機能主義

-環境適応の視点から-

改訂版

大塚いわお




主に社会学の立場から、機能概念を整理し、新たな理論を提案しています。



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目次
目次


101 機能主義とは何か

2005.02 大塚いわお


[要旨]

機能主義とは、ターゲットを観察・分析する際に、そのターゲットがどのような働き=「機能function」を持つかをに重点を置くことを主張する考え方である。

機能主義の観察・分析対象とするターゲットは、家電製品や建築物のような非生命の物体、人間や生物のような生命体、それらの集合体である組織、社会まで、広範に渡る。

ターゲットの持つ働き=「機能」は、対象やそのユーザが抱える生活上抱える問題を解決し、目標を達成するのに役立つ、何らかの働きである。さらに突き詰めて考えると、「機能」は、ターゲットのユーザが、変転する環境の中で生き残っていく、生存~増殖し続けるのに役立つ、何らかの働きである、と言える。


機能主義とは、ターゲットを観察・分析する際に、そのターゲットがどのような働き=「機能function」を持つかをに重点を置くことを主張する考え方である。

よく「このカメラはデザインが悪いが、機能は充実している」という言い方がされるが、これは、製品(例えばカメラ)の外見や肌触り、装飾といったLook&Feelとは別に、製品には、それが必要とされる根本的な理由が内蔵されており、それが、製品が内包する「機能」だということになる。機能主義は、この内蔵された「機能」に焦点を当てる考え方である。

機能主義の観察・分析対象とするターゲットは、家電製品や建築物のような非生命の物体、人間や生物のような生命体、それらの集合体である組織、社会まで、広範に渡る。

また、機能主義のターゲットは、製品や人間生体のような具体的な物理的存在だけでなく、例えば国家や企業内の制度、法律や機構、仕組み、システムのような、非物理的存在も、ターゲットになる。

例えば、 「この法律は有効に機能している」という言い方がよくなされるが、これは、法律が何らかの機能を持っており、機能主義のターゲットとなることを表している。



この場合、ターゲットの持つ働き=「機能」は、対象やそのユーザが抱える生活上抱える問題を解決し、目標を達成するのに役立つ、何らかの働きである。さらに突き詰めて考えると、「機能」は、ターゲットのユーザが、変転する環境の中で生き残っていく、生存~増殖し続けるのに役立つ、何らかの働きである、と言える。

例えば、「法律が有効に機能している」という場合、その法律が、その配下にあって生活している個人、ないしその法律を定め、運用する国家(組織、社会)の生存、存続にうまく役立っていることを示している。

あるいは、ソフトウェア開発時や表計算ソフト操作時に使用される「関数function」は、ソフトを利用するユーザの問題解決、目標達成、ひいては生存に役立つ働きの総称である。

例えば、コンピュータのキーボードから入力された文字をうまく拾って活用したい場合は、C言語なら関数getchar()を使うとか、今月の財務上の残金合計をいますぐ知っておきたいなら、ExcelSUM関数を使うとかである。



機能主義は、その観察・分析するターゲットがなぜ必要か、存在理由を明らかにする。

例えば、人間にとってのカメラの機能は、人間の視野に映る物事を、その場で記録として残し、後々消えない、忘れないようにすることで、人間の、物事をどんどん忘れていってしまう記憶能力の限界を補完することである。その場の視覚的状況(例えば地震)を記録しておくことで、証拠として保全を行うことができ、例えば、後で再び地震が発生して「あの時はどう対応したっけ?」と、問題解決への前例情報が必要になった時に、うろ覚えに頼る必要なく、鮮明な情報を引き出せる。これが、カメラの機能であり、カメラの存在理由である。

このように、機能主義は、ターゲットの必要性、存在理由の有無や、重要性の程度を明らかにすることで、逆に、不必要な、いらないターゲットを削減し、生活上の贅肉をそぎ落とすことができるという効果がある。


(c)2005 大塚いわお


201 既存機能主義の分類

1998-2005 大塚いわお



[
要旨]

従来の機能主義は、分野別には、以下のように分けられる。
(1)
心理学的、(2)社会学的、(3)生態学的、(4)生物学的、(5)言語学的、(6)デザイン的(土木建築学、製品設計・デザイン)(7)ソフトウェア(プログラム関数)


従来の機能主義は、分野別には、以下のように分けられる。

(1)
心理学的機能主義(Malinowskiに代表される)
(2)
社会学的機能主義(Radcliffe-BrownParsonsMertonらに代表される)

(3)
生態学的機能主義
(4)
生物学的機能主義

(5)
言語学的機能主義

(6)
デザイン的機能主義(土木建築学、製品設計・デザイン)

(7)ソフトウェア的機能主義(プログラム関数)


(1)の心理学的機能主義は、機能を、社会の構成員である人間の欲求あるいは心理学的要因の充足によって説明するものである。(4)の生物学的機能主義は、機能を、個体生体の生命存続の視点から説明する。これらは、微視的・個人主義的・要素論的な性格が強い。

一方、(2)の社会学的機能主義や(3)の生態学的機能主義は、機能を、個人を包含している全体社会ないし社会体系、生態系の維持・存続の視点から説明するものであり、巨視的・全体論的な性格が強い。

従来の社会学では、このうち特に、(2)の社会学的機能主義が、195070年代を中心に、隆盛を誇ったが、考え方が、現状の社会をそのまま維持することを指向しており、社会変動を有効に説明できないという批判を受けて、行き詰まっている。J.C.Alexanderらによる、「ネオ機能主義」も提唱されているが、基本的な考え方は、従来の社会学的機能主義の枠内にとどまって、再構成、修正、洗練を目指しているように思われる。

生物(人間を含む)と環境との相互作用について研究する科学の分野は、エコロジー(生態学)である。従来の生態学にも、機能主義の考え方があったが、それは、機能を、生態系全体を維持・存続させるのに必要な働きとして捉える全体主義的な色彩の濃いものであった。


(1)
の心理学的機能主義の立場を取るMalinowskiにおいては、機能を人間の心理的欲求を充足するものとして捉えている。

しかし、実際には欲求充足状態と環境適応状態とは「=」ではない。例えば、タバコを吸うことは、気分転換したいという心理的欲求を充足するが、生命維持(環境適応する水準の確保)の観点からすると、肺ガンやニコチン中毒を起こすなど、マイナス効果を持つ。

(4)
の生物学的機能主義は、個人に着目する点では心理学的機能主義と同様であるが、機能を、単なる心理的欲求充足を実現するものと捉えずに、人間生体の環境適応、すなわち環境の中での生命維持に役立つかどうかという視点から見る、という点で異なっている。

生物学的機能主義によれば、タバコは、肺ガンやニコチン中毒を起こしやすくなり、死につながりやすくするという、生体に与える害毒という逆機能を説明できるからである。

従来の機能主義では、社会学的機能主義や生態学的機能主義(全体論的な社会システム~生態系論)では、社会を構成する個人の動きが見えない。そうかといって、心理学的機能主義(要素論的な心理的欲求論)では、機能を環境適応の視点から見ることに欠けている。生物学的機能主義では、そうした心理学的機能主義の弱点をある程度クリアできる。

以上の説明は、次のようにも言い換えられる。心理学的・生物学的機能主義は、個人に焦点を当てるのに対して、社会学的機能主義は、全体社会の存続に焦点を当てる(個人の動きを捉えることができない) と言える。社会学的ないし生態学的機能主義は、全体社会や生態系が環境の中で適応して存続していく条件を求めていく、という点で環境適応に焦点を当てているともいえる。

(5)
の言語学的機能主義は、言語を、人間の社会現象として捉え、言語は、人間が社会的相互活動を行うための道具であり、その主たる働きは伝達であると考える。人間が、言語を社会の中でどのように使用しているかを問題とする。コミュニケーションを行う2人の間で、何が、どのような状況下で、どのように伝達されるかを明らかにしようとする。文法以外の、言葉の意味や機能、情報構造、伝達方法などに着目する。人間は、言語を他者との間で、自らの生存に必要な情報をやりとりするために用いるのであり、その意味で、言語は人間の環境適応に有効な機能を持つものとして捉えることができる。

(6)のデザイン的機能主義は、製品や建築などのデザインにおいて、人間や生物の環境適応に無関係な、寄与しない装飾、形状、剰余の働きを取り去って、環境適応に役立つ働きの実現に必要な構成のみにシンプルに絞ることを重んじる考え方である。

例えば、建築における機能とは、雨、風、寒暑、外敵を避けるという点にある。すなわち、人間の生存を脅かす環境変動に直接さらされるのを防ぐ、身を守るのに役立つ働きであり、これを備えた建築は「機能している」。「機能主義的」な建築とは、上記の人間生存に役立つ働きとは無関係な、余計な装飾や形状(凹凸、色彩など)を取り去って、専ら働きの実現に必要な構成(窓、柱、壁、扉・・・)のみに絞った(ないしその構成を前面に押し出して強調した)建築である。

(7)のソフトウェア的機能主義は、ソフトウェアプログラムが人間生存に役立つ場合、プログラムを、その「役立ち」の働きをする部品群=「関数function群」からなるものとして捉える。ソースコードで、部品として、ひとまとまりの機能として、他に流用可能なルーチンは、全て関数function化、部品化することで、ソフトウェアの生産性を向上させ、ひいては、それを使う人間の環境適応力を向上させる。


(c)1998-2005 大塚いわお

202 機能の分類


1998-2005
大塚いわお

[要旨]

機能は、以下のように分類できる。
(1)
正機能(人間の生存に役立つ)と逆機能(人間の生存を脅かす)
(2)
物理的機能(物体・物質に組み込まれた人間の生存に役立つ)と生理(人間生体の活動維持に必要)・心理的(人間が心理的に活力ある、元気な状態になる必要)機能
(3)
自然機能(石油、穀物など天然資源)と、人工機能(道具、製品などの加工品、ニュース配信などの情報)
など・・・・・(詳細は、本文を参照)


[正機能と逆機能]

従来社会学的機能主義(R.K.Merton)によって提唱されてきた正機能と逆機能との区別は、機能主義の立場からは、
(1)
正機能は、人間の生存に役立つ方向への働き一般を指すと、捉えられる。これまで、「機能」という言葉で表してきたものは、断りのない限り、この「正機能」のことである。
(2)
逆機能は、人間の生存を脅かす方向への働き一般を指すと、捉えられる。社会における逆機能部分は、あたかも生体において、病気にかかったのと同じように捉えることができる。

社会における、病理集団=逆機能集団のことであり、暴力団、窃盗団などがその例である。

社会における逆機能集団は、他者の生存(環境適応)をおびやかす。あるいは、他者の環境適応水準の低下を引き起こす。水準の維持を脅かす。

虫の群れを例に取ってみれば、害虫が逆機能集団に相当し、益虫が正機能集団に相当する。

人間の行為は、逆機能的であればあるほど、刑罰が重くなる傾向にある。

●社会における逆機能部分の除去(機能不全部分の回復)

人間の生体における、逆機能部分を除去し、機能不全をなくすのは、医師の役割である。その働きには、生理~心理レベルがある。

例えば、歯医者は、
(1)
歯の痛みを取る-心理的
(2)
虫歯などの歯の状態を直す 栄養分を取る能力の回復-生理的
といった働きを担う。

社会における、逆機能部分を除去し、機能不全をなくすのは、矯正・保護観察官の役割である。その働きは、社会病理レベルのものである。矯正・保護観察官の役割は、社会の逆機能部分を直す「社会の医者」として、位置づけることができる。

社会病理レベルというのは、実際には心理的・生理的なものである。通常の医師が、一人ずつ個別の心理・生理を問題にするのに対して、矯正・保護観察官=「社会の医者」は、複数人間の相互作用が絡んだときの心理・生理を対象にする。

●環境適応と逸脱

環境適応的・正機能的な逸脱(例えば、科学的新発明、科学者コミュニティ内の平均的な考えかたから外れた新たな考えを出す)と、そうでない(環境不適応的、逆機能的)逸脱(例えば、麻薬中毒など)とが考えられる。前者は、環境適応に役立つので、むしろ積極的に支援すべき逸脱であると考えられる。従来の様に、逸脱を、社会的に有害な逆機能のもの、とばかり見なしてはいけない。

[物理的機能と生理・心理的機能]
機能は、物理的なものと、心理的・生理的なものとに分けられる。

(1)物理的機能 物体(ミクロ~マクロ)に組み込まれた、物理的存在としての人間が生き延びていく上で必要な働き。治水のためのダム建設、他地域との交通(による機能交換の機会)を確保する道路や鉄道などが、この物理的機能を持つと考えられる。

(2)生理的機能 人間の生理面での、生き延びるために必要な欲求を満たす「働き」。 害虫や病原体を駆逐するための殺菌()剤内の有効成分、栄養を取るために食事の材料となる野菜や魚などがもつ栄養成分、体内の不要分を取り去る人工透析の持つ機能が、この生理的機能を持つと考えられる。

(3)心理的機能 機能の消費により、気分をよくする(気分が落ちつくなど)、明日への活力を生み出す、生きようという気持ちを増幅させる、新たな環境適応への意欲・元気が沸いてくる、といった環境適応上の利点を享受することが可能となる。例えば、心の温かさ、安心感..がもたらすもの。
例えば、「温かい」(この場合の温かさは、物理的なものではなく、心理的なもの)言葉をかけられて、心理的に快い状態になる、心理的にサポートされるといったことが起こる。人間は、心理的にサポートされることにより、健康・福祉の増進が起こり、より生き延びやすくなる。人々を勇気づける歌詞を持つ歌、悩みを持つ人に対して心理的癒しを与えるカウンセリングも、心理的機能を持つと考えられる。

機能は、(1)(3)の複数に対応していることがほとんどだと考えられる。例えば、 エアコンによる快適温度の提供がそうである。機能が埋め込まれているのは、エアコンという物体(電気製品)である。一方、エアコンが提供する快適温度は、人間の生理・心理面での要求をサポートする。すなわち、快適温度のほうが仕事がはかどり、社会に出回る、役立つ機能の質・量両面での増進につながる。

[自然的機能と人工的機能]

機能は、大別して、
(1)
自然 天然資源(石油、穀物など)
(2)
人工 加工品(道具、製品など) 情報(ニュース配信など)
に分けることができる。

〔本質(基盤)的機能と装飾(剰余)的機能〕
機能には、直接環境適応に関わるもの(本質的な機能、基本的な機能、生存を左右する、欠かせない)と、そうでないもの(装飾的な機能、拡張的な機能、あってもなくてもどちらでもよい)とがある。

機能余剰状態になる(機能の供給面で余裕が生まれる)と、生成・消費される機能は、より「装飾的」になる。機能消費側においては、生命維持に直接関係ないものへの支出が多くなる。機能供給側においても、機能が社会のすみずみまでいったん行き渡ると新たな機能消費が行われなくなり、機能が余ってしまい困ることになる。そこで、さらに少しだけ余分な機能(装飾)を付けて再流通をはかろうとすることになる。

機能主義と装飾主義(ロココなど)の対立は、建築などに見られる。

「装飾」は、環境適応にとって中立的である。環境適応に有用でも有害でもないので、有閑者のアイドリング(暇な状態)解消のために用いられる。
ただし、環境適応と一見無関係なもの(絵画など)でも(ストレス低減など)環境適応に関係ある(役立つ)ことがあるのを忘れてはならない。

剰余(アイドリング) ← 上部 ぜいたく 剰余価値
------
環境適応 ← 基盤 本質 機能価値

剰余は、環境適応条件を満たした余りであり、持っていることは、ぜいたくである。
ぜいたくが成立するのは、環境適応状態を満たすことが前提となる。

[長命機能と短命機能]

機能には、長持ちする機能と、短期間で不要になる(陳腐化する)機能とがある。
例えば、生鮮食品の機能は、冷蔵庫に入れないと、短期間で腐って、食べられなくなる(機能を果たさなくなる)ので、短命である。一方、鉄筋コンクリート建造物の機能は、数十年持つので、長命である。

工学分野では、機能の陳腐化が早い(例えば、パソコン)。次々と新しい改良された機能(CD-ROMドライブから、DVD-ROMドライブへなど)が登場するためである。旧式の機能(データ記憶容量の少ないCD-ROMドライブ)は、上から全面的に覆いかぶさるように塗り替えられる形で、新式の機能(データ記憶容量の多いDVD-ROMドライブ)に置換される。


(c)1998-2005 大塚いわお


301 生存機能主義、環境適応的機能主義


1998-2006
大塚いわお


[要旨]

「機能」を、「環境適応、生存に役立つ働き(をするもの)」として捉える。機能とは、個々の生物~人間個人の環境適応、生存しやすさの度合いを向上させるもの、環境適応に役立つ環境への働きかけの最小単位、環境適応の道具、あるいは、人間を環境の中でより生き残りやすくさせるのに役立つ働き、として捉えることができる。


人々は家電製品を買うとき、その「機能」を問題とする。その場合の機能は「日々の暮らしに役立つ働き」そのものを指す。日々の暮らしは環境に取り囲まれた中で生き延びていく過程を指す。従って、家電製品の機能は、利用者が、日々変化する環境の中を生き抜くための、道具の持つ働き、と捉えられる。

例えば、冷蔵庫は、暑い夏でも食中毒を起こさない、食料の新鮮さを保つなど、暑い夏という環境の下で人々が生き延びることを助けるためのものである。そういった冷蔵庫の(保冷)機能は、つきつめて考えれば、利用者の環境適応(所与の環境下で生き延びること)のための働きとして捉えられる。

冷蔵庫を作ったのは家電メーカーであり、さらにつきつめて考えれば、人間の集合体である。従って、冷蔵庫は、家電メーカーの人間が、他の消費者(人間)に対して、持続的な保冷機能という環境適応の働きを提供するための、物的資源と考えることができる。このことから、「機能」という言葉が、「(人間が他者に対して提供する)生存、環境適応のために有効な働き」という意味を持っていると言えそうなことが分かる。

この観点から考えると、「機能」は、「環境適応、生存に役立つ働き(をするもの)」として捉えることができるのではないか。言い換えれば、機能とは、個々の生物~人間個人の環境適応、生存しやすさの度合いを向上させるもの、環境適応に役立つ環境への働きかけの最小単位、環境適応の道具、あるいは、人間を環境の中でより生き残りやすくさせるのに役立つ働き、として捉えることができるように思われる。

あるいは、震災で、建物破壊、停電、断水により、病院の機能が低下した(機能しなくなった)、という言い方がされる。この場合、機能は、人の生命を助ける働き、人の生命を、より維持しやすくなる方向へと持っていく働き、と捉えられる。

または、人間同士のコミュニケーションにおいて、急速な勢いで普及しつつある携帯電話について考えてみる。携帯電話は、従来の有線電話に比べて、いつでもどこにいても、必要な他者と連絡が取れるようにすることを可能にした。電話の携帯化は、通信の時間・空間的制約を一気に取り払ったものであり、人間がコミュニケーション可能な行動範囲を拡大させた。

コミュニケーション行動範囲の拡大は、他者から、助けとなる情報を、いつでもどこでも(時間・空間的制約なしに)、格段に得やすくなる点、人々を確実に生活しやすくさせる=生き延びやすくさせる方向に進歩させた。

したがって、携帯電話の機能は、利用者の、他者とのコミュニケーション機会を、時間・空間的制約を取り払った形で確保することにより、他者からの情報や援助をいつでもどこでも得ることができるようにする働きであり、この働きは、利用者の生存機会を確実に増やす方向に作用する、といえる。

(携帯電話では、この他にも、いつでも携帯電話を持った通話相手を捕まえられるので、なかなか話ができないというストレスがたまりにくくなり、この点でも、人々をより長生きさせる効果がある、ともいえる)

その他、エアコンの働き(機能)も、部屋の中を、快適な温度に保つことで、利用者をストレスから解放し、生き延びやすくする、辺りにあると考えられる。

自分を取り巻く環境の中で生き延びること(環境適応)は、生物(生命有機体)が生物であるための必須の事項である。その点、生物の仲間の一つである人間も、絶えず環境適応の必要性に迫られているといってよい。人間を含む生物が生成したり消費したりする機能は、外部環境に適応して生命維持(のための安全確保など)を行うためにある。

以上のように、従来の機能主義、すなわち機能という言葉をキーワードに社会や生態系に関する現象を解明しようとする学説において、機能を人間(ないし生物有機体)の生存、環境適応に役立つ働きとして捉える機能主義を「生存機能主義」ないし「環境適応的機能主義」、その場合の「機能」を、「環境適応的機能」と、仮に名付けることにする。

人間を含む生物にとって、基本的に、よい(好ましい)状態とは、
(1)
自分自身が生き延びること、
(2)
自分自身(遺伝的・文化的コピーを含む)が、環境中に、増える、広まること、
(3)
自分自身を取り巻く生存条件がよくなること、
といったものと考えられる。上記項目が実現しやすくなっている状態が、人間~生物の環境適応の度合い(環境適応水準)が高い状態であると言える。
そして、人間~生物が、こうした項目を実現するために必要な働きが、「(環境適応的)機能」である。


環境適応的機能主義は、機能を人間~生物(個人~組織、社会)の環境適応、生存に役立つ働きとして捉えるものであり、様々な機能主義の根底を総括する。それは、物資や制度等のハード・ソフトウェアを、環境適応に必要な働きのみを備えた、その働きに絞った、骨組みのみで、環境適応に関係のない装飾を廃したものへと洗練させることを可能にする。そうすることで、物資や制度といったハード・ソフトウェアがなぜ必要かという、本質的な核心を突くことが可能となる。


●環境適応と自然・人工物質

環境適応的機能主義の適用範囲は、人間や生物のみに限定されるものではない。
自然界や人工的に作り出された物質にも、保存性、存続性、安定性の高いものと低いものがある。
安定性の高い、「強い」物質は、環境適応的な物質であり、めったなことで変質しない金やダイオキシンがこれに当たる。一方「弱い」物質は、気をつけないとすぐに変質してしまう物質であり、空気中の酸素に触れると酸化してしまう鉄などがこれに当たる。
こうした自然・人工物質の自己保存に役立つ働きは、そうした物質にとって、「機能的」である。
例えば、鉄を、酸素から遮断する容器は、生の鉄にとっては、酸化鉄へと変質せずに、そのまま存続し続ける上で「機能的」である。

こうした点をも考慮に入れた場合、機能とは、変転する環境下における、物質~生命一般の自己保存~増殖、維持に役立つ働きとして捉えられる。


●環境適応の単位

環境適応を行う主体の単位は、必ずしも、個人、個体、粒子だけとは限らず、それらが相互作用し合って形成する、社会、組織、企業、国家なども、環境適応を行う主体として捉えられる。

従って、環境適応的機能主義の適用範囲には、個人、個体の他に、その集合体である、社会、組織も入ると考えられる。


●「機能」という言葉の従来の辞書の定義(参考)

A.社会学小辞典 1997 有斐閣

(1)ある全体を構成する諸要素が営む動的な活動(家庭)

(2)有機体であれ社会であれ、何らかの全体ないしシステムが存続していくうえで充たされなければならない必要不可欠な条件→機能的要件

(3)部分が全体の維持・存続に対して果たしている作用ないしは働きの効果

....システムが存続していく上で必要不可欠な条件としての機能的要件を、そのシステムの構成部分が充当する働き

B.広辞苑 岩波書店

(1)物のはたらき、(2)相互に連関しあって全体を構成している各因子が有する固有な役割


●シカゴ学派の「人間生態学(human ecology)」とはどこが同じでどこが違うか?

