことがばれずにすぐに知ったかぶりができるのがよい。 皆の前で難しいことができているように見せたい。あんなことできるなんて凄いねと褒められたい。皆の前でいい格好をしたい。威張りたい。自慢したい。進んでいると思われたい。プラス面で注目されたい、目立ちたい。

06/21/2008 04:01:39 PM


崩れない年功序列

よく、成果主義の進展で、日本的年功序列は崩壊したと言う論調をよく目にするが、それは誤りではないだろうか。 その証拠が、 40歳以上の中高年の就職・転職先がぐっと少なくなることである。なぜ少なくなるかと言えば、日本の企業において、 40歳以上は、管理職となることが前提とされ、その管理職の口は、外部から募集しなくても、内部で充当されてしまうからである。 逆に言えば、 40歳以上は、平社員として雇うことが難しいということである。会社で 40歳以上で昇進して役職に就けなかった平社員は、リストラの対象となるということでもある。

これは、すなわち、管理職が年功が下で、平社員が上だと、若い管理職が年長の平社員に対して命令しにくいので、それを忌避するため、年長の平社員は採用しない、会社から消そうとする心理が働いていると言える。 逆に言えば、年下の人間が、年長の人間に命令することが、異常で、許容できないこととして捉えられていると言える。後輩が先輩に命令することが困難だと言うことである。そのため、年下の管理職には、自分が命令する対象であるにも関わらず、年長と言うだけで自分に対して大きな面をする先輩を疎ましく思い、追い出して、自分の命令しやすい後輩だけで固めようという心理が働く。あるいは、年上の平社員にとっても、自分より年功の下の人間に上から目線で指図されるのは耐えられない、屈辱だとする心理が存在し、自ら会社を去ろうとする。これが中高年リストラの真の姿である。

この、後輩が先輩に対して、上から目線で指図、命令することが後輩にとっても、先輩にとっても、心理的にためらわれることこそが、年功序列の本質であり、年功序列は消えてなくなるどころか、小中高の学校における先輩後輩制の絶えざる再生産によって、強固に維持され続けていると言ってよい。

06/21/2008 07:16:37 PM


続く終身雇用

グローバリゼーションの進展で、日本的終身雇用は崩壊したと言われるが、果たしてそうであろうか? 日本の官庁とかのトップの人たちを見ると、いわゆる最初に入った組織で生え抜きで、ずっと上まで最後まで昇進し、雇用され続けて、上がりを迎えた人たちが多数を占めていることに気づくだろう。

この、生え抜きでてっぺん、最後まで行くことを良しとする考え方、「生え抜き信仰」「生え抜き第一主義」こそが終身雇用の本質である。 確かに、大会社や官庁でも途中でリストラされて(含む天下り)雇用を失う中高年とかが多いのも事実であろう。しかし、その中でも組織の中核を担う人たちは、昇進するにつれ就けるポストが減るのに伴いその数を減らしながらも、今も昔と変わらず生え抜き、純粋培養で、すなわちいったん就職したら、リストラされるまで最初の会社や官庁のままで、終身雇用で組織トップへと上り詰めているのである。

若年層とかは、最初に入った会社が過酷だったり、給与が少ない、自分と合わないということで 2 3年で辞める事例がある程度多いのは事実だが、彼らが転職すると、第二新卒という呼び方をされる。これは、少しだけ歳を食った新入社員扱いで、再び生え抜きの中に含められることを意味している。

また 30歳代とかのある程度専門能力を身につけた人たちとかが途中で中高年で正社員扱いで転職する事例も増えているが、どちらかと言えば、転職先の会社で人員に不足ができたのを補う補充要員扱いであり、イレギュラーな少数事例と見なされている場合が多いのではないか。

終身雇用でない派遣社員、契約社員が増大しているので、終身雇用は崩れたとする見方もあるようだが、よくよく注意してみると、彼らが「非正規」雇用されているという言い方をされているのに気づくであろう。では逆に「正規」の雇用をされていると見なされる官公庁や大企業の雇用形態を視ると、「正社員に限っては」、リストラされるまでずっと一カ所に勤務し続ける雇用が当たり前になっているのではないだろうか?

日本の(外資系でない)大企業や官公庁の過半数で、勤務者の大多数が中高年も含めて転職者で、かつトップも非生え抜きの転職者出身とかいう状態になれば、日本の終身雇用は崩壊したと言えるのかも知れないが、現状は果たしてそうなっているであろうか?なっていないのではないだろうか? 勤め先の会社を変えずに最後まで長く勤め上げるほどその人が得をするというのが、終身雇用の本質であり、現に勤め先を最初から変えずに定年まで勤め上げる人が給与や役職とかの面で一番優遇される実態が変わっていないとするなら、例え事情によって途中で止むなく会社を辞める、変える人がいくら増えたとしても、日本社会が終身雇用指向であり続けていることに変わりはないのではなかろうか?

「遅れた」日本的風習をかなぐり捨てて、先進的な欧米のふりをしたい気持ちは分かるが、実態を偽るのはどういうものか?あと、欧米でも、フランスのように終身雇用の国が存在するようなのだが、その真似はしなくていいのだろうか?

06/21/2008 08:26:49 PM


所属、雇用の正規、非正規の内外二分法から、社会組織への多段階所属へ

現在の日本社会においては、企業、官庁でも学校でも、内外二分法に固執している。

すなわち、人の、企業、官庁、学校等への所属度合いを「(その村社会、組織の)内側に入れた、ウチの人、正社員、正規の職員、学生」と、「(その村社会、組織の)内側に入ることが出来ず、外側に留まっている、ヨソ者、非正規社員、職員、学生」の2つの段階のみに分けて、その中間が無い。

これを、従来の2段階ではなく、例えば5段階とかにして、「100%所属者」「80%所属者」「60%所属者」「40%所属者」「20%所属者」とかする(今の日本では、「100%所属者」か「0%所属者=非正規所属者」かどちらかしかない)。5段階で面倒であれば、3段階(非正規、準正規、正規)とかでも良いかも。

今の日本では、正規と非正規の間のギャップが大きいため、例えば育児で退職する女性とかに見られるように、正規社員から、いったん非正規に落ちると、なかなか正規に戻れず、賃金とか大幅に低くなり、身分の保証もなく、そのままでは生活苦、経済苦になる。あるいは、学生が、会社の新卒採用に漏れると、既卒扱いで、正社員登用への道を閉ざされて、下手をすると一生ずっと非正規雇用になって、社会的に低い地位のままになったりしてしまう。これが、男女共に経済的に子供を作り辛かったり等、日本社会を生きにくくさせている大きな要因であると筆者は考える。

これが、5段階とかの多段階にすれば、最初は20%所属辺りから始めて(従来みたいにいきなり100%所属を許容しても良いけど、なるべくそうでない方を主流にするように変える)、必要に応じて所属度を上げたり下げたりして、自分の好きな所属度で働くことが出来るようになる。要するに、正規と非正規の間の中間段階をいくつか作って、より運用をフレキシブルにするわけである。身分は、所属のパーセンテージが上がるに従って、より保証されやすくなるようにするが、20%所属でも、ある程度は保証されるようにする。要は、最初の所属へのステップのハードルを下げて(100%所属→20、40%所属)、所属しやすくする、採用されやすくするのである。

これに伴って必要なのが、例えば、

・新卒一括採用(既卒不採用)の廃止(内外二分法の元凶なので)、既卒採用の制度化

・正社員入社式の廃止(これも内外二分法の元凶なので)

・入社試験の見直し(入りたい人の希望所属パーセンテージを聞きながら採用する)

・年功序列との非連動化(50歳でも40%所属の人(=残りの60%はフリーランス)もいれば、20歳でも80%所属の人がいても良い)

・管理職任用との、ある程度の非連動化(100%所属でないと管理職になれないのは止める。実力があれば40~80%所属とかでもOKにする。)

・所属度、所属レベルの度合い上下の自由化(最初の40%所属から60%所属に変わったあと、育児のため20%所属になって、その後、育児が一段落して60%から80、100%所属になり、また介護とかで40%所属になる、とかフレキシブルに変われるようにする。あるいは、会社を退職して0%所属になって、その後、再度就職する時も、いきなり100%所属を目指すより20%からの方が、必要な上がりのステップが小さくて済み、労使双方にとって、制度のユーザビリティが高まる。)

・成果主義との兼ね合い(所属パーセンテージなりに組織に貢献できれば、何%所属でも評価は同等とする。20%所属の人の評価が、100%所属の人より高くなることもある。)

・就業時間との兼ね合い(所属パーセンテージと比例させる。)

・給与との兼ね合い(所属パーセンテージに成果評価を掛け合わせる。)

とかの措置である。

オランダとかでは、パートタイマーが、フルタイム勤務と同等の待遇を受けているようだが、組織への所属を重視する日本とかだと、そのままではなじまない(ヨソ者のパートタイマーをいきなり正社員と同一待遇なんて受け付けない!ムキーッ!な人が多い)ので、それを、上で述べたように改変する訳である。

(c)2014.10初出




同期横並び処遇と妬み

以前説明した崩れない年功序列と関連することであるが、日本の会社や官庁において、同期入社の人たちの間で、一方が上司となり、一方が部下となって、同期が同期に上から目線で命令したり、されたりすることが、命令する側にとっても、される側にとってもためらわれるという事態も起きていると考えられる。一緒に入った同期の間は、同一の処遇がなされるべきで、上下の差を設けるべきではないという考えが根底にある。

この同期の間で処遇の上下を設けるべきでないという考え方、同期は一緒に同じタイミングで昇っていくべきだとする同期同時昇進、同一処遇の考え方が、年功序列と表裏一体になって、現在も強固に存在している。これは小中高の学校教育で、飛び級とかが許されず、同じ学年の生徒同士が、同じタイミングで順序よく 1学年ずつ昇っていくのが自然だとする考え方が身に付いたためと考えられる。

中高年になって、昇進可能な役職ポストの数に限りが出てきて、同期の間で上のポストに就けた人と就けずに平社員のままでいる人の処遇格差が生じ、格差の生じた同期同士が同じ組織に一緒にいるのは気まずいことで、それは上のポストの同期にとっても、下のポストの同期にとっても居心地が悪いので、では上の役職に就けなかった、相対的に能力の劣る同期を間引こうという考えにつながる。これが日本における中高年のリストラのもう一つの原因である。

こうした同期同一処遇、横並び処遇をよしとして、やむを得ない格差が同期の間に生じた場合は、格下になった同期社員を切る、という考え方が、中高年のリストラにつながっているのであり、中高年のリストラは、欧米流の成果主義導入以前に、既に日本の会社や官公庁の組織のあり方として、伝統的に必然的に起こっていたのだと言える。

そうした同期の間の格差発生と格下同期の切り捨てが職務能力の差に基づいて生じるということで、わざわざ欧米流の成果主義を持ち出さなくても、日本には伝統的に成果主義が存在するのだということもできる。

ただ、競争させて上下の格差を簡単に作ろうとする欧米と違い、日本の場合は、可能な限り、同期間の横並び状態が続くように、許容範囲を持たせ、同期の間で心理的に一体感、同一感を持たせようと努力する点が異なると言える。

「会社に一緒に入社した」同期の間の心理的一体感を持たせることで、会社組織への一体感、親近感を持たせると共に、同期の間での「あいつは先に行った、自分は遅れた。取り返さなきゃ。」の横並び競争を絶えずさせることで、業績を上げさせる原動力としていると言える。その点、先を進む同期ライバル社員への相対的に遅れた社員の妬みの心をうまく利用しているとも言える。

つまり、日本の会社の業績を伸ばす原動力は、「会社への一体感」と、「同期ライバルへの妬み」であると言える。

07/09/2008 03:15:13 PM


上方向錐型水流ポンプシステムとしての日本社会

日本の会社、官公庁のシステムは、上に行くほど進路が狭まっていく錐体型の液体水路、上方向錐形水流として捉えることができる。「上方向錐型水流・水路ポンプシステム」という言葉でまとめることができる。

ポンプシステム図

ここでは、覆水盆に返らず、ということわざが当てはまる。すなわち、いったん外れてこぼれ落ちてしまうとやり直しができない。元に戻れない。 先端の細まった上下方向の水路、水流をポンプで上に順々に押し上げられていく。水路、水流は、錐体なので上に行くほど狭まっていく。水路の狭まりは、昇進して上に行くほど、就任できる役職の数が少なくなることと対応している。一番上の会長、社長が「上がり」の役職に相当する。

錐体には、上方に行こうとして空間が狭まって行くため行き場を失った水を排出するための穴がいくつも開いており、狭まった水路で、それ以上先へ進めなくなった、昇進からあぶれた者は、排出穴から外に出されて格下の組織へと流れ下って「天下り」したり、リストラされ、ふるい落とされる形で、錐体内から排出され、二度と戻れない。

下方からの水流は、絶えず上方に昇進することを指向する新卒社員とかを雇うことで、絶え間なく供給される。水流を押し上げるポンプの役割を果たしているのは、上方に行っておいしい思いをしたいという、人々の出世、昇進を指向する心理、エネルギーである。 水流は、錐体の下から順々に同期を取って上がっていく。先に錐体に入った水が、後から入った水より上位にある。これは、年功序列、先輩後輩同期制に対応する。最初に錐体に入った水が、そのまま一番上の「上がり」まで生え抜きで上がっていく。これは終身雇用に対応する。

07/12/2008 09:23:14 AM


浮気を許さない日本の会社、官庁

日本の会社や官庁は、社員がいったん入社したら、その社員が他の会社とかに転職しようとしたり、会社の業務外のことに関心を持つことを許さない性質を持つ。要するに、いったん一緒、内輪になったら「自分以外への浮気を許さない」のだ。 その点、社員は会社と結婚して、一生を会社のために尽くす、みたいな感じになっている。 その代わり、その社員が会社にとって不要だと分かったら、あっさりとリストラをするようになっている。

会社は、社員には「終身の忠誠」を要求するが、会社側は社員の首を簡単に切って追い出せるというようなダブルスタンダードになっていると言える。 終身雇用とは、社員に「一生、ずっと脇目を振らずに、浮気せずに自分の会社のことだけを考えていなさい。さもないと追い出しますよ。」という暗示をかけているみたいなものである。 会社は、社員が、常に会社への忠誠を誓って、忠誠への競争に励み、会社のために成果を出して会社を経済的に潤わせることを要求し、その競争に勝った社員のみを取りあえず内部に残れるようにしておくことで、社員を働かせる原動力を得ているのだと言える。

07/12/2008 09:49:45 PM


「母的存在」としての日本の社会組織と、海、湖

立てられる存在としての日本男性にも書いたが、日本の会社、学校・・・といった組織は、メンバーの全人格を呑み込む母的存在である。それは、その中に飛び込んだら、飛び込んだメンバーの全身を包み込み、出られなくする深い海や湖のような、液体、ゲルのような存在であるとも言える。

07/13/2008 03:26:18 AM


自由が嫌い

日本社会は、根本的なところで、フリーを嫌う側面があると考えられる。 会社とかに、どこにも属さない人のことをフリーターとか言ってさげすみ、馬鹿にする風潮が強い。 一カ所に定着せず転々と動き回る、束縛されずにいる人のことを、住所不定とか言って、信用ならないとみなす。 また、自由な人を、自分勝手と見なし、整った場の内的秩序を乱す不安分子と捉え、外に排出しようとする。学校とかで、自由な服装を好まず、制服を好むのがその現れである どこかに入って定着する、そこで動かずじっとして、場の秩序形成に貢献するのがよいとされる。

07/13/2008 03:29:19 AM


日本社会が強迫的に欧米化を試みる理由

日本社会が一生懸命欧米化を試みる理由は何か? それは、日本が、第二次大戦後、自分とは異質な、アメリカ等の西側自由主義陣営に組み入れられたのが原因である。 日本は、本来は、ロシアや中国と同じ、農耕民由来の液体的な体質(集団主義的、規制好き、対人関係や相互一体感の重視・・・)の存在であるにもかかわらず、ロシアや中国の液体陣営ではなく、自分とは異質な、アメリカ等の気体陣営に入れられてしまったのである。 ロシア、中国みたいな液体陣営(東側)と同じ性質を持っていると見なされると、西側気体陣営の他の国(アメリカ等)から敵の性質を持つ者として攻撃の対象となってしまう。それは避けるべきことであった。

そこで、異質だ、敵だと見なされないように、必死で、自身の持つ液体的性質を隠し、個人主義、自由主義といった気体的性質を表面上だけでも持とうと必死になって努力してきたのが、戦後の日本の歩みであったといえる。 このように、自身のロシアや中国と共通な液体的性質を表面だけでも除去し、アメリカや西欧等の気体的な同盟国から異質と呼ばれずにスムーズにやっていけるように行動しようとする姿勢が長期間取っている内にすっかり身に付いてしまい、取れなくなっているのが、現状の日本の姿であるということができる。

07/13/2008 03:30:30 AM


日本が戦後、経済大国になれた理由

「日本社会が強迫的に欧米化を試みる理由」の記事で、日本は、戦後の東西冷戦期間中、本来自分たちと同じ液体的性質を持つロシア、中国の東側陣営とは互いに敵対するアメリカ、西欧陣営(西側、気体陣営)に組み入れられたと書いた。実は、このことが、日本が戦後経済大国になれた原因であり、そして、現在中国やロシアに経済的に追い上げられて苦戦している原因である。

つまり、冷戦期間中西側だった日本は、東側の中国、ロシアを蚊帳の外にして、自由で独創的な気体的性質を持つ欧米が生み出した先進技術を、優先的に独占入手することができ、それゆえ、入手に苦労した同類の中国、ロシアに比べて、大幅に先んじて経済発展することができ、容易に優位に立てたのである。 液体的性質を持つ目立った国が、他に西側気体陣営では余りなかった(韓国位?)ため、日本は、その液体的本性である、大胆な独創的発想こそないものの、きめ細やかな製品小改良と磨き上げの能力で、他の西側気体陣営が生み出すアイデアを、同盟国のよしみで優先的に入手し、それに改良を施して高品質な製品を作り、世界中にばらまくことに成功した。これこそが、日本社会が、戦後冷戦下で経済大国になれた真の理由であった。

しかし、こうした日本の優位となる条件は、東西冷戦が終わると共に、急速に消滅した。今まで敵であると欧米西側陣営から見なされて、十分な技術供与を受けられなかった、液体的な中国、ロシアが、欧米との反目を止めて敵でないと新たに見なされるようになり、技術供与等の協力を受けられるようになったからだ。つまり、東西冷戦下で日本が優先的に入手できていた欧米の先進技術が、中国、ロシアにもそのまま入ることになったため、日本の技術面での優位は急速にしぼんでいくことになったのである。

中国は、日本と同じ液体的性質の国であり、液体として同類の日本にとって、差別化が難しい存在である。現状のまま差別化ができない状態が続けば、液体的故に自分からは独創技術を生み出すのが苦手で、気体陣営からの先進技術導入無しに進歩しにくい日本が、同類の中国に技術的に追いつかれるのは時間の問題であり、既に日本の優位は怪しくなっているとも言える。

今後、日本を待ちかまえているのは、同じ液体的でライバルに当たる中国とかとの絶え間ない抜きつ抜かれつの横並び競争であると考えられる。日本が優位に立つには、気体的な欧米からいかに素早く先進技術を、中国とかに先んじて手に入れるかということと、その手に入れた技術をいかに高度に磨き上げられるかにかかっていると言える。

07/13/2008 03:31:28 AM


リーダー上位社会とフォロワー上位社会

従来の社会学とかでは、物事を先導して引っ張っていく能動的なリーダーが上位で、付いていく役のフォロワーは下位であるという見方が一般的であった。 しかし、後ろから付いていく、受け入れていくフォロワーの方が、社会によっては上位である。 まず、フォロワーはどういう行動を取り勝ちか、まとめると以下のようになる。

フォロワーは、自分からは動かない人たちである。誰かがやってくれるのを待っており、誰もやらないでいると、不便だと言って不平を言ったり愚痴をこぼす人たちである。そして、誰かがやって、もし失敗すると、嘲笑したり、盛んに駄目出しをする。苦労して成功した人が出ると、当初はよくやったと言って盛んにもてはやすが、そのうちに成功した人のことを妬ましく思うようになり、あら探しをして、その足を引っ張る。

フォロワーは、日和見主義者である。周りが何をやっているか注意深く観察し、周りに遅れないように、周りの人の輪の中に入り続けていられるように、大勢に合わせようとする。

フォロワーであることの利点は何か?なぜ、フォロワーが上位なのか? フォロワーは、何か権力筋の怒りにふれるようなことをしても、首謀者とはならないため、自分からは行動責任を取らなくてよい。いつでも安心、安全圏に逃げられる、とどまれるのであり、保身できる。フォロワーは、安全、安心が保たれることができないと動かない。大丈夫、確実でないと動かない。その点、いつでも身の安全、安心を優先して享受できる。 また、フォロワーは、絶えず周囲の皆と一緒になって行動するため、一人で率先して行動せざるを得ない、助けを求めにくいリーダーに比べて、周囲の相互援助を受けやすく生き延びやすいという利点を持つ。皆と一緒であれば何をやっても怖くないというのもある。

フォロワーは二番手である。リーダーのように先頭を切って進むと、風雨にまともにさらされてしまい、条件が厳しい。フォロワーは先頭を切る苦労をせず、先頭が苦心して切り開いた成果を、楽して受け取ることができる。生存環境が、先頭のリーダーよりも恵まれており、温室的であり、ぬくぬくできる。

フォロワーは、自分からは直接手を上げず、危険を冒さず、誰かにやってもらう。そのため、まともに危険にさらされたり、責任を取らされるリーダー役に比べて、生存環境として恵まれている。 身の安全、安心、保身や、楽な温室的生活を優先的に享受できるため、生存可能性がリーダーよりも上であり、その点リーダーより恵まれた生活環境を手に入れられている点が、フォロワーが上位となる理由である。

フォロワーのように、身の危険を感じない、安全圏にずっといられる人、逃げ道を確保できる人、高見の見物ができる、ぬくぬくと生きながらえることができる人、生き延びやすい人が、一番地位が高い、上位にある。

リーダー上位なのは、一人一人が我こそは一番先頭を行くという人々の集まりである社会、すなわちアメリカに代表されるような、自ら率先して動く能動的な人々の集まりである気体的な父権社会に限定される。こうした父権社会では、危険に直面して落命してもいいから、人々を先導する、独創的な成果を出せることがかっこいいとされるのである。

一方、フォロワー上位なのは、日本のように、他人の行った成果を受け入れ、受け止め、呑み込むクッションのような人々の集まりである液体的な母権社会である。母親は女性であり、何よりも自らの保身を重んじ、安全、安心の確保にうるさい。そうした母親の影響を強く受けた社会においては、自分からは行動をなるべく起こさず、周囲の動向を見極めた上で、最も安全で、それでいてそこそこ儲かることをするのがいいとされるのである。

例えば、母権社会日本の政府において、実質一番上位なのは、表面に立って目立っているが、批判、風雨の矢面に立たされ、すぐ更迭される大臣ではなく、そこからワンランク下の、大臣による風除けが効いた立場にいる事務次官であるということができる。

あるいは、外部に露出して外敵と直接対決しなければならない男性リーダーよりも、その言うことに従いながら守られる女性の方が、より安全、安心で、地位が高いと言える。

つまり、フォロワー上位社会では、風雨の矢面に立つ最上位ではなく、そこから1~2ランク下のクッションの効いた位置が一番安全、安心であり、実質の地位が高いと言える。

その点、フォロワー上位社会では、表立って目立つ人が上な「表面的地位」と、保身の上で居心地のよい人が上な「実質的地位」を区別する必要がある。

なお、場合によっては、リーダーがワンマンかつ保身タイプで、失敗したときにフォロワーに責任をかぶせるトカゲのしっぽ切りのようなことを行うことがあり、この場合は、フォロワーにとっては、責任を取らされないようにうまく逃げる必要がある。

07/13/2008 03:32:53 AM


完全無傷指向と日本の「専門家」

日本の大学とかシンクタンクとかにいる、いわゆる専門家と呼ばれる人は、以下のような「完全無傷」を求めがちである。

・間違ったことを言ってはいけない。言うことは、常に正しくないといけない(正解でないといけない、正確でないといけない)。間違うのは恥である。

・有名学説や最新学説を、絶えず正しく理解していないといけない。

・専門分野に関して、答えられないこと、知らないことがあってはいけない。何でも知っていないといけない。うんちくがないといけない。

・言うことは、絶えず厳密でないといけない。理論的な破綻、欠け、漏れが少しでもあるとダメである。 その結果、考えがこわばって、しゃちほこばってしまい、自分からは、多少不正確で傷はあるかもしれないが、自由で新しい物言いをすることができなくなっている。新しい物言いをしているように見えても、よく聞いていると、誰か(特に欧米研究者)の説の受け売りだったりする。

07/13/2008 03:33:39 AM


上から目線の、日本の大学人

日本の大学人は、教授側も、大学院生も含め、以下のような特徴を持っていると考えられる。

・排他的な学閥第一の考え方である。所属する学閥への一体感が強い。その中で、師弟、先輩後輩同期の上下関係に非常にうるさい。

・無知な目下(の学生)に教えてやるんだ、啓蒙してあげるんだ、ありがたく思え、といった感じで、恩着せがましい。

・(特に教授は)自分は偉いんだ、上位者だ、オールマイティな支配者だと考え、学生を格下の憐れみの目で見たり、パワーハラスメントをする。

・権威ある有名学者の説に付いて行こうとする。また、自らのことを権威ある者と思いたがる。

07/13/2008 03:35:04 AM


ガスタイプの会社、リキッドタイプの会社

筆者は、以前より、ガスタイプ、リキッドタイプという分類を提唱しているが、それに基づいて、欧米と日本の会社のあり方を以下のように比較してみた。

欧米のようなガスタイプの会社は、本来バラバラで独立したフリーな人同士が、より多くの利益を上げるために、一時的に手段としてタッグを組んで協力して仕事をする。成果や利益が出て、頃合いのよい時点で、さっさと抜ける。 会社は利益を出すための単なる一時的な道具である。出資した株主へのその時々の短期的な利益還元を重視する。

日本のようなリキッドタイプの会社は、ベタベタ近づいてくっつくのが好きな人同士が、互いに強い一体感で結ばれ、その状態を存続、維持すること自体を目的とする。会社にずっと所属すること自体が目的となる。会社は永続する共同体である。 自分の所属する会社共同体の価値や格付けを上げることを重視する。会社共同体の価値は、規模 (売上高等 )や市場シェアの大きさで図られるので、それを上げようとする。出資した株主へは、自社株の長期的な価値保持~上昇を重視する。短期の利益配当は重視せず、株を長期にわたって安定的に保持し続ける優良財産として、株主に見てもらおうとする。

国際的な分業の観点からは、果敢に未踏分野に飛び出して、無から有を生み出す独創的成果を上げるが、往々にしてその成果の内容が荒削りでおおざっぱなままな「ガスタイプ」の会社が、国際的な分業行程において初期上流工程を担当し、未踏分野でいきなり独創的な成果を上げるのは不得意だが、ガスタイプの会社から持ち込まれた新たな知見の小改良、磨き上げで高い完成度を生み出すことができる「リキッドタイプ」の会社が下流工程を担当するのがよい。ガスタイプとリキッドタイプで合弁するのが、最強といえる。

07/13/2008 03:36:33 AM


新卒一括採用と、閉鎖集団間の時限ブリッジ渡り

日本の会社には、正社員の採用を原則として新卒一括採用のみ行う不思議な慣習が存在する。選別した新卒者を 4月に入れると、それ以外の間は、門戸を閉ざし、中に入れようとしない。 むろん、最近は即戦力人材の獲得のため転職者市場もそれなりに成熟しているが、その転職者として想定されているのは、前職をたどっていくと、かつてどこかの企業に新卒一括採用された人がほとんどであり、学校卒業時どこにも就職する当てがなく、新卒採用されずにそのまま既卒扱いになってしまった就職氷河期に学生だった人たちとかは、転職者市場においても正社員として採用されることにおいて苦戦を強いられているのが現状であるといえる。

新卒一括採用がなぜ好まれるか? まず、非所属者、よそ者、浮浪者嫌いの考え方が、根底にある。(欧米やモンゴルのような遊牧・牧畜民では、むしろ非所属者、よそ者、浮浪者の状態が普通、一般的であり、それほど嫌われないと考えられる。) 新卒一括採用は、採用する人員が、所属集団の外部に出ずに、一方の所属集団から他方へと、いわば「ウチ」から「ウチ」へと移行するから、好まれると言える。

人員は、卒業と同時に、入社しないといけない。学校を出ると同時に、会社に入らないといけない。タイムラグがあってはならない。そのタイミングで入り損ねて既卒扱いになるともう入れない。 学校、会社が、それぞれ閉じた「ウチ」の袋、球状の閉鎖的、排他的スペースを形成しており、一方の「ウチ」と他方の「ウチ」をつなぐ時限ブリッジ、パイプ、通路が一時的に形成されるようになっている。

通路は、通れる新規学卒者を事前に選抜して内定しており、選抜された者のみが学校側から会社側へと一時的に通れるようになっている。通れるタイミングを逃し、通り損ねると、会社側へは正社員としては一生入れない。 一方の集団(学校)から他方の集団に移れる人員(内定を勝ち取った新卒者)およびタイミング(3月31日23時59分~4月1日0時0分の一瞬のみ)を限定し、その間のみ二つの集団間に時限ブリッジを設けて、人員を自動的に渡らせる。

日本では、信頼される人員は、いつでも、どこかの集団(「社」、「閥」、ネットワーク)に必ず属していないといけない。常時、どこかの「ウチの人」でないといけない。 日本人は、どの集団にも属さず、所属集団の外に1人出たままになるのを好まない。そうした状態になった人、どの集団にも入れてもらえない人を信用しない。こうした「よそ者」には、フリーター、非正社員(契約社員、派遣社員)、転職したばかりの人が含まれる。彼らは「よそ者」として括ることができ、彼らが正社員に比べて格下扱いされるもととなっている。

ある集団(ウチ、ムラ)から他の集団(ウチ、ムラ)へと移るとき、普段は入り口を閉ざしたそれぞれの集団が、同時に合意して同期して、一時的に出口入り口を同時に開け、集団間を渡るブリッジを設けた時のみ移ることが出来る。 この時限ブリッジ上を指定期日にうまく渡るのに成功しないと、落ちてしまい、そのうちブリッジが消えてしまい、集団の外に一人出てしまう。そうすると、一方の集団を既卒扱いになってしまい、二度と他方の集団に入れてもらえなくなる。