19151940頃盛んに行われた人間生態学は、人間が環境の淘汰的、分布的、適応的諸力によって影響される空間的、時間的な関係を対象としている。

人間生態学は、Parkによれば、「都市コミュニティ内で働くさまざまな力が協同してもたらした人口や使節の特有な集合形態を記述することを目指したもの」、とされる。一方、Mckenzieによれば、「人間が組織化される空間的・持続的関係は、環境的-文化的な力の複合作用に対応する変化のプロセスの中にある。人間生態学は、この作用の原理や、それらを生み出す力の性質を確認するために、これらの変化のプロセスを研究することである」とされる。

こうした人間生態学は、人間と環境との相互作用に着目する点では、環境適応的機能主義と同じであるが、分業や機能的要件といったE.DurkheimT.Parsonsら機能主義理論との理論結合の試みがなされていない。言い換えれば、人間生態学では、「機能」の概念が欠如している。環境適応的機能主義は、それを補うことを目的とする。


●環境適応的機能主義は、環境決定論ではないか? 

人間による環境適応を主眼とすることは、環境決定論であり、人間はその行動を環境によって一方的に規定され、受け身の存在と捉えることになってしまう、という批判が起きることが考えられる。

この批判に対して、人間の環境への適応行動においては、人間の行動が環境に対して全く受け身になるわけではない、と考えることもできる。人間が、環境への適応水準を高めるため、自発的・能動的に環境に働きかけた結果への、環境の側からのフィードバックが、環境に働きかけた当人の行動を新たに規定する形で返ってくる、という点で、人間の行動を環境が決定すると言えるのであって、人間の側の主体性が失われるわけではない。

人間は環境に適応するために、今までにない発見・発明を行ったりするわけであり、それら能動的な行動(環境への積極的なアタック)のあり方は、人間を取り巻く環境次第によって変わってくる。人間行動の環境による規定は、人間→環境→人間→環境....といった、人間と環境との絶えざる相互規定のサイクルの一環として捉えられるのであり、そのサイクルの中には、人間による環境への能動的な働きかけも含まれていると考えられる。

環境への適応結果(適応するための機能を生成・交換・消費すること)が環境の改変をもたらし、新たな環境適応の局面を作りだす。

環境適応→適応がもたらす環境の改変→新たな環境適応...

といった、人間の環境への主体的な働きかけと、環境からのフィードバックとの循環が存在する。

人間が、環境に適応しよう(例 寒さからの解放を得ようとすること)として、環境に主体的に働きかけた結果(例 石油燃料の多用)が、次の段階の新たな環境(温暖化した環境)となって、再び人間に適応を迫る。そういう意味では、人間は、環境への新たな働きかけを行う度に、常に新たな環境適応を迫られるといってよい。


●人間が取る行動の中には、環境適応とは関係ないものも多いのではないか?

人間が、直接環境適応とは関係ない、おしゃれのような装飾的な行動を取れるのも、基本的な環境適応ができているからこそ可能であると捉えることができる。その意味で、根本的な環境適応ができているかどうかに重点を置いて、理論を考える必要がある。


●どうして既存の環境社会学では不適当か? 

環境社会学は、人間による、自分自身のよりよい環境適応水準の達成を目指した、環境の人為的改変(自動車の排気ガス放出)により、かえって人間の環境適応水準の低下(酸性雨による森林破壊)がもたらされる、というジレンマを扱うものである。

環境社会学は、社会学に生態学の視点を持ち込み、環境破壊に注意を促す(環境保護)など、人間をとりまく環境をターゲットにしている点は評価できるが、機能主義の機能概念と環境適応との関連に気付いていない、という問題点がある。要するに、「機能」の概念が欠如しているのである。

いかにして、人間や、人間以外の生物の生命を維持するために役立つ働きである、「(生態学的)機能」を保ちながら、より環境適応水準を向上させるための、自然への働きかけを、どのように行えばよいかを探究していくことが、「機能」視点を加えた新たな環境社会学の使命となる、と考えられる。



●機能と価値

人間の価値観は、人間が生物である以上、生き延びること=環境適応に役立つこと(環境適応水準向上に資すること)がよいことで、そうでないことが悪いことである、というように決まることが多い。その点、人間に環境適応をもたらす働きとしての機能は、人間にとって正の価値を持つ、と言える。


●要求工学(requirements engineering)との関連


1970
年代からソフトウェア開発の分野で行われている要求工学は、開発したシステムが有効に使われるためには、顧客の要求を十分汲んだ仕様を満たす必要があることを主張している。

この場合、顧客要求とは、システムを導入することで、競合する他社(他者)よりも、何とかうまく生き残りたい、生存可能性レベルを上げたいという欲求に基づいたものであり、こうした要求実現により、生存可能性を高めることは、すなわち、顧客の環境適応水準を高めることに結びつく。その点、要求工学において、満たされるべきとされている要求が生じた状態は、すなわち、環境適応力を高めるために満たされるべき空洞が出来た状態であり、その空洞を満たすのが、環境適応的機能主義における機能=「環境適応力を向上させる働き」であると言える。


●価値分析(value engineering)との関連

1960
年代からその考え方が広まっている価値分析は、製品やサービスの機能を分析する技法である。価値分析においては、機能とは、製品やサービスが購入者の欲求を満足させる性質であるとされている。価値分析において、製品やサービスの価値は、それらが提供する機能を原価で割ったものであり、機能に対する原価の適合性として現されるとされる。

この場合、機能は、人間の欲求を満足させる性質と捉えられている訳であるが、機能がなぜ人間の欲求を満足させるかということを突き詰めて考えると、それらが、人間が変化する環境の中を生き延びていく=環境適応していく上で直面する様々な欠乏、不足状態を充填する性質を持っているからであると考えられる。この点、人間にとって価値ある製品、サービスとは、人間をより環境に適応して生き延びやすくさせる効果を持つものと考えられる。この観点から、価値分析は、環境適応的機能主義と、根本的な考え方の点で大きく関連すると言える。

なお、例えば電気を欲しがる冷蔵庫のように、人間以外にも欲求を持つものが存在するとする考え方もある。


●環境適応と遺伝子

従来、ダーウィニズムや社会生物学では、「適者生存」の考え方が取られてきた。これは、環境に十分適合できた、限られた適者、勝者のみが生き残ることができると捉えるものである。

しかし、これを裏返すと、「不適者不生存」という考え方も成り立ちうる。要するに、よほどの環境不適応でなければ、みな生存するという考え方である。現実の生物を見ていると、よほど不出来なもの以外は、揃って生き残っているという感じであり、こちらの考え方の方が合っているのではないか。

あるいは、「中立生存」、適応でも、不適応でもない、環境適応にとってどうでもいいものも、生き残るという考え方も成り立ちうる。生物には、いろいろあってもなくてもよい装飾的な仕様があるものが多く存在し、このことは、この「中立生存」が成立していることを示していると言える。

ある生物が、いかに優れた環境適応の遺伝子を持っていたとしても、その遺伝子が無効な局面で、その生物が内包する他の遺伝子に環境に適合するのがいないと、環境不適応になって死滅してしまうことは十分考えられることである。

ある生物が、環境適応に優れた遺伝子をもっていると、その生物がセットで持っている、他の環境適応にちっとも役立たない遺伝子も同時に生き残ることになる。

要するに、生物の遺伝子の環境適応を考える上では、個別の遺伝子の良し悪しを見るのは余り現実的でなく、全遺伝子を「ワンセット」で捉え、その中に、その場その場の環境適応に合致したカードに当たる遺伝子が存在すれば、残りの無関係な遺伝子も含めて「生存」、存在しなければ全遺伝子が一挙に「死滅」という捉え方をすべきである。これは、遺伝子の「ワンセット主義」と言える。


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302 環境適応水準



人間を含む生物が、環境に適応して生存して行ける度合いを示す指標を、以下では、「環境適応水準」と名付けることにする。

人間~生物は、この環境適応水準が、一定以上だと、生存できるが、一定未満となると、死んでしまう、と考える。

環境適応水準の上下にしたがって、機能の質的・量的な各側面について、以下の図のような分類が可能である。

説明: 環境適応水準

人間の社会活動は、より生き延びやすくするために、環境適応水準を少なくとも一定以上、できれば、なるべく高く設定するべく、自然に対して、互いに協力しあって、様々な働きかけを行うことに集中されている。そういう意味で、人間社会の近代化は、人間の環境適応水準を向上させることと、大いに関連がある。

環境適応水準のあり方は、自然条件の違い(乾燥/湿潤、高温/低温、高地/低地、風、海・湖・川に面している/いない..)などによって、多種多様になる。

環境適応水準が高い状態の社会は、以下の性質を持つと考えられる。

項目

説明

1

健康性

人が死なない、病気になりにくい。生まれ、育ちやすい。生きやすい。

2

利便性

生活が不便でない(便利である)。交通・通信、市場が発達している(機能の相互交換が行いやすい)

3

安全性

治安がよい。犯罪が起きにくい。危険がない。安心して生活できる。

4

余裕性

生活にゆとりがある。直接、環境適応と関係ない、娯楽、ゲーム、芸術などが、成長したり、受け入れられる余地がある。



●環境適応水準向上圧力=EALIP

人間を含む生物には、苛酷な環境下で、自分たちの環境適応水準を、少しでも向上させることで、より生き延びやすくなろうとする欲求ないし傾向がある。こうした、人間~生物の環境適応水準を向上させようとする、人間~生物が抱える内在的な圧力のことを、「環境適応水準向上圧力=EALIP(Environment Adaptation Level Improving Pressure)」と呼ぶことにする。

例えば、通信技術の向上を例に取って見る。1990年頃は、コンピュータを使ったデータ通信の速度は、2400bps程度が普通であった。しかし、技術者の、より高いレベルの通信速度とそれがもたらす利便性の向上(今までのような文字だけでなく、画像や音声も快適な速度で送りたい)を目指した絶え間ない技術向上の努力は、2000年頃、インターネットの世界中への爆発的な普及という形で実を結び、結果として、IT革命という、大きな社会変動をもたらした。こうした絶え間ない技術革新とそれがもたらす社会変動の原動力になったのが、技術者たちの心の中に内在する、データ通信速度の上昇がもたらすはずの、生活面での利便性向上を目指させる、言い換えれば、よりよい環境適応水準を目指させる、終わりのない欲求ないし圧力であったと考えられる。

こうした、少しでも環境適応水準を上昇させようとする、EALIP(環境適応水準向上圧力)こそが、人間~生物による、社会生成や、社会的分業(機能的分化)、社会変動を生じさせる根本的なキー原因となる。

人間は、一人では、高い水準の環境適応水準を獲得することが難しいので、社会~集団を作ることによって、他者と、機能生成を協力しあったり、生成する機能の種類を分担し合うこと(社会的分業、社会の機能的分化)によって、環境適応水準を上げようとする。また、現状の環境適応水準に満足せず、さらに高い環境適応水準を求めることが、社会の現状を変えようとする、社会変動に結びつくことになる。

このように、人間~生物に、利便性の追求など、より高い環境適応水準(生き延びやすさ)を求めるように仕向ける、人間~生物に内在する圧力が、EALIP(環境適応水準向上圧力)である。

この圧力の、生理的・心理的根拠は、どこにあるのであろうか?自分自身の、転変する環境の中での生き延びやすさ(子孫の残しやすさも含む)を求める生理ないし心理は、高度な文明を持つ人間から、単純な行動様式の微生物まで、生物に共通に持っていると考えられることから、遺伝的な起源を持つ(遺伝子に組み込まれている)であろうことは、想像できる。人間の心理においては、基底の生得的な部分から発生しているのではないだろうか?



●環境適応水準の最高化 vs 適当・適切化

環境適応水準を向上させる行為には、水準のあくなき最高化を目指すものと、水準の適当化・適切化(獲得する環境適応水準を、そこそこ満足できるレベルで止める)を目指すものがある、と考えられる。

環境適応水準の最高化を指向することは、本来環境適応に必要のない、ぜいたくな機能を得ようとするなど、機能の無駄遣い・浪費をもたらす(=逆機能的)一方、競争による機能の品質を向上させる(=正機能的)


(c)1998-2005 大塚いわお


303 環境機能分析



1998-2005
大塚いわお

[要旨]

従来の社会学における「構造=機能分析」に代わって、「環境=機能分析」を提唱する。環境機能分析は、各機能が、諸個人の環境適応にいかに役立っているかを記述する。具体的には、「○○はなぜ環境適応にとって有意義か?」、ないし、「○○はどのような機能を持つか?そしてそれはなぜ環境適応的か?」といった内容を記述する。

この環境機能分析の視点を新たに取り入れることにより、人間のさまざまな行動や文化が、どのような機能(環境適応に役立つ働き)を持つかを、容易に分析できるようになる。



1.
従来の社会学的機能主義における、構造=機能分析

従来のT.Parsonsによる社会学的機能主義(社会システム論)においては、

・「社会システム」とは、複数の行為者間の相互作用の体系であり、各々の行為者は、役割を担いながら相互に関係している。役割は、社会システムの重要な分析単位と考えられ、社会システムは、「役割システム」とも呼ばれている。

・「社会システム」は、均衡状態を維持する傾向を持つものと仮定されており、そのためには役割相互の関係は、安定し、制度化されていなければならない。制度化された役割の複合体を、T.Parsonsは「制度」と定義し、社会システムの「構造」の主要な要素と位置づけた。社会システムの「構造分析」とは、制度の分析に当たる。

・社会システムの不変的要素(定数)である構造として確定された制度に対して、社会システムを構成している諸変数、つまり動態的・可変的要素がどのように関係しているかを見ていこうとする。これが、T.Parsonsのいう「機能分析」である。そして、構造、特に制度とシステムの諸変数とを関係づける概念が「機能」であった。その場合、心理学的概念である人間行動の「動機付け」の側面で機能を捉える。社会システムにおける「機能」とは、構造、つまり制度化された役割の集合的パターンに個人行為者が動機づけられることを示す。

・社会システムの「機能要件」とは、社会システムの維持・存続のための必要条件のことである。社会システムが維持・存続するためには、以下の4つの機能的課題、すなわち機能要件が充足される必要がある(AGIL図式)

項目

説明

A

適応 (Adaptation)

社会システムの目標を達成するために必要とされる用具を提供する機能。

G

目標達成(Goal gratification)

社会システムの目標を決定し、その目標の達成に向かって、システムの諸資源を動員する機能。

I

統合(Integration)

体系を構成しているさまざまな単位(例えば行為者やその役割など)の間を調整する機能。

L

潜在的パターンの維持および緊張の処理
(Latent pattern maintenance)

制度化された価値システムを変動させようとする圧力に対して、体系を安定的に保持しようとする機能、および、体系の中で生じるひずみを処理する機能。



2.
環境適応の視点に基づく機能分析(環境-機能分析)

従来の社会学におけるT.Parsonsらの構造=機能分析は、各機能が、社会構造の維持にいかに役立っているかを記述するものである。

これに対して、筆者は、「環境=機能分析」を提唱する。環境=機能分析は、各機能が、諸個人の環境適応にいかに役立っているかを記述する。具体的には、「○○はなぜ環境適応にとって有意義か?」、ないし、「○○はどのような機能を持つか?そしてそれはなぜ環境適応的か?」といった内容を記述する。

この環境=機能分析の視点を新たに取り入れることにより、人間のさまざまな行動や文化が、どのような機能(環境適応に役立つ働き)を持つかを、容易に分析できるようになる。

例えば、盗みを犯すと重い処罰が下る刑法の存在について考える。盗みは、ある人が他者に対して有効な機能を与えつづけた対価として自分が他者から機能提供を受けるために得た貨幣などを、何の機能も全く他者に与えようとせずに一方的にやすやすと手に入れてしまうことである。これをそのまま放置すると、人々が他者の環境適応に有効な機能を生成する努力をする気持ちを失わせ、ひいては各人に機能不全をもたらす..といった副作用が生まれる。刑法は、こうした機能不全を防ぐ意味で、環境適応的である...などと分析することができる。

以上と関連して、機能ネットワーク分析ということが考えられる。

機能チャート(ネットワーク)図、 すなわち、どの機能とどの機能とが互いに関連しあうかをネットワーク状につなげて示すものを書くことにより、機能生成・交換・消費の全体像を明確にすることができるはずである。


●生体の機能分類と、産業分類への応用(生体を例に取った、環境=機能分析)

生体にとっての、環境適応していく(生きていく)上で必要な機能物質は、酸素と水と栄養、(外部環境の状態を示す)情報である。

生体の中の各臓器が持つ機能は、以下のように分類される。

項目

説明

具体例

1

搭載・付与

機能を内包させる、持たせる、乗せる機能。

赤血球は、機能物質である、酸素を内包する。

2

運輸・通信

機能(物質)を運ぶ、巡らす機能。

機能(が乗った物質。酸素を内包した赤血球など。)を運ぶのに必要なのは、
1)
機能の位置を動かす、エンジン・原動力(血液を動かす心臓。燃料となる酸素。情報を生み出す原動力となる神経細胞のシナプス活動)
2)
機能が通過する通路(酸素を運ぶ赤血球が流れる血管)
である。

3

集荷

機能(物質)を外部から集める機能。

肺では、酸素が外部環境から、集められる。
口・胃・腸では、栄養・水分が集められる。
脳は、外部環境から機能(物質)を取得するために必要な情報行動を起こす。

4

貯蔵

機能(物質)を貯蔵する機能。

肝臓では、集められた栄養分が、蓄えられて、保管される。

5

加工・改変

機能(物質)を加工・改変する(新機能の生成)機能。

体内の様々な酵素が、元となる機能(物質)を化学変化させて、さらに別の新たな機能を持ったものに作り替える。

6

残余物処理

機能を消費した後の残余物を処理する(外部に捨てる、リサイクルする)機能。

静脈では、不要な二酸化炭素が集められる。腎臓では、一度使った水をリサイクルする。直腸は、全て栄養分を利用し尽くした後の大便を外部に放出する。

7

防衛、保全

外部機能阻害要因(外敵、ショックなど)から生体を守る機能。

脳をショックから守る頭蓋骨、臓器を圧迫から守る肋骨、外敵の攻撃から身を守る手足など。

こうして、環境=機能分析によって、抽出・分類された結果を、社会における、産業分類に生かすことが可能である。社会においても、生成・交換・消費される、機能物質の基本は、生体同様、酸素と水と栄養、情報、である、と考えられるからである。
社会における各種産業は、たいていの場合は、上記の(生体における)機能分類のどこかに当てはまる、と考えられる。例えば、

項目

具体例

1

搭載・付与

半導体に、情報処理の機能を与える、コンピュータ製造業。
鉄の固まりに、食品調理の機能を与える、調理器具製造業。

2

運輸・通信

トラック・鉄道などの運送業。
電波に情報を乗せて広域に巡らす、放送・通信業。

3

集荷

みかんを収穫する農家、農家が取ったみかんを一カ所に集めて処理する農協の集荷場。
石油を取って集める、石油採掘業。

4

貯蔵・保管

作った製品を貯めておく、倉庫業。
預貯金を扱う、銀行業。

5

加工、改変

石油をプラスチックに変える、石油化学工業。

6

残余物処理

地方自治体のごみ処理場。

7

防衛、保全

人家や学校の安全を守る警備業。
人体を寒さから守る衣類を製造する繊維業。

8

交換・市場

交換用トークン(貨幣)を用いて、製品と利用者を出会わせる小売業。新たに追加

となる。実際の社会に適用するには、上記の7つに加えて、機能交換のための、「交換・市場」機能(製品と利用者を出会わせる小売業などが該当)が必要となる、と考えられる。

以上、環境=機能分析では、同じ、生体を模範にした機能分析でも、T.Parsonsらの構造=機能分析とは、全く異なる分析結果が出ている。これは、環境=機能分析では、生体全体を分析の対象とするのではなく、生体内の一つ一つの個別の細胞を、生存~環境適応の単位として捉えているからである。

また、生体・生理システムをもとに分析したといっても、基本的な機能分類のあり方に変化がないというだけで、分類された各機能の持つ環境適応に役立ちの度合いなどは、各人の絶え間ない学習~発明によって、絶え間なく新しい段階へと変動している。例えば、運輸機能(宅配便のトラック輸送など)が、GPSやインターネットの活用で、飛躍的な進歩を遂げたことなどが、その例である。



●ビデオデッキ機能の「環境=機能」分析(機能進化について)

ビデオデッキは、テレビなどの画像+音声を、カセットテープに、録画したり、テープに録画された画像+音声を再生する装置であり、家電製品の代表的な存在である。

ビデオデッキの機能を、どのように、利用者の環境適応に役立つか、という視点から分類すると、以下のようになる。

項目

具体例

評価基準

必要な(環境適応に役立つ)理由

1

扱える(情報)量や種類の多さ

対応するビデオテープの録画可能最長時間(3倍録画モードの有無)。地上波だけでなく、衛星放送にも対応しているかどうか。

多いほどよい

多くの情報が保存可能なほど、環境適応に必要な情報を取っておきやすい。

2

(動作の)速さ

ビデオテープを巻き戻すのにかかる時間の短さ(400倍速)

速いほどよい

時間が節約でき、その他の、必要な環境適応行動に回すことができる。

3

(扱える情報の)きめ細かさ

録画可能な画質のきめ細かさ(S-VHS対応)

きめ細かいほどよい

保存できる情報がきめ細かいほど、環境適応に必要な情報の詳細をつかみやすい。

4

小ささ・軽さ

対応するテープカセットの重さ、大きさ持ち運びやすさ(8mmビデオカセット vs VHSカセット)

小さく、軽いほどよい

持ち運べる空間範囲が増えて、利用可能な用途が広がる(環境適応に役立つ場面が増える)

5

(動作の)正確さ、エラーの少なさ

テレビ放送の時報に、デッキ内蔵時計を合わせることで、時間ピッタリに録画が開始される機能

正確なほどよい

正確なほど、環境適応に必要な情報の取り逃がしが少なくて済む。

6

(操作の)簡単さ(操作手順の少なさ、操作の分かりやすさ、求める機能の探しやすさ)

番組予約を、一々チャンネル、開始時間など個別に入力しなくても、Gコード入力だけで可能にする

簡単なほどよい

操作する上で必要な心理的労力やストレスが少なくて済む(心理的労力やストレスは、少ないほど生き延びやすい)

7

(操作手順や、扱う情報の)互換性

従来機種との操作手順の共通性。ないし、異なる仕様・フォーマット(ディジタル・ビデオカメラ用)の画像情報を、(VHSカセット上に)ダビングで記録することができる度合い。

高いほどよい。

情報の扱い方に共通性が確保できることで、操作手順の学習労力や、操作間違いの頻度を減らせる。活用できる情報の種類が増えて、より多様な情報に接することができるようになる。

8

(扱う情報の)純粋さ(の確保)

コマーシャルなど、本来の番組内容に関係ない、不要な内容の情報を、自動的にカットできる機能。

多いほどよい。

本来の環境適応に必要な情報のみに、視聴上の注意を集中できるようになる。

9

(操作上の)安全さ・セキュリティ(の確保)

子供など、外部の他者による、機器に対するいたずらを防止する機能(チャイルド・ロック)

安全なほどよい。

外部からの侵入者によって引き起こされる機能不全を防止する。


ビデオデッキの機能は、利用者がより生活に便利=環境適応的と考えるものへと、年々着実に洗練されてきている。これは、「機能の進化」が起きていると捉えることができる。年々、試行錯誤的にビデオデッキに付加される新機能のうち、有用なものが、生き残り、より便利なものへと、進化をとげていくのである。

機能進化は、人間の、環境適応により有効な機能を新たに開発したり、既存の機能をより適応力のあるものに改良することで、自分たちの環境に適応している度合い(環境適応水準)を向上させたい、という欲求が原動力となって起こる、と考えられる。


(c)1998-2005 大塚いわお


401 「ドライな機能主義」の提案
-自由で自立した個人の視点から-

1998-2006 大塚いわお


[要旨]

従来の社会学における、個体、個人を包含する全体系、システムから出発する「ウェットな機能主義」に代わって、互いに分離して自由に動く、個体、個人、各粒子から出発する「ドライな機能主義」を、新たに提案する。

ドライな機能主義においては、機能は、各個体、個人、粒子の生存、持続を助ける働きとして捉えられる。ドライな機能主義においては、各個体の分離、独立、自立、自由が前提となり、各個体、個人、粒子を包み込む既存の上位体系(社会、組織、企業・・・)が、個人、個体の生存にそぐわなければ、いったん破壊、初期化して組み直す、再構成しようとする。その点、社会、組織、企業等にとっては、革命、変革指向の考え方である。


機能主義は、互いに分離して自由に動く、個体、個人、各粒子から出発するドライな見方と、個体、個人を包含する全体系、システムから出発するウェットな見方がある。

以下では、前者を、ドライな機能主義、後者をウェットな機能主義と呼ぶことにする。

ドライな機能主義においては、機能は、各個体、個人、粒子の生存、持続を助ける働きとして捉えられる。ドライな機能主義においては、各個体の分離、独立、自立、自由が前提となる。各個体、個人、粒子を包み込む既存の上位体系(社会、組織、企業・・・)は、あくまで、各個体、個人、粒子が存続するための道具、ツールに過ぎず、個人、個体の生存にそぐわなければ、いったん破壊、初期化して組み直す、再構成しようとする。その点、社会、組織、企業等にとっては、革命、変革指向の考え方である。

一方、ウェットな機能主義においては、機能は、個体を包む全体系の維持から出発する。既存体系の保守、保存がその目的となる。ウェットな機能主義は、全体から出発し、個体を全体と一体として、個体の全体への融合、埋没、歯車化、個体と全体との相互一体・調和を前提とする。この場合、体系自身が、個人とは別次元の独立した意思や動きを持つ。いわば、個人よりも全体を優先する、個人をあくまで全体を維持するために貢献する部分的存在として取り扱う、全体主義的な考え方である。また、既存体系を破壊しないように、絶えず調整・変革しようとする点、現状維持的な側面を持つ。システムの崩壊(企業の倒産)、自殺、初期化は考慮されない。

従来の社会学的機能主義や生態学的機能主義の理論のような、「ウェットな機能主義」では、機能を、(個々の人間が属する)社会や生態系システム全体の維持・存続のために必要なものとして捉える。その意味では、社会や生態系システムに個人が従属すると捉えていると言える。社会学的ないし生態学的機能主義の課題は、社会システムや生態系における相互に連関する諸要素ないし諸変数の均衡を分析することである(均衡分析)。社会学的・生態学的機能主義の最も基本的な関心は、社会システムや生態系の自己維持、または存続にある。このため、システムの維持・存続に必要な条件として「機能要件」(システムの欲求、目標)という概念を設定する。そして、機能要件がシステムの維持・存続にとって必要かつ十分であることを明示するのが、「要件分析」である。

ドライな機能主義では、機能は、(社会ではなく)あくまで個々の人間自身が自らの生命を維持・存続させるために必要なものとして捉える。社会は、環境適応水準を上げようとする個人同士が、協力しあうことによって初めて生成されたり、維持されるものである。もしも、各人にとって十分な環境適応水準が、社会を作ったことで得られなければ、個人は、その(生成した)社会を破棄・消去したり、脱退したりする自由を持つ。その点、個人は社会に従属するものではない。生き延びる主体は、あくまで個人であって社会ではないと捉える。

以下のドライな機能主義では、そうした従来の全体主義的な、社会学的、生態学的機能主義とは異なり、「機能」を、個体が環境の中で生存していくのに必要な働き、として捉える視点を、新たに提供する。すなわち、「機能」は、個体が環境との相互作用の中で、淘汰されないように自己保存をはかるために、必要とされる働きである、と見る。

ドライな機能主義は、(1)社会を構成する個々人の視点から、(2)環境との相互作用ないし環境への適応の視点から、機能主義を捉えなおそうとするものである。

機能は、人間が環境に対して一定以上の適応水準を保つために必要とされるものであるが、あくまで人間個人が生き残るために必要とするものであって、社会全体の維持のためではない、と考える。社会や組織は、人間個々人が生き残るためのあくまで手段、道具に過ぎないと考える。

ドライな機能主義

ウェットな機能主義

(1)

個人、個体、粒子の環境適応

全体システムの維持、環境適応

(2)

全体、組織の手段視
(
全体、組織を、個人にとっての環境適応の手段、道具として捉える)

全体、組織の本質視
(
全体、組織自体を重視する)

(3)

個人の全体からの自立、独立、自由

全体組織への個人の従属、融合、調和
全体による個人の統制

(4)

個人あっての全体
(
全体は、個人にとって生き延びるための道具に過ぎない)
(
全体は、個々人にとって必要なくなれば消えてなくなる)

全体あっての個人
(
個人は全体の一部分、歯車に過ぎない)
(
個人は全体のため犠牲となる)

(5)

クリエイティブ、変革的
(
個人の環境適応に役立たない現行の上位組織、社会を破壊し、新たに必要なものを作り出していく)

全体組織の現状維持と保守

タイプ

心理学的、生物学的機能主義

社会学的、生態学的機能主義


●従来の社会システム理論(T.Parsons,N.Luhmann,吉田民人....らによる)との相違点はどこか?

ドライな機能主義も、社会を、機能的に分化した、各部分が互いに依存し合う、一つのシステム、と捉える点では、従来の社会システム理論(ウェットな機能主義)と同じである。

ドライな機能主義が、従来の社会システム理論と異なるのは、視点を、個々の人間に合わせた、個人主義を取っている点にある。個人のよりよい環境適応水準を求めての動きが、社会を生成、分化、変動させる、と捉える点は、視点を最初から全体社会に置き、社会システムの分析を進める上で、個人を分析の対象としようとしない、今までの社会システム理論とは大きく異なる。


(c)1998-2005 大塚いわお


411 機能と自己拡大・増殖圧力=SE(I)P


各人が自分の生成する機能を社会(互いに相互作用をする可能性のある人々の集まり)に流通させる場合、

(1)質を最上級にしようとする(質をできるだけ高めようとする)

(2)量を最大化しようとする(できるだけ広範囲に広めようとする)

各人の欲求が結果的に、社会に流通する機能のあり方を充実させ、社会の発展をもたらす。こうした各人の欲求の裏には、自分の生成する機能が、自分の生きたことの証(生存証明)として働くことを、機能を生成する各人が望んでいることが考えられる。

上記の各人の欲求は、自分の生成した機能ないしそれに関する名声が、

(1)時間が経っても後世までよりよく残る(伝えられる)ように願う(時間的側面)

(2)より沢山の他者の間によりよく広まって増殖するように願う(空間的側面)

という極めて利己的な動機に基づくと考えられるが、結果的にその利己性が、社会に流通する機能の質量の向上をもたらし、ひいては社会の発展に貢献すると考えられる。

そして、その際、自分の生成した機能が自分に正式に由来するものであることについての認識(自己が生成した機能についてのアイデンティティ)が、確実に保たれる(例えば、この機能を発明したのは、他ならぬ「私」である(他者であるA氏ではない)ことが世間に正確に伝えられる)ように望んでいることが考えられる(これは、例えば、特許の発明者表示や、書物や音楽などの著作権者表示などで自分の名前を表示することに現れている)。

こうした利己的動機は、「自己拡大(増殖)圧力(Self Expansion(Increase) Pressure)」とでも呼ぶべきものが、人間~生物に内在する、と考えることで、説明できる。生物においては、遺伝子レベルで既に、自分自身の複製を、より広い空間に、より長い時間生存するように、作ろうとする、原始的な力が働いていると見ることができることから、この自己拡大(増殖)圧力は、生物にとって、ごく基礎的な圧力であると考えることができる。

自己拡大圧力については、

(1)独創型

自分自身(個人独自)のオリジナルなアイデンティティのあるものを、社会(=他者の中)に広めようとする

(2)同一化型

既に他者が生成したところの、

今まで長く続いて来て、これからも長持ちしそうな(永続しそうな)

=時間的側面

既に大きく広がって、これからも現状維持~さらに拡大しそうな

=空間的側面

もの(大企業、宗教、ブランド品など)と自己を一体化・同一化することにより、自己拡大・増殖を一挙に図ろうとする

という2通りに分類される。


●自己拡大、増殖と人生

人間として成功した人生は、この自分とその分身の世界への拡大・増殖をうまく果たした人生であり、失敗した人生は、自分とその分身の拡大・増殖に失敗した人生である。

ただし、この人生の成功と失敗は、長い目で見ないと分からない。場合によっては本人が死んだ後で、その功績が発掘されて、有名になって世界中に広まることもある。逆に、本人が生きている間は成功者として恵まれた人生を送るものの、死後、急速に忘れられたり、批判の対象になって、汚名を残すこともあるからである。



●自己拡大圧力がもたらすジレンマ

上記の自己拡大(増殖)圧力は、以下のような、互いに矛盾する側面を持つ。

(1)自己拡大を行うには、他者の自己拡大を阻止すればするほど、それだけ、自分自身の自己が、周囲の社会に拡大する機会が増える。そこで、自己拡大の度合いを最大化するために、他者の自己拡大を妨害しようとすることになる。例えば、企業のシェア争い時に行われる比較広告や、国家同士の領土拡張戦争が、この現れである。これは、互いの環境適応を妨害し合うことになり、逆機能的(機能阻害的)である。

(2)自己拡大を行うには、自分を取り巻く他者の環境適応水準を向上させることで、初めて、効果的に行われるようになる。要するに、他者が存続してくれないと、他者の中に、自己の複製が残らない。そこで、自己拡大のために、他者の環境適応を積極的に手助けしようとすることになる。これは、互いの環境適応を促進し合うことになり、正機能的である。

こうした自己拡大に関するジレンマは、以下のようなしくみで解決される。

(1)自分と同類の機能を提供する者(互いにライバル関係にある)に対しては、その自己拡大や環境適応を妨害する。

(2)自分と異なる種類の機能を提供する者(自分の生成する機能を必要とする者、互いに顧客関係にある)に対しては、その自己拡大や環境適応を促進する。

このうち、(1)は、自分と同類のもの=内集団に対して、ひいきを行う、「内集団びいき」の傾向に反しており、そこにさらに、社会心理的ジレンマが存在する。



(c)1998-2005
大塚いわお


412 機能生成(生産)と消費



環境適応的機能主義では、人間が行う生産・消費の対象を「機能」と捉える。要するに、モノ自体ではなく、モノの中に含まれる機能こそが、生成・消費のターゲットである、と考える。買い物をするとき、モノを買うのではなく機能を買う、と考える。例えば、食料品店でにんじんを購入するとき、にんじんそれ自体が目的なのではなく、にんじんに含まれるビタミンAなどの人体の維持に必要な機能を持つ栄養素を獲得することが目的であると考える。

機能を買うという概念は、例えば、家電製品(ビデオデッキ、洗濯機など)のカタログを見ながらだと分かりやすい。人間が生産・消費する「商品」は、機能の「乗り物」であり、環境適応に有効な(役立つ)機能の集積(と、送り出す側が考えたもの) 具体的な物だったり、抽象的なサービスだったりする。

経済学においても、財・サービスの生産・消費といった言い方から、「機能」の生産・消費へと、表現の置き換えをはかる必要があるのではないか。


●機能の無形性

サービス(広告、理容業など)は、直接生産とは見なされないことが多いが、何かしらの機能を持つ。したがって、人は、サービスを提供した他者に対して対価を支払う。「サービス」という言い方は、機能の「無形性(それ自身は形を持たない)」の現れといえる。

機能自体は、無形である。機能は、具体的な有形の物質(金属、繊維.)に乗っていること(例えば冷蔵庫、洋服)が多いので、実体のあるものに思われがちである。しかし、運動・頭脳労働のような無形のものにも、生体の環境適応に役立つ働きはあるので、そこに機能が存在すると言える(例えば、料理を作るための包丁さばき運動は、食材を調理可能な状態に持っていき、食材に含まれるところの、生存に役立つ栄養分を吸収可能にする)。あるいは、テレビ画像や音楽といった情報も、人間が生きていく上で欠かせないものであり、機能の乗り物である、といえる。

例えば、機能食品(ビタミンAを含む人参)においては、ビタミンAという物質自体が機能なのではなく、ビタミンAの持つ、生体の生命維持に役立つ働きが、機能として捉えられる。



●機能物質・機能運動

上記の、機能の無形性との関連で、人間や生物の環境適応に役立つ働きが乗った具体的な物質を、「機能物質」と、仮に呼ぶことにする。また、環境適応に役立つ働きが、人間・生物の体の動作や、無機的物体の動きに乗って、現れるとき、その運動を「機能運動」と呼ぶことにする。



●機能生成

機能生成者は、人間、他の生物(動物・植物)、無機的自然(風、雨、火山活動など)に分けられるが、通常は、互いに関連し合う形で、混ざり合うことが多い。機能生成者は、何らかの動的な活動を行っているものである。

機能の生成プロセスは、機能生成者の何らかの活動結果が、自分たちの環境適応にとっていかに役立つか、その使い道を、試行錯誤で考えたり、実験することに始まる。そして、ひとたび機能生成者の活動により生み出されたものが、環境適応に使えることが分かったら、それをいかに量産するか、という、企業化・事業化の段階に至る。

機能は、人間が自力では生成できない場合がほとんどである。栄養分のように、他の生物(穀物や海草)に頼る必要がある。あるいは、有機物(石油)や無機物(鉱物)のように、自然界に既に存在するのを探して見つける必要がある。

例えば、植物は、栄養分(ジャガイモの炭水化物)や、燃料()等に変化する、人間の環境適応に役立つ物質を生み出す。このこと自体が、植物による、人間にとっての機能生成である。そうした植物が発育するための環境を整備する場合、その整備の分、すなわち、植物の発育を手助けすることが、機能生成に当たる。

機能生成を行うターゲットは、人間の生理(食物→栄養、エアコン→温度など)だけでなく、人間の心理(食物→おいしい、エアコン→快適な温度に感じる)も、含まれる。

生成された機能のありかは、(1)人間そのもの(人間内部)(2)外部の物体に刻印、の2通りある。(1)においては、金槌叩きなどの運動、(2)においては、紙に印刷した情報、などが該当する。


●機能生成とシステムサイズ

人間の集団を、システムと見なした場合、巨大システム(官庁、大企業)と微小システム(3~4人で分業している状態)とに分けられる。 
(生命維持のための入出力)システムは一人から始まる(無人島で一人で何役もこなして生活するなど)。 
巨大システム(例えば巨大工場の各職場)は、微小システム(グループ)の積み重ねより成る。

ある機能が、生成に、多くの異なる分野の人々の能力を必要とする場合、機能生成に必要な組織のサイズが大きくなる。
各人のコミュニケーション能力に限界があるため、一人で状況把握できる他者の集まりである、小集団(微小システム)を作って、それらを重層的に積み重ねる(積み重ねた結果が、巨大システムである)。積み重ねた小集団の間を通るうちに、次第に様々な機能が寄せ集まり、一つの有機的にまとまった、高度な環境適応能力を持つものとして、最終的に生成される。


●機能の不足と補充

機能の消費、不足、欠け、不十分化は、人間のような生命体には付きものであり、それが生命の本質である。

生命体とは、機能(生存に役立つもの)を絶えず必要とし、消費する存在として捉えられる。その点、生命体にとって、機能は本質的に、消費されて、不足する、絶えず補充が必要な存在である。

生命体が生きて行くには、機能を絶えず自らの手で生産ないし収集して補充する必要がある。

生命の本質をネゲエントロピー(エントロピーの反対)として捉えるなら、機能は、生命体にネゲエントロピー(エントロピーの反対)を供給するものとして捉えられる。


●機能消費

生物の行う機能消費は、機能の乗った物質ないし、機能を含んだ活動・運動から、生存に必要な機能を抽出・消化する過程として捉えられる。

上記の過程は、

消費
機能物質ないし運動 → 抽出・消化した機能 + 残りカス・ゴミ

と、定式化される。

機能物質や運動は、機能を取り出す前は、秩序があったのが、機能を取り出した後は、乱雑・無秩序になる、という点で、物理学や情報科学における、エントロピーの概念と関係がある。この場合、機能は、秩序ないし、ネゲントロピー(エントロピーの反対概念)に相当する、と考えられる。

機能抽出に当たっては、

(1)機能が繰り返し抽出できる(テレビ) か、 抽出が1回きり(消火器の薬剤)

(2)機能が日持ちする(洗濯機のハードウェア)か、日持ちしない(生の刺身)

といった区別に留意する必要がある。

消費は、環境適応が達成された後は、適応水準がある程度下がってきて、新たな機能が必要となってくるまで、起きにくい。



●機能保全・保護

消費される機能の中には、その量が稀少であって、かつ、いったん取り尽くしてしまうと、2度と再生困難なものが、存在する(漁獲高が減少したカニなどがこれに当たる)。こうした場合、その機能の乗り物となる生物などを、保護・保全する必要が出てくる。保護・保全される機能には、単に食糧などの、具体的・物理的な質量をもつものに限らず、景観のように、心理的な効果(安らぎなど)を与えるものも含む。



●機能停止

機能停止とは、製品やサービスにおいて、本来提供されるべき、人間の環境適応力を向上させる働きの提供がストップした状態を指す。例えば、停電で氷や食物などを冷やすことができなくなった冷蔵庫は、食物が早く腐ってしまったり、氷枕を作れなくなったりなど、人間の環境適応の度合いを、その稼働時に比較して明らかに低下させるものであり、機能停止状態にあると言える。


(c)1998-2005 大塚いわお


413 機能地図




●機能連鎖と全体社会

各人は、個別の機能を生成して、それを社会全体に広めて、他者に消費してもらい、社会全体に幅広く分布する、その機能を消費する他者の役に立つ。そうすることで、機能を生成・配布した各人は、役立ったことへの対価(多くの場合は、機能交換クーポンとしての貨幣)を、社会のあちこちから、受け取る。そうすることで、今度は、自分が環境適応のために必要とする、(社会の中で、自分およびその同類を除いた、残りの人々が生成するところの)機能を手に入れることができる。こうした点で、各人が生成する機能には、(互いに、社会の他者の生存を助け合う点で)相補性が存在することが分かる。

こうした相補性のある機能のうち、生成面(あるいは逆に消費面)で、互いに結びつき、連鎖関係にあるもの同士を、一つ一つくっつけてゆき(ないしバイパス道路で互いに連絡させ)、一つの大きな地図となしたものが、「機能連鎖」「機能ネットワーク」である。そして、そうした機能連鎖(ネットワーク)の生成~消費関係を、全て集めたものが、全体社会である、と考えられる。

全体社会は、(機能生成を受け持つ)各部分を主体としてなされる相互交流の単純な合計として捉えられ、全体社会が、各部分を超越した存在として、数式でその動きをシステムとして明快に捉えられるようになっているとは、必ずしもいえない(そう捉えたいという魅力に引かれて、Parsonsのような社会学的機能主義者(社会システム論者)が挑んだが、あまり成功していない)



●機能地図

似た機能同士、連鎖する機能同士を、一つの図面上にひとまとめにして、総合的・全体的な地図を作る、という行き方が考えられる。
機能に関する総合的・全体的な地図(仮に、「機能地図」と呼ぶ)を、簡便な方法で作成するには、産業(業界)地図、職業分類、官庁組織分類などを参考に、各産業・職業・官庁部局の持つ、(人々の環境適応に役立つための)機能を、抽象化して捉えたものを、整理しながらまとめればよいと考えられる。

全体的な機能地図を作るということは、かつての社会有機体説の内容を、有機体の各部分が(他部分の環境適応のために)果たす機能が何であるか、という見地から、より抽象的に捉えることにつながる。生体各部分の機能は何かを、一般化する必要がある。例えば、栄養は、正の機能を持つ(環境適応に役立つ)など。

この見地から、生体各部分の機能を、抽象化された形で抽出し、社会の産業分類に応用した、環境=機能分析の実例を参照されたい。

ただし、従来の社会有機体説のような、生体との直接のアナロジーは、(抽象的な)機能の抽出が不可能なので、行ってはならない。生体全体の維持を、社会全体の維持になぞらえる、という見方も否定されるべきである。生体と異なり、全体社会は、もしも構成員にとって低レベルの環境適応水準しかもたらさないのであれば、それ自体維持されるべきでない(解体→再編成される必要がある)

ちなみに、「全体社会の維持」という文句は、その社会の中で上位にある者(機能交換関係で恵まれている者)が自分の権益を守るために言うことが多い。「会社組織全体の維持」を唱えるのは、社長など、高い地位にある者ほど熱心で、低い地位の者は、終身雇用や年功序列賃金などのメリットがないと、組織維持には熱心にならない。