学校は、期日が来ると、トコロテン式に成員を外に排出する。排出されて、次の集団に入れなかった人は、既卒者、フリーター、非正社員として扱われ、他の集団にも正式に中に入れてもらえる機会を、半永久的に失ってしまう。 日本の会社における中途採用と正社員の関連は、以下のようになっている。

日本の会社での正社員の中途採用は、

・他のれっきとした会社で正社員だった人に限られる。正社員になれるのは、

・新規学卒に限定される。学校を卒業した時点で、即どこかの会社の正社員になっていないと、一生正社員になれない、なりにくい構図になっている。学校を出ても、無職でどこの会社の正社員でもない期間ができると正社員になれない。正社員と、非正社員(派遣、パート)との間に大きな待遇格差がある。学校を卒業して、正社員になれるかなれないかで、その後の人生で大きな格差が生じる。生じた格差は、いったん非正社員になってしまうと正社員への道(中途採用を含む)が閉ざされるため、再チャレンジできず、埋められない。

07/15/2008 03:00:12 AM


「ウチ」を連発する人は、所属組織に呑まれている

日本の会社員(正社員)は、自分の勤め先の会社のことを「ウチの会社」、あるいは単に「ウチ」と呼ぶことがほとんどである。官公庁の職員にもこの傾向があるし、学生たちにおいても、「ウチの高校、大学」「ウチらのサークル、同好会」といった感じで、自分の所属する組織について、「ウチ」という言葉を連発する。

「ウチ」という言葉を使うようになるのは、使う人が、その組織に足を踏み入れ、その中、内側に完全に取り込まれ、出られなくなった状態になっていることを意味する。要するに、組織に「呑まれた」ということである。

「呑まれた」というのは、日本の会社のような組織が、内外を隔てる強力な膜ないし、外部の者を中に入れないよう表面積を最小化する表面張力を持ち、人は、その中には厳しい試験とか通らないとなかなか入れてもらえず、その一方、人がいったん膜を貫通して中に入ると、膜に開いた穴はすぐに修復して閉じられてしまい、その人は、どっぷり中の液体に浸りきって、一体化しきって、外に出られなくなり、中にいる他のメンバーとひたすら「内輪」「ウチウチ」の集団コミュニケーションを取り続けるようになる、という状況の発生を意味している。

このことはまた、日本の会社が、外部に向かって閉じられ、内部で互いに引き寄せ合って、密着し合って動く、液体原理で動いていることの現れである。液体分子のかたまりの中が「ウチ」である。それは、母の胎内の羊水の中にも例えることができ、母性を体現したものであるとも言える。 つまり、「ウチ」という言葉を連発する人は、自分は、人付き合いやコミュニケーションのあり方において相互一体化を好む、閉鎖的、内部限定なのを好む・・・といった液体原理、母性原理にどっぷり浸っていますよ、「お母さん子」ですよと、無意識のうちに宣言しているようなものである。

「ウチ」の組織に呑まれた、取り込まれた状態では、その組織から一定の距離を置いて冷静に付き合うことが不可能となり、物事が何でも「ウチ」中心で動くことになり、個人の自主独立、プライバシーや自由の尊重や、物事に対する客観的視点(気体的性質)が永遠に失われてしまう。また、所属する「ウチ」の存続繁栄のために、メンバー個々人は犠牲になってもぜんぜん痛くないかのような感覚麻痺が各メンバーに生じ、「会社人間」「所属組織第一主義」が誕生するのである。

その組織に取り込まれた、呑まれた程度を計測するバロメーターが、「ウチ」という言葉の使用頻度と使用の自然さの度合いであるといえる。「ウチ」という言葉をどのくらい頻繁かつ自然に発しているか、それが多いほど、自然で抵抗がないほど、「呑まれている」と言える。そして、取る態度や思考が液体的であり、母親の影響が強い(思考が母性的になっている)と言える。

07/15/2008 05:27:02 PM


所属できない、入れてもらえない・・・

現在の日本社会においては、どの集団にも入れてもらえず、さながら風に吹かれるままに移動する砂粒のように、あちらこちらを孤独のうちにさまよい歩く人たちが、大勢存在する。 日本社会は、会社であれ、学校であれ、何らかの集団に「正規に」所属しないと、人間らしい生活が送れなくなっている。正規の集団に入るには、普通厳しい入試(入社試験、入学試験・・・・)が課せられ、その試験を突破できたもののみ、あるいは、その集団と関係する有力者とのコネを持つ者のみが、正規の社員(正社員)、正規の学生として、その身分を保障されるようになる。

何らかの形で入試に失敗したり、有力者とのコネがなかったりすると、集団に正規の形で加入することは許されず、一時的に契約、派遣の形で集団に「非正規」扱いで入れてもらうことになる。契約とかが満了すると、いったん集団から追い出されることになり、再度入れてもらえる保障はない。これが、契約社員、派遣社員に相当する、いわゆる「非正規雇用」である。

こうした、集団に正規の形で入れてもらえない、所属できない、「非正規」雇用の人たちは、正規に入れてもらった「正社員」の人たちよりも、日本では格下の扱いを受けることになる。例えば賃金とかで差別されたり、社会保障が不十分だったりする。

正社員へとランクを上げたくても、再就職において「非正規」で働いた分は職歴としてカウントされない(正社員として働いた分しかカウントされない)ため、正社員になるだけの職歴が認められず、再び「非正規」で雇ってもらうしかなくなる。いったん「非正規」の枠にはまってしまうと、そこから半永久的に抜け出しにくいのである。

日本では、どこかの集団に正規で属することが必須であり(例えば、自己紹介とかで、「どこにお勤めですか」と聞かれて「○○社の社員です」と言うのが普通である)、集団から自立、独立して一人でやっていくことへの積極的な考え方はほとんど認められず、「フリーター」「根無し草」として軽蔑され、人間扱いされない。集団にどこにも入れてもらえない、所属させてもらえない「劣等生」「半人前」「無能力者」の烙印を押されてしまうのである。 そうした「非正規」雇用、所属の人たちは、劣等感にさいなまれながら、あちこちの会社とかを定着を許されずに渡り歩くことになる。さながら、風に吹かれて孤独にさまよう砂粒のような人生である。それはまた、正社員の踏み台、道具として、「使い捨て」られる人生でもある。

個人がバラバラに一人でフリーで行動する、気体的な行き方は、欧米ではプラスの価値を持つのに対して、個人が何らかの集団に所属することが必須な、液体的な行き方を取る日本では実質マイナスの価値しか持たない。「非正規」所属、雇用の人たちは、心の底では、どこかの集団に所属し(どこかの「ウチ」に入れてもらい)、一体化して安心したい(液体的に暮らしたい)と願いながら、その望みがかなわず、仕方なく一人ずつバラバラに社会の中を、どこにも定着できずに孤独に動き回っているのである。 そうした日本の「非正規」雇用、所属の人々の姿は、一見個人がバラバラな気体分子に見えるのであるが、実際には、気体分子(欧米人)のように自ら一人独立自立することを目指して、自分で進む目標を見定めて、周囲から自ら離れて高速に動き回るという主体的な姿ではない。空間を一人低速で当て所もなく漂いさまよう、集団から切り離され、切り捨てられた、(本当は自分も集団に所属、一体化したくて仕方がない)孤独な液体分子単体と見るのが妥当であろう。

07/21/2008 04:35:47 AM


コネ、世話と、自由な言論

社会で自由な言論を保つには、コネを作らない、世話にならない、頼らないのが一番である。 いったんコネに頼ると、何らかの形で、その頼った、世話になった人の言うことを聞かないといけなくなってしまう。そのため、頼った人の意見に反論しにくく、自由な物言いができなくなるのである。かといって反論すると、コネを切られてしまい、生活手段を失ってしまう。 日本社会は、実際のところ、コネ重視の社会なので、言論の点では、有力者のご機嫌伺いに走って、言論の自由がなくなりがちなのではないだろうか?

07/21/2008 05:51:47 AM


迎合社会、媚びの文化

日本は、こちらから相手に合わせることをよしとする、相手本位の「迎合社会」「媚びの文化」である。 例えば、製品(携帯電話とか)を使う場合、製品の仕様に合わせて使いこなすことがよしとされ、「自分に合わない」「使いにくい」と不満を漏らすことは、大人げないとされる。 既にある前例、しきたりに、自分を合わせて、適応していくのがよいとされ、自分に合わないからと言って、前例を勝手に変えようとしたりするのは、「忍耐力がない」「わがまま」として非難の対象になってしまう。

互いに相手に合わせる、協調性、同調性が重視され、それができないと「空気が読めない」とか批判されてしまう。相手を盛んに持ち上げて、「褒め殺し」したり、媚びたりする態度が、日本社会には蔓延している。 こうした「迎合」「媚び」が効果を生み出すのは、それだけ日本の人々が内心では、他人から持ち上げられて威張りたい、偉そうにしたい、鼻の下を伸ばしたい、いい格好をしたいという思いを強く持っているからだとも言える。その意味で、「迎合」「媚び」の重視は、裏返しで「威張り」の重視であるとも言える。媚びの文化は、裏返せば「威張りの文化」ということになる。

07/21/2008 06:04:10 AM


癒着、馴れ合い文化

リキッドタイプの日本の人たちは、互いに近づいてベタベタくっつき合う人間関係を好む。 互いにくっつき合って離れない状態は、相互の「癒着」や「馴れ合い」にどうしてもつながる。 日本で「談合」とか「賄賂の汚職」とかが多発するのは、日本の人たちがリキッドタイプだからだ。 この癒着や馴れ合いをなくすには、くっつき合った人間関係を定期的に強制的に断ち切るしかない。 公務員の人事異動が短い期間で頻繁に行われるのも、人事異動をすることで公務員と民間業者相互の関係を強制的に断ち切ることで癒着、馴れ合いの防止と関係があると見てよい。

07/21/2008 06:23:15 AM


疑似気体タイプ社会と日本

日本社会は、基本的には、相互に一体化して集団で行動するのを好む液体タイプの社会であるが、社会の中のある部分では、液体性が徹底されておらず、気体的になっている部分が存在する。

1つめは、欧米文化の導入が盛んな箇所である。戦後の日本においては、アメリカ流の気体的な性質の憲法が導入され、天皇を含め国民がそれに従うことが求められたため、従来の天皇を頂点とする官庁=お上の上に、更にアメリカとかの「スーパーお上」が出現し、そこから気体的なドライな空気が日本社会全体に向けて絶えず吹き付けるようになっている。そのため、国全体が絶えず気体化の波にさらされているのである。

あるいは、今までにない新しい目の付け所の学説や製品は、引き続き欧米からやってくることが多く、その導入にいそがしい学界や業界は、奥底には、学閥とかコネに頼る伝統的液体的体質を温存しつつ、表面は気体的な欧米文化の影響で気体化している。

2つめは、非正規雇用の人たちである。日本社会では、会社や官庁に入社する際の関門の厳しさが増しており、正社員になれずに派遣、契約社員になる人たちが続出している。日本社会は、どこかの集団に正規に所属して「ウチ」に入っていないと、人間らしい生活が保障されない。非正規雇用の人たちは、どこの会社にも正規に入れてもらえず、その時々に会社に一時的に雇用されるだけで、用が済んだらさよならされて、社会の中を一人一人孤独にさまよい続ける、流砂のような生活をすることになる。その点、彼ら非正規雇用の人たちは、一人一人がバラバラに独立して動く気体とよく似た動きをしていると言える。

むろん本当の気体と本質的に違う点が存在する。それは、本当の気体タイプの人の場合は、自分から進んで、他人と離れて一人自由になって独立自立し、自分の目標を明確に定めて高速で能動的にアタックしようとする気概が強いことである。これに比べて、日本の非正規雇用の人たちは、本当は、自分たちもどこかの会社に正規に雇用されて正社員となって、会社に所属、一体化し、あわよくばずっと安定した正社員の地位を続けたいと言う気持ちが強いのではないだろうか。また、明確な目標を持たずに、その時々の条件のいい働き口なら何でもいいと思って、その時々の条件に流され漂流する受動的な性格を持っているように思われる。

3つめは、東京のような大都会に住んでいる人たちである。大都会では、人の出入りや移動の動きが激しく、隣がどういう人だか分からないアパートやマンションにいきなり引っ越したりするのがざらである。そのため、自分の身の安全に敏感で身元の知れた信用できる人としか付き合おうとしない傾向のある日本人は、そうした何者か分からない自分の周囲の人とはできるだけ関わりをもとうとせず、各自が一人孤立して住居に住むことになる。その様子が、一人一人バラバラな個人単位で動こうとする気体タイプと似ているのである。

むろん本当の気体と本質的に違う点が存在する。それは、大都会の日本人が、本質的には、身元の確かな信頼のおける相手だと分かった場合は、相互に強い一体感で結ばれた、伝統的な「ムラ」的=液体的な人間関係を作るということである。隣の人が誰だか分からないところに住んでいる勤労者も、自分の勤め先の会社に出社すると、「ウチの会社」で気の置けない同僚と、家族のような親密さや一体感で協調して仕事をするのである。

07/27/2008 03:27:48 AM


密室育児と日本人の対人安全、安心指向

-同所(同期)加入者相互うち解け」現象の活用- 東京のような大都会では、人の出入りや移動の動きが激しく、隣がどういう人だか分からないアパートやマンションにいきなり引っ越したりするのがざらである。そのため、自分の身の安全に敏感で、身元の知れた信用できる人としか付き合おうとしない傾向のある日本人は、そうした何者か分からない自分の周囲の人とはできるだけ関わりをもとうとせず、各自が一人孤立して住居に住むことになる。その様子が、一人一人バラバラな個人単位で動こうとする気体タイプと似ている。 男性の場合、隣の人が誰だか分からないところに住んでいる場合でも、自分の勤め先の会社に出社すると、「ウチの会社」で気の置けない同僚と、家族のような親密さや一体感で協調して仕事をすることができ、その点、従来の液体的な所属欲求を、会社で満たすことができる。

女性も、正社員の会社員である場合はいいのであるが、結婚して夫の転勤に付いてきて大都会住まいをしてそこで子供が生まれて育児をすることになった場合、周囲に誰も助けてくれる人を見つけられないまま、母子だけで、孤独な密室で育児をしなければいけないことになる。その際の女性の孤独感や窒息感、ヘルプレスの感覚は相当なものであり、ストレスがたまって、我が子の虐待とかに走ることになる。

こうした密室育児が起きる原因は、女性たちが、自分の身の安全に敏感で、身元の知れた信用できる人としか付き合おうとしない、まさにその点にあるのだと言える。つまり、対人面での安全、安心を確保できる相手としか関係を持とうとしない「対人安心、安全指向」が、周囲の見知らぬ、安全かどうか分からない人に助け、つながりを求めることができず、一人孤独に育児を抱え込むことにつながるのである。

この密室育児は、子供が成長して、保育園とか幼稚園に入ることで解消されることが多い。なぜならば、同じ保育園や幼稚園に入った他の母親や入園先の保育士たちと、同じ所に一緒に入ったということでつながりが出来、互いに同じ境遇を共有する者同士で、自然と相互信頼、安心感が生まれ、相談し合ったり、助け合ったりすることができるようになるからである。

ここに、密室育児の解決方法が存在する。日本人には、同じ所に一緒に入所した者同士が、互いに同じ境遇で信頼し合い、うち解けて仲良くなりやすい傾向があるというのを活用すればよいということになる。この傾向は、「同所(同期)加入者相互うち解け」現象とでも呼べる。この現象を活用する。

具体的には、母親が子供を出産した段階で、母親のその地域の「育児ネットワーク」への加入を、自治体なりで制度化して促進し、同じ境遇の母親同士、あるいは相談員、コーディネータとの間で、自由に情報交換したり、悩みを聞いてもらったりするようにすればいいのではないだろうか。小学校とかと同じく、同じ公共機関の会に一緒に加入することで、育児の境遇を互いに共有でき、母親同士が相互にうち解けて、育児上の情報交換をして心理的に助け合うようになることで、孤独感、密室感を解消することができると考えられる。「育児ネットワーク」は保育園、幼稚園みたいに公的裏付けを持った機関とすれば、母親たちも安心して加入することができると考えられる。

「育児ネットワーク」は、別に物理的交渉を頻繁にしなくても、 mixiのような地域限定の内密なソーシャルネットワークのサークルみたいな感じで、ネット上で意見交換する場を設けると共に、いざという時の助けを呼べるために、必要に応じて「自分は○○地区に住んでいます」みたいな居住地の情報を開示すればよいのではないか。

07/27/2008 04:06:24 AM


個人的金本位制、ユーロ本位制・・・円本位思考からの脱却

普通、日本においては、経済活動において、何事も通貨の円を基準にして物事を考えるようになっている。 例えば、○月○日の金地金の価格は 1g3210円で、昨日( 3250円)より 40円下がったので損したとか言う。あるいは、○月○日のユーロの為替レートは 1ユーロ 160円で、昨日( 157円)より 3円も円安になったとか言う。 経済的な損得を、全て円を基準に考える癖が付いているのである。

しかし、本来、何を通貨の指標と見るかについては、個人の自由なのではないだろうか。全ての日本人が円を基準とすることを強制されるいわれはないと思う。日本人も別に円ばかり基準とするのでなく、金地金とかユーロとかを基準として、個人的に金本位制で物事を考えたり、あるいはユーロ本位制で考えたりとか自由に自分の基準通貨、商品を選べるようにすべきだ。 円ばかりにしばられず、自分自身がこれぞ基準だと思う通貨や商品の指標で、世界の経済活動をウォッチして、損得を判断すべきではないだろうか。これは、国際情勢の物の見方を、いつものように日本中心にばかり見るのではなく、他の視点から見ましょう、そうすることで違う物の見方ができるようになりませんかということである。

最初の例で言えば、 個人的金本位制なら ○月○日の価格は、 1円につき 0.311mgで、昨日( 1円につき 0.307mg)に比べて 0.004mg分の円高 といった、金地金を基準に見る感じになるのであろうか。 あるいは、個人的ユーロ本位制なら ○月○日のユーロの為替レートは 1 0.00625ユーロで、昨日( 1 0.00636ユーロ)より 0.00011ユーロ分円の価値が下がった といった、ユーロを基準に見る感じになるのであろうか。

07/27/2008 07:02:00 AM


流行追従移動根無し集団と定点根付き集団

日本社会においては、 1)常にその時々の周囲の流行、大勢に従おう、合わせようとして、大きな集団を作って、絶えずあっちにふらふら、こっちにふらふら移動して、行方が定まらないタイプの人たち=メジャー指向の流行追従移動根無し集団 2)自分の根付く、定着する、飛び込む「ウチ」はここだ、と定点を定めて、そこに根付き、例え、どんなに流行らなくても、その場所を死守して、やがてそこに陽が当たる日がやってくるのを待つタイプの人たち=マイナー許容の定点根付き集団 2通りがある。

1)の根無し集団では、物事の評価基準は「皆が○○しているから」であり、物事の善し悪し、優劣を、皆が使っている、やっている、多数か、マイナーかで判断する。携帯電話の文字入力方式で言えば、「お」の文字を入れるのに「あ」ボタンの 5回押しが必要なマルチタップ方式を、例えどんなに入力が遅くて不便であろうと、皆が使っているから、というだけで支持し、文字入力効率で勝る「ニコタッチ」方式を、使っている人が少ないというだけで無視するというのが、この集団である。

2)の根付き集団では、物事の評価基準は「自分のこだわり」であり、物事の善し悪し、優劣を、自分が気に入っているかどうかで判断する。気に入れば、例えマイナーでも問題ないとする。携帯電話の文字入力方式で言えば、入力効率はよいが、知名度の点で圧倒的に劣る「ニコタッチ」方式にこだわるというのが、この集団である。根付きについては、 A)既に開拓済の、前例やしきたりが存在し、先生、師匠役の先達たちが威張っているところに、自分を入門者として新たに加えてもらう場合と、 B)自らベンチャーで新規開拓する場合との 2通りがある訳であるが、女性の影響力が強く安全第一で、冒険、危険を嫌いがちな日本の人たちは、 A)の開拓済みの方に根付こうとするのが一般的である。既に開拓、開発済の技法を師匠、先生に教えてもらおう、習おうとするものであり、いわゆる「学習指向」である。

07/27/2008 07:49:05 AM


「日本=先進国」のプライドを捨てること

世界経済のグローバル化の進展に伴い、「同一労働、同一賃金」の原則が、日本国内だけでなく、世界レベルで通用するようになってきている。 現在の日本の公務員、正社員ベースの賃金は、中国とかに比べると、明らかに高めであり、その生み出す製品は高コストで高価になりやすい。 そこで、派遣社員、契約社員のような非正規雇用の人たちに、中国並みの賃金を無理矢理押しつけて、製造コストを下げて製品の海外競争力を何とか保っているのが現状ではないだろうか。

こうした形での賃金格差の一方的な押しつけは、公務員、正社員が行う一種の人権侵害であり、本来は、似たようなレベルの仕事しかしていない公務員、正社員の賃金も、それなりに下げるべきであろう。痛みは、特定の物言わぬ弱者のみに押しつけるものではないのである。

また、近年の日本国の財政赤字は巨額にふくれあがっているが、その多くは公共事業費のばらまきで生まれたものと考えられる。ではなぜ巨額の公共事業費が必要だったかと言えば、近年の発展著しい中国とかに比べて、似たようなアウトプットしか出していない割には高すぎる日本国民の生活水準、そのままでは高すぎて仕事がない(だから仕事を中国とかに奪われ不況だった)賃金レベルを、国の威信をかけて強引に維持するため、本来ない仕事を国レベルで無理矢理たくさん作り出すために必要だったということになるのではないか?

要するに、現在の日本国民は、アジア近隣諸国に比べて、自分の国のことを「先進国」だと誇りに思っており、その先進国としてのプライド、体裁、を保つために、官民上げて、経済的に無理をして、高い生活水準を演出してきた、そのつけが国の巨額の財政赤字として、解消が困難なレベルまで膨らんだ、ということであろう。

日本人の、そのアウトプットの割に高すぎる生活水準を維持するのは、実際の所もう不可能なのではないか?日本人にとって、公務員、正社員を含めた適正な賃金水準は、現在、彼ら(公務員、正社員)が非正規と言って馬鹿にしている派遣社員、契約社員のレベルなのではないだろうか? 日本の物価は、現状、高給取りの公務員、正社員レベルの賃金で暮らしていけることを基準に組み立てられていると思われるが、これを、非正規労働の人たちの賃金を基準として、その賃金で十分暮らしていけることを前提としたものに組み直すべきだろう。

はっきり言って、生活のレベルが 1ランク~数ランク下がっても良いから、アジア内で並みのレベルでいいから、普通の労働で、普通に暮らしていけることが、人々の暮らしにとって一番大事なのではないだろうか? 日本が経済的に破綻しないためには、あるいは破綻しても再生するためには、公務員、正社員を含めた全ての人々が、いったんもう 1~数ランク下の中国並み、アジア並み賃金、生活レベルを受容すること、そして「先進国」としての高いプライドをいったん捨てること(普通の国、並の国になることを受容すること)が必要なのではないだろうか? いったん並になっても、戦後日本のように、また努力して上がればいいのではないだろうか?

07/27/2008 08:10:53 AM


視線敏感症候群(シンドローム)

日本人は、自分が他人の目にどう映るか、他人の視線を絶えず気にしながら生きている。それと同時に、他人が何をしているか、興味津々で大きな関心を持ち、視線を絶えずちらちら無遠慮に送り合って、相互監視しようとする。何をするにも「周囲の目」の存在が付いて回るのである。

日本人は、「皆の面前で」格好よく目立ちたい、威張りたい、皆を代表したいとか、上に立って指示、指図、命令したいとか、周囲に有能、できると思われ、周囲よりも早く出世、昇進したいといった、周囲の視線を前提とした「見栄っ張り」の性質を持っている。

日本人は、たくさんの人が見物する舞台の上で、格好良く「見得を切る」歌舞伎役者のように、自分も少しでも格好良く皆の前でぴしっときれいに決めたいという欲求を持っている。自分のプラス面を皆の目の前で格好良く披露して、よく見られたい、体面を傷つけず維持したいと考える。

一方、皆の見ている前で失敗して恥をかきたくない、皆の見ていないところで失敗したい、といったように、自分のマイナス面を他人に見られるのを、自分の体面に傷が付いたとして、非常にいやがる。いわゆる「恥の文化」である。

他者の視線を浴びるとき、自分のマイナス面を見られ注目されて、自分の面目が傷つけられ、マイナスの感情を抱くのが「恥」であり、プラス面を見られ注目されて、自分の面目を保ってプラスの感情を抱くのが「見栄、見得」であると言える。

このように、互いに他人の目、視線の存在に非常に敏感で、絶えず「周囲に見られている」という感覚を持つと共に、周囲の他人が何をしているか絶えず気になって、視線を送って監視、のぞき見するのに敏感で、絶えず周囲を見ていないと気が落ち着かないという感覚を持つのは、一種の病的な状態であり、「視線敏感症候群(シンドローム)」とでも名付けることができる。要するに、何をするにも、互いに周囲の他者の視線を絶えず気にしながら行うようになってしまう病気である。

視線敏感症候群(シンドローム)の表面(周囲に自分の良いところ、プラス面を積極的に見せようとする側面)が「見得、見栄」であり、裏面(周囲に自分の悪いところ、マイナス面を見せまいとする側面)が「恥」であると言えるのではないか。その点、「見得、見栄」と「恥」とは表裏一体の関係にあると考えられる。

また、視線に敏感であることについては、周囲の他者から受ける視線に敏感である側面(周囲からの視線の受信に敏感)、周囲の他者のすることが気になって、周囲に視線を盛んに送ることに敏感である側面(周囲への視線の送信に敏感)の 2つの側面を同時に考える必要がある。

この病気に、自分の体面や見栄を気にする多くの日本人がかかっているということができる。あるいは、「面子」の維持に神経を使う中国人とか、東アジア全般に見られる症状かも知れない。常に他人との関わりの中で生きている女性的な病気であるとも言える。

互いに他者の目を気にするということは、互いに周囲の他者との絶え間ない関わり、結びつきの中で生きているということであり、関係指向の、相互の良好な一体感を重んじる液体的な生き方である。それは、他者に対して、良好かつ優位な立場を持ちたい、保ちたい、と同時に、変な目立つ失敗をして周囲の他者の自分に向ける目が厳しくなることで他者といままで築いてきた良好な関係が崩れ、他者に対して劣位に立つはめになるのを避けたいという心理が働いていることを意味する。

こうした視線敏感症候群(シンドローム)と反対の生き方は、他者の存在や視線に無関心で、自分の行きたい、やりたいことを、失敗等恐れずにマイペースでやっていく生き方であり、欧米等の気体的な社会がこちらに当たると考えられる。こちらも、他者の視線への無関心の度合いが進みすぎると、それはそれで問題なのだと考えられる。これは、視線無関心症候群(シンドローム)とでも呼べる。

07/27/2008 01:03:31 PM


自分の意見への固執、意見不動傾向と植物的思考

日本では、国会の論戦とか政治討論会とかを聞いていると感じることであるが、表立って自分の意見、持論に固執して、最後まで変えようとしないタイプの人が目立つと思う。 要は、植物的思考というのだろうか、一つの意見に根を下ろして、しっかり根付いて、簡単にころころ変えないのがよいという考えが定着している感じである。そのため、意見の対立する者同士で、いつまでも同じ押し問答を、制限時間終了まで延々と繰り返したり、そもそも議論や対話を拒否して、退席したり、欠席したりすることが平然と行われる。なぜ、対話を拒否して欠席するかと言えば、結局は、いくら議論しても、意見はどうせ変わらないから、として、自分の意見、意思の強さをアピールできたと自己満足するためである。

議論のその場その場で、意見や話の流れを柔軟に変化させるのが苦手であり、最初にこう言おうと仲間内で打ち合わせて決めた原稿内容を延々と繰り返し主張し続けるため、いくら貴重な時間を割いても、同じ押し問答が延々と続いて、平行線をたどってしまう。また、そうした押し問答の持続に伴って両者の間に感情のもつれが生じ、さらに合意が難しくなる。同時に、双方共に押し問答を長く続けて、決して妥協しないことで、自分の意思の強さを対外的に表現できる、アピールできるという読みもある。 そして、対立する二者間の実質的な意見調整、感情のもつれの調整のための協議は、往々にして仲介者を立てて、公開の本会議場とは別の密室で互いの腹を割って秘密裏に本音で話し合う談合の形式で行うといった感じになるのである。

07/27/2008 03:15:32 PM


第二先進国としての日本

世界の先進国は、第一先進国と第二先進国に分かれる。 第一先進国は、自ら全く未開、闇の分野に飛び込んで行って、試行錯誤や失敗を繰り返した末に、闇の領域を光の領域に変えるビジョンを自前、自力で見つけ出し、そのビジョンに従って、基礎的な全く新しい独創的な発見、発明を成し遂げ、そうした新たな先進的な知見に、最初にいち早く接して、軍事、産業分野等に応用することで、世界の中で優位に立つ国々である。欧米がこれに該当する。

第二先進国は、自分からは未開の分野には危険すぎるとして入らず、第一先進国の人々が入って、苦労した末に取ってきた先進的な知見を、(他の後進国に比べて)いち早く学習して取り入れ、吸収し、その先進知見に更に磨きをかけて最先端の改良知見として、それを手中に収めることで、世界の中で優位に立つ国々である。日本がこれに該当する。第一先進国に比べ、全く新しい独創的な知見に接するのが、ワンテンポ遅れるため、二番手、第二ということになる。

今まで、日本は自分は先進国の一員だと盛んに主張してきたが、同じ先進国にも 2種類あって、欧米とは違う種類なんだと自覚しておいた方がよい。日本は、今まで欧米に追いつき、追い越せで来た訳であるが、欧米はしょせん第一先進国で、日本のような第二先進国とは異質であり、日本が追い越すことはできないということを自覚した方がいいのではないだろうか。

また、第二先進国は、いままで日本と、加えて韓国辺りの独壇場だったが、今後は中国とかも仲間入りする可能性があり、同質なライバル同士の熾烈な競争が待っていると言わねばならない。 第一先進国の精神的バックボーンは、危険な未知領域への冒険に積極的に立ち向かう男性であり、父権である。これに対し、第二先進国のバックボーンは、危険を回避して既知の安全領域の中に座って小さなミクロの発明改良の手仕事にいそしむ女性であり、母権である。

07/27/2008 03:40:54 PM


所属組織への 24時間没入、完全包含

以前、会社員向けの栄養飲料広告で「 24時間働けますか」といった宣伝文句が連呼されていたが、日本の人たちは、自分が入社、入学した、会社、官庁、学校といった所属組織に対して、 24時間、全人的に没入することが望ましい、という考えを持っている人が多いようである。 全時間、全人格を、所属する会社とかのために全面的に捧げる、所属する会社に完全に呑まれる、包含されることが望ましいと考えるのである。そして、部分時間的にしか働かないパートタイマーを、不完全な雇用形態とみなして、見下そうとする。

これは、自分の心身全体を完全に温かく包んでくれる、完全に閉じた球形空間であり、母の母胎として捉えられる。 24時間完全に所属組織に内包、包含されるのを望むのは、所属組織を母に見立てて、全身を温かく、柔らかく受け止めてほしいという心理が、心の奥底で働いているからであり、所属組織への全人的没入は、母性への依存心がなせる業であるということができる。 こうした、母性を体現し、構成員を全人格的に没入させ包含する、構成員にとってお母さん代わりの存在である日本の会社、組織や共同体は、「母的会社」「母的組織」「母的共同体」ということができる。

08/04/2008 05:31:24 AM


漏れるのが怖い・・・鎖国体質

日本の人たちは、自分が所属する会社、学校等の組織の内部情報が外部に漏れるのをとても恐れる傾向があるのではないだろうか? 内部=ウチウチのことはあくまで内密にして、外部に決して漏らしてはならないという、秘密主義の考え方が広く行き渡っているように思える。 こうした外部に対する情報非公開、秘密、閉鎖主義は、日本では、官公庁に限らず、会社から地域集落に至るまで、社会全般に見られる現象である。

最近話題になっている個人情報の保護についても、実態は、社内情報(社外秘情報)の保護、漏洩防止が最も優先すべきことになっており、その点、会社、集団優先の行き方であり、個人の保護というのは、欧米に合わせるためだけの題目に過ぎない感じがする。これについては、集団本位の個人情報保護を参照されたい。

こうした外部に向かって閉鎖的、排他的で、内部情報の漏洩を許さない、自己完結した空間や製品を作ることが日本の人はとても好きなのではないだろうか? こうした外部に対して門戸を閉ざし、自己完結した空間を好む「鎖国体質」が、日本社会の特徴の一つとなっていると思われる。これは、液体のように外部に対して表面積を最小化する表面張力が社会に常時働いていることを示すものであり、日本社会の液体的な特質を表したものとなっていると言える。

また、対内的に、成員が全人的な強い一体感を持つとともに、対外的に、外部の者の進入を許さない膜のようなものを備えている点、母親の母胎を連想させるものであり、日本社会の母性的性質を表したものとなっていると言える。 こうした「鎖国体質」は、日本以外でも、北朝鮮とか、東南アジアとかで広く見られるものであり、広く稲作農耕民に共通する心理なのではないだろうか?