(c)1998-2005 大塚いわお


414 機能交換 Function Exchange

1998-2005 大塚いわお


[要旨]

分業状態にある人間は、自分の欲する機能を必ずしも自身の手で生成していないことがほとんどである。従って、自分の手で生成している機能を、(それが不足している)他者に渡して、その代わり、他者が生成している自分の手元に足りない機能を手に入れる必要がある。そこで、相互に必要な機能(生成の担い手)を、社会のすみずみから探し出して、互いに不足している機能同士を交換しあい、自己充足することになる。

すなわち、人間は、自分の生成する機能を他者に差し出し、その見返りとして他者の生成する異なる機能をもらう。この場合、代わりに他機能への引換券、貨幣をもらうこともある。また、自分の生成する機能との交換で入手した、他者の生成する機能への引換券、貨幣を他者に差し出し、それと引き換えに他者の生成する機能をもらう。これが「機能交換」である。


1.社会的分業



当節では、以下で述べる、「機能交換」の概念を説明する上で必要な、社会的分業と人間の環境適応との関連について、述べる。


なお、以下の文章における「機能」とは、人間の環境適応に役立つ働き一般のことを差している。

また、以下の文章は、その視点が、互いに分離・独立・自立して自由に動く個人ベースから出発するドライな見方からなっている。

人間一人一人は環境適応(生存し続けること)を指向する。その際、人間は、一人だけでできることは限られており、生存に十分な環境適応水準を得ることができない。そこで、環境適応水準を、生存に十分な程度にまで、向上させるために、互いに協力しあおう=集団~社会を作ろうとする。

人間が作る、集団~社会の種類としては、次の2種類が考えられる。

1.各人が別々の種類の機能の生成を互いに関連しあう形で行う(分業)。各人が別々の機能生成をそれぞれ担い、互いにそれらの機能同士をリンクさせて、より高度なひとまとまりの機能として実現させる=各人が別々の機能生成に専門化することで一つ一つの機能生成のために投入される作業の質を高めることで環境適応の水準を高める。

2.同じ仕事を多人数で行う(地引き網引きのように)一つの機能の実現を、全員が一丸となって行う=皆が同時に一斉に同じことをやることで、一つの機能に投入される人数を増やすことで環境適応をはかる。

1の分業(社会的分業)とは、個人の立場から見るならば、個人毎に異なる機能を互いに他者に対して提供すること、あるいは、(分業している)各人が、他者が環境適応を行うのに役立つための働きを行うこと、を指すといえる。

機械的連帯から有機的連帯へ(E.Durkheim)の命題は、人と人との連帯のありかたが、共同作業(皆が同じ作業を同時に行う。機能の総量が環境適応水準を超すことが目的)から分業(機能交換。機能分化させた方が各機能の質・量が環境適応水準を超えやすい)へと進んでいくことを示している。上記の分類では、1が、有機的連帯に当たり、2が、機械的連帯に当たる。

分業が始まる原因は、個人が社会(共同)生活を始める原因と共通している。

一人一人の生活水準(=環境適応水準)を上げようとする心理がもともとの原因である。分業は、人間が皆で手分けして別々の作業を行うことにより、かえって互いに環境適応しやすくすることを目的とする。分業の進展による、社会の機能的分化は、人間個人に内在する、環境適応水準向上圧力(EALIP)が、原動力となって、起こる。

人間が必要とする機能は、衣食住の広範囲にわたるものである。これらの広範囲の機能生成を一人だけでカバーしようとすると、生成される機能に、不十分な、ないし欠陥の存在する部分がどうしても出てくる。その結果、環境適応水準が十分なレベルまで上がらず、結果として、生き残れないという事態が生じる。そこで、分業による専門化=機能分化を行って、生成する機能の内容の純度を上げることにより、環境適応水準の上昇が達成される。

結局、分業は、そうする方がより各人の環境適応能力が高くなるため起こる、といえる。

分業の原因は、A.人間の側にあるものと、B.人間を取り巻く環境の側にあるものとの2種類が考えられる。

A

人間の側にあるもの

A-1.

個人の能力差

A-1-a.

バラエティにより起こる(知力・体力の相違など) 各人が自分の能力を最も発揮できる種類の作業に従事するようにして、社会的分業の最適化(社会を構成する各人の環境適応によりつながりやすくする)をはかる。

個人毎に能力にばらつきがあり、得手不得手が存在する。各人にとって、最も得意な作業に従事することが、自分だけでなく、自分が生成する機能の消費者となる、他の人々の、環境適応水準をも、同時に高めることになる。

A-2.

個人の何でもこなす能力の限界

A-2-a.

個人は、同時に多数のことをやるより、少数のことに集中した方が習熟が速く、アウトプットがより精緻・正確・合理的になりやすい。したがって少数のことに集中した方が、より環境適応能力が上がると考えられる。

A-2-b.

一人の人間にとって、環境との相互作用において、生命維持のためにしなければならないことの種類がたくさんあり過ぎる。 一人で全部やろうとする(自給自足)と、各々の種類について低い水準の機能のアウトプットしか得られず、環境適応するには能力不足となる。

能力不足の状態を解消して個人の環境適応水準を上げようとするためには、作業の種類毎に手分けして行う必要がある。手分けを可能にするには、機能を交換しあうために、(互いに異なる種類の機能生成を分担する)大勢の他者と出会わなければならない(これは、社会的分業が起きる原因についてのE.Durkheimの説明=社会的密度の増大とのつながりを説明すると言えよう)。

B

環境の側にあるもの

B-1.

個人を取り巻く環境差。環境差(例 海沿いの環境 vs 内陸の環境)に伴い、最適な生産物(生成すべき機能)の種類に違いが生じる。異なる環境下で生活している者同士が出会うことにより、互いに相手にはないもの(機能)を生成していることに気づいて、交易(機能交換)関係に入る(干し魚 vs 山菜の交換)ことで、分業が成立する。

が考えられる

分業の種類としては、以下の2種類が考えられる。

A.システム的分業 機能同士が、相補的・相互依存的関係にある。分業している一方が環境不適応で駄目になると、環境に適応しているはずの他方も駄目になる(例 水力発電オンリーの社会で水力発電ストップ→電力に依存するオフィス機能の停止)。

B.並行的分業 アウトプット内容が同一・類似(だがその生成方法が互いに異なる)機能を複数用意した場合がこれに当たる。機能上、いくつか互いに並行する選択肢を用意(例 火力、水力、原子力発電)して、一つが不適応となっても他が代替できるようにする(緊急時の代替性を確保する)。


(参考)E.Durkheimが指摘した、分業(有機的連帯)の原因(「社会分業論」)

(1)社会的容積の増大

(2)諸個人が置かれた環境の変化

(3)社会的密度=人と人との接近機会の増大


●分業状態にある者同士の関係

分業状態にある人間同士の関係は、A)システム関係にある場合、B)並行関係にある場合、とに分けられる。

A.

互いにシステム的・相互依存関係にある場合

A-1

互いに異質である。異質な者同士の相互依存は、有機的連帯(E.Durkheim)に当たる。

A-2

互いのインタフェース(接合)部分のみを理解し、他の部分はブラックボックスとなって互いに理解不能である。その意味で、相互疎外感(同士意識の欠如)・コミュニケーションの不能性を生み出す。

A-3

互いに利益計上関係にある。互いに相手にないものを持っている。需要と供給関係にあり、互いが儲けの源泉となる。

B.

互いに並行(同類・共通的)関係にある場合

B-1

競争的関係にある。互いに同じことを先んじてやろうとする。

B-2

共同主観的関係にある。お互いの言っていることの基本部分が共通に理解できる。相互のコミュニケーションが可能である。就職などで一方から他方へと転身可能である。

Aの例→電力を供給する会社と、コンピュータを製作する会社があるとして、電力会社では、コンピュータの細かいことは知らず、表面的な仕様のみを理解している。コンピュータ会社では、電力がどうやったらできるのかなど細かいことは知らず、コンピュータが動作するに足るだけの電力が供給されるかどうかのみに関心を持っている。

こうした場合、電力会社の技術者と、コンピュータ会社の技術者の知識や考え方は、互いに異質(全く別物)であり、互いに相手の言うことを理解しにくい。したがって、電力会社の技術者と、コンピュータ会社の技術者との間の会話は、双方が同時に理解できるだけの、ごく表面的なコミュニケーションしか取れないものになる。

ここで、電力を生み出す技術は、コンピュータ会社にとって、コンピュータを動作させる上でなくてはならない、必須のものであり、コンピュータ会社が電力会社に電力代金を支払うことで、電力会社を儲けさせる。一方、コンピュータ会社の技術は、電力会社にとって、生産電力量をコントロールするなどのために、やはり必須のものであり、電力会社がコンピュータ会社からパソコンなどを購入することで、コンピュータ会社を儲けさせることになる。

以上のように、電力会社とコンピュータ会社とは、互いに相手の需要に応えて供給を行い合う関係にあり、互いに儲け合う関係にあると言える。)

Bの例→電力会社とガス会社とは、互いにエネルギー供給を行うという点で同類・共通の関係にある。この場合、例えば風呂への給湯機能サービスで、電力会社は深夜電力を活用した電気温水器を販売しようとし、ガス会社は、ガス湯沸器を販売しようとする。このように、両社の販売戦略はエネルギー供給という点で互いに競争関係にあることが分かる。ここで、両社の営業マンは、互いに相手の会社に転職しても、風呂給湯設備の販売という点で、同じ経験を積んでおり、ほとんど同一の仕事につくことが可能である。)

J.Habermasによる、生活世界とシステムとの二元的な把握との関連で言えば、Aはシステムであり、Bは生活世界に対応する、と考えられる。


●専門家の出現

分業が進展すると、専門家(高度な分業により分化した各領域の機能生成を司る者)が、広い社会の中に、各専門領域毎に少なくとも必ず一人いるようになる。

専門知識が必要な困ったこと(機能不全状態に陥ること)が起きると、口コミなどで探索されて呼び出され、社会全体に向けて、環境適応に有効な知識を一挙に広める。

ただし、専門化が進展すると、異なる専門に属する人間同士では、お互いに話が通じなくなるため、各々の専門の殻の中に閉じこもり、結果として、既存の社会の枠組みを打ち破る新しい考え方が出にくくなり、社会変動と、それに伴う環境適応水準の劇的向上が起きにくくなる。

そこで、異なる、今まで互いに交流のない専門分野同士を組み合わせて、掛け持ちする人々の数を増加させることで、今までにない組み合わせに基づく発想が生まれやすくなって、科学・技術上の新たな発見・発明につなげることができ、環境適応水準の向上につながる。


2.機能交換


人間の環境適応に必要な多くの機能は一人だけでは賄い切れない、また、各機能の生成者が特定の機能を生成することに専門化することで、生成される各機能の有効性・性能をより向上させる必要がある。従って、他者との機能交換が必要になってくる。

分業が進んだ状態において、各人にとっては、機能の自給分(自分自身だけでまかなえる機能)は僅かである。

そこで、各人は、互いに分業状態にある場合、(1)多数の他者と、(2)多段階にわたって、機能のやりとりをする必要がある。

言い換えると、分業状態にある人間は、自分の欲する機能を必ずしも自身の手で生成していないことがほとんどである。従って、自分の手で生成している機能を、(それが不足している)他者に渡して、その代わり、他者が生成している自分の手元に足りない機能を手に入れる必要がある。そこで、相互に必要な機能(生成の担い手)を、社会のすみずみから探し出して、互いに不足している機能同士を交換しあい、自己充足することになる。

すなわち、人間は、自分の生成する機能を他者に差し出し、その見返りとして他者の生成する異なる機能をもらう。この場合、代わりに他機能への引換券、貨幣をもらうこともある。また、自分の生成する機能との交換で入手した、他者の生成する機能への引換券、貨幣を他者に差し出し、それと引き換えに他者の生成する機能をもらう。これが「機能交換」である。

説明: 機能交換の説明図

機能交換が必要な理由としては、以下の2つが考えられる。

1.分業により自分が社会の他部分の環境適応に対して貢献した価値の分を受け取るため

2.社会の他の部分(他者)が生み出す機能(生命維持に必要だが、自分では作れない、他者に作ってもらう必要がある)を自分が享受するため



●機能交換と社会システム理論

機能交換は、機能を巡っての、社会を構成する各人同士の相互依存を生み出し、結果として、社会の統合をもたらす。それと同時に、各人が生み出す機能の分化を生み出す。機能分化は、各人の能力にとって最適な内容の機能を生み出すように分化する。こうした点で、機能交換は、社会のシステム化をもたらす、と言える。こうした考え方は、機能主義と、社会システム理論をつなげるものであると言える。


●社会システム統合

互いに異なる機能生成を担当する社会の部分同士(例えば、農村と漁村)の統合は、異なる機能同士が出会い、交換が起きることで起こる。機能同士の出会い(漁村で作られるミネラル分の多い昆布と、農村で作られる炭水化物の多い稲)は、最初は、それぞれの機能物質を持った人同士が互いに同じところを通り掛かるなどして、偶然に起こり、その結果生じた機能交換(漁村は稲を手に入れ、農村は昆布を手に入れる)がもたらす利便性が、いったん生まれた交換関係を持続させる。交換関係の持続が、社会システムの各部分同士の結びつき、統合をもたらす。N.Luhmannの言う、「システム統合」は、機能交換の試行錯誤的な発生と、その持続によって、説明されるといえる。


●機能交換・売買と市場

機能は、普通、何段階もの(いくつもの)交換を重ねて、機能生成者から消費者へとわたる。

市場(町)は、互いに分業関係にある人と人との間で、機能交換・売買が行われる場である。

市場では、各自が提供したいと思う/手に入れたいと欲する機能の質や量をその場で計算し比較することにより、最適な交換・売買の関係が樹立されることを目標とする。

すなわち、自由競争が入ることにより、分業下での各機能の需要と供給関係が最適調整されることを目指す。

組織を明示的に組まなくても、全体社会の統合があり得る。市場における機能交換・売買関係による、交換によるつながりのある者同士の相互統合がそれである。

小さな局所的機能交換関係がもたらす相互結合の積み重ねが、全世界レベルへの分業へとつながっていく。相互結合は、市場において、偶然に基づいてもたらされる。



●機能交換と自由

異なる機能同士が出会う機会や、機能同士の組み合わせの自由を、できるだけ大きくすることが、より適切な機能交換を生み出し、人々の環境適応水準を高める。このことは、例えば社会主義で見られたような、機能同士の出会いや組み合わせを人為的に統制するやり方が、あまりよい成果を生み出さなかったことにより、明らかになりつつある。


●機能交換に交通・通信が果たす役割

交通・通信は、人と人との間の機能交換を媒介する(ある機能と他の機能とを同一場所に出会わせる)、すなわち機能を生成する者から欲する者へと、機能のバケツリレーを行う役割を担う。その意味ては、機能の流通を担う(各人の生産する機能が各人が参加する社会のすみずみまで流通し行き渡るのを助ける)、といえる。

流通(ある人が生成した機能を、それを必要とする人のところに届けること)自体が、機能の媒介・運送を必要とする人の生存に役立つという点で、機能的である。



●機能流通の過程での機能の加算(積み上げ)と価格付け

機能流通の過程において、様々な付加的機能が必要となる。それらは、順に生成され、そこにやってきた機能に対して、次々と付け加えられ、積み上げられていく。

例えば、食糧生産においては、

 機能(栄養)を内蔵した物質である食糧(果物)の生産(農家による)
(食糧が次の段階で必要とされる場所への)保冷しながらの運送(運輸業者による)
→集荷・加工・包装(加工業者による)
(次の段階で必要とされる場所への)運送(運輸業者)
→市場での競り(市場関係者)
(消費地への)運送・保冷(運輸業者)
→陳列・小売り(小売り業者)
(交通機関などを利用してやってくる)機能消費者(果物を食べたい需要がある人)

といった過程をたどって、各業者(機能生成担当者)が、そこに運ばれてきた機能物質に対して、その場で必要となる機能を新たに生成しては、新たに付け加えて行き、最終的に機能消費者のもとに、積み上げられた機能の合計が渡される、ということになる。

消費者は、その手に渡るまでに積み上げられた各機能の合計を、最終的に一度に使う(消費する)。その瞬間、彼は、各機能(食糧生産、運送、陳列..)の恩恵に一気に浴する。

必要な機能が、順に生成され、加えられる過程で、各機能に価格が付く。
価格は、(1)機能生成にかかったコスト(費用)(2)他者の役に立つ度合いに応じて、他者から支払われるべき対価、として付けられる。
価格は、機能物質が、次の機能提供者に渡る都度、加算されていく。そしてその総計を、最終消費者が支払う。


●機能提供とフィードバック

機能生成者は、機能提供先(顧客)が自分の提供した機能に満足することを指向する。満足されるとうれしい(快感を呼び起こす)。自分の機能生成能力(有能さ、提供する機能が有する環境適応水準の高さ)が認められ、より広い提供先(顧客)を獲得することを指向し、そのことが機能提供のあり方の改良につながる。そのためにも、自分の提供した機能がどのような評価をもって提供先に迎えられたかについての情報(フィードバック)を、絶えず知りたがるということになる。フィードバックの存在が、社会に流通する機能の質を高めることに貢献する。


●社会学の既存の交換理論との類似・相違点は何か?

G.C.HomansP.M.Brauらによって提唱されている既存の交換理論は、人間の行動を他者との報酬の交換関係と見る考え方であるが、そこには、「機能」の交換という概念に欠けている。あるいは、環境についての認識(環境との相互作用、環境への適応、交換の目的が相互の環境適応のためにある、など)に欠ける。

機能主義の機能交換に関する命題を、既存の交換理論の命題(G.C.Homansによる)に倣って書くと、以下のようになる。

「人間は、他者の環境適応により貢献する機能の生成・交換を行うと、他者からより多くの報酬(自分が持っていない機能の提供、ないし貨幣の提供など)を受ける。彼はより他者の環境適応に役立つこと(機能の生成~交換条件の整備)をしようとする。」


●貨幣と機能交換・売買

貨幣は、自分の生成する機能を、他者に、対価と交換で売り(引き取ってもらい)、自分が持たない他機能を、他者から対価と交換で手に入れる(買いつける)際に、対価の質量を計るmeasureとして使用する、自分と他者との間で共通の価値を持つ任意の物品、情報etc...である。

他者との機能交換・売買には、貨幣が必要となる。貨幣が必要な理由は、分業関係にある(生成された)各機能の価値の間に互換性を持たせるためであり、機能の円滑な流通に不可欠だから、と考えられる。

貨幣の出現は、機能交換や分業の発生と不可分である。

貨幣のやりとりがあるということは、分業(システム化)が起きている証拠である。

貨幣を機能交換のメディアとして用いることにより、貨幣が流通している人々の間で、分業をベースとした社会システムが自動構築される。これは、貨幣の交換関係による分業連鎖が起きることにより貨幣が社会を一つのシステムにまとめる力を持っていることを示す。

貨幣を得る、ということは、通常は、分業システムに参加している(ことによって他者を助けている)、他者の環境適応のための機能生成を果たしている証拠である。

知らないだれか(不特定、何人かも分からない)他者の環境適応に貢献した対価として、貨幣(賃金)=他者による何らかの(内容は不特定の)機能提供が得られることを保証するクーポン、を受け取る権利が生ずる。この権利を放棄するのが、ボランティアである。

貨幣は、それを利用する個人の、環境適応の幅を大きくする。貨幣の利用により、いつでもどのような望みの機能とも交換できるようになり、機能選択・消費の時間的・種類的制約をなくす。

機能の価値の見積もりは、原価計算によって行う。

重要機能(他者が取って代われない)を遂行するほど、貨幣など価値あるものがが手に入りやすい。機能の重要性×供給量の少なさと、価格とは比例する。

価格が付くものは、本来、みな何かしら機能を持つ、環境適応に役立つといえる。そうでない場合は、詐欺に相当し、機能交換が正しく行われなくなる(ひいては、機能が欲しい人々の環境適応を阻害する)事態をもたらす犯罪として処理されることになる。例外としては、麻薬取引のように、環境適応にとって有害なのに、高い価格が付く場合がある。

価格変動は、機能の上昇/低下×機能についての需給収支、によって決まる。

各人が担う機能は、環境の変化によって有効になったり無効になったり、競争力があったりなかったりする。機能に付く価格は、機能の現在持つ有効性に比例するといえる。いつ有効性が変化するかは予測しにくい。

貨幣を蓄える(貯金する)ということは、他者が持つ機能の取得、(自分の持つ引換券と相手の持つ機能との)交換可能性、能力を蓄えることに他ならない。

分業システムの異常を、市場における価格や、貨幣相場の動きによって知ることができる。

通貨量は、果たされている機能(の価値)総量と等価であることが理想的である。機能の価値を計る物差しが、その機能の価格である。

貨幣は、生体における、各細胞の呼吸、生存に必要な酸素と同じ役割を、社会における、各個人に対して持っている。自分のところに貨幣が来ないと、お金が回らないと、社会のその部分の人は生活できなくなり、生きていけなくなる。酸素が生体内をくまなく巡るように、「金は天下の回り物」である。



●人間と他生物との機能交換

機能交換は、人間同士に限らない。他の生物との間で、互いに、相手にとって有効な機能を交換し合う、という現象がよく見られる。例えば、植物の稲と、人間との関係が、これに当たる。稲は、人間に、炭水化物などの、人間の生存に必要な栄養分(機能)を豊富に与える。人間は、その見返りに、土地を開墾して、たくさん稲を植えてあげて、こまめに除草や害虫駆除をするなどして、その生存に協力している。こうした、生物間の(生存に有効な)機能の双方向でのやりとり・融通が、従来の生態学における、「共生」に当たると考えられる。



●コミュニケーション・情報の概念と機能交換・機能回線

コミュニケーションは、2人の間において、一方の持つ情報が、他方にコピーされる過程を示している。言い換えれば、コミュニケーションは、情報のやりとり・交換が起きる過程を表している。

ここで、情報は、こうすれば環境適応に役立つ行動ができるということへの手がかりを教える(示唆する)ものであり、それ自体、環境適応にプラスになる、個体=生命システムを存続させるのに役立つ「機能」を持っている。例えば、地方自治体の防災無線を通じての津波警報という住民向け情報は、住民に対して、津波による生命の危険が迫っていること、死を回避するために、高台へと避難する行動をとるべきこと、を教える。この場合、情報は、1)現在、情報の受け手を取り巻く環境がどうなっているか、状況を示すこと(環境状況の提示)、および、2)情報の受け手が、現状の環境に対して適応するには、どんな行動を取ればよいか、教えること(適応手段の教示)からなり、いずれも、情報の受け手の環境適応に役立つ、「機能的」なものと言える。

したがって、情報のやりとりとしてのコミュニケーションが起きるということは、個人間に、「機能」のやりとり・融通が起きているということであり、すなわち、「機能交換」が起きていることに他ならない。

コミュニケーションには、目標達成の手段を相手に示す、「道具的(instrumental)」なものと、緊張解消などコミュニケーションを行うことそれ自体が目的である、「コンサマトリ(consummatory)」なものとがあるとされる。上記の津波警報のたぐいは、環境適応の手段を、受け手に教える点で、「道具的」と言える。

相手とコミュニケーションを取ること自体が自己目的化している、コンサマトリなコミュニケーションにおいては、コミュニケーションを取ることで、情報の受け手との一体・融合感を高めたい、より親しくなりたいというメッセージ(情報)を、受け手に対して送っていることになる。この場合、互いに親密になることで、より多面的でスムーズな機能の相互融通=機能交換が可能となる(これは、相手との通信回線のつながりが、より太く確かなものになることを示す)。見知らぬ人には、いきなり頼みにくいことでも、親しい友人同士だと頼みやすい、ということはよくあることである。機能の相互融通(交換)の機会の増大は、自分の環境適応に必要な機能を、相手からより手に入れやすくなることであり、それ自体、生態学的に見て、機能的ということになる。

こうしたことから、コンサマトリ・コミュニケーションは、それ自体は、機能のやりとりを行う「機能交換」には当たらないが、相手とより親密になることにより、相手との機能のやりとりを行うための回線を、より太く、確実なものにする点で、個人間の「機能交換」行為自体を促進する働きを持つといえる。

友人、家族関係や、共同体(ゲマインシャフト、コミュニティ)で見られるコミュニケーションは、互いに打ち解け合い、何でも互いに話し合える関係に基づいている。その点、機能のやりとりを行う回線(機能回線)が、太く、恒常的につながっており、切れにくいと考えられる。一方、企業や官庁のようなビジネス・ゲゼルシャフト関係で見られるコミュニケーションでは、機能の通り道となる回線は、細いか、契約が終われば切れてしまう、恒常性に欠けるものである、と考えられる。


(c)1998-2005 大塚いわお


415 機能競争


同一機能の供給源が、複数ある場合、供給源同士が、自分のところが生成した機能を、他のところよりたくさん流布させようとして、競争するようになる。機能生成者のシェア拡大競争は、詰まるところ、生物として、自分の生成した分身(自分自身のコピー)を、最大限に流布させたい(広めたい)とする、生物学的な欲求に基づいている、と言える。この、自分の生成した機能を、より広く、多く広めたいとする生物学的欲求こそが、結果的に、社会全体に十分な機能を供給する原動力となる。

競争は、1a)他と同一の機能を、他よりも低い価格で提供しようとする場合と、1b)他よりも高い環境適応水準をもたらす機能を、他と同一価格で提供しようとする場合、2)他よりも豊富な種類の周辺(付加)機能を提供しようとする場合とが、組み合わさって起こる。

機能競争においては、常に他の供給源と比較して高い機能のものを、コスト(機能を買う貨幣相応の)パフォーマンス良く出さないといけない。
こうした競争は、結果として、機能過剰(オーバースペック)を招きやすい。


(c)1998-2005 大塚いわお


421 役割と機能


役割とは何か?個人が果たすところの、予め分割された、部分的な機能を生成する、活動の束()である。

機能生成遂行活動の、個人毎の分類・分割がなぜ起こるか?一人で担当できる、生成する機能の質・量に限界がある。そこで、各人で機能群を分担して生成する。機能群の分割(細分化)により、それぞれ異なる機能が、互いに関連し合って、ひとまとまりのネットワーク(機能ネットワーク)を形成する。

個人が役割を果たすとは、こうして形成された、機能のネットワークの一部分の生成・維持を、当の個人が担当することである。

役割がいかに生じるか?各人で機能群の生成を分担する際に、同じ(似た)種類の機能を束ねて、同一人物に担当させた方が、学習の能率が上がり、環境適応水準がより上がる。これは、役割分化(専門化)として、捉えられる。

個人の機能生成活動内容を、役割として捉えるとき、視点が、全体社会~組織にあり、その中での位置づけに重点がおかれる。全体の中に組み込まれた部分社会の自立性・自足性をいかに確保するか?自分の生成したい機能の種類について、複数の選択肢を用意してそこから決めることができるようにする、種類選択の自由を持たせる。



●個人が担当する役割の変化

社会における、各人が遂行するところの役割分化は、各人が生成する機能の細分化・専門化によりもたらされる。
機能が細分化された状態では、自分が、どの種類の機能生成を遂行するか(どの役割を担うか)について、いろいろ変化する可能性がある。

自分が今は就いていない機能生成の仕事についても、以下にあげる理由によって、将来就く可能性がある。
1)
他者が生成している機能の供給不足が将来どのように起こるか予測できない(分からない)から。

2)今生成している機能の種類が、将来的に有効でなくなってしまい(その役割が、社会的に不要になる)、別の新たな種類の機能を生成する(環境適応に有効な役割を遂行する)必要が出てくるから。

1)の場合、ある機能生成を行う業務にすでに就いている誰かが、災害などに会って、機能生成の質量両面で不全状態に陥ったとき、その当人の立場を代行して、誰か他者が、機能充足を助けることになる。人間は、いつでも誰か他者が現在行っている機能生成行為の代行が可能なように、本来就くべき役割以外にも、機能生成能力をみがいておく必要がある。こうしたことは、各人による安定した機能提供(と交換)が、社会全体に対して行なわれる上で意味の十分あることである。

2)の場合は、各人が、周囲を取り巻く環境の変転に出会って、生成する機能の種類を適宜変更しつつ、いつも(恒常的に)十分な機能生成・配布への対価を得て、生きていくために必要な機能を十分手に入れ続けるることができるようにするために、意味がある。


(c)1998-2005 大塚いわお


431 社会生成と機能


なぜ社会が出来るか?ドライな機能主義の視点からは、個人は自分の命をより守りやすくするために、互いに助け合い、協力しあうことを目的として社会を作る、すなわち、個人は、自らの環境適応水準向上のために、他者と互いに自らの生成した機能を交換し合うことを目的として社会を作る、ということになる。社会全体を、個人の機能充足(機能の生成、交換、消費)の連鎖として捉える。社会形成・協働は、個々人の環境適応度を上げるために行われる。その点では、個人に内在する環境適応水準向上圧力(EALIP)が、個人に対して、社会を作るように、促している、と言える。

R.K.Mertonの提唱した、「正機能と逆機能」の概念を、ドライに捉えなおすと、正機能は、各人の生命維持に役立つもの、逆機能は、各人の生命維持を脅かすものであり、全体社会の維持とは直接関係ない。個人は、当人の環境適応に役立つ限りにおいて、社会と付き合う。

個人は、その属する社会が自分の環境適応に資さない(機能不全を起こしている、自分の欲しい機能が手に入らなかったり、手に入れるのに障害がある)場合は、いつでも脱退してその社会との連関を断ち切るか、社会に自ら変革の手を加えることで、より環境適応に適した新たな社会を作り直す(か別の社会に入りなおす)ことができる。

ある社会が自分にとって機能的でない(環境適応に役立たない)とき、個人はその社会から脱退する自由がある。その点、従来の社会学的機能主義(社会システム論)は、成員の脱退を考えていない(いつでも丸抱え的に全体社会として捉える)

機能は、社会維持のためにあるのではない。社会は、それ自身を維持していくために、存在するものではない。個人の環境適応のためにある。個人にとって、生物として日々変転する環境の中を生き延びることが最も重要である。

環境の変化に対応するためなら、既存の環境適応に役立たなくなった社会システムをいったん中止にして、新たなシステムを作り出してもかまわない。社会システムを中止/再生成するのは個々人の主体性に基づく。

要は、社会は、あくまで各個人が環境適応するために開発した共有ツール、道具に過ぎない。個人が主人であり、社会は従者なのである。



●個人と社会との関係

従来のウェットな社会学的機能主義では、機能は、社会システム・組織の維持に役立つものとして捉えられる。その点、全体社会に焦点が当たり、個人は最初から社会に従属するもの(歯車)として捉えられる。個人は社会の一部であるとする見かたによって、社会を構成する個人個人の姿が、「社会全体」の中に溶解して見えなくなってしまう事態が起きる。

これを避けるため、ドライな機能主義では、社会システムではなく、個人に焦点を当てる(機能主義にミクロな視点を提供する)。個人の環境適応に役立つ限りにおいて、社会・組織が必要というように見る。人間は自分自身の環境適応に必要な限りにおいて、社会・集団参加を行うとする。



●ホッブズ問題

従来の社会学においては、T.Parsonsが提起したように、政治国家が生成される以前の自然状態を、Hobbesの説に見られるような、万人の万人に対する戦争状態であるとみなし、どのようにしたら、個人間の闘争を止めさせ、社会システムの安定的秩序を作りだせるか、という問題が、解決すべきものとして、存在した。

T.Parsonsは、上記の問題について、

(1)人々に共通する価値体系を、各人のパーソナリティに内面化させる
(2)
その価値体系を、社会システムの中に、制度化させる

ことを、解決の方法と見なした。

ドライな機能主義の見方では、これとは、違う方法を問題の解決方法とみなす。すなわち、

(1)個人の間に存在する差異、特徴、個性の存在を、各人に認識させる
(2)
異なる個性に基づき、互いが異なる(自分の特徴・個性をよりよく発揮させる)機能を生成し、交換し合うようにする

この時点で、個人間に機能を巡っての相互依存関係が生まれ、闘争はなくなる、と考えられる。


●全体社会と個別社会

各人が、それぞれ独自に遂行している諸機能を、断片として捉え、それぞれの機能同士を、各々互いに相補的に当てはまる部分・箇所毎にくっ付け合わせたパズルの全体・合計が、「全体社会」である。

人々が個別に属するところの社会と、「全体社会と」は、同じではない。互いに切り離されて交流のない2つの社会があったとして、全体社会は、この2つを両方含んで捉えるものである。これに対して、人々が個別に属するところの社会(1人の人間が見渡すことのできる社会像)とは、人々にとって、自分との間に、機能の生成・交換・消費の面で交流のある他者の集まり(集合体)である。一方の社会の構成員にとって、交流(つきあい)のない、他方の社会は、「全体社会」の中には含まれるが、「個別社会」の中には、含まれない。

11人の人間には、全体社会を見渡す力がない。人間は、何らかの形で、相互交流のある相手しか、ひとまとまりの社会として認識できない。この場合、各人にとっては、「個別社会」が、「全体社会」と同じ意味合いを持つ。



●組織統合と環境適応

組織の統合を行うことは、以下の理由で、環境適応的である。
1)
機能生成上必要な、取るべきコンタクトの数を減らせる
2)
機能生成の重複をなくす 同じ機能生成が別々のところでバラバラに遂行されることをなくす バラバラに遂行するより、一定の統率下で遂行した方がより環境適応的になる

一方、以下の点で、環境への不適応をもたらす。
1)
統合した当の組織が壊滅してしまうと、他に代替の機能を果たす組織が存在しなくなってしまう。



●国家と機能制御

国家は、機能の生成・交換・消費のあり方を、人々の環境適応水準がより向上するように、ないし、良好な状態で維持されるように(機能の生成・交換・消費の最適化が行われるように)、監視し、制御する仕組みである。この点、国家は、人々の環境適応水準を高い状態で固定するために必要な、社会規範を管理する役割を担っている、と言える。最適化を行う際の指揮系統を一元化するために、国家は、一つしか存在しない。



●社会崩壊

社会の崩壊とは、今まで有効に働いていた機能の生成・交換・消費のつながりが断たれて、各人が、一人一人バラバラな状態になって、孤立無援の状態に陥ることである。すなわち、各人が、自分一人の力だけで、環境適応に必要な、最低限の機能を生成しなければならない状態のことである。社会の崩壊状態は、後進的な社会ほど起こりやすいが、先進的な社会でも、震災などで、部分的・一時的に見られることがある。


(c)1998-2005 大塚いわお


432 社会構造と機能


人間は、環境適応状態(環境適応水準が一定以上を保った状態)がずっと続いて、生活の安定がもたらされることを望む(例えば、自分の現在ついている職が引き続いて安定することを望むなど)。

各自が流通させる機能の有効性(有効水準)および機能間連関(相互交換関係など)の安定を指向することが、社会構造の生成につながる。

以上のような観点から、社会構造は、個人中心のドライな機能主義の観点からは、人と人との間の機能生成・交換・消費関係のうちの変化しにくい安定化した部分を指す、と捉えることができる。


●社会構造の変動

社会構造は、現在環境適応的(正機能的)でも、将来にわたって正機能的に働き続ける保証はない。新たな環境への適応のため、連関を再編成する必要があることが、構造変動につながる。現在環境適応的と考えられている機能が永久に環境適応的である保証はない。

例えば、ガソリン自動車の機能と石油枯渇との関係を考えればよい。現在、ガソリン自動車は地理的移動のための主要な手段として有効に用いられているが、石油が枯渇してしまえば、使用することができなくなり、ただの無効なスクラップと化してしまう。そのことが、更なる環境適応を保証する新機能発明・発見の必要性(例えば、原子力で動く自動車の開発)のもととなる。

こうした、よりよい環境適応をもたらす機能の発見に向けてのブレークスルーが、結果的には、既存の環境適応に関する価値観のみで固められた、既存の社会構造を壊し、新たな構造の生成に結びつく(例えば、石油消費社会の構造がこわれて、原子力社会が新たに生成するなど)ことになる。


●機能の最適化と社会構造の上下分化

各人が生成・交換・消費しあう機能は環境適応にとって最適化される必要がある。そのためには、生成・交換・消費の当事者以外に、上部からそれら生成・交換・消費の状況を監視し、制御するという機能を持つ者が新たに必要となってくる。

人々は、機能生成・交換・消費の当事者と、機能流通状態の監視・制御者の2通りに次第に分化し、それ自体安定した構造(上部制御構造 vs 下部流通構造)を作る。

説明: 社会構造の上下分化

各種の機能流通をうまく行く(最適化される)ようにすること自体が一つの重要な機能として成り立つ。

上部制御構造は、下部流通構造の、環境適応水準がもっと上がるように、機能流通の最適化調整を行う。下部流通構造は、調整に対する結果をフィードバックして、よりよい調整が行われるように協力を行う。

社会のあり方は、上部制御構造が強い場合は、管理(社会)主義的、下部流通構造が強い場合は、自由主義的となると考えられる。

既存の上部制御構造が、機能流通の最適化に失敗した(失政状態になった)ときは、下部流通構造はその上部制御構造への委託を中止して、改めて新しい人員を再委託して送ることになる。

機能生成・交換の最適化は、下部流通構造自体でもある程度可能であるが、上部制御構造が社会全体をその最適化のターゲットとするのに対して、下部流通構造は、自分たちに関係のある局所的な最適化にとどまることが多いと考えられる。ただし、最適化が局所的にとどまる場合でも、最適化の範囲が互いに一部分ずつ重なりあいながら次々と連鎖することにより、最終的には、上部制御構造を持ち出さなくても社会全体が最適化されることも不可能ではない、とも考えられる。

上部制御構造と下部流通構造との地位関係は、

(1)上部制御構造の方が高く、下部流通構造の方が低い(下部は上部の支配を受ける)。例えば、日本において、政府が「お上」(自分たちより上の立場にいる人たち)と呼ばれるのも、このことと関係があるといえる。

同じ上部制御構造内部での地位分化は、以下のようになる。

(2A)機能統括する質・量が多いと高く、少ないと低い。言い換えれば、権限や予算の多いところほど高く、そうでないところは低くなる。

(2B)機能が抽象的なほど、中枢近くにいることになり、高く、具体的なほど、現場近くにいることになり、低くなる。例えば、日本政府で、業務内容がより大まかで抽象的な本省の局長は、業務内容がより具体的で細かな地方出先機関の課長よりも、より中枢にいることになり、地位が高い。


(c)1998-2005 大塚いわお


433 社会変動と機能-ドライな機能主義の視点から-


ドライな機能主義においては、社会変動とは、人々がよりよい環境適応水準の向上を目指して、現在存在する、そのままでは不十分な環境適応水準しか提供しない、社会の仕組みを打破して、より新たな満足できる水準の環境適応状態を得られる社会の仕組みを作ろうとするために起きる、社会の動的変化を表す。


●社会的均衡

社会的均衡は、集団や全体社会を構成する諸要素が、静止または安定状態にあることを指す。それは、機能同士の交換関係の一定化・安定化(分業関係の一時的安定)、各人の機能の出し入れが一定化すること、構造の生成、といった形で現れる。

社会的均衡は、生物学における、ホメオスタシスの考え方に基づく。ホメオスタシスとは、生物の生理的条件、例えば人間の体温や血液の状態が、身体を取り巻く条件の変化がたとえ起きたとしても、一定の標準状態を保つことを指している。これを、ドライな機能主義の考え方に応用すると、社会的なホメオスタシス(社会的均衡)は、人々の環境適応水準が、許容範囲以上に収まった状態が続くことを指す。

人々は、自分自身のの環境適応状態を、一応満足できる、快適な状態で留め置く、ないし、安定させようとする。環境適応水準が、そこから落ちた場合は、元のよりよい、人々が許容する範囲内の適応水準に戻そうとする。これが、社会的均衡のメカニズムと考えられる。



●均衡内変動と均衡外変動

生体のホメオスタシスにおいては、例えば、体温を一定に調整しようとする働きのように、一定の範囲内の変動を繰り返しながら、元のより環境適応的な状態に戻ろうとする。社会においても、法律が社会の中で連続して運用されながら、改訂を繰り返す経過のように、一定の変動許容範囲内で、変動を繰り返す動きが見られる。これは、社会的均衡が、それ自身の中に、(一定範囲内の)社会変動を内包していることを示すものである。社会変動と、社会的均衡とは、互いに相いれない概念では、決してない。

足を支えるだけで、釣り合いが取れる玩具である、「やじろべえ」(釣り合い人形、balancing toy)においては、その体や腕を揺すったときの上下左右方向への振れ(変動)が、一定以内なら、元の均衡状態に戻るが、変動が一定以上だと、ひっくり返ってしまう(均衡が崩れる)

この玩具の原理を、社会的均衡および社会変動に当てはめて考えると、以下のようになる。一定以内の幅で、行ったり来たりの変動を繰り返すとき、これは、長い目で見れば、均衡状態を中心とした、均衡状態に戻ることが可能な社会変動であり、「均衡内変動」とでも呼べる。一方、変動が一定以上で、以前の均衡状態に戻ることが不可能な、言い換えれば、均衡が崩れる、根本的な大変動が存在し、これは、「均衡外変動」とでも呼ぶことができる。


●社会変動の諸類型とその発生原因

人々は、その環境適応の度合いが、低過ぎて、とても満足できない状態にあるとき、この状態を打破して、少しでも、高い、生き延びやすい、環境適応の度合いを得ようとする。この状態では、人々は、低水準の生活しかもたらさない均衡状態を積極的に破って、より高い水準の生活を手に入れようとして、その過程で、社会変動が起こる。

ただし、現在の均衡状態が打破されるのは、人々の環境適応水準が低い場合のみとは、必ずしも言えない。絶えず、今よりも環境適応水準をより向上させて、より快適な生活がしたいという欲求は、多くの人々が持っているものであり、そうした、環境適応水準向上へのあくなく欲求・圧力(環境適応水準向上圧力=EALIP)が、現在の、一通り快適なはずの、均衡状態を破棄して、よりよい水準の生活を目指そうとする人々の動き(社会変動)の原動力となる。環境適応水準の向上(より生き延びやすい生活水準の実現)こそが、生態学的には望ましいとされる状態であり、その実現のためには、社会的均衡は、それがある程度、快適な生活を約束するものであっても、よりよい環境適応にとって不足と感じられれば、破棄されて構わない。

例えば、企業間の機能開発競争(例えば、携帯電話の機能向上競争)が激しく、環境適応水準向上への動機が限りない場合、現在がたとえ環境適応状態にあっても、引き続き、今までにない高いレベルの環境適応水準(例えば、携帯電話の高速データ通信対応など)を求めて、社会変動が続き、社会的均衡状態は訪れない。この場合、高い水準に一度上がると、従来、十分環境適応的と考えられてきた仕組みが、不便でたまらない、と感じたりする。このとき、環境適応の度合い(水準)自体を評価する水準の底上げが起きている、といえる。

要するに、社会変動には、もともとの環境適応水準が低過ぎるために起きる「水準不足型」と、十分な環境適応水準が存在するにもかかわらず起きる「水準十分型」との2通りがあることが分かる。

ここまで述べて来た、各種の変動は、変動の原因に関する視点を、一つの社会の中に限定させて捉えたものであり、「単独型」変動と呼べる。

これらとは別に、他の社会の人々と、生活水準のような環境適応の度合いを示す値に、格差がある(他の社会の人々の方が、ずっと高い環境適応水準で生活できている)ことに気づいたときは、自分たちもよりよい環境適応水準(水準の向上)を求めて、現状の均衡ないし停滞状態を抜け出そう(壊そう)とする。こうした(自分の属する社会と、周囲の他の社会との)社会的比較が、社会変動に結びつく。

このタイプの変動は、他の社会との比較が原因でおきるので、「比較型」変動と呼べる。

いずれの社会変動も、人々が、自分たちの環境適応水準を向上させようとして起こる点では共通しており、環境適応水準向上圧力(EALIP)が、根底において働いている、とみなすことができる。

しかし、動機として、上方向を目指していても、結果としては、必ずしも、環境適応水準を上げる方向に変動するとは限らず、逆に、環境適応水準を、今までよりも低下させる方向に変動することもある。

例えば、ある国が、領土拡張の戦争に負けた場合、かえって、相手国に、自国の領土を奪われて、生活範囲を狭められ、結果として、環境適応水準が、低下する。この場合、動機としては、自国の領土を拡張して、生活範囲を拡げる形で、環境適応水準を向上させようとしていたのであり、結果は、動機(=上昇)と相反するもの(=低下)となっている。

あるいは、独裁政権の圧政に苦しむ人々が、圧政からの解放を求めて、革命を起こしたところ、革命勢力が、利害の対立から、分裂して、互いに内戦状態に突入し、戦争による混乱から、かえって、生活が苦しくなる、ということが起こる。この場合も、圧政からの解放という形での環境適応水準向上を求めた動機とは逆に、内戦が原因となった社会混乱による環境適応水準の低下という結果を招いている。

したがって、社会変動は、環境適応水準を上昇させようとする圧力に基づくものとして捉えられるものの、変動結果としては、環境適応水準の上昇をもたらす、「水準上昇型」と、逆に、環境適応水準の低下をもたらす、「水準低下型」とに、分かれる、ともいえる。