08/04/2008 07:00:15 AM


社会的引きこもり

日本では、いつまでも自宅に引きこもって、家の外で仕事をしたりしようとしない、社会的ひきこもりが問題となっている。 筆者は、この社会的引きこもりは、母への依存、被保護欲求がもたらすものである、と考えている。 いつまでも母親の懐で守ってもらい、ぬくぬくとしていたい、外に出るのが怖いというのが、引きこもりを起こさせる原動力となっていると言える。母的存在に、いつまでも包含され、守ってもらいたいという心理が、引きこもりを起こさせているのである。

その点、社会的引きこもりは、母性社会の申し子であるとも言え、日本では決して異常な現象ではないと言える。 例えば、社会に出て、会社とかで働いている日本人は、一見「引きこもり」とは無関係な、「引きこもり」を解決したかのように見える。 しかし、実際のところ、彼ら会社員は、自分の所属する会社や官庁とかの組織の中に全人格的に没入、一体化して、四六時中所属組織のことばかりを考え、考え方が所属組織第一の閉鎖的なものとなり、所属組織を離れて外に出ようとしない。そうした姿は、広い目で見れば、所属組織内への「社会的引きこもり」をやっているように見える。

すなわち、所属組織を、自分の母親代わりに見立てて、その中に全人的に包含され、その中でいつまでも守ってもらおうとする「被保護欲求」が彼ら会社員の心の中に強く働いており、それが所属組織内、会社内「引きこもり」を生み出しているのである。 彼らは社会人として一見自立したように見えるが、実際のところ、自分の実の母親のもとで引きこもる状態から、新たに、母親代わりの会社、官庁の組織の中に抱かれて、その中に引きこもるように、状態遷移が起こっただけで、引きこもっている状態には変わりがないのである。

その点、社会的引きこもりをすること自体は、日本では、別に恥ずかしいことでも、悪いことでもないのである。 問題はむしろ、経済的に自立できていること、自力で食べていけるようになっていることが実現しているかどうかという方にかかってくると思われる。そこが、ニートの自宅引きこもり(食べていく能力がない)と、会社員の会社内引きこもり(一応食べていく能力を身につけている)の決定的な違いである。

社会的に引きこもりつつも、やはり、経済的な自立のための能力取得は目指すべきではないだろうか?その点、自宅に引きこもりながらもできる資格習得のための通信教育とかの学習機会の用意とかが、社会的にもっと用意されるべきであろう。インターネット上で、ゲームをしながら、食べていくのに必要な能力を、対人的なものも含めて学習できるのがよい。

08/04/2008 07:26:45 AM


嫌われたくない・・・いい子の増殖

日本の人たちは、互いに良好な対人関係の構築に敏感であり、互いの一体感の維持を重要視する。 その点、何をするにもグループ行動が前提の社会となっており、人々は、一人だけ疎外されて、仲間外れにされるのを何よりも恐れる。

そこから、集団や周囲に嫌われたくない、受け入れられたいという強い気持ちが働き、人々は、集団や周囲に受け入れられる子、いい子になろうと必死になる。

そこから、所属集団の規則をよく守ったりするようになる。あるいは、集団への忠誠競争が起きたりする。いわば、所属集団への過剰な適応が起きるのである。

こうした状況下では、自分は本当は~したいという本心は抑圧されるか、あるいはそもそも空(何もない)だったりする。自分にとって、所属する集団が全て、という心理状況が生まれる。

これが、日本社会において、集団の規則に従順ないい子が増殖、蔓延する原因となっていると言える。

08/10/2008 06:10:08 AM


部外者の自由なアクセスを許さない・・・非公開への指向

日本の人々は、自分たちが内輪で決定、作成した事柄について、外部の、余所の人間が介入してくる、アクセスしてくるのを極端に嫌い、ウチウチだけで管理しようとする傾向がある。 例えば、ノートパソコンの修理について、欧米外資系のメーカーには、使用部品を公開し、修理部品を個別に販売して、利用者が自分で分解し、組み立てて直すことを容認している所が多い。いわば、外部利用者が自分たちの設計した機体の中に自由に入り込んで、いろいろいじることを前提とした運用を行っている。

一方、日本メーカーと言えば、利用者が自前で修理することを嫌い、自分で機体の中を開けるだけで保証はなくなります、という非公開措置を揃って取っている。そこには、自分たちの設計、作成した空間は、自分たちだけで永久に管理したい、外部利用者が入ってくることは決して許さないという、部外者アクセスの制限への堅い決意が感じられる。

要するに、部外者、外部の侵入、自由な出入りを決して許さないという、非公開、外部不侵入、内輪結束、限定主義みたいなのが、日本社会全体にはびこっていて、それが社会の秘密主義、閉鎖主義をもたらし、日本社会の風通しを悪くしているように思われる。

08/10/2008 10:13:20 PM


気配り、配慮、遠慮、深読みの無限ループ

液体タイプのみんな一緒なのを好む日本社会では、周囲への気配りや配慮が重視される。 それは、周囲との良好な一体感を保つ、周囲に受け入れられるために必要である。自分の所属するべき集団に一体となって受け入れられることが最終目標となっている。

また、周囲に対して互いに注意を向け合うことで、相互に相手の状態を把握し、互いに相手の自分のことを見て欲しい、尊重して欲しいという欲求に答えるとともに、心理的に緊密に協調していくことができる。 ただし、気配り、おもてなしをするのは心理的に気疲れすることであるし、よりよい気配りを追求していったらどこまで行っても切りがないが、どこまですればよいかの判断が難しいため、無限ループに陥りやすい。

また、相手が自分の配慮のことをどう思っているか、絶えず気になり、さらにそれについて配慮を加えるといったように、配慮の無限ループにも陥ってしまう。

遠慮という形で、気を回して、自分をわざとプッシュしないことで、相手に押しつけがましい感じを与えないようにすることで、相手の気持ちを尊重しつつ、相手に受け入れられようとする行動も頻繁に見られる。

遠慮は、自分からは自己主張をせず、相手が自分の欲求に気づいてくれるのを待つという感じで、受け身である。 また気配り同様、自分の遠慮は、奥ゆかしい感じを演出するためのわざとらしい演技に周囲に見えるかも知れないとか気にして、ならば本当に遠慮しているように見せるには、どうしたら・・・みたいに深読みをしていくと切りがない。

そうした深読みループに陥りやすいのが、この国の人の心理的問題点である。 また、気配りや配慮、遠慮は、その底に、自分のことも配慮してほしい、気づいて欲しいという欲求が潜んでおり、それに周囲の他者が気づかないでいると、自分は周囲にこんなに気を遣っているのにと当人の不満となってやがて爆発する。一見他人本位に見えて、結構、自分本位の虫のいい考え方なのではないだろうか。

08/18/2008 05:04:51 PM


和合と白色

日本人が好きな和合は、各自の持つ意見を、互いにすり合わせて、同じ意見へと合致させて、互いの一体感を得る、ということである。

これは、互いに異なる色の意見を、互いに合わせて、同じ色の意見にしようとする過程であると言える。 その際、異なる色同士を混ぜていくと、光の場合、白色透明の色となる。この点、和合を表す色は、白色であるということができる。 神社において、汚れを落とすみそぎの色は、無垢の白色であるが、この点、みそぎは和合の概念と強い関係を持っていると言える。

09/06/2008 09:39:24 PM


日本社会の父親役としての欧米

日本社会は、母親の勢力が強く、父親の影が薄い母性社会、母権社会である。 そうした、母親がもっぱら目立つ日本社会において、父親の代わりの役割を果たしているのが、社会において父性の力が強い欧米の人々である。 彼ら欧米人の新たに打ち立てる学説とか、テレビとかでのコメント、主張が、日本人にとって、父親によるアドバイスの役割を果たすことになり、日本人は唯々諾々とそれに従うことになる。 日本における父性の供給基地が、欧米なのである。

09/06/2008 09:46:23 PM


仲良しクラブ社会

日本は、互いに気の合う仲良し同士で集まり固まって、その中によそ者を入れようとない閉鎖的な「仲良しクラブ」が寄せ集まって出来た社会である。 そこでは、気の合う仲間同士のウェット、液体的な一体感、和気あいあいとした空気が何よりも重んじられる。 よそ者を入れないのは、彼らよそ者が、仲良しクラブのメンバー同士の和気あいあいとした良い雰囲気を、空気の読めない言動で壊してしまうからである。 そこで、新たにクラブに人を加える時は、慎重に審査して、軽々しく加えないようにするのである。

09/08/2008 03:08:56 PM


待ちの文化、お任せ文化

この国の人は、何か不平不満があっても、内輪で陰口を叩くばかりで、自分からは動かずに、誰か他の人がやってくれる、解決してくれるのを待つというタイプの人が多いのではないか? 地方の農村部とか、自分から進んで自発的に改良運動を起こすのではなく、対策は、誰か他の人、特にお上=政府にお任せ、頼り切りという考え方が根強いように思われる。 そのくせ、誰かが試しに対策を試みて失敗すると、彼を厳しく叱責、弾劾して、八つ当たり、袋叩きにするのである。

09/19/2008 04:45:31 PM


異議申し立て、楯突き禁止社会

この国では、「お上」に楯突いて抵抗すると、ひどい目に遭うのが通例である。 何かお上(これは、場合によって、国だったり勤め先の会社=奉公先だったりする)の政策や待遇に不都合があった場合に、お上に直訴したり、異議申し立てをすると、見せしめに遭うのである。 例えば、正社員と同等の作業をしながら、待遇が著しく悪い派遣社員が、正社員にして欲しいと直訴すると、懲罰的に解雇される、といった感じである。 異議申し立てをした人の人権は、建前だけで、実際には無いのと同じである。 異議申し立ての中身は精査されず、異議申し立てをした、楯突いたこと自体がお上に対する反逆とみなされ、処分の対象となる。 その点、日本社会は、昔も今も変わらず、楯突きや異議申し立てが事実上禁止された社会と言うことができる。 対策としては、日本で異議申し立てをする人は、国内のお上を飛び越して、アメリカとかのスーパーお上に直訴して認められると、見せしめに遭わなくて済む。

09/19/2008 04:53:07 PM


日本社会の雇用状況

日本社会の雇用状況を示す説明図( PDF)です。 現在の日本社会においては、官公庁や大企業が、(厳しい入社試験をパスした)限られた「選民」の人員を内部で囲い込み、外部に対して、内外を隔てる膜を設けて、内と外を区別し、余所者を門戸を閉ざして入れない排他的、閉鎖的な姿勢を取っている。 中小企業、自営業の人たちも、同様に内外を隔てる膜で、自分たちを囲い込んでいる。 それらの囲いの中に入れない人たちが、非正規雇用の派遣社員やフリーターとして、社会の中を、原子のような状態でバラバラにあてどもなくさまよっている。 一方、欧米とかのドライな外資系企業が、常に外部に対して門戸を開き、雇用を求める人をオープンに受け入れるが、厳しい能力査定を行い、できない人は首にしてすぐに外に放り出してしまう。

09/25/2008 06:05:18 PM


なぜ公務員にはストライキ権がないのか?

日本の公務員にストライキの権利が認められないのは、天皇制と関わりがあると言える。 つまり、公務員の奉公先は、昔も今も実質天皇家であり、公務員のストライキは、奉公先の主人である天皇に対して反旗をひるがえすことに他ならない。 昔も今も、日本国内において天皇の権威は最上であり(戦後は戦勝国アメリカがそのさらに上に居座っているが)、天皇に対して反対運動を起こすことは、ずっと天皇中心でやってきたこの国の人には大きな抵抗感がある。そのため、公務員のストライキや労働組合運動は、天皇家に直接楯突く行為として厳禁なのだ。 このことは、この国の人々が、表面的には国民主権と叫びながら、心の奥底では、天皇主権の方が心の座りがよいと感じていることの現われでもある。 この国における国民主権は、アメリカが「スーパーお上」として天皇よりも上にいる間のかりそめの措置である。アメリカがどっか余所に行ってしまうと、日本には天皇主権がすぐに戻って来るであろう。

10/06/2008 11:55:57 PM


教科書通り

この国の人たちは、教科書に書かれていることを重んじ、そこに書かれていることを、権威ある正解と見なす。そして、教科書に書かれていることを、どれだけ正確に多量に覚えているかを、重要視し、その人の能力と見なして評価しようとする。 教科書も、国とかの内容保証を重んじて、国の検定を通っていること、内容面で国のお墨付きがあることを重要視する。国の権威に寄りかかって、物事の正誤判定をしようとする。 これが、この国の人たちの教科書に書かれていることが正解、重要で、書かれていないことは間違っている、重要でないという、硬直した、物事の正誤判定、重要度判定を権威筋に預けた、権威主義的な考え方の温床になっていると言える。 あるいは、教科書の記述の枠の中の安全領域に閉じこもって、そこから出てこよう、外れようとしない、退嬰的な安全第一の女性的な考え方の温床となっているとも言える。

10/16/2008 07:08:11 AM


攻めの社会、受けの社会、クッション社会

日本のアニメ、コミックとかで、男性同士の同性愛(ボーイズラブ)を好む女性たちが、よく「攻め」「受け」という概念を使うが、この概念は、日本社会と欧米社会の特徴を表すのにも有効である。

欧米は、ドライな気体のように、対外的に自由かつ能動的、積極的に、攻め込んで、放っておくとどんどん突っ込んでくるタイプの社会であり、攻めの社会と言える。

一方、日本は、ウェットな液体のように、自分から自主的、自由、能動的に動くことをせず、自分からはあまり発信せず、外からやってくる相手や運命をひたすらそのまま受容し、受け止める、受けの社会と言える。

例えば、欧米が女性解放をうたうフェミニズムを掲げて、どんどん布教し、攻めてくるのに対して、日本は、自分たちの社会が女性、母性優位であることを、自分からは発信せず、ひたすら欧米の布教内容を、受け入れ、受け止め、クッションになって吸収し、呑み込んでいく。

その結果、全世界的、普遍的に、男性優位であり、母権制は滅んだという神話が成立してしまうことが起きている。 従来、性差に関する言論においては、攻めの男性に比べて、受けの女性は下位である、力関係で劣るみたいな主張が数多くなされている。女性が社会的弱者である証拠みたいな言い方もされ、女性はもっと受け身でなく、自己主張をしないといけないみたいな主張も頻繁に見かける。

しかし、それは、受けの女性の持つ本当の力の大きさ、恐ろしさを知らない物言いであるということができる。 受けは、突き詰めていくと、全ての攻めを包含、呑み込み、吸収して、すぐ元の形状に戻り、びくともしない、動じない、巨大クッション、底なし沼として立ち現れる強大な存在である。従来、臨床心理の分野でグレートマザーと言われてきたのが、これに該当する。

これを例えばセックスに当てはめると、男性がペニスを挿入し攻める役割であり、女性がそれを受け入れる、受けの役割であるとされている。この場合、男性が何回射精しても、女性が何回オーガズムに達しても、女性が、それがやみつきになって決して満足せず、快感や次回の射精を永久に求め続けて、セックスをいつまでも止めようとしないことを考えれば分かりやすいと思われる。

こういう女性は、男性の精を全て受け入れ、吸い尽くしてしまう存在であり、男性は最初の内は元気に攻め込んでいても、やがて全てを女性に吸収し尽くされて、げっそりやつれて、終いには倒れ、死んでしまう。

こうして見ると、受けは、実は強く、恐ろしいものであり、決して侮ってはいけない代物であるということが分かるであろう。

これは、文化においても同様である。 従来、外に向かって攻め込むのを得意とする、発信型、攻めの欧米が優位に立ち、外からやってくる文物をひたすら受け身で受け入れ吸収するだけの受信型、受けの日本は、どちらかというと劣っているみたいな言い方が頻繁になされている。

しかし、上記の受けに関する説明からは、これとは違った見方ができると言える。 日本社会は、根源的に、欧米からの全ての攻めを包含、呑み込み、吸収して、すぐ元の形状に戻り、びくともしない、動じない、巨大クッション、底なし沼として立ち現れるのであり、こうした吸収力、復元力の強さこそが、受けの社会である日本の強さの原動力であるということができるのではないだろうか。 その点、受けの日本社会は、強くありたいと思うのなら、巨大クッションを目指すべきなのだ。この主張は、日本=クッション社会と言うことができる。

上記については、筆者のクッションの性、ショックの性に関する著作も参照されたい。

11/05/2008 10:59:43 AM


鉄道王国日本

日本は、世界の中でも、鉄道の極めて盛んな国だと思う。 東京や大阪のような大都市圏の人々の社会生活は、縦横無尽に細かく張り巡らされた鉄道網によって初めて維持されていると言って良い。特に、通勤ラッシュでの大量の車両による、正確な時刻を守った一糸乱れぬピストン輸送は、日本の鉄道の輝かしさの象徴である。

もう一つの特徴は、新幹線に代表される、高速鉄道網の広がりである。新幹線は、その高速性、定時性、運転本数の多さがもたらす輸送力の大きさ、といった要因によって、日本の長距離旅客輸送を航空機と激しく争ってきた。

このように、社会生活維持に鉄道が欠かせないというだけでなく、鉄道が人々の心に深く浸透しており、潜在的な鉄道ファンの数が多いことが、日本の鉄道が盛んなことのもう一つの証拠である。

この間の、初代東海道新幹線車両の引退が、国民の間に大きなフィーバーを起こしたりしているのにも現れているように、日本国民が、広く「一億総鉄道ファン」みたいな感じで、鉄道を愛していると言える。

では、何が、日本人を鉄道に引きつけているのだろうか?いくつか要因を挙げてみる。

・時刻の正確さの保持と、超高密度・精密運転の両立がもたらす高度な秩序感が、そういった正確さ、精密さ、秩序が好きな日本人の性質に合っている。

・線路がずっと日本社会の中央部までつながっているという、連続、連結、連絡感が、そういった中央政府とのパイプやコネを好む日本人の性質に合っている。

・鉄道車両は、自動車やバス、航空機よりも車内が広く、居住性がよい。また、車内は、金属板で守られた、安全、安心感のある空間である。また、決められた線路上を走ることで、ハンドル操作無しに、目的地まで半自動で連れて行ってくれるお任せの度合いが強い。そうした居住性、安心感、お任せ感が、そうした点を重視する女性的な日本人の性質に合っている。

・列車を通じた、車内や行き先での鉄道員や地元の人々との触れ合い、交流、コミュニケーションの促進、あるいは視覚や味覚を楽しませる地元名産品や駅弁とかとの出会い、生理的快感が、そうした対人関係や交流、感覚の心地よさを重んじる日本人を惹き付けている。

むろん、鉄道が好きなのと、実際に利用するのは別なのは、地方のマイカー普及と赤字鉄道路線の多さを見れば一目瞭然である。

そうした赤字路線でも、それなりの存在意義があるのは、ある程度の長距離を、身一つ、あるいは荷物を抱えて移動する乗客には、これより他の適切な代替手段がなかなか存在しないというのがあるのではないか。 道路は、どこでも引かれるが場所によっては全く人も車も通らないことがある、野ざらし放置で、色んな雑多な車が無秩序に流入してきて、渋滞とかで目的地にいつ到着するか予想が立ちにくい。

そうした道路の上を走るバスや自家用車と違って、鉄路は、敷設場所を選ぶが、他車の流入を許さない専用の軌道を持ち、きちんとした運行のための専用設備が絶えず保守点検され、運行している限り待てば必ず定刻に列車がやってくる、通るという、運行の専用性、定時性、確実、安定性が、そうした性質を重んじる日本の人々の心を惹き付けているのは間違いない。

12/11/2008 09:45:10 PM


日本人のヒステリー体質

日本の人は、感情や情緒に流されやすく、絶えずピリピリしており、ヒステリーを起こしやすい人たちだと思う。 何かにつけてピリピリと感情を爆発させ、「早く○○しなさい!ダメでしょ!」みたいに相手に対してカッとなって瞬間的にスパッと根拠無しに断定的な物言い、決めつけをする人が多いと言える。あるいは、何かと言えば、激高して、「絶対、必ず○○するぞ!!」みたいな感じで、最上級の感情表現をいともたやすく使う人が多い。

このヒステリー体質は、個人だけでなく、社会や集団全体が、ヒステリックな面を持っており、例えば戦前の陸海軍の軍隊で、「上官の命令には『絶対』服従」「天皇陛下は『神聖不可侵の』『絶対』の存在だ!万歳!」みたいな感じで、やたらと絶対を叫んでいたのに現れていると言える。

こういう大げさな感情的表現は、会話とかで男性よりも女性の方が使う頻度が高いとされる。日本社会がヒステリー体質であるのは、日本人が女性的であることと関係が深いのである。

12/11/2008 10:16:45 PM


日本のいわゆる良識派、「良い子」と減点主義、退嬰性

日本人は、基調としては、間違いのなさ、無難さ、事なかれ、大過ないことを重んじる人が多い。積極的な長所を見いだすよりは、相手のマイナス面を細かくチェックして、取り立てて落ち度、欠点がないことが求められることが多い、減点主義社会であると言える。

積極的に冒険して失敗すると、大きく減点されるので、あらかじめ決められた確実で大丈夫なことだけ大事を取って行うという風潮がある。

これは、欠点、傷を少しも許さない完全主義にもつながっている。表面の極めて滑らかで傷一つ無い陶磁器を愛好するのと根が一緒である。

また、良識派というか、とかく良い子ぶって、自分は落ち度のない正義の申し子みたいな顔をして、相手の欠陥を批判したり、意見や説教を垂れる人が多いように感じる。新聞社みたいなマスコミの社説とかこの手の人物に事欠かない感じだ。

自分は安全地帯に逃げ込んで高みの見物を決め込み、次に何が待ち受けているか分からない最前線で悪戦苦闘して、試行錯誤を繰り返す中で結果的に問題や事故を引き起こしてしまう人員を厳しく叱咤するような雰囲気が漂っている。

現場に出ないで、安全な奥の院から処罰命令を繰り返す経営幹部みたいな感じである。

何事も安全、安心第一で冒険、試行錯誤による失敗を恐れ、問題なく、大過なく、何も積極的な行動を起こさずに、身を低くしてやり過ごす、役人、女性みたいな退嬰的雰囲気が日本社会全体に漂っていると言える。そうして身につけた落ち度、欠点のなさを武器にして、落ち度、欠点を出した人を非難して、自分が上位に立った気分に浸って満足しているのが、この国の「良識」人の実態である。こうした良識人、「良い子」が、日本社会に蔓延している。

12/11/2008 10:47:36 PM


個人の有能さを認めない社会

大相撲で、横綱の朝青龍が優勝する勢いで勝ち続けていたとき(結局優勝したが)、在阪のラジオ局で、「朝青龍が勝ち続けているのは、朝青龍が有能だからか?それとも、周囲の力士がふがいないからか?」という質問を視聴者に質問したところ、「朝青龍が有能だからではなく、周囲がふがいないからだ」という回答が圧倒的であった。

この回答は、個人の能力面での突出を、個人の有能さではなく、その個人を取り巻く集団の無能さが原因であるとするものである。

上記の回答では、個人が能力面で周囲を超越しているように見えるのは、たまたま周囲がダメだからで、その個人が優秀、有能だからではない、という感じであり、個人による能力発揮に否定的な、有能な個人の突出を認めたくないという思いが、強く見え隠れしている。そこには、能力ある個人のことをそのまま手放しで評価したくないという、妬みの根性が透けて見える。

また、個人の優秀さをプラス評価するというよりは、取り巻き集団のマイナス面を評価するという感じで、考え方が減点主義であり、個人や集団のマイナス面を見よう、マイナス面を見つけ出して、その人の芽を潰そうという魂胆も見え隠れしているように思われる。

あるいは、評価対象として、突出した個人をターゲットにしようとせず、周囲の集団を評価のベースにしようという考え方であり、個人よりも集団重視の見方が見て取れる。

01/26/2009 12:31:56 AM


「漏斗(ろうと)モデル」 最終完成品出力機としての日本と、技術・原料の一方通行

日本の人たちは、欧米から、今までに無い新しいが、荒削りで未完成な様々な広範な要素技術を導入、消化吸収して、小改良を重ねるのが得意である。

それと共に、海外から、日本では産出しない様々な原料をたくさん輸入しようとする。

そうして、それら技術、原料を互いに組み合わせてパッケージ化して詰め合わせ、 1まとまりに凝縮すると共に、その過程で、パッケージに磨きをかけて、完成度を高めたものを、最終出力として、体外に排出する。

要するに、日本は、諸技術、諸原料を組み合わせ凝縮した最終完成品の出力機なのである。 そこには、海外からの技術、原料の一方的な導入と消化吸収 →技術、原料の組み合わせ、相互凝縮(と高度な磨き上げ) →最終完成品製品の海外への出力、排出という、一方通行の流れが存在する。 これは、ちょうど、漏斗(ろうと)の周辺部に水をバラバラにかけると、それぞれの水が下方向へと一方的に流れ下り、互いに狭い筒の中で、互いに組み合わさり、凝縮され、相互一体化して、磨きをかけられたところで、最終完成品として、筒の下から、外部に出力、排出、落下するのと同じ理屈である。

これは、「漏斗(ろうと)」モデルと呼ぶことができる。 特徴は、入力が専ら欧米先進国の要素技術、日本自国では採れない原材料であり、出力が専ら、導入技術と原材料を組み合わせ、高度に加工、凝縮したところの最終完成品、といった感じで、文物の流れが一方通行であることである。ちょっと汚い話だが、食べ物の摂取、消化吸収、便の排出の一方通行性とも似ている(「排便モデル」とも言えるかも知れない)。

自分からは、(欧米のように)新規の独創的なアイデアを産出しようとはせず(自分からは出すのが苦手で)、欧米産の新たなアイデアを一方的、機械的に直輸入して、それらのアイデアを互いに組み合わせ、小改良して、最終的な売り物の製品を、物言わずにひたすら一方的に海外に向けて出力するというのが、日本の取りがちな行動であると言える。

最近は、日本国内では製造せず、より人件費の安い中国とかに製造を委託することが大半となっているが、商品製造の根幹部分を占める高度に改良された技術の持ち主という点では、日本人がまだ握っていると言え、「漏斗モデル」は健在であると言える。

01/26/2009 12:56:22 AM


先生頼み

日本国の人は、何かにつけて先生役の人を求めたがり、ありがたがる。 何か知らない状態で、自分自身で試行錯誤して解法が分からないまま未知の失敗を重ねるのが怖くて、既に上手な成功例、解法を知っている先生にすぐに頼ろうとするのだ。 なので、先生がいないと、自分からは何も出来ない。ひたすら、教えてもらいたがる傾向がある。生涯学習と言えば聞こえが良いが、裏を返せば、生涯先生に頼り切り状態が続くことになる。

先生役の人も、自分から未知のことに手を出して失敗する(、そして笑われる)のが怖いので、更に上の先生役、師匠、権威者を見つけて、そこから教えを請い、やっとの思いで教えてもらったことを、未だ知らない生徒役の人に向かって、今度は打って変わって偉そうな態度で教えるのだ。