社会変動は、さらに、景気変動のように、環境適応水準の上昇・低下の波が、交互にやってくる「循環的」なものと、社会の近代化・(逆に)地球温暖化に見られるように、環境適応水準が、一方的に上昇・低下していくような、「一方向的」なものとに分かれる。



●保守指向と革新指向

現実の社会においては、快適な現状を維持しようとする「保守指向」と、そこそこ快適ではあるが停滞した現状を打破して、新たな変化(環境適応水準の一層の上昇)を求めようとする「革新指向」との、絶え間ない攻防が存在すると見られる。

人々は、その環境適応の度合いが、満足できる水準にあれば、その状態が安定して続くことを望む、と考えられる(均衡状態の維持を指向する)。環境適応の水準が、一応、人々の許容範囲内にあれば、多少の不満はあっても、その状態が続くことに、あからさまに反対はしないで、現状を追認する。社会において均衡を維持しようとするのは、自分の今いる社会の現状に、ある程度満足している、一人一人の人間である。これが、「保守指向」の源である。

一方、人間には、ある均衡状態が長く続くと、たとえそれがある程度快適であっても、その状態に心理的な飽きが来て、変化を求める傾向がある。あるいは、人間に内蔵された飽くなき向上心(これは、環境適応水準向上圧力=EALIPに基づくもの)が、たえず均衡した現状を打破して、より上のレベルの生活を目指させる。こうした、心理的飽和や環境適応水準向上圧力=EALIPが、「革新指向」の源となる。

人間社会においては、大別して、既に環境適応状態にある人と、そうでない人とがいる。
保守的な人々は、既に環境適応している現状をそのまま維持したい人々であり、一方、革新的な人々は、現状では、環境適応水準が低過ぎるなど満足いく水準に達していなくて、不満な人々である。

企業において、経営者側が保守政党を支持し、労働者側が革新政党を支持するのも、両者の間に、環境適応水準面(生き長らえるのに必要な機能を手に入れることの容易さ)での格差があるためと考えられる(経営者側の方が恵まれている)

保守的な人々は、社会変動によって、革新的な他者の環境水準が上がると、自分の環境適応水準が相対的に落ちるため、それを嫌って防ごうとする。それが、復古、反革命運動につながる。

社会・組織の存続(保守)が求められるのは、人々が、
1.
すでに慣れた、ある程度快適な状態の維持を望む。
2.
既存の社会・組織から放り出されることによって起こる、自分を取り巻く環境の新たな変化に適応できるか、不安である。
場合である。



●従来の社会システム論との相違点

T.Parsonsの社会システム論では、社会システムにおいては、社会統制と社会化が、現状維持を生み出すメカニズムであるとする。社会統制は、現状の社会の状態が守られるように、守らない者に対して制裁を加えるなどすることと捉えられ、社会化は、現在の社会の状態を、幼い~若い次世代に、教育によって、そのまま受け継がせることと捉えられる。いずれも、強制力によって、現在の状態を持続させようとするものであり、人間の持つ、自主性、自発性は、無視されている。

ドライな機能主義では、これとは異なり、社会を構成する人々が、満足する環境適応水準を、その社会の中で生きている際に、得ていることが、その社会の仕組みの現状維持を生み出す(人々は、誰かに強制されることなく、自発的に、現状維持を選ぶ)と考える。

次に、従来の社会システム論が、社会変動を説明できないとされる理由は、
(1)T.Parsons
の社会システムモデルは、システムの統合・安定を重視した「均衡モデル」であるため、変動は、異常なもの、病理的なものとして扱われる。
(2)T.Parsons
によれば、社会変動とは、社会システムそのものの変動とは区別される、システム内部の変動であるとされ、均衡から再均衡に至る一定方向の過程として想定されており、その均衡のかく乱要因、すなわち、変動の要因は、逸脱行動として考えられる。変動要因である逸脱行動もたえず社会統制のメカニズムが働くことによって、やがては解消され、ふたたび均衡に向かう、と説明される。こうした変動論では、変動の予測や変動の源泉、さらには、社会そのものの変動の説明は不可能とされる。
といったものである。

ドライな機能主義においては、環境適応が第一で、その過程で、社会均衡(釣り合い)とその破棄との両方が起こるという順序で捉える。
従来の社会システム論のように、均衡維持は必ずしも優先されない。銀行のオンラインシステム更新やオフィスのパソコンの新機種交換のように、均衡が保たれている(システムをわざわざ新たにいじらなくても、一通りの環境適応に十分な水準に達している)にもかかわらず、よりよい環境適応水準(競争力の向上など)を目指すために、積極的に、その均衡を廃することが行われる。

ドライな機能主義の見方では、従来のT.Parsonsらの社会学的機能主義とは異なり、均衡維持が、社会の最終目的ではない。社会に属する個々人が環境に適応し、生き延びることが、最終目的である。個々人のよりよい環境適応を助けない均衡状態は、廃する必要がある。


[社会変動の分析例]日本の明治維新

日本の歴史における、「明治維新」は、薩長土肥の雄藩が、従来の200年以上にわたって続いてきた江戸幕府体制を倒し、明治新政府による中央集権体制を新たに樹立した、という点で、従来の社会体制を根本から覆した、均衡外変動であると言える。

明治維新の原因は、

(1)

環境適応水準低下の抑制

そのまま日本社会を放置しておくと、欧米列強の属国・植民地化して、搾取の対象となり、低い生活レベル=環境適応水準しか得られなくなる。そこで、一刻も早く手を打って、植民地化を回避する必要がある。

(2)

環境適応水準向上の効率化

欧米列強の文化・行動様式は、今までの日本文化に比べてより進歩しており、受け入れれば、より高い環境適応水準(生活レベル)をもたらす。そこで、一刻も早く、より欧米文化を効率よく受け入れる体制を作る(「文明開化」を実現させる)必要がある。

といったように、当時の日本社会変革を担った指導者たちの心の中に内在する、環境適応水準向上圧力(EALIP)がもらたしたものと見ることができる。



●全体的均衡と局所的均衡

社会の均衡については、社会全体が均衡する(部分が全体に従属)のではなく、局所的均衡の連鎖(各部分、例えば地域~通信コミュニティが自律的に均衡する)として捉える見方が可能である。

各個人は、社会システム全体のために機能するのではない(結果的に全体社会に寄与するにしても、個人はそこまで目を配ろうとしない・配る能力がない=各々の情報処理能力、体力etc..の限界による)。個人は自分が関わることができる(担当できる)範囲内をカバーするのみであって、各個人は自分が利用できる範囲で互いに局所的なシステムを利用する。そこで働いているのは、「局所的機能」とでも呼ぶべきものである。

例えば、日本の中央官庁においては、その行政が縦割り的であり、組織内部では、「局あって省なし」とされるが、これは、組織内の各自が見える範囲が限られているために起きる現象だと考えられる。そういう意味で、局所的均衡は、ピラミッド型組織(官僚制)にも当てはまる概念だと言える。

要するに、人間にとって、一度に社会全体を見渡すのは不可能であり、その都度局所的な判断の積み重ねのほうがうまくいく、ということになる。



●社会の近代化(改革、自己組織化)

社会の近代化は、よりよい環境適応を行う、すなわち、環境変動に対して、対応する機能の提供がより高い水準に安定している生活を送れるようにするために、社会を構成する人間同士が力を出し合って、今までにないレベルの機能を作り出していく過程を指す。

改革は、社会を構成する各人の環境適応度を上げるために、規範・コミュニケーション・ネットワークなどの様々な既存の社会関係を変更し(革命と異なり、全面的に破壊するのではない)、新しいレベルへの再構成を試みる(均衡の範囲内で変動を起こす、均衡内変動を起こす)ものとして捉えられる。同様に革命は、人々が機能不全を起こした(構成員にとって必要な機能が手に入らない)社会を一からやり直し(均衡を完全に破壊する均衡外変動を起こす)、新たな機能充足状態を作りだそうとする試みとして捉えられる。

自己組織化とは、個人の視点から見ると、一人一人が環境適応のレベルを上げるため自発的に、各自の機能を新しく発明・改良したり、機能交換をよりスムーズすることにより、機能生産・交換のレベルを上げること、と言える。



●発明・発見と社会変動

新機能の発見、発明は、偶然性を伴う(人為的には統制できない)。遺伝子の突然変異に相当する。
全てを人為的に統制しようとした社会主義計画経済の破綻と関連がある。
新機能の発見、発明は、環境適応性向上の原動力となる。あるいは、均衡済社会の均衡を廃する。



●社会的均衡の、その他の定義

社会的均衡の定義は、ホメオスタシス以外の見地からは、

1.分業している社会の成員同士が(その働きに応じて)満足できる環境適応状態にあること さまざまな機能が十分(最も)有効に働き、各人の生存が十分(最も)保証されている状態
2.
分業している各成員が提供する機能が社会ネットワークのすみずみの成員まで行き渡るようになった状態
3.
社会的分業の部分部分を構成する機能同士のバランスが取れている状態 日本 工業国 工>農 国内的にはアンバランス 国際的にはバランス関係の中にあるか
4.
機能の入出力に釣り合いができている(一方が他方に一方的に利益を持っていかれることがない)状態

といったように捉えられる。


(c)1998-2005 大塚いわお


511 社会規範(秩序、法律)と機能



規範(法律)は、根底に根本的な価値(環境適応、機能の有効性の確保)を反映したものである。機能を十分に働かせるため、逆機能(Merton)を防止するため、必要とされる。

なぜ、秩序や規範が生み出されるか?

(1)人々の行動を、(環境適応のための)機能が最大限に働く状態で、固定化する。皆が高い機能を生み出す行動を取るように、あるいは、環境適応水準を下げる行動を互いに避けるように、人々の行動を揃える。そうすることで、より環境適応しやすくなる(生命を維持しやすくなる)

規範は、人々が機能を充足する生活をするために必要である。環境適応水準の向上・安定のために、規範は作られる。守れば、高い水準での環境適応が保証される。規範は、多人数の間での、環境適応をよりよく遂行するための、(機能生成~消費)行動調整のため必要となる。

(2)皆が一斉に一定範囲内の動きをする(信号待ちなど)。皆の動きを揃える、整える。人と人とのインタフェース上の凹凸はめこみを可能にすることで、機能の生成~消費を、より効果的なものとする。

例えば、工場での組み立てや食堂での給食は、時間が一斉の方が能率が上がる(安上がりである)。無効となる機能消費量を減らせる。

秩序・規範は、環境適応に役立つか否か絶えず吟味され、無効~有害と分かれば、初期化・再構築の途を歩む必要がある。

規範(法律)は、環境変動によっては、その正機能さを失うことがある。
規範には、一部の人にとっては正機能的だが、他の大多数の人々にとっては、その環境適応にとって障害となるもの(いわゆる悪法)も含まれる。この場合、環境適応水準を回復しようとして、人々は、この規範を廃する方向へと動く。こうした環境適応の水準を回復・上昇させようとする動機が、社会変動に結びつく。


(c)1998-2005 大塚いわお


512 機能主義と法律


2009.11 大塚いわお

■機能主義的立法、遵法


違法だから悪いのではなく、逆機能だから悪いのだと考える。
違法だから悪いという考え方では、独裁者(ヒトラーとか)や独裁集団(日本の中央官庁)の決めたことは、皆正しいということになってしまう。

自らの生存や生活を脅かす、生存、生活に良くない影響、逆効果を与えるから悪いのだと考える。

法律とか信号機とかもも、お上が言うことだから、法律で決められているから守るのではなく、客観的に見て自分たちのより良い生存に役立つ、生活しやすくなるから守るのである。

これは、機能主義的立法、遵法と呼べる。

どのような法律も、客観的に見て、人々の生存に役立つ内容であること、人々の生活にとって有害なことを禁止する内容になっていることを、きちんと立証される必要がある。

こうした考え方は、お上、支配者、権威者による恣意的支配を否定するものであり、機能主義の反権威主義的側面を立証するものである。


513 権力と機能


権力 powerとは、環境適応的機能主義の見地からは、
1.
他人に対して、自分の欲する、ないし、自分の環境適応水準を高めさせるのに必要な機能の提供を他者に強制できること。

2.自分の欲しい機能を、他者に先駆けて優先的に受け取ることができること。

3.自分の生成した機能を、その水準・内容にかかわらず、他者へと強制的に広められること(官庁が、自分のところで作成した、出来損ないの法令を、強制的に国民に守らせるなど)

4.機能の消費だけを行い、生成を行わなくてよい(サービスを行う義務のある顧客「お客様」を持たなくても、生活していける)
5.
他者に、彼の環境適応には不必要なはずの社会参加を、強制できること(胃弱者を、「みんな出席するのだから」と、無理やり宴会に連れていくなど)
といったことを指す、といえる。

●機能(生産の源泉)の所持と権力

生存に不可欠な基本的機能(水、食料、土地、電気..)を握る者ほど、社会的地位が高い。どうでもいい機能(タレントなど)をになう者は地位が低い。
基本的機能(水、道路、電力..)を押さえた(監督などの役務を持つ)者がより強い権力を握れる。基本的機能の生成~消費を管理する公務員は、権力者・奉仕者の相反する2側面を持つ。

より抽象的な機能を生成する立場につく者ほど、社会的地位が高い。生成する機能が抽象的なほど、それを支える裾野となる土台の役割を果たす機能の分布が広い。より抽象的な機能生成者は、それより以下に位置する機能の生成のあり方を、管理・制御する。そうした、管理者的な色彩のより強い、上部制御構造(官庁)の方が、下部流通構造(民間企業)よりも大きい権力を持つ。



(c)1998-2006
大塚いわお


514 戦争と機能


戦争は、環境適応的機能主義の立場からは、以下の理由で起きる、と考えられる。

1.[属国型]他国(社会)の持つ機能(人材や天然資源など)を有益とみなし自国へ組み込む
2.[
壊滅型]他国の人々を自分の環境適応にとって有害(逆機能)と見なし壊滅させる 害虫防除 ユダヤ人迫害
3.[
救助型]他国の人々の中に巣くう逆機能部分(有害な支配者など)を除去する(有害な支配層を壊滅させる)ことで、他国の人々を救う



(c)1998-2005
大塚いわお


521 文化と機能


文化とは、人間~生物の、後天的に獲得した、機能生成・交換・消費に関わる行動様式のことを指すと考えられる。文化は、(1)その質量が、環境適応に十分であること、(2)その多様性が、環境の広い幅にわたる変動に対応できるほどに、大きいことが、求められる。

人間は、生成する機能の数を絞り込むことで、生成する機能の質量を向上させて来たが、場合によっては、その機能の環境適応上の有効性が失われて、生活の維持が難しくなる事態が起きることがある。そうしたことを予防するため、人毎に生成・提供する機能の多角化を、可能な範囲内で、図る必要が出てくる。複数機能を同時に提供することで、1つの機能提供で失敗しても別ので生き残ることを目的とする。人毎に異なる「機能プール」を持つことが、文化の多様性維持の源となる。

「機能プール」とは、各種機能を溜め込む容器の働きをするものであり、人間のような高度な記憶能力を持つ神経系の他、様々なソフトがインストールされるパソコンも、ソフトウェアの機能を溜め込む機能プールである。

文化においても、社会生物学における包括的適応度(inclusive fitness)(W.D.Hamilton)の概念が適用可能である。包括的適応度の概念は、血縁関係のある個体同士がお互いに助け合って生存率を高めようとすることを示すものである。同じ文化(宗教、所属企業)を持つ者同士が、互いに助け合って、その環境適応水準を向上させようとする動きが、現実社会においては、頻繁に見られる。



(c)1998-2006
大塚いわお


522 教育と機能(教育分野への応用)


変転する環境の中で生き抜いて行くのに必要な機能の生成・交換能力を持たない者にその能力を付与するのが教育である。

生き延びていく上で役立つノウハウ、技術を教えるのが、教育の原点、基本である。

機能生成・交換能力の世代間伝達は、持つものから持たざるものへと教育によって行われる。
こうした世代間リレーは、遺伝・文化に基づく機能を代々伝えるものであり、そこには、遺伝子・文化リレー選手としての生物・人間の姿が見て取れる。

ライフサイクルと機能との関係は、
(1)
子供~青年時代 機能蓄積期 機能をためる時期 機能が(独り立ちするには)不足の状態 学校などでの学習で機能を身につける(学校は、機能を持たない者に対して、機能(遂行能力)のインプットが行われる場、として捉えられる)
(2)
壮年~老年時代 機能伝達期 自分の持つ機能を後世(次世代)に伝える
となる。

他者に自分の持つ環境適応的な行動様式(機能)を広める(教える)ことの利点は、
(1)
他者に自分の機能を使ってもらうことで、それに対する対価(貨幣、恩義のような心理的貸し)を手に入れる機会が増える。自分の生成する機能を売り込んで、貨幣など生活の糧となる機能を得ようとする、「営業」行為に当たる。
(2)
自分の持つ機能を広められる。自分の複製を他者に移すことができる。自己の「ミーム」の広がりに役立つ(Dawkinsの利己的遺伝子論)。自分オリジナルの考えが広まることは、自分自身のアイデンティティのもとになる行動様式・文化が、他人の頭の中で生き残ることになる。これは、自分自身の生存につながる。自己・個人のエゴイスティックな側面である。
(3)
以前他者から教えてもらった有効な機能を他の人にも広めたいと考える(以前に誰かに助けてもらったときのことを思い出し、同じことを他の人にもしてあげたいと思って)。そうすることで、周囲の人々の適応水準が高まる(個々人の適応水準の変動は、社会変動につながる)。これは、人助け・他者援助につながり、egoisticの反対である。人の役に立つことで、心理的に対価を得て、快感を得る。
(4)
機能を持たない他者より優位に立っていることを示せる。 これは、教育と、権力との関連を示唆するものである。 教えないことで相手を困らせる(環境適応できなくする)ことができる。 生徒の生殺与奪の権限を握ることができ、優越感が快い。

[機能と青少年]

機能生成・交換能力をまだ十分に身につけていない者(例えば青少年)は、自分が今持っている機能(の質・量)と、本来一人前として独立して生きていくために必要とされるであろう機能との間にギャップを感じてイライラする。 これは、反抗期につながる。

青少年の不安や葛藤の原因を、機能主義の立場から、詳しく述べると、以下のようになる。
1)
自分が今持っている機能(生成能力)と一人前として必要とされる機能(生成能力)との間の格差がどれくらいあるか分からなくて(未だに経験したことがないため)不安となる
2)
自分が今持っている機能(生成能力)と一人前として必要とされる機能(生成能力)との間のギャップがある(まだまだ未熟者である..)と周囲の大人から指摘されて、「もう自分は一人前に近いのに」という考えからフラストレーション・葛藤をためる


(c)1998-2005 大塚いわお


523 機能と科学技術(理工分野への応用)


科学とは、自分の周囲の世界がどうなっているかを、客観的な視点で知ろうとするもの。周囲世界(環境)に対してどう適応していくかについての手がかりをつかむために必須な営みといえる。

技術とは、環境に適応していくために必要なスキル。物資を、生命保持に役立つ機能を持たせたものに変える能力。

[技術水準と機能]

技術水準の高さと、機能の高さとは、比例することが多い。
より高い(環境適応により役立つ)機能を実現するには、より高い技術水準が必要となる。
ただし、中には、簡単な技術で、高い機能を実現できる例もある。
思いつくまでが大変。

技術水準の先端性と、機能の高さとは、比例する。
思いついたばかりのものは、先端にある。

技術はすぐ陳腐化する。だれでもすぐ作れるようになる。

技術移転とは、高い機能水準の社会で陳腐化した技術を、低い機能水準しかない社会に持っていき、機能の生成方法を、学習させることである。
技術向上への意欲は、より快適な暮らしを求める、より高い(自己生存への)機能水準の充足を求める人間の欲求にその源を持つ。



(c)1998-2005
大塚いわお


531 経済と機能


人間の行為は、犯罪など病理的なものを除き、普通は、何らかの形で環境へのよりよき適応を目指している。
この原則を、経済行為に当てはめて考える。
あらゆる経済行為の基盤・根本には、環境への適応行為が存在する(かかわっている)
人間は、環境に適応していくために、経済行為をする。
1.
生き延びるために必要な機能の生産・消費
2.
機能への引き換えクーポン(貨幣)の貯蓄による、将来(の環境変動に対応した)新たな機能入手に対する備え
3.
有効な機能を生み出すもの(人・組織~機械)への投資

●資本主義の不成立

機能交換において、双方の利益最大化は必ずしも行われない。互いに生存に十分な機能を手に入れることさえできれば(生存さえできれば)そこそこの生活レベルで満足する。当面の生存に十分な生活さえできれば、あえてそれ以上の利益は追い求めない。利潤最大(最高益)は、実生活では、必ずしも求められない。環境適応に必要な分が満たされれば、それで十分である。当面の生活に必要な分が確保できれば、それで十分な人々が大半であると考えられる。利益最大化を追求する資本主義が常に成り立つとは言えない。

また、人間の生活は、互恵・互酬から成り立っており、一方的に儲けるのは嫌われる。それが、対人関係における、(機能の入出力の)均衡のもととなる。このことも、利益をひたすら追い求める資本主義が常に成り立つとは限らないことの証拠となる。

上記の点を考えると、人々が、利潤の最大化を追い求めることを、前提として成り立っている近代経済学は、見直しを迫られるであろう。

要するに、経済行為には、利潤の最大化を目指すものと、利潤の適当化・適切化(利潤の獲得を、そこそこ満足できるレベルで止める)を目指すものがある、ということになる。

●製品と商品との区別

製品とは、機能の具体化したもの、機能を内包する物体・物質、と考えられる。医薬品など。
商品とは、製品のうち、他者が生成する機能と交換されることを前提としたもの、と捉えられる。

●人間が、貨幣による対価を求めるようになる理由

1)他者の環境適応の役に立つ機能を生成すると、役に立つ分、機能を消費する相手(他者)からの見返りが欲しくなるため。互いに、相手に、環境適応への貢献に見合った報酬を与え合おうとする、互酬性に基づく。
2)
機能生成自体には、生成に必要な原材料を手に入れるための費用に加えて、時間と手間がかかる。その機能生成中にのしかかる、物理的~心理的負担を、機能の消費者に代弁してもらいたいと考えるため。

●利潤の必要性

利潤は、他者の機能充足(とそれに基づく環境適応)に役立った結果、他者からもらったtokenの合計 -(マイナス) 自分が機能創出のために支払ったコストの合計である。利潤は、機能生成者自身が、機能交換で必要なものを手に入れるための元手である。利潤追求は、他者の環境適応に必要な機能を、原価とかけはなれない価格で提供するならば、やって構わない。
利潤が出ないと、他者から、自分のところで不足している機能を受け取ることができず、生きていけなくなる。

●機能需給と不況

機能需給と不況との関係を考える。不況が起きる原因は、機能生成・消費の点から考えた場合、以下の理由が考えられる。

1)機能の過剰充足 機能の消費者が、機能を十二分に消費し飽きた。機能が本格的に足りなくなるまで、あるいはより高次元の機能が出るまで、あるいは、今まで供給されていなくて、消費者が潜在的に不便を感じていた機能が新たに発見されるまで、消費が起きにくい(生産しても売れない)

2)機能交換能力の喪失 他者の生成する機能を手に入れるための引換券である貨幣を使い過ぎて、他者由来の機能を手に入れたいという欲求はあるものの、持ち合わせの貨幣が足りない。したがって、機能が、貨幣と交換されて消費されることが起きにくい。あるいは、機能生成の質・量が、消費に追いつかず、その結果、受注残を抱えている。機能の生成を優先させねばならず、消費を後回しにしなければならない。したがって、機能が消費されにくい。

●機能水準上昇とインフレ

インフレ(物価の値上がり)は、環境適応的機能主義の立場からは、環境適応のための機能充足の水準・程度が、年々アップする(より快適に、安全に、洗練されたものとなる)ために起きると考えられる。冷蔵庫を例に取ると、冷凍物が切れる、自動製氷機能の充実など。 機能水準が上がるにつれて、その水準の製品を作るための手間が、よりかかり、それがコスト高になって跳ね返る。

野菜を例に取ると、野菜をより多く、よりよい生産地から、よりよい品質のものを供給するために、機械導入、温室の利用、石油燃料の多用、運送道路網整備など、いずれも野菜という機能付き生産物の、購入者にとっての環境適応度をupするのに不可欠である。

人々が求める機能水準が(苛酷な自然環境への露出から、よりよく守られたい、という思いから)絶えず上昇する そのための(適応水準をあげるための)コストとして機能を生産するのにかかる原価が高くなっていく。これが、物価上昇に結びつく。

●機能水準上昇と値下げ

普通は、ある物資の持つ機能水準が上昇すると、それにつれて、その物資の価格(他機能との交換レート)が上がる。

機能水準が向上したのに、価格が下がる現象がある。
価格当たりの機能上昇 半導体メモリの価格 容量アップしたのに価格が下がる
機能の生産コストを低下させる(コストダウン)技術水準の向上 単位時間当たり生産量の増加、生産方法の洗練
自分たちの社会の貨幣価値の上昇により、よその社会の、より単価の安い労働力を使って生産したから。

コストダウンの原因は、
(1)
単純ないし枯れた技術(low technic)を使う。機能生成に特別な能力・訓練が必要ない。
(2)
技術水準の向上(と、現行技術に関してのコストの相対的低下)に伴い、単純労働で、高い機能を生み出せるようになった。
(3)
生産方法の簡略化(技術が生み出された初期は、複雑だったのが、洗練の過程で、単純になった)
といったことによる。

●貨幣価値の格差

異なる社会の間での、貨幣価値の格差がなぜ生じるか?低機能(環境適応に不十分)しか生み出せない社会の通貨価値は低い。高い機能(環境適応に十分通用する)を生み出せる社会の通貨価値は高い。

●人口と機能供給・消費

同一の環境適応水準の社会内部では、人口が多いほど、機能供給・消費総量は増える。
高い能力を持った者と、低能者がいる。
発展途上国は、人口が多いにもかかわらず、有効な機能供給量が少ない。そのため、対価が足りず、十分な機能消費水準を保てない。

●企業経営と環境適応

個人同士が、より効率的に機能を提供できる様に、集団を形成したものが、企業である。
より効果的な機能生成を目指し、そのために、あらゆる手段を取ろうとする。
機能生成のためのコストを抑える。
ある程度プライバシーを犠牲にして、互いの(機能生成活動に必要な)連絡・コミュニケーションがより密に取れるようにする。

企業は、その組織維持が目標となるべきではない。
社会への有効な機能提供が第一目的である。
周囲の人々が望む種類・規模・水準の機能提供ができない企業は、消えて/消して構わない。

企業は、「金儲け(利潤追求)」それ自体が目的となっては、ならない。企業が生成する機能を必要とする人々の「人助け」が、第一目的となるべきである。

企業における顧客とは、その企業が提供する機能を必要とする人であり、人助けが必要で、困っている状態にある。企業にいる人々は、それらの顧客に、機能を提供して、「助けてあげる」ことが、その存在意義の根幹にある。
企業の人々は、顧客を助けた見返りに、顧客からの対価をもらうのであるが、その際、対価をもらうこと自体が目的となってはならない。あくまで、「顧客の助けになった、有効な力になれた」ことの証としてもらうべきである。あるいは、顧客が、得られた機能に満足して笑顔を見せたとき、初めて、顧客から対価をもらう資格ができた、と考えるべきである。「お客様の笑顔を大切にします」という経営理念の企業が、もっと増えなくてはいけない。

これを、顧客一個人から、社会へと、より視点を広げて考えた場合、社会への提供機能の(少ないコストでの)最大化・最高化を目指すのに都合がよいからこそ、組織を作って、効率的に機能生成を行おうとするのが、本来の企業のあり方である。社会への貢献度の向上を伴わない、「お客様の笑顔」を伴わない、利潤の追求は、間違っている。

●資本主義から機能主義への移行、資本主義と機能主義の両立

社会、他人がうまく行かなくても、自分さえ儲かればよいという風潮を生み出す、各個人が、他人を犠牲にして最大限に儲けることを優先する資本主義から、社会がうまく動くこと、社会病理がないこと、各個人が十分に生活、生存できること、自分を含めた社会が上手く回ることを最優先する機能主義(環境適応的、生存機能主義)へと、変わるべきである。人間は所詮他人無しでは生きられないからである。

あるいは、各人の利益追求が、そのまま社会の機能充足、保全につながるようにすべきである。個人の利益が、そのまま他者、社会の利益になることが必要である。


(c)1998-2010 大塚いわお


532 労働と機能


労働は、他者に(十分な環境適応のために必要な)機能を提供するために、時間・手間をかけて行われる、一連の作業のことを指すと考えられる。
人間が労働を行うのは、
(1)
他者の役に立った分の報酬(別の機会に他者からの機能提供を受け取るための対価・機能との引き換えトークン)を貰うことが、自己の生命維持のために必要だからである(下位レベル)
(2)
自分の働いた結果生み出された、自己の分身(生産物)、ないし自分自身のコピーを、周囲により多く、確実に広めて、自分自身の存在を、世界中に拡大する(上位レベル)

労働目的は、下位レベルでは、自分一人の生活の糧を得るためであるが、このレベルが満足されると、自身の分身(子孫)=コピーを世界中に広めるため、というより上位のレベルの充足に向かう。


ドライな機能主義の観点からは、労働は、(1)個人が、周囲の他者に有用な機能を供給する、有用なことをするために働く。(2)個人が周囲の他者から生活に必要な機能を入手するために働く、と捉えられる。要するに、個人が、互いに、生き残りに必要な有効な機能を手に入れて、快適な生活を行えるように働くと考える。

人間は、他人の役に立つことをしないと(機能的貢献をしないと)、生きていけない。それは、対価をもらえないということもあるし、あるいは、自分の生み出した子孫(製品、作品といった、主に文化的な子孫)を他人の間に広めることができないということでもある。

人間にとって、生きることとは、自分自身および自分の子孫(遺伝、生体的な子孫、および、製品、作品、プログラム、ドキュメント、土木建築のような文化的な子孫)を、できるだけたくさん、広範囲に、長期間~永続的に残すということであり、それが、自分の生きた証となり、究極の人生目標となる。

賃金のために働く、お金のために働くという考え方は、本来、各自が生成した機能を他者と交換する際のトークンを集めることが自己目的化したものであり、本末転倒な考え方である。

日本的経営のように、個人が、会社、組織の維持のために犠牲となって働くという考え方は、ウェットな機能主義である。


●機能の搾取

自分の果たした機能にかかった心理的ストレスなど(コスト)に見合う対価を受け取れないと、機能の対価のもらい損になる(機能の搾取)。
果たした機能分についての過不足感覚の学習(心理)が起きて、ただ働きをいやがるようになる。ただし、進んでただ働きを行うボランティアも存在する。

各自が社会(周囲の他者)に向けて送り出す機能が充実するにつれ、送り手の賃金は上がる。



●休暇の必要性

労働をしている最中は、提供する機能の品質を一定以上(消費者の環境適応に役立つ程度)に必ず保つ必要があるので緊張し疲れる。そこで、息抜き・アイドリング(暇な状態でぶらぶらすること)が必要になる。


●転職 

転職とは、今ついている種類の機能生成を止めて、別の種類の機能生成へと移行することである。

転職が起こる原因は、
(1)
必要な水準の機能を生成する能力がなくなった。
(2)
現在生成している機能の、生成への興味が失せた。
(3)
今遂行している機能生成が無効化する(需要がない、水準が低すぎるなど)恐れがある 
である。


●趣味

趣味は、労働と違って、自分の側での機能の生成を必ずしも伴わなくても(音楽鑑賞のように、他者の提供する機能をただ消費するだけでも)構わない。

機能を生成する場合でも、
(1)
メインの機能提供ではない(本業でない)。
(2)
その機能を受け取る他者に対価を求めない(対価が必要なほど高水準の機能でなくて構わない)
(3)
機能の水準は、生成する自分本人にとって十分であればよい。他者の環境適応にとって十分でなくてもよい



●遊び

遊びは、機能を果たさないアイドリング状態、ないし、環境適応と無関係な入出力を行っている状態でいることを指す。

遊びは、機能価値の蓄積(貨幣などの蓄え)ができていて、環境に適応しつづける(他人から機能の供与を受けて)余裕がある場合にのみ有効である。そうでなければ、働いて、他者から、機能交換のための引換券(貨幣)をもらう必要がある。

遊びには、アイドリング状態をなくす、という働きも含まれる。例えば、テレビに出てくるタレントについて詳しく知ろうとする(芸能・バラエティ情報)など、環境適応に直接結びつかない情報の摂取がこれに当たる。

一方、失業は、働きたいという意思があるのに働けない状態を指しており、同じ仕事をしないのでも、遊び(アイドリング状態でありたい)とは異なる。


(c)1998-2005 大塚いわお


533 福祉と機能



全体社会は、自由競争セクター(自由競争に耐えられる企業社会など)と福祉セクター(社会的弱者の生存を図る)より成る。この2つのセクターは、機能を生み出す力が強い-弱い、機能需給バランスがプラス(出超)-マイナス(入超)、に対応している。

福祉は、機能余剰者が不足者に余った機能を回すことと考えられる。


●ボランティア(援助・人助け)と機能

ボランティアは、機能をそのままでは手に入れる能力のない他者に対して対価を求めない機能提供を行うことである。機能提供・交換の場は市場だけとは限らない。市場によらない互助関係を考慮に入れる必要がある。

人の役に立ててうれしいと感じるのは、援助される側から多くのものを受け取るからである。

人はなぜ人助けをしたがるか?人助けをするとなぜよい気分になれるか?その理由は、
(1)
他者も自分も機能を必要としている点で同じである(互いに共通・同類である)ことを追体験できるから
(2)
自分の機能が他者に必要とされているということが快感を与えるから(自身の存在意義の確認をもたらす 快感は遺伝的なものか?)
(3)
援助的な行動様式を他者に予め広めておくことで、自分が将来もしも同じ機能不全を起こして他者に頼りきらなければならなくなったとき、同様に他者に助けてもらえるようにすると考えて安心するから
といった点にある。

ボランティアが機能交換に当たるかについては、2つの見かたが可能である。
1.
相手に対して一方的に機能提供を行うのだから、機能交換ではない
2.
ボランティアをすることで心理的充足を得るのだから、助けた相手から心理的に対価をもらっている。(快感を与えられることで)正機能を得ている(機能交換である)

機能交換においては、福祉的視点から、ボランティア的色彩を持つものがある。
例えば、水は、人間の生存にとって欠かせない。価値は大であるが、福祉的視点(万人が手に入れ易いようにするため)から、交換レートを低く設定している。


(c)1998-2005 大塚いわお


541 歴史と機能



歴史上栄えた社会は、その当時うまく機能していたと考えられる。
滅びた社会は、機能不全、不足に陥ったため自滅したか、うまく機能していても、他の競合する社会に比べて機能の充実度合いや分量が劣っていたため、滅ぼされたと考えられる。


これは、国以外にも、企業の盛衰にも当てはまる。



(c)1998-2005
大塚いわお


542 心理と機能


〔機能と心理的欲求〕

機能(正機能/逆機能)と、欲求(快/不快感情)との間には正の相関があるように思われる。

遺伝的プログラムにより正機能は快感となる。言い換えるならば、生き残るのに必要なもの、環境適応的なものは、快感を与えるように遺伝的に決まっている、と言える。例えば、セックスは、自らの複製を作り、後世まで自分自身を生き残らせるために必須なので、より強い快感が得られるように、遺伝的にそうなっていると考えられる。

逆に、環境適応的でないもの、逆機能は不快な感覚を呼び起こすように遺伝的に決まっていると考えられる(痛覚による危険回避はその一例である)。

ただし、環境非適応的(有害・逆機能的)であるにも関わらず、快感を与えてしまうものもある(麻薬など)。これらにはまることは、遺伝的機構の誤った利用の仕方であると考えられる。これとは逆に、環境適応的(有用・正機能的)であるにも関わらず、苦痛を与えるものもある(健康回復に役立つはずの医薬品の、口に入れたとき感じる苦さ)。これらは、本来の遺伝的プログラムが想定していなかった事態が起きていることを示す。

[機能交換と流行]

機能交換において、互いに同質である(同質な部分を持ち合う)ことの利点は、何であるか? 周囲の流行・はやりものに合わせることがなぜ環境適応的か? 互いに同質化することで、
(1)
自分と同じである、互いの行為の予測能力が高まることで、安心感・連帯感を強める、
(2)
互いに相手を理解し、互いに他者の持つ(環境適応に有効な)機能を利用しやすくする=機能交換しやすくする 自分と他者との間の共通性は、同質・同類意識の源として働く。

[向社会的行動と機能]

向社会的行動とは、他者の集まりである社会の役に立つことをさす。他者の環境適応に役立つ機能を、リーズナブルな対価~無償で生成し、他者に差し出すことである。 ごみ拾い、資源回収などである。
既に困っている人を助ける援助行動だけに限定されない。機能不全によって困る人を出さない高品質なものづくり・故障して迷惑をかけないことなども含まれる。
他者に対する思いやりや、他者の福利厚生の向上をはかる気持ちが、根底にある。

愛他的・利他的行動の源泉は何か? 思いやりを科学するといった、従来の社会心理学とは別の、機能の側面から見る。

(1)人間は、機能充足の面で、一人だけでは生きられない、互いに助け合う必要がある。そこで、機能を融通し合おうとする。
(2)
自分と同じものを持つ者を助けることで、自己拡大をはかる。
(3)
他者の機能生成の手助けをして、自分も、その生成された機能を手に入れようと考える。


(c)1998-2005 大塚いわお


543 宗教と機能-宗教不要論-(宗教分野への応用)


環境適応的機能主義は、従来の宗教に頼らずに、人間の良心を導き出したり、依頼心を満足させる方法の解明を目指している。


●宗教の果たしてきた機能

迷信や占いなどは、死後の世界など、情報のないことがら(空白領域)について、根拠無しに、それを勝手に想像した人工の情報(死後の世界には、天国と地獄とがあり、こうなっている....など)で埋めることである。

宗教は、こうした迷信において、空白領域のことがらを人工情報で埋める際に、自分を上から見守る、救う(依存できる)、上位者としての絶対者(神仏)の存在を仮定・想定する(前提とする)。自分の行為のよしあしを、いると勝手に仮定した絶対者が絶えず監視し、判定する、とする。

宗教の果たしてきた機能は、

(1)空白領域(死後の世界など)に関する、欠如した情報の補完
(2)
自然法則の説明・根拠付け(神の摂理による...とする)
(3)
同じ宗派の人同士の助け合い(相互援助、社会福祉)
(4)
良心(善行をしたいと思う心)の発生
(5)
依頼心の満足(頼りになる絶対者がいて、自分のことを見守ってくれている...とする)
(6)
死後の世界で、よりよい条件で生き延びる(死後の世界における機能を得る。死後の環境適応水準の向上を図る。)権利の獲得

付近と考えられる。

死後の世界における環境適応水準は、例えばキリスト教では、

高い 天国

煉獄

低い 地獄

である。

●未知のことがらへの態度

今後は、根拠のある科学による、根拠のない宗教状態からの脱却が必要である。

現代の科学的知見からは、人間の「霊魂」は、人間の脳神経系の活動そのものと考えられる。脳神経系の活動停止を人間の死と見なす、「脳死」の概念が受け入れられつつあることからも分かるように、人間の「魂」は、死んだ後はただ消え去るのみであり、死後の世界は存在しないことが、ほぼ確定的である。

世界で多数派を占める宗教(キリスト教など)の教義は、基本的には、1000年以前から全く進歩が見られない。その内容を、最新科学で変更する必要がある。宗教の教義を、科学的方法で発見された自然法則によって代替する。例えば、天国・地獄など死後の世界を否定する(全てが現世で決着がつくと考える)と共に、それでなおかつ良心が発生するように、「宗教の科学化」のための理論構築を行う必要がある。

科学は、空白領域を埋める情報に根拠があることが必要である。科学的態度を保つ(宗教に飲み込まれない)には、分からないことは全て白紙状態にとどめておき、自分の勝手な想像や仮定の結果(絶対者がいる...など)を付け加えない勇気を持つことが、欠かせない。


●良心の発生と依頼心の満足

死後の世界や絶対者の存在を仮定せずに、いかに良心を生み出すか?依存心を満たすか?

従来の人間の良心は、死後天国に行くために必要であるとされてきた。しかし、死後の世界が成立しないと分かった以上、天国・地獄の存在なしで、いかに人間の良心を生み出すか、保つかが問題となる。

また、従来の人間の依頼心は、自分を絶えず見守ってくれている絶対者の存在によって満足されてきた。しかし、絶対者の存在を仮定することが難しくなった以上、いかに人間の持つ依頼心を満足させるか、が問題となる。

この場合、人間は一人では生きられない(生きるのに必要な機能の全てをまかないきれない)、という点が、発想の原点となる。

人間は、何かしら機能を他者に提供しないと、見返りに他者が提供する機能をもらえず、生きていけない。あるいは、(他者がよりよい状態で、自分のために働いてくれるように)他者を助けないと、自分も生きられない(環境適応できない)。したがって、他者の福利厚生をよくすること、他者のことを思いやること、人のためになろう(人の役にたとう)とすること、が必要となってくる。自ら実践して、人助けをしないと(人助けの思想を広めないと)、いざというとき自分も助からない(助けてもらえない)

このように、変転する環境下を生き延びる上での、他者との協力の必要性が、人間の良心を生み出す源泉となる、と考える。
他人の環境適応に役立つことを進んでしようとすることが、心の温かい、良心的である、とされる、と考える。

人間にとって、基本的に、よい(好ましい)状況とは、
(1)
自分自身が生き延びること、
(2)
自分自身(遺伝的・文化的コピーを含む)が増える、広まること、
(3)
自分自身を取り巻く生存条件がよくなること、
付近である。

こうした、人間にとって好ましい状況が、自分以外の周りの他者にとっても促進される方向で行動することが、良心的とされる。そして、そのことは、単に他者を救うだけでなく、周り回って自分自身を助けることになる。「情けは人のためならず(自分のためでもある)」ということわざは、この辺りの事情を示していると考えられるが、このことわざこそが、人間が、宗教に依存せずに(天国/地獄の概念に頼らずに)、良心を発生させるきっかけとなる、とも言える。

死後天国に入るためでなく、自分が現在生存している世界において、自分自身や、その分身(子孫、思想)=コピーを広める、生き延びさせるために、善行を行う。自分を取り巻く周囲の人々がよい状態にいないと、自分自身の分身を含めて、周囲の人々の間に広められない(生き延びられない、増やせない)。例えば、周囲の人々の生活水準(環境適応水準)が低いと、せっかくオリジナルな新しい思想を考えついても、余裕がなくて受け入れられない、といった事態が起こりうる。

こうした現在生存している世界での良心発生については、法規範の助けを借りるとより効果的にすることができる。すなわち、人の環境適応の役に立つことをすると、称賛され、人の役に立つのに反することをすると、罰を受けるようにすればよい。

次に、絶対者を出さずに依頼心を満足させるには、依頼する対象を、自分自身を除く、残りの人々全体の集合体である、全体社会に求めることが、新たに必要となる。すなわち、絶対者への依存(救いを求める、など)を、全世界の人間同士の助け合い、生きる知恵の出し合いに置き換える。

人間は、自分が、どんなに孤独なときも、実はひとりぼっちではなく、自分を除く残りの社会全体(残りの人々全員)によって、生存のために必要な機能を与えられ、支えられている、ということに気づく必要がある。絶対者が存在せず頼れない以上、人間だけの力を、最大限寄せ集めて、苛酷な自然環境に逐次立ち向かって、生きていくしか、道は残っていないのである。地球規模で、今まで互いに無関係だった、ないし、反目していた、人間同士が互いに協力しあい、支え合って、最大限の力を、最も効果的に振り絞って、生きのびるための知恵を、絶えず結集できるシステムを構築することこそが、「ポスト宗教」の時代の、人間の依存心を満たす上で、最も緊急な課題である。

自分を救ってくれるのは、自分自身を除く残りの全体社会の中の誰かであり、そういう助けてくれる人々が、全世界の中に必ずいる(全世界規模の人間同士のネットワークこそが、唯一頼りになる)ことに、全幅の信頼を置くことこそが、必要である。自分がどんなに困っていても、常に世界中の誰かによって、温かく見守られ、絶えず保護の対象となりうることを、確信する必要がある。ただ、この場合、自分が困っている、助けを必要としていることを、誰か親切な他者に伝える必要がある。地球規模のインターネットは、助けを求める他者を、縁故をたどらなくても、直接探し出すのに、役に立つ、と考えられる。

なお、従来の宗教において、天国に入ろうとすることは、死後の世界で、自分自身が、高い環境適応水準を得て、快適な思いをしようとする点、(たとえ、それが他者に対する善行を伴ったとしても)十分自己満足的で、エゴイスティックな行為である。エゴイスティックさでは、自分が今生きている世界で、自分の分身や子孫(生物的、文化的、両方)=自分自身のコピーをよりよく広め、増やし、生き延びさせようとするのと、何ら変わりない。



(c)1998-2005
大塚いわお


551 機能と地域社会


農村では、人々は、
(1)
機能を一人で広く浅く身につけている(自給自足)。
(2)
自然環境が豊富であり、自然へ適応するための機能をたくさん身につけている。
(3)
互いに身につけている機能の共通性が高い。すなわち、互いに同質的分業(農作物作り)を行っている。