日本では、先生(大学教授とか)が、知識を持っているからというそれだけの理由で、やたらと偉そうに威張ることが許されている。自分では何も新たな知識を生み出さず、更に上の先生役(先輩とか)から教えてもらったことを、横流ししているだけの場合でもである。

日本人が、欧米に対して、内心劣等感を抱きつつ、やたらとその文物を有り難がり、崇拝するのは、欧米が、日本にとっての先生役、先導役を今なお果たしているからである。日本と違って退嬰性が薄い欧米は、自分で未知のことに試行錯誤や失敗を繰り返しながら真っ先に乗り込む結果、払う犠牲は大きいが、先んじて新たな知識に触れることが出来、それゆえ日本に対して恒常的に先生であり続け、日本人から「スーパーお上」扱いされて崇拝され、頼りにされるのである。

そのことが、日本人が、欧米の新たな文物( iPodとか)の登場に敏感に反応し、やたらと賞賛し持ち上げ、有り難がって、一生懸命その真似をする、ひたすら消化吸収のための学習をする、そして自分では何も考えず判断停止状態のまま、日本社会に欧米文物を機械的に直輸入する姿勢をもたらしていると言える。欧米の新たな文物を人より先んじて手に入れる、学習、習得することで、自分自身が先生になれて、まだ知らない人に向かってたっぷり威張れるのである。

日本の大学教授とかは、その感覚が美味しくてたまらないのだろう。何しろ、自分では何も冒険、失敗の危険を冒さずに、欧米産の新事実を、何も考えず、そのまま頭を下げてデッドコピーしたのを、ただ左から右へと横流しするだけで、権威者扱いされ、先生として尊敬されるのだから、止められないね。

先生を何かに付け求めたがるのは、失敗したくない、危険を冒したくないという退嬰性がその根底にあり、元をたどれば、何事も保身第一で行動する女性性の現れと言えるのではないだろうか。 日本人の先生頼りな性質は、日本人の根本に持つ女性的性質、女々しさと深い関係があるのかもしれない。

01/30/2009 11:43:43 AM


詰め込み主義と国際的競争力

日本の人は、狭い面積、体積の空間に、できるだけたくさんの内容を、これでもかと言わんばかりに、ぎゅうぎゅうに詰め込んで極限まで凝縮、圧縮して、超高密度でできた製品やパッケージを、効率よく生み出すのが大変得意である。

代表例は、小型のモバイルノート PCである。大型のノート PCと変わらぬ働きをする部品を、可能な限り小型化、軽量化を図り、小さなパッケージの中に、まったく隙間がない、完全に凝縮された形で押し込め、製品としてきちんと動くところまで持っていく、高精細さを保持する技術は、大変優れていると言える。

日本が、世界に対して製品面での競争力を維持するには、この高密度詰め込み技術を保持、洗練していくことが重要であると言える。今までそれで成功してきたし、今後も並ぶ者は無いだろう。 こうしてみると、日本の学校教育での、詰め込み主義による大量知識の暗記タイプの教育もまんざら捨てたものではないことが分かるだろう。小さな所への詰め込みが得意な、国際的に競争力のある人材を、何のかんの言いながら育てることに成功しているからだ。問題は、詰め込む内容が、実社会に出て何の役にも立たない歴史上の年号だったりする点にある。

02/11/2009 12:13:40 AM


限定好き、枠好き

日本人は、 DVDとか、コレクションで限定版を購入するのが好きだ。表面的に見れば、数が限られているから、値打ちが出るだろうという読みが人一倍好きなようだ、と解釈できる。 しかし、もう少し考えてみると、この国の人たちは、限定したり、狭めたり、制限したりするのが、本質的に好きであり、反対にどこまでも自由気ままに広がったり、動き回ったりするフリーな、無限な状態を本質的に嫌うことが多いのではないだろうか。 自分の動きや考え、人付き合い等をある一定の枠内に限定し、その枠内だけで物事を考えようとしたり、完結させようとするのが、この国では一般的なのではないだろうか。

例えば、中央官庁とかで、職員が自分の所属する省庁のことのみを考えて、自分が所属する省庁「○○省一家」の利害を背負って代表して行動しているのだ、みたいな考えが横行し、省庁の枠を超えた普遍的な利益について考えが及ばないことが多いのではあるまいか。省庁を会社に置き換えても同じことが言える。 日本人は、自分が所属する小さな限定された小宇宙、ムラが、自分の全人格を没入させる対象となり、その中にのみ閉ざされた狭い、他人の体温の温かい、息の詰まるような親密さの中で生きているのである。 自分が属する他の世界がどうなろうと知ったことではない。自分の属する小世界が安泰であれば、他はどうでもいい、という、限定された視野の持ち主、セクショナリズムの考えの持ち主が、日本中で、今も昔も変わらず跋扈しているのである。

02/11/2009 12:31:27 AM


個人の抑圧、無私、滅私奉公、緊縛が好き

この国の人は、厳しい修行や鍛錬に重きを置く人が多いように思う。 学校の生徒や会社の社員とかの個人が好き勝手に動かないように、楽をしないように、なるべく厳しく律し、抑え込むことが良いと感じる、学校の教職員や、会社のマネージャーが多いのではないか。 個人の自由や意思は、なるべく抑圧し、個人が所属する団体(学校、会社、官庁・・・)やその支配者(同族会社なら創業者一族、官庁なら天皇)に、滅私奉公で己の全てを自己犠牲で捧げる(捧げさせる)のが望ましいという考え方があるのではないか。

欧米のように、個人を自立した粒子として独立させて生かしながら、自由に動き回るドライな粒子同士を組み合わせて、何か大きな組織を作る、仕事をするという考え方には立っていない。 個人は、所属団体に一体化して、完全に融けて無くなる、無私の状態になるのが、この国では望ましいとされ、そのために、個人を極力押さえつけ、抑圧する厳しさが好まれるのだと言える。 この国では、そうした個人を縛り上げる行為が、セックスの緊縛行為ではないが、縛る側も縛られる側もそれぞれサド・マゾな快感を覚え、病みつきになっている感じである。会社組織とかでの、上司部下とか、先輩後輩の上下関係の連鎖が、そのままサド-マゾ連鎖になって、個人の縛り合いに興じているのが、日本の団体、集団の姿である。

03/01/2009 07:07:07 AM


和の精神が、日本社会が遅れる原因となっている

先日、あるアニメを見る機会があった。同じ学校に通う登場人物たちが、生徒会長の座を賭けて、運動会で各種の競争をするというものである。 その中に、二人三脚の競技場面があったが、印象的だったのは、二人三脚で走っていた競技者たちが、個人で単独で走る競技者に速度の面で負けた場面であった。 各個人がバラバラで、単独で走る方が、二人が共同歩調を取って、タイミングを合わせて「和合して」走るよりも速いということである。

これを社会の進歩に当てはめてみると、個人がバラバラに独立して互いに周囲と無関係に、衝突や訴訟を起こしながら自由に動き回る社会の方が、各個人が互いに周囲と動きを合わせ、調整をして、仲良く和合、一体化して動く社会よりも、進む速度、進歩の速度が速いということになる。 つまり、各粒子が互いに離散する気体タイプのドライな社会の方が、各粒子が互いに接近、一体化する液体タイプのウェットな社会より動きが速いのである。現に、気体は、液体よりも速度が高速である。

これを日本社会と欧米社会の比較に当てはめると、日本社会は、人々が相互に仲良く一体化して、和合状態を作り出し、それを維持しながら共同歩調、護送船団で動く社会であり、それゆえ、人々の相互の歩調調整、合わせに余分な手間暇、時間コストがかかって、人々の動きがどうしても遅くなる。一方、欧米社会は、人々が勝手にバラバラに、互いを冷たく突き放しながら、自分個人の利益のために動く社会であり、各自が行動する上で他者との歩調調整、合わせに必要な時間コストを余りかけないで済むため、高速で動けると言える。

これは、旅行とか出張とかで、団体行動よりも単独行動の方が、身軽で素早く行動できるのと根が同じである。

こう考えると、日本の和の精神の特徴である、周囲と仲良く共同歩調を取って、互いにタイミングを合わせながら進むという液体的でウェットな行き方そのものが、互いの歩調調整、合わせのための手間暇を余計に必要として、行動に余計に時間がかかるため、科学技術面で、そうした個人間の合わせをしない、単独行動優位の欧米社会に比べて後れを取る根本原因となっているように思われる。

04/09/2009 05:15:20 PM


鉄塔型社会と水滴型社会

欧米社会では、上方の天空を指向して、上へ上へと伸びる、ごく少数のトップを頂点にいただく、高い鉄塔のような、鉄骨、鉄パイプのような硬質、頑丈な骨組みにより計画的にがっちりと固く構築された、隙間空間のたくさん開いた、見通し、風通しの良い、垂直方向に上下の格差の激しい、ごく少数の上位者の下に、垂直方向、上下方向の骨組みを形成する形で中位、下位者が存在する、命令服従系統の厳しい序列が存在するハードな構造の男性的な社会ができあがっており、鉄塔型社会と呼べる。

一方、日本とかでは、水平面の上に付いた水滴のように、トップの下に、上位の支配層が高密度で分厚く存在し、その下に「一般ピープル」の中間層が一番の多数派として一番幅広く存在し、その下に底辺層が底面と付く形で存在する、余り上下の格差が開かない、どこを取っても高密度で隙間が無く、風通しが無い、外圧に応じて簡単に変形するソフトな構造の女性的な社会ができあがっており、水滴型社会と呼べる。 この場合、水滴の中の支配層は、一番上にいるのではなく、一番奥まって安全であり、かつ社会の中枢部を押さえられる、水滴の一番中央、真ん中、コアにいるということも考えられる。その場合、コアにいるほど上位で、水滴表面に近づくほど底辺となる。

04/10/2009 03:42:47 PM


終身雇用、年功序列と同色染色、純粋培養、純血性保持指向

現代の日本社会では、終身雇用をなくそうという発言があちこちでなされている。 それは、主に、経営層からの、従業員のリストラをしやすくしたいとか、従業員側からの、他業種、他企業への転職を容易にしたいとか、若年就職氷河期層からの、ある程度年齢が行ってからの正規雇用の受皿を増やして欲しいとかいった欲求から来ている。 そして、主にアメリカ等での雇用の流動性の高さを手本にして、日本も変わるべきだという論調になっている。

しかし、実際のところ、終身雇用をなくす、新卒でなく中途採用をデフォルトにする、というのは、現在の日本では困難であると考えられる。 その困難さの原因を作っているのが、組織の構成員が一つの組織の中で純粋培養され、他の組織の異質な色や血が混じらない純血性、一体性を保っていることを本質的に好む、この国の人たちの体質である。

一度一つの組織に入ったら、ずっとそのままその組織に定住して居続け、その組織の純粋な色に染まり、組織と完全に一体化し、溶け込むことが望ましく、そうして出来上がった一体秩序を乱す他の異質な色や風土に染まったよそ者の乱入を好まないという伝統的な「純粋培養指向」「純血性保持指向」の価値観が終身雇用を望む心理の根底にある。

同じ色に染まることによる相互の一体感、融合感の確保と、それを阻害する異質、異色な分子乱入の阻止が、この国の人たちの基本的な考え方である。同じ共通の母胎の中に、限られた同じ仲間とだけ一緒に仲良く抱かれていたいということだろう。

この考え方では、現状、組織に新たに入ってきて良いのは、まだどこの色にも染まっていない「白紙」状態の新卒だけということになる。新卒採用がやたらと幅を利かせるゆえんである。

こうした、「所属組織と同じ色に染まることがよいことだ(同色染色指向)」「所属する組織がずっと同一、一種類なのがよいことだ(純粋培養指向)」「同じ血の流れている相手とだけ一緒にいることがよいことだ(純血性保持指向)」の価値観を日本の人たちが改めない限り、終身雇用はなくそうとしてもなくならないであろう。

年功序列の維持にしても、現状やたらと、年齢が上がるほど賃金が高くなる、という側面ばかり論議の対象になっているが、実際のところそれが年功序列の本質ではない。

年功序列の本質は、組織の構成員は一つの組織に長く居続けるほど、より濃くその組織の色に染まるのであり、より濃く組織の色や風土に染まった、それだけ組織により強く一体化した者ほど、より敬われる、上位者として扱われるという考え方である。

同じ組織にずっと居続けることで、その組織の色への染色度合いが年々高まっていき、染色度合いの高さによってその人の組織内での序列、優先度が決まるというのが年功序列の本質である。 賃金の年功による向上云々は、上記の年功序列の本質の中のサブカテゴリの一つに過ぎない。もしも賃金面や役職面で組織年功の高い人を上位に置くことが企業の経営的に難しくなったとしても、それ以外の心理面で上位者として敬うこと(天皇を象徴として心理的に上位者として敬うのと同じ)を続けることで、企業での年功序列は十分維持可能とも考えられる。

ちなみに、欧米でも、フランスとかは終身雇用らしいので、欧米かぶれでかつ終身雇用が好きな人は、フランスを真似て政策提言すればよいのではないだろうか?

04/14/2009 01:41:32 PM


表向きドライ、本心ウェット?

日本人は、アンケート調査とかで表向きドライな態度を取るが、その奥にある本心はウェットなのではないだろうか? アンケート調査とかで、あなたはドライかウェットか、どちらですか、と質問すると、ほとんどの人が、自分はドライですと回答する。この結果から見ると日本人はドライになったのかと錯覚する。

ところが、実際に日本社会で生活していると、人間関係がべたべた湿っていて、わずらわしく、閉塞感に満ちている。学閥、先輩後輩関係に代表されるような縁故関係が社会中をバッコしており、所属する会社、学校等の組織、集団のことが何よりも最優先で、個人の人権はそれらの前には風前の灯であることが実感される。日本社会やそれを構成する個々の日本人の性格は、戦前と変わらずウェットなままなのではないかと想定される。 日本人が表面でドライな態度を選択するのは、強力な欧米指向、すなわち自分のことを、ドライな欧米先進国の一員とみなし、東アジアの他国を、そうした先進国一員の日本よりも、格下とみなす心理が働いているためと推測される。特に、戦後は、日本を占領したアメリカが作成したドライな性格を持った日本国憲法が、戦前の神道に代わって、あたかも宗教のように、不可侵のものとして崇拝の対象になっており、「日本国憲法教」みたいな感じになっている。なぜ崇拝の対象となったかと言えば、天皇がアメリカの前に敗者としてひれ伏したのと、平和主義みたいな日本国憲法の理念に従って行動したら、高度経済成長を実現して、成功し、繁栄したからである。

こうした点、日本人には、表面、表向きのドライさとコアのウェットな本心との乖離、矛盾が存在するのではないかと考えられるが、アンケート調査では、回答者の表向きの面がもっぱら捉えられ、コアな本心には到達できていないということになる。 なぜ、ウェットな本心に到達できないのか?それは、アンケート調査とかでは、本心が、取り繕った表面経由で外に出るため、ウェットな本心がドライに変質して回答されるためである。

この問題を解決するには、アンケート質問する前に、心の奥にしまい込まれたウェットな感情を予め表に引っ張り出してから、アンケート質問を行う必要があるといえる。 要するに、

・人々が奥にあるウェットな本心を他者にさらけ出す場である、学閥やムラ社会的な雰囲気、

・そうしたウェットな派閥やムラ社会での自分が取っている行動、

・その中での他者の(ドライな)行動に対する自分の感じる感情、

を思い出させる手続きを、アンケート調査手続きに含めることができれば、人々は、自分を本当はウェットであると「思い出し」、そのように回答すると考えられる。 今後は、こうした方針で日本人の性格を測定することが必要になってくるのではないか?

06/06/2009 04:52:49 AM


日本国憲法教

日本は、戦後は、日本を占領したアメリカが作成したドライな性格を持った日本国憲法が、戦前の神道に代わって、あたかも宗教のように、不可侵のものとして崇拝の対象になっており、「日本国憲法教」みたいな感じになっている。憲法の内容は、聖典としてほとんど改変不可能な状況である。

なぜ崇拝の対象となったかと言えば、戦後、天皇がアメリカの前に敗者としてひれ伏したため国家神道の正当性が失われたのと、国民が国家神道ではなく、日本国憲法の理念に従って行動したら、高度経済成長を実現して、成功し、繁栄したからである。それゆえ、信じるとよいことが起こる、得をすると、日本人が皆思うようになり、信仰にまで発展したのであろう。 日本人は無宗教になったと言われるが、実際のところ、日本国憲法が国教、国家、国民の宗教と化しているのではないだろうか?実際は、国家神道代わりの「『日本国憲法』教」という宗教を信仰しているのである。

06/06/2009 05:35:44 AM


同格同士のライバル視と対案提示合戦

日本の組織は、官庁であれ、会社であれ、学校であれ、互いに同格同士ライバル視し合い、同格同士の相手、ライバルの決めた仕様を、自分のところで決して採用せず、別の対案を作ろうと必死になってエネルギーを注ごうとする傾向があるのではないだろうか?同格の相手に合わせたら負けみたいな雰囲気が漂っている。

同格同士、互いにけん制して、自分のところの案が他方に吸収合併されて消滅しないように、自分のところの案の存亡を賭けて、相互に妨害しあうのである。その結果、施策、仕様が各社ごとにバラバラになって統合されないことが起きる。 例えば、同格の総務省と経済産業省とで、一方が何か施策を発表すると、他方がそれをかたくなに取り入れず、別の、その省庁独自の対案を出すため、施策にダブりが生じて、不経済なことになっている。

あるいは、同じ業種のメーカー同士で、製品の仕様を共通化、規格化した方が、コストダウンや市場の拡大とかで好都合そうなのに、なぜか、他の自分と同格のメーカーの製品仕様を決して取り入れようとせず、自社独自の仕様にこだわる行動が頻繁に見られる。例えば、 1980 90年代のパソコンで、同格の NECと富士通が互いに別々の仕様のパソコン販売にこだわり、互いに相手の仕様を拒否して取り入れなかった動きがこれに当たる。

政党でも、同格の自民党と民主党が、ほとんど同じような政策を互いに提案し合い、互いに潰し合っている。 こうした同格同士の相互の相手提案拒絶と対案提示合戦を止めるのは、彼らより更に 1ランク上の「お上」の仲裁以外に存在しない。その点、日本社会のトップは、複数の同格がいるのでは駄目で、他より 1ランク上位に抜き出た単独の別格上位者の存在が必須である。

そこら辺の事情をうまくまとめた欧米を初めとする海外勢に、いつのまにか国際標準仕様を提案され、おいしい所を持って行かれてしまうことも頻繁に起きているようである。 1990年代のパソコンについて言えば IBMによる DOS/V規格の市場席捲と国内各社独自仕様の PC9801 FMRシリーズの消滅とかがそれである。

06/06/2009 05:49:15 AM


経験偏重社会

日本の会社は、転職やリストラ後の再就職で、実務経験者しか採用しようとしない。資格(例えば情報処理分野で言えば、応用情報技術者とか結構高度なもの)を持っていても、会社での実務経験がないと採用されない。採用されるのは、どこの色にも染まっていない新卒者か、経験者か二者択一である。

日本社会は、「やったことがある」人や状況を何より重視する。逆に言えば、「やったことがない」人や状況を嫌うのである。すでに経験していること、事前(にこうすれば成功するという)情報があることを重んじ、好み、一方、経験がないこと、事前情報がないことは極力避けようとするのである。自分から未知、未経験の荒海に漕いで出ることを恐れる、「未経験回避」が、社会の慣わしになっている。 その点、既卒者や年長者が、未経験の分野で、一から始める「再チャレンジ」が難しい社会となっている。

06/06/2009 07:01:06 AM


個人情報保護と、日本社会の「覗き」「内情隠蔽」体質

最近の日本の人たちは、個人情報の保護にやたらと熱心である。最近では、年金や医療等の社会保障に関する情報を国民一人一人について一元化して便利に扱えるようにすることをねらった「社会保障カード」の政府案が、個人情報が漏れた時の影響が大きいとして、猛反対が起きて、結局情報の一元化が取りやめになったりしている。 では、この国の人たちは、なぜそんなに個人情報保護にこだわるのか?筆者は、その原因として、日本社会が、やたらと、個人の内情についての噂が広まりやすい、個人の内情を皆で覗き見しようとする体質を持っているため、個人情報の漏洩の影響が大きいのが原因と考える。

この国の人には、漏洩した個人情報を、皆でよってたかって面白がって広め、閲覧し、噂話の種にしようとする社会的な傾向というかモチベーションがあるように思われる。 また、覗き見体質というか、他人の内部情報を覗き見するのを好んだり、そもそも他人の内情が気になって仕方がなくて、そのことにいつも興味津々である人が多いように思われる。 この国の人たちは、そうした自分たちの体質を熟知しているからこそ、その体質が自分本人に影響を及ぼすのを恐れ、やたらと個人情報保護にうるさいのだと考える。

この国の人たちが個人情報保護に熱心なことの根底には、個人の内情が漏れるのを嫌う閉鎖性、隠蔽体質が存在し、それは、覗き好きと表裏一体になっているのである。 要するに、自分個人の内情は漏れて欲しくないが、他人の内情は興味津々で知りたくてたまらない、漏れるのを心待ちにし、いったん漏れたら皆で噂話の種にして広めたい、という相反する心理が、個人情報保護に関するこの国の人たちの動きの根底にあるのだと言える。

06/14/2009 07:32:53 AM


100点満点指向

この国の人で、特に東京大学とかの秀才と呼ばれる人たちは、テストとかで、 100点満点というか、失敗、ミスの全く無い、完全無欠なのを目指そうとする人が多いように思われる。 とにかく、正しいこと、間違いのないこと、確実なこと、失敗しないことのみを覚えたり、実行しようとするのである。

このように満点を求める傾向は、ミスを恐れてチャレンジしない退嬰性につながる。 また、自分の言っていることが正しいことを保証してくれる、より上位の権威者の存在を求めること、権威主義につながる。あるいは、合っていることが保証された既存の定説に心理的に寄りかかり、定説以外の新説を、定説でないというそれだけの理由で一律に却下したりすることにつながる。

論文の執筆とか、学会発表とかで、決して間違えてはいけないと思って、精神的にしゃちほこばり、ぎこちなくなる。少しでも間違ったことを書いて、ミスとして指摘されることを極度に恐れるようになり、ひたすら既存の定説を自分の中にため込むばかりで、自分からは新しい論文が書けなくなる。 こうした退嬰性やミス、失敗を恐れる傾向は、何事も安全や保身第一な女性的な傾向であり、秀才の精神が女流であることの現われである。

06/14/2009 07:56:33 AM


ウェットな液体社会日本のドライ・気体な人たち

ウェット、液体的な日本社会で自分のことをドライ、気体的であると認識する人には 3種類あるように思われる。

1つめは、本当は、ウェット、液体的な日本的集団に正規で入社したいのだけれど、入れて貰えない非正規社員、職員の人たちである。 集団に門前払いされて入れて貰えず、一人孤立して疎外感を味わっている人たちとか、所属している /していた集団から落ちこぼれたり脱落して一人ぼっちになった人たちが、自分のことをドライで気体分子のような境遇に置かれていると感じて、ドライ、気体の方を選んでいると考えられる。ウェットな社会では、疎外感の強さが、ドライ、気体性と関連があると考えられる。この 1つめは、「疎外感」タイプと呼べる。

2つめは、本当の自分はウェット、液体的かもしれないんだけれど、ドライ、気体の方が何となく先進的で格好いいので、見栄を張る形で無意識のうちにドライ、気体を選択するというものである。この 2つめは「格好付け」タイプと呼べる。

3つめは、ウェットで液体的な社会や集団の中で周囲への同調の強制、行動の制限を受けていて、自由が無い、自分が自立していないというか、絶えず互いに足を引っ張り合う囚われの存在であると自分のことを実感して、個人が自立していて自由なドライで気体タイプがうらやましく、憧れる。 そのため、何をするにも独自の自己主張が必要で、行動の結果について厳しく自己責任が問われ、自分のことは自分で何でも助けないといけないといったドライ、気体タイプの負の側面には目をつぶり、無意識の願望のうちにドライな方が自分に合っている、ひいては自分はドライだと思いこむのである。この 3つめは、「囚人」タイプと呼べる。 この囚人タイプについては、例えば匿名掲示板の利用者のように、ネット上で現実社会のしがらみから自由になることを望む人たちが含まれる。

以上の 3種類のうち、「疎外感」タイプは、ドライ、気体的なのを好ましく思っていないのに対して、「格好付け」「囚人」タイプは、好ましく思っている、という区分けがある。 この 3類型を、性格診断テストで区別できればと思っている。

06/14/2009 08:51:50 AM


京都大学の独創性

京都大学は、東京大学のアンチテーゼというか、東京への対抗心、東京否定の心が生み出した、東京とは違うことをやる、違ったものになることを目指していると言える。 それが、例えば、既存の定説を間違いなく習得し、そらんじる東京大学的な行き方に対抗して、理論面での独創性を前面に押し出す結果となっている。

では、東京と京都で、そんなに社会の本質が違うのかと言えば、京都の地の人たちも、本当は、東京大学の体質と大差ないのではないだろうか。 すなわち、京都の人たちも、保守的、退嬰的、閉鎖的でプライドが高いといった、「お上」意識の強い、女流の人たちであり、東京と本質的なところでは同じように思われる。

(東京と京都で)双方本質的なところで差がないのを、一方(京都)の他方(東京)へのライバル心から無理矢理差をつけさせようとするために、一方が(自分も持っている)他方の性質(保守、退嬰)をあえて否定して、それとは逆の性質(独創)を持たせようとした「対抗馬」が京都大学であると言える。

京都大学の学風が独創的であるのは、もともと独創的な風土があった訳ではなく、東京への対抗心から京都の人たちが人工的に作成した「対抗馬」としての風土である。京都の人たちそのものは、旧来からの「公家」的な、お高くとまった、保守的でしきたり、前例指向が強く、自分たちを中心に世界が回っていないと不満なプライドが高い、コネで動く人たちであり、その本質は、京都大学の独創性とはあまり関連しないのが実情ではないだろうか。

07/13/2009 06:13:27 AM


保証が必要

この国の人は、自分が行動を起こすに当たって、その安全、正しさを保証してくれる、自分より上位の保証者を何かと求めたがる側面がある。 誰に保証を求めるか。 一つは、天皇家の古来からの権力に由来する、国や官庁といった「お上」に保証を求める行き方である。公的資格が民間資格より、資格として、より保証されたものと考えるのがこれである。お上のお墨付きがあると考えるわけである。

次は、欧米に保証を求める行き方である。「日本では未だこうだけど、欧米では既にこうなっている。欧米を見習うべきだ。」といったように、日本を遅れた劣ったものとして、欧米を進んだ優れたものとみなして、欧米的な先進的行き方を保証されたものと考えるのがこれである。グローバルスタンダードのお墨付きがると考えるわけである。

3つ目は、専門家、教授に保証を求める行き方である。大学で教える教授を、その道の第一人者、最も詳しい、精通した人と考え、彼の言ったことは、専門家のお墨付きがあるとして、そこに保証を求める。

4つ目は、ビッグネーム、有名人に保証を求める行き方である。テレビとかで、名の通ったタレント、芸能人、文化人をゲストに迎えて、コメンテーターになってもらい、「あの有名人が言ったことだから」というので、そこに有名人のお墨付きという保証を求める。これは、自分より上位の権威あるものによる保証を求める権威主義につながっていると言える。

07/13/2009 06:15:33 AM


年齢制限社会

この国では、何かと年齢制限が幅を利かせていると言える。すなわち、○歳までに、決められた関門を通過できないと、後は一切通過できず、門前払いになる。通過のチャンスは二度と与えられないというものである。 年齢制限が幅を利かせているのが、官公庁や大企業への就職である。たいてい新卒のみ採用という制限枠が暗黙のうちに設けられているのであるが、更にそこには、大学受験の浪人の回数や大学での留年の回数が厳しくカウントされ、採用されるのは実質 24 25歳以下の若者に限られてしまう。大学院の博士課程とかに進んで年齢を食ってしまうと、採用面では絶望的となる。

あるいは、官公庁や大企業での正社員の管理職への登用が、 40歳付近で管理職になれないと、後は一生管理職に昇進するチャンスが奪われ、定年まで(たとえリストラされなくても)ヒラ(役職無し)で過ごさないといけないというものである。 40歳付近が幹部社員登用の年齢制限となっているのである。

これは、学生寮とかで、○時までといった決められた時刻までに門を入らないと締め出しを食らう門限制と根が一緒である。

こうした年齢制限が行き届いている背景としては、日本が、引き続き年功序列のエスカレータ社会であることがあげられる。何歳になったらこのステージ(階)に上がり、次に何歳になったら、更に上のこのステージ(階)に上がり、というように、年齢ごとのステージ昇進の位置決めが厳しく決められていて、制限時刻に間に合った者のみを通し、間に合わなかった者に対しては、永遠に門を閉ざし、門を通過するチャレンジの機会を与えないのである。

この場合、門を通過する時刻は、年齢的に遅いだけでなく、速すぎるのも駄目だというのが、この国の年齢制限の特徴である。小中高の学校とか、みんな仲良く同期して 1年ずつ持ち上がるのが良しとされ、飛び級のように、皆より速く上がることは許されないのである。

07/13/2009 06:17:26 AM


日本社会の4大支配者

日本社会には、4つの支配者がいると言える。

1つ目は、天皇家、あるいはそれを背景にした政府官僚、役人、公務員による民間人の支配である。いわゆる「官」「お上」による支配である。 この場合、日本政府=「お上」よりも更に上に、アメリカとかが「スーパーお上」として君臨しており、二重の支配構造になっているということも考えられる。

2つ目は、老人による若者の支配である。年功序列で、会社とかで上位の地位役職を独占して威張るだけでなく、自分たちが地位に見合う高い給料を貰うことで、そのつけで本来貰うべき給料を老人たちに吸い上げられた若者が低賃金にあえぐ構図を作り出している。金融資産の面でも、日本では、老人がそのほとんどを所有し、老人に偏った資産形成となっている。

3つ目は、母による支配である。日本の母親は、自分の子供を自分と一体化させて、完全な操りロボット化して自由に操縦して、自分の自己実現の道具としている。また、家計管理の権限を握り、夫を小遣いで支配している。いわば母性社会の立役者としての母親が、そのまま社会の支配者となっているのである。

4つ目は、「パンピー(一般人)」による支配である。彼ら一般人、「普通の人」たちは、一つのことに突出せず、様々な役割を次々とまんべんなくこなす「ゼネラリスト」であろうとする。要するに、やろうと思えば何でもできる、つぶしが効くことを目指すのである。彼らは、一つのことにその場で停止してこだわったり、特殊、特異な趣味に偏った人たちを「オタク」と呼んで軽蔑したり、異質な偏向者、邪魔者扱いしたりして、社会から排除しようとする。皆、自分のことを「あの人、オタクだね」と呼ばれないよう必死である。「パンピーのオタクに対する優越」が日本社会の特徴である。

以上述べてきた、官、老人、母、一般人が、日本社会の4大支配者であると言える。

07/13/2009 06:20:11 AM


問題を起こさないことが何より大切

この国では、役所とか、自分の在任中とかに問題が起きなければよい、何事もなく大過なく過ぎればよいという考え方が支配的である。何かにチャレンジして問題や失敗を引き起こすよりも、何もせずにそのままいた方がいいという考えである。 あるいは、企業の研究にしても、予め研究の筋道が見えていて、そのまま進んでも大丈夫なことが分かっている、成功することが見えている、失敗しないことのみを取り上げる傾向がある。

こうした退嬰性、消極性、減点主義的な行き方が、日本を覆っており、日本社会の特徴となっている。 安定志向、保守性、退嬰性は、性差から見れば女性的であり、新しいことにチャレンジしたり、既存の秩序を破壊するのが男性的であるとすれば、問題回避体質の日本社会は、女性的と言えるのではないだろうか?

07/13/2009 06:21:30 AM


高密度社会、過密社会

この国の人は、人も物も狭いところにギュウギュウに詰め込んで、高密度、過密状態で生きるのを好む傾向があると思う。 首都圏の住宅とか、狭い家屋にひしめき合って暮らすのを何とも思わず、それを好んでいるかのように見える。これが粗放に慣れた海外の人間には、奇異に映るのだと考えられる。

07/15/2009 02:54:01 AM


年功序列型成果主義

日本の企業とかに導入された成果主義は、従来の年功序列と混交し合い、結果として「年功序列型成果主義」と呼べる成果主義を新たに形成している。 要するに、従来と同じく年齢順に昇進し、昇給していくのであるが、その際、昇進ポスト、役職は数に限りがあるため、成果を上げた者のみが、それらの昇進ポストに優先してついて上がっていき、一方成果を上げられなかった者は、昇進ルートから脱落し、そのまま役職なしで定年まで過ごすことになる。

成果を上げた(と経営層に認識された)者が、昇進のエスカレータに乗って、留まって、年功順に上がっていく。 しかし、組織が錐体型を形成し、上に行くほど就ける役職の数が減っていくため、その限られた役職ポストを巡って、競争が起きる。 その際、より優れた成果を上げた者がそれら限られた役職に優先して就けるようにして、成果を上げることに対するモチベーションを維持しているのである。

07/19/2009 11:51:32 PM


円高貧乏

日本は、円高で、作っていた製品の国際競争力が無くなり、人々のところに製品の代価であるお金がこなくなった。

安価な、売れる製品をそのままでは作れなくなった。お金が稼げなくなり、周囲への金回りが悪くなった。

そこで、

・携帯電話とか、高価、高級機、ハイエンド路線を取ったが、世界同時不況で売れなくなった。あるいは、外国の安価モデルに押され、売れなくなった。

・企業の工場とかを海外に移転し、研究開発ヘッドだけ日本に残るようにしたが、地方とか、国内に職が無くなってしまい、ひたすら公共事業に頼るしかなくなった。

・企業は、賃金コストを抑えるため、派遣社員を活用し、国内の労働力を外国並みの安い賃金で雇ったが、ワーキングプア化して、彼らが生活できなくなった。

・政府や地方自治体は、公共事業を沢山発注し、足りないお金を国債発行でしのごうとした。国際競争力のない、仕事の無い人に予算を付けて、お布施の大量ばらまきを行った。しかし、返す当てのない大借金に膨れあがってしまった。

・政府は、内需拡大を促進し、今まで国民が沢山稼いだ貯蓄の消費促進を図った。しかし、蓄えは、もうあらかた使ってしまった。一見あまり使っていないように見えるが、政府が国債を沢山発行し、お金を消費してしまっている。今は国債という借金の取り立てに政府は動いていないが、いずれ、その借金分の国民貯蓄が実質取り崩されるのは必至である。国債は実質国民の借金であり、それを背負う国民は将来貧乏になることが決定していると言える。

この現象は、「円高貧乏」と呼べるだろう。

円高も、当初は、日本製品売り込み先のドルやユーロに対しての円高が問題だったが、やがて日本と同様の製品を生産するライバル中国の人民元に対する円高が問題になってきている。

要するに、通貨高も、対消費地に対する通貨高と、対ライバル生産地に対する通貨高と 2種類あるわけで、前者は、消費地で製品が高くて買ってもらえない症状を生み出し、一方、後者は、より生産コストの安いライバルに市場を奪われる症状を生み出す。

円高が続く限り、日本国民が貧乏になっていくのは止められない。

抜本的解決策は、何らかの形で、(ドル、ユーロ、人民元に対する)円の通貨切り下げと国債の帳消しを行うことだと思う。

日本の国際競争力が復活すると共に、国の借金が消えるからだ。

ただし、国民がそれまで持っていた円預金の価値が著しく低下することは避けられないだろう。

11/18/2009 01:43:16 AM


日本を支配する 4つの女性類型

日本社会を支配する女性は、 4つのタイプに分かれると考えられる。 (1)ヒステリータイプ いつもピリピリしていて、キャーキャー金切り声を上げて、自己の正当性を主張する。ハイミスの、フェミニストがこれに当たる。 (2)パワフルタイプ 腹が据わった行動力のある、肝っ玉母さんがこれに当たる。 (3)クッションタイプ あらゆることを呑み込む、包容力に満ちた、優しい、慈しみに溢れた、慈母がこれに当たる。 (4)キャリアタイプ 会社とかで仕事をそつなくこなす、できる有能なキャリアウーマン、やり手がこれに当たる。

11/18/2009 02:02:48 AM


会社教

日本の会社は宗教団体みたいである。 日本の会社においては、会社への一体化を強制するような面が見受けられる。 他のことを考えてはいけない、会社のことだけ考えるように、という感じにマインドコントロールされており、思想の自由がない。 その点、会社は宗教団体とあまり変わらない。会社は宗教であり、「会社教」みたいなのを、社員みんなで信じているような感じである。 その点、カルト宗教とかを笑えない。

11/18/2009 02:03:41 AM


セレモニー民族、セレモニー国家

2009 7月時点で、民主党は、議席数上通るはずのない首相問責決議案を出そうとしている。これは、勝てるはずのない戦い、作戦を何度も繰り返し強引に進めようとする点、太平洋戦争と似ている。 ライバル、戦争・対戦相手への情緒的、感情的な対抗心が強すぎて、一人歩きしてしまい、冷静な状況判断ができなくなってしまう性癖が、この国の人にはあるのではないか。 そのことを学習しない、できない、学習停止の性癖もあるように思う。

通るはずのない提案や戦いをすることは、身内との一致団結を強める、ウェットな一体感の強さを確かめる単なるセレモニーと化している。また、対戦相手、ないし観衆への対外的な見栄、面子を保つ、良い格好をしようとするためのセレモニーでもある。セレモニーであるのは、それ自体は、有効に機能しない無意味なものであるからである。この国の人は、無意味なセレモニーに心情的にはまりやすい、セレモニー民族、セレモニー国家みたいな面を持つ。この国の国会自体、単に予め決まった台詞を読み上げるだけのセレモニー国会である。

11/18/2009 02:04:25 AM


再チャレンジ制限社会

日本は、チャンスが一度きりで、再チャレンジが許されない、失敗すると後が無い、アンチチャレンジ社会である。 会社や官公庁の新卒採用試験とか、中学校、高校入試とか、失敗するとやり直しが効かない。 大学入試とか、一見再チャレンジが可能な試験においても、再チャレンジ回数が増えれば増えるほど、査定が落ちて不利な扱いになる。

あるいは、弁護士試験のように、再チャレンジの回数を制限することが当たり前のように行われる。 この点、日本社会は、再チャレンジを嫌う、制限、回避する社会であるといえる。 あるいは、専業主婦のように、自分からはチャレンジせず、誰か他の人、夫や子供にチャレンジさせる、誰か他の人にチャレンジしてもらう、チャレンジが怖い人の集まりであるともいえる。 専業主婦モードがデフォルトの社会であるといえる。

11/18/2009 02:05:42 AM


実力測定とドライな気体型社会

日本人は、学術論文にせよ、映画にせよ、ゴルフコンペにせよ、自分の実力を認められる、知らせるために欧米に行く傾向がある。欧米コンペで上位入賞したり、大きく取り上げられることで、世界に認められたと皆で喜ぶ傾向がある。 その人の持つ実力を測定するには、能力主義社会のドライ、気体型社会で認められる必要があるといえる。ドライな社会では、能力の無い個人はさっさと切り捨てられる傾向にある。各個人がバラバラ独立に自立して、能力測定が可能であり、甘えは許されない。

一方、日本のようなウェットで液体型の社会では、能力、実力が無くても、コネ、取り入り、甘え、ごますりで結構上位に行けてしまう側面がある。身内に甘いのである。いったん中に入れてもらうきっかけさえつかめば、それだけで OKな側面がある。

上位に行くのに有効なコネを作ることも実力、能力のうちと言ってしまえば、それまでなのかも知れないが、世襲みたいに本人が努力しなくても自動で上に行けてしまったりする問題がどうしても出てくる。 その点、ウェットで液体型の社会は、その人の実力、能力測定に向かない面がどうしても出てくるのであり、実力、能力測定の場は欧米のようなドライで気体型社会で設定されるのである。

11/18/2009 02:08:05 AM


負けを認めるのが苦手

日本の人は、負けを認めるのが苦手であり、ずるずると引き延ばしを計って泥沼にはまるケースが多い。 そこには、日本の人が、とかく名誉にこだわり、見栄を張りやすいという背景がある。 太平洋戦争の軍部とか、最後まで自分たちの負けを認められず、本土決戦まで行こうとしたのである。 あるいは官庁が、国民から起こされた訴訟で、必ず上告するのが通例であるが、自分たちの敗訴を認めることができない高いプライドのせいである。

11/18/2009 02:08:41 AM


国際偏差値

日本人は、何事も序列や偏差値で物事を考えようとする傾向がある。 その際、世界には、国際偏差値みたいなのが存在し、欧米の方が、日本よりも序列、偏差値が上であると考える傾向がある。 日本の学者が、欧米の言説をひたすら受け入れ、自ら学説を出せない理由もその辺りにあると考えられる。具体的には、以下のような傾向が見られる。 欧米人の言説に異を唱えるのは、身の程知らずの越権行為であると見なし、そうした動きを身内で潰そうとする。

欧米人の言説を、お上の言説としてひたすら受け入れる、勉強すると共に、欧米=上位者と自らを一体化することで、自らの地位の底上げを図ろうとする。 欧米人が未だ言わないことを言うのは時期尚早と考えて、発言を抑制する傾向がある。自らは、新たに闇を照らし出す学説を唱えることが無い。 欧米人が OKを出したら、初めて学説的に OKとなる。欧米人の意見が上位であり正しいとする。日本人が判定をする、決めるのは越権行為と考える。 彼らは、日本社会について、欧米から苦言や指摘をされると、気の毒なほど大騒ぎをする。

11/18/2009 02:09:13 AM


自分が無い

この国の「パンピー(一般ピープル)」と言われる人たちは、いつも大勢のいるところに自分もいて、流行とかに取り残されないメジャーな存在であろうとする。 オタクみたいに、特殊化、異質化するのを避けようとする。 友人を沢山作って、人間関係面で優位になろうとする。 対人関係の維持そのものが自己目的化し、自分のやりたいことが、常に周囲との関係によって、相対的に決まってくるようになる。

独立した自分の存在、立ち位置が持てないというか、持たないし、持とうとしない。 周囲のメジャーな色に積極的に染まろうとする。皆の好む趣味を自分も持とうとする。周囲と話が合うこと、盛り上がることを求める。 自己の周囲との同質化、共通化を知らず知らずのうちに求める。自分が周囲に溶け込んで、一体化し、見えなくなる。 パンピーの特徴は、透明人間みたいに、空気のようになって、目に見えないことである。

11/18/2009 02:09:53 AM


日本の欧米模倣の2タイプ

日本人から見ると、欧米は、国際的な序列が上位であり、偏差値が高く見える。日本は、序列が上の国々の仲間入り、ランクアップをしたくて、必死になって欧米の真似をする。あるいは欧米の文物を取り入れようとする。

日本人は、自分たちの普段取る行動はウェットだが、ドライとウェットのどちらが良いかと尋ねると、ドライを選ぶ。そちらの方が欧米的で、序列が上だからである。欧米的なドライを選んだことで自分の序列を上げられる、自分自身の格上げを果たすことになると考える。 欧米文化を取り入れる、真似をすることで、自分の序列が、より序列が上の欧米と一体化し、そうすることで、

・伝統日本の序列を見下せる、超越できると考える。この場合、伝統日本の序列とは、天皇を最上位とする、お上(官庁、役人)や家元や本家の支配する、世襲中心のムラ社会の序列である。

・伝統日本より上位に立っている、中国、韓国といった、既存の東アジアの権威、権力よりも上位に立てると考える。

こうした日本人にとって、欧米産の民主主義、自由主義、個人主義といったドライな観念は、しょせん自分たちの世界と違うので、結局は身に付かないと言うか、消化吸収過程でウェット化して変質してしまう。 こういう欧米と一体化することで自分たちの序列を上げようとする欧米の模倣タイプは、「格上げ型」の模倣と呼べる。 一方、日本の陰湿でベタベタした、自由のない囚われの身を強いられるような、ウェットな風土が嫌で、そこら辺が解決されているドライな欧米に憧れる人もいる。伝統日本が嫌いというか、体質が性に合わないから欧米を選ぶのであり、こうした欧米模倣タイプは「ドライ指向型」の模倣と呼べる。

11/18/2009 02:22:33 AM


見栄の文化

日本人には、自分が他人から見たらどう見えるかという、見えが重要である。見え方を良くして、他人に気に入られたり、よい印象を与えたり、より上位に見られることを重視する。これは、見栄の文化と呼べる。

11/18/2009 02:23:18 AM


内輪社会

日本社会は、外が見えない内輪社会である。内々だけで盛り上がる。関心のある、眼中にあるのは、自分がその中に加入している身内、内輪の対人関係のことだけで、外が見えない。 ヨソ者を中に入れず、排他的である。ヨソ者のことはどうでも良い。無関心である。 内輪盲信化現象が起きる。互いに内輪の意見だけ聞いているうちに、考えが外部一般に通用しない、内輪だけに通用する盲信になる。これは、太平洋戦争の軍部に見られる。 内輪のことは、決して外に漏らしてはダメ、暴露禁止の考え方を取る。内輪の情報が外に出ないために、あらゆる手を使い、最大限の規制を行う。個人情報保護ではなく、内輪情報保護である。

11/18/2009 02:23:43 AM


身寄せ社会

日本の人は、独立、自立するよりも、どこかに身を寄せよう、頼ろうとする。 その際、保証人とかになってくれる身寄りがあることを重視する。 自分で何でも解決しないといけない、自己解決社会を嫌う。あるいは、一人者を嫌う。

11/18/2009 02:10:53 AM


競り勝ち指向

日本のメーカーは、基本的に、周りと同じことをやって、その中で抜きん出る、競り勝つことを指向する。 手ぶれ補正や暗所性能で競争するビデオカメラメーカーみたいに、競争相手、ライバルと同じ土俵に立つ、参入することを好む。 アメリカとかは、周囲と違う、誰も手を付けていない隠れた一等地を占拠して利益を独占するのを好む。ネット検索連動広告の googleとかがこれに当たる。

11/18/2009 02:11:30 AM


老人崇拝、上位

日本人は、指揮者とか、医者とか、大学教授とか、年老いた人ほどありがたがる。老巨匠扱いするのが好きである。あるいは、老成という言葉を好んで使いたがる。 あるいは、年配であるというだけで、若者に対して先生面する。威張る、見下す、目上として振る舞う、上から目線で物を言うことが当たり前になっている。 このことが、同僚の若者から嫌われて、中高年の年配者に仕事が無い本当の理由となっている。

11/18/2009 02:12:25 AM


身寄せ社会2

日本社会は、どこかの集団に身を寄せ、加入、所属するのがデフォルトであり、所属しないと生きていけない、と考えられている。 皆と一緒にいたい、守って貰いたいという、女性的な思考が根底にある。 先にメンバーになった人、既に入っている人が先輩である。後からメンバーになった人が、後輩である。新規加入者が新人である。 身寄せは、年輪構造になっている。身寄せは、一年ごとに順々に周辺から奥へと入っていく。自分と隣接する一回上、一回前の先輩に受け入れられることが重要。一年前に先に入った人に従わないと、突き放され、身寄せが不能になる。 先に入った人に仲良くしないといけない。受け入れられないといけない。

中枢に入れる人は限られている。中枢に入れるのは、周辺から順を踏んで、次第に奥に入った生え抜き、純粋培養の人に限られる。奥に入る、年功が上になるに従って、中に入れずあぶれた人の人員カットが行われる。年輪の周辺ほど立場が弱く、中枢ほど立場が強い。 年輪構造から切り離されると、身寄せ失敗となる。 身寄せ年輪は、サドマゾ構造になっている。自分より後に加入した外周の人(後輩、新人)に対してサディスティックであり、自分より前に加入した内周の人(先輩)に対してマゾヒスティックである。

11/18/2009 02:24:16 AM


自己犠牲評価と自己犠牲演技

日本のような身寄せ社会では、所属組織のために自己犠牲した程度に応じて、組織から評価される。 そこで、自分はこんなに会社のために尽くしているんですよと、わざと自己犠牲を演技することで高評価を勝ち取る。四六時中、会社のことばかり考えているように振る舞うことで、上役の覚えを良くする。

11/18/2009 02:25:09 AM


所属マゾヒズム、会社マゾヒズム

日本のムラ社会では、所属組織に取り込まれ、所属組織のためにその言いなりになることが快感となるように調教される。四六時中、所属組織に心の奥底までどっぷり浸って、所属組織の手足となって働くことが快感になる。会社のために自己の全てを犠牲にして、しかもそのことが快感になるようになっている。二十四時間、会社のことばかり考え、会社のために自分の全てを投げ出そうとする。

11/18/2009 02:25:49 AM


態度の 180度転換

日本社会は、外部から変革者が現れると、今までの既存支配機構の枠の維持にこだわり、激しく抵抗する。しかし、相手に一番上の天皇まで完全に征服、圧倒されると、一転して、相手の熱烈な信徒、信奉者となる。 日本は太平洋戦争中、アメリカを鬼畜呼ばわりしていたのが、敗戦で、一転してアメリカの民主主義を崇拝するように態度を変えた。トップが降参、平伏すると、それより以下の全員がコロッと態度が 180度転換するのが、日本の特徴である。 男性に抵抗しながらレイプされて、その男性に思わず惚れる女性と似ている。

11/18/2009 02:31:12 AM


ドライ・ウェットパラドクス

日本では、欧米的なドライな主張をする人が、実は正反対のウェットなムラ社会、世間の住人である事態が当たり前のように起きている。 欧米理論を精査し、我が事のように主張する日本の社会学者が、師弟関係や先輩後輩関係の網が張り巡らされた学閥ムラ社会の中で生活している、といったことが当たり前である。 新聞社も似たようなものだと考えられる。そこでは、日本的ムラビトが欧米の民主主義を、自らはムラ社会を維持したままで、特に矛盾に気づかずに崇拝しているのである。

11/18/2009 02:31:41 AM


ドライ・コンプレックス

日本の知識人は、自分は思考がウェットなままなのに、ドライさを信奉、崇拝する。自分自身は、ウェットな学閥の一員でそのメリットを享受しているのに、自分たちもドライになるべきだとか、なってきていると盛んに主張し、見栄を張ろうとする。主張内容が、普段の自分の実際の姿と矛盾しており、しかも自分自身がその矛盾に気づかない頭の悪さを周囲に露呈しているので、余計気持ち悪く感じられる。そこには、欧米流のドライさに対するコンプレックス、劣等感が見え隠れする。対欧米へのコンプレックスが裏返って、自分も思考がドライにならなくてはいけない、いやもうなっている、という主張に形を変えているのである。

11/18/2009 02:32:14 AM


天下りをなくす、政党シンクタンク論

官僚を天下りさせる代わりに、そのポストに余所から人材を引っ張ってくる。 どういう風に引っ張ってくるか?現在、客観的基準がなく、場当たり的に、思いつきやコネで引っ張ってきている。 政党が人事院相当の組織(内部か外注か、いずれか)を持ち、選挙に勝ったら、ポストに資格試験合格者の有資格者を送り込む。 政党は、政策コンサル集団であり、ふだんはコンサル NPOとして活動し、普段は、行政、経営等の様々な分野で、コンサルティング活動を行い、実績を積む。 政党は、普段はシンクタンク NPOあるいは会社として活動して利益を得る。選挙で勝ったら、シンクタンク社員を「○○官」に任命して、政策の舵取りを行う。

11/18/2009 02:32:50 AM


日本のムラ社会に取り込まれない方法

周囲のムラビトに受け入れられよう、気に入られよう、認められようとしないようにする。 少しずつ付き合いを悪くしていく。アフター 5からは別行動を取る。宴会等はなるべく欠席する。プライベートな話をしない。できるだけ周囲の人としゃべらない。人嫌いと言う。無口で押し通す。機械や岩石が好きということにする。人のいない無人境を好むようにする。周囲とは別世界を持つ。食事とか、周囲と別々に摂る、時間を過ごす。その場にいる必要がなくなったら、さっさと消える癖を付ける。皆と離れた環境に住む。一人、単独、独自で行動する癖を付ける。皆が左を向いていたら、自分は右を向く癖を付ける。 同じ考えの友人を離れて持つ。ドライ同士ネットで連帯する。 給料分の貢献、仕事はきちんとこなして、ある程度の有能ぶりは見せつけておく。周囲にはある程度必要とされるようにする。プライベートに余計な口を挟ませないようにする。良好な人間性(人助けするとか、公正さ、明るさとか)は、ドライな社会でも必要とされるものであり、保つ必要がある。 悪口、陰口、うわさをされても、ムラ社会の特性だと割り切り、無視する。負けない。村八分になっても気にしない。 人目を気にしない。恥ずかしがらない。体面や自分の評価を気にしない。 メールの返答とか、相手と距離を置くように、少し間を置いて行うようにする(オークションとかの金銭取引は即座に行う)。 できるだけ結婚しない。

11/18/2009 02:33:24 AM


年齢差別と日本社会

日本では、若者というか、年下がいつでも格下扱いされてしまう。年功序列は、先輩後輩制という形で、若者の間にも厳然と巣くっている。 年下でも立派な意見、見識を持っている人には、敬意を払い、格上扱いすべきである。少なくとも、同じ人間として同格に扱われ、尊重されるべき。 高齢者が扱いにくい、雇われにくいとされるのは、上記の逆で、知らず知らずのうちに身に付いた格上待遇を周囲に要求するからである。

11/18/2009 02:34:11 AM


思考の不変、不動、固着指向

日本人は、思考が、大地の一カ所へ根付いて、他に動かない、変わらない(変われない)。ある決まった固定した考えに執着し、何かあっても、大地に根付いた植物のようにしがみついて、自分からは決して変えようとしない。へばりついて動かない。強制収容されたり、最終決戦になるまで、変更を断固拒否して、妥協しない。負け戦と分かっていても、決して考えを変えず、そのままの意志の形で死のうとする。考えを変更することは、敵に寝返ったのと同じと考える。相互に考えを変えず、一枚岩の団結を誇ろうとする。発言内容の変更、変動、ブレを嫌い、一貫性を重んじる。状況、情勢が変動しても、発言が不動なのがよいとされる。

11/18/2009 02:38:36 AM


ムラの寄合と、国会、議会改革

日本は欧米の国会、議会制度を、国内に持ち込んで、政府の意思決定を行っているが、あまりちゃんと機能しているようには思えない。欧米の手本通り遂行しようと必死だが、実際には、大臣の答弁が官僚の作成した文章の棒読みだったり、本当の意思決定は非公式に密室で会合して決まる場合が多いとか、本来の欧米風の議会とは程遠い。やはり日本の人の意思決定のあり方に合致するのは、伝統的なムラの寄合タイプの意思決定ではなかろうか?ムラの寄合における意思決定がどのようになされているかを研究して、それを国会、地方議会に適用するのがベストのような気がする。

01/09/2010 09:16:51 PM


抜けられない、脱退できない

日本の組織、集団は、いったん加入すると、用済み、用無しでリストラ、破門されるまで、なかなか抜けられない、脱退しようとすると無理やり引き戻され仲間からリンチを受ける、という特性がある。ヤクザとか相撲とか、学校の体育会系部活とか、その典型であるが、官庁や会社にも似た面があるのではなかろうか。 いったんウチの仲間になった者同士は、互いに一体化して、いつでもどこに行くのも一緒を要求されるようになる。これは、女子中高生が、友達同士連れ立ってトイレに行くのと精神構造が変りない。女性的特徴と言える。また、液体分子が、いったん液体分子群の中に入り込むと脱出できなくなるのも同様と考えられ、液体的、ウェットと言える。

01/10/2010 07:53:52 PM


稲作農耕社会の中の牧畜民

日本の被差別部落の人たちの社会的位置づけは、稲作農耕をメインとする社会の中の牧畜民であると言える。日本の被差別部落の人たちの職業は、食肉、皮革、竹、芸能、商業辺りであるとされる。稲作を中心とする農耕では生計を立てず、家畜の屠殺で生計を立てる、農耕の土地を持たずに、坂地や湿地に住んだり、定住せずにあちこち移動するのが伝統的とされる。こうした動物中心、移動中心の生活は、実際のところ、欧米人のような牧畜中心の生活スタイルと良く似ている面があると言える。彼ら被差別部落の人たちは、欧米と共通する牧畜民的な生き方を、稲作農耕中心の日本社会の中で選んだ、選ばざるを得なかった人たちであると言える。同じ牧畜民スタイルなのに、欧米人は上位に置かれて崇拝、模倣の対象となり、一方の日本人は差別され、低位に置かれるのは矛盾している。日本の被差別部落の人たちは、自分たちの方が、差別する農耕民のアンタたちより、より欧米に近いんだぞと、自分たちの優越性を社会的に示すべきではなかろうか?あるいは、同じ牧畜系の宗教であるキリスト教、イスラム教の欧米人、アラブ人~日本人信者たちと世界的に連携すべきだ。

01/10/2010 08:16:59 PM


内部情報の漏洩を何よりも恐れる

日本人は内輪で閉じた社会関係を好み、そうした内輪の仲間同士の話しは、プライバシーが無い。日本人は、その内輪でのみ流通することを前提としたプライバシーてんこ盛りの情報が、外に漏れると大変なことになると考え、必死で漏洩防止索を考えようとする。ファイル共有ソフトの winnyとか、いかに将来の可能性を秘めた優れたソフトであっても、コンピュータウィルスの影響で内部情報漏えいに結びつくとなれば、容赦なく叩いて潰してしまう。日本で個人情報保護というのは、個々人の人権を守るためというのは(欧米とかにアピールするための)建前で、会社組織とかの内輪情報を漏洩から守るための単なる方便に過ぎない。

01/13/2010 01:39:44 AM


和の物質としての液体

日本の人は、和合を好む。互いに内輪で仲良く一体化するのを好む。液体、液体分子群は、こうした日本的和合、和の性質を備えた物質である。すなわち、液体分子は、互いに接近して、一体化し、互いの間を割らないように動き回るからであり、それは日本人の行動様式そのものである。一方、自由と訴訟を好む欧米人と同じ性質の物質が、気体、気体分子群である。

01/17/2010 03:38:16 PM


退嬰性と目新しさ指向

未だ前例の無い新しいこと、すなわち、どんな危険が待っているか分からない闇の領域へのチャレンジを出来るだけ避けて、安全で正解であることがすぐ分かる、それでいて目新しく、将来のトレンドになりそうな領域へ行こうとするのが、日本人の習性である。要するに、前例の無い新しいことを自分からは進んでしようとしない危険回避の退嬰性と、(欧米とかが自ら危険を冒して開拓した)新しいトレンドを取り入れることが好きな目新しさ指向が、何ら矛盾せずに同居しているのが、日本人の特徴である。

02/10/2010 12:57:02 AM


無縁社会、弱縁社会の積極的評価

現代の日本社会が、人間同士の互いの縁が切れた、各自が孤立して生きる無縁社会になっていて問題だ、という指摘が NHKテレビとかでなされている。

昔ながらの、相互の強い一体感はあるが、何かとしきたりとかで煩わしい伝統的村社会からの脱却を、欧米とかのドライな個人主義社会を手本に試みたところ、手本とは違った予想外の展開になったということであろう。

手本通りに行かなかったのは、多分、日本の人たちが、心の底では欧米流のドライで自己主張の激しい生き方は望んでおらず、他の人に迷惑をかけないこと、余計な影響を及ぼさないことを主眼として生きているため、自ずと各自が自閉的に、周囲との関係を薄くして、各自の作った小さな枠の中でこじんまりとそれなりに安定、自律して暮らす途を選んだ結果であろう。相互の縁は確かに薄くなるが、村社会の人間関係の煩わしさからは解放されるというメリットがある。日本人にとって、選択肢は、村社会か「無縁」社会のいずれかしかない。

今後の進む道としては、各自が周囲からある程度閉じて自律した状態を保ちつつ、各自の社会生活に必要な相互連携を図っていける上手い落としどころを探ることであると考える。縁を復活するのは一見良いことのように見えるが、実は伝統的な村社会復活につながってしまうので要注意である。

現状の状態を無縁社会みたいにネガティブなレッテルを貼って否定するのではなく、その良い面を肯定し保ちながら、社会として上手く運営されるように図るべきである。そのためにも、無縁社会に代わるポジティブなネーミングが必要であろう。かつての縁の強すぎる強縁社会=村社会に代わって、弱縁社会とかいうネーミングでいいのではないか。

04/08/2010 02:00:31 AM


直球型社会と変化球型社会

日本の言論は、正論指向が強い。何事も正攻法が重んじられ、そのお勉強に忙しい。

どこかに行くのに必ず表門から入ろうとする、表門指向が強い。

そのまままっすぐ進むのを好む直球型社会である。

一方、今までにない癖を持った変化球や、どこから飛んでくるかわからない恐怖を相手に抱かせる流れ弾を生み出すのが苦手である。

その点、欧米とかは、今までのやり方を無効にする新たなやり方を生成するのが得意な、変化球型社会であると言える。 iPhoneとか、変化球の代表である。

07/03/2010 03:48:04 AM


180度転回が好き

日本人は、目先の変化につられて、今までとは正反対のことを、全員が揃って、一斉に言い出す。

有名なのが、太平洋戦争に負けて、アメリカに占領された瞬間、今までは天皇主権国家だったはずなのが、直ちに一億総懺悔でみそぎをして、民主主義に衣替えをした。

ころっと変わるのが、何とも思わないというか、周囲の動向に敏感でさっと付いていかないと、意見をさっと変えないと仲間はずれにされるという恐怖感が根底にある。

互いに周囲に合わせて団子状態、護送船団状態で意見を変えるため、全員が一度に意見を一斉に変えるという風にどうしてもなりやすい。

ちなみに、 180度意見を変えるときに必須なのが、今までの旧い考えを洗い流す「みそぎ」である。

07/05/2010 08:07:52 PM


家を出て行くのは子供

多摩ニュータウンとかで、住民の高齢化が指摘されているが、その原因として、本来狭かったり、賃貸である住居であっても、そこに入居した人は、親世代は、そこにずっと居残り続け、子世代がそこから出て行く場合が大半であり、これとは逆に子世代が団地に住み続け、親世代が出て行くことがほとんど無いことが挙げられると言える。

要するに、今住んでいる家から出ていくのは子供と相場が決まっており、親はその家に住み続けるものという暗黙の社会規範が、日本には存在するのではないだろうか?