都市では、人々は、
(1)
限られた一部の機能を狭く深く身につけている(分業)。
(2)
自然環境が貧弱であり、自然へ直接適応するための機能が少ない(分業体制崩壊への恐怖)
(3)
互いに身につけている機能の共通性が低い。互いに異質的分業を行っているため、「隣は何をする人ぞ」という現象が起きる。

●コミュニティの得点化

地域コミュニティは、地域単位の、内部分業を含む相互作用のまとまり、として捉えられる。 

地域コミュニティのあり方の得点・数値化は、
(1)
システム化得点(その社会・コミュニティでどの程度分業が進んでいるか) 役職や、郵便局・警察署などの結節機関の存在(鈴木栄太郎)との関係で捉えることができる。
(2)
自己完結性得点 一つのコミュニティで、どれほど自己完結的な社会を形成しているか?他コミュニティから機能をもらわずに、自分のところでどれだけやって行けるか?
などがある。



(c)1998-2005
大塚いわお

561 機能主義と装飾主義
-男らしさ、女らしさとの関連について-

2006.01 大塚いわお


[要旨]

装飾主義は、女性に多く目立ち、ハイヒール靴のように、物品の見た目の飾りを、生活に役立つ機能よりも優先させる態度である。一方、機能主義は、男性に多く目立ち、物品が道具として、自分たちが生きていく上で役立つかどうかそのものを、見てくれや飾りよりもより重要視する態度である。飾りのない、スケルトンで中の骨組み、動く仕組み等が見える、機能の本質部分に的を絞った物品を好み、外観、服装とかに無頓着である。


女性は、宝石、イヤリング、ネックレス等、飾り物が好きである。カラフルな色使いや、フリフリの飾りだらけのコスチュームとかを見て、「かわいい」「きれい」などと言って喜んだりすることが多い。あるいは、携帯電話のストラップにキャラクタとかの飾りを付けるのを好む。彼女らは、装飾が好きな装飾主義者と呼べる。

装飾は、見た目は良いが、衣食住に必要な機能を内包していないため、生きていくためには役立たずである。

女性は、ハイヒール、厚底靴のように、見た目、流行第一で、機能を犠牲にした使いにくいものを平気で使うが、この辺、機能よりも、装飾を優先することは、「女らしさ=装飾主義=装飾好き、機能に無頓着」と捉えて良いのではないかと考える。

一方、男性は、建物、装置、機器等で、飾りのない、むき出しの素材、スケルトンで中の骨組み、動く仕組み等が見える、機能の本質部分に的を絞った物を、女性に比べてより好む。その点、彼らは、より機能主義的である。

ただし、女性でも、炊事、洗濯、掃除といった家事や、勤務先での仕事の進め方について、手際よくささっと、てきぱきと片づけるのを好む人が多くいるのも事実であり、そうした女性は、作業を進める上で必要な道具、ツールの機能を上手く引き出すのに長けている。

彼女らは、物事を手際よく片づけるために、周囲の他人や物資を効率よく動かそう、働かそうとするので、周囲の人や物を機能的に捉えていると言える。そういう点では、女性にも機能主義者は、相当数存在すると考えられる。物事を進めていく上での要領の良さは、自分が操作する対象から最大限の働き、機能を引き出す点、機能主義者の特徴である。

(
主に男性の)機能主義者は、物品から、人間が生きていく上で役立つ、本質に関する部分のみを洗い出して、直に露出させるのを好む。また、そうした生活に役立つ本質を純粋に取り出し、表現した物品を「機能美に溢れている」として尊重する。

例えば、服の見てくれや色、飾りには無頓着で、保温や防護の役に立ってくれればそれで十分とする。毎日同じくたびれた服装でいて何ら気にすることがなく、外観、服装にうるさい女性たち(装飾主義者)に呆れられる結果になる。

要は、彼ら機能主義者は、物が、道具、ツールとして、ちゃんと働くか、使えるかに関心がある。

彼らも、物のデザインには関心があるが、それは「機能美」といった、物がうまく動く、働く、生活に役立つことを明示する点に向けられる。見てくれ上の飾りには関心がない。

あるいは、物の中の働く、動く仕組みが透けて見える、スケルトンを好む、物の骨格や素材(コンクリートとか)が露出しているのを見るのを好むのも、この機能主義者である。


こうした機能主義と関連して、男性には、「高機能、高性能指向」とでも呼べるような指向が存在する。

要は、自家用車や、PCTVのような電化製品とかのカタログで、より速い、強い、高度な性能のものを求め、そうした高機能、高性能の製品を自分が所持していることを、周囲に対して自慢するのを好むのである。


2006 大塚いわお


571 機能主義とユーザビリティ

2005.2 大塚いわお


[要旨]

ユーザビリティとは、製品や人(従業員、部下・・・)、組織(企業・・・)に内蔵されている、環境適応に有効な機能の引き出しやすさ、活用しやすさ、取り出しやすさである。


機能主義においては、機能を持つターゲット(製品、人、企業・・・)を使用、利用するユーザ(顧客)のことを常に念頭におくことが重要であると言える。ターゲットの利用しやすさ、使いやすさ、ユーザビリティと言われる概念が、機能の概念と深い関係にある。ターゲットが利用しやすいということは、それだけターゲットが、ユーザの生存しやすさ、暮らしやすさ向上に役立っているということである。

ユーザビリティとは、製品や人(従業員、部下・・・)、組織(企業・・・)に内蔵されている、環境適応に有効な機能の引き出しやすさ、活用しやすさ、取り出しやすさである。

製品の評価要素は、以下のように表層から深層まで分類される。

↑・Look&Feel 見た目のデザイン(表層)
|・Operation 操作性(中間層)
↓・Function 機能(深層・基層)

ユーザビリティは、このいずれにも関わってくる概念であるが、特に、中間層の操作性に関するところが大きいと言える。

「デザインはいいけど、使いにくい」という場合、表層のLook&Feelはいいけれど、中間層の操作性が悪いということを指す。あるいは、「使い勝手はいいんだけど、機能がもう旧式」というという場合、中間層の操作性はいいが、深層(基層)にある大元の機能がダメということになる。

あるいは、「使いやすい部下」という言い方が成り立つように、ユーザビリティは、何も製品に限ったことではなく、人や部署、企業などにも当てはまる。

人や組織の場合は、以下のように、分類される。

↑・Look&Feel 容姿、イメージ(表層)
|・Operation 使いやすさ(中間層)
↓・Function 能力(深層・基層)

ただし、「彼は、扱いやすいが、無能だ」というように、本来その人物や組織の価値の源となる機能が欠如していると、使いやすさ(製品の操作性に相当)だけよくても、何もならないということになる。

ユーザビリティは、あくまでターゲット(製品、人、企業・・・)に、本来ユーザの環境適応に必要な機能が含まれている場合のみ、有効であると言える。


(c)2005 大塚いわお


581 機能主義的生き方、人生観


人は生き物である。変転する厳しい環境の中、何とか生き残って、増殖する必要がある。
変化する環境の中で生き残るには、生き残るのに役立つ働き、効果=機能を、その都度入手する必要がある。

生物の本質である、生き延びたいという、生への衝動と、機能=生命維持、繁殖に役立つ働きとは、密接に結びついている。

人は一人では生きられない。
一人だけで、環境適応に必要な全ての働き=機能は賄えない。
一人だけで、衣食住に必要な働き=機能を十分に自前で用意することは難しい。これは、絶海の孤島に一人取り残された人がこれからどう暮らしていけばよいか途方に暮れることを考えれば、容易に想像できるだろう。

環境適応に必要な他の働き=機能を持つ人との共同、協力がどうしても必要である。
他の人から、機能を融通してもらう必要がある。

個人の、完全な自主独立、外部社会からの引きこもりは不可能である。人間は、相互依存、互助の生き物である。

環境適応に有効な機能を互いに他人に提供し合って生きるのが、機能主義的な生き方の基本である。


本来、他人の役に立たないと、他人から、自分が必要としている機能を、返礼として貰うことはできない。人は、互助的な生き物であり、一方的な持ち出しは、不平等な搾取であり、許されない。

人が生きていくには、他の人の役に立つ働きをすること、他の人にとって環境適応に有効な働きを提供することが不可欠である。これが、労働である。

他人の役に立つこと、人助けをすることが、人が生きていくための条件である。

他人の役に立たないと、返礼の物資、お金が貰えず、生活できないというのが、人間社会の原則である。他人の役に十分立っているのに、貧しくて生活できない人がいるというのはおかしいし、他人の役に全然立っていないのに、ぜいたくな暮らしができる人がいるというのも、社会のあり方が間違っている。

他人の役に立つことで、他人から存在を認められ、他人から返しの援助を受けやすくなる。その結果、生き延びやすくなる。
人間は、誰でも、他人の役に立つと、あるいは、他人から「ありがとう」と言われると、いいことをしたと感じて、気持ちがよくなる。これは、人類に共通した心理であり、人間の神経系の根幹を占めている。人間には、いつしか他人の役に立つことを快感と見なす神経回路が遺伝的に備わるようになったのではないだろうか。こうした感覚は、人間が生き延びていく上で、遺伝的、本能的な根拠を持つと考えられる。

他人のためになることをすることで、他人の返しの援助を得やすくし、そうすることで自分自身を生き延びやすくするのが、変転する環境の中でうまく立ち回ることの出来る、賢い人間の生き方である。

必要な時に必要な機能を手に入れることができるのが、人間が生きていくための条件である。常日頃、他人に必要な機能を、他人が必要とするタイミングで提供できることが、他人から、返しの機能を確実に手に入れやすくする極意である。


人間が、自分のところに物資に恵まれ、豊かになる条件としては、自分と他人に役立つ機能を提供することが第一である。自分と他人に役立つ機能を質量面で多く提供するほど、より人の役に立って、返礼としての物資をより多く貰い、生き延びやすくなるのが本来の姿である。

株式や原油、貴金属とかへの投機で金儲けをして豊かになるというのは、極力避けるべき生き方である。なぜなら、それらの行為自体、何ら、人々にとって役に立つ、有益な機能を生み出さないからである。人々の役に立つ、製品やサービス提供に結びつく仕事をすべきである。


人間は、環境適応に有効な機能を、互いに、他人に提供し合って生きるのが望ましい。要は、個人単位間での、機能の輸出、輸入を行うのである。

他者に、自分の生成した、有効な機能をできるだけよく提供、輸出することが、より自分のコピー、アウトプットを増殖、繁殖させることにつながり、結局は自分のためになる。

その際、輸出入で出超になるのは、人に貰うより、与える方が多く、生存力に余裕があり、自立できている証拠であり、よいことである。一方、入超になるのは、他人のお荷物になっている証拠であり、その状態から早く抜け出す必要がある。そのために、日夜、自分が他人に対して提供できる有効な機能は何かを絶えず考え、生み出して行く必要がある。

本来、各人にとって、機能の出入りは、資金の出入りと同じで、最低限収支とんとんか、望ましくは、出超、黒字になる必要がある。なぜなら、不意の事故とかで、機能を生み出せない体になってしまい、入超状態になる可能性があり、そうなったときに、手持ちの既存の黒字分、預金の消化で食いつなぐ必要があるからである。出超、黒字にするには、絶えず、他人が必要とする機能を提供し続ける必要がある。

他人に有効な機能を出さずに、貰ってばかりだと、機能輸出入の収支は赤字になってしまう。人は、こうした一方的な機能の提供を好まない互助的な生き物なので、機能収支の赤字の持続は、結局その人が生きて行けなくなることにつながる。


他人に有効な機能を提供せずに、ただ他人から機能を受け取る、奪うだけの生活をする人は、略奪者であり、人々の機能提供の相互助け合い、融通を崩し、生きにくい社会を作り出す。これは、極力排除しなければいけない。

他人の役に何ら立っていないのに、リッチな生活をするのは、泥棒、寄生虫と同じであり、病的である。一方、他人の役にたくさん立っているのに、生活が苦しい人の存在も問題である。こうした状態の人が発生しないように、他人の役にたくさん立っている人がリッチな生活をし、役に立たない人はとりあえず最低限の生活ができるように、社会をコントロールすべきである。

人の役に立たないと、生活できない、お金は貰えないというのが、一大原則である。人が生存していくのに有効な機能を提供できないと、提供した機能に対する返礼の物資が貰えず、蓄積できず、生きていけない社会というのが、本来あるべき社会の姿であり、そういう社会の姿に保つべきである。「働かざる者、食うべからず」の精神が必要である。



他人と機能のやりとりをする際、相手側が、自分の欲する機能をそのまま持っていることはまれである。
他人と機能のやりとり、交換を円滑にするには、互いの交換する機能の価値を、共通の尺度で数値化した貨幣、お金が必要である。

確かに、お金があればあるほど、必要な機能を手に入れやすくなり、より生存しやすくなるのは事実である。

しかし、お金さえ儲かればよい、お金が全てという考えは誤りである。大切なのはお金それ自体ではなく、お金と交換で手に入れる機能の方である。お金をいくら持っていても、いざと言う時に、必要な機能(衣食住に必要な働き)と交換してもらえないと何にもならない。

人が機能不足で困っている時に、機能を融通してくれるのは、常日頃、自分が親切に、協力、相互援助していた相手(友人)であることが多い。そういう点で、友人の存在は不時の機能の獲得に不可欠である。持つべきものはお金ではなく、友達である。

一般に、ビジネスは、相手に機能を提供し、その分の対価をきっちり貰って利益を得る、儲けるものとみなされる。

しかし、その際、他人から対価をなるべく多く巻き上げて、金持ちになることが自己目的化してしまう人が多い。要は、他人に対して提供する機能そのものに目が行かず、機能提供の対価として支払われるお金に目が行ってしまうため、目先の利益確定に目が囚われて、自分が提供する機能の品質確保、向上がおろそかになるのである。儲かるなら、低品質の機能で構わないとする見方が広まることになってしまう。

これだと、人々の間に行き交う機能の品質が低下してしまい、人々の環境適応の水準が低くなり、人々はより生き延びにくくなる。これは、まずいことである。

そこで必要なのは、見方、スタンスを変えることである。

要は、人の役に立つ、人々の環境適応水準を向上させるのに資する、よりよい機能を周囲に向けて生み出していこうとする心構えを、まず根底で持つことである。

その心構えが、日常の仕事の中で、人々がより生き延びやすくなるのに役立つ、新たなアイデアを生み出す原動力になる。それは、新たなビジネスチャンスに直結し、ビジネスを推進することで、周囲の人々の生活水準を向上させつつ、自分自身も、周囲の人々から対価を貰って、金持ちになり、豊かになることができるのである。

金儲けには、こちらの考え方の方が重要である。単なる金の亡者のように、周囲の人々から一方的に金を巻き上げるのではなく、他人の役に立った上で儲けているので、他人からは「ありがとう。助かった。」と称賛を受け、周囲~社会に受け入れられつつ金持ちになれる。また、周囲の人々の頭に、自分をプラスの価値あるものとして売り込むことができ、自分の文化的子孫を周囲の人々の頭の間に残すことにもつながる。


他人の役に立つことは、自分の分身を他人の間に広めやすくなる効果も持つ。

人間は生き物であるから、絶えず、自己増殖を図ろうとする。
自分のアウトプット、分身を、生きた証として、できるだけ長く残そう、広範囲に広めようとする。これが実現したら、人生は成功である。一方、自分のアウトプットが途絶え、広まらずに消滅したら、人生は失敗である。

要は、成功した人生は、自分とその分身の、外部世界への拡大・増殖をうまく果たした人生であり、失敗した人生は、自分とその分身の拡大・増殖に失敗した人生である。

ただし、この人生の成功と失敗は、長い目で見ないと分からない。場合によっては本人が死んだ後で、その功績が発掘されて、有名になって世界中に広まることもある。逆に、本人が生きている間は成功者として恵まれた人生を送るものの、死後、急速に忘れられて、消えてしまったり、批判の対象になって汚名を残すこともあるからである。

各人が生成する機能も、その人にとっては、自分自身の分身、コピー、生きた証である。
各人が生成する機能を、自分の分身、生きた証として残すには、
(1)
質を最上級にする(質をできるだけ高める)
(2)
量を最大化する(できるだけ広範囲に広める)
必要がある。こうした意図から良質の機能がたくさん社会に出回ることが、人々を社会の中で生きやすくすることにつながる。

こうした、自分の生成した機能をできるだけ長生きさせよう、広めようとする欲求は、生物として自己増殖しようとする、極めて利己的な自分勝手なものである。しかし、結果的にその利己性が、社会に流通する機能の質量の向上をもたらし、ひいては社会の発展に貢献すると考えられる。

他人の役に立つこと、他人に対して有益な機能を提供し続けることが、自分のアウトプット、コピーを他人のもとに広める自己増殖につながり、ひいては、生き物としての成功につながる。他人の役に立つことは、結局は、自分のためになる。


他人に必要とされること、他人にとって必要な機能を提供できることが、人間にとっての生きがいである。

他人に対して、必要な機能を提供できることで、対価が得られ、その対価で自分が生き延びていく上で必要な物資を手に入れることができ、より生き延びやすくなる。また、他人、周囲へと自分の分身である自作の製品のコピーを広める機会が増えることになり、自己増殖につながる。

他人に、必要な機能を提供できないこと、他人から不要、お荷物と見なされることが、生きていく価値なし、存在価値なし、人生の失敗ということになる。

人間が、仕事で給与稼ぎに一生懸命になるのも、単に、自分の生活を豊かにしたいというだけではなく、その過程で、いかに他人に必要とされる価値ある人間となるか、いかに他人に必要な機能をてきぱき提供できる有能な人間とみなされ、周囲から高い価値を与えられるかに、人生の成功がかかっているからである。有能さが後世まで語り継がれれば、歴史上の人物として、自分の存在を死後もずっと人々の間に広めることが出来、(文化的な)自己増殖に成功したことになる。

高い機能提供能力を持っている有能者と見なされることは、「あの人には(生きて)いて貰わないと困る」「あの人の存在は必要だ」「あの人がいると助かる」「あの人をバックアップ、サポートして、持てる能力を十分発揮してもらおう」という周囲の評価につながり、自分が生きていく上での必要な援助、サポートを周囲からより得やすくなることにつながる。要は、より生き延びやすくなるのである。

それはまた、よりよい機能提供のためにはどうすればよいか、人より物事がよく見えることにつながり、社会や組織で高い指導的な地位を約束されることになり、周囲の人たちを自分の言うことを聞く分身、部下として使うことが可能になる。その点、周囲に自分の教えが広まりやすくなり、自己増殖に成功したことになる。

人が周囲から褒められると喜ぶのは、本質的には、「他人に必要とされた、他人の役に立った」有能感を持てるからである。そして、その有能さが、自分自身を生き延びやすくすることにつながるからである。

「他人に必要とされる(プラスの)価値ある人間になりなさい」「他人に必要な機能を提供できる有能な人間になりなさい」というのが、(機能主義者の)人生訓ということになる。



人は、死後天国に行くために善行をしようとする。しかし、本来、善行は、そうではなく、社会を自分や他人にとって生きやすくするために行うものである。社会が生きやすくなることで、生物としての自己保存、自己増殖を図りやすくするのが、善行の効果である。善行は、天国の存在など仮定しなくても、生き物としての人間にとっては、行うべき根拠が十分あると言える。

善行や隣人愛は、その動機が、自己保存や自己増殖を有利にしようとする自己中心的なものであって全然構わない。善行は、自分の利益のために行うものである。「情けは人のためならず、(自分のため)」である。動機が自己中心的でも、結果として人間が相互に生き延びやすくなることにつながれば、それでよいのである。自分を無に(犠牲に)して、他人のために尽くそうと、わざわざ苦闘する必要はない。そういうのは生き物として不自然であり、「偽善者」で全然構わないのである。

愛は、機能主義の観点からは、互いに相手の役に立とうとすることである。それは、第一に自分の生活維持のためであり、天国に行くためのものではない。困っている人への共感(明日は我が身かも)と解決策の提示、実行が、機能主義的愛の中身である。




十分自分や他人の役に立つだけの機能を提供できるようになるには、それなりの情報、ノウハウの取得、学習が必要である。

人間にとって教育がなぜ必要かと言えば、人間が、自分が生きていくために必要な機能生成能力を身に付けるため、また、十分他人の役に立つだけの機能を提供できる能力を身に付けるためである。自分や他人の環境適応の役に立たない勉強はしても仕方がない、意味がない。

教育を、人間を能力面でふるい分けするための道具として使うのは本来の用法(人間に、変転する環境下で生き延びるノウハウを与える)からすれば間違いである。生き延びていく上で役立つことを教えるのが、学校教育の基本である。


生きていくために必要な機能の獲得は、複数の人間の間で、取り合いになることがある。また、自分の生成した機能を、他者の間に広めるのにも、類似した機能をを生成する他者との競争になる。

また、機能への引換となる貨幣を多く持つ金持ちが、機能を独占して所有する事態も起こる。
この反対に、貧乏人とは、必要な機能を手に入れられない人のことである。

一部の人間による機能の独占は、本来、互助的な生き物である人間の本性になじまないものである。機能は、できるだけ、必要とされる人々へと、必要最低限、平等に分配される必要がある。

病気などで、他者に機能を提供できず、そのため返しの貨幣も貰えずに貧乏でいる人も、ひとたび病気が治れば、あるいは、十分な教育を受ければ、他者に対して有用な機能を提供できるようになる可能性、能力を秘めている。なので、現状では、生活保護とかで、他者から機能を一方的に貰いっぱなしになっている人に対しても、最低限の機能を融通して、生き延びてもらうことが必要である。当世代の親が病気とかで能力的に駄目でも、次世代の子供は優秀という可能性もある。



経済的な稼ぎや社会的地位に囚われ過ぎるのは駄目である。いくら稼いでも、出世しても、自分のことを後世にずっと残せなかったら、人間としては何もならない。

要するに、人間には、永遠の命が必要な訳であるが、これは、宗教への信心によって得ようとするのは誤り、ミスリードである。宗教は、人間が勝手に想像し作り上げた天国の存在に頼っており、それは本来存在しないものだからである。

自分の遺伝的、文化的子孫の後世への永代的な受け継ぎを実現することが、人間にとっての実際の永遠の命に当たると考えられる。自分の遺伝的、文化的子孫が後世へとより受け継がれ、生き残りやすくするには、それらの子孫がより機能的であることが必要である。変転する環境に対して適応的であるほど、すなわち機能的なほど、後世に受け継がれ、生き残りやすいのである。人間が永遠の命を得るには、機能主義を信じ、実行することが有効である。



(c)1998-2012
大塚いわお



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