07/09/2010 02:45:47 AM


女脳の日本人

日本人の行動様式が、集団主義、退嬰的等、女性的なものになっていることは、その根底の日本人の脳の仕組み、構成が女性的になっていることの表れであると言える。

遺伝的側面としては、長いこと稲作農耕民族として女性、母性優位で生きてきた結果、日本人の脳が、女性的な脳構成へと遺伝的に淘汰されてきたことが考えられる。

後天的、文化的側面としては、脳のニューロン回路や、脳内伝達物質のあり方の構成が、学習により女性的に構成されているということが考えられる。子供の教育の権限を母親が独占したり、人格形成期の幼稚園、小学校における教育を女性教師が独占する結果、子供の脳が女性的に形成されているということが考えられる。

07/09/2010 03:33:11 AM


統合失調症患者にとって生きやすい社会と日本社会の現状

代表的な精神疾患である統合失調症患者や、病気に明示的に罹らなくてもその傾向にある人は、とかく対人関係が苦手であり、避けようとする傾向がある。なので、対人関係や社会参加を強制すると逆効果であり、能力を発揮できなかったり、病気がひどくなる。

人付き合いや社会性の欠如、回避、拒絶がその特徴であり、できるだけ一人でいさせよう、いてよいことにすることで、その能力を発揮させることができる。

社会からの逃避というか、最低限の社会関係で済むことが必要と考えられる。

彼らは、孤独を求められる仕事、孤独に耐えることが必要な仕事で本領を発揮することができる。孤独に強いのであり、そこがセールスポイントである。

一人で一通りできる仕事で、自己完結した仕事で、お金を儲けられるようにすることに向いている人たちだと言える。

要するに、社会環境を断たれることに強く、孤独に強いのである。

彼らが得意とするのは、

・孤独を求められる仕事

・人付き合いの薄い、欠如した仕事

・機械相手の仕事

・無人境での仕事

・人の助けを借りずに一通り独力、独学で行う仕事

・自己完結している仕事

である。

見れば分かるとおり、彼らは、何かと他者との一体感、関係構築維持、協調行動を指向する日本社会とは根本的なところで合わない存在であることが分かるであろう。

その際、健常者の日本人との関係においては、自分たちに合わないからと言って、患者を強制排除したり、患者が社会活動をするように矯正しようとするのではない、第三の共存の方法が模索されるべきであろう。

07/09/2010 04:06:53 AM


結婚、育児格差社会

なぜ、日本では 30 40代の未婚男性、女性が多いか?

それは、彼らの結婚適齢期が、結婚して子供を作り、育てて一人前にするための経済、社会的基盤が悪かったためと言える。

経済的基盤においては、円高不況や、中国とかへの雇用流出により、雇用情勢が悪化し、リストラが続き、賃金がカットされ、雇用が非正規化、不安定化し、終身雇用が本部会社以外崩壊したため、子供を産み育てるどころではなかったというのが実情だろう。

社会的基盤においては、育児に必要なインフラが不足し、保育所が満杯で待機児童で溢れかえっており、たとえ産んでも育てられないという現状があるためと言える。

現在の日本社会は、一部の社会的に選ばれた、雇用持続上心配のない正社員と、子育てに専念できる専業主婦の組み合わせの特権層のみが、育児ができる社会になっていると言える。

07/09/2010 04:25:25 AM


単一所属、所属固定

人間の社会的な所属には、単一所属で、 1つの所属先にのみ終生全忠誠を尽くし、他の所属先は、あくまでおまけというタイプと、複数所属で、一度に複数のところに同時に所属し、それぞれが皆大事という場合の 2タイプがあると考えられる。

日本の場合は、どちらかというと、会社や学校といった単一の所属先に全てのエネルギーを使い果たす、単一所属の傾向が強いと言える。

また、一つの会社、官庁への終身雇用を理想とするように、所属先をずっと一つのまま変えようとしない所属定位、所属固定の傾向も見られる。

中国とかの場合だと、血縁家族集団への単一所属、所属固定が起きていると言える。

07/18/2010 09:30:46 PM


信号文化(暗示的主張文化)、受け取り文化、他力本願文化

女性は、信号を出して、誰かが気づいてくれるのを待つ、信号文化ないし待ち文化の持ち主である。

自分からは明示的に言わず、主張せず、誰かに気づいて欲しいと考えるのである。

これは奥ゆかしい態度だが、気づかれないと、そのままでは放置になってしまう危険性がある。

自分では手を付けず、誰かに察してもらい、何かやってもらおう(させよう)とし、その成果をひたすら受け取ろうとする、受け取り文化の持ち主である。

これは、日本社会にも当てはまる。

例えば、中国人民元に対して円高なため、貧乏になって、巨額の財政赤字を抱える、といった困った問題が発生したとき、自力で最後まで解決しようとせず、誰か他の人(アメリカとか)にやってもらおう、助けてもらおうとする、他力本願が、女性~日本人の特徴である。

また、困った問題が発生したことをアピールしたいときに、自分からは明示的に主張せず、信号、サインを出して、気づいてもらおうとする。気づいて貰えないと、相手を鈍感だと感じて不機嫌になって、怒り出してしまう。こうした暗示的主張が、女性~日本人の特徴である。

07/20/2010 09:22:40 PM


日本の貧乏からの脱却と、人民元切り上げ

日本社会がじり貧の貧乏から抜け出すには、中国の人民元の切り上げが必須である。

しかし、相手の中国が大きすぎて勝ち目が無いため、長いものに巻かれろの日本人は、内心すっかりあきらめていて、希望が見えない状態になっている。

現在の日本の製造業は、研究開発本部の日本人と、中国、台湾、東南アジア、インド等の工場の現地従業員からなっていると考えられるが、その場合、中国人やインド人が、会社の稼ぎの大半を持って行ってしまい、本部の日本人も上前こそはねるものの金額的にはごくわずかなものに止まっており、このお金だけで日本国内を満たそうとするため、結局、国内の財政が大赤字に陥ることになる。

日本や欧米の財政が大赤字なのは、反対に大黒字の国が存在することが原因である。それは、中国、インドとかであり、自国通貨が安いから、必要以上にどんどん底なしに儲けているのである。

日本、欧米は、本来、中国、インドに対して、通貨切り上げを要求する必要がある。しかし、相手が人口が多い大国で、動かすのにパワーが必要であるが、それが日本、欧米側に不足しているという問題がある。

また、中国とか、相手が理詰めで説得できる存在ではないことも問題である。すなわち、感情情緒第一のやり手のプライドの高いオバサンの国であり、欧米的な男性の流儀では通用しない相手である。

本当は日本もその中国と同類なのだけれど、日本の場合、欧米との心理的一体化が強いため、遅れてやってきた大国中国を見下して、無関係を装っているため、話が進展しないのである。

07/21/2010 05:28:33 AM


日本社会で一番楽をしている存在は?

日本社会で、一番社会の中で楽をして、優雅に暮らしているのは誰か?

それは、専業主婦である。

彼らは、嫌な思いをして、自ら稼がなくてよい。稼ぎは夫から入ってきて、そのお金の財布を、彼女自身でがっちり握って、財産管理の権限を握って、好き放題に買い物をするのである。それゆえ、デパートとか、婦人物の売り場ばかりになっている。

また、教育ママゴンとして、子供を完全に自分の所有物と化して、受験競争にまい進させる、子供の教育権限の私物化に成功している。

毎日、通勤地獄を味わわなくても良い点も、優雅である。というか、彼女たちが優雅な生活を送るためのマンション立地とかが、夫にとって満員混雑電車生成の主要な原因となっているのである。

次に楽をしているのは、役人である。自ら稼がなくても税金で食べていけて、かつ、自分たちが雇われている天皇家の威信をフル活用して、国民の生活の生殺与奪を握り、親方日の丸で威張って生活できるからである。通勤も、通勤先の近くに官舎があって、通うのは楽である。

07/21/2010 05:29:50 AM


高関心社会と低関心社会

世界の社会は、他人が何をしているか、他人のプライバシーが気になって仕方がない社会である高関心社会と、他人に無関心な低関心社会、無関心社会に分かれる。

日本社会や女社会は、高関心社会であり、欧米社会や男社会は、それと比べると相対的に低関心社会であると言える。

日本人や女性は、他人に関心が強く、覗きや他人のうわさ話、当局、上位者への知人の内情通報が好きである。

あるいは、他人の個人情報を流出させることが好きであり、他人の内情に絶えず探りを入れている。他人の内情を暴露することが好きである。

他人(のプライバシー)に関心がありすぎる人たちの集まりが、日本社会、女社会である。

07/21/2010 05:35:55 AM


日本人のフルコンプ指向

日本人は、収集物が全てきちんと集まっていないと我慢できない。完全収集で、欠落、落ち度なしを求める。

また収集品が完全動作することを求める。エラー、失敗を心理的に許さず、またみずからエラー、失敗することができない、そうした心理的な余裕の無さ自体が日本社会の特徴である。

07/21/2010 05:41:07 AM


汎用プラットフォームの提供が苦手

何でもできる汎用品のプラットフォームを作るのが、日本は苦手である。

OSのソフト開発環境やパソコンや音楽プレーヤーの規格とか、誰にでもオープンに公開されており、自由に使える参入できるプラットフォームは、たいていが欧米産である。

あるいは、開発環境が非公開で、純正品のみが流布する、内製限定で、サードパーティの参入が難しい、よそ者を寄せ付けない環境の中で、独自の高品質な、それでいて他社と互いに似た機能を持つ、機能性能競争に基づくモノづくりをする。

BDレコーダーとかデジカメ、携帯電話で、利用者が自由にソフトを作れなかったり、テレビ、家電製品、パソコンを分解すると保証が受けられなくなったりする。

こうした、非公開、不自由、制限大好きなのが、日本製品の特長である。

07/21/2010 05:44:05 AM


恥の感覚の発生条件

恥の感覚は、

・互いに相手に無関心である(と自分が感じている)場合、自分には、恥の感覚は感じられない。

・周囲、相手が自分に関心、興味がある(と自分が感じている)場合、自分に、恥の感覚が生じる。

これをまとめると、

(1)相手が自分へ関心、視線、監視があること

(2)自分が何か目立つ出来事、イベント(特に失敗、マイナス)を発生させたのを(自分に関心を持っている)相手に見られること

2点が同時に起きるときに、恥の感覚が生じると言える。例えば皆の前で褒められる際とか、失敗でなくても生じる。

そして、

(3)自分に関心のある、自分を見ている相手の数が多いほど、恥の感覚が増すと言える。

恥の感覚は、周囲の他者への関心、興味の度合いの高い、日本のような高関心社会で生じやすいと言える。逆に低関心、無関心社会では生じにくいと言える。

日本で恥の感覚が発達したのは、互いに相手のプライバシーに関心のある人が多い、関心過剰社会であるからと言える。匿名でないと、プライバシーをすぐ詮索されて、うわさ話を流されるのである。

また、統合失調症のように、周囲の他者から常に監視されている、盗聴されていると感じる度合いの高いとされる病気でも、恥の感覚が高いと言える。

一方、アメリカのように、自分の個人的に興味のあることに没入する余り、相互に他者に無関心で、互いに他者と切り離された低関心、無関心社会では、恥の感覚は生じにくいと言える。

07/22/2010 07:59:59 PM


宗教と現世社会の改良

宗教者は、心の中で、天国に対する執着を持っている。それは、死後、天国の永遠の楽園の中で、ずっと楽をしたい、気持ちの良い思いをしたいという気持ちであり、快楽への執着と言える。現世でのセックスや美味しい食事と、本質的な差を見つけることが難しい。

また、天国に希望を抱くことは、ある意味、自分の生涯、現世をあきらめてしまうことにつながる。あるいは、現世を来世への踏み台代わりに使うことになり、現世より来世の方が重要だとして、現世を軽んじることになる。いわば、人間のリアルの生涯を軽んじる態度であり、これが、宗教者の、人間としての最大の欠陥である。

一方、現世をそのまま受け入れ、その中で最善を尽くすべきというのも、もしも、当人にとって、現世の与えられた生活環境が悪かったり、社会的に下位だったりすると、豊かだったり、上位である人に比べ、不公平で良くない考え方である。

問題山積みの現世への挑戦、改革、問題解決と、後世のためにその問題解決のノウハウを残して、有名にならなくても、地味でも、知る人ぞ知る存在になるよう生涯ベストを尽くすことが、人間にとって、社会にとって、一番良いのではないだろうか?むろん、失敗することもあるだろうが、その場合は、失敗の原因究明レポートを後世のために残せれば良いと考えられる。というか、現世では、その都度、解決法が分からないか、リアルタイムでくるくる変わる未知の問題に当たるのだから、失敗して当たり前だし、そうしたチャレンジに対する失敗には、社会的に寛容であるべきである。皆でそういう社会にして行かないと行けない。

ただ、失敗不可、再チャレンジ不可で、なおかつ世襲重視で生まれをひっくり返しにくくなっている現在の日本社会の在り方からすると、現世をあきらめて宗教に走りたくなる気持ちも分からないではないのだが。どこかで、そうした宗教に向かうエネルギーを、リアル現世社会の根本的改良、問題解決に向かわせられないかと思う。

07/23/2010 03:35:26 AM


日本人と欧米一体化

日本の人たちの中には、自分のことを、欧米の一員だと真剣に思っている人が、相当多いのではないか?

映画、音楽、食べ物、製品、思想・・・等、欧米のものだと、目の色を変えて飛びつき、ありがたがり、一刻も早く入手して、周囲に見せびらかそうとする。とにかく、欧米との一体感が強く、自分が欧米人になりきったような感覚で、自分たちが本来位置するはずの東アジアの中国や韓国を、自分たちより下位の存在として見下すのである。

実際のところ、自分自身は、官庁とか会社とか学校とか家族とか、「○○社、○○省一家、○○閥(学閥、門閥・・・)」と呼ばれるウェットな伝統的ムラ社会の内輪の一員として生活しながら、持ち物や日頃主張することは、ドライな欧米社会のそのまま生き写しという、一見矛盾した状況が平然と続いて日常化していて、問題になっていないこと自体が、日本社会の特徴である。中身、素面は、ウェットなムラ社会のままであり、それを、ムラ社会とは正反対のドライな欧米の最新の文物で毎日化粧し直している=表面的なコーティングを絶えず繰り返している感じがある。中身は、ムラビトのままなのに、思いっきり欧米の見せかけに夢中になっているところが、傍観者から見ると、やっていることが表面的に見えてかなり痛々しいのであるが、本人たちは、一生懸命で、その異様さに気づかない。

こうした、表層=ドライな欧米、深層=ウェットな伝統的ムラ社会という層別の区分けを行って、両層が混じらないように巧妙に立ち回ることで、ドライな欧米の毒が、ウェットなムラ社会の層に届いて、社会的混乱が起きないようにしているのである。というか、欧米の文化と日本文化とは水と油の関係があって、何度も表面をコーティングしても、ほどなく剥がれ落ちてしまうので、そもそも欧米の文化が、日本社会のコアに侵入する余地はないと考えるべきかも知れない。こうした文化層別分離の社会的メカニズムこそ、今後解明されるべきだろう。

こうした現象は、考えれば考えるほど、女性の化粧に似ている。表面的にクリームとかを絶えず塗りたくって、別人のように見えるが、コアは元のすっぴんのままであり、変えようがなく、化粧を落とすと、いつでも出てくるのである。本質的に女性的な現象と言えよう。

こうした強い欧米指向、欧米への心理的一体化が起きる原因としては、

・表面的なコピペでよいから、強大な先進国である欧米の仲間入りをして、世界社会の中で優位に立ちたい、特に中国、韓国に対して、大きな顔をしたいという、自国の国際的な偏差値を上げたいという世界的な優位確保、保全の思想が挙げられる。

・変化球的に今までにない斬新なアイデアをどんどん定常的に繰り出して世界をリードし続ける、強大でドライな欧米の後に付いていけばとりあえず自分たちも安心、何とかなりそう、守られるという、女性的な保身、寄生の思想が挙げられる。

・そうした欧米のオリジナリティ溢れる先進発想を生み出す力が、自分たち日本には余り存在しないという能力面での劣等感と、それゆえ絶えず欧米から最新成果を取り入れ続けないと、置いて行かれてすぐに後進国化してしまうという危機感が挙げられる。何らかの形で、ある日本人が先進のアイデアを出してノーベル賞とかで欧米に認められると、先進発想をなかなか生み出せないという劣等感や欧米に置いて行かれるという危機感がいきなり払しょくされ「欧米と同じ先進アイデア発想能力が実は日本にもある」「日本が先進アイデアで、いつも先にいるはずの欧米を追い越すことができた。やはり日本は先進国なんだ」ということを確認できるため、日本人は羽目を外して大喜びするのだ。

・ドライな欧米先進社会の先進的成果を、誰より早く一足先に学習して、それを元手に、先進国面していながら、実はウェットで後進的な日本社会で一稼ぎしようという、実利的な、せこい、ちまちました考え方も見え隠れする。華僑と変わらないかな?

もっとも、最近のように、欧米が財政危機に見舞われて、かつての強大さが影を潜め、それに代わって中国が大きく出てくるようになると、今までの欧米一体化から、中華一体化へと、案外簡単に舵が切られる気もする。

07/23/2010 05:13:40 AM


オタクの定義

筆者の見るところ、いわゆるオタクは、日本社会の主要な価値観から外れた人々であり、それゆえ社会的嫌悪の対象、差別の対象となっている。

彼らは、単に、趣味や特殊知識に深入りしており、周囲のことが見えなくなっている、というだけでは片付かない、別の嫌悪の種を内蔵している。

それは、彼らが、手の届くところにいる生身の人間、特に異性に、第一の関心が向かない、それ以外のことに主要な関心が向いているという点であると言える。

要するに、生身の手に届く人間、異性との直接の人付き合いをことさらに避けたり、あきらめて代替存在に走る人がオタクなのである。

この場合、

・手に届くところにいる、というのは、アイドルでない、ということである。生身ではあっても、手に届かないアイドル、偶像、崇拝対象、理想としての人間、異性のみに関心が行く人は、オタクである。(モーニング娘。オタとか。)

・生身の人間が活躍する演劇、ドラマに関心が行く人は、一般人であり、オタクではないように受け取られているようである。

・生身の3次元の人間ではなく、2次元ないし、3次元でもコンピュータグラフィックの人間等が活躍するアニメに第一の関心が向く人は、オタクである。

・そもそも人間でない、鉄道とかに第一の関心が向く人は、オタクである。

こうしたオタク批判は、実のところ、日本社会において主要な価値観を握っている存在から発せられている。それは、女性、それも若い女性である。日本社会が女性的性格を持っており、社会の根幹を女性、母性が支配しているということは、これまで当方は繰り返し述べてきた主張であるが、そうした女性にとって、本来の交際相手候補たるべき彼女らを無視して、代替の存在に走る男性の存在が非常に面白くないものであるため、オタクとレッテルを貼って、批判、差別の対象にしているのである。逆に、若い 3次元の生身のそこらの女性にちゃんとアプローチ、求婚する男性は、一般人(パンピー)扱いしてもらえる。

その点、日本におけるオタク迫害の戦犯は、若い(未婚の)女性と、そのシンパの、女性に受け入れられたくて、そのためなら何でもする、ナイト気取りは良いけれど、その実態は女性の奴隷としての男性の両者であり、すなわち一般人(パンピー)である。

もっともオタクは、若い女性には嫌悪されるが、同じ女性の母には受容されるという面もある。嫁に息子を取られずに済むからである。

あるいは、オタクの元々の意味である「お宅」は、余所の家の人の呼び名であることから、相手へとある程度の対人的距離感を置いた呼び方であると言える。これが、人間相互の心理的一体感を重んじる、メジャーな伝統的な日本ムラ社会の住人=一般人(パンピー)には、強い違和感を感じさせ、ひいては、気に食わない存在だとして、差別、批判の対象と化したと考えられる。

07/23/2010 05:47:25 AM


放送が好き

日本の人は、皆が一斉に同じ情報を入手する、放送形式の情報取得が好きだと言える。

周囲と同じ情報を同時に共有することで、周囲との一体感を取得、維持できるからだ。

テレビ放送が下火になっても、インターネットベースの生放送(ニコニコ動画とか)に人気が集まり、情報取得における放送優位の状況は変わらない。

08/04/2010 03:40:40 AM


連帯保証人の要求

日本の人は、基本的に、一人ぼっちの個人を信用せず、何かと、その個人と連れの関係にある人間の存在を要求してくる。連帯保証人の要求だ。

病院に入院する時とか、賃貸住宅を借りる時とか、必ず要求される。

これは、まっとうな暮らしをしていれば、必ず身寄りがいるものだという前提に立っている。

どこかの地縁、血縁、職縁等に属していない独り身の人間は、適当な連帯保証人が見つからない訳で、とても苦労することになる。

ここから、一人だけで動く個人の存在を許さない、何事も縁故、集団、団体本位で物事を進めようという日本社会の構造が透けて見えるのである。

08/10/2010 09:28:59 PM


匿名掲示板が、無縁社会、引きこもり社会の維持に役立っている

2ちゃんねるのような匿名掲示板は、現代日本の、人と人とが直接結びつかない無縁社会、各自が社会から自閉的に引きこもった社会、疑似ドライ社会を維持するのに役立っていると言える。

直接、身寄りや親類縁者に当たる人間が特におらず、彼らから情報を得ることができなくても、匿名掲示板に書き込まれる第三者の提供する情報が、それなりに生活上役に立つからである。というのも、匿名掲示板は、そのままでは皆の前では物議をかもしそうで言えない自分の本音や、辛口の社会批判が言いやすく、それが、書き込まれる情報のリアル度、品質を知らず知らずのうちに高めているからである。

こうした匿名ネットワークの積極的な評価とその活用が、無縁社会、引きこもり社会、疑似ドライ社会を維持、発展させていく上で、今後、より求められると言える。

(無縁社会の積極的評価については、別途記事を書いております。)

08/10/2010 09:56:05 PM


切れやすさが日本人の特徴

日本は、寒暖の差が激しい。そのため、日本人は、冬の寒さと夏の暑さという、相反する矛盾した苛酷な自然環境に毎年繰り返し晒され、引っ張られる結果、心理的に簡単に切れやすくなっているのではないだろうか。見た目温厚だが、ちょっとしたことですぐ声を荒らげるイライラタイプの人が相当多い印象を受ける。今の日本の菅首相もそうらしいが。

08/12/2010 11:16:49 PM


「詰め」と日本人

日本の人は、「詰め込み主義」とか「詰めが甘い」とか、「詰め」という言葉を使うのが好きだと思う。

要するに、完全に余白、隙間、遊びの部分が無くなるまで、時空間の中に、物資や人間、情報等を際限なく押し込むのが好きなのである。

「もっと詰めてください」と満員電車で車掌が叫ぶのを見ても何とも思わないというか、それがごく当たり前で自然だという感覚が、日本社会には満ちあふれている。

「詰め(る)」を研究することが、日本社会の理解につながると思われる。

将棋とかの「詰み」の概念も一緒に考えるとおもしろいかも知れない。

09/01/2010 07:10:12 AM


空きスペース不安症候群

日本の人は、空きスペースの発生が嫌いであることが多いように思う。

時間のスケジュールや空間、場所に空きが生じると、何となく落ち着かない気持ちになって、必死になって空きが無くなるよう埋めよう、詰めようとする傾向があるように思う。

余裕が無い状態が理想的とされる雰囲気が漂っている。

09/04/2010 10:56:23 PM


ブレーキが効かない、思考停止社会

日本社会は、いったん皆で合意して始めたことについて、たとえ途中からそれが駄目なことが判明しても、止めるためのブレーキが効かず、思考を停止したまま、破滅状態へと、全員一丸で突っ込んで行ってしまうタイプの社会である。

ブレーキを掛けよう、既定路線を変えようとする者は、例外なく非国民のレッテルを貼られて、言論統制を敷かれて潰される。

人々の間の一体感、同調性が強いため、いったん全員で合意すると、それに各自で反対するのが、全体の一体感、和合を損なうとして嫌われるのが原因である。

太平洋戦争敗戦の過程とか、この典型である。

09/05/2010 05:37:30 PM


財政破綻後の日本はどうなるか?

財政破綻後の日本がどうなるかは、財政破綻の根本原因が何かを見極めれば、すぐに分かる。

財政破綻の根本原因は、

・円高(対ドル /ユーロの円高が強調されがちだが、実は、対人民元の円高であることが重要)による、国内製造業の国際競争力の喪失、

・国際競争力の喪失による国内産業における雇用の喪失、

・喪失された雇用を穴埋めするための公共事業の乱発と、その税源を捻出するための国の借金である国債の乱発

である。

中でも、対人民元での大幅な円高が、日本の財政赤字を作った張本人、ガン細胞であり、財政破綻によって、この原因が日本社会の手術、治療の対象となるのは明らかである。

対人民元での円高の是正が、日本財政破綻の眼目である。

超安価な人民元による圧倒的な国際競争力と、その巨大な人口を抱えることによる圧倒的な雇用の吸収容積により、中国は、日本の国内雇用(そして欧米の国内雇用も)をことごとく奪ってきたのであり、それが、日本の、国内雇用の創出のための度重なる過度の無理な財政出動につながり、ひいては財政破綻につながったと言えるのではないか。欧米の財政危機もルーツは同じ中国だと思われる。

中国に雇用を皆持って行かれたので、日本は、急速に貧乏になったのだと思われる。

財政破綻後の日本は、一時的に為替の円が、調整のため、人民元と同じか、近いレベルまで下落し、人民元の中国と同等の賃金レベルの社会になると思われる。

円の価値が下落して大幅な円安になるので、円高の今みたいに高価なものは購入できなくなるが、少なくとも今の中国の平均レベルの生活水準は確保されると考えられる。生活は楽ではないが、飢えるとまでは行かない。それに、円安になることで、製造業の国際競争力が回復するため、雇用の場が国内に再び復活し、国民や国家の財布は、再び黒字になり、元気な日本が戻って来るであろう。

09/17/2010 10:42:59 AM


失業国家日本、国家レベルでの失業状態

日本は、世界の中で、国家レベルで失業している。

原因は、円高で、高コストの労働になってしまっているからだ。

国全体が、窮乏化、貧困化している。

膨大な借金を抱え、まもなく破産するだろう。

10/10/2010 07:50:54 AM


うつ病国家日本、国家レベルでの抑うつ状態

日本は、国家レベルでうつ病にかかっている。

人々が、みな活気を失い、無力感にさいなまれている感じである。

草食化とかも、積極的にガツガツする英気が失われた結果であり、うつの一環であろう。

10/10/2010 07:55:06 AM


雇用プールと通貨切り下げ競争、日本経済の再生について

中国は、巨大な雇用のプールとして捉えられる。なぜならば、人数が莫大で、世界中の雇用が皆そこに貯まるというか、世界中の雇用を皆呑み込んでしまう存在だからである。

雇用は、水のような液体として捉えられる。通貨、賃金の高いところから、より低いところへと流れるからである。要するに、通貨や賃金水準の高い国や会社を避けて、より低い国や会社を自発的に探して流れ下り、低い国や会社に貯まる、蓄積される性質を持っているのである。プールの水と同じである。

雇用のプールは、賃金、通貨水準の変動によって、その高さが変わるゴンドラのようになっている。そして、プールの底に穴が開いていて、プールが高いところにあると、雇用の水がプールから抜けて、より低いところにあるプールへと流れ下る仕様になっている。

日本は、通貨や賃金水準がとても高いところにあるため、雇用プールの水がカラカラに干上がって何も無い状態である。すなわち、国際的に雇用が無くなった状態で、お金が無い、入らない状態になっている。

なので、かつて雇用が潤沢にあった時代の遺産を食いつぶして生活している状態であるが、その遺産もどんどん食いつぶし、ほとんど無くなってきている。

バブル景気は、雇用プールに水が入ったまま、通貨が大きく切り上がることで、一時的に経済的な蓄えが一挙に増えてお金持ちになったような錯覚が生み出す現象である。雇用プールには底に穴が開いているので、急速に底の穴から雇用の水が抜けて、お金のない貧乏状態、景気が悪化した状態に移行するのであるが、その急速な移行が、バブル崩壊と言われるのである。

また、雇用確保のために、公共事業を行い、多額の財政出動を行った結果、多額の財政赤字が恒常的に生じるようになり、それを補うために国債発行を繰り返した結果、雪だるま式に、国債の量が増えており、ついには国内だけでは賄いきれず対国外への借金となり、ついには払いきれずに破たんする道を進んでいる。

それは、日本だけでなく、現在財政危機に陥っている欧米も同じであると考えられる。

これは、見方を変えれば、中国とかの通貨水準が適正水準を大きく下回って、本来日本や欧米に存在するべき雇用が皆中国とかに流れ下ってしまい、その結果、日本や欧米の雇用が失われて、それらの国民の収入が無くなり、国民が貧乏になって、それを補うために国が財政出動と国債発行を繰り返した結果、財政危機に陥っているという構図が見えてくる。

雇用を増やし、国の借金や、国の財政破たんによる通貨のメルトダウン可能性をなくすには、雇用のプール、ないしプールの水が入ったゴンドラを、一番下、すなわち中国とかより下に持っていくしかない。

日銀が札を刷っても、元のパイが無いのに、お金の実体は増えないし、景気は良くならない。景気が良くなるには、雇用の確保をしないといけない。雇用のプールを満たさないといけない。そのためには、雇用プールのゴンドラの高さを、雇用が皆流れ下って集まっている中国並みに引き下げないといけない。

日本で雇用が生まれる、日本人が食べていけるようになるには、通貨を中国並み、人民元並みに切り下げるしかない。

というか、人民元が切り下がらないので、自分たちから切り下げに出たのが、欧米と日本の通貨切り下げ競争であると考えられ、その切り下げは、財政破たんの危機下で雇用プールを再び満たし、人々が暮らしていけるようにするために必須であるとみるべきである。

通貨切り下げ競争は、日本や欧米の通貨水準が、中国とかのそれに相当近づくまで、継続的に行われるべきと考える。あるいは、中国とかが、通貨切り上げを行うことが必要だ。

10/11/2010 10:01:02 AM


破綻報道自粛?と大本営発表

日本の財政が借金超過で破綻することは、ほぼ確実であるが、新聞とかでは滅多に報じられない。大本営発表みたいに、言論統制か言論自粛が行われているのではないだろうか?

10/14/2010 06:13:08 AM


日本国財政破綻と円高

日本国財政破綻の原因は、円高である。

日本経済を破綻させない正解の方法は、円安誘導をすべきだった、ということである。

円安にしようとせずに、欧米各国から付きつけられた円高をそのまま丸呑みにして受け入れてしまったのが敗因である。

円高を前提とした経済行動に出てしまった。眼前の、物資が安く手に入るといった円高メリットを享受してしまったのが、そもそもの誤りであった。

日本人の労働が、円高により高コスト化したため、国際的な雇用を喪失し、産業空洞化がもたらされた結果、国内の大多数の人々が稼げなくなってしまった。

日本企業は黒字を出しているが、実際のところは、アジアの安い労働力を雇用し、日本国内の雇用をほとんど切り捨てて来たのだ。

そのため、国内の大多数の人々に対する所得補償が必要となり、それが公共事業の大盤振る舞いと、大量の赤字国債発行につながったのだ。

その際も、従来の円高によるリッチな生活水準をそのまま維持しようとして、本来稼ぐ能力を喪失した人々に対して、赤字国債による資金供給をしてしまったのが、まずかった。

円高に抵抗、反抗せずに、そのまま大人しく順応しようとしたのが、根本的な誤りであった。

円高そのものを是正せず、円高によってコスト高になって大幅に目減りした雇用や、生活水準を、大量国債発行によって維持し続けたのが、財政破綻につながった。

財政出動によって、雇用や生活水準を現状維持し続けようとしたのが、根本的な誤りであった。

日本は早く破綻させてしまったほうが良い。その方が、復活が早まるはずだ。

今回の地震は、日本破綻のきっかけになると思う。

03/20/2011 03:41:12 PM


アメリカの雲と日本社会

日本の伝統的ムラ社会は、全体主義、集団主義的であり、中国と体質が変わらない。

現在は、アメリカの雲が上から掛かっているため、アメリカの個人主義、自由主義が、日本社会の全体主義、集団主義を上手い具合に中和しているが、アメリカが勢力を弱めて、その雲が日本社会にかからなくなると、日本社会は、上から、元の全体主義に復古し、中国同様、言論弾圧の時代が再びやってくると思われる。

03/20/2011 03:50:01 PM


「大本営発表」の心理

「大本営発表」とは、太平洋戦争末期、日本の戦局が悪化しているにも関わらず、陸海軍当局が、戦局は良好である、戦争はうまく行っている、大丈夫であると、虚偽の情報を発表し続けたことを象徴する語彙として、日本の人々の間に語り継がれている。虚偽情報が流れるとき、決まって「大本営発表」と言う言葉が添えられていたのが、由来である。

大本営発表は、太平洋戦争の時で終わりかと思いきや、昨今の福島第一原発の事故の際も、日本政府によって、「放射能は、直ちに健康に害はない、大丈夫である」という言質で繰り返されている。

なぜ、「大本営発表」は、日本社会で繰り返されるのか?それは、日本人が「大本営発表」をするのを、うわべでは批判しながらも、内心で強く指向しているからに他ならない。

「大本営発表」は、人為的なミスによる、人為的な危険、リスク発生結果情報の、当事者による隠ぺいである。

「大本営発表」は、人為的なミス、失敗、人災の場合に起きる。天災の場合には起きない。

地震のような天然の災害、天災は、隠ぺいしなくて良いので、「大本営発表」は起きない。

戦争や事故は、人為的な出来事なので、「大本営発表」が起きるのである。

「大本営発表」をするのを好む人たちは、自分たちのせい、責任で失敗やリスク発生、まずいことが起きたことを隠ぺいする。何でもない振りをする。大丈夫な振りをするのが好きである。

「大本営発表」の底流には、リスクに直接さらされるのを嫌がる心理がある。

安心、安全が保たれた状態が持続すること、何事もなく平穏無事であること、いつも通り、平常通りであること、日常であること、前例がそのまま有効であることを何よりも重視する「無事」「平常、日常」「前例」重視の女性的な心理が、大本営発表の底流にある。

この反対が、何かリスキーな「有事」、「異常」、あるいは、前例が無効になる「例外」事態が起きること、それに対する新たな対処をいろいろ試みるのを好む男性的な心理である。

「大本営発表」は、戦争とか、原発事故とかの有事で生じる。平穏な日常では生じない、というか、有事を無事化、平穏化するために、「大本営発表」は行われるのである。

「無事」指向は、波風を立てない、無風状態、平穏、凪、平和を好む心理である。

何もしなくて済む、何事も起こらない、事件にならないことを好む。

何か事件、事故を起こしたことを、日常が揺るがされる、「世間を騒がす」悪いことと捉え、「とりあえず」「内々に」「外部に露呈しないように」隠ぺいしようとする、「隠ぺい」「閉鎖」体質が、「大本営発表」を生み出す。

社会の残りの人たちに対して、自分の地位役割がちゃんと働いていない、機能していない機能不全であることを隠ぺいしようとするのが、「大本営発表」をするのを好む人たちの傾向である。

また、「無事」指向は、自分で何もしなくて良い、何か新たな対策を打たなくても、そのままで今まで通りうまくことが運ぶのを好む「不作為」「無為無策」指向と結びついている。「大本営発表」を生み出す人は、根本的に「不作為」指向である。

「大本営発表」をするのを好むタイプの人は、危険に直接出会うと、冷静に対処、判断できず、パニックを起こしてしまう。直接危険にさらされるのに慣れない。危険を好まない。危険発生に弱い。そこで、ゆっくりと徐々に小出しに危険状況にさらして慣らし、「不感症化」のコースを進むのを好む。自ら直接危険に露出することなく、「温室」の中で永続的にぬくぬくと暮らすのを好む。

「大本営発表」をするのを好むタイプの人は、急激な変化の発生を嫌う。平常時に定めていた手順、秩序が無効になるのを嫌う。出たとこ勝負を嫌う。

「大本営発表」をするのを好むタイプの人は、自分が周囲の安心を脅かす人災となる結果を招いた元凶、犯人であると特定されるのを嫌う。不特定多数の一員で居たがる。

人災の原因になったとして責任を取らされるのを回避する。自分が危ない立場になってしまうのを回避する。人災を起こした結果、周囲に呆れられて、あるいは周囲を怒らせて、自分に対する援助が打ち切られるのが怖い。自己保身ができなくなるのを回避する。女性的な心理である。

自分(たち)の行為により人々の安心を脅かす結果が発生したことを、個人各自~集団、組織ぐるみで隠そうとする。根底には、安心、安全の持続を何より重視する、「安心」指向がある。リスク、有事の発生を新たなチャンスと捉えたりせず、ひたすら忌避しようとする。

「大本営発表」をするのを好むタイプの人は、自分の失敗の露呈を嫌う、回避する。

失敗が露呈することでプライドが傷つき、恥ずかしい思いをするのを、何よりも恐れる。

皆から責めの目で見られて、居たたまれない。公衆の面前で非難、批判されるのを恐れる。

悪い意味で注目されることを嫌う。人の目が気になる、女性的な心理である。

「大本営発表」をするのを好むタイプの人は、自分に対する世評、評判、評価に敏感であり、見栄張りである。戦況が悪いというのは、そうした状態を招いた自分に対する世間=「周囲社会」の評判が低下していることを示しており、それが、自分の体面を潰されて耐えられないという気持ちが、虚偽の良好な戦況を、世間に対して示そうという原動力になるのである。

「大本営発表」をするのを好むタイプの人は、インパクトのある悪い情報を、情報として一気に流さず、小出しにする。人々をゆっくりと徐々に小出しに危険状況にさらして慣らし、「不感症化」させようとする。人々を一気に驚かす、目を覚まさせる、覚醒させるのを嫌う。人々が何かに新たに目覚めて、新たな行動を起こすのを好まない、人々が今まで通りに「(情報に対して)無知で」、人々を引き続き「眠らせて」過ごさせようとする「寝た子を起こすな」「現状、体制維持」派である。

「大本営発表」をするのを好むタイプの人は、悪いニュースを流さない。無難な、心地良いニュース、発表のみを流す、「無難」「情報統制」指向である。

あるいは、自分が周囲から怒られる、非難される、批判されるのを恐れる、周囲に対する「ご機嫌取り」「媚び」指向である。

あるいは、周囲から非難されるのに弱い、耐えられないので、自分の周囲を、自分のことを批判しないイエスマンで固めようとする「専制」指向である。裸の王様の発生と根が一緒である。

「大本営発表」をするのを好むタイプの人は、自分が間違うのを恐れる、物事の正解、不正解にこだわる「正解」「無謬」指向である。人災や事故は、人為的な失敗や間違いによって引き起こされるが、「正解」「無謬」指向の人々は、そうした間違いをすることをひたすら恐れ、正しいとされることのみをしようとする。「大本営発表」で発表される内容は、本来あるべき正解、本来時局が歩むべき正しい途を意味しているのである。目前の戦況不利は、誤った作戦判断の結果生み出されたものであり、本来の正しい道から外れている「途を誤ってしまった」現状を容認できない気持ちが、現状を曲げて発表する「大本営発表」をしようという原動力になる。

「大本営発表」をするのを好むタイプの人は、勝ち負けにこだわり、勝負に負けるのを何より恐れる、「勝負」「勝利」指向の人である。それは、人々の関係を、勝ち負け、優劣で何かと判断しようとする相対評価の考えと深く結びついている。「大本営発表」で発表される内容は、勝利、優位を示す内容であり、負けている、劣位の現状を容認できない気持ちが、現状を曲げて発表する「大本営発表」をしようという原動力になる。その点、自分(の子供)の学校受験の偏差値で、他者との成績の優劣比較で一喜一憂する、現代の偏差値大好き、相対評価大好きな日本人と、かつての大本営発表とは、深く結びついていると言え、相対評価や偏差値が好きである限り、大本営発表の再来からは逃れられない。

日本で、「大本営発表」が繰り返し起きるのは、日本人が根本的に「大本営発表」を「する」のを好む、女性的心理を持っているからだと言える。「大本営発表」を(誰かから)「される」のは必ずしも好まないにも関わらずである。外面では、「大本営発表」を批判していても、いざ自分が人災を引き起こした立場に立つと、「大本営発表」をしてしまうのである。

日本の人たちは、原発事故とかでの政府の対応を「大本営発表」だと非難する前に、自分の内心の傾向をもう一度確かめる必要があるのではないだろうか?

08/07/2011 02:11:35 PM


日本の学会の特徴 -宗教組織としての視点から-

学界は、学説信仰集団として、宗教組織と同様に捉えることができる。

日本の学界は、「学問」「学術」を信仰する。

科学とは必ずしも言えない。

学説信仰集団の教祖は、教授、先生であり、弟子がそれに完全服従したり、思慕したりすることで、教祖と信者との関係になっている。

学界は、「教える-学ぶ」集団であり、先生、師匠と、生徒、弟子とからなる「お勉強」「お稽古」集団である。自分の頭で一から考える、発想する研究は二の次である。欧米学説のお勉強を、研究とみなすようになっている。自分の頭で一から発想する、考えだすことを嫌う集団である。模倣すべき外部モデルを絶えず必要とする。

学界では、キャリアの蓄積、積み重ねが重要視される。同じ分野でずっとやってきた専門家が重視される。途中の転進、方向転換を許さない、最初に一度決めた道をずっとやり続けるのが美徳とされる。継続は力なり、という言葉が好まれる。

教授は、学問政治の顔役であり、学生の面倒を見てあげる代わりに服従を要求する。

師弟の全人格的な上下関係が一生涯継続し、中止、キャンセルできない。

生徒として先に教えられるのが先輩であり、後から教えられるのが後輩である。先輩は後輩の先生役を果たすため、師弟の上下関係と同様の上下関係ができあがる。

08/24/2011 05:54:19 AM


日本の俳句の問題点

日本の俳句は、許容範囲が狭すぎる。

吟行主義であり、俳句を作るために現地に行かないといけない。ルポルタージュ、ノンフィクションのみを許容し、フィクションを許さない。

また、予め決定されている季語の挿入が必要である。

川柳でも俳句でもないタイプの短句を作りにくい。すなわち、無季で、かつ(諧謔的でない)真面目な内容の作句をするのが、難しい。

句の投稿とか、グループ行動、句会に束縛される面が強い。主宰者、師匠と弟子の関係に束縛されてしまい、表現を主宰者に合わせる必要が出てきて、表現の自由が無い。何事も師匠の気分次第ということになってしまう。

08/24/2011 05:55:45 AM


日本はなぜ必死で欧米化しようとするのか?

日本は、欧米の色に強迫的に必死で染まろうとする。凄まじい欧米指向が見受けられる。

日本は、なぜ欧米の一員であろうとするのか?欧化主義であろうとするのか?

それは、日本の近隣の、かつて日本の宗主国、格上の朝貢相手であった中国や、その威を借りていた韓国、朝鮮よりも、国際社会において、日本が格上で在り続けるために必要である。いわば、日本の体面がかかっているのである。

自ら欧米と一体化することで、強力な欧米の威を借りることで、日本は、中国、韓国より格上になれたのである。中国は欧米列強に侵略支配され、日本は、欧米列強にならって韓国を侵略支配した。

欧米が弱くなって、衰退することで、「欧米カード」を切れなくなると、日本は、中国、韓国に対して優位を保てなくなり、再び属国になる可能性が高い。

日本にとって、東アジアにおいて、中国、韓国に対して優位、独立を保つ上で、欧米との一体化、ないし欧米が強いことが必須である。

日本は、ことさらに欧米文化を輸入し、それに依存し、染まろうとする。本来の社会の雰囲気がウェットであるにも関わらず、ドライな態度を選好するのもその一環である。

欧米の弱体化で、日本は、中国、韓国からの報復が心配である。かつて、日本は、この両国を侵略してひどい目に合わせたからである。その報復は、ネチネチ、ドロドロした生々しい女性的なものになることが予想され、それを恐れる日本は、欧米が強力であることを祈り続けるのである。

欧米は、安い労働力人口の多い中国に比べて、通貨高で労働コスト面で劣るため、お金がなくなり、国家財政危機に陥って、すっかり弱くなってしまった。これから日本はどうするのか?再び中国の属国になり、韓国から格下扱いされる昔の状態に戻るのであろうか。

ちなみに日本の和の精神では、中国とは差別化できない。中国、韓国も日本同様に和合を重んじる社会だからである。

09/13/2011 04:28:11 AM

日本国財政破綻待望論

財政破綻の原因は、巨大人口を抱える中国という巨大プールへの、日本からの「富」の流出する注水切れ、注水余力の喪失である。日本から中国に流れていた「富」の注水が底をついて無くなってしまい、日本社会が経済的に栄養失調の状態になり、それが深刻化することである。「経済的栄養失調」「富の失調」が国の財政破綻となる。

破綻により、メリットとして、

・円安になり、コスト安となって、国際競争力が回復する。食っていける社会に戻る。栄養失調状態から脱却することができる。

・既得権益(役人、正社員、年金受給高齢者たちの権益)がリセットされ、今まで押さえつけられ、内向きに弱々しくなり、活力を無くしていた若者とかが、活力を得て、活躍しやすくなる。

破綻のデメリットは、

・円高による国際購買力が失せて、相対的に貧乏になる。

・国の信用力、権威が失墜する。

・ハイパーインフレの発生で、生活が苦しくなる。社会で養えなくなった団塊の世代とかの大量の高齢者や、その他障害者とかの棄民が起こる。

・既存の秩序を否定する、既存秩序の破壊を望む世論に押されて出てきた、若めの独裁者が、足の引っ張り合いばかりして何も実現できない政党政治を終わらせ、言論圧殺の独裁国家が出現する。

(初出 2012 4月)

なぜ謝らないのか

ドライな男性、欧米人は、何事も自分で判断し、自分が正しいと確信した道をその都度選んでいるので、自分に自信があるから、自分の判断の誤り、非を認めたくないから、謝らない。もともと個人の判断で行動するので、判断責任からは逃れられない運命にあり、責任回避で謝らないのではない。

ウェットな女性、日本人は、謝ると責任を取らされ、自己の保身に影響するので、表面上は「ごめんなさい」を言いながら、何かと言い訳をして、その場を逃れようとする。責任回避のため、謝らない。

(初出 2012 4月)


日本と独裁

日本は独裁でないと物事が運ばない側面がある。

政党とか、ちまちました党派間の足の引っ張り合いしかできない。大きな目標に向かって共に歩むことが難しい。

独裁が何でもできるようにするのではなく、根本にたがをはめる。すなわち、人類全体で、国際機関で決めた(自由、プライバシー・・・といった)人権ルールを、地球上に存在する全ての国家が守るべきことを規約に盛り込み、独裁国家も守ることを義務づけるのである。

(初出 2012 4月)

一人運転の比率

自動車運転で、添乗者、同乗者がいない一人運転の比率が、ドライな欧米で多く、ウェットな日本で少ないのではないだろうか。

(初出 2012 5月)

無責任掲示板

2ちゃんねるは、究極の無責任掲示板である。管理者も含め、誰も責任を取ろうとしない。

無責任社会日本を代表している。

(初出 2012 5月)

外面の権威と内面の権威

中国人が良く気にする面子は、他人に見られることを前提とした、個人の威光であると考えられる。

日本における見栄の概念と良く似ている。

面子も見栄も、外面の権威として、共通に捉えることができる。他人に外から見られることを前提とした権威あるもの、例えばブランドバッグがこれに当たる。

一方、欧米におけるキリスト教とかの信仰、ないし個人の信念のように、外からは直接分からない権威あるものが存在し、内面の権威と呼ぶことができる。

日本の学者は、とかく欧米学説を身につけて、まとって、威張る、偉そうにする。それが自分が考え出した学説でもないくせに。

欧米ブランド品、ないしベンツとかの欧米高級自動車を好む成金と思考回路が一緒である。

このことは、本来、内面の権威として作用すべき学説の信仰が、日本の学者には、外面の権威として作用していると言える。

(初出 2012 5月)

先輩後輩制の社会心理メカニズム

既に確立された前例、定説が畏れ多くて、打ち崩せないという心理が原因である。

前例、定説に挑戦するリスクを取るのを嫌う、保身、安全指向が、その奥にある。

生活上の確立されたしきたりのような、確立された前例、定説の持ち主が先輩である。

前例、定説の経験、学習については、年長者ほどストックがあることが多く、それゆえ年長者が先輩扱いされやすい。

確立された前例、定説を破壊する固いドリルを持たず、前例、定説にそのまま自分を合わせよう、適応させようとするのが、先輩後輩制の心理であり、女性の心理と同じである。

先輩後輩制では、先輩がいつまでも幅を利かせるため、新しい考えがそのままでは社会に入ってくることがなく、社会が前例にしばられ、身動きがとれなくなるという欠点がある。

(初出 2012 5月)

高不安感社会日本と大本営発表の繰り返し

日本では、真実のやばい事実を隠蔽して、事なかれで良いことばかりを発表する、「大本営発表」が太平洋戦争から最近の原発事故対応に至るまで繰り返し起きている。

その原因は、ちょっとしたことですぐ自分の身の安全が大丈夫か不安になり、パニックを引き起こしがちな日本国民の女性的な性質を、指導層が良く知っているので、なるべく不安感を引き起こさないように、言論工作を敷いているのだと言える。

今後も「大本営発表」は、繰り返し行われると考えられる。

(初出 20149月)

日本ムラ社会の社会的風土は、中国、北朝鮮と同じ・・・違う点も

周囲に配慮する余り、自分の意見を公の場で言うことが難しく、周囲の動向に自分をひたすら合わせていくことを求められる伝統的日本ムラ社会は、言論の自由が無い点で、中国や北朝鮮と同じである。


今の日本は、アメリカの属国になっているので、自由民主主義が表向きは重んじられ、アメリカの書いた日本国憲法が、侵すべからざる聖書扱いされているが、これは、その時時の強者の後をひたすらヘコヘコしながら付いていく、保身と権威主義のなせる業であり、そうした保身や権威主義と、権力者、勢いある者が変わると手のひらを返すように態度、追随先を変えるのが、周囲のトレンド、流行に敏い女性的な日本ムラ社会の本質なのである。


いかにアメリカ流の自由民主主義が建前だけで、ムラ社会の現状が変わっていないかは、日本社会に適応して生きている大人ならだれでも知っていることである。かと言って、日本社会が、昔と変わらないムラ社会ですよと公言すると、アメリカ民主主義を奉じる欧米先進国の一員であるという表看板が剥げ落ちて、都合が悪いので、皆黙って言わないだけである。そういうところ、現代の日本社会では、自主的な言論統制が効いているのでは無いだろうか。


以下のようなのが、日本ムラ社会が、男性的なアメリカ自由民主主義社会と違っていて、むしろ中国や北朝鮮と近い女流の証拠だと言える。

・気配り、和合、一体感、協調性、コミュニケーション偏重と、外に向かって門を閉ざす内輪だけの仲良し、一体化集団としての官庁、会社、町会、村落の存在

・リスクの回避、身の安全を保証する前例、しきたりを習得している先生、先輩としていない弟子、後輩との年功序列による支配従属関係の絶対視

・他人の自由に対して嫉妬深く、やたらと規制を掛けるのが好きで、競争を嫌い、横並びで同調するのを良しとする反自由主義の中央官庁とかの存在


一方、白紙状態の赤の他人の新入りを自分たちの同じ色に染め上げて、後継者として自分たちの後を引き継がせる嫁入り、婿入りや新卒一括採用と、一旦中に入って特定の色に染まると他に転進しにくくそこにずっといるしかない閉塞感に満ちた終身雇用の慣行は、日本ムラ社会の、血縁第一の中国や朝鮮には無い、独特の特徴であるといえる。こうした非血縁同族団、非血縁擬似家族としての側面こそが、日本ムラ社会の、中国や朝鮮といった他国に無い独特の特徴なのでは無いだろうか。

(初出 20149月)

ムラ社会を国ぐるみで隠蔽しようとしている日本 -「欧米化主義」による言論統制-


日本は、政府も国民も、自分たちは、欧米流の自由民主主義を身に付け、欧米先進国の一員になったのだと、強く自負している。

そのため、本当は、社会の基盤部分が、今なおウェットで旧態依然とした、伝統的農耕民型のムラ社会であることを、政府、国民一丸となって、必死に隠蔽しようとしているかのように見える。

ムラ社会は、古い、すでに消えつつある社会のあり方であり、我々は、ドライな欧米の文化と積極的に一体化して、率先して取り入れ、社会や生活は、欧米化を達成した、という考え方が日本では支配的である。

日本の社会学のあり方にしても、日本のムラ社会は、遅れた封建遺制であり、現代の日本社会は、欧米並みに近代化して、自由民主主義を身に付けたのだ、あるいはそうなりつつあるのだ、という前提で、教科書とか組んでいるのである。ムラ社会のことは、社会の教科書とかにはほとんど出てこない。

そう考えないと、というか、日本社会の基盤が昔ながらのムラ社会であることを外部に公式に露出させて認めてしまうと、日本は、欧米先進国の仲間では無い、異質な存在だということを認めざるを得なくなり、欧米先進国の一員ではいられなくなってしまう、村八分になってしまうという恐怖感、不安感が、日本社会に根強く存在し、それが、日本社会の基盤のムラ社会の存在を国ぐるみで隠蔽しようとする大きな要因となっているような気がする。

中国とかと違って、日本では表現の自由が認められているとか、盛んに日本人は主張するが、実際のところ、日本人が自由を信奉するのは、自分たちより上位の宗主国のアメリカが、自由主義、民主主義をやたらと主張するため、とりあえず強者のアメリカの言うことを聞いていれば、身の安全が図られ間違いがないという、アメリカの権威に頼る、女性的な権威主義から来ているのであり、アメリカが日本を支配している間の一時的な現象だと考えられる。日本人は自由を心の底から体得している訳では無く、自由主義が権威、権力があるから、自分も従ってみるかとかいう感じなのである。

その証拠に、日本社会は、会社とかで、やたらと周囲との和合や協調性を求め、一体、一丸となって団体行動し、個々人は、会社組織の中に溶けて無くなることを求めるのであり、プライバシーも存在せず、個々人は会社に全人格的に拘束され、行動の自由が無いのが当たり前だったりする。個々人の自由行動が保証されやすい遊牧民に近い欧米社会とは、社会のあり方が農耕民的で根本的に異なり、かつそのことを世界に向けて公に認めることが出来ない立場にあるのが今の日本社会である。

公に日本社会がムラ社会であることを認めることが出来ず、社会ぐるみ、国民ぐるみで隠蔽しようとすることは、言い換えれば、日本社会がムラ社会であることを主張する言説を無視する、亡き者にする形で公認されないように規制することになっており、そういう点では、現代の日本社会は、言論の自由が存在しない言論統制、規制社会であると言える。


日本では、明治時代から、実質、欧化主義、というか欧米化主義が、現在に至るまでずっと続いている。確かに、欧米の文物を導入し、それらを改良して、世界に向けて売りまくることで、大いに儲けて経済的に成功したのは、選択としては正しかったといえる。

しかし、日本国や日本人がいくら心身ともに欧米化を進めようとしても、そのやり方が、欧米との心理的情緒的一体化に基づく女性的、母性的なものであるため、欧米社会本来の個々人の自己責任と独立、バラバラさを許容し、積極的にリスクを取って、率先して未知の領域を切り開く男性的、父性的な精神を、日本人が心の底から体得することは決してできないのである。

日本人は、欧米の文物をしきりに有難がって、身につけようとする一方、中国や北朝鮮、韓国を敵視して馬鹿にする。日本が自分たちの社会の基盤がムラ社会のままであると認めることは、自分たちは中国、朝鮮と同類ですよと認めることになり、中国、朝鮮と仲の悪い日本の人たちは、それを避けるのに懸命になっているのでは無いだろうか?

だから、社会学の教科書とか、農耕民と遊牧民の社会のあり方の根本的な違いとか、一切教えずに無視するのだと思う。もしも教えると、日本は、欧米のような遊牧系に近い社会からかけ離れた稲作農耕民の社会であると教えることになってしまい、自分たちが心理的に一体化しようとしている欧米社会からは距離が遠くなり、自分たちが避けたいと考えている中国、朝鮮と一緒のカテゴリーになってしまうからである。

日本政府やそのブレーンたちが、男女の心理的性差や、女性的性格と日本社会の国民性との相関、男性的性格とアメリカ社会の国民性の相関とかについてきちんと教えずに、男女の性差をひたすら無視しようとするフェミニズムや男女共同参画社会構想とかに向けて突っ走るのも、日本社会が女性的だと認めてしまうと、男性中心の家父長制の欧米社会と、超えられないギャップが認識されてしまうから、都合が悪いためであると言える。日本社会を男社会と必死になって主張するのも同根である。

河合隼雄の母性社会論が例外的に受け入れられたのは、彼が、西欧に留学して、ユングの精神分析の理論という、西欧で権威が確立された理論を土台にした自分の理論を提示するという形でライフワークの展開を行ったため、日本人の欧米の文物をこぞって取り入れようとする、欧米の文物を上位に置いて有難がる権威主義的な心理的傾向、ルートにうまく乗っかることが出来たたからである。

この仕組を利用して、例えば少数の日本人が欧米に留学したりして、欧米人の一員としていったん成果を出して認められた後、そこから日本ムラ社会の社会システムを克明に分析、論評し、中国、朝鮮社会といった他の農耕民社会との対応付けや、アラブ、トルコ、欧米といった遊牧系社会との性格比較を行っていくことが、欧米文物に弱い日本人に、自分たち日本人が欧米とは異質なムラ社会であることを世界に向けて公認せざるを得ない状況を作り出す条件になるのではないだろうか?

そうなれば、大きな日本社会の変革、改革につながるだろう。

(初出 20149月)


一言コメント集


お別れ重視

日本人は、(身内だった人の)別離で大騒ぎする。いったん別れるとどこかに行ってしまいもう会えない、と考える。 一方、欧米のように、人と人との別れが当たり前で何とも思わない社会では、新たな出会いで騒ぐ。出会い重視である。

11/18/2009 02:12:54 AM

専業主婦中心社会

日本社会は、専業主婦を中心に社会が回っている。一番楽ができて、かつ使えるパワー、権力が巨大である。 働かなくて良い。家計管理の権限を握る。子供を自分の操りロボットにできる。

11/18/2009 02:13:27 AM

ダービーとしての日本の会社、官庁

日本の会社、官庁は、母親=騎手に尻を叩かれ走る、母親にコントロールされた息子=競走馬が集まる場である。

11/18/2009 02:14:07 AM

集り社会

日本人は、人だかりを作るのを好む。他人に集るのを好む。

11/18/2009 02:14:40 AM

日本的独創

日本的独創の特徴は、自説へのこだわり、愛情、ウェットな執着である。

11/18/2009 02:15:09 AM

無難、粗探しが好き

日本人は、無難さ、欠点がないことを好む。ミス、粗探しをするのを好む。

11/18/2009 02:15:37 AM

世間、空気と女性

日本の「世間」「空気」を作っているのは女性である。「世間」は、女性の作り出した女流の社会である。 「空気」は、液体分子のように、互いに身を寄せ合って一体となっている集団=「世間」内の人々の間に共通に漂う、その場の雰囲気、暗黙の了解である。 いずれも、互いに一体化するのを好む女性由来である。

11/18/2009 02:16:03 AM

母艦

日本のようなウェットで母性的な社会では、男性は、巨大な母艦、母胎である女、母の元から飛び立ち、帰ってくる、矮小な存在である。 一方、欧米のようなドライで父性的な社会では、男性は、母艦なしに自由に飛び回る、ある程度大きな存在であり、女性はその男性にしがみつくだけで何も出来ない無力な存在である。

11/18/2009 02:17:18 AM

無修正、変更禁止、一貫主義の社会

日本人は、上司とかの発言のぶれ、修正を嫌う。

試行錯誤による方針変更や、心変わりを許さない。中途で意見を変えることを嫌う。

一発で正解に行く、たどり着くのを望む。

最初の方針で、最後まで行くことを望む。

一度決めたことは、変えずに一貫してやり切ることが望ましいと考える。

11/18/2009 02:18:16 AM

揚げ足取りが好き

日本人は、他人の些細な欠点を取り出して、それを元に他人の足を引っ張るのが好きである。

11/18/2009 02:18:45 AM

失敗の非学習

日本人は、負けや失敗を認めるのが苦手であり、学習しない。

11/18/2009 02:19:16 AM

察しの文化

こちらから何も言わなくても、気づいてくれる、何かしてくれるのを好む。気配りしてもらうのを当然視する。よく気がつく、気が利く人が好まれる。

11/18/2009 02:20:35 AM

女性的生き方の押しつけ

日本の女性は、女性的な生き方を男性に押しつけている面がある。女性的な生き方とは、ウェットで、安全第一、退嬰的な生き方である。具体的には、集団主義とかになって現れる。

11/18/2009 02:21:00 AM

円高貧乏とステータスシンボル

日本は、円高で国力が衰退して、貧乏になっているにもかかわらず、円を切り下げしようとしない。 円の高さが経済的なステータスシンボルとして機能しているからである。円高であることは、経済大国のシンボルであり、円安になると経済大国としての名誉が傷つくので、円高が貧困や経済小国化をもたらしても、円高を止めようとしない。

11/18/2009 02:21:39 AM

媚び、すり寄り、取り入り

日本人は、その時々の優勢なものに媚びて、すり寄り、取り入ろうとする。優勢なものの文物を取り入れようとする。権威あるものとして進んで身に付けようとする。取り入って身に付けた物(最新の学説とか)を、あたかも自分の持ち物であるかのように見せびらかし、自慢する。 一昔前は中国が、最近は欧米が、媚び、すり寄り、取り入りの対象となっている。

11/18/2009 02:26:15 AM

日本の二大政党制

自民、民主、二大政党と言いながら、実際のところ、自民党が2つあるのと変わりない。

11/18/2009 02:26:54 AM

迎合社会

日本人は、周囲に気に入られよう、受け入れられようとして、周囲に迎合しようとする人が多い。

11/18/2009 02:27:32 AM

集団独裁

日本的ムラ社会、ムラ国家は、集団による独裁である。個人による独裁ではない。日本の軍部、内務省とかのムラ社会的体質が、日本を破壊に導いた。

11/18/2009 02:28:24 AM

ムラ社会の克服

ムラ社会を克服するには、ムラ社会の外に出ないとダメである。伝統日本社会、封建制の打破をうたう学者や知識人が、実は、学閥や、知識人同士のコネに守られた旧態依然のムラ社会の住人であるというパラドクスが存在する。

11/18/2009 02:29:02 AM

文理の区別と文系優位

日本では、人を扱う人(文系)と物を扱う人(理系)との区別がはっきりしている。文系が理系より優位である。人を扱うことが、メインであり、その点、物よりも人に興味が行く女性的である。

11/18/2009 02:29:35 AM

雪崩打ち

雪崩打ちは、日本社会の特性である。民主党圧勝と政権交代の選挙がその例である。 一方から他方へ大勢が短時間のうちに、一度にどっと態度を転換、変換する。自民党政治はもう厭きたから、他方の民主党が何か新しいことをしてくれるだろうと考える。

11/18/2009 02:30:20 AM

ブラックホール、ターミナルとしての日本

日本社会は、外部からの情報をひたすら呑み込んで、自分たちからはあまり情報を発信しない。そういう点でブラックホールに似ている。

また、情報の行き着く終着点みたいな性格も持っていると言える。

07/09/2010 03:35:49 AM

凪(なぎ)指向

日本では、とかく波風を立てないことが重要視される。

その点、凪状態を好むと言える。

液体は、風呂水のように、そのまま放っておくと、液面が完全に静止して、動かなくなるが、それと似た性質を日本社会は持っていると言える。

07/09/2010 03:38:57 AM

日本人の守られ願望

日本人は、外部に守って欲しい、もらいたい、「守られ願望」を強く持っていると言える。

やたらと日米同盟を重んじるのも、根底にアメリカに守って欲しいという気持ちがあることの表れである。

いわしの群れみたいな護送船団を好むこと自体、個々の日本人が、自分ひとりだけで自立するのが不安で、誰かと一緒に守られた状態でいたいことを願っていることの表れである。

その点、日本人と女性には共通点が多い。

07/09/2010 03:43:30 AM

いきなり中枢に行くのが難しい社会、次第社会

日本社会は、アメリカとかと違って、直接いきなりその中枢、核心に入り込むことが難しい社会である。

その構造が、液体と同じになっていて、周辺から順々に順番を守って、次第に中枢に近づくことが必要なのである。その点、物事にやたらと「次第」を求める「次第」社会であると言える。

07/09/2010 03:47:54 AM

日本社会で最強の存在

日本の最終支配者は、

家庭では、母、姑であり、職域では(数は少ないが)姉御である。

職場で姉御で、家庭で母、姑である女性が日本社会では最強である。

07/09/2010 04:12:00 AM

教授、先生と強迫観念

日本社会で教授、先生と呼ばれる人たちは、何でも知っていないといけない、聞かれたことは何でも答えられないといけないといった、強迫観念を持っている場合が多いのではないか。

専門家の肩書きがあるのに、知らないと恥ずかしい、というものである。

それが、彼らに学殖蓄積指向を生み出していると言える。

07/09/2010 04:16:12 AM

オールインワン、オールラウンド、ゼネラル、総花好き

日本の人は、一通り何でもできる、カタログスペックに隙がない、穴が無いものを好んで入手しようとする。携帯電話、パソコンが代表的である。掲示板のスレッドタイトルとか、何でも書き込める総合的なものにしようとする。 特殊、専用用途のみに使えるタイプのものを、オタッキーと呼んで、馬鹿にする。

11/18/2009 02:34:46 AM

流され社会、成り行き社会

日本社会は、その時々の成り行きに身を任せて皆で流される社会である。

11/18/2009 02:35:16 AM

多勢指向

日本社会は、各自が皆のいる方に行こうとする社会である。

11/18/2009 02:35:45 AM

視線社会、見栄社会

日本社会は、互いに他人の視線が気になって仕方が無い社会である。互いに他人に良く見られようと、良い格好しがちな社会である。

11/18/2009 02:36:16 AM

世話焼き社会、ケア社会

日本社会は、他人の世話を焼く、ケアをすることが良いこととされる社会である。 4コマコミックの「となりのなにげさん」みたいなのが理想とされる社会である。

11/18/2009 02:37:02 AM

気配り社会

日本人は、自分の気持ちを先読みしてくれる、良く気づく、気が利く、気配り上手であること、他者への注意力があることに価値を置く。

11/18/2009 02:37:28 AM

相対社会

学力偏差値のように、所属集団の中のどの位置に自分がいるかに注意が向く社会である。

11/18/2009 02:37:56 AM

対話のない社会

日本では、各グループが、前もってグループ内で合意した自分のグループの意見を一方的に主張し、決して譲らない、動かない。

11/18/2009 02:39:18 AM

純正指向

日本人は、家電製品とかの周辺機器を購入する際、メーカー純正品を好む。社員とかで、生え抜きの正社員を好む。

11/18/2009 02:40:01 AM

調整型と独断型の国民性

日本人は、調整型の国民である。利害集団で調整を完了してから初めて動く。根回しとか、談合とか、和合とかが好きである。一方、アメリカとかは、事前の調整なしに、批判とかお構いなしに、トップの独断でどんどん進めていく。

11/18/2009 02:40:32 AM

「一つ」 onenessの重視、一体感、一致の重視、割れの回避

日本人は、周囲との相互の一体感を重んじる。一体性の存続が最重要である。一心であることを対外的にアピールする。一つなのが好きである。一つにまとまっているのが好きである。数字の1が好きである。日の丸は、赤い点々がひとまとまりになって結束している。一致団結を重視する。

11/18/2009 02:41:03 AM

日本やくざは女性、母性的

日本のやくざの本質は、ドロドロした愛憎に満ちた派閥抗争と組織へのマゾヒズムに代表されるように、女性的、母性的である。昼のメロドラマと感じが似ている。

11/18/2009 02:41:40 AM

休息回避社会

日本の会社、官庁は、職員、社員が休むことを嫌がる、避ける。出来るだけ休まないのが良いとされる。年次休暇を沢山取ると、それだけで評価が下がる。成果を上げても無視される。四六時中、休まずに、所属組織のために、貢献していないと、あるいは、貢献している様子を周囲に向けてアピールしないといけない。成果を上げたが、沢山休んだ、というのではダメで、成果はあまり上げなかったが、休まなかった、という方が、評価が高い。

11/18/2009 02:42:07 AM

年功序列の再生産

年功序列は、先輩後輩制という形で、現在も日本の若者の間に再生産されている。それは、中学、高校、大学の教育課程時代に、学校への加入年次、年齢に基づく、上級生下級生の上下関係の感覚が体の芯まで染み込む形で、生徒の心身に教育され、社会人になっても抜けずに永続するのである。この感覚が、今なお再生産されているのである。年功序列は永遠である。

11/18/2009 02:42:34 AM

標準指向

日本人は、何でも、標準に合わせよう、標準から外れることを避けようとする。パソコンのキーボードとか、その代表例である。標準は、既にある、政府とかの権威筋が決めたものであり、その標準仕様を守ることを、非常に重んじる。

11/18/2009 02:43:00 AM

日本の警察

警察は、天皇家直属のやくざである。

11/18/2009 02:43:30 AM

天下りの本質

同期と差が付くのを嫌う点にある。差が付いた同期と一緒にいるのを嫌う点にある。

11/18/2009 02:44:03 AM

日本の学者と権威

日本の進歩的学者は、欧米の威を借りる狐である。日本の保守的学者は、天皇の威を借りる狐である。

11/18/2009 02:44:40 AM

改良 refine体質

日本は、何か既にあるものを改良して、競争力を付け、それを売りさばいて生きるのが得意である。

11/18/2009 02:45:21 AM

慣性に従って動く。 中途変更、中止を嫌う。

日本は、計画の中途変更、中止を嫌う。それまで、今まで通りに動こう、慣性に従って行動しようとする。

新型インフルエンザワクチン接種で、政府側の変更で混乱している。

当初決定通り、ひたすら進むのを好む。進行を慣性に従うことを重視する。何事も、途中で変えたり中止するのを好まず、今まで通りの状態を続けようとする。

当初植わった通り、生え抜くのを重視する。

決定変更、中止に柔軟性が無く、硬直している。

11/18/2009 02:46:21 AM

自己決定の欠如

日本では、進路が自力で決められない人が多い。・どうしたらいいか分からない。自分だけで未知の領域に進むのが怖い。助けて欲しい。・自分では決めたくない。責任を取りたくない。誰かに決めて貰い、責任も取って欲しい。 力ある者(アメリカとか)、責任者(上司、管理職)、先の知見を持っている者(先生とか)に決めて貰おうとする。あるいは、周囲の動向に同調し、合わせる形で決定する。一見、自分で決めているように見えるが、進路の方向自体は周囲任せになっている。

11/18/2009 02:46:56 AM

定時性、定期性、定刻性の重視、「コツコツ」感の重視

日本人は、毎日、決まった一定の時刻に休まず、欠かさず会社、学校に行く、行かせるのを好む。日々、こつこつと休まず働く、努力するのを賞賛する。数日一気に働き、一気に休むのはダメである。

11/18/2009 02:47:24 AM

天皇家の子女が国立大学に行かない理由

天皇家の子女が、国立大学に行かず、独立系の私立の学校に行くことが多いのはなぜか?それは、東京大学に代表される国立大学が、今も、実質天皇家の臣下を養成する学校であり、天皇家にとっては自分たちより格下だからだ。というか、国立大学は、実質天皇家直営であり、天皇家の子女が通うと、自家培養になってしまうので、外部の風を入れるため、学習院とか他の学校に通うのである。

11/20/2009 03:46:28 AM

日本の年功序列、先輩後輩制と女性

日本社会の年功序列制、あるいは先輩後輩制の原因となっているのが女性である。自ら前例のない未知の危ない橋を渡るのを極力恐れる、保身の権化である彼女たちは、こうすれば安全だと知っている前例の持ち主を何より尊ぶ社会に、日本を作り上げた。その前例は、年を食って経験を積むほど、当人にとって豊富に身に付きやすい。そこで、年寄りや先輩がやたらと重んじられることになる。年功序列や先輩後輩制にうんざりしている人は、女性を攻撃すべきだ。

11/20/2009 04:36:47 AM

近接性と離散性

相互に近づき、親密になり、一体感を味わおうとする相互近接性が、日本人、ないし女性の特徴である。 一方、相互に離れ、バラバラになって自由、独立感を味わおうとする相互離散性が、欧米人、ないし男性の特徴である。

12/08/2009 08:41:15 PM

ドライな社会原理、ウェットな社会原理

従来の社会学は、近代西欧を模範とするドライな社会原理をもとに組み立てられてきたが、今後は、中国や伝統日本とかを模範とするウェットな社会原理を別途探求し、ドライ、ウェットの二本立てで行くのが望ましいのではないだろうか。

07/18/2010 09:35:29 PM

積極的失敗と消極的失敗

失敗にも、積極的失敗と消極的失敗というのがあって、積極的失敗というのは、未知、未開の領域で成功を収めるまでの、途中で試行錯誤を積極的に繰り返す必要がある場合の失敗である。一方、消極的失敗というのは、失敗そのものをなくしてしまおうという、失敗をひたすらネガティブな悪いものと捉えるものである。日本は、消極的失敗の捉え方が多い社会だと言える。

07/18/2010 09:38:29 PM

シングルワークとマルチワーク

余暇と本業との考え方については、本業は 1つだけに集中すべきものであり、それ以外を副業とみなすと共に、、余暇を、あくまで本業を維持する上で必要な気晴らし、休息であるとする、シングルワークの見方が日本では主流のように思われる。

一方、複数の業務を同時並行、並走させる形で進め、余暇と本業を区別しない、複業、マルチワークの考えはあまり浸透しているとは言えない。

07/19/2010 10:22:23 AM

判断しない

自分の判断では動かず、権威筋、権力筋の判断で動くのが日本人である。

07/19/2010 10:25:38 AM

表札と情報漏えい

日本では、最近は自分の家に表札を出さない家が増えている。家族のウチウチの情報が外に漏れると困ると考えての行為と思われる。それだけ、互いに情報漏えいに敏感になっているのだろう。

07/19/2010 10:26:32 AM

日本社会と女社会

日本社会を知るには、女性や女社会を知らないといけない。日本社会を支配するのが女性(母)だからだ。

07/19/2010 10:56:54 AM

物象化文化と擬人化文化

世界の文化には、ヒト(人間)をモノ(物体、物質)として扱う、物象化文化と、モノ(物体)をヒト(人間、ヒューマン)として扱う、擬人化文化とがあると考えられる。

前者がドライで男性的な欧米文化で、後者がウェットで女性的な日本文化であると考えれられる。

07/19/2010 11:23:38 AM

液体分子と「島」

液体分子のかたまりは、閉鎖的、自給的な「島」とみなすことができる。

日本社会との近似性が高い。

07/20/2010 09:10:25 PM

農地、土地所有の流動化と日本社会のドライ化

先祖伝来の所有農地、土地の流動化、所有者変更が頻繁になることで、日本社会の流動化、ドライ化、父性化が可能になる。

07/20/2010 09:11:37 PM

ブレークスルーと改良

ブレークスルー民族が欧米であり、

改良民族が日本、中国、韓国である。

07/20/2010 09:12:28 PM

罪と恥と外部ルール

内部(個人、集団内の心の中、ウチ)のこと、情報が外部(ソト、ヨソ)に漏れて広がり(外化して、うわさ話の対象になり)、なおかつ、その情報が、自分たち内部(ウチ)に対するマイナス評価に結びつくものである場合、恥ずかしいと感じる。

内部(ウチ)の情報が、外部(ソト)から取り入れた(内化した)、良し悪しを判定するルールに抵触する、ルール上マイナス評価に結びつくものである場合、罪深いと感じる。

外部のルールと内部の情報が出会って、接触して、化学反応を起こすのが、恥、罪の感覚である。

07/20/2010 09:13:44 PM

親元、地元への根付きと性差

親元から離れない、地元に根付くのが女子(学生)であり、親元から離れて住む場所を点々とするのが男子(学生)である。

07/20/2010 09:14:58 PM

枠内文化、所与文化と枠破壊文化

外部から与えられた枠に適応して、その中に留まり、その中で最高の完成品を目指す、枠内完成品文化、枠内文化の持ち主が日本である。欧米から与えられた枠の外に出ようとしない、出られない、限定文化、制限文化、檻内文化の持ち主である。外部から与えられる枠を所与のものとみなして、そのまま思考停止して鵜呑みにする、所与文化の持ち主である。

外部から与えられる枠を破壊して、自由に自分のオリジナルなプロダクトを目指す、枠破壊文化の持ち主が欧米である。

07/20/2010 09:16:07 PM

正確指向

日本の人は、他者への詮索、覗き、粗探しが好きであり、逆に、外部から粗探しされて、弱みに付け込まれないため、外に出すアウトプットが細かいところまでやたらと正確でエラーの無いものになりがちである。

07/20/2010 09:16:55 PM

ミクロ文化とマクロ文化

女性や日本人は、細かい点に注意が行き届く反面、大局的な判断が苦手であり、ミクロ文化の持ち主である。

男性や欧米人は、とかく大雑把で細々としたことが苦手な反面、大局的な判断が得意であり、マクロ文化の持ち主である。

日本は、細かいミクロレベルの一つ一つでは成功しているが、マクロ、大局を見ると失敗していることが多い。あるいは、大きな新しい今までにないトレンドを作るのが苦手である。

欧米は、細かいところでは、いろいろ粗や難点が見られるが、マクロ、大局的、大まかには成功していることが多い。

07/20/2010 09:17:45 PM

依存体質と自助体質

女性や日本人は、とかく誰かに頼ろうとする依存、寄生体質を持っている。

男性や欧米人は、自分のことは自分で助けるしかないと考える、独立、自立、自助体質を持っている。

07/20/2010 09:18:57 PM

正解文化

日本人は、正しいかどうかが分かっていることしかしない、出来ない。

入試問題に対する態度のように、正しいかどうか、正誤の判定にうるさい。

07/20/2010 09:21:23 PM

日本人の思考停止

欧米学説をうのみにし、それに依存し、前提化している。欧米学説同士の比較、精査ばかりやっていて、自分から独自の学説を出しにくい。

07/21/2010 05:45:04 AM

加工文化

日本は、出来合いのもの(欧米産の原始、粗技術)に、加工、手を加えることで完成品にするのが得意である。

07/21/2010 05:46:03 AM

その場指向と女性

女性は、思ったことをその場で言う、今日中に、その日のうちに言うのを好む傾向がある。

07/21/2010 05:46:59 AM

比較好き、相対評価好き

女性や日本人は、何でも周囲の他の人と比べようとする、比較好き、相対評価好きである。

07/21/2010 05:33:38 AM

無口な日本人

対人関係で、相手に、自分の意見とかをどう言おうか、伝えるか悩んでいるうちに、結果として無口になる。

07/22/2010 08:41:41 PM

高興味社会

日本人の、周囲の他者に対する関心の高さは、物事一般にも及んでいる。

興味津々で、新しいものにどんどん飛びついていく好奇心の旺盛さ、物見高さが特徴となっている。

07/22/2010 10:11:38 PM

日本人と成功

日本人の成功者に対する反応は時系列順に以下の 3段階になる。 (1)成功者を持ち上げて、ほめそやす。(2)そのうち、妬みの心が生じる。「やりすぎ、はしゃぎすぎ、いい気になるな」と思い始める。(3)成功者の足を引っ張る。出る杭として打つ。

05/19/2007 11:36:15 PM

日本人はきつい、ゆとり嫌い、詰め込み主義

きつい社会、ゆるい社会-ゆとり嫌い、詰め込み主義の日本人- に関する筆者の他著作「思考の小箱」を参照して下さい。)

05/20/2007 05:04:12 AM

日本人は植物的、農耕民的

植物的思考、動物的思考-農耕民と遊牧・牧畜民との行動様式比較-に関する筆者の他著作「植物的思考、動物的思考」を参照して下さい。)

05/20/2007 05:06:28 AM


「○○さん」で平等表現

人間関係において、伝統日本のように上下の序列を重んじるのではなく、相互の対等さ、平等を強調することで、より人権を重視する考え方を身に付けることが必要である。先輩後輩、目上目下の区別なく、扱いを平等にするには、全員に「○○さん」付けをする。「○○君」だと、後輩、目下ということになってしまい、扱いが平等でなくなる。

07/01/2007 06:04:08 AM

日本のエロゲーは女性的

日本のエロゲーは、奥ゆかしい。女性的である。 いきなり、セックスの場面から始まる、持ち込むということがない。 最初に、出会いから始まり、徐々に相手と心理的な紐帯を作り、最後にセックスに持ち込むという、現実の恋愛と同じステップをわざわざ踏ませている。 男性なら、相手の女性といきなりセックス (というかレイプ )する場面から始めて、ほとんどそのセックスの場面が続くことを願うだろう。しかし、日本のエロゲーは、いきなりセックス場面に行くことを許さない。その点、女性的である。

07/01/2007 06:05:45 AM

師弟、先輩後輩関係の永続

日本では、ある人がいったん自分の先生になったら、その教師を自分が能力的に上回っても、一生先生として尊敬し、上位者扱いする。 師弟関係が永続し、覆せない。 先輩後輩関係も同様であり、先輩が上で後輩が下の上下関係が永続する。

11/18/2009 02:06:25 AM


所属の 24時間性

日本では、会社や官公庁から帰宅した後も、所属が、 24時間、全空間、全時間付いて回る。痴漢をすると、所属組織を問われて、「○○会社の人が痴漢をした」と大々的にマスコミに報道される。

11/18/2009 02:07:06 AM

日本の国債

現状では国内のみで消費されているが、そのうち、国内だけでは消費しきれず、やがて溢れ出て海外引き受けになる。外債となり、売られるとデフォルトになる。

07/21/2010 05:39:32 AM


日本=「火の玉、日の玉(陽の玉)」社会論

粒子や個体、個人の行動パターンは、

速度・・・高速/低速(ないし、移動/定住)

の次元と、

分布・・・離散/ (集合、一体化)

の次元とを掛け合わせて、


・気体(ガス)タイプ 高速×離散

・流砂タイプ 低速×離散

・火の玉(日の玉、陽の玉、太陽)タイプ 高速×(集合、一体化)

・液体(リキッド)タイプ 低速×(集合、一体化)

の4タイプに分類することができる。

気体タイプが西欧、北米のように、個々人がバラバラに高速で動き、発展するタイプ、

流砂タイプが現状のアラブ、トルコのように、個々人がバラバラになりつつ、社会の発展がゆっくりなタイプ、

火の玉タイプが、個々人が一つに融合しつつ、ひとまとまりの形を保って高速で動き、発展するタイプ、

液体タイプが、現状の東アジアのように、個々人が一つに融合しつつ、ゆっくり動き、発展するタイプ、

と捉えることができる。


近代以降の日本は、個々人が集合、融合、一体化しつつ(一丸となりつつ)、気体タイプの欧米並みに高速で動き、発展する、火の玉、日の玉(陽の玉)、太陽タイプの社会を理想とし、指向してきたと言えるのではないか?

日本社会は、現実には、液体タイプのように、個々人が一体化してゆっくり動く社会なのかも知れないが、理想型とする社会のあり方は、玉の中で、個々人が熱く一つに融合し、まばゆい光を放って高速に動く、火の玉、日の玉(陽の玉)、太陽なのでは無いだろうか。

日本社会が古来から祭神として太陽を信仰し、神と人間を結びつける支配者として、日の巫女(女性)が当たることが、火の玉、日の玉(陽の玉)社会であることと関連しているように思われる。

(初出2015年1月)

米英追従型の国粋主義と日本社会

今の日本は、米英の意向に追従しながら、同時に、国威発揚を目的とした国粋主義に走っている。

安部首相の中東歴訪時の、イスラエルの国旗と日本国旗を並べて、イスラム国撲滅への資金的協力の演説をするとか、その極みである。

(初出2015年2月)

中国、韓国の意向を盛んに気にする日本社会

日本は、表向きは欧米指向で、東アジアの日本を見る目については、気にしない、無視しようとしている。

しかし、日本は、実際は、中国、韓国が日本をどう見ているかについて、とても敏感である。

日本人は、中国、韓国メディアが日本のことを感心して格上扱いするニュースが流れることを今か今かと待ち望み、実際に流れると、親の敵を討ったみたいに、とても喜ぶのである。

かつて、「小日本」と中韓からバカにされていた頃のコンプレックスが、未だに続いていると言える。

敗戦前は、「大日本帝国」と自国を称していたのも、「小日本」呼ばわりへの意趣返しであると言え、それと同じ意向が、現代でも引き続いているのである。

(初出2015年2月)

学生在学中は就職活動を禁止してはどうか?

高校や大学とか、学生が在学中は就職活動を禁止して、学業に専念させ、一度全員既卒にした上で、卒業後は自由なタイミングで就職活動出来るようにすれば、日本の会社や官庁にはびこる新卒一括採用とそれに伴う雇用非流動化を止められると思う。

日本における企業や官庁の新卒一括採用の制度が、日本社会のガンだと思う。日本社会から人員の流動性を奪う大きな要因となっている。

大学とか卒業時にも、人事院が行っている公務員採用試験とかと同じような試験を皆に受けさせれば、大学で学力がどのくらい付いたかを測定でき、卒業の目安に出来る。

(初出2015年2月)


正社員終身雇用の代わりに超長期契約雇用、例えば20年契約にしたらどうか?

日本で、正社員終身雇用というのを止めて、代わりに超長期契約雇用、例えば20年契約とかにすれば良い。新卒一括採用も止めて、通年既卒採用に切り替えれば良い。


役員や管理職といった経営層も5年とか期限を区切った有期制にすれば良い。


そうすれば、人材の定着と流動化を一度に実現できる。

(初出2015年2月)



日本、中韓に追いつかれる

日本人は、自分たちは欧米先進国の一員だ、中韓はまだ新興国だと言って、必死に威張っているけど、中身がムラ社会では、中韓と大差ないことをいい加減認めるべき。と言うか、もう中韓に追いつかれてしまっていると思う。

日本社会と、中国、韓国社会との間に、決定的な差は無い。稲作、畑作中心の農耕民族という点では共通である。

似たもの同士で、横並びの競争をやっている。

日本は、表向きは欧米指向で、東アジアの日本を見る目については、気にしない、無視しようとしている。

しかし、日本は、実際は、中国、韓国が日本をどう見ているかについて、とても敏感である。

日本は、これから、中国、韓国に学ぶ時代にまた入ろうとしているのでは無いだろうか?中国、韓国に技術面ですっかり追いつかれ、抜かれてしまったように思う。

日本社会の進歩が、欧米とかに比べて後進的なのは、女性的でリスクを取るのを恐れる度合いが、欧米に比べて高いからだと思う。だから、最新の発見、発明は、欧米から輸入せざるを得ない。中国、韓国も同じ悩みを抱えており、同じことを考えているだろう。

(初出2015年2月)



日本ムラ社会は変わっていない

日本社会は、明治維新、太平洋戦争敗戦を経て、大きく変わったと言われるが、そうとは思えない。今も昔もムラ社会のままで、変わっていない。

日本社会変革と言っても、ムラ社会を維持しながらの変革ということになる。

ムラ社会を否定して欧米化するポーズを見せれば格好良く見えるのは確かだが、所詮は実現不可能なのだ。

日本人は、やみくもにムラ社会を否定するのではなく、ムラ社会の利点、欠点を、もう一度冷静に振り返ってみる必要があると思う。そうすることで、看板倒れにならない真の社会変革の実現につながるはずだ。

欧米の社会学理論直輸入をすれば、封建遺制のムラ社会を克服出来ると考える、単純思考の馬鹿な人たちが、日本には、まだ一杯いる。

(初出2015年2月)


いじめっ子国家日本

いじめっ子国家日本は、いじめられた被害者(中韓)の気持ちに鈍感で、無かったことにしようとする。開き直る。いじめられた中韓から陰湿に意趣返しされると思う。

(初出2015年2月)


「欧米教」信者の日本人

日本人の欧米至上主義は、何とかならないのかと思う。

欧米文化ばかり有難がり、崇拝して、「欧米教」という宗教の信者に見える。

(初出2015年3月)

衣装の着せ替え文化としての日本

文化導入を衣装の着衣に例えてみる。

日本人は、新しい欧米風の衣装に次々と着替えていくが、着ている人間の中身は、村人のまま変わらない。

(初出2015年3月)



